バッハと五線譜の中の暗号
J.S.バッハは「音楽の父」と称され、クラシック音楽の根幹を成す礎を作った。フーガや対位法、平均律、器楽法…など、音楽語法の基礎をきわめて厳格に確立し、にもかかわらず同時に「聞く音楽」としても完成させたわけだから、その功績は計り知れない。(もっとも、それらはバッハが発明・考案したものではなく、それ以前の音楽を集大成したものにすぎない…と言えば言えるのだが)。
しかし、ミステリ・マニアとして何よりも重要なのは、「音楽暗号の父」としての功績の方かも知れない。
なにしろ、彼が最晩年に書いた未完の大作「フーガの技法 BWV1080」の最後の最後に登場する「BACH」という自分の署名とも取れるテーマ。この存在こそが、後に様々な作曲家たちを巻き込んだ「音楽暗号」の基礎になったのだから。
ただし、この「音」と「暗号」の関係について知るためには、そもそも「音名」についての知識が必要になるので、最初に基本的なことだけちょっと説明しておこう。
音楽における音名・・・・ドレミファソラシド・・は
楽語(イタリア語)では・Do,Re,Mi,Fa,Sol,La,Si,Do
英語だと・・・・・・・・CDEFGABC
ドイツ語だと・・・・・・CDEFGAHC
和名だと・・・・・・・・ハニホヘトイロハ・と表記する
(注:ポイントは、「シ」の音が英語とドイツ音名では異なるという点。英語のBは、ビーと読み、シ♮。一方、ドイツ語のBは、べーと読み、シ♭。ドイツ音名のHは、ハーと読み、シ♮のことになる)
つまり「CEG」は「ドミソ」、「HDG」は「シ♮レソ」を意味する。ということは、この音名の8文字で表記可能な言葉なら、音符に置換可能ということになる。
しかし、それはアルファベットの中でたった8文字に限定された世界であり、しかも母音はAとEしかない。これだけで表記出来る単語はわずかだが、それでも英語では、例えば「BEE(蜜蜂)」、「DEAD(死)」、「BAGGAGE(荷物)」などが記述出来る。
にもかかわらず、BACHという名は、「すべて音名で出来ている」。しかも、なんとも良く出来たことに「シ♭・ラ・ド・シ♮」という半音を含む4音になるのである。それは「音楽の父」の名にふさわしい、まさしく音楽の神に祝福された名と言っていいかも知れない。
ただし、バッハ自身が、どこまでそのことを認識していたか定かではない。確かに、彼が書いた最後の大作「フーガの技法」におけるまさに絶筆の〈3つの主題によるフーガ〉には、「BACH」の音程を持つ対旋律が登場し、それはきわめて象徴的な啓示にも思える。
しかし、これは息子カール・フィリップ・エマニュエル・バッハが後世少々誇張して流布させた(出版譜には「このBACHの主題を書いたところで作曲者は世を去った」などという書き込みがある)ことであって、大バッハ自身が意図的にそうしたものかどうかは定かでないようだ。
それでも、ここが音楽暗号の発祥の地となったことだけは確かだ。以後、作曲家たちは、五線紙の中の暗号に魅入られることになったのだから。
蛇足ながら、この8文字だけで名前を記述出来る作曲家が、音楽史上にはもう一人いる。それは「無音」の音楽で有名な前衛作曲家ジョン・ケージCAGEである(マニアックに言うともう一人、アロイス・ハーバ Alois HABA という現代作曲家がいるのだが)。
音楽史のアルファ(最初の者)とオメガ(最後の者)の名が4文字の音名であるという事実は、不思議な皮肉と言うべきか世にも恐ろしい「音楽ジョーク」と言うべきか・・・。
■ロマン派の暗号
さて、次いでロマン派の時代になり、8文字限定の音名暗号の世界に、もう一字加える裏技を編み出した作曲家が出現する。ロベルト・シューマンである。
彼は、ドイツ音名のEs(ミ♭、E♭)がエスと読めることから「S」を当てる、という奥の手を(彼の発明であるかどうかは定かではないが)考案した。もっとも、これはドイツ語圏でしかあり得ない手なので、イタリアやフランス語圏では必ずしも一般的でない。
注:ドイツ音名では、#は「-is」、♭は「-es」を音名のあとに付ける。C#なら「Cis」、G♭なら「Ges」となる。
これによって、シューマン(SCHUMANN)という綴りも、冒頭の〈SCH〉を〈ミ♭、ド、シ♮〉という音に出来るようになった。さすがに名前のすべての文字を音名置換するのは不可能だが、イニシャルとしては充分だろう。ドイツ人の名前は冒頭にSHやSCHが多い(シューベルト、シューマン、シェーンベルク)ので、これはかなり有効な裏技だったと言える。
おかげで、シューマンの作品は、その種の音名暗号で満ちている。「アベッグ変奏曲」では架空の令嬢の名前アベッグ:ABEGG (ラ・シ♭・ミ・ソ・ソ)をテーマにし、「謝肉祭」では当時の婚約者の出身地である街の名アッシュが、ASCH(ラ・ミ♭・ド・シ♮)やAsCH(ラ♭・ド・シ♮)としてちりばめられている。
ほかにも、奥さんのクララClaraに関する秘密の暗号(CHAA:ド・シ♮・ラ・ラ)や、「結婚(EHE:ミ・シ♮・ミ)」などのメッセージが幾つかの曲の中に組み込まれていたりするのだが、このあたりは親しい者の間だけの(きわめてプライベートな)符牒とでも言うべきだろうか。
かくして、音名による「暗号」が五線譜の間に暗躍し始める。
シューマンの影響下に、ブラームスがソナタや交響曲の中に忍ばせたのは、FAE(Frei aber einsam:自由にしかし孤独に)あるいはFAF(Frei aber froh:自由にしかし喜ばしく)などのモットー。
そして、アルバン・ベルクが「抒情組曲」の中に潜ませた暗号は、自分のイニシャルA.B(ラ・シ♭)と不倫相手ハンナ・フックスのイニシャルH.F(シ♮・ファ)。
ショスタコーヴィチが弦楽四重奏曲第8番や第10交響曲などに忍ばせた自身の署名DSCH(レ・ミ♭・ド・シ♮)も有名だ。
ただし、ここまでは単なるアルファベット8+1文字だけの狭い世界。それを、もう少し高度にしたものとして、モーリス・ラヴェルが「ハイドンの名によるメヌエット」および「フォーレの名による子守唄」で試みたこんな方法がある。
A〜G以降の音を下記のように並べ、Hだけは「シ」と読む…というシンプルな置換型暗号である。
ABCDEFG=ラシドレミファソ
HIJKLMN
OPQRSTU
VWXYZ
この変換表を用いると、ハイドン(HAYDN)は「シラレレソ」となる。(上下を反転させれば、「レソソドシ」とも読める)
そして、ガブリエル・フォーレ(GABRIEL FAURE)は「ソラシレシミミ・ファラソレミ」になる。#♭のないディアトニック(全音階)な音列なので、なかなか古風な響きがして美しい。
また、イギリスの大作曲家エルガーが「エニグマ変奏曲」で試みたのは、自分を含む知人友人たち14人を、イニシャルやキャラクターやエピソードを音名や引用や楽想を駆使した変奏曲として暗号化すること。
これは、さすがにシャーロック・ホームズの国の作曲家だけあって、なかなかシャレた暗号音楽に仕上がっている。(ちなみに、ホームズの生みの親コナン・ドイルとエルガーはほぼ同世代。両人ともイギリスを代表する作家であり音楽家。また、この「エニグマ」という名は、後にドイツ軍の暗号機の呼称として歴史に重要な1ページを残すことになる。)
■12音技法の暗号
一方、20世紀初頭に開発されたシェーンベルクの12音技法により、音をすべて数値化する道も開かれた。
これは「ド」を1とし、音階の半音すべてに
1・2・3・4・5・6・7・8・9・10・11・12
と数字を付して行くという単純きわまりないが明快な方法である。
これを使えば、12進法による数字の暗号が可能になる。
「0」は休符にする、というようなルールを設ければ、例えば電話番号のような数字はすべて置換可能だ。
ジャパンアーツの電話番号なら
ということになる。
歴史の年号(1812年や1945年)などを4文字暗号による4音モチーフで記憶するのも面白いだろうし、円周率(3.1415・・・)のように無限に続く数列なら、まさしく「無限旋律」を作り得る。
また、12進法という点に着目するなら、日付や時刻もこの12音暗号にふさわしい素材になる。
例えば「11月28日」あるいは「11時28分」なら「シ♮・・ド#・ソ♮」。
時・分・秒をそれぞれ二分音符、四分音符・八分音符で表わし、かつオクターヴ違いで表現するのがミソである。
■モールス信号の暗号
さらに、もう少し複雑な暗号を作るなら、「モールス信号」を併用する手がある。
有名な例では、第二次世界大戦でチャーチルが主唱した「勝利のVサイン」。これはモールス信号では「・・・ー 」となる。そう。ベートーヴェンの第5のモチーフだ。
おかげで、連合国の放送ではこの第5が「勝利」の合言葉となった。(しかし、ベートーヴェンは敵国ドイツの作曲家なのに大丈夫だったのだろうか?)。そのせいか、ショスタコーヴィチの第7交響曲でもフィナーレで「・・・ー」を連呼している。
とは言え、・ー・ーとかーー・ーとかいうリズムは通常の4拍子3拍子に乗せるのはどこか不自然。かつては、なんでも楽音に聴こえてしまう「絶対音感」人間より、なんでもモールス信号に聴こえてしまう「モールス信号」男の方が多かったから(うちの父親もそうだった)、秘密作戦の連絡を暗号にして普通の音楽に紛れ込ませようとしても、すぐ見破られてしまったに違いない。
しかし、それも現代音楽なら可能だ。なにしろ普通の音楽ではないのだから(笑)。
かつて(かの60年代)、フルートとピアノで・ー・ー ーー・ーとリズムを延々と連打する曲があって、作曲者に「何ですかあれは?」と聞いたところ、「フルートとピアノとで会話してるんだよ」というご返事。ちなみに会話は、「ケフハオキャクガスクナイネ」とか「コンナオンガクヲキイテワカルノカナ」「イヤ、ワカランダロウ」・・・と延々続くのだそうだ(笑)。
■遺伝子の暗号
そして、最後に番外として「遺伝子の音楽」として脚光を浴びている音名暗号も紹介しておこう。
遺伝子のDNAを構成している塩基は、アドニン・グアシン・シトシン・チミンの4つ。イニシャルはA,G,C,T。これを、A(ラ),G(ソ),C(ド),T(シ)と変換することによって、様々な生物の遺伝子列をメロディにすることが出来るわけである。
私も以前、コンピュータの出始めの頃にトライしたことがあるが、AはTと、GはCと組み合わさる性質(相補的塩基による水素結合)があって二重螺旋構造になるというのもきわめて興味深い。つまり、AGCTGACT…と続く塩基旋律には、必ずTCGACTGA…と続く対旋律がある、ということになる。
それを並べて行くと、不思議な音楽が聴こえてくる。
もっとも、構成音は4音だけだし繰り返しが多いので、当然ながらミニマル・ミュージックのような音楽になる。しかし、それはそれで、まさに生命の神秘による暗号というべきDNAの二重螺旋っぽい雰囲気が出て来るのが面白い。
世界には、それこそさまざまな音楽が満ちている。しかし、耳には単に「奇妙な音楽」にしか聴こえないものが、実は重要な意味を持ったメッセージだったり、単なる4音のシグナル(信号)にしか聴こえないものが、実はある数字を示すサインだったり、…という可能性だってあるわけなのだ。
そう思って、音楽やメロディや色々なシグナルに耳を傾けてみると、ちょっと不思議な世界が聴こえてくるはずだ。
かくして、バッハが記述したBACHの4文字に隠された仕掛けは、音楽と世界とにさらなる暗号を増殖させて行く・・・。
◇バッハ作品の近々の上演予定
■ゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラ
2006年7月14日(金)15:00東京オペラシティ
2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調
オーボエとヴァイオリンのための協奏曲ハ長調
管弦楽組曲第2番ロ短調
2006年7月14日(金)19:00東京オペラシティ
ブランデンブルク協奏曲第5番
ブランデンブルク協奏曲第2番
2006年7月17日(月祝)14:00みなとみらいホール
ブランデンブルク協奏曲(全6曲)