作曲家の夏休み
夏…と言えば、夏休みである。しかし、作曲家に夏休みというものは(たぶん)存在しない。
「芸術の秋」というように、音楽の世界も秋からがコンサートのシーズン。夏はいわゆるシーズン・オフの「夏休み」に当たる。避暑を兼ねた「XXの夏」風な音楽祭はあるにしても、街のホールでのコンサートはめっきり少なくなるのはご存知の通り。コンサートがないのだから、その間、オーケストラや演奏家たちや音楽事務所などは(アルバイトに精出さねばならない事情のある人たちがいるにしても)、秋のシーズンに向けてたっぷりと休みを取るわけだ。
しかし、作曲家は一緒になって休んではいられない。なぜなら、彼らは夏休みが終わるとおもむろに作曲家に向かってこう言うからだ。「さて、そろそろコンサートが近付いてきましたが、作曲は出来てますか?」。
そうなのだ。秋のシーズンにコンサートを行なうという事は、そこで上演される作品(オペラだのシンフォニーだのコンチェルトだの)は、その一月以上前…遅くとも数週間前には書き上げていなければならない。9月10月11月頃の上演に向かって楽譜を清書したり練習を始めたりするためには、当然ながら作曲の〆切は8月末とか9月頭ということになる。そして、その時点で「出来てます」と言うには、真夏の間は休みなしにフル稼働で作曲していなければならない理屈なのである。ああ、なんと悲しい職業であろうか(笑)。
そんなわけで、多くの作曲家が夏に仕事をしている(はずである。もっとも、仕事が全然なくて1年中休み…という悲しい夏休みもあるけれど)。ただ、狭い仕事場にこもりっきりでクーラーがんがんかけて・・・というような仕事っぷりは現代の話。昔の作曲家たちは、ちょっと暑くなったらあっさり都会を捨てて、避暑地で仕事・・・というのがお決まりだったようだ。
*
そんな「夏休み作曲家」としてまず思い出すのは、何と言ってもマーラーだ。
彼は、ご存知のように指揮者が本業。秋〜冬〜春のシーズン中は指揮者としてフルに活動し、オフである夏休みの間に別荘に出掛けて作曲三昧の日々を送るというペースで9つの交響曲を産み落としている。
交響曲作家と言うとベートーヴェンを筆頭に貧乏が勲章のようなもの。実際のところ、マーラーにしても〈交響曲の作曲家〉として収支決算を試みれば完全なる大赤字であり、経済的にまったく成り立たっていない。
しかし、彼の場合は特殊な事情がある。すなわち、指揮者としてプラハからライプチヒ、ブダペスト、ハンブルクそしてウィーンの歌劇場まで登り詰めたヨーロッパ最高級の巨匠のひとりだということ。つまり彼は、それはもう(作曲家などは及びも付かないような)高給取りの…いわゆる〈セレブ〉だったわけである。
そうなると、たっぷり働いてたっぷり稼ぎ、夏のシーズン・オフは避暑地の別荘でゆっくり…という優雅な生活も現実となる。作曲家としては、なるべく静かで一人だけになれて、ピアノがあって余計な雑事が入り込まず、しかも衣食住には不自由しない場所…というのが理想だが、そんな都合の良い場所は滅多にない。しかし、彼の場合はそれを余裕で手に入れたということになるだろうか。
有名なのは、1899年(39歳)まだ独身時代に手に入れたというヴェルター湖畔マイアーニッヒの作曲小屋。ピアノ1台と椅子と小さな本棚しかない文字通りの「小屋」だが、湖畔に母屋の別荘があって、朝6時に起きると、女中の作った朝食を食べ、昼まで作曲小屋にこもって作曲をするのが日課だったそうだ(なんとうらやましい!)。
ここで(晩年トブラッハへ移住するまで)第4番以降のほとんどの交響曲が作曲されている。1902年(42歳)の結婚後は、妻や子供たちなど家族とここで過ごしているが、女の子ばかりのにぎやかな家族は母屋に分離し、自分は一人静かに作曲小屋にこもるという理想的な環境はキープされている。
しかも、彼の場合は〆切に追われての仕事ではなく、完全に〈趣味の作曲〉なのだ。まさに「夏休み作曲家」の面目躍如たる夢の生活と言えるだろう。
*
一方、マーラーのように別荘を購入して一ヶ所に定住するのでなく、渡り鳥のように気に入った避暑地を点々とするのが生涯独身貴族のブラームス先生のケース。
年表を見ていると、作曲家としての名声を得てウィーンに定住の場を確保した30代後半以降、彼がウィーンの自宅アパート(カールスガッセ4番地のアパート4階の部屋)に夏の期間にいたためしはなく、毎年(晩年まで1年の例外もなく)ウィーン近郊だのスイスだのイタリアだのの避暑地に行っている。
つまり、そろそろ暑くなる5月頃になると、ブラームス先生、ぷいとウィーンからいなくなり、どこかの避暑地の村(湖畔がお好みだったらしい)にピアノ付きの小部屋を確保して、そこで夏中作曲にいそしんで交響曲や協奏曲などの大作を書き上げ、そろそろ寒くなる秋10月頃にウィーンに戻ってきて、新作の初演の段取りを考える、というのが年中行事になっていたようなのである。
その始まりは、ウィーンに居を構えた36歳前後の夏。それまではウィーン近郊の小都市でシューマン未亡人の一家が住むバーデンバーデンへ入り浸っていたのだが、シューマン家の三女ユーリエ嬢(当時24歳)に失恋する事件があって、傷心のブラームスは翌年からミュンヘン郊外のトゥッツィング、スイスのチューリヒ近郊のリュシリコン、ハイデルベルク近郊のツィーゲルハウゼン、バルト海のリューゲン島と知人に紹介されるまま避暑地を点々とし始める。
ちなみに、この傷心の避暑地での作曲で「ドイツ・レクイエム」や「交響曲第1番」といった傑作が生まれているのだから避暑の効能恐るべし。
その後、44歳の年からはユーゴスラヴィアとの国境に近い湖畔の村ペルチャハが気に入り、ここで3年ほど連続して夏を過ごす間に「交響曲第2番」「ヴァイオリン協奏曲」が生まれている。
続いて、当時上流階級の夏の避暑地として有名だったバート・イシュル(どうも雰囲気からいって軽井沢を思いだす)にも3年ほど連続して夏を過ごし、晩年はほとんどこの地に入り浸りの状態になる。ここは、ウィーンの上流階級の人間が夏になると集まっていたらしく、ブラームスはここで何回かマーラーの訪問も受けている。
さらに、50歳の年には可愛いアルト歌手にひかれてヴィースバーデンという町で夏を過ごして「交響曲第3番」を一気に書き上げたり、あるいは貴族の友人の別荘のあるミュルツツーシュラーク村で2年連続で夏を過ごして「交響曲第4番」を書き上げたり、その後スイスの湖畔の村ホーフシュテッテンで室内楽や最後の「二重協奏曲」を書き上げたりもしている。なんとも、悠々自適の作曲生活である。
夏休み…という視点で見た場合、ブラームスのケースこそ最も作曲家の理想に近いと言えるのかも知れない。
*
ちなみに、ヨーロッパ中央諸国の作曲家たちは、夏の暑さと都会の喧騒を逃れて山や湖に「避暑」に行くわけだが、ロシアや北欧の作曲家たち(例えばチャイコフスキーやシベリウスなど)は、逆に冬の寒さと閑散とした街を逃れてイタリアなど温暖の地に保養に行く。
そして、そういった「癒しの時間」の中から、確実に数多くの名曲が生まれている。街から離れ自然に囲まれた地で人間らしさを取り戻し、そこで新しい霊感を得たり、静かに「個」と向き合えたりすることが、「創作」の重要な糧になる…ということなのだろう。
もっとも、そういった恵まれた環境を手にしないと創作は不可能か…と言うとそうでもないような気がする。
喧騒の都会にいるからこそ、見果てぬ自然の美しさを夢み、
不遇の生活だからこそ〈魂の自由〉としての芸術を夢みる
…ということだってあるからだ。
・・・などと言っても、夏休みのない作曲家の負け惜しみにしか聞こえないか・・・(笑)。
◇マーラーとブラームス作品の近々の上演予定
■ウィーン交響楽団
2006年11月2日(木)19:00 東京芸術劇場
モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」序曲
モーツァルト:ピアノ協奏曲第22番変ホ長調(p:上原彩子)
・マーラー:交響曲第1番「巨人」
2006年11月6日(月)19:00 東京文化会館
グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調(p:ユンディ・リ)
・ブラームス:交響曲第4番 他
◎ファビオ・ルイジ指揮ウィーン交響楽団
| 固定リンク
「2006年記事」カテゴリの記事
- 木管楽器の楽しみ(2006.12.10)
- 左手のためのピアノを巡って(2006.11.10)
- ショスタコーヴィチ考〈バビ・ヤールをめぐって〉(2006.10.10)
- ショスタコーヴィチ「森の歌」を深読みする(2006.09.10)
- 作曲家の夏休み(2006.08.10)
コメント