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2006/09/10

ショスタコーヴィチ「森の歌」を深読みする

Dsch02 ショスタコーヴィチにはオラトリオ「森の歌」という極めて不思議な作品がある。もっとも、この作品を聞いたことのある人にとっては、これを「不思議な作品」と呼ぶ方が不思議かも知れない。なにしろ、この曲はロシアの自然と戦後ソヴィエトの植林計画とを讃美した、極めて分かりやすい(分かりやすすぎる、とでも言った方がいいような)壮大華麗な音楽なのだから。

 その作品が何故「不思議」なのか。

 「森の歌」。ドルマトフスキーの詩による、児童合唱、混声合唱と大オーケストラのための全7楽章からなるオラトリオ。1949年にスターリン賞第一席を受賞し、彼にとってもその前年の「ブルジョア的作曲家」というジダーノフなどによる批判を跳ねのけ、社会主義リアリズムという党の芸術路線に応えた作品として重要な作品であり、戦後の日本でも、歌声運動などの一環として現代作品としては異例の熱狂的支持を受けていた。(合唱団白樺による平易で美しい日本語歌詞によるピアノ伴奏合唱曲として歌ったことがある人も多いのでは?)

ちなみに、全7曲の構成は以下の通り。
1.戦いの終わった時
2.祖国を森で覆おう
3.過去の思い出
4.ピオネールは木を植える
5.スターリングラード市民は前進する
6.未来への逍遥
7.賛歌

 ところが、この感動的で壮大華麗な傑作も、現在では滅多に演奏されることがなくなってしまった。と言うのも、この作品、こともあろうに独裁者として西欧では悪評高いスターリン政権を讃美し、今では死語になっているスターリングラードの名を連呼しているうえに、終楽章は舞台横の大ファンファーレまで繰り出し「共産主義の夜明けがやって来た」「レーニンの党万歳! 聰明なるスターリン万歳!」などというなかなかとんでもない大合唱で終わるのだ。

 いくら歌詞がロシア語であっても、そんな曲が欧米でまともに上演されるわけがない。最近ではさすがにソヴィエト国内でさえ歌詞を変えて歌うそうだが、それでも元の歌詞を知った段階で普通の西洋音楽愛好家たちが拒否反応を示すのは当然といえるだろう。例えば終楽章の大合唱で「聡明なる将軍さま、ばんざい!」などと歌われるような北朝鮮の作曲家によるカンタータを想像してみるといい。歌詞をどう変えても、欧米や日本のコンサートで上演されることはまずあり得ない。

 そのためにショスタコーヴィチ研究者の間でも、この曲は「体制迎合作品」だの「国策音楽」だの「日和見主義の象徴」だのと言われ放題で、評判が極めて悪い。「これほど白々しく無為に流れる音楽はない」とか「壮大だが、作られた偽物の感動である」とか、知識人や批評家といった人たちからの罵倒の言葉は枚挙に暇がないほどだ。

 しかし、私にはどうも納得が行かない。この曲の巨大に心を動かすなにものかを、政治的イデオロギーからの簡単なる説明(=社会主義リアリズムという美名に塗れた体制迎合作品であり、独裁者スターリンを讃美する思想的な歌詞を持っている)ひとつで処理してしまう事は、この曲を無防備に自然賛歌として感動してしまう無邪気な聴衆以上に軽率ではないか、と思えてならないのだ。
 
            *

Dsch01 余談だが、作曲家という視点から見ると、この作品のスコアは他のショスタコーヴィチ作品に比べどこか違和感がある。私はこの曲のスコアを初めて見た時、本当にこの曲はショスタコーヴィチが書いたのだろうか?という疑問を感じたほどだ。(この「偽のショスタコーヴィチ?」という疑問は、この作品を読み解く重要なキイワードとなる)。なにしろ和声感覚がまったく違う。彼特有の対位法的書式やリズム処理を前面に出した乾いた書式ではなく、協和音を充填強化した妙に「響きやすい」書式で書かれているのだ。
 
 しかし、それはこの曲のマイナス面ではない。音楽作品をその形式の明瞭さと美しさで問うなら、むしろこの作品のような書式の方が正しいとさえ言えるかも知れない。ハ長調で始まる叙事詩的な導入、ロシア民謡風の合唱、暗いロシアを語るモノローグ、児童合唱による童謡にも似たシンプルな賛歌、勇壮なる行進曲、明るい未来を語る詠唱、そして大フーガと舞台裏での大ファンファーレを伴う大合唱!・・・という絵に書いたような見事な形式を持つ壮麗かつ大衆的な作品に仕上がっているのだから。

 ショスタコーヴィチがそんな大衆路線の作品を書くに至った公的な理由は、「政府の森林植樹計画に感動して」という事のようだが、これもよく考えてみると面白い。彼は<森林植樹計画を考案したこと>を讃美しているのであって、決して国家の政策そのもの、国家の存在そのものを無防備に讃美しているわけではない。植林計画「は」素晴らしい…という物言いは、取りようによっては、「政府のやっている事でましなものは、せいぜい森林植樹計画くらいなものだ」と言っているに等しいからだ。

 この時代、多くの作曲家たちが、結局はスターリンやレーニンの賛歌、あるいは革命や労働者たちの賛歌を安っぽく乱作した事を考えると、とっておきの国家的英雄である筈のショスタコーヴィチがこの時期に大オーケストラと大合唱を駆使して讃美したものが、英雄でも革命でも勝利でもなく「森」であるというのは実に、そう、実に面白い。

             *

Borisdvd さて、ここからが眉に唾を付けての深読み解題になるのだが、この作品の真意を検証するに当たってきわめて重要な作品がある。ロシア人なら知らぬ者のない国民的オペラ、ムソルグスキイの歌劇「ボリス・ゴドノフ」(1869)である。

 このオペラは、作曲者本人のオーケストレイションの不備を補作し、シーンの削除や順番の入れ替えまでも含めたリムスキー・コルサコフによる編曲版で知られている。ムソルグスキイの斬新な和声感覚や音構造は、ドビュッシーら印象派に影響を与えたほどなのだが、楽器法に精通するほどの職人気質はなく、「展覧会の絵」を始め多くの作品が他人の編曲・補作によって演奏されていることは周知のとおり。

 そして、ショスタコーヴィチのこの作品に対する思い入れもちょっとマニアックだ。なにしろ新しいオーケストレイションを施した版(1940)を自ら創作し、その編曲稿に自作に付ける作品番号(op.58)すら付しているほどなのだから。

 まず、このオペラの筋書きについて語ろう。

 ボリス・ゴドノフは16世紀の帝政ロシアに実在した人物。有名なイワン雷帝の次男フョードルが皇帝の時代、ボリスは摂政をつとめ政治の実権を握っていた(日本で言うなら、家老みたいなものか)。やがて、皇帝フョードルが歿し、ボリスが民衆に懇願されて新皇帝に即位する戴冠式の場面(プロローグ)からこのオペラは始まる。

 しかし、表向きは民衆すべてが新皇帝の即位を祝福しているように見えて、実はボリスが前皇帝の幼い皇子を亡き者にしたのではないか?という疑惑を持っている。冒頭の冒頭から「ボリス様。私たちを見捨てないで下さい。」と哀願している民衆の横で「そら、もっと声を出して叫ぶんだ!」と、鞭を振り上げて(懇願を強制して)いる警吏がいるのも象徴的だ。

 要するに、この「新皇帝を祝福する民の声」は、すなわち「強制され仕組まれた心にもない声」、というわけである。圧政下での「民衆の歓喜の歌声」など所詮「偽りの声」に過ぎない…というこの皮肉な二重構造については、「証言」の中でショスタコーヴィチが自身の交響曲第5番のフィナーレについて(あれは勝利の讃歌などではなく、「ほら、喜べ!」と強制された凱歌だ…などと)言及していることを思い起こさせる。

Borisg オペラの筋書きに戻ろう。こうしてボリスは皇帝となるが、前の皇帝の皇子ディミトリーの死については良心の呵責を感じている。そして、前王と皇子の死によってもっとも利益を得た者として、民衆の間にも皇子の死をめぐりボリスに疑惑の種が育っている。

 第1幕。もう一人の主人公である青年僧グレゴリーは、老僧ピーメンの語るロシアの年代記によって、謀殺された皇子ディミトリーが自分と同じ年齢であることを聞き知る。そして、死んだ皇子ディミトリーの名を騙って反乱軍を組織する計略を練り、修道院を脱走して国境を越える。

 第2幕。クレムリン宮殿でボリスは、ディミトリー皇子の殺害について罪の意識にさいなまれている。そして、隣国にディミトリーを名乗る若者が現われて反乱軍を組織し始めていることを聞き、恐怖のあまり錯乱状態となり、神に許しを乞う。

 第3幕。ポーランド貴族の娘マリーナとディミトリとの恋(・・・あまりにも男ばかりのオペラなので、無理やり女性を出すために追加された場面らしい(笑)。

 第4幕。ポーランド貴族のバックアップを得て、偽ディミトリーがモスクワに進軍し始める(この辺りは日本での徳川政権下に起きた「天一坊事件」に似ている)。モスクワの赤の広場では、その話題で持ち切り。そして、白痴(苦行僧)がボリスの罪とロシアの闇を歌い、ボリスは罪の意識から悶死する。
 そして、モスクワ近郊クロームィの森に反乱軍が集結し、民衆を煽動しボリス打倒を叫びながら進軍してゆく。後に残された白痴ひとりがロシアの闇を嘆き、オペラは終わる。

             *

 昔からどうにも気になっていたのが、この終幕のクロームィの森のシーンである。実は、「森の歌」のフィナーレと奇妙な類似があるからだ。

 ひとつは、この場面で女性合唱が歌う「空を行くのは鷹ではなく、野を走るのは馬ではない」という民謡風のメロディ。これが「森の歌」の終曲のフーガ主題によく似ている。明快な引用ではなく、「なんだか、ちょっと似ている」という程度の類似なのだが、それでもこの時点で、森の歌のフィナーレにボリス・ゴドノフのイメージが擦り込んでくる。

 振り返ると、オペラで偽ディミトリーの軍団がやってきた時の、トランペットのシグナルも、「森の歌」で児童合唱が歌い始める「4.ピオネールたちは木を植える」の、明るいトランペットのシグナルに呼応していることに気付く。方や反乱軍の行進を描く(どこか能天気な明るさのある)軍楽のイメージ、方や未来をになう少年少女たちの明るい行進を描くマーチのイメージ。微妙に違うが、微妙な類似を感じることも確かだ。

Dimitori さらに、オペラの終幕では、クロームィの森に集まった民衆に向かい、ディミトリーの軍勢の到着を受けて浮浪僧ミサイル(テノール)とワルラム(バス)がすっくと立ち、「神によって救われた皇子に栄光あれ!」と偽の皇子を讃美し、民衆を扇動し始める。
 そして、「(実は偽皇子である)ディミトリー・イワノヴィチに栄光あれ!」という民衆の合唱へと連なる。民衆はオペラ冒頭でボリスをたたえたその口で、今度は偽皇帝をたたえ始め、偽のディミトリーを「正統なる王位継承者」だと叫んで、モスクワに進軍を始めるのである。

 一方、「森の歌」の終楽章では、先の民謡風の主題に乗ってロシアの森や緑を賛え、植林計画を称える大フーガが鮮やかに展開する。そして、それがひとしきり盛り上がった後で、テノールとバスがすっくと立ち、「見よ、共産主義の光がさし始めた」と歌い始め、「(レーニンの正統なる継承者?である)聰明なるスターリンに栄光あれ!」という最後の大合唱へと連なって行く。

 どうだろう? もちろんドラマ構成上の演出の類似と言ってしまえばそれまでなのだが、ショスタコーヴィチが「ボリス・ゴドノフ・マニア」?である点を考えると、ただ「似ている」だけでは済まないものがあるような気がする。なにしろボリスの方は、その偽りの賛歌の大合唱の後、「白痴(ないしは苦行僧)」がひとり舞台にポツンと残って「泣け、ロシアよ! 闇が始まるぞ、白も黒も区別がつかず、ものの見えぬ暗闇が!」と歌い出すのである。

 つまり、「森の歌」のフィナーレは(ショスタコーヴィチ自身が、この「白痴」に我が身を置き換え)、ボリスの二重構造・・・民衆は皇帝を称えながら同時に疑惑の念を抱き、救世主のディミトリもまた実はニセモノである・・・を告白しているのではないか? …と、聞けば聞くほどそう思えてくるのである。
 そして、そう思い至ると、ショスタコーヴィチがこの作品で単に「スターリン政権の自然政策を賛美し」、そして同時に「尊敬すべきムソルグスキーのオペラをモデルにし」作曲した、というだけではない奇妙な裏の意図(と言うより皮肉)を感じざるをえなくなる。

Lenin そもそも、このオペラの登場人物たち、死んだ前皇帝フョードル、摂政の身からそれを受け継いだボリス、という構図は、「森の歌」の中に出てくる二人の人物レーニンスターリンにあまりによく似ている。ロシア革命の指導者であるレーニンが前皇帝。その腹心であり、トロツキーなどを抹殺してレーニンなき後の権力を自分一人に集中させた独裁者スターリンがボリスその人、と言うわけである。

Stalin その事についてはスターリンも薄々気づいていたらしく、例の「証言」(最近ではすっかり偽書扱いだが)の中にも、スターリンが「ボリス」の演出について何やら目を光らせていたらしい記述がある。映画や演劇などでも、うっかり(か故意か)悪役や道化役がカイゼル髭など生やしていると、スターリンを愚弄する下心があるとして制作者がシベリアに送られたりする事もあったようだ。こうなるとパロディも命懸けである。

 (ちなみに、ショスタコーヴィチが18歳にして〈交響曲第1番〉を書き上げた1924年にレーニンが死去し、彼の作曲家としての歴史は以後スターリンが台頭してゆく歴史と不幸にも同時進行している。スターリンは、まさにショスタコーヴィチの生涯に覆いかぶさった一種の悪夢なのだ。
 その張本人を、いかに独ソ戦の戦勝を祝うとは言え「栄えあれ」と賛美するなんて、ショスタコーヴィチとしてはそれこそボリス冒頭の「鞭打たれて新皇帝を賛美する民衆」と同じ心境だったに違いないではないか)

 そう考えると、殺された幼い皇子というのがショスタコーヴィチと同じディミトリーであり、民衆を先導して進軍して行くのが名を騙った偽のディミトリーであるというのも、何やら意味深なところがある。
 
 なにしろ、「クロームィの森」にいるのは、「偽のディミトリ」なのである。

 つまり、そこで「神に選ばれし皇子に栄えあれ」と賛美する言葉も、 「永遠に栄えあれ!」と歌う言葉も、(歴史的な視点で見れば)すべて虚構なのだ。

 だからこそ、オペラの最後で白痴(苦行僧)が「泣け、ロシアよ!」と歌い、「白と黒の見分けもつかぬ闇」にまみれるであろうロシアの未来を嘆くわけなのである。

 そして、ショスタコーヴィチも偽のディミトリーとなって、偽の王位継承者を「偽りの言葉」で賛美する。白と黒の見分けもつかぬ闇にまみれたロシアを嘆きながら・・・

 そう、賢明なる読者諸氏にはもうオチがおわかりだろう。
 
 「森の歌」とは実は「クロームィの森の歌」なのである。

 どっとはらい。

(ショスタコーヴィチ協会ニュース.1993に発表した原稿を大幅改稿)

◇ショスタコーヴィチ作品の近々の上演予定

サンクトペテルブルグ・フィル
2006年11月22日(水)19:00 サントリーホール
 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(p:ヴィルサラーゼ)
・ショスタコーヴィチ:オラトリオ「森の歌」ほか

2006年11月24日(金)19:00 サントリーホール
 ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番(vn:レーピン)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第13番 「バビ・ヤール」ほか

2006年11月25日(土)14:00 横浜みなとみらいホール
 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(vn:レーピン)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ほか
◎ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団

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コメント

どっとはらい
というのは「むかしむかし・・・」と語り始めた昔話の結びの言葉で、「・・・おしまい」にあたる東北の方言です。「・・・幸せに暮らしましたとさ。どっとはらい」というように使います。念のため。

投稿: どっとはらい | 2006/09/12 11:25

《ボリース・ゴドゥノーフ》決定稿終幕には一度も「森」という単語は出てきません。
それから、「偽ドミトリー」は「クロームイ近郊」を通過するだけであって、林の空き地にいるのは、「愚かだがしたたかな民衆」です。読み筋がかなり違っていると思いますよ。

投稿: 亡き子を偲ぶ歌 | 2006/11/01 16:44

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