ショスタコーヴィチ考〈バビ・ヤールをめぐって〉
私がショスタコーヴィチの音楽を聴き始めた高校生の頃(1960年代半ば)、最も新しい交響曲は第13番だった。
LPは初演者コンドラシンのものが確か1枚だけあったが、「13」という不吉な番号と「ソヴィエト国内では演奏禁止」という解説、そして何より骸骨とユダヤの紋章を絡めたジャケット(←)の不気味さで印象に残っている。
それにしても、その直前の第12番「1917年」が、ロシアの十月革命を描いた勇壮で明快な交響曲だったのに、これはなんと暗く重く(まるで別人の作と思えるほど)不可解な作品なのだろう。
しかも、「13」番という数字。これはキリスト教徒でなくとも、その不吉な意味については誰でも知っている。交響曲作家にとってのジンクス・ナンバー「9」については、軽やかに笑い飛ばしたショスタコーヴィチも、この「13」についてはなぜかかなり意識したように思えてならない。なにしろ、作品番号まで「op.113」と13を揃えているのだから!
ここまで来ると、ショスタコーヴィチにとって、この「13」という番号を付した交響曲は、敢えて不吉な運命「死」を意識し、あるいは欠番になることすら覚悟した交響曲だったのではないか? …そんな想像すら頭をもたげてくる。(実際、世が世なら、彼の交響曲全集を作る時この13番が欠番となっていた可能性だって、なくはなかったのだ)
これは、果たしてアンラッキーという迷信に挑戦した真実の記録なのか?、あるいは迷信に躍らされて陥った悲観主義の生み出した妄想なのか?
はたまた熱き人道主義に燃えて体制を告発した偉大なるプロテストの成果なのか?、それとも青年詩人の青臭い主張につられて時代を読み誤った単なる迷作なのか?
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この曲に至るまでのショスタコーヴィチは、その創作活動の最初期から(好むと好まざるとに関わらず)ソヴィエト連邦という実験的共産主義国家の政策と連動してきた。
何しろ、彼が作曲家としてデビューした1920年代は、同時に実験的共産主義国家ソヴィエト連邦が世界史にデビューした時期でもあったのだから。
そのソヴィエトは、1930年代に国家の政策として「芸術は、形式においては民族的、内容においては社会主義的でなければならない」という〈社会主義リアリズム〉を打ち上げる。
若い頃はモダニズムにかぶれていたショスタコーヴィチも、なんとかそれに呼応する作品(第5番)を呈示し、国を挙げての戦争に差し掛かればそれを描いた作品(第7番)を発表してソヴィエトの作曲家として大成して行く。
「表向き」は体制に順応しつつ、しかし心の底では芸術家らしい反発を秘めながら、彼は時代を生き残っていったわけである。
しかし、この時代、特に独ソ戦そしてスターリンの大粛清の時代に「現役の作曲家」として生き残ったのは、奇跡に近いとしか言いようがない。1953年にスターリンが死んで「雪どけ」の時代を迎えた時、ショスタコーヴィチはまさに「これで生き延びた!」と安堵したに違いない。
実際に、スターリンと自分とを述懐するかのような名作第10交響曲(1953)を境に、彼の音楽から晦渋さが(束の間ながら)消え、明快さと軽やかさが混じるようになる。「祝典序曲」(1954)、コンチェルティーノ(1954)、ピアノ協奏曲第2番(1957)、チェロ協奏曲第1番(1959)などには、珍しく彼の幸福感さえ刻印されているほどだ。
ただ、この時期に書かれた第11番(1957)と第12番(1961)の2つの交響曲に関しては、ぎりぎり体制寄りの具体的な革命賛歌を描いたために、その完成度に反して現在でも「体制迎合」だの「政府の御用達作曲家」だの賛否両論が喧しい。
当時の西側の現代音楽界が「時代遅れの体制迎合作曲家」と嘲笑したのも、まさにこのあたりの作品を念頭に置いているほどだ。
それでも、この時期、ショスタコーヴィチがソヴィエト連邦という国家を代表する最大の国際的作曲家に登り詰めたことは事実だ。
1954年ソ連邦人民芸術家、国際平和賞、スウェーデン王立音楽アカデミー名誉会員、1955年東独芸術アカデミー通信会員、1956年レーニン勲章、1957年第11交響曲でレーニン賞、1958年イギリス王立アカデミー会員、シベリウス賞、1959年アメリカ科学アカデミー会員、1962年ソ連邦最高会議代議員などなど、降り注ぐ(当人が呆れるほどの)栄誉がそれを証明している。
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ところが、そんな1961年9月、55歳になったばかりのショスタコーヴィチは、ドイツ軍のキエフ侵入20周年記念に発行された「文学新聞」に掲載された青年詩人エフトシェンコの「バビ・ヤール」という詩に衝撃を受ける。
バビ・ヤール(Babi-Yar)は、ウクライナのキエフ北西にあるバビ・ヤール峡谷のこと。第二次世界大戦中の1941年から43年にかけて、キエフを占領したナチス・ドイツ軍親衛隊による大量虐殺があり、ユダヤ人を中心にジプシーやウクライナ人ロシア人などの一般市民も含めた2万人以上、一説には10万人が虐殺されたと言う。
そして、ナチスドイツ軍は敗退する時、その虐殺の証拠隠滅のためにこの谷を掘り起こし、数万の死体を埋めたとされている。
エフトシェンコの詩は、「これほどの悲劇の地でありながら、墓碑銘すらない」という告発から始まり、自分をユダヤ人になぞらえアンネ・フランクまで持ち出して、ユダヤ人迫害の歴史から、当時のソヴィエトにはびこる反ユダヤ主義までを(寓話めかしながら)かなり挑発的に歌っている。
この詩の衝撃を受けて、ショスタコーヴィチは早速、詩に基づく声楽とオーケストラのための〈交響詩〉(カンタータのようなもの)を作曲し、翌62年4月に完成する。
つまり、最初は交響曲として構想したわけではなかったのだが、その後、この青年詩人エフトシェンコと親交を結ぶようになり、さらにほかの詩を組み合わせて交響曲にすることにしたわけである。
そして、新しく「恐怖」という章を書き下ろしてもらい、全5楽章の交響曲としてその年(1962年)の7月に全曲を完成させる。それが交響曲第13番である。
この交響曲には「第13番」という以外に作曲者の付けた副題はないが、第1曲目の衝撃的な詩の印象から〈バビ・ヤール〉と呼ばれている。
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ここで、簡単に全曲の構成を紹介しておこう。
◇第1楽章「バビ・ヤール」
「バビ・ヤール」に墓碑銘はない」という暗くおどろおどろしい独白から始まる全体の核となる楽章。自分はユダヤ人ではないがと断りながら、ユダヤ人であることの迫害や恐怖の歴史を歌い、反ユダヤ主義をナチス・ドイツに絡めて非難する。全編に渡って弔いの鐘が鳴り続けるのが怖い。
◇第2楽章「ユーモア」
「王様や権力者たちはすべてを支配したいのだろうけど、ユーモア(風刺)だけは支配出来ない」と歌うスケルツォ風の楽章。「イギリスの詩人による6つの歌曲」の中の「処刑台の上で踊り出すマクファーソン」のダンスがエコーする。
◇第3楽章「商店で」
「女性たちは(食料を買うために)黙々と商店の前の行列に並ぶ。すべてに耐えながら…」と、ロシア名物の行列を歌うアダージョ楽章。
◇第4楽章「恐怖」
「ロシアで恐怖が死んでゆく…」と歌うラルゴ楽章。ショスタコーヴィチの助言もあったのか「密告の恐怖」や「外国人と話す恐怖」などというのも登場する。
◇第5楽章「出世」
「(天動説を唱えた)ガリレオは嘲りを受けたけれど、今ではその賢さが証明されている。勇気を持って信念を貫き、出世しないことこそが出世なのだ!」と歌うフィナーレ楽章。これだけ重い大曲のわりには、力なく微笑むような不思議な脱力感のあるコーダで消えてゆく。
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この曲、マーラーの声楽付き交響曲(「復活」や「大地の歌」など)と比べてもなお、「なぜこれが交響曲なのか?」と首をかしげざるを得ない異様な形態をしている。
なにしろ(実際に舞台での演奏に接してみるとよく分かるが)、舞台中央にバス独唱が一人陣取り、その背後に男だけの大合唱がずらりと並び、合唱は(ほんの一部を除いて)すべてユニゾンで歌われるのだ。
要するに、独唱者が「なんとか反対!」とアジ演説をぶつと、バックの群衆が「そうだ!反対!」と全員で唱和するという、これはもう完全にデモ隊のシュプレヒコールのフォームなのである。
こういう形態で「ユダヤ人」とか「虐殺」を連呼し、ロシアにおける「恐怖」や「不条理」や「死後の出世」を歌うのだから、完全に音楽を逸脱している。
例えば現在の日本に当てはめてみても、「朝鮮人」や「南京虐殺」を連呼し「靖国神社」や「A級戦犯」について歌う交響曲など、(それがいかに正論だろうと)「上演禁止」はないにしても「演奏自粛」になることは想像に難くない。
事実、初演は当局からの圧力を受け(第1楽章を削除すること…と言うような勧告があったらしい)、第5番以降ショスタコーヴィチのほとんどの交響曲を初演してきたムラヴィンスキーですらこの曲の初演を引き受けておらず(結局コンドラシンが始めて初演の任に当たった)、特に独唱者は歌詞の過激さに恐れを成して次々と断ってきたと言う。
それでも、ソヴィエト最高の作曲家に登り詰め国際的にも有名なショスタコーヴィチのこと、色々の問題はあっても最終的には書き上げた年(1962年)の12月にはきっちり初演されているのはさすがである。(もっとも、プログラムに歌詞は印刷されず、批評では完全無視だったらしいのだが)。
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この曲、歌詞だけを読んだ場合でも、確かに冒頭の「バビ・ヤールに墓碑銘はない」という言葉は衝撃的だ(もっとも、一説には、これは国家的規模の告発などではなく、単にフルシチョフがこのバビヤールの犠牲者追悼施設建立の計画を握りつぶしたことへのマイナーな抗議にすぎなかった、とも言うのだが)。
ただし、当時28歳の詩人エフトシェンコ(1933〜)の書いた詩は、全体的にはかなり青臭い印象を拭えない。
バビ・ヤールの虐殺を語り反ユダヤ主義を糾弾しながら、最後は「だから私は真のロシア人なのだ」という結論。商店に食料がないという政策の不備を非難するかに見えて、全体は「すべてに耐えている女性は素晴らしい」という妙なフェミニスト宣言。恐怖の章では「一生懸命に詩を書いていないのじゃないか?という恐怖がある」などと良い子ぶりっこを言うし、「生きている間に評価されなくても、死んでから本当に残るのが偉いのだ!」などという出世論は、50歳を過ぎたショスタコーヴィチにとっては「若いねキミは!」と苦笑必至のものではないのだろうか?
実際、当のエフトシェンコは、その後(初演から数日も経たないうちに!)あっさりと「生きているうちの出世を願う知識人」の仲間入りをして、詩の過激な部分を「改訂」し、ショスタコーヴィチをひどく失望させることになる。
結局、28歳のエフトシェンコが詩に込めた思いと、55歳のショスタコーヴィチがその詩から読み取ったものには、甚だしい温度差があったと言うしかない。それは、誤読といってもいいほどだ。
しかし、もちろんショスタコーヴィチはそんなことは百も承知だったのだろう。敢えて誤読をし、作曲家が「詩人の書いた詩」にメロディを付けただけですよ…というフリをして、自分の音楽の中で「自分の言葉」に変質させて見せたのである。
そう考えて改めて読み返してみると、青臭かろうが何だろうが、この詩には、戦争中は熱気に冒されて戦争賛美の愛国主義を叫び、その舌の乾かぬうちに戦後は一転して暴力反対の人道主義を叫ぶような、エセ知識人特有の幼稚な発言だけはない。
この瞬間のエフトシェンコの詩は、レトリックを駆使し、例え話を繰り出しながら、確実に「一市民が考える不正義の糾弾」に徹しているのである。
それゆえに、きわめて分かりにくい抽象的な歌詞になっていることは否めないが、逆にそのあたりをショスタコーヴィチは評価したのだろう。なにしろ二重構造の好きな人なのだ。真意はいつだって寓意の後ろにいて、姿を見せない。そして、姿を見せないことこそが真意だったりするわけなのだから。
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それにしても、独ソ戦を描いた第7番や第8番、あるいは革命を描いたという第11番や第12番でさえ「純器楽交響曲」として具体的な言葉の挿入をしなかったショスタコーヴィチが、これほどきわどい題材に具体的な「言葉(声楽)」を付けた交響曲とした理由は、どのあたりにあるのだろう?
下世話に穿った見方をしてみるなら、11番・12番と体制寄りの(西欧知識人たちからは反感を得るような)作品を書いてしまい、国内の反体制的な立場をとる芸術家たちから見限られるギリギリの瀬戸際に立ったショスタコーヴィチが、一種の「名誉挽回」かつ「起死回生」を試みた作品ということも出来そうだ。
この曲がなかったら、ショスタコーヴィチは確実に「体制に下ってしまった作曲家」として男を下げたに違いないのだから。
そして、ユダヤ人問題を取り上げた理由にも、同じような思惑があったように思える。
なぜなら、当時のソヴィエト体制下でユダヤ人寄りの立場をとるのはかなり危険だったにしても、国内外にはユダヤ系の多くの支持者(例えばバーンスタイン!)が存在し、国際的に見ればショスタコーヴィチの音楽を支持するアメリカや西欧諸国の楽壇を牛耳っているのはユダヤ系であることも無視出来ない。
その巨大な「体制」への支持を敢えて(多少の犠牲を払っても)表明することは、まさに「出世をしないことで出世する」と言うべき損して得を取る戦略になるからだ。
ショスタコーヴィチの作品への(特にアメリカでの)熱狂は、単にソヴィエトの音楽…というだけの怖いもの見たさであるはずもない。また、音楽的に優れているから…という理由がほとんど何の説得力も持たないことは歴史が証明している。
となると、どこかで世界の「影の体制」とリンクする部分があったからではないか?…という想像も充分にあり得るわけだ。そのキイワードこそが「反共産主義」と共に「ユダヤ」だったのではなかったか?(もっとも、何でもかんでもユダヤやフリーメーソンや共産主義や宇宙人の陰謀にするのは怪しい珍説の域を出ないけれど…)
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ちなみに、このバビ・ヤールの話、どこまで本当のことなのか現在では疑問視する研究者もいるのだそうだ。
確かに、射殺された大量の死体がバビ・ヤール渓谷に埋められていたことは事実なのだが、本当に100%ナチス・ドイツによるものだったのか、本当に10万人などという規模の虐殺があったのか、という点については確かめようもなく、ソヴィエト側の政治的デマゴーグなのではないか、という疑問を持つ人もいるらしい。
そのあたりは、どこか日本軍による南京虐殺に話が似ている。
なにしろ、ソヴィエト共産党も盛大に同胞の虐殺を行なっていたのだ。
スターリン時代の粛清によって、最小に見積もっても2000万人以上!!!の国民と党員が、殺害されたり強制収容所で死んだと言う。これは独ソ戦での戦死者を遥かに上回る数であり、ナチスのユダヤ人虐殺(ホロコースト)の600万人と並べても、数から言っても規模から言っても遥かに凌駕する大虐殺が行なわれたことになる。
そして、このスターリン体制下の粛清は、まさしくユダヤ人の虐殺(スターリンは、ユダヤ人が自分の命を狙っているという妄想の下に、医師や軍人などに及ぶ大規模な粛清を繰り返した)でもあり、「バビ・ヤールを忘れるな」という告発はそのままソヴィエト政府への非難に跳ね返ることになるわけだ。
(エフトシェンコの詩だけでは、そこまで巨大な告発は聞こえない。しかし、そこにショスタコーヴィチの音楽の重さと凄みが加わると、事情は変わってくる。
ただ、その重さも後半2楽章までは及んでいない。さすがのショスタコーヴィチも後半はいくぶん腰砕けになっている、という気がしてならないのだが、どうだろうか?)
そう言えば、ナチス親衛隊がポーランド将校4000人を虐殺した事件として戦後ソヴィエトが非難していた「カチンの森」事件は、最近の調査で逆にソヴィエト側のスターリンによるポーランド人粛清命令(25,000人にも及ぶポーランド人の殺害)によるものだったと判明している。
つまり、同胞の虐殺を糊塗するために、ナチスによる数万の虐殺として誇大に喧伝し、敗者にすべての罪を押し付けたわけだ。このプロパガンダが虚偽だと証明されたのは事件後50年以上もたってからのことになる。
となると、「バビ・ヤールはどうだったのか?」。この作品を「問題作」として封じ込める勢力と、それに対抗して「傑作」と持ち上げる勢力の思惑とは?。あるいはショスタコーヴィチが(エフトシェンコが)バビ・ヤールではなく「カチンの森に墓碑銘はない」と歌った作品を書いていたとしたら?。
・・・などと色々想像すると、現在の世界情勢における歴史認識の問題さえちらつき始め、音楽が音楽だけではすまないちょっと怖い現実が見えてくる。
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幸か不幸かショスタコーヴィチが存命中にソヴィエトでの理想的な演奏が存在しえなかったこの曲は、ある意味でまだ「これからの評価」に任されている希有な名曲であるとも言える。
かつては、(内容的な問題もあって)ショスタコーヴィチの全交響曲中もっとも演奏頻度の低い1曲だったが、9.11テロやイラク戦争あるいは北朝鮮問題を抱えた21世紀にこそ、あらたな視点の名演名盤が生まれる可能性もあるからだ。
近年、実演でも聴く機会が増えてきたこの名曲の未来に期待しよう。
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余談になるが、何年か前、この曲を日本で演奏したとあるロシア人バス歌手が、リハーサルの時ある箇所(第4楽章「恐怖」の中ほど)の歌詞について、笑いをこらえ切れないといった顔でこう言ったのが忘れられない。
「妻と話す恐怖…だってさ」
さて、ここで笑うべきなのか否か?
ショスタコーヴィチの真意はここでも寓意の後ろに隠れて姿を見せてはくれない。
◇ショスタコーヴィチ作品の近々の上演予定
■サンクトペテルブルグ・フィル
2006年11月22日(水)19:00 サントリーホール
チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番(p:ヴィルサラーゼ)
・ショスタコーヴィチ:オラトリオ「森の歌」ほか
2006年11月24日(金)19:00 サントリーホール
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番(vn:レーピン)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第13番 「バビ・ヤール」ほか
2006年11月25日(土)14:00 横浜みなとみらいホール
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲(vn:レーピン)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第5番ほか
◎ユーリ・テミルカーノフ指揮サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団