モーツァルトの3大オペラ…「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」…の中で最大の問題作と言ったら、それはもう歌劇「ドン・ジョバンニ」だ。
ダ・ポンテ脚本によるこのオペラは、放蕩の限りを尽くす色事師ドン・ジョバンニ(いわゆるドン・ファン)が、悪行の報いで地獄に堕ちる…という、喜劇とも悲劇とも付かない不思議な物語である。
そして、この作品、ひとことで言うならとても奇妙な〈殺人事件〉を描いている。なにしろ、主人公がなんと〈亡霊〉に殺されるのだから。
この事件の中心人物は、ドン・ジョバンニ。おそらく30代前後の貴族階級のスペイン人男性で、美男で金持ちで口がうまい希代の色事師。世界中を旅する自由人だが、大きな邸宅を持ち、盛大な晩餐会を開けるほどの財力を持つ土地の名士でもある。
女性を口説き、ものにするのを人生の目的としている享楽主義者にして、因果応報とか幽霊とかはまったく信じない合理主義者。自称2000人以上の女性と情交を持ち、女性であれば、若くても年取っていても痩せていても太っていても、とにかく口説いてコトに及ぶ。1日に数名の女性と関わることも珍しくないが、愛や情欲におぼれることはなく、あくまでも冷静なハンターとして自己のSEXを捉えている。
ある意味では男性なら誰でも夢見る理想の存在?であり、女性にとっても強烈な魅力的を持つ異性だが、当然モラルの埒外の存在であり、貴族の特権があるゆえに許されているが、トラブルが絶えない。
…と、そんな彼をめぐって2つの殺人事件が起きている。ひとつは、彼ドン・ジョバンニが騎士長を(決闘の末に)刺殺した事件。そして、もうひとつは、その騎士長の亡霊が石像に姿を変えて当のドン・ジョバンニを(復讐のために)地獄に連れ去った事件。この2つである。
まずは、登場人物を列挙してみよう。
♂ドン・ジョバンニ。30代?男性。貴族。
♀ドンナ・アンナ。18歳?女性。騎士長の娘。深窓の令嬢。
♀ツェルリーナ。10代?女性。コケティッシュな村娘。
♀ドンナ・エルヴィーラ。20歳?女性。ジョバンニに捨てられた女性。
♀エルヴィーラの侍女。話には出て来るが登場はしない謎の女性。
♂レポレロ。30代?男性。ドン・ジョバンニの従者。
♂騎士長。60代?男性。ドンナ・アンナの父親。
♂ドン・オッターヴィオ。20代?男性。ドンナ・アンナの許嫁。
♂マゼット。20代?男性。農夫。ツェルリーナの花婿。
◆事件のあらまし
■事件1〈騎士長殺人事件〉。
>被害者:騎士長。加害者:ドン・ジョバンニ。
某月某日夜、貴族ドン・ジョバンニは、知人でもある騎士長宅に忍び込み、その家の令嬢ドンナ・アンナの寝室にて同女と和姦に及ぼうとするも騒がれて失敗。逃げる途中、犯人を捕らえようと追いかけてきた父親である騎士長と格闘になり、剣で刺殺。ただし、仮面を付けていたため、犯人として特定されず。事件は迷宮入り。
*従者レポレロ氏の証言。「ええ、あっしは、ジョバンニ旦那に言われて、外を見張っていたおりました。何をって、そりゃあ、万一の時は無事に逃げ道を作っておくためです。ジョバンに旦那はいつもそうやって、かれこれ1000人では利かない女の部屋に忍び込んでおります。
でも、騒がれてコトに及ばず逃げ出してきたのは初めてでさ。旦那もヤキが回ったというか、ドンナ・アンナの嬢ちゃんは顔なじみなんで、仮面を付けずに言い寄れば、別に苦もなくコトに及べたと思うンですが、何を考えたんだか。揚げ句、知り合いでもある騎士長に犯人扱いされて、行き掛かり上、殺す羽目になってしまって。
でも、あれは〈決闘〉ですんで、殺人ではございません。騎士長自身が〈曲者め、決闘しろ!〉と叫んで剣を振りかざし、逆に返り討ちになってしまったんでさ」
*ドンナ・アンナ嬢の証言。「はい。そうです。仮面を付けた男が、私の寝室に忍び込んで参りました。顔は見ておりません。暴力に及ぶような仕草はございませんでしたが、私は許嫁がいる身でしたので、叫び声をあげて拒絶いたしました。
父は、私の叫び声を聞いて、剣を持って駆けつけて参りました。それからのことは、ああ、気が動転してよくわかりません。気がつくと、父が血を流して倒れておりました。
ドン・ジョバンニという男を知っているか?とお聞きですか。はい。知っております。父とも知己がありましたので、今回の事件については、あの方にもぜひ力をお借りしたいと思っております。許嫁のドン・オッターヴィオもそう言っております」
*ドン・オッターヴィオ氏の証言。「私はドンナ・アンナの許嫁です。騒ぎを聞いて駆けつけましたが、その時はもうすべてが終わっておりました。操を奪われたのかどうかは分かりません。本人は否定しております。
しかし、女の寝室に気がついたら男が忍び込んでいて、何もなかったと言われても、私は…。いや、私は彼女の言葉を信じております。このたびの件で彼女との婚約を破棄する気はありません。憎むべきは、乙女の部屋に忍び込んだ上、義父となるべき騎士長を刺殺した無頼の輩です」
■事件2〈花嫁拉致事件〉
村で結婚式を挙げたばかりの花婿マゼットと花嫁ツェルリーナを、貴族ドン・ジョバンニが自分の邸宅へ招待する。ところが、ジョバンニの目的は花嫁ツェルリーナ。なんと彼女を拉致し、結婚するからと約束しコトに及ぼうとするも、その時はジョバンニの妻を名乗るドンナ・エルヴィーラの登場で未遂に終わる。
その後、改めて舞踏会を開いて招待しふたたび和姦に持ち込もうとするが、これももう少しのところで騒がれてコトに及ばず、駆けつけた花婿マゼットおよびドン・オッターヴィオ、ドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラに対し、すべての罪を従者レポレロに着せて逃げている。
■事件3〈農夫暴行事件〉。
>被害者:農夫マゼット。加害者:従者レポレロに扮したドン・ジョバンニ。
花嫁ツェルリーナに手を出したことに怒った花婿マゼットが、ドン・ジョバンニを襲う計画を立てる。しかし、彼を探す途中で従者レポレロに計画を打ち明けたところ、それが実はレポレロに化けたジョバンニで、逆に袋だたきにされる。全治数日のケガ。
*村娘ツェルリーナの証言。「結婚式の後でドン・ジョバンニさんに会って、あたし、その日に彼に結婚を申し込まれたんです。でも、あたし、マゼットっていう許嫁者がいるから、どうしようかなあって悩んだの。ジョバンニさんは貴族だし、お金持ちでスマートで紳士だし、口もお上手だし。それに比べると、マゼットって田舎者だしあんまり見栄えもよくないし。
あ、でも、きっぱりジョバンニさんの申し出はお断りしました。やっぱりマゼットがいちばんだと思います。あたし彼と一生添い遂げたいと思ってます。本当です」
*農夫マゼットの証言。「結婚式の日に、新婚の花嫁を寝取られて怒らねえ花婿はいるわけねえ。で、おらは棍棒と銃を用意しただ。あいつを成敗しようとして。ところが、仲間だと思った奴がレポレロに化けたジョバンニの野郎で、おらをボコボコに殴って逃げやがった。ああ、なんてひどい奴だ!。
揚げ句、ドンナ・アンナの嬢さんやオッターヴィオの旦那たちと一緒に、ようやく奴を見つけて捕まえて、思い知らせてやろうと思ったら、今度はそれがジョバンニに化けたレポレロの野郎だっただ。もう、おら何が何だかわからねえ」
*ドンナ・エルヴィーラの証言。「私はドン・ジョバンニの妻なんです。婚姻を交わした正式の妻なんですよ。でも、彼ったら、たった3日で私の元からいなくなって、あちこちで若い娘に手を出してばかりなんです。
やっと会えたと思ったら、結婚したばかりの村娘を口説いているし、むこうから声をかけてくれたと思ったら実は従者のレポレロが彼の服を着てなりすましたんです。要するに召使いの男にあたしを押しつけたんです。ああ、ひどい人。でも、私はあの人を愛しています。どこまでも、あの人を追いかけて放さないつもりです」
■事件4〈ドン・ジョバンニ殺人事件〉。
>被害者:ドン・ジョバンニ氏。加害者:騎士長の石像。
某日夜。ドン・ジョバンニ邸での晩餐が開かれ、召使いたちやエルヴィーラ始め多くの人間が集まる中、突然亡き騎士長の石像(目撃者談)が現われる。そして、氏の悪行を非難したうえで悔い改めるように要求するが、氏は応ぜず、轟音と炎と共に地獄の入口が開き、両者はその中に姿を消す。
*ドンナ・エルヴィーラの証言。「あの夜、私は彼の屋敷に行きました。私の苦しみを伝えに。そして、あの人が私にまだほんの少しでも愛を残してくれているか確かめに。さらには、放蕩三昧の生活を改めてくれるように。でも、あの人には人間の心のかけらもありませんでした。私は絶望して、屋敷を飛び出しました。
その時です。あの恐ろしいものと出会ったのは!。真っ白で巨大で、人の形をしていましたが、人ではありませんでした。私はあまりの恐ろしさに悲鳴をあげ、後ろを振り返ることなく逃げました。」
*従者レポレロの証言。「恐ろしいことです。あの事件の日の夕方、旦那が殺した騎士長の墓のに偶然出くわしたンでさ。その時、旦那が石像に毒づいて、〈今夜の晩餐に招待しよう〉と口走ったところ、なんと石像がうなずいたンです!。ああ、恐ろしいこってす。そして、あの夜、あっしがキジの肉を食べているところに、あの石像が招待に応じてやって来たんです。〈ドン・ジョバンニ。招待を受けてやって来たぞ!〉と地獄の底から聞えてくるような声を上げて!
その後のことは、ああ、思い出してもゾッとする。あっしはすべてを見てました。石像は旦那に〈悔い改めよ〉と何度も叫び、そのたびに旦那は〈いやだ。悔い改めなどするものか!〉と応じて、ああ、素直に謝っちまえばよかったものを。石像は手を差し伸べ、旦那は豪胆にもその手を取って〈なんと冷たい手だ〉と言ったんですが、それが最後の言葉になりました。真っ赤な地獄の扉が開いて、ジョバンニの旦那は石像と一緒にその中に落ちていかれたンでさ。ああ、恐ろしい、恐ろしい」
◆事件の全容
さて、この奇怪な事件について考えてみよう。
事件1の騎士長殺人事件については、被害者:騎士長、加害者:ドン・ジョバンニ、と事実関係は明々白々である。ただし、従者および実娘の証言にもあるように、騎士長は自ら決闘に及んで返り討ちになったのであり、事件としては成立していない。
そして事件2の花嫁拉致事件。これは事件とは言えない。なにしろ貴族が村娘の初夜権を持っていたような時代である。結婚式を挙げた花嫁と花婿を貴族が屋敷に招待して、そのスキに花嫁に手を出したとしても、花婿が気分を害する以外に事件性はないと思われる。
事件3の農夫暴行事件に関しても同様で、騎士階級の者が農夫に手を上げても、事件としては処理されない。むしろ、平民であるマゼットが貴族ジョバンニに暴行を働こうと徒党を組んでいたわけで、逆に殺されたとしても文句は言えないことになる。
しかし、事件4は不可解である。事件1で殺害された騎士長の石像が、ジョバンニ氏の催す夜会に招待客として現われ、彼を殺害(正確には、地獄へ連れ去った)に及んだという目撃者たちの証言は、18世紀の迷信にまみれた時代ならともかく、現実問題としてはありうベからざる非科学的な妄想と言わざるを得ない。
そう。死者の石像が、生きた人間を地獄に連れてゆく…などということは、現実にはありえない。つまり、この事件を現実的に考えるなら、結論はひとつである。
すなわち、ドン・ジョバンニ氏は亡霊ではない生身の人間によって殺害されたのであり、その真犯人が自分の犯行を隠蔽するため、〈ジョバンニ氏は石像によって地獄へ連れ去られたのだ〉という筋書きを仕立て、それを信じさせるに至ったのである。
では、ドン・ジョバンニ氏殺害の真犯人は誰か?
◆容疑者たち
まず《第1の容疑者》は、ドン・ジョバンニに父親を殺された令嬢ドンナ・アンナである。そもそも、すべての事件は、ジョバンニが彼女の父である騎士長を殺害したことに始まる。その結果が、騎士長の娘による復讐だとしても不思議ではない。
しかし、そもそも寝室に知らぬうちに仮面の男が忍び込み、手籠めにされそうになったので拒否し悲鳴を上げた…という彼女の証言は不自然な点が多い。まがりなりにも貴族の、しかも守備警護を仕事とする騎士長(今で言うなら警察署長)の邸宅である。一人暮らしの女性のアパートとは話が違うのだ。そんな家の令嬢の寝室に気付かれずに忍び込んだというのはとても信じがたい。
考えられる理由はひとつ。彼女が手引きをし、警護の者たちや召使いたちを下がらせて部屋で一人ドン・ジョバンニを待ち、コトに及んだのだ。そう考えれは辻褄が合う。では、なぜ彼女は悲鳴を上げ拒否したのか?
おそらく、女なら痩せても太ってても若くても年増でもすべてOK …というのが彼ドン・ジョバンニのポリシーながら、1回コトに及べばその女への興味は失うのが色事師の性。貴族の娘ドンナ・アンナを篭絡して抱いたところで、彼女への愛は終了した。
ところが、彼女の方はそうは行かない。婚約者がいるのに希代の美男ドン・ジョバンニに体を許してしまった。許してしまったからには彼を独占出来ると思っていたら、ジョバンニの方はあっさり「じゃ、そういうことで」と帰ろうとする。これでは何もかも失うことになる。そこで、彼女としては、「知らない男」に「むりやり寝室に押し掛けられた」しかし「悲鳴を上げて拒否した」ため「貞操は無事だった」という筋書きを作ったわけである。
逃げようとする暴漢を追いかけて…というのも話は逆だろう。帰ろうとするジョバンニを「捨てないで」と追いすがっていた、それを物音に気付いた父親の騎士長にとがめられ、とっさに名も顔も知らぬ暴漢ということにした。ところが、そのために父親は「暴漢」を成敗すべく剣を抜き、逆に殺されてしまったわけである。
この、不義密通、父親の死、下手すると婚約解消…という突然降って沸いた危機に、それまで箱入り娘で乳母日傘だった彼女は、「真実を知るドン・ジョバンニ」を消す必要に迫られることになる。
ただ、人一倍世間知らずの彼女が、ひとりで百戦錬磨の仇敵ジョバンニを殺すのは不可能。当然、許嫁であるドン・オッターヴィオをどうけしかけて共犯に巻き込むかが問題になる。
そして、《第2の容疑者》は、このドン・オッターヴィオである。
彼は、令嬢ドンナ・アンナの許嫁だが、彼女と恋愛関係にあるというより、あきらかに父親である騎士長の連れてきた許嫁者である。老練の騎士長のお眼鏡に適って「娘の婿」になったのだから、家柄も育ちもよく女性にも固い世間知らずのいいとこ坊ちゃんであることは想像に難くない。
彼ドン・オッターヴィオの方は上司の令嬢であるドンナ・アンナをひたすら大事にしたいと思っているものの、彼女の方は特に〈男〉を感じていない。そのあたりは、義理の父親が殺されたと聞いて駆けつけても、ちっともドンナ・アンナの方は反応しないことでも分かる。
そんな彼に、令嬢ドンナ・アンナは、事の顛末として「犯人は、何も知らない自分の寝室に忍び込んできて、非道にも無理やり犯そうとし、騒がれて逃げる途中で、父である騎士長を刺し殺して逃げた、極悪非道の大悪人である」…という話を吹き込む。
しかも、「どうして見知らぬ男を寝室に入れたのか?」という花婿の疑問を先取りして、「暗闇だったので、貴方だと思ったのよ」と説明しているあたりのウソのつき方も見逃せない。そして、その非道な男がドン・ジョバンニであることを徐々に臭わせてゆく。
いかに坊ちゃん育ちとは言え、彼がどこまでそんな女性のウソを信じたか不明だが、それでも、この件をなんとかしない限り令嬢ドンナ・アンナの心はどこかに行ってしまっていて、婿入りは無理なのだ。しかも、彼女が「復讐して!」と言うのだから、とにかく犯人に制裁を加えなければ男として面目が立たない。
そして、無事に復讐を果たせば、彼女と結婚し、騎士長の亡き後、令嬢と共に名家は自分の物になる。単なる婚約者のための復讐だけではなく、彼には現実的にドン・ジョバンニを亡き者にすることで利益を得ることになるのだ。殺害の動機としては充分だろう。
そして、ドン・ジョバンニと婚姻を結びながら3日で逃げられた正妻?ドンナ・エルヴィーラも《第3の容疑者》に数えられる。
彼女は、ドン・ジョバンニを追いかけまわし、彼が若い女にちょっかいを出そうとしていると「だまされるんじゃないわよ。その人は悪人よ!」と叫んで邪魔をする。ドン・ジョバンニの方はいささかうんざりして「あの女は気が触れているのだ」と説明するしかない。
ドン・ジョバンニから見れば一種のストーカーのような存在だが、彼女の方から見れば、自分を捨てた憎い男なのにあきらめ切れない…という心を抱え、復讐とも愛の告白とも付かぬ行動に駆り立てられている。
一度は、ドン・ジョバンニが自分の方からやって来て、復縁してくれるかと思ったのも束の間、それが実は身代わりに押し付けられた従者レポレロだと知り、かなり激情する。しかし、「裏切り者!悪党!」と罵りながらも、彼が暴行を受けそうになると「その人は私の夫です。許して下さい」と言っているあたり、心はかなり揺れている。
しかし、そこに殺意が忍び込んでも、彼女の不幸な状況では不思議はないと思われる。
ちなみに、事件の直前にドン・ジョバンニと会い、最後に会話を交わしたのは彼女である。自分の今までの苦しみと思いの丈を伝えるためにジョバンニ邸を訪れるが、彼はまったく心を動かさず、失望して屋敷を去る時に石像と出くわしている。そのタイミングの良さには何か作為を感じざるを得ない。
続く《第4の容疑者》は、農夫マゼットである。なにしろ彼は、結婚したばかりの新妻ツェルリーナを、ドン・ジョバンニに寝取られているのだ。
しかし、ツェルリーナ自身は、これもドンナ・アンナ同様「確かに口説かれて、抱かれてしまいそうになったけど、悲鳴を上げて逃れたの」と説明し、「あたしをぶって」と甘い声でささやいて世間知らずのマゼットをめろめろにして誤魔化すことに成功している。
ところが、その後この花婿マゼットは、村人たちを集めて「あいつに目にもの見せてやる」と棍棒や銃を集めている。これは尋常な反応ではない。農民が徒党を組んで貴族を謀殺などしたら、それこそ死刑に間違いないのだ。にもかかわらず田舎者のマゼットがそこまで激高したのは、花嫁ツェルリーナがジョバンニと密通したという明らかな確信を得てのことだろう。
おそらく、平凡な農夫のマゼットと結婚することになった花嫁ツェルリーナだが、金持ちで美男で貴族のジョバンニから「結婚しよう」と口説かれて、こっちのほうが得かも…という計算が働いたのは想像に難くない。ジョバンニには「あんな田舎者と結婚するのは気が進まない」と体を許して応えつつ、花婿マゼットには「本当に愛してるのはあんたよ」と甘い声で丸め込む。可憐に見えてかなりしたたかな娘と言っていいだろう。
とは言え、いかに田舎者の花婿マゼットでも、花嫁を寝取られたことくらいは分かる。それで「コケにされた」とキレたのが、ジョバンニ謀殺という暴挙への突進だったのだ。しかし、それも戦に長けたジョバンニの前では子供のケンカ。あっさり返り討ちになって暴行を受けている。殺意は充分と言っていいだろう。
そして《第5の容疑者》こそ、誰あろう、従者レポレロである。彼は長年ドン・ジョバンニに従者として仕えているが、旦那が2000人もの女を取っ換え引っ換え抱いているのに対して、そのおこぼれひとつない。そのうえ、不義密通罪・姦通罪・さらに殺人罪の共犯にまでされ、村娘ツェルリーナへの暴行未遂容疑では罪をなすりつけられる始末。彼には「もう付いて行けない」と感じている。
そのあたりの不満を漏らしたところ、ドン・ジョバンニから服を交換して彼になりすまして女性を抱ける機会を与えられるも、結局これは失敗。袋叩きに遭う寸前まで行ってしまう。これはもう、いくらお人好しの従者でも殺意が芽生えても不思議ではない。
実際、ドン・ジョバンニ氏が石像と会話を交わしたこと、石像が招待に応じて夜会にやってきたこと、その結果、石像がジョバンニ氏を殺害したこと、それらすべてを一連の物語として伝えたのは彼にほかならない。「ドン・ジョバンニが石像に連れられて地獄へ落ちた」というのは、彼の証言でのみ語られた「物語」なのである。また、常に彼の近くに仕えている彼には、石像の仕掛けを施すことを含めて殺害するチャンスがもっともある人物ということになる。
最後に《第6の容疑者》として挙げられるのは、村娘ツェルリーナだ。彼女は、この一連の物語の中ではもっとも無害で天真爛漫であり、ドン・ジョバンニから何らの実害も受けていないかのように見える。
もちろん、彼との浮気を花婿マゼットにうすうす気付かれてはいるが、そこに深刻な事態は発生していない。この事件の関係者の中で、唯一犯行の動機があるとは思えない人物である。
しかし、推理小説の基本を思い出してみよう。そう、〈もっとも怪しくない人物が犯人〉なのである(笑)。この法則を鑑みてみれば、該当するのはまさしく彼女ということになる。何かとんでもない〈聞いてビックリの隠された事実〉があるのかも知れない。
例えば、そう。彼女も婚約者マゼットも共にドン・ジョバンニの不義の子で、二人は義理の兄妹だったと知らされてしまったとか…(これは、あり得ないことではない。なにしろ2000人以上の女性を抱いたと豪語するドン・ジョバンニなのだ。近くの村の子供が全員、彼のタネだということだってありそうではないか)。
ちなみに、もう一人、番外としてエルヴィーラの侍女という女性もいるが、彼女が実在するのかどうかは不明である。
物語の後半で、ドン・ジョバンニはこの彼女を口説くため、従者レポレロに自分の扮装をさせてエルヴィーラに押し付け、その隙に密会した(らしい)。しかし、舞台には登場しないので、容疑者と言うよりは、何かのアリバイ工作のために使われた人物なのかも知れない。
◆容疑者たちのアリバイ
…以上、早い話が、死んでしまった騎士長を含めた登場人物ほぼ全員に、彼を殺害する動機があることになる。
となると、事件当日のアリバイがきわめて重要な問題になる。
まず、事件現場にいて一部始終を目撃したと証言しているのは従者レポレロ。ドンナ・エルヴィーラは直前までドン・ジョバンニともめており、屋敷を出る際に石像に出くわして悲鳴を上げ逃げ去っている。
そして、ドン・ジョバンニが殺害された後、司法官を連れて屋敷にやってきたのが、ドンナ・アンナと許嫁ドン・オッターヴィオ、村娘ツェルリーナと花婿マゼット、という2組の男女である。
このうち石像を目撃したのは、レポレロとドンナ・エルヴィーラの2人だが、地獄へ連れて行かれたと証言しているのはレポレロ一人。エルヴィーラは石像を見て逃げ出したため、その後の事件の顛末には立ち会っていない。
そのほかの登場人物は事件当時に屋敷にいなかったが、事件直後に屋敷にそろって現れているところから、事件現場の近くにいたことは間違いない。
ちなみに、令嬢ドンナ・アンナ、その許嫁ドン・オッターヴィオ、正妻ドンナ・エルヴィーラの3人は、ツェルリーナの一件の際に仮面を付けてドン・ジョバンニ宅の舞踏会に訪れていることから、ある種の連帯関係にあったことが伺える。
そして、ドン・ジョバンニが地獄へ落ちた…と聞かされた後の彼らの言動(オペラの終幕)だが、最初に口を開いたドン・オッターヴィオは許嫁であるドンナ・アンナに「天が復讐してくれたのですから、私を悩ませないで(結婚して)ください」と迫っている。
しかし、ドンナ・アンナはそれに対して「心が落ち着くまで1年待って下さい」と答え、彼氏をちょっとガッカリさせている。ただし、これが、父の喪に服すという意味なのか、それともジョバンニの件を引きずってのことなのかは不明。
一方、ドンナ・エルヴィーラは「修道院に行く」と宣言。これも、ドン・ジョバンニに操を立ててのことなのか、あるいはもっと別の意味(例えば罪の意識)があってのことなのかは不明。何しろ、彼女にとってはジョバンニとの一件は生涯付きまとう影のようだ。
それに対して、農夫マゼットと花嫁ツェルリーナのカップルは「さあ、家に帰って、食事をしましょ」と屈託がない。彼らにとっては、まさしくハッピーエンドだったわけだ。
最後に従者のレポレロだが、彼は「もっとマシな主人(勤め先)を見つけよう」と呟いている。地獄に行った主人には、もうまったく未練はないようだ。
さて、これで事件の全容はおわかり頂けたと思う。
以上すべての事実から導き出される
ドン・ジョバンニ殺人事件の真犯人は誰か?
意外な共犯者とその秘められた動機は何か?
220年もの間、誰にも気付かれなかった
驚愕の真相が、今明かされる!
解決編は次回。乞うご期待!
◇歌劇「ドン・ジョバンニ」、近々の上演予定
2006年6月17日・20日・23日、メトロポリタン・オペラ。東京文化会館。
2006年9月30日、10月8日、錦織健プロデュース・オペラ。東京文化会館。