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2007/03/10

手塚治虫とアトムの時代

Top_6 最近流行りの「昭和30年代」。まだ戦争の傷跡が町のあちこちに残り、日本が戦争に負けた「貧乏な二流国」から立ち直ろうと必死だった時代。団塊の世代よりはちょっぴり若い私(1953年。昭和28年生まれ)はこの時代に少年時代を過ごした。  人々は貧乏だったしモノはなかったし町は汚かった。でも、今から思えば、落ちるところまで落ちた日本が、這い上がることだけを思い、上だけを向いていた時代だったように思う。  その頃の子供たちは、町のところどころにある空襲の焼け跡や壁に残る銃弾の穴などを横目で見つつ、「原っぱ」と呼ばれる空き地で日々暗くなるまで、かくれんぼとか鬼ごっことかチャンバラごっことかで遊んでいた。  テレビもインターネットもゲームもない時代には、「想像力」こそが子供にとって最大の遊び道具だった。想像力さえあれば、空き地に積み上げられた土管が「秘密のロケット基地」に、新聞紙を折った兜が「最強のパワードスーツ」に、落ちていた木の枝が「マシンガン」や「天下の名刀」になった。そして狭い路地は「ガンマンたちが集まる西部劇の町」になったし、古びた家は「スリル満点の幽霊屋敷」に、神社の杜は「猛獣が潜む広大なジャングル」になった。世界は自分たちのものだったのだ。  そんな時代だったから、子供はとにかく「なにかを作る」ことに熱中していた。私も、空き缶のフタで忍者の手裏剣、木材の破片から中世の石弓(今で言うボウガン)、花火と配水管で手製ロケットなどを作ったりして遊んでいた。(もっとも、いずれもちょっとアブナイ傾向だったので、やがて大人たちから禁止されてしまったのだが)  そのうちプラモデルというものが登場すると、飛行機や戦車や戦艦や空母や潜水艦などをせっせと組み立て、あるいは電気機器を解体してはラジオとかアンプとか奇妙な機械を作るのに熱中し始める。  家にピアノはあったものの、音楽は「世の中に色々あるもののひとつ」でしかなく、作曲家になる…などとは夢にも思っていなかった。なりたいものと言ったら2つ。  ひとつは科学者。  もうひとつは漫画家だった。  当時はまだ、未来を作るのは「科学」だと信じられていた時代でもあり、男の子としては原子物理や電気工学あるいは天文学やロボット工学などに憧れていた。なにやら素晴らしいことが出来る「機械」を発明し、宇宙のナゾを解き明かし、病気や戦争や犯罪をこの世の中から消し去ること。それが少年の時の夢のすべてだった。  そして、その情報源というのが「少年雑誌」だった。 Syonen 今でこそ、少年誌というとマンガばかりの本を指すが、当時は読み物の方が遥かに多かった。終戦からまだ十数年という時期だったこともあり、戦記物はそれこそ真珠湾攻撃からミッドウェイ海戦、硫黄島、ゼロ戦、戦艦大和などなど、開戦から終戦に到るまでをほぼ1年間で学習することが出来た。  それにくわえて月世界探検や未来世界を描いた「空想科学もの」、探偵や不可思議な事件を描いた「ミステリーもの」、ちょっと怖い「怪談もの」などなどありとあらゆる魅力的な(そして怪しい)情報がそこには詰まっていた。  昭和34年(1959年)に、初の週刊少年漫画誌「少年マガジン」と「少年サンデー」が創刊される。それまでは「少年」(鉄腕アトムが連載されていた雑誌)・「ぼくら」・「冒険王」など月刊誌が主流だったこのジャンルに、新しい「コミックス」の時代が到来した記念すべき年である。  そして、手塚治虫、藤子不二雄、横山光輝、石森章太郎、ちばてつや、赤塚不二夫、白土三平といったキラ星のごとき漫画家たちが名作を続々と書き始める。  ■手塚治虫との出逢い Atomx 私はこの年に小学校に入学した。そして、最初に買った(買ってもらった)単行本が手塚治虫の「鉄腕アトム」(昭和34年。光文社)だった。  当時は「マンガ」というと、あまり子供には読ませたくないモノであり、小学校のPTAからは「子供に漫画を読ませないようにしましょう」などというお達しが来たりしていたのを記憶している。  しかし、私の父親は手塚治虫に関しては無条件にOKを出していた。その理由が「この人は、医学部を出ているから」(彼は旧制の大阪大学医学部卒。アトム連載開始の年には医師免許も取っている)だったのだが、これは私の曽祖父が医者だったせいだろうか。今となって思うと何ともおかしい(笑)。  この頃、手塚治虫31歳。既に少年漫画界では神様のような存在で、高額所得者として話題になったりもしていたので、新聞でもテレビでも顔はよく知られていた。そして、神話となっている「トキワ荘」から出て、結婚のために「渋谷区代々木初台」というところに新居を構えたのがこの年の秋。  場所は、現在は東京オペラシティがある初台の「商店街」の坂からひとつ道をはいった閑静な住宅地。何故そこまで詳しく知っているかというと、実はここは私の小学校の通学路だったからだ。  そんなわけで、小学校1年生であった私は、この天下のスーパースターに興味津々。下校の時など友だちと一緒によく家を覗きに行った。話をしたり家にあがったりすることなど考えられもしなかったが、姿は時おり見かけた。  時には新聞の取材などをやっていることもあって、友だちなどは記者に写真を撮られて「手塚治虫の家を覗きに来る近所の小学生」というような記事にされたこともあったと記憶している。  今では信じられないが、その家は当時は2階から富士山がよく見えたそうで、一方、階段を上がったところに幽霊が出るといういわく付きの家でもあったそうな。しかし、ここに住んでいたのはわずか数ヶ月で、翌年にはアニメのスタジオ(後の虫プロ)を構えるため富士見台に引っ越してしまう。(それが階段の幽霊のせいかどうかは定かでないけれど)  何はともあれ、私の手塚治虫体験はここが原点なのである。 Atombook_1 この時点での私にとっての手塚マンガの代表作はもちろん「鉄腕アトム」である。最初に買ってもらった単行本2冊は宝物だったし、アトム、お茶の水博士、ヒゲオヤジ先生、天馬博士というキャラクターは、現実の人間より(私の中では)存在感を持っていた。  その頃(50年代まで)のアトムは、正義の味方でもヒーローでもなく、学校に通う普通の少年であり、その物語は「ロボットであることの悲しさ」に満ちていた。だから「アトム赤道を行く」「赤いネコ」「ZZZ総統」「電光人間」「ゲルニカ」「アトラス」「ロボット爆弾」「ブラックルックス」など、ちょっぴり暗い「悩めるロボット少年」としてのアトムが描かれたエピソードは、心に染み込んだまま忘れられない余韻を残している。  また、物語を彩る助演俳優たち、例えば「電光人間」の電光、「幽霊製造機」のプラチナ、「ミドロが沼」のコバルト、「アトラス」のアトラス、「十字架島」のプーク、「ブラックルックス」の少年、「イワンのばか」のイワンなども印象的だった。この頃のアトムは「泣かせるキャラクター」のオンパレードだったのだ。  さらに、「電光人間」のスカンク草井、「赤いネコ」の四ツ足教授、「火星探検」のケチャップ大尉、「人工太陽球」のシャーロック・ホームスパン探偵、「透明巨人」の花房理学士などなど、それだけでひとつの別の物語が作れるような名脇役たちも忘れられない。  一方、アトム以外の手塚作品としては、1960年前後に少年サンデーで連載されていた「0マン」「キャプテンKen」「白いパイロット」「勇者ダン」などが、リアルタイムで毎週読んでいたせいか、強烈な印象を残している。ちなみに、最初に自分のお小遣いで買った単行本は「キャプテンKen」だった。  そんなわけで、(アトム以外の)手塚漫画のベストは?と言われたら、私としては「キャプテンKen」「白いパイロット」そして「新撰組」なのである。  ■アニメ「鉄腕アトム」の登場 Atomtv そして1963年(昭和38年)1月1日、日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」が放映される。外国製アニメとしては当時既に、「トムとジェリー」「ヘッケルとジャッケル」「マイティマウス」などが茶の間に流れていたが、漫画で読んでいた主人公がテレビの画面で動くとなるとその衝撃は大きかった。  今でもその瞬間(いとこの家で正月にテレビをつけて一緒に見た)のことを覚えているから、よほど印象的だったのだろう。白黒の画面でぎこちない動き(時々、絵と声が合わなかったりしていた)だったが、とにかく熱狂した。オープニングに流れる「空を越えて〜、ラララ、星の彼方〜」と歌われる主題歌(作曲:高井達雄、作詞:谷川俊太郎。ただし、最初の頃はインストだけで歌詞はなかったと記憶している)は、この時代を生きた人なら知らない人はいないだろう。  しかし、このアニメは原作のアトムとは全く違い、「正義の味方」であり「ヒーロー」である十万馬力のロボットの活躍するファンタジーに変質していた。もちろん、アニメで「悩めるヒーロー」(それが登場するのは15年後の「機動戦士ガンダム」のアムロを待たなければならない)など受け入れられるわけもないから、当然だったのかも知れないが。  逆に、テレビの正義の味方ぶりが原作の漫画の方に伝染して、妹ウランが登場して以降の「アトム」は、やたらと空を飛び十万馬力を駆使し敵をやっつける正義のスーパー少年ロボットになってしまった感がある。  それでも、1960年から64年頃までの作品、「ホットドッグ兵団」「ロボットランド」「アトム対ガロン」「ロボット宇宙艇」「地球最後の日」「地上最大のロボット」などといったエピソードは、子供たちを熱狂させるのに充分なアトムの魅力と、センス・オブ・ワンダーに溢れたストーリーの素晴らしさに満ちあふれていた。  (ちなみに、最強のロボット同士のバトルが人気だった「地上最大のロボット」は、最近、浦沢直樹がリメイク版「PLUTO」を発表し話題になっている)    そして1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催され、日本(東京)は一変する。道路は舗装され、首都高速が頭の上を走り、新幹線が開通し、街はあっという間にキレイになってしまった。「貧乏で汚い二流の都市」だった東京を覚えているのは、たぶん私の世代が最後なのかも知れない。  その頃になると、少年少女マンガで育った第一世代も青年や大人となり、漫画界には「劇画」と呼ばれるリアルなタッチの作品が主流になってゆく。スポーツ根性モノとして一世を風靡した「巨人の星」(1966〜71。川崎のぼる)や「あしたのジョー」(1968〜73。ちばてつや)が社会的事件となったこの時期、単純な正義の味方を貫けなくなった時代の矛盾に巻き込まれたアトムは明らかに失速し始める。  そして、アニメ版のアトムは1966年に放送された最終回(第193話)「地球最大の冒険」で地球を救うため太陽に核爆弾をかかえて突っ込み終了。原作の方も「青騎士」「メラニン一族」「火星から帰ってきた男」などのニヒルで後味の悪いエピソードを残して1968年に掲載紙「少年」の休刊と共に自然消滅してしまう。  私はと言うと、中学時代にはヴェンチャーズやビートルズあるいはウォーカー・ブラザースなどの音楽に熱中し、そして高校に上がった年(1968年)からは、シベリウスの音楽に惹かれて本格的にクラシックの勉強に入り、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会で現代音楽に出逢い、しばらく漫画から離れるようになってしまった。  そして、60年代までは「ワンダー3」「リボンの騎士」「ジャングル大帝」「どろろ」「悟空の大冒険」などヒットアニメを量産して漫画界のトップに君臨していた手塚治虫も、子供向けのテレビ番組では「ウルトラQ」や「ウルトラマン」のような怪獣ものに、そして漫画の方では「劇画」に押されて影が薄くなってゆく。  やがて、アトムが原作・アニメとも終了して70年代に入るとその勢いは衰え、1973年に虫プロダクションが倒産したという報を最後に、一線から退き低迷期を迎えることになる。  その後のことはあまり思い出したくないが(笑)、シベリウスの音楽やプログレッシヴ・ロックやジャズに出逢い、色々あって・・・私は作曲家になった。デビューは1979年。音楽を初めてから10年が経っていた。  ■手塚治虫との再会 Hinotori ふたたび手塚マンガに立ち戻ったのは「火の鳥」という巨作に出逢ってからだ。連載時にリアルタイムで読んだわけではなかったが、ちょうど作曲家としてデビューする前後の1977年頃に5冊ほどを愛蔵版で手に入れて、心の底から驚愕した。  特に「黎明編」(1967)、「未来編」(1967)、「ヤマト編」(1968)、「宇宙編」(1969)、「鳳凰編」(1969)という、アトムの消滅と入れ替えに60年代後半に描かれた連作は、不死の血を持つ永遠の生命である火の鳥をめぐって、神話時代の日本から平安時代、さらにロボット全盛の近未来から地球滅亡の未来に到るまで、過去と未来を交錯させた壮大な物語を描き出した凄まじい名作である。  そこにはまさしく「交響曲」が鳴っていた。もはや「漫画」などではない、壮大な宇宙の叙事詩がそこにはあったのだ。  そして手塚治虫は、70年代後半になって「ブラックジャック」と「三つ目がとおる」でまさしく不死鳥のようなリバイバルを果たし、その圧倒的なストーリー・テラーとしての天才ぶりを世間に見せつける。特に「ブラックジャック」は、毎週毎週よく出来た映画一本分のストーリーを次から次へと繰り出す才能に、だれもが驚嘆した。  80年代になると、漫画界では大友克洋(アキラ)、アニメ界では宮崎駿(風の谷のナウシカ)という才能が「ポスト手塚治虫」としてビッグ・ネームになってゆくが、それでも、成年漫画という新しいジャンルで「陽だまりの樹」や「アドルフに告ぐ」「ネオ・ファウスト」といった大作を発表し続ける手塚治虫の創作意欲はすさまじかった。  その頃「どうしてそんなに寝る間も惜しんで大量に書き続けるのですか?」という質問に、彼はこう答えている。「頭の中にアイデアがバーゲンセールにするほどあるからさ!」  しかし、その壮絶な作家生活の果てに、平成元年(1989年)死去。  60歳と言う若さだった。  日本は、漫画とアニメとロボットという3つの「国技」を生み出した巨大な才能を失った。  ■私の音楽の中のアトム Cd_sym1 その頃から、私の作曲のイメージの中に手塚ワールドのイメージが染み込むようになった。  1990年に書いた「カムイチカプ交響曲」における過去と未来を俯瞰する神の鳥(カムイ・チカプ)はまさしく「火の鳥」のビジョンが元になっているし、1993年のトロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」の冒頭ではTVアニメのアトムのオープニングと同じホールトーン(全音階)のサウンドが鳴り渡る。  そして1997年の「アトム・ハーツ・クラブ・カルテット」という奇妙なタイトルのシリーズは、名前にも「アトム」が登場する。実はこれは、ピンク・フロイドの「原子心母(アトム・ハート・マザー)」のアトムでもあるのだが、第2番ではひそかにアトムのテーマも隠し味のように登場する。  そして、2001年。50年前に「アトムの時代」と夢見ていた遠い未来である「21世紀」がやって来た。残念ながら人の心を持つロボットも、空を飛ぶエアカーも、超小型原子力エンジンもない未来だが、確実に「私たちの21世紀」である。  アトムの物語は、もちろんすべて手塚治虫の空想の世界だが、物語(1966年に書かれた「メラニン一族」のミーバの巻)の中で生みの親の天馬博士がアトムの誕生日を「2003年4月7日」と言っているシーンがある。そこから、誕生年の2003年に合わせて新しいアトムのTVアニメが企画されるという噂が聞こえてきた。  TVアニメ版の「アトム」としては、1963年〜66年に放送された第1作(音楽:高井達雄)、1980年〜81年に放送されたカラー版の第2作(音楽:三枝成彰)に次ぐ、第3作ということになる。 Astroboy この時、思いもかけず「新しく21世紀版としてリニューアルする〈アトム〉の音楽をぜひ」というオファーをいただくことになって、ずっと映画や放送の音楽をまったくやらない「純音楽」の世界にこだわって仕事をしてきた私としては、ちょっと驚いた。  イギリスで録音された私の交響曲(特に第4番)や「アトム・ハーツ・クラブ組曲」(あるいは日頃の言動?)に「手塚治虫ファン」&「アトム好き」の匂い(?)があったのらしい。  アニメの仕事どころか映画やテレビの仕事も未経験(というより避けてきた)だったが、少年時代からのファンであり思い入れの深い「手塚治虫」そして「アトム」と聞いては、断るなどということは微塵も考えられず、一も二もなくOKすることになる。    ただ、当時の私としては「自分はオーケストラの作曲家」であるという自負があったし、手塚治虫がクラシック音楽好きなのも有名な話なので(ムソルグスキーの「展覧会の絵」やチャイコフスキーの交響曲など、多くのクラシック名曲をアニメ化しているし、第1作「アトム」のアトム誕生のシーンでは「運命」が鳴り渡る!)、「音楽はオーケストラで」という条件だけは出させていただいた。  要するに、今回のシリーズで「アトムを通じて子供たちに是非オーケストラ・サウンドを聴いて欲しい!」と目論んだのだわけなのが、嬉しいことに制作側も「音楽はオーケストラで」と意見が一致。冷たくメカニックな未来ではなく、温もりのある「ノスタルジックな未来」を感じさせるサウンドとして、手塚治虫も愛したクラシック音楽のオーケストラが最適ということになった。  余談だが、この時点では、主題歌として耳なじみの「アトムの歌」は、色々な問題(かつて「鉄腕アトム」が「アストロボーイ」としてアメリカなど海外で放送された際の版権の問題など)があって、BGMとしてすら使えるかどうか微妙な状況だった。  おかげで、オープニングとエンディングで流される主題歌に当たる音楽でこのテーマを使うことは断念し、制作会社であるソニー・エンターテインメントのアーティスト、「ZONE」や「藤井フミヤ」によるアトムとはあまり関係のない楽曲が流れることとなった。  御存知のように、最近の番組はほとんど、独自の主題歌やテーマを作らず、関連会社の歌手の新曲をタイアップとして使う。その方が宣伝効果もありCDも売れていいらしいのだが、このあたりの「業界のしがらみ」には失望させられたのも事実である。  (ちなみに、放送の後半では、権利関係がクリアされてなんとか使えるようになり、エンディングでは流せるようになったのだが、時既に遅し…) Astroboycd 一方、劇中の音楽(サウンドトラック)については、丸1年、全50回におよぶ放送の毎週1回1回に違う音楽を作ってつけるわけにも行かないので、まずはフル・オーケストラで「アストロ・ボーイ」「アトムのワルツ」「ウラン」「お茶の水博士」「天馬博士」「地上最大のロボット」「戦闘」「宇宙艇の発進」「悲しみ」「異郷の景色」「大団円」など20曲ほどの主要楽曲を制作することになった。  その後は、回が進むうちにヴァリエーションとして「悲しいアトム」とか「めげているアトム」「嬉しいアトム」「闘うアトム」などのような楽曲注文が来て、順次書き下ろすという形になったのだが、中には、劇中でテレビから流れてくるCMソングとか、登場人物が歌う鼻歌、などというのまであった(笑)。    ちなみに、注文はこんな感じである・・・  M:アトム1(キャラ・モチーフ。戦闘シーンに使用。約4分):冒頭ファンファーレ風に開始。続いて明るく快活なメインモチーフ。全曲を通じ最も印象的に。スペオペ的要素。続いて危機。やや重くなる。必死のアトム。一転して快活な、アップテンポの部分にて終曲。  かくして半年ほどをかけてフル・オーケストラによる20曲ほどを含む100曲近い楽曲を書き下ろし、TVアニメ「アストロボーイ・鉄腕アトム」(監督:小中和哉。制作:手塚プロダクション、ソニー・ピクチャーズ・エンターテインメント。放送:フジテレビ系列)は2003年4月から翌04年3月まで1年間に渡り全50話が放送されることになったのである。  ■アトム・コンサート 2004 少年の頃からの手塚治虫とアトムによせる思いは、アトムの誕生記念のアニメーションにおける音楽を担当する…という形で成就することになった。音楽を長いことやっていると、実に不思議な出逢いがあるものだが、これもそのひとつと言うしかない。  さらなる奇遇として、アトムの育ての親「お茶の水博士」が私と同い年であるというのも、この仕事の最中に知った。2003年4月にアトムが生まれた時に50歳という設定らしいのだが、私も2003年にアトムの音楽を担当した時に50歳。別々の世界の話だが、同い年なのである。  と言うことは、もしかしたら、少年の頃に「科学者になりたい」と思っていた私の、別の姿だったのかも知れない(笑)  ただし、これを機にアニメやテレビの音楽をしようという気はなく、これがこの種の音楽を書く最初で最後の機会であることは譲れなかった。いや、もし手塚治虫氏が生きていたら一度でいい、一緒に仕事をしたかった…とは切に思うけれど。  それでも、放映後、せっかくオーケストラのために書いたこの音楽を、アトムの映像と共に「生のオーケストラ」で子供たちに聴かせてあげられないだろうか、ということからコンサートが制作されたことは、ちょっと楽しい出来事だった。 Qrio 第1回は2004年3月。アトムとお茶の水博士(声の出演)によってオーケストラの楽器が紹介され、巨大なスクリーンに映し出されたアトムの映像を背景にしたフル・オーケストラの世界が多くの子供たちを魅了した。  この時は、現代のアトムというべきロボット「QRIO」がゲストとして登場し、ベートーヴェンの運命を指揮するという歴史的瞬間が話題を集めた。ニュースでも随分紹介されたのでご記憶の方もあるだろうか。  日本の技術者たちが人型ロボットにこだわり、その技術では世界の最高水準なのも、「アトムのようなロボットを作る」という合言葉があったからだという。静かに流れるアトムのテーマに合わせてQRIOが起き上がるシーンは、亡き手塚治虫氏に見せたかったまさに感動の一瞬だった。 Atom また、2005年の愛知万博では、3000人を収容するEXPOドームの巨大なスペースを宇宙船に見立て、宇宙飛行士:毛利衛氏が宇宙の映像と共に登場する演出で会場を沸かせた。   毎回コンサートの最初には「子供たちのための管弦楽入門」(吉松作)という曲で楽器の紹介をし、後半でアトムの映像と共にフル・オーケストラによる組曲を聴き、最後は(その地の小学校に通う)子供たちが大勢登場し、会場のお客さんたちと一緒に「鉄腕アトム」の感動的な大合唱で終わる…という構成も定番となっている。  そして、今年2007年に行われるコンサートでは、最近のクラシック・ブームでTVなどから流れてくる名曲を20曲ほどメドレー風に並べた「コンガラガリアン狂詩曲」、ピアノの300年の歴史を3分で紹介する「ねこふんじゃった変奏曲」(共に、わたくし吉松編曲)、三舩優子さんのピアノによる「ラプソディ・イン・ブルー」が加わり、コンサートを彩ることになっている。  手塚治虫が生んだアトムというキャラクターは、私を含めた数多くの人たちが、少年時代に未来と夢とを象徴する存在として魅せられたように、これからも日本人の心の中に生き続けることだろう。  そして、そこから生まれたささやかなるこのコンサートをきっかけに、新しい21世紀を生きてゆく子供たちが、自分たちの「アトム」を心の中で育ててくれれば、と心から願わずにはいられない。 (付記)冒頭の手塚治虫とアトムの80円切手は、平成9年(1997年)1月に「戦後50年メモリアル」シリーズとして発行されたもの。「私が選んだ懐かしのスター」をテーマに、石原裕次郎、美空ひばりと並んで手塚治虫とアトムが取り上げられた。               * * * ◇アトム・コンサート2007鉄腕アトムと行く!クラシック音楽のステキな世界 ・2007年4月30日(月・祝)11:00/15:00 2回公演。  Bunkamuraオーチャードホール  東京フィルハーモニー交響楽団  指揮:船橋洋介、ピアノ;三舩優子  音楽監督:吉松隆

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