
アストル・ピアソラの音楽を初めて聴いたのは、もう30年以上も前、私がまだ大学2年生だった1973年頃のことだ。
きっかけは高校の時に部活のオーケストラ(慶應高校ワグネル・ソサイエティ・オーケストラ)でヴァイオリンを弾いていた友人のひとりから借りたレコードだった。
そのヴァイオリンの彼は、高校のオーケストラではショスタコーヴィチの交響曲第5番を一緒に演奏した仲だったのだが、大学に上がってからはクラシックから離れ、なぜか「タンゴ研究会」のようなクラブに入ってタンゴの演奏を始めていた。
とは言っても、クラシックのヴァイオリンを弾いていた人間がいきなり即興でタンゴなど弾けるわけもなく、かと言ってタンゴの曲などというのがそうそうスコアになって売っているはずもない。そこで「作曲家を目指しているキミなら、レコードから楽曲をコピーしてスコアに出来るんじゃないか?」と、レコードを持って私のところに頼みに来たようなわけなのである。

しかし、私もさすがにタンゴなど詳しいわけもなく、ヴァイオリンにバンドネオンそれにピアノとギターそしてベースというようなアンサンブルであることもその時に初めて知ったほど。アコーデオンと同じような楽器だと思っていたバンドネオンが、実は鍵盤がなくボタン(しかも特殊な並び方をしている!)で演奏する不可思議な楽器だと知ったのもその頃のことである。
かくして、何枚かタンゴのレコードを渡されて「このアルバムの何番目の曲と、そっちのアルバムの何番目の曲と・・・」というようなリクエストを受けて、耳だけを頼りに採譜してスコアを書くことになった。(もっともその時の曲についてはほとんど記憶がない。「インスピラシオン」とか「ガウチョの嘆き」とかいうタイトルだったと思うが、バンドネオンの即興パートを楽譜にするのが物凄く大変だったことだけは覚えている)
その時、参考にとタンゴのレコードを十何枚か借りて聴いたのだが、所詮タンゴはタンゴ。どれもこれも同じに聴こえてさほどの興味は持てなかった。しかし、その中に一枚だけ強烈に心を惹かれたアルバムがあった。それがアストル・ピアソラの「アディオス・ノニーノ」だった。
中でも標題作の「アディオス・ノニーノ」は、胸を締めつけられるようなメロディと強靱なリズムが圧倒的な感動を生む音楽。一聴して「一体この音楽は何なんだ?」とショックを受け、「ピアソラと言うのは一体何者なんだ?」とすぐさまヴァイオリンの彼を問いただすことになる。

その彼いわく、当時のピアソラはひとことで言えば「タンゴの異端児」。伝統的なタンゴを破壊し、ジャズや現代音楽にかぶれた「タンゴでないタンゴ」をやっている「変人」ということだった。
確かにその音楽には「ジャズ」の要素はあるが、同時にストラヴィンスキーやバルトークのようなクラシック近代音楽の要素もあり、さらにビートルズが確立した「汎世界音楽」としてのロックの影響も組み込まれている。
にもかかわらず鮮烈だったのは、その音楽が「心をかき立てずにはおけないパッション」を確実に持っていることだった。先の「アディオス・ノニーノ」にしても、この作品が1959年に彼の父(ノニーノ)の死の報を聞いた悲しみの中で作られた、というエピソードを知らなくとも、胸を打つその「叫び」のような音楽を感じることが出来る。「すごい」と思った。
ちなみに、1970年代初期のその頃と言えば、ピンク・フロイドやイエスあるいはエマーソン・レイク・アンド・パーマーと言った(ポスト・ビートルズ世代の)ロック・ミュージシャンたちが「プログレッシヴ・ロック」と呼ばれる先鋭的なロックの名作を次々に発表していた時代。
同じ年(1973年)の日本ではデビュー・アルバム「ひこうき雲」を発表した荒井由実(松任谷由実)に代表されるニュー・ミュージックが産声を上げていたし、かく言う私も「朱鷺によせる哀歌」を構想してひそかに調性の復権を狙っていた頃。
つまり、世代(私が20歳になりたてで彼の音楽を知った時、ピアソラは既に52歳)は違うとは言え、「ビートルズに影響を受けて育った新しい世代の音楽」を志す「同志」だったわけなのである。
アストル・ピアソラ。1921年アルゼンチン生まれ。若い頃からバンドネオン奏者として活躍し、20代半ばからは自身の楽団を率い、自作の演奏を中心に活動を始める。一時はタンゴに限界を感じてアルベルト・ヒナステラあるいはナディア・ブーランジェについてクラシックの作曲技法を学んだこともあったが、やはり自分の音楽はタンゴであると確信し、1955年(30代半ば)からは現代的な作風に転じて「ジャズ・タンゴ」あるいは「モダン・タンゴ」を主唱し、名作を続々と発表し始める。
以後、国内盤輸入盤を問わず彼のレコード(当時はLPである)を買い漁った。最初に聴いた60年代のピアソラ五重奏団によるトローバ原盤の「アディオス・ノニーノ」(1969)。次いで、同じ頃の録音による(当時は幻の名盤だった)タンゴ・オペラの傑作「ブエノスアイレスのマリア」(1968)、連作「ブエノスアイレスの四季」の全曲がライヴで聴ける「レジーナ劇場のアストル・ピアソラ」(1970)、「悪魔のロマンス」などの絶品のメロディが聴ける「ニューヨークのアストル・ピアソラ」(1965)。
後年、録音条件の良いレコードやCDが多く発表されるようになったが、いまだに私の中のベストはこの頃(60年代〜70年代初期)の五重奏団による演奏だ。まだ異端児と評されていたこの頃、ピアソラは「私の音楽を分かってくれる人間など世界で一人もいないだろう」と呟いていたと言う。
しかし、にもかかわらずその音楽は限りなく熱く、切々たる存在感を放射している。その力強さと切なさを兼ね備えた演奏は、どんな新録音にも凌駕出来ない品格を持っているように思えてならない。

この時から、私はことあるごとに「ストラヴィンスキー亡き後、現存する最高の作曲家はショスタコーヴィチとアストル・ピアソラである」と言い続けてきた。もっとも、当時は「百歩譲ってショスタコーヴィチはまあいいとして、ピアソラって誰?」と苦笑されるのが関の山だったけれど・・・。
なにしろ70年代当時というのは前衛音楽の最盛期。「調性がある音楽など現代音楽とは言えない」時代であり、マーラーすら「後ろ向きロマン派の最後の末裔」でしかなかった時代。マーラーがブームになりリバイバルを遂げるのは1971年の映画「ベニスに死す」以後何年も経ってからである。
ショスタコーヴィチにしても「前衛の時代にソヴィエトの政府御用達で〈交響曲〉など書いている時代遅れの例外的作曲家」という評価だったほどなのだから何をかいわんや。「ヘンなタンゴ」を書いているバンドネオン演奏家を「現代クラシック音楽の作曲家」に数える人間などどこを探してもいなかった。
この二人が紛う事無き「20世紀後半を代表する大作曲家」と認知されるようになるのは、それから20年ほど経った、1990年代まで待たなければならなかったのである。
それでも、タンゴ界でのピアソラは(知る人ぞ知る)ビッグ・ネームになっていたので、1982年には初来日することになった。その時はもちろん中野サンプラザまで聴きに行った。
とても60歳を迎えた音楽家とは思えない力強い演奏にも驚かされたが、客席に武満徹氏がいたことにもちょっと驚いた。どうやら誰かに奨められたらしく(小室等氏だという話をどこかで聞いた事があるが、定かではない)、前半が終わったところでそそくさと帰ってしまわれたが、新しい音楽を見出す氏のアンテナの鋭さにはちょっと感心してしまった。閑話休題。

やがてクラシック音楽界でもピアソラが(作曲家として)注目を受け始める。そのきっかけは、1990年のクロノス・カルテットと競演したミニ・アルバム「ファイヴ・タンゴ・センセーションズ」あたりからだろうか。
もちろんそれ以前の80年代にも、バンドネオンのための協奏曲とか、フルートとギターによる組曲「タンゴの歴史」とか、ロストロポーヴィチの委嘱で書いた「ル・グラン・タンゴ」など、オーケストラやクラシックの演奏家とのコラボレーションで作曲され話題になった作品も少なくない。しかし、クラシック界から「現代(同時代の)の作曲家」と認知されるようになったのはこの時期、90年代になってからだ。
しかし、まさにブームになりかけた1992年7月4日、ピアソラは死去する。
71歳だった。
その直後から、追悼盤や旧作のCD化などによりピアソラの音楽は広まっていった。そこには「エスニック」と呼ばれる民族音楽系ポップスの流行という背景もあったし、コンピュータによるデジタル・ビートに飽きた人たちが、アナログのリズムに郷愁を見出した点も見逃せない。当然ながらタンゴそのものもかなり注目を受けるようになっていた。
その中から「ピアソラ」という名前が突出したのは、一般の人にとっては1995年のSF映画「12モンキーズ」(ブルース・ウィルス、ブラッド・ピット主演)のテーマで組曲「プンタ・デル・エステ」の一曲が使われたこと、そして1997年のヨー・ヨー・マによる「リベル・タンゴ」のヒットが大きい。

しかし、この時期、「現代の音楽」としてのピアソラの音楽は、「難解な現代音楽」に困り切っていた現代のクラシック演奏家たちの間に確実に広まりつつあった。
1995年には須川展也氏による「カフェ1930」
1996年にはクレーメルによる「ピアソラへのオマージュ」、
1997年にはヨー・ヨー・マによる「プレイズ・ピアソラ」、
1998年にはクレーメルによる「ブエノスアイレスのマリア」、
2000年には「ブエノスアイレスの四季」とヴィヴァルディの「四季」を組み合わせた「エイト・シーズンズ」などなど・・・クラシックの演奏家たちによるピアソラのトリビュート・アルバムが次々に生まれるようになった。
この「ピアソラ・ブーム」の一番のポイントは、彼の音楽はタンゴの楽団だけでなく、様々なクラシックのアンサンブルによって演奏可能だという点だ。
現代音楽は高度の作曲技法を駆使しすぎて、ピアノで書かれたらピアノで、オーケストラで書かれたらオーケストラで演奏する以外に使い道がない。楽器のサウンドや奏法の特殊性に依存しきっているので、その他の楽器で演奏したり違う編成にアレンジしてしまったら、作品として成立しないのである。
しかし、ピアソラの音楽は(彼自身が同じ曲を五重奏団や八重奏団や九重奏団など様々な編成で演奏していたこともあり)、ピアノで弾こうが別の楽器にアレンジしようが基本的に「ピアソラの音楽」でありえる。これは(20世紀以前の音楽では当たり前のことだったが)現代では希有のことと言っていい。
上に挙げたアルバムを見てもそれは明らかだ。サクソフォン(須川展也)でもヴァイオリン(クレーメル)でもチェロ(ヨー・ヨー・マ)でも弾ける現代の音楽などあるだろうか?。
以来、ピアソラの音楽は、ピアノ、フルート、ギター、ヴァイオリン、チェロなどのソロ楽器から、弦楽四重奏や室内アンサンブルにピアノ・デュオ、そしてオーケストラに到るまで多種多様なアレンジを施されて演奏されている。
いや、逆に言えば「多種多様なアレンジが可能」だからこそ、彼の音楽はタンゴと言う枠を超えた「20世紀の音楽」になったと言うことなのだろう。
かくして予言は成就されたのである。

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ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ室内管弦楽団
・マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」
・カンチェリ:リトル・ダネリアーダ(日本初演)
・ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ(アンサンブル版)
・ピアソラ:「ブエノスアイレスの四季」
2007年6月20日(水)7:00pm 東京オペラシティコンサートホール