« ベートーヴェンはどうして交響曲などという代物を9つも書くことになったのか? | トップページ | ケフェウス・ノートへのノート »

2007/08/10

夏休み雑談・作曲家と著作権

5070_2
 今年2007年、シベリウスが没後50年を迎える。生年は1865年だから、マーラー(1860年)やリヒャルト・シュトラウス(1864年)あるいはドビュッシー(1862年)などとほぼ同世代だが、91歳の長寿を得て、亡くなったのは1957年9月20日。今年でちょうど50年めということになる。

 まあ、確かに、生誕100年とか200年というのは、数字の語呂がいいだけの一種のお祭りであると言えなくもない。しかし、この「没後50年」と言うのだけはちょっと違う。単に数の上での記念ということだけではなく、きわめて現実的な問題を秘めているからだ。

     *

 御存知のように、現代における主要な文明国においては、音楽にしろ書物にしろ美術にしろ、作者が存在する著作物にはすべて〈著作権〉というものが存在する。
 つまり、人が作品を作ると作者としての権利が発生し、第三者が複製したり改編したり販売したり二次使用する場合は、必ず著作件所有者の許可あるいは著作権使用料を支払う義務がある。

 しかし、現在の制度では、作者の死後50年(国によっては70年)で、この著作権は消滅する。音楽の場合は、作曲者が死んで50年が経てば、著作権が切れ、作品はパブリック・ドメイン(公有物)になる。
 つまり「没後50年」というのは、「さあ、これからはこの作曲家の作品は使い放題だよ!」という「バーゲンセール(?)」の呼び声を兼ねているわけである。
 
 というわけで、クラシック音楽のほとんど…例えばバッハやモーツァルトやベートーヴェンの作品は(皆さん100年も200年も前に亡くなっていて当然ながら著作権は消滅しているので)コンサートで演奏しても、テレビで放送しても、映画やテレビドラマの背景で流しても、替え歌にしてCMで流しても、ロック風にアレンジしてCDにしても、何の許可も要らないし、お金も払う必要はない。シベリウス師も晴れてその仲間入りをするわけである。嗚呼、可哀想な巨匠たち!
 
(ちなみに、没後50年めの同月同日でいきなり著作権フリーになるわけではなく、その年の12月31日までは使用料が発生し、パブリック・ドメインになるのは翌年の1月1日から。

 また、国によってその制度はまちまちで、保護期間は50年だったり70年だったり(最長は100年)一様でなく、作曲者の国籍以外にも出版社の国籍が関係してくるほか、戦時加算など特例も絡むので、同じ作曲家の作品でも曲によって保護期間が違うことがある。くれぐれも、没後50年たったからと言っていきなり使い勝手にするのではなく、ご利用は著作権協会などに確かめてから)

       *

75_2 ところで、この〈著作権〉というシステム、昔からあったわけではなく、確立したのは19世紀も終わり頃(国際的な取り決めとしてベルヌ条約が締結されたのが、1886年)とのこと。

 ということは、クラシック音楽の主だった作曲家たちが活躍していた時代には、著作権などと言う発想すらなかったわけで、クラシック音楽界の作曲家には、著作権の恩恵を受けた作曲家はほとんどいないと言うことになる。

 しかし、現在では作曲家は、自分が作曲した作品について「権利」が保証され、演奏されたり放送で使用されたりした場合は「使用料」がもらえる規定になっている。

 私も「まだ生きている作曲家」として、この著作権制度の恩恵をこうむっている。作品が演奏されれば、それがどこか遠い外国でも知らない街のコンサートでも小さな放送番組でも、著作権団体が使用料を徴収して、作曲家に分配してくれることになっているからだ。

 ただし、問題もある。

 例えば、オーケストラやピアニストがモーツァルトやショパンやブラームスを弾く場合。楽譜を手に入れさえすれば、その曲をどこでどう演奏しようと録音しようと自由だ。何かの許可を得る必要もなければ、お金を支払う必要もない。どういう演奏をしようと、アレンジしようと、切り貼りしようと、メロディに歌詞を付けて歌おうと、なんの問題もない。

 ところが、著作権が生きている作品を演奏する場合は、その国の著作権団体(日本だとJASRAC)に曲目と演奏時間、コンサートの規模(客数や入場料)などを届け出て、規定の作品使用料を払わなければならない。(アレンジしたり歌詞を付けたりしようとする場合には、作曲家当人あるいは権利所有者の許諾が必要になるが、まあ、それは仕方ないとして…)

 これは、市場の原理からすると、現代の作家にとって不利なシステムとも言える。なぜなら、この構造を逆に見ると、クラシック作品を演奏しても「無料」だし余計な「手間」はいらないのに、新しい作品を演奏しようとすると「有料」でかつ「手間」がかかるということになるからだ。

 これは、演奏する側からすれば、「ペナルティ」を付けられている等しい。なにしろモーツァルトを演奏するのはタダなのに、ヨシマツを演奏しようとすると著作権協会が「お金を払え」と言ってくるのだ。「じゃあ、ヤメタ」という人がいて当然ではないか(笑)

 ただでさえモーツァルトと張り合うのは大変なのに、この「権利」というペナルティは厄介だ。これでは、単純に「権利が保証され、使用料が入ってくる」などと喜んでいるわけには行かない。

(純粋に作曲家サイドから言うなら、クラシックを含めたすべての楽曲に対して使用料を少額ずつ取り、それを「生きている作家」に分配・還元するのが理想なのかも知れない。しかし、現実的な徴収・分配のシステムを考えると絶望的に不可能だと言うことも充分理解出来る。困ったものである)

 この著作権におけるジレンマが、現代音楽をして不毛と矛盾の荒野に追いやる結果になったのではないか、という想像もあながち的外れではないような気がする。

    *

100 そして、死後50年まで権利が有効というのも引っ掛かる。

 死んですぐに著作権が切れないのは、遺族を考慮してのことだと言うが、なにしろ死んでしまっているのだから当人には関係ない。死んだ後で、嫁の親戚とか顔を見たこともない甥や姪に使用料が渡ったとしても、何の意味もないではないか。私なども、別に死んでしまったら使用料ゼロになっても少しも構わないと思う。

 それより、死んでから50年間有効だと言うのなら、その分の使用料を生きている間に「前借り」させて欲しい!(笑)。

 にもかかわらず、どうして最近この権利保護期間を巡って死後50年だ70年だともめているのかと言うと、それは(作家当人とは全く関係なく)ひとえに作品の「権利」を持っている出版社や団体にとって大問題だからだ。

 例えばシベリウスにしても、著作権が生きている間は(おそらく)年間数億円という額の著作権使用料が出版社や権利所有者に入って来る。しかし、それが死後50年を境にいきなり「収入ゼロ」になるのだ。これは死活問題である。

 そこで、作品の権利使用料で多額の収入を得ている団体ほど、著作権問題に口を出し始める。有名なのは、ミッキーマウスなど世界中で膨大に稼ぎまくっているキャラクターを多数持つウォルト・ディズニー社だろう。ディズニーが死んで50年(1966年没だから、2016年)で使用料がゼロになっては大変だから、アメリカにおける保護期間を70年に延長する著作権法改正に尽力したというのは有名な話(そのせいで、この70年制度は「ミッキーマウス法」などと密かに呼ばれているのだとか)。その影響は世界に広がり、次は100年に延長する予定と聞く。

 一方、そこまで自分の著作権が膨大な収益を上げていない作家(それが大多数なのだが)にとっては、著作権が死後に渡ってここまで強力になってしまうと、逆に弊害の方が無視出来なくなる。

 生きている間は(当人が話したりメディアに登場したりするので)名前や作品が知られていても、死んでしまったらどうしても、表舞台から姿を消すゆえに一旦忘れ去られる。しかし、ファンがいれば細々とでもCDや復刊本が出されネットで紹介されたりして生き残り、いつふたたび脚光を浴びるようにならないとも限らない。
 しかし、そこに「著作権」の壁が立ちふさがる。

 有名な作家の作品なら、もちろん権利の所在は明らかだから、新しくCDにしたり本を出したりする場合も問題はない。(「これは儲かる」と誰かが思えば、どんな障害も乗り越えることだろう)。 しかし、そこまで有名でない(そして儲かりそうもない)作家の作品の場合、最大の障害が「著作権」になる。
 なにしろ、当人が死んでしまったら作品の「許可」を得られない上、誰にどう許諾をとっていいのかすら分からない場合が少なくないのだから。

 単純に、出版社に版権が残っていれば問題ないはずなのだが、当人が生きている間ならともかく、死んでもなお延々と作品管理していることはあり得ない。作者の遺族に許諾を得ようとしても、奥さんが再婚していたり子供がいなかったり、遺産をめぐって紛糾している家系だったりすればお手上げである。

 その結果、ごく一部の有名かつ死後も売れ続ける作家の作品以外は、「権利」で保護されているがゆえに「封印」された状態になる。そんな状態が作者の死後50年から70年も続けば、確実に忘却の彼方に消えてしまうだろう。

   *

45 私自身もそういった「著作権の壁」を感じたことが少なからずある。

 例えば、以前、放送などで使われてテープによる音源が残っている現代作品の音源を、シリーズとしてCD化出来ないかと相談した時、言下に「不可能です」と言われて驚いたことがある。
 これはもう作曲家の意向どころの話ではなく、著作隣接権が絡んでくるので、その録音に立ち会った演奏家すべての許諾(CDしても構いませんという一筆)が必要になるというのだ。

 これが、実は簡単ではない。演奏が「なんとか交響楽団」というひとつの場合は、その団体の現在の事務局に連絡をとって一括して許可を貰えば済むが、アンサンブルのように色々な演奏家をかき集めた場合は実に絶望的なのだ。
 例えば、3番ヴィオラの人と連絡が取れない。2番ファゴットの人は15年前に亡くなってしまって遺族がいない。ハープの人は外国に行ってしまって日本に帰ってこない。・・・すべてお手上げだと言う。

 結果、その録音は、どんなに歴史的に重要で音楽的に素晴らしいものであっても、倉庫に死蔵されるしかない。
 しかも、死蔵されている間に、アナログの磁気テープは劣化してゆく。演奏者全員が死んで50年経つまで待っていたら、録音された音は消え、ただのゴミになってしまう可能性が大きい。

 それなら「せめてデジタル化して保存したい」と思うところだが、複製には著作権の壁が立ちふさがる。権利者に無断で勝手にダビング出来ないのである。(そして、その許可を得るためには・・・そう。振り出しに戻るのである)

 (ちなみに、レコード録音の場合は、曲がりなりにも契約書が交わされているので、まだこういうトラブルは少ない。そして、最近はこういうことがないよう、事前に念書を取っておくことが多くなっていると聞く。
 しかし、それも「著作権がうるさい」と知れ渡ってきたここ数年ほどの話。それ以前の録音を救済する手だてはないそうだ)

   *
 
25_2 ごく一部のメジャー作品については(例えば、何度も出て来るミッキーマウスのように)、著作権ゆえに問題が発生すれば「法律の方を変えてしまう」という荒技が出来る。大きな映画会社やプロダクションが関わる商業映画なども、「契約」が前提で出演者やスタッフが集まっているから問題は起きにくい。

 しかし、そこまで行かない中小企業作家の作品や小さなプロダクション制作によるものは、「あまり細かいことは言わない」で作ってきたツケがまわってくることがあるそうだ。 
 例えば、テレビ番組、ドキュメンタリーなどでは、エキストラで集めた助演者や通行人の役者、通りすがりの「おばあちゃん」など、許諾の取りようのない人物が映っているゆえに、優れた作品なのにDVDや再放送やアーカイヴ化が出来ないという泣くに泣けない話を聞いた事がある。

 そのせいなのかどうか、最近のテレビ番組では、なんでもない通行人の談話でも、顔を写さず音声を変えていることが不必要なまでに多い。あれはプライバシー保護の故だろうが、うっかり何とかマウスや何エモンのTシャツでも着ていようものならモザイクが即入れられるのは御存知の通り。

 さらに厳密に言えば、他人を写す場合はその人の肖像権を確認する必要があり、自動車が映っていたらその車のデザイナーの、ビルが映っていたらそのビルの設計者の許可と使用料の支払いが必要になることもあり得るのだそうだ。

 ということは、例えば、「渋谷の雑踏」とか「大勢の人でにぎわうイベント会場」などという写真を撮ろうものなら、そこに映っている全ての人すべての物品の「権利」をクリアにしなければ、新聞にも本にもネットにも公表出来ないことになる。しかし、そんなこと出来っこないではないか。

 音楽の場合、映画やテレビや小説やマンガの中で登場人物が鼻歌を歌ったり口笛を吹いたりしても、音楽著作権協会への届け出と使用料の支払いが必要になるのはもはや常識。俳優が話している後ろで鳴っているラジオやテレビから聴こえてくる音楽も、携帯の着メロやオルゴールのメロディも例外ではないと言う。

 さすがに普通の人がお風呂で鼻歌を歌ったり、自転車を漕ぎながら口笛を吹くのは、「個人の娯楽」の範囲内として、著作権フリーになっているが、そのうち、街でふんふんと鼻歌を歌っても、著作権使用料を徴収される時代が決して来ないとは限らない。

 ・・・と以前、某著作権団体の人に「冗談で」言ったところ、「取れる方法が開発されたら、明日からでも徴収したいですね」とお答えになった。おお、こわ・・・

   *

Money そもそも音楽における「著作権」というのは、ぜんぜんお金にならないクラシックの作曲家(とその遺族)への救済と「創作への励み」を思って始まった制度なのだそうだ。

 確かに、いい作品を書いて、それが多く演奏され後世に残れば、それに見合った収入が得られる、というのは作曲家(とその遺族)にとって素晴らしい「恩恵」には違いない。

 しかし、私自身の個人的な経験から言っても、このシステムには「恩恵」と共に「弊害」や「矛盾」があることは否定できない。

 音楽はそもそも特定の作者の所有物ではなく、過去の音楽家たちから受け継がれ、未来へと引き渡してゆく「人間共通の魂」のようなものだ。その上に個人の意匠をかすかに付加したものが「作品」と称される。

 だから、そのことへの個人的な努力と創意工夫は讚えられたとしても、それに所有権を主張するのは、ちょっと違うような気がしてならない。
 単に「複製を作った場合、課金される」、そして「その金額の一部は作者に還元される」。それだけの制度であるべきなのだ。

 だから、権利の名をまとった「著作権」は両刃の剣になる。
 それに、決して唯一絶対の制度ではないことは肝に銘じなければならない。

 作者と作品が、その創造性にふさわしい代償を受けられ、それによって新たな創造が喚起できれば、本来は「権利」などというものは無くてもいい。もしかしたら、無い方がいいのかも知れないとさえ思う。

 だれも「権利」などと言わず、それでも秩序が保たれる。
 そして、誰もが嬉々として音楽を創り、音楽を享受する。

 そんな時代になれば、と切に思う。


   *

 というわけで、(今年いっぱいは我が国での著作権が存在する)シベリウスのコンサートをひとつ、ご紹介。

渡邉規久雄ピアノ・リサイタル〜シベリウスを弾く
10月13日(土)14:00。東京文化会館小ホール

・6つの小品、10のバガテル、10の小品より
・5つの特徴的な印章op.103
・交響曲第3番(作曲家自身によるピアノ連弾版)
 共演:寺田悦子

|

« ベートーヴェンはどうして交響曲などという代物を9つも書くことになったのか? | トップページ | ケフェウス・ノートへのノート »

2007年記事」カテゴリの記事

コメント

ためになる話だ・・・
現代の音楽や映像作品の現実と言うものは、
こうまで厳しいものだったんですね。
この著作権というシステムは多くの創作されたものを人々の目と耳から隠してしまうと言う点で、結局人間社会の「歴史」から創作を消していってしまうもののように思われます。では代わりに何が残されているのか?僕はそれは結局「カネ」なんだと思います。そもそも、想像の対価として「カネ」が手に入るというその根本的原則からして、僕には納得できない気がします。自分の作った作品が巡り巡っていつか誰かの感性を震わせ、そしてその感動がまた巡り巡って誰かの新たな作品として自分のもとに戻ってくる、というシステムでも十分な気がしませんでしょうか。というかそもそも著作権と銘打って音楽ごときで大儲けしようなんていう発想自体、音楽の本質に合致していないと思います。話が飛びましたが、創作全般の問題として、著作権問題は「真剣に」見直されるべきだと思いました。

投稿: boston | 2007/08/10 22:01

新しく著作権フリー音楽ライブラリーを発売いたしました!
ジャズ生録音から企業VP専用音楽まで幅広くご用意しています。
今までのフリー音楽に満足できなかった方は是非ご利用下さい。

投稿: センターラインレコード | 2007/11/09 13:49

著作権については,法律書などもいろいろ読んで勉強したのですが,どうあるべきかというのは,誰の便益を強調するかによって,いろいろ変わりうるということがわかりました.

よく考えると,個としての人間が,何をどこまで私的な権利として主張できるのかは,著作権に限らず結論は出ないのかもしれません.「権原」の問題というやつですね.結局,社会と個の関係の中で,折り合いをつけるために,時代によって権利は変わらざるえないのでしょう.

投稿: pahud | 2008/07/24 10:36

はじめまして。

「著作権とベーシック・インカム」
ということをテーマにして、
一つのアイディアを書いてみました。
よかったら、読んでみてください。

◆ 亡くなった方の所有する著作権の活用 

投稿: kyunkyun | 2009/07/20 18:32

すみません。。
上の投稿、リンクが上手く貼れなかったので、
この投稿も含めて削除して下さい。

投稿: kyunkyun | 2009/07/22 12:22

◆ リンク補正しました。

*をクリックしてください。

投稿: 管理人 | 2009/07/22 13:52

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ベートーヴェンはどうして交響曲などという代物を9つも書くことになったのか? | トップページ | ケフェウス・ノートへのノート »