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2007/11/10

ボヘミアの森から〜作曲家の原産地

Smedvo_2 クラシックの作曲家には、その国籍(原産地)がつきまとうことが多い。いわく「ポーランドのショパン」「ロシアのチャイコフスキー」「チェコのドヴォルザーク」「フランスのドビュッシー」「フィンランドのシベリウス」。

 しかし、一方で、その出自や立ち位置に悩んだ作曲家も少なくない。例えば、ザルツブルク(オーストリア)で生まれ、イタリアを始めヨーロッパ中をあちこち旅行してまわり、パリやプラハやウィーンでも活躍したモーツァルト。チェコで生まれ、ドイツでキャリアを積み、ウィーンで活躍し、晩年はニューヨークの舞台にも立ったマーラー。ロシアに生まれ、パリ(フランス)でデビューし、アメリカに渡ったストラヴィンスキー。

 もっとも、作曲家でなくても、人間と生まれて自分のアイデンティティ(自分が自分である本質)の所在に悩まなかった者はいないに違いない。

 例えば、私の場合。国籍から言うと「日本人」だが、地球的な見地からすれば「東洋人」であり「アジア人」。人種の系統としては「モンゴリアン」だと思うが、地球的な規模で見れば「人類(ホモ・サピエンス)」。もっと大きく宇宙的な規模で見れば「地球人」ということにでもなるだろうか。

 社会的に見れば、まず「男性」と分類され、ついで職業として「自由業」の中の「作曲家」に属する。その作曲家にしても、世間一般からは「クラシック音楽の作曲家」、クラシック音楽界からは「現代音楽の作曲家」と括られる。

 さらに細かい時代で分ければ昭和20年代生まれの「団塊の世代」よりは少し遅れた「1950年世代」であり、少年〜青年〜中年〜老年というような世代分類だと「中年」に属する。もっとマニアックに分類するなら「ポスト・ビートルズ世代」にして「コミックス&アニメの第1世代」。あるいは「コンピュータ世代」にして「初代おたく世代」?

 さて、自分が作曲家としてアイデンティティを打ち出す場合、このうちのどれを「我が旗」として掲げるべきなのだろう? 日本? 東京? 現代? 男? アジア? 

 ◇作曲家の原産地

Europe クラシック音楽の歴史で、このアイデンティティの問題をまずは地域性として捉えたのが「自分が所属する地の民族性を前面に出した音楽」の作曲家たち、俗に言う「民族主義楽派」と称される巨匠たちだ。

 その第一世代は、19世紀半ばに登場したポーランドのショパン(1810〜1849)、ハンガリーのリスト(1811〜1886)、ロシアのグリンカ(1804〜1857)あたり。いずれも、それまでは(田舎出身ということで)普通は隠すべき自分の生地を明らかにし、それを逆手にとって独自の音楽性を明確に打ち出した先駆者たちである。
 これは言うなれば、自分のお国訛りを前面に押し出して売る…といった感じだから、最初は当然ながら孤軍奮闘を強いられるし、偏見や蔑視に負けない勇気とかなりの根性が必要だったに違いない。

 しかし、時代は徐々にこう言った「民族意識」を歓迎する風潮となり、19世紀後半には、彼らに次ぐ第二世代が続々と登場するようになる。ロシアのチャイコフスキー(1840〜1893)およびロシア五人組、ノルウェーのグリーグ(1843〜1907)、チェコのスメタナ(1824〜1884)とドヴォルザーク(1841〜1904)、フィンランドのシベリウス(1865〜1957)などなどである。

 このあたりが「国民楽派」あるいは「民族主義」の最盛期であり、自国民からもっとも熱狂的に指示され、中央楽壇でも話題の中心となった世代。もはや孤立無援などではなく、作曲家が「オラが国の英雄」として祭り上げられ、国民のヒーローとなりえた(ちょっと羨ましくもある)幸福な時代と言うべきか。

 さらにその後、20世紀を迎えた第三世代としては、ハンガリーのバルトーク(1881〜1945)、スペインのファリャ(1876〜1946)、ブラジルのヴィラ=ロボス(1887〜1959)、アメリカのガーシュウィン(1898〜1937)、ロシアのハチャトリアン(1903〜1978)、我が国の伊福部昭(1914〜2006)、アルゼンチンのピアソラ(1921〜1992)などが挙げられる。

 ただし20世紀ともなると、民族性より国際性が重要視されるようになり、国際人という名の国籍不明人が(そして、現代音楽という名の無調音楽が)世界にはびこり始める。
 かくして現代では、音楽における「民族性」はその精神や歴史をはぎ取られ、単なる「音素材」と化してしまっているというのも…悲しいかな事実なのだが、それはまた別の話。

 ◇チェコとボヘミアとスラヴ

 さて、一口に「自分の所属」とか「アイデンティティ」と言っても、なかなか一つに絞れるものではないのは、最初に述べた通り。民族主義楽派と呼ばれる作曲家たちと言えども、生まれた場所〜育った場所〜活躍した場所〜生活した場所がすべてピタリと一致している…というのは、きわめて稀だ。

 例えば、チェコ(当時はチェコスロバキア)のドヴォルザーク。「チェコの作曲家」であり「ボヘミア楽派」などと呼ばれながら、一躍人気作曲家になったヒット作は「スラヴ舞曲」という曲。交響曲第8番には「イギリス」などという愛称が付いていながら、アメリカがらみの「新世界より」とか弦楽四重奏「アメリカ」なんていう曲もある。

 それぞれが彼のアイデンティティを指し示すものなのにも関わらず、「チェコ」「ボヘミア」「スラヴ」「イギリス」「アメリカ」・・・という(分かったような分からないような)複数の単語が飛び交うのだ。

 ちなみに、交響曲第8番が「イギリス」と呼ばれているのは、単にイギリスで出版されたから来た便宜上の呼称とか。弦楽四重奏曲「アメリカ」や「新世界より」の方は、ドヴォルザークが当時の新天地アメリカの音楽院長として招聘され、そこで作曲した曲の「愛称」。まあ、そのあたりは良しとしよう。

 でも、「チェコ」と「ボヘミア」と「スラヴ」は?

 ◇というわけでチェコの歴史を少し
 
Map01 さて、ここからは少々歴史の話になるけれど、そもそもドヴォルザークが活躍した19世紀末には、まだ「チェコ」という国は存在せず、オーストリーおよびハンガリーそしてチェコスロバキアからルーマニアの一部やアドリア海側のクロアチアに至る一帯は〈オーストリア=ハンガリー帝国〉という国だった(・・・というのはご存知の通り)。

Bomo 当時は、オーストリアの北(現在のチェコ)地方のうち、ドイツに近い(プラハという街があり、モルダウ川が流れる)地「ボヘミア」と、その西の「モラヴィア」と大きくふたつに別れていた。
 ちなみに、その西、ハンガリーに接する地域が「スロバキア」である。

 ドヴォルザークは、この〈ボヘミア〉の生まれだが、ここは昔から、ドイツと密接な関係があり、「ボヘミア風」の音楽はドイツ音楽にも良く登場する。
 ここボヘミアの中心地プラハは当時からヨーロッパ最大の都市のひとつで、文化(音楽)都市としても古くから有名。モーツァルトの交響曲(第38番「プラハ」)にその名が残るほどだし、そもそもモーツァルトが一躍人気作曲家になったのは、この街で上演された「フィガロの結婚」が大当たりを取ったからだ。

 ちなみに、マーラーが生まれたカリシュトという村も、このボヘミアにある。指揮者および作曲家として彼が活動したのはドイツでありウィーンでありニューヨークだったが、原産地はチェコ。「ボヘミアの作曲家」あるいは「チェコの作曲家」と呼ばれていてもおかしくはない出自だ。

Austriahungary ・ここで、蛇足のトリビアその1。1891年に書かれた「シャーロック・ホームズの冒険」の第1話「ボヘミアの醜聞」は、ボヘミア国王(ヴィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモント・フォン・オルムシュタイン。もちろん架空の人物)がホームズに探偵を依頼に来る話。そして、この1891年というのは、ドヴォルザークの所にニューヨークの音楽院の院長に就任しないかという依頼が来た年である。

 ・蛇足のトリビアその2。ボヘミア地方は牧畜が盛んで、そのアウトドア風の服装や生活がドイツで「ボヘミア風」と呼ばれたことから、「ボヘミアン(放浪生活を好む自由人)」という言葉になった。

 一方、スラヴ舞曲の〈スラヴ〉という言葉。これは古代においてロシアから現代のポーランド、チェコ、ブルガリア、クロアチア、セルビアなどを含めた東北ヨーロッパ地域の人種の総称。

 要するに、ドイツ系が「ゲルマン」、イギリス系が「アングロ・サクソン」、我々アジア系が「モンゴロイド」などと呼ばれるようなものか。だから、ロシアもボヘミアも大きく見れば「スラヴ」に属することになる。
 そんな視点から、ロシア生まれのチャイコフスキーが「スラヴ行進曲」を書き、ボヘミア生まれのドヴォルザークが「スラヴ舞曲」を書いたわけだ。

 ・蛇足のトリビアその3。ちなみに、英語の「スレイヴ(slave)」=「奴隷」は、この「スラヴ」が語源なんだそうである。
 ロシア語で「スラーヴァ」が「万歳(あるいは「栄えあれ」)」という意味であるように、もともとは「栄光ある民族」という意味だったらしいが、古代ギリシャやローマ帝国の時代には、スラヴ人たちが戦争に負けて捕虜となり奴隷として扱われていたことから、この不名誉な呼称となったらしい。

 ◇もう少しチェコの歴史を

Czechoslovakia というような話を聞くにつれ、ヨーロッパの歴史にさほど詳しくなくても、昔から北にロシア、西にゲルマン、東にハンガリー、南にローマと四方を囲まれてきた地「チェコ」が、さぞや複雑な歴史に満ちているだろうことは、容易に想像がつく。

 私の学生時代(1968年)にも、ソヴィエト軍(正確にはワルシャワ条約機構軍)の戦車がプラハ市街に進攻し、武力で自由主義運動を鎮圧した「プラハの春」の事件は生々しい記憶として残っている。
 その頃のチェコは〈チェコスロバキア社会主義共和国〉という社会主義国家で、超大国ソヴィエトとは(いわば)主従関係にあった。

 しかも、それ以前の歴史をちょっと紐解いただけでも、19世紀には〈オーストリア=ハンガリー帝国〉、20世紀中盤にはナチスドイツによる〈第三帝国〉の支配を受けている。
 これでは、その「民族意識」の中に、他の国の人間には伺い知れないかなり複雑な感情が入り交じることは想像に難くない。

 (ちなみに、当時〈チェコスロバキア〉と呼ばれていた国は現在はもう存在せず、1993年に分離して〈チェコ共和国〉と〈スロバキア共和国〉になっている。念のため)
 
 ドヴォルザークが生きた時代には、ここまで複雑な「プラハ事件」のようなものは無かった(と思う)が、同じような事件が15世紀頃にもあったことは「歴史は繰り返す」という事例として興味深い。

 フランスとイギリスの間で百年戦争が続いていたこの時代、チェコはドイツのルクセンブルク家の支配下ながら〈ボヘミア王国〉として全盛期を迎え、(何度も言うように)首都プラハは既にヨーロッパの文化芸術の中心地のひとつとなっていた。

Hus とは言え、民衆の間ではドイツ人の支配に反発する意識がくすぶり続けていたようで、15世紀初頭になるとヤン・フスという思想家(プラハ大学の学長)が登場し、教会からドイツ人を追い出すという改革を断行する。
 簡単に言えば「腐敗したカトリック教会を弾劾し、チェコ人によるチェコ人のための宗教改革を推し進めた」わけで、「ドイツやローマからの独立と民主化の運動」ということになるだろうか。

 ところが、フスはローマ・カトリック教会から異端とされ、1414年に火あぶりにされてしまう。そして彼の死後、フスを信奉する人々(ターボル派)はドイツの支配および神聖ローマ帝国に反旗をひるがえして抵抗を続け、幾度か勝利を収めたものの、最終的には弾圧を受け壊滅する。(このあたり、何となく20世紀の「プラハの春」事件を思い起こさせる)。
 そんなわけで、この殉教者「フス」は、民族闘争の原点として、現代でもチェコの国民にとって最大の英雄の一人に数えられていると言う。

 ◇スメタナ「我が祖国」の登場
 
Smetana01 というわけで、この「フス事件」、ドヴォルザークと並んでチェコを代表する作曲家スメタナ(1824〜1884)の名作「我が祖国」の後半2曲で取り上げられている。

 この曲、第2曲「モルダウ」のみが突出して有名だが、スメタナが1874年から79年までの6年間を費やして作曲した畢生の大作「我が祖国」は、チェコの風土と歴史を描いた以下の6曲からなっている。

 1.「高い城」(ヴィシェフラド)(1874)
 2.「モルダウ」(ヴルタヴァ)(1874)
 3.「シャールカ」(1875)
 4.「ボヘミアの牧場と森から」(1875)
 5.「ターボル」(1879)
 6.「ブラニーク」(1879)

 このうち第5曲「ターボル」が、このフス事件を描いた章。ターボルは、フスを信奉する一派の拠点となった街で、そこで抵抗を続けた彼らは〈ターボル派〉と呼ばれる。街は、ボヘミア南部モルダウ川の支流ルジュニツェ川沿いの高台にあり、敵の侵入に備えた一種の砦として都市計画がされていたと言う。
 この街を拠点として神聖ローマ帝国軍と戦った〈フス戦争〉で、ターボル派はヨーロッパで初めて銃および戦車(と言っても馬車)を駆使した戦術によって敵を打ち破ったと伝えられる。それを象徴するように、この曲の中では、フス教徒の聖歌とされる「汝ら、神の戦士たちよ」のメロディが登場する。

Blanik そして終曲(第6曲)「ブラニーク」は、同じくその聖歌をモチーフに、ボヘミアを守る古代の戦士たちが眠る聖地ブラニーク山を描く。
 フス戦争では最終的に敗北を喫したものの、その英霊たちはブラニークの山に眠っていて、祖国の危機の際には必ずよみがえって救ってくれる、という熱き祈りで曲は締めくくられる。
 
 スメタナの命日である5月12日から3週間に渡って開かれる「プラハの春」音楽祭は、毎年この「我が祖国」の演奏で開幕する。それは、この曲が単に「チェコの自然」を描いただけでなく、燃えたぎる「民族の記憶」をそこに組み込んでいるからだろう。
 
 しかし、それは同時に、圧制した側のロシアやドイツ(あるいはローマ・カトリック教会)への強烈な反骨精神がこもっているわけで、世界中のオーケストラがこぞって演奏するには微妙な歴史問題を抱えすぎた作品と言えなくもない。
 (なにしろ、終曲で歌い上げられる「国を守った英霊たちが眠る聖地」というのは、我が国で言うならさしずめ「靖国神社」のようなもの。例えばもし、日本の作曲家がフィナーレで祖国の英霊たちを歌い上げた交響詩「大日本帝国」などという曲を書いたとして、それがいかに名曲であろうとも外国のオーケストラで演奏されるとはとても思えないのだが、どうだろうか?)

 現在オーケストラのコンサートで一般に演奏されるのが(…川の流れる自然の風景を描いた当たり障りのない)第2曲「モルダウ」だけというのも、そうした理由があるのだろう。それでも(それゆえにこそ)、後半2曲から立ち昇る熱気は、歴史の共感をふまえたチェコのオーケストラの独壇場なのだが。

Dvorak01 そして、このスメタナの「我が祖国」全曲が初演された翌1883年、ドヴォルザークも全く同じ題材を扱った劇的序曲「フス教徒」を発表している。それは、まるでスメタナの熱気が伝染したかのようだ。

 さらに84年5月にスメタナが死去すると、ドヴォルザークはその「フス教徒」の素材を使った〈交響曲第7番〉を作曲し、1885年4月に初演する。
 この〈第7番〉、後期の3大交響曲の中では目立たない存在だが、熱き民族意識に燃えたなかなかの力作。例えば「ボヘミア」などという副題を持っていたら、かなり印象の違う名品として聴こえる筈だ。

 この〈第7番〉(1885)の後、イギリスの愛称を持つ〈交響曲第8番〉(1989)が生まれ、さらに交響曲史上最大の人気作のひとつ〈交響曲第9番(新世界から)〉(1893)が生まれ落ちる。
 スメタナの「我が祖国」が登場した年は、ドヴォルザークがチェコの作曲家として目覚めた記念すべき年でもあったわけである。
 

 ◇失ってこその郷愁

 ただ、人が「自分のアイデンティティ」に目覚めるのは、それが「喪失」の危機に瀕した時である、というのも(ちょっと恐ろしいけれど)事実のようだ。

 多くの人にとって、「自分は日本人だ」と強烈に意識するのは、例えば海外に出た時だ。日本という地面から離れた時、初めてその地面の上に立っていた自分を意識する。

 作曲家も、自分の国で自分の国の言葉で囲まれている時は、さほど「自分の国籍」を意識することはない。しかし、一旦外国に出ると「自分は一体何者なのか?」と自問し、そこから「自分の国」を強烈に思い返すことになる。

 ドヴォルザークの場合、もちろん自国にいた時から民族性は充分意識していたにしろ、50歳をすぎて祖国を遠く離れたアメリカに渡り、激しいホームシックにかられた時期に書かれた作品から聴こえる「むせ返るような郷愁に満ちた音楽」は圧倒的だ。

 代表作となった交響曲第9番「新世界から」は、新大陸アメリカを素材としていると言われるものの、そこに聴こえるのは(異国アメリカで故郷ボヘミアを想うドヴォルザーク自身の強烈な「郷愁」だし、そのものズバリの名を持った弦楽四重奏曲「アメリカ」にしても、黒人霊歌風のメロディから聴こえてくるのは、紛れもなくボヘミアへの「ノスタルジー」であり、疾走するリズムの向うに聴こえるのは懐かしい故郷の舞曲のエコーだ。

 そして、とどめの傑作「チェロ協奏曲ロ短調」に至っては、人生そのものへの哀切に満ちた郷愁に満ちている。それは、アメリカ滞在中に、若き日に心を寄せた人の病と死に接したこともあるのだろうか。特に、最終楽章のコーダで、過去をふと回想する絶妙の美しさ!
 
 いや、それでも、異国の地での「ノスタルジー」という程度の喪失感で傑作が書けたドヴォルザークは、きわめて幸福な例と言える。

 例えばショパンは、自国ポーランドへ帰る機会を一生失ってしまった「失意」から、幾多の名曲を書き上げた。マーラーの交響曲にちりばめられたローカルな民謡たちも、生まれ故郷を喪失した「屈折感」から生み出されたものだ。

 そしてスメタナの場合、名作「我が祖国」を書き上げたのは、50歳を過ぎて聴力を失ったことが大きいとされている。実際、「我が祖国」に着手した1874年は、彼の耳が聴こえなくなった年でもある。
 彼は祖国に居ながら音を聴く「自由」を失った。その絶望的な「喪失感」が、強烈な祖国への想いとなってあの名作を書かせたのだろうか。

 人は、失うことで初めて、自分の内にある熱い心に気付く。
 そう思うと、ちょっと怖くもあり、切なくもある。

       *     *     *

Flyerプラハ交響楽団〈オール・チェコ名曲プログラム〉

2008年1月7日(月)19:00 開演 サントリーホール
・スメタナ:交響詩「モルダウ」
・ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(チェロ:趙静)
・ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

2008年1月13日(日)14:00 開演 サントリーホール
・スメタナ:連作交響詩「わが祖国」全曲

指揮:イルジー・コウト
チェロ:趙静(チョウ・チン)

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コメント

 ちょうどこの記事が書かれた頃 プラハにいました
カレル王時代の教会に 散歩の途中訪れたのですが
その間 聞いていたのが プレアデス舞曲集です
たいへんよい時間をすごすことができました
ありがとうございます

投稿: スミーホフ | 2007/11/17 12:00

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