2007/12/10

未完のオペラ補完計画

Opera4 作曲家にとって「交響曲を書く」…というのはかなりの根性と労力を要する力仕事なのだが、おそらく「オペラを書く」と言うのは、それ以上の大仕事に違いない。

 単純に考えても、一晩分の音楽を書かなければならないのだから、時間的には2時間から3時間(下手をすれば4時間以上)。それだけの長さのスコア(総譜)を書くだけでも大変な労力だと想像できるが、さらにそこにはオーケストラだけでなく、複数の「歌手」と「合唱」のパートが加わるのだから大変だ。

 しかも、素材は「音楽」だけではない。原作と台本が必要であり、舞台や衣裳や照明や大道具小道具が必要であり、大劇場と数多くの出演者と大勢のスタッフがからむ。その関係者の総数たるやオーケストラ・コンサートの比ではない。(おそらく数百人に及ぶであろう彼らにいくばくかの報酬が必要であることを考えただけで恐ろしい)。

 オペラと言うのは作曲家一人でどうこうできる代物(音楽作品)ではなく、大勢の人間と莫大な金とを巻き込む「興業」であり「イベント」なのである。

 と、ここまでの想像だけで気が遠くなってしまい、オペラを断念した作曲家も少なくないに違いない(私も今のところ、その一人だし)。そもそも作曲家と言うのはマイペースで協調性がなく、この種の共同作業が苦手なタイプが多いのである。それでも勇気を奮い立たせてオペラ制作に取り掛かったとしても、完成し上演するまでの長い道程の途中でちょっとでも挫折すれば、作品はあっさり「死産」となる。

 純粋に芸術的な理由で「気乗りがしなくなった」ため破棄される場合もあるだろうが、最終的な「興業」に辿り着くまで体力が持たなかったということの方が遥かに多そうだ。あるいは、上演の見込みがなく(経済的な理由で)作曲を断念する場合。そして、悲しいのは、作曲家の死によって未完に終わる場合。

 それゆえ、音楽史には誕生しえなかった「未完のオペラ」があちこちに転がっている。構想はされたが着手されなかったオペラ。スケッチ(ピアノ譜)だけで完成を断念したオペラ。スコアに着手したものの途中で作曲の筆が止まってしまったオペラ。途中まで書き上げたものの死によって永遠に未完となってしまったオペラ。

 そんな「未完のオペラ」に目を向ける前に、そもそも作曲家がオペラを完成させるにはどんな工程を経るのか、ちょっと考えてみよう。

 1.まず台本を確保する。

Bolshoi2 歌の場合は、メロディが先にあってそれに歌詞を付ける…と言うこともあり得るが、オペラではそれは無理。とにかく「台本」がなければどうしようもない。
 劇場が台本作家に台本を書かせ、それを座付きの作曲家に作曲させる…というのが、興業としては一番シンプルで基本的な形だが、作曲家が主導権を握る「正統派オペラ」(?)はそうはいかない。
 まず、原作を見つけ、それを(自分の作曲プランに従って)台本化しなければならない。作曲者に文学的な才能があれば、自分で(あるいは、誰かと相談しながら)台本化するのがもっとも理想的だが、当然ながら(慣れない原稿を書かなければならないため)物凄く時間がかかる。
 それでも、ワーグナーを始め、ロマン派以降の多くの作曲家がこのパターンを取っているのは、台本の構成がそのまま音楽としての構成と密接な繋がりを持ち、言葉を選ぶこと自体が作曲の重要な要素になるからだ。
 とは言え、この段階で数年の年月を必要とすることは、最初から覚悟しておかなければならないだろう。

 2.ピアノ・スコア

 さて、台本が確保できたら、いよいよ作曲にかかる。
 とは言っても、いきなりスコアに音符を書き始める作曲家はまずいない。最初は台本を元に歌のパートを書いてゆくのが自然だ。この場合、伴奏はピアノが順当。オペラ全体をまずはピアノ・スコアとして仕上げるわけだ。
 舞台の構成や演出プラン(場面の数や順番の入れ替えなど)を考えながら、登場人物たちのキャラクター(主人公、ヒロイン、悪役、脇役、群衆や通行人などなど)やアリア、序曲や挿入する舞曲、間奏曲そして終曲などをまとめてゆく。
 音楽が加わることで、台本における説明じみた長いセリフがカットされたり、逆に説明を要するシーンが加わったり、舞台の演出上、重要なシーンが前後を入れ替えられたり、書いている間にいろいろな変更が台本に加わる。(だからこそ、作曲家が台本に加わることが必要になる。他人が書いた台本を一字一句忠実に歌わせるために音楽の方をを妥協するのは、無意味だからだ)

 3.プレゼンテーション

 ところで、オペラの作曲は莫大な手間がかかることは、最初にお話した通り。しかも、作曲している間…おそらく数ヶ月から数年の間は、ほかの仕事ができない。(ほかの仕事をしつつ、片手間にオペラなど書いていたら、何十年かかるか分からないし…)。すると当然ながら、その間は収入が確保できない無収入の状態になる理屈だ。
 そんな代物を、上演のあてもなく(そして完成した暁の収入の予定もなく)無償で書くというのは、ちょっと(いや、かなり)難しい。
 そこで、作曲家の多くは、ピアノスコアを持って劇場やパトロンの所に出向き「こんなオペラを書きましたが、上演して(援助して)くれませんか?」と打診する。自分でピアノを弾きながらアリアを歌い、劇場関係者の前でプレゼンして見せるのは、特に若い作曲家にとって重要な仕事だ。この種の「売り込み」なしに、(膨大な金のかかる)新作オペラをほいほいと上演してくれる場所など、この世にはまず存在しないのだから。

 4.オーケストレイション

 さて、苦労の甲斐あって上演のメドがたったところで、ようやくオーケストレイションに取り掛かる。
 ピアノスコアがしっかり書いてあれば、ここから先はいくぶんルーティン・ワークで仕上げることも不可能ではない。「1日何ページ」とノルマを決め、上演の日程に合わせててきぱきとスコアにしてゆくわけである。(余談だが、ノルマというのはロシア語なのだとか。シベリア抑留帰りの兵隊から日本に伝わったのらしい)。
 とは言っても、オペラのスコアということになると最低でも数百ページ、多い時には千数百ページもになる。いかにルーティン・ワークと言えども数ヶ月、時には数年の歳月を要する。(ここでも、時間、時間である)

 5.リハーサルそして初演

Bolshoi そして、艱難辛苦の末、スコアが仕上がると(劇場での上演が確保されている場合は)、早速オーケストラ用のパート譜が作られ、歌手たちはピアノ・スコアを元にリハーサルを始める。
 ただし、オペラの場合は通常のコンサートなどと違って、すぐ上演…というわけにはいかない。オーケストラのコンサートなら、楽譜を見ながら演奏できるが、オペラでは歌手たちが全てのセリフと歌と演出を記憶しなければならないからだ。
 かくして、歌手たちが全て「暗譜」で歌を覚え、歌いながら演技が出来るようになるまで、綿密な稽古が続けられる。番号付きのアリアが並ぶだけのシンプルな構造のオペラならともかく、ロマン派以降は全編途切れなく音楽が連なるから、覚えるのも大変だ。
 当然ながら、ここでも最低数週間、長ければ数ヶ月の練習期間が必要になる。

 ……まったく、考えただけで大変な作業だ。劇場の座付きで次から次へとベルト・コンベア的に連作する…というのでない限り(全盛期のロッシーニなどは、毎月一作!というテンポで書きまくっていたそうだが)、原作を見つけ〜台本を書き〜ピアノ譜を仕上げ〜最終的なスコアに仕上げる…という工程は、どう少なく見積もっても…やはり数年の歳月を費やさざるを得ない。

 そして、この工程のどこかで躓けば、どんな壮大な構想のオペラでも即おしまいなのだ。(まあ、壮大な構想のオペラほど、挫折することが多いのも事実なのだろうけれど)これでは、あちこちに「未完のオペラ」が転がっているのも無理からぬ話である。

 一方、未完のオペラがあれば、それをどうしても「補完」させて聴いてみたい!と思うのも人情。そんなわけで、音楽史には(お節介な?)「オペラ補完計画」もまた後を絶たない。

           *

Khovanshchina2 ◇ムソルグスキー「ホヴァンシチナ」

 そんなオペラ補完計画をめぐるドタバタ劇で面白い…もとい、興味深いのは、ロシア音楽界最大の天才であり問題児であるムソルグスキーのふたつのオペラ「ボリス・ゴドノフ」と「ホヴァンシチナ」だろう。

 ムソルグスキーが生きた時代…十九世紀半ばのロシアでは、まだ「プロの作曲家」というのは存在せず(最初がたぶんチャイコフスキー)、ムソルグスキーは独学で作曲を学び、職業としては下級官吏としてペテルブルクの役所勤めをしていた「日曜作曲家」。同時代の仲間であるいわゆる「ロシア五人組」(バラキレフ、キュイ、ボロディン、リムスキー・コルサコフ)と、言うなれば同人会のようにして作曲活動をしていたわけだ。

 そのため、モーツァルトやベートーヴェンなどと違って、作品の数は極めて少なくその種類も限定されているのだが、それゆえにこそ(「展覧会の絵」や「禿げ山の一夜」に代表されるような)驚くべき独創的な音楽世界が生まれたのはご存知の通り。
 さらに、数多くの苦難を乗り越えて三十代にしてオペラをひとつ書き上げているのだから凄い。ロシア・オペラの最高傑作と言うべき歌劇「ボリス・ゴドノフ」である。

Boris1 とは言っても、音楽は独学という無名の青年役人が書いたオペラ。上演するのはさぞ大変だったろうと想像する。しかも、このオペラ、彼の美学を反映して徹底的に「群衆」と「男」に偏った世界。おかげで、劇場サイドからは「もっと分かりやすく!」とか「男ばかりでなくヒロインを!」とか「見栄えのする華やかなシーンを!」などと注文を出され、その意見に従って(交響曲におけるブルックナーのように)書き直しを重ねている。

 おかげで異稿が何種類かあるのだが、新しい版がベストと言い切れないのは、改訂の理由を考えれば当然だろう。そのため「オペラとして成功した版」と「ムソルグスキーが本来意図した版」との間には大きな溝が生まれ、(また独学ゆえにオーケストレイションが垢抜けない点も問題となり)死後リムスキー・コルサコフやショスタコーヴィチがオーケストレイションし直したり、構成し直したりと、色々な版で上演されている不思議な作品である。

Mussorgsky1 そして、もうひとつの歌劇「ホヴァンシチナ」は、「ボリス・ゴドノフ」で精妙な歴史劇を成功させた彼が、さらにロシアの群衆と歴史の関わりに切り込んだ全5幕の大作オペラ。しかし、これは構想を大きくしすぎたため実現に時間がかかり、ピアノ・スコアを仕上げている段階でムソルグスキーが1881年に42歳と言う若さで亡くなってしまう。無念としか言いようのない「未完」の顛末である。

 しかし、一応は全容の分かるピアノスコアが残されていたので、彼の死後、リムスキー・コルサコフが補筆して完成したものが、1886年に上演された。オペラ補完計画の成功である。

 ただし、当然ながら「書いていない部分」は想像でつなぎ合わせたもの。特に、オペラの終わり方に関しては、ムソルグスキー自身が楽譜を残していなかったので、終幕で群衆が焔の中で集団焼身自殺をするシーンの後、それをどう収拾付けてオペラの幕を閉じるのか(つまり悲劇的に暗く終わるのか、あるいは希望を匂わせて明るく終わるのか、考えオチのように屈折させて終わるのか)は、論争の種になっている。

 R=コルサコフによる補完版は、ムソルグスキー自身が「終わりはこんな感じ」と話したのを聴いたリムスキー・コルサコフが構成し作曲したものというのだが、「ボリス・ゴドノフ」で主人公ボリスが一人悶死する暗い終幕を描いた「単彩色な悲観主義」のムソルグスキーのセンスと、(シェエラザードや「金鶏」に代表されるような)明るく分かりやすい「色彩的な楽観主義」のR=コルサコフのセンスは、どうも決定的にずれている感がある。

Khovanshchina3 そのため、明るい行進曲で終わるコルサコフ版の最後を挿げ替え、合唱で静かに終わる形にしたストラヴィンスキーによる補筆版(確か、アバドによる演奏がこれ)や、序章の美しい「モスクワ河の夜明け」に回帰して余韻を持って終わるショスタコーヴィチによる新たなオーケストレイション版(1959年ボリショイ劇場による映画版のために制作されたもの)などがある。

 ちなみに、最近DVDにもなったゲルギエフ&マリインスキー劇場盤は、ショスタコーヴィチ版を元にしているものの、冒頭の「モスクワ河の夜明け」への回帰はしない(これは確かに、いかにも映画的な発想かも知れない)…という折衷的な終わり方を採用しているようだ。

 オペラの補完にも色々あるのである。

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Igor2 ◇ボロディン「イーゴリ公」

 そして、ムソルグスキーと同じくロシア五人組の一人であり、彼より6歳ほど先輩の作曲家ボロディンの「イーゴリ公」(このオペラの名は知らなくても、第2幕に登場するあの「ダッタン人の踊り」のメロディは誰でも知っているに違いない)も、実は作曲者が完成を待たずして亡くなった「未完のオペラ」だ。

 彼ボロディンもまた、ムソルグスキーやロシア五人組の仲間と同様プロの作曲家ではなく、職業は「化学者」。その道ではちょっと知られた人物であり(化学反応のひとつに、ボロディン反応と名付けられたものがあるのだそうだ)、当時は軍医の職に就いていたらしい。
 子供のころから音楽をたしなんではいたものの、作曲を正式に学んだことはなく、ちゃんと勉強し始めたのは30代半ば、バラキレフに会ってからと言う。

Borodin1 やがて、五人組の仲間と一緒にオーケストラ曲などを書き始めるのだが、作曲はあくまでも軍医という仕事の休みを利用して…という「日曜作曲家」に徹していたので、作品の数は多くはない。それでも、交響詩「中央アジアの草原にて」や「ノクターン」で有名な弦楽四重奏曲(第2番)、2つの交響曲(3つ目は未完)など、今でも演奏される名曲をいくつも残しているのだから、たいしたものである。

 ただ、さすがにオペラのような大作となると、仕事の合間に書くのは無理だったようで、「イーゴリ公」は30代半ばで構想を始めたものの、仕事の合間にちょっと書いてはちょっと書き直し…ということを続けた揚げ句、そのまま20年近くスコアを抱えることになってしまう。

 もちろん、マイペースで生涯にひとつのオペラを書くことも悪くない選択ではある。しかし、ボロディンは1887年に53歳で急死してしまい、書きかけのスコアだけが残された。「未完のオペラ」の王道パターンである。

 しかし、ここでまた救いの神リムスキー・コルサコフが登場する。全4幕のこのオペラは、彼と弟子のグラズノフによって補作完成され、作曲者の死後3年めの1890年11月にマリインスキー劇場にて無事初演されるのである。

 ちなみにリムスキー・コルサコフも作曲は独学で、職業は海軍の軍人。(ただし、のちにペテルブルク音楽院が開校すると教授になり、「管弦楽法」の大著も残している)。

 この時に上演されたのは(後に出版された楽譜の注釈によると)「リムスキー=コルサコフが序幕と第1・2・4幕、第3幕の「だったん人の行進」の編曲されていなかった所を編曲し、グラズノフはボロディンが残した断片を使って第3幕を構成し作曲し、ボロディンが何度かピアノで弾いた序曲を思い出しながら再構成と作曲をした」もの(と言う)。

 つまり全体のオーケストレイションおよび第3幕はほぼR=コルサコフの作、序曲およびかなりの部分がグラズノフの作…ということになる。そのため(当然ながら)、ムソルグスキーのケースと同じように、その後「ボロディンが本来意図した形」を復元する研究が進み、最近、終幕のエピローグを含め全体の構成にまで手を入れた新しい版が制作されている。

 このあたり、補完計画の難しさ(単に演奏できるようにつなぎ合わせればいい…というわけではないこと)が忍ばれるが、この新版はゲルギエフが上演し、1993年にCD化されている。

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Turandot1 ◇プッチーニ「トゥーランドット」

 ゲルギエフといえば、プッチーニの最後のオペラ「トゥーランドット」も、彼による新しい版の上演がしばらく前に話題になった。この作品、冬季オリンピックで金メダルを取った荒川静香のスケート演技で「誰も寝てはならぬ」のメロディが使われたため、すっかり有名になってしまったが、これも作曲者の死によって書き上げられなかった「未完のオペラ」である。

 ただし、この作品は1924年11月にプッチーニが死去した時点で、全3幕のうち終幕の後半までほとんど完成されていた。つまり、残るは最後のシーンの数十ページのみ、ということだったので、ザンドナーイやアルファーノという次世代のオペラ作曲家が起用されて補筆完成が作られ、作曲家の死後わずか1年めににぎにぎしく披露された。

 しかし、これは結構もめたようで、初演初日で指揮のトスカニーニはプッチーニが書き残した最後の音符のところで音楽を止め、「ここで巨匠は亡くなりました」と舞台で挨拶したというのは有名な話。

 結局、現在では、この時の「アルファーノが補作したものをトスカニーニが編集したもの」…が一般に決定版として上演されている。この版は、冷たく氷のようだったトゥーランドット姫が愛に目覚め、「この人の名は・・・愛!」と叫び、最後は愛の勝利を歌い上げる壮大華麗なフィナーレで幕になる。もっとも、これは第1幕終わりとほぼ同じ音楽を転用していて、ちょっと気になるのも確かだ。

Turandot4 それに対して、最近ルチアノ・ベリオ(現代作曲家)が試みたのは、静かにピアニシモで幕になるバージョン。これはプッチーニの残したピアノ譜から起こしたものだそうだが、当然ながら(少し)現代音楽的な響きがするので、好みは分かれそうだ。(ちなみに、ゲルギエフによる「トゥーランドット」新版はこれ。DVDでも出ているので興味のある方はどうぞ)

 余談だが、終幕でカラフの名を知ったトゥーランドット姫が、殊勝にも愛に目覚めて「この人の・・・名は、愛!」…と歌う能天気なハッピーエンドは、個人的にどうにもしっくり来ない。
 どう考えても、このお姫さまの性格なら、最後は「この人の・・・首を切っておしまい!」と叫んでケラケラ笑うシュールでダークな終幕の方が自然だ。そして、姫が「愛」に目覚めたと見えたのは、実はカラフが首を切られる瞬間に見た幻影・・・という衝撃?のラストはどうだろうか?(笑)

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Lulu1 ◇ベルク「ルル」

 最後にもうひとつ、未完のオペラの補完計画…で忘れられないのが、ベルクの「ルル」だ。

 新ウィーン楽派(シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン)の一人であり、泣く子も黙る「現代音楽」の始祖であるベルクは、現代オペラ最大の傑作「ヴォツェック」を仕上げた後、もうひとつのオペラ「ルル」を構想する。
 共に人名がタイトルで、ヴォツェックが男、ルルは女。しかも、この二人とも、殺人者であるというのが面白い。見事な「ペア」オペラである。

 音楽は当然ながら全編がほぼ十二音(つまり無調)で書かれているのだが、不倫や売春からレズビアンまで登場する「殺人劇」という退廃的で不条理な世界は、まさに無調のトーンこそがうってつけ。現代音楽の「不安な」響きを逆手にとった的確な(これ以上はないと言いたくなるような)題材だ。

 しかし、このオペラもまた(残念なことに)、1936年の初演に向かって作曲の筆を進めていたベルクが、なんとその前年(1935年12月)に50歳の若さで急死し、未完で終わってしまう。

 それでも、全3幕のうち第2幕まではほぼ(オーケストレイションもすべて)完成されていて、「オペラよりの断章」という形で終幕の一部も書き残されていたのは不幸中の幸いと言うべきか。そのため、2幕版での上演やレコード化(LP時代にベームによる名盤があった)も行われていて、私も長いことこの版で聴き親しんでいた。

Lulu2 主人公はチャーミングな悪女ルル。彼女の愛人になった人間は次から次へと死(心臓麻痺や自殺や殺人)に見舞われ、最後には彼女自身も殺人を犯して刑務所にはいる…という凄まじい顛末の後、レズビアン相手の伯爵令嬢の手引きで脱獄する…というのが2幕までの物語。

 ここまででも充分に退廃的…というかTVの2時間サスペンスドラマみたいな展開なのだが、3幕でルルは逃亡先で落ちぶれて売春婦になり、最後は切り裂きジャックに殺されてしまう。おかげで、まだ2幕版しかなかった頃は、想像力をたくましくして「幻の第3幕」を夢見たものである(笑)。

 ところが、1970年代になってフリードリヒ・ツェルハ(現代作曲家)による第3幕の補作版が完成し、1979年に晴れて全3幕が初演された(ブーレーズ指揮、シェロー演出)のは記憶に新しい。(とは言っても、もう30年近く昔の話だが・・・)

 この作品の場合は、全3幕の草稿が一応ざっと残っていて、ベルクの死の直後には未亡人が「1年後の初演予定日までに誰か(シェーンベルクやツェムリンスキーが候補だったそうだ)が補作完成してくれないか」と画策したそうである。しかし、それは叶わず、作曲者の死後44年たってようやく「補完計画」が完了したことになる。

 このツェルハによる補完版も、本来なら多少異論が出ても不思議ではないのだが、現代作曲界のドン「ブーレーズ」とオペラ演出界の鬼才「シェロー」が世に送り出したせいか、今のところ不協和音は聴こえない。もっとも、音楽は不協和音だらけなのですけどね・・・

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 ◇蛇足

 ちなみに、ベルクの師シェーンベルクの「モーゼとアロン」も、最後まで書き上げられなかった未完のオペラ。全3幕のうち最後の3幕が未完のままで、台本の朗読だけで上演される形が定着している。だれか補完しないのだろうか?

 また、シベリウスにも「塔の乙女」、ドビュッシーにも「ロドリーグとシメーヌ」および「アッシャー家の崩壊」という未完のオペラがあり、補作完成したと言う噂を時々聞く。(実は、私も某未完のオペラの補完を打診されたことがある。もちろんお断りしたのだけれど)

 日本では、数年前に武満徹の「書かなかったオペラ」を「想像上演」した舞台が話題になった。想像上演でいいのなら伊福部昭のオペラ「ゴジラ」などと言うのも、ぜひ見てみたいものである。

          *

Khovanshchina

マリインスキー・オペラ日本公演

2008年1月26・27日 東京文化会館
・ムソルグスキー「ホヴァンシチナ」

2008年1月28・29日 東京文化会館
・プロコフィエフ「3つのオレンジの恋」

2008年1月31日/2月2日 東京文化会館
・ロッシーニ「ランスへの旅」

2008年2月1日/2日/3日 NHKホール
・ボロディン「イーゴリ公」

ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ

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2007/11/10

ボヘミアの森から〜作曲家の原産地

Smedvo_2 クラシックの作曲家には、その国籍(原産地)がつきまとうことが多い。いわく「ポーランドのショパン」「ロシアのチャイコフスキー」「チェコのドヴォルザーク」「フランスのドビュッシー」「フィンランドのシベリウス」。

 しかし、一方で、その出自や立ち位置に悩んだ作曲家も少なくない。例えば、ザルツブルク(オーストリア)で生まれ、イタリアを始めヨーロッパ中をあちこち旅行してまわり、パリやプラハやウィーンでも活躍したモーツァルト。チェコで生まれ、ドイツでキャリアを積み、ウィーンで活躍し、晩年はニューヨークの舞台にも立ったマーラー。ロシアに生まれ、パリ(フランス)でデビューし、アメリカに渡ったストラヴィンスキー。

 もっとも、作曲家でなくても、人間と生まれて自分のアイデンティティ(自分が自分である本質)の所在に悩まなかった者はいないに違いない。

 例えば、私の場合。国籍から言うと「日本人」だが、地球的な見地からすれば「東洋人」であり「アジア人」。人種の系統としては「モンゴリアン」だと思うが、地球的な規模で見れば「人類(ホモ・サピエンス)」。もっと大きく宇宙的な規模で見れば「地球人」ということにでもなるだろうか。

 社会的に見れば、まず「男性」と分類され、ついで職業として「自由業」の中の「作曲家」に属する。その作曲家にしても、世間一般からは「クラシック音楽の作曲家」、クラシック音楽界からは「現代音楽の作曲家」と括られる。

 さらに細かい時代で分ければ昭和20年代生まれの「団塊の世代」よりは少し遅れた「1950年世代」であり、少年〜青年〜中年〜老年というような世代分類だと「中年」に属する。もっとマニアックに分類するなら「ポスト・ビートルズ世代」にして「コミックス&アニメの第1世代」。あるいは「コンピュータ世代」にして「初代おたく世代」?

 さて、自分が作曲家としてアイデンティティを打ち出す場合、このうちのどれを「我が旗」として掲げるべきなのだろう? 日本? 東京? 現代? 男? アジア? 

 ◇作曲家の原産地

Europe クラシック音楽の歴史で、このアイデンティティの問題をまずは地域性として捉えたのが「自分が所属する地の民族性を前面に出した音楽」の作曲家たち、俗に言う「民族主義楽派」と称される巨匠たちだ。

 その第一世代は、19世紀半ばに登場したポーランドのショパン(1810〜1849)、ハンガリーのリスト(1811〜1886)、ロシアのグリンカ(1804〜1857)あたり。いずれも、それまでは(田舎出身ということで)普通は隠すべき自分の生地を明らかにし、それを逆手にとって独自の音楽性を明確に打ち出した先駆者たちである。
 これは言うなれば、自分のお国訛りを前面に押し出して売る…といった感じだから、最初は当然ながら孤軍奮闘を強いられるし、偏見や蔑視に負けない勇気とかなりの根性が必要だったに違いない。

 しかし、時代は徐々にこう言った「民族意識」を歓迎する風潮となり、19世紀後半には、彼らに次ぐ第二世代が続々と登場するようになる。ロシアのチャイコフスキー(1840〜1893)およびロシア五人組、ノルウェーのグリーグ(1843〜1907)、チェコのスメタナ(1824〜1884)とドヴォルザーク(1841〜1904)、フィンランドのシベリウス(1865〜1957)などなどである。

 このあたりが「国民楽派」あるいは「民族主義」の最盛期であり、自国民からもっとも熱狂的に指示され、中央楽壇でも話題の中心となった世代。もはや孤立無援などではなく、作曲家が「オラが国の英雄」として祭り上げられ、国民のヒーローとなりえた(ちょっと羨ましくもある)幸福な時代と言うべきか。

 さらにその後、20世紀を迎えた第三世代としては、ハンガリーのバルトーク(1881〜1945)、スペインのファリャ(1876〜1946)、ブラジルのヴィラ=ロボス(1887〜1959)、アメリカのガーシュウィン(1898〜1937)、ロシアのハチャトリアン(1903〜1978)、我が国の伊福部昭(1914〜2006)、アルゼンチンのピアソラ(1921〜1992)などが挙げられる。

 ただし20世紀ともなると、民族性より国際性が重要視されるようになり、国際人という名の国籍不明人が(そして、現代音楽という名の無調音楽が)世界にはびこり始める。
 かくして現代では、音楽における「民族性」はその精神や歴史をはぎ取られ、単なる「音素材」と化してしまっているというのも…悲しいかな事実なのだが、それはまた別の話。

 ◇チェコとボヘミアとスラヴ

 さて、一口に「自分の所属」とか「アイデンティティ」と言っても、なかなか一つに絞れるものではないのは、最初に述べた通り。民族主義楽派と呼ばれる作曲家たちと言えども、生まれた場所〜育った場所〜活躍した場所〜生活した場所がすべてピタリと一致している…というのは、きわめて稀だ。

 例えば、チェコ(当時はチェコスロバキア)のドヴォルザーク。「チェコの作曲家」であり「ボヘミア楽派」などと呼ばれながら、一躍人気作曲家になったヒット作は「スラヴ舞曲」という曲。交響曲第8番には「イギリス」などという愛称が付いていながら、アメリカがらみの「新世界より」とか弦楽四重奏「アメリカ」なんていう曲もある。

 それぞれが彼のアイデンティティを指し示すものなのにも関わらず、「チェコ」「ボヘミア」「スラヴ」「イギリス」「アメリカ」・・・という(分かったような分からないような)複数の単語が飛び交うのだ。

 ちなみに、交響曲第8番が「イギリス」と呼ばれているのは、単にイギリスで出版されたから来た便宜上の呼称とか。弦楽四重奏曲「アメリカ」や「新世界より」の方は、ドヴォルザークが当時の新天地アメリカの音楽院長として招聘され、そこで作曲した曲の「愛称」。まあ、そのあたりは良しとしよう。

 でも、「チェコ」と「ボヘミア」と「スラヴ」は?

 ◇というわけでチェコの歴史を少し
 
Map01 さて、ここからは少々歴史の話になるけれど、そもそもドヴォルザークが活躍した19世紀末には、まだ「チェコ」という国は存在せず、オーストリーおよびハンガリーそしてチェコスロバキアからルーマニアの一部やアドリア海側のクロアチアに至る一帯は〈オーストリア=ハンガリー帝国〉という国だった(・・・というのはご存知の通り)。

Bomo 当時は、オーストリアの北(現在のチェコ)地方のうち、ドイツに近い(プラハという街があり、モルダウ川が流れる)地「ボヘミア」と、その西の「モラヴィア」と大きくふたつに別れていた。
 ちなみに、その西、ハンガリーに接する地域が「スロバキア」である。

 ドヴォルザークは、この〈ボヘミア〉の生まれだが、ここは昔から、ドイツと密接な関係があり、「ボヘミア風」の音楽はドイツ音楽にも良く登場する。
 ここボヘミアの中心地プラハは当時からヨーロッパ最大の都市のひとつで、文化(音楽)都市としても古くから有名。モーツァルトの交響曲(第38番「プラハ」)にその名が残るほどだし、そもそもモーツァルトが一躍人気作曲家になったのは、この街で上演された「フィガロの結婚」が大当たりを取ったからだ。

 ちなみに、マーラーが生まれたカリシュトという村も、このボヘミアにある。指揮者および作曲家として彼が活動したのはドイツでありウィーンでありニューヨークだったが、原産地はチェコ。「ボヘミアの作曲家」あるいは「チェコの作曲家」と呼ばれていてもおかしくはない出自だ。

Austriahungary ・ここで、蛇足のトリビアその1。1891年に書かれた「シャーロック・ホームズの冒険」の第1話「ボヘミアの醜聞」は、ボヘミア国王(ヴィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモント・フォン・オルムシュタイン。もちろん架空の人物)がホームズに探偵を依頼に来る話。そして、この1891年というのは、ドヴォルザークの所にニューヨークの音楽院の院長に就任しないかという依頼が来た年である。

 ・蛇足のトリビアその2。ボヘミア地方は牧畜が盛んで、そのアウトドア風の服装や生活がドイツで「ボヘミア風」と呼ばれたことから、「ボヘミアン(放浪生活を好む自由人)」という言葉になった。

 一方、スラヴ舞曲の〈スラヴ〉という言葉。これは古代においてロシアから現代のポーランド、チェコ、ブルガリア、クロアチア、セルビアなどを含めた東北ヨーロッパ地域の人種の総称。

 要するに、ドイツ系が「ゲルマン」、イギリス系が「アングロ・サクソン」、我々アジア系が「モンゴロイド」などと呼ばれるようなものか。だから、ロシアもボヘミアも大きく見れば「スラヴ」に属することになる。
 そんな視点から、ロシア生まれのチャイコフスキーが「スラヴ行進曲」を書き、ボヘミア生まれのドヴォルザークが「スラヴ舞曲」を書いたわけだ。

 ・蛇足のトリビアその3。ちなみに、英語の「スレイヴ(slave)」=「奴隷」は、この「スラヴ」が語源なんだそうである。
 ロシア語で「スラーヴァ」が「万歳(あるいは「栄えあれ」)」という意味であるように、もともとは「栄光ある民族」という意味だったらしいが、古代ギリシャやローマ帝国の時代には、スラヴ人たちが戦争に負けて捕虜となり奴隷として扱われていたことから、この不名誉な呼称となったらしい。

 ◇もう少しチェコの歴史を

Czechoslovakia というような話を聞くにつれ、ヨーロッパの歴史にさほど詳しくなくても、昔から北にロシア、西にゲルマン、東にハンガリー、南にローマと四方を囲まれてきた地「チェコ」が、さぞや複雑な歴史に満ちているだろうことは、容易に想像がつく。

 私の学生時代(1968年)にも、ソヴィエト軍(正確にはワルシャワ条約機構軍)の戦車がプラハ市街に進攻し、武力で自由主義運動を鎮圧した「プラハの春」の事件は生々しい記憶として残っている。
 その頃のチェコは〈チェコスロバキア社会主義共和国〉という社会主義国家で、超大国ソヴィエトとは(いわば)主従関係にあった。

 しかも、それ以前の歴史をちょっと紐解いただけでも、19世紀には〈オーストリア=ハンガリー帝国〉、20世紀中盤にはナチスドイツによる〈第三帝国〉の支配を受けている。
 これでは、その「民族意識」の中に、他の国の人間には伺い知れないかなり複雑な感情が入り交じることは想像に難くない。

 (ちなみに、当時〈チェコスロバキア〉と呼ばれていた国は現在はもう存在せず、1993年に分離して〈チェコ共和国〉と〈スロバキア共和国〉になっている。念のため)
 
 ドヴォルザークが生きた時代には、ここまで複雑な「プラハ事件」のようなものは無かった(と思う)が、同じような事件が15世紀頃にもあったことは「歴史は繰り返す」という事例として興味深い。

 フランスとイギリスの間で百年戦争が続いていたこの時代、チェコはドイツのルクセンブルク家の支配下ながら〈ボヘミア王国〉として全盛期を迎え、(何度も言うように)首都プラハは既にヨーロッパの文化芸術の中心地のひとつとなっていた。

Hus とは言え、民衆の間ではドイツ人の支配に反発する意識がくすぶり続けていたようで、15世紀初頭になるとヤン・フスという思想家(プラハ大学の学長)が登場し、教会からドイツ人を追い出すという改革を断行する。
 簡単に言えば「腐敗したカトリック教会を弾劾し、チェコ人によるチェコ人のための宗教改革を推し進めた」わけで、「ドイツやローマからの独立と民主化の運動」ということになるだろうか。

 ところが、フスはローマ・カトリック教会から異端とされ、1414年に火あぶりにされてしまう。そして彼の死後、フスを信奉する人々(ターボル派)はドイツの支配および神聖ローマ帝国に反旗をひるがえして抵抗を続け、幾度か勝利を収めたものの、最終的には弾圧を受け壊滅する。(このあたり、何となく20世紀の「プラハの春」事件を思い起こさせる)。
 そんなわけで、この殉教者「フス」は、民族闘争の原点として、現代でもチェコの国民にとって最大の英雄の一人に数えられていると言う。

 ◇スメタナ「我が祖国」の登場
 
Smetana01 というわけで、この「フス事件」、ドヴォルザークと並んでチェコを代表する作曲家スメタナ(1824〜1884)の名作「我が祖国」の後半2曲で取り上げられている。

 この曲、第2曲「モルダウ」のみが突出して有名だが、スメタナが1874年から79年までの6年間を費やして作曲した畢生の大作「我が祖国」は、チェコの風土と歴史を描いた以下の6曲からなっている。

 1.「高い城」(ヴィシェフラド)(1874)
 2.「モルダウ」(ヴルタヴァ)(1874)
 3.「シャールカ」(1875)
 4.「ボヘミアの牧場と森から」(1875)
 5.「ターボル」(1879)
 6.「ブラニーク」(1879)

 このうち第5曲「ターボル」が、このフス事件を描いた章。ターボルは、フスを信奉する一派の拠点となった街で、そこで抵抗を続けた彼らは〈ターボル派〉と呼ばれる。街は、ボヘミア南部モルダウ川の支流ルジュニツェ川沿いの高台にあり、敵の侵入に備えた一種の砦として都市計画がされていたと言う。
 この街を拠点として神聖ローマ帝国軍と戦った〈フス戦争〉で、ターボル派はヨーロッパで初めて銃および戦車(と言っても馬車)を駆使した戦術によって敵を打ち破ったと伝えられる。それを象徴するように、この曲の中では、フス教徒の聖歌とされる「汝ら、神の戦士たちよ」のメロディが登場する。

Blanik そして終曲(第6曲)「ブラニーク」は、同じくその聖歌をモチーフに、ボヘミアを守る古代の戦士たちが眠る聖地ブラニーク山を描く。
 フス戦争では最終的に敗北を喫したものの、その英霊たちはブラニークの山に眠っていて、祖国の危機の際には必ずよみがえって救ってくれる、という熱き祈りで曲は締めくくられる。
 
 スメタナの命日である5月12日から3週間に渡って開かれる「プラハの春」音楽祭は、毎年この「我が祖国」の演奏で開幕する。それは、この曲が単に「チェコの自然」を描いただけでなく、燃えたぎる「民族の記憶」をそこに組み込んでいるからだろう。
 
 しかし、それは同時に、圧制した側のロシアやドイツ(あるいはローマ・カトリック教会)への強烈な反骨精神がこもっているわけで、世界中のオーケストラがこぞって演奏するには微妙な歴史問題を抱えすぎた作品と言えなくもない。
 (なにしろ、終曲で歌い上げられる「国を守った英霊たちが眠る聖地」というのは、我が国で言うならさしずめ「靖国神社」のようなもの。例えばもし、日本の作曲家がフィナーレで祖国の英霊たちを歌い上げた交響詩「大日本帝国」などという曲を書いたとして、それがいかに名曲であろうとも外国のオーケストラで演奏されるとはとても思えないのだが、どうだろうか?)

 現在オーケストラのコンサートで一般に演奏されるのが(…川の流れる自然の風景を描いた当たり障りのない)第2曲「モルダウ」だけというのも、そうした理由があるのだろう。それでも(それゆえにこそ)、後半2曲から立ち昇る熱気は、歴史の共感をふまえたチェコのオーケストラの独壇場なのだが。

Dvorak01 そして、このスメタナの「我が祖国」全曲が初演された翌1883年、ドヴォルザークも全く同じ題材を扱った劇的序曲「フス教徒」を発表している。それは、まるでスメタナの熱気が伝染したかのようだ。

 さらに84年5月にスメタナが死去すると、ドヴォルザークはその「フス教徒」の素材を使った〈交響曲第7番〉を作曲し、1885年4月に初演する。
 この〈第7番〉、後期の3大交響曲の中では目立たない存在だが、熱き民族意識に燃えたなかなかの力作。例えば「ボヘミア」などという副題を持っていたら、かなり印象の違う名品として聴こえる筈だ。

 この〈第7番〉(1885)の後、イギリスの愛称を持つ〈交響曲第8番〉(1989)が生まれ、さらに交響曲史上最大の人気作のひとつ〈交響曲第9番(新世界から)〉(1893)が生まれ落ちる。
 スメタナの「我が祖国」が登場した年は、ドヴォルザークがチェコの作曲家として目覚めた記念すべき年でもあったわけである。
 

 ◇失ってこその郷愁

 ただ、人が「自分のアイデンティティ」に目覚めるのは、それが「喪失」の危機に瀕した時である、というのも(ちょっと恐ろしいけれど)事実のようだ。

 多くの人にとって、「自分は日本人だ」と強烈に意識するのは、例えば海外に出た時だ。日本という地面から離れた時、初めてその地面の上に立っていた自分を意識する。

 作曲家も、自分の国で自分の国の言葉で囲まれている時は、さほど「自分の国籍」を意識することはない。しかし、一旦外国に出ると「自分は一体何者なのか?」と自問し、そこから「自分の国」を強烈に思い返すことになる。

 ドヴォルザークの場合、もちろん自国にいた時から民族性は充分意識していたにしろ、50歳をすぎて祖国を遠く離れたアメリカに渡り、激しいホームシックにかられた時期に書かれた作品から聴こえる「むせ返るような郷愁に満ちた音楽」は圧倒的だ。

 代表作となった交響曲第9番「新世界から」は、新大陸アメリカを素材としていると言われるものの、そこに聴こえるのは(異国アメリカで故郷ボヘミアを想うドヴォルザーク自身の強烈な「郷愁」だし、そのものズバリの名を持った弦楽四重奏曲「アメリカ」にしても、黒人霊歌風のメロディから聴こえてくるのは、紛れもなくボヘミアへの「ノスタルジー」であり、疾走するリズムの向うに聴こえるのは懐かしい故郷の舞曲のエコーだ。

 そして、とどめの傑作「チェロ協奏曲ロ短調」に至っては、人生そのものへの哀切に満ちた郷愁に満ちている。それは、アメリカ滞在中に、若き日に心を寄せた人の病と死に接したこともあるのだろうか。特に、最終楽章のコーダで、過去をふと回想する絶妙の美しさ!
 
 いや、それでも、異国の地での「ノスタルジー」という程度の喪失感で傑作が書けたドヴォルザークは、きわめて幸福な例と言える。

 例えばショパンは、自国ポーランドへ帰る機会を一生失ってしまった「失意」から、幾多の名曲を書き上げた。マーラーの交響曲にちりばめられたローカルな民謡たちも、生まれ故郷を喪失した「屈折感」から生み出されたものだ。

 そしてスメタナの場合、名作「我が祖国」を書き上げたのは、50歳を過ぎて聴力を失ったことが大きいとされている。実際、「我が祖国」に着手した1874年は、彼の耳が聴こえなくなった年でもある。
 彼は祖国に居ながら音を聴く「自由」を失った。その絶望的な「喪失感」が、強烈な祖国への想いとなってあの名作を書かせたのだろうか。

 人は、失うことで初めて、自分の内にある熱い心に気付く。
 そう思うと、ちょっと怖くもあり、切なくもある。

       *     *     *

Flyerプラハ交響楽団〈オール・チェコ名曲プログラム〉

2008年1月7日(月)19:00 開演 サントリーホール
・スメタナ:交響詩「モルダウ」
・ドヴォルザーク:チェロ協奏曲(チェロ:趙静)
・ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

2008年1月13日(日)14:00 開演 サントリーホール
・スメタナ:連作交響詩「わが祖国」全曲

指揮:イルジー・コウト
チェロ:趙静(チョウ・チン)

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2007/10/10

ロシア音楽の楽しみ

Russian 私にとって〈クラシック音楽との衝撃の出会い〉は(ご多分に漏れず)ベートーヴェンの交響曲だった。高校受験シーズン真っ盛りの中学三年の冬のことになる。
 そこからクラシック音楽の世界にディープにのめり込み、「自分もこういう音楽(交響曲)を書いてみたい」と思うことから作曲家を志すに至った・・・

 ・・・わけなのだが、その理想とする音楽の形がベートーヴェンだったのかと言うと・・・それに関しては「どうも、ちょっと違う」というのが正直な印象だった。

 確かにインパクトとかアピール度は抜群だし、圧倒的な内容を持っている。ポップスや歌謡曲などの大衆音楽との決定的な格差としての「芸術性」も文句がない。

 ただ、20世紀の日本に生まれた「自分」にとってしっくりくるか?、あるいは自分のDNAに近いものを感じるか?という点になると・・・、既にポップスや歌謡曲やロックなど雑多な音楽を聴いてしまった耳には、どこか違和感を拭いきれない気がしたわけなのだ。

 ◆チャイコフスキー(1840-1893)

Tchaikovsky その後、高校に上がってから、野に解き放たれた野獣のごとく、歯止めなしにクラシック音楽を聴き始め、高校の音楽室、図書館、楽譜店、父の書斎などなどで、手当たり次第にLPを聴き音楽書を読み楽譜を読みあさった。
 そして、ベートーヴェン〜シューベルト〜ベルリオーズ〜ブラームス〜ドヴォルザーク・・・などなどと交響曲つながりで聴いてきて、なんとなく方向性が分かりかけてきた頃、自分の血に共鳴する何かを感じて「これだ!」と思った音楽があった。

 それがチャイコフスキーだった。

 最初に気に入ったのは第5番の交響曲だ。その頃、高校に上がって学内オーケストラでファゴットを吹き始めていたので、冒頭からファゴットが主旋律を吹く!ということに、まず惹かれたせいもあるのかも知れない。

 次いで、チャイコフスキーにおける「運命」交響曲というべき第4番、さらに(ある意味で史上最強の交響曲である)名作第6番「悲愴」。
 さらに、後期の3大交響曲の破壊力には及ばないものの、ロシア的な風土の香りがするという点では第1番「冬の日の幻想」、第2番「小ロシア」の魅力も捨てがたい。

 そこには、ベートーヴェンのような「ドイツ系」にはない独特の哀愁、文学青年っぽい悩めるポーズ、激高したかと思うとズーンと落ち込む(分かりやすい)感情表現、ロックに通じるようなビート感とスピード感があった。

 さらに、悲しければ泣く、嬉しければ笑う、憤れば怒る、楽しければ踊り出す、というストレートな感情表現にも惹かれた。メロディを朗々と歌う、リズムを激しく打ち出す、感情の起伏を表現する、そういったことに微塵も照れや躊躇がない。

 しかも、それが安っぽい描写に陥らず、ぎりぎり「交響曲」という純音楽的な形式の中で「知的なドラマの力学」を形作っている。そのバランスが見事だった。「もし自分が交響曲を書くとしたら」、それはチャイコフスキーの延長線上にある音楽でありたい。そう思った。

 そんなわけで、高校1年の時の私のアイドルはチャイコフスキー。定期入れに写真まで入れて、肌身離さず持っていた(笑)
 
 
 ◆ストラヴィンスキー(1882-1971)

Stravinsky こうして「クラシック音楽=交響曲」という入口から入ってすぐチャイコフスキーに出会い、さらにその延長線上に(同じ「北」つながりということもあって)シベリウスの後期の交響曲に魅せられ始めた頃、次の段階として「作曲」のテクニックとしての「オーケストレイション(管弦楽法)」に視線が向き始めた。

 作曲を志す徒としては、当然オーケストラ作品のスコアは手当たり次第&片っ端から読みあさり買い漁っていた(高校の音楽室と図書館そして渋谷および銀座のヤマハの楽譜棚に並ぶすべてのスコアが参考書だった)のだが、そのうち、音楽本体とは別に「サウンド」そのものに魅せられる作品があることに気付き始める。
 要するに「一体、どういう音符の書き方をすると、こういうサウンドが出せるのか?」という職人的な興味がふつふつと湧き上がったわけである。

 この「オーケストレイション」そのものに圧倒的な衝撃を受けたのが、(これもご多分に漏れず)ストラヴィンスキーの「春の祭典」だった。

 もちろんそれまでも「管弦楽法」の類いは何冊も(伊福部昭、G.ジェイコブス、W.ピストン、ベルリオーズなど)目を通していたが、一冊のスコアそのものがオーケストレイションの教科書と化しているような異様な作品との出会いは、この「春の祭典」のスコアが最初である。

 もっとも、正直に告白すると、この曲、音を聴いた途端は「よく分からない」作品だった。耳の分解能を越えたそのサウンドは、カオス(混乱)でしかないようにも思えたからだ。
 それでもLPで作品を聴いた翌日スコアを手に入れ、その精密な設計図のような音符の群に圧倒された。そこには、まるで楽器法のカタログでもあるかのように、ありとあらゆる奏法がちりばめられていた。これはなかなか衝撃的だった。

 そこで、すぐさまストラヴィンスキーのほかの作品のスコアを漁ることになった。「火の鳥」「ペトルーシュカ」そして「兵士の物語」・・・。

 新しい音楽語法の面白さとしては、ポリリズムが全開の「ペトルーシュカ」に軍配が上がる。でも、スコアとしての情報量が凄いのは何と言っても「火の鳥」の初演版(後に2管編成に編曲し直した1919年の組曲版ではなく、4管フル編成の1910年全曲版)だ。

 そこには、「春の祭典」のような人を驚かせるような力技(人間の思考の限界を超えた複雑な書式)はないが、精緻に織られたタペストリーのような美しさに満ちている。特に木管や弦楽器の細かいパッセージが、まるで縦糸と横糸の織りなす模様のように交差しあい、千変万化の色彩を生み出す見事さは、ちょっと圧巻だ。

 ◆リムスキー・コルサコフ(1844-1908)とムソルグスキー(1839-1881)

Rkorsakof この「火の鳥」のオーケストレイションの原点が、ストラヴィンスキーの師匠であるリムスキー・コルサコフである。

 音楽家というよりは学者タイプの彼は、本来プロの作曲家ではなく、海軍の士官。(この時代のロシアの作曲家は、ムソルグスキーにしろボロディンにしろ、みんな別の職業を持っていた。プロの作曲家として初めて登場したのがチャイコフスキーである。念のため)。

 作曲は独学だが、千一夜物語が題材の「シェエラザード」や、「皇帝サルタンの物語」「雪娘」「サトコ」「見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語」 「金鶏」といったオペラなどなど、金銀宝石で飾られた魔法のおとぎ話の世界を描かせたら、この人の右に出る者はいない。
 単にピアノで作曲された音楽をオーケストラに移し替えすのではなく、キラキラとした輝きや鮮やかな色彩を響きに与える名職人とでも言ったらいいだろうか。

 なにしろ、「管弦楽法原理」といった本も残しているこの道の大家であり、ベルリオーズ、ラヴェルと並ぶ音楽史上屈指のオーケストレイションの魔術師なのだ。その手腕はムソルグスキーの作品(歌劇「ボリス・ゴドノフ」や「はげ山の一夜」など)の編曲にも及び、作曲家本人を遥かに凌駕する音世界を生み出している。

Mussorgsky そして、このリムスキー・コルサコフのオーケストレイションによって有名な歌劇「ボリス・ゴドノフ」の作曲家、ムソルグスキーという人もちょっと面白い。

 大地主の家に生まれ、独学で音楽を身に付けたものの、その後は下級官吏として細々と暮らしながら作曲も続けていたという(現代の目からみれば)アマチュア音楽家。しかし、「展覧会の絵」や「禿げ山の一夜」、歌劇「ボリス・ゴドノフ」あるいは歌曲集「死の歌と踊り」などの斬新さと表現力の広さはただごとではない。

 アマチュアゆえに楽器法がいまいち下手で(それこそがオリジナリティなのだと言う人もいるけれど)、リムスキー・コルサコフがせっせと彼の楽譜を書き直して普及に努めていたほど。
 しかし、ラヴェルのオーケストレイションによって一躍有名になった「展覧会の絵」を見ても分かるように、その音楽の圧倒的なイマジネイションは天才的と言っていい。ドビュッシーやラヴェルなどフランス近代音楽に計り知れない影響を与えたのも故無きことではないわけなのだ。

 ◆プロコフィエフ(1891-1953)とショスタコーヴィチ(1906-1975)

Prokofiev 続いてロシア音楽は、20世紀になって「ソヴィエト音楽」の時代を迎える。

 御存知のように、栄華を誇った帝政ロシア(ロシア帝国)は、20世紀初頭の1917年に共産主義革命によって打ち倒され、新しい国家「ソヴィエト連邦」に生まれ変わった。

 労働者階級による人類史上初めての「共産主義国家」ということで、新しい世紀の新しい国の形を模索し始めたソヴィエト政府は、芸術(音楽)についても国の指針を打ち出すことになる。
 形式において民族的であること、内容において社会主義的であること、そしてあくまでも労働者階級の娯楽として現実的な描写を持っていること、というテーゼをもった「社会主義リアリズム」である。

 確かに、国の主役が「人民」である以上、ごく一般の労働者階級の民衆が娯楽として楽しめる音楽を国が推奨するのは、ある意味では理にかなった選択だ。
 かくして、この「社会主義リアリズム」は、新興国家ソヴィエトの理想的な「音楽のあり方」における「方針」として初々しく発生し、やがて国家が芸術家に求める「国是」となっていった。(そして、それが最後には、それ以外の音楽は許されない「呪縛」となってゆくのだが)

 ちなみに、当時(20世紀初頭)の「西側」ヨーロッパの音楽では、シェーンベルクらによる無調そして12音主義に端を発する「新しい音楽」が台頭し始めていた。それは、一般民衆に分かりやすいどころか、「大衆的」あるいは「民族的」であることを否定し、より高度かつ複雑な知的構築物としての音楽を前面に押し出した音楽だったのはご存知の通り。
 (そして、こちらも、当初はささやかな「指針」に過ぎなかったものが、やがて「国是」となり、最終的には聴衆がクラシック音楽創作界から訣別する「呪縛」となって行ったわけだ。果たしてどちらが真の「悪夢」だったのだろうか?)

 それはともかく、ソヴィエトでは、結果(国の方針)として民族主義的かつ大衆向けの分かりやすい音楽が「保護」されることになった。要するに、普通にメロディがあり、ハーモニーがあり、リズムがある音楽である。
 そのこと自体は、(そこに国家権力による強制が見え隠れするのが問題だとしても)音楽にとって健全なことだったと言える。なにしろ「聴衆に分かりやすくなければ、音楽ではない」というのは、見事な「正論」なのだから。

 ただし、革命以前に既に西側の「セレブな世界」に触れてしまったストラヴィンスキーやプロコフィエフのような作曲家は、こういった風潮を予感してか、さっさと新国家からは逃げ出している。
 わけの分からない思想をこね上げる政治家たちに音楽をどうこう言われながら作曲を続けるなんて、「冗談じゃない」と思ったのだろう。(それはよく分かる。どんな正論でも、「おまえに言われたくない!」という奴だ)

 ちなみにストラヴィンスキーは、革命前にパリでディアギレフのバレエ団によって初演された3大バレエ(火の鳥、ペトルーシュカ、春の祭典)で、30歳前後の若さながら時代の寵児。一方のプロコフィエフも、20代半ばにして衝撃的なピアニスト&作曲家としてヨーロッパやアメリカで知られた存在だった。
 
Shostakovich それに対して、革命の時点でまだ10代だったある若い天才作曲家は、音楽院を卒業して交響曲第1番でデビューした時点でもうスターリン体制下。国から「社会主義リアリズムを具現する作品を書け!」と言われた第一世代ということになる。
 新しい国家の希望の星と言えば言えるが、要するに「逃げそこなった」わけだ。それがショスタコーヴィチである。

          *

 その後の音楽的成果は三人三様ながら、この3人(ストラヴィンスキー・プロコフィエフ・ショスタコーヴィチ)の音楽には、どこか「機械」の香りがする点が共通している。

 それも当然だろう。19世紀の、それこそ馬車が一番早い乗り物であり、手紙が唯一のコミュニケイションの手段だった時代から、20世紀を迎え、機関車や自動車が世界中を走り回り、電信や電話そしてラジオがコミュニケイションの手段となり、音楽もまたレコード録音やラジオ放送などの形で世界中に伝播する。そういう時代の幕開けに立ち会った作家たちなのだから。

 その最初の世代であるストラヴィンスキーの音楽にそれは顕著だ。一見昔のおとぎ話を描いたような「火の鳥」も、どこか機械人形的な(あるいは現代のアニメーション的な)色彩感覚と、ロールプレイング・ゲームのような物語感覚に満ちている。
 それは次の「ペトルーシュカ」でさらに進化し、原始の時代の大地を描いたはずの「春の祭典」で極限に達する。なにしろ全編に満ちているのは、巨大な歯車が軋みを上げているような「数学」と「メカニズム」のサウンドなのだから。

 それに敏感に気付いた若い世代のプロコフィエフは、自身のピアニズムをまず「強靱なメカニズム」として練り上げる。それは明らかに19世紀的な夢物語としての「ロマン主義」を否定する「反・ロマン主義」だ。

 おかげで、デビュー当時は(恐竜の娘がピアノを弾いているようだ…などという評があったほど)その過激さばかりが前面出ていたが、亡命前後の二十代後半に書かれたピアノ協奏曲第3番以降は、そのバランスが高い音楽性を持って昇華するようになる。

 豪華絢爛な宝石や衣装を愛でる王侯貴族が人間の夢の頂点だった時代から、自動車や電話やラジオや蓄音機など新しい時代の機械を駆使して現代生活を送る個人こそが中心の時代へ。世界は確実に変貌していた。

 もっとも、そこにはある種の「人間性の否定」が匂うことも事実だ。それでも、20世紀の幕開けは「それこそが未来なのだ」という希望がまだあった。プロコフィエフは、20世紀のそんな「人間性」と「非人間性」の狭間に生まれる新しい音楽を目指していたと言っていいだろう。
 
Shostakovich1 一方、ソヴィエト連邦という巨大国家の中で、スターリン体制や独ソ戦あるいは戦後の冷戦などを身をもって体験したショスタコーヴィチは、「機械(マシン)」という非人間的な存在に人間性を蹂躙される20世紀の人間の姿を描き始める。

 なにしろ20世紀の「マシン」は、人間の生活を便利にしてくれる道具ばかりではない。ロシア革命〜第一次世界大戦〜第二次世界大戦と歩みを進めてゆくうち、マシンは「非人間的」どころか文字通り人間を大量に虐殺する「兵器」(機関銃・戦車・爆撃機)の顔を見せ始めるからだ。

 しかも、その非人間性は、まさしく「人間」によって行われるものだと言うことが、絶望を深くする。
 20世紀は、最初は善かれと思って生み落としたものが、その後悪魔的な威力を持って人間性を蹂躙してゆく歴史だったと言ってもいいかも知れない。ソヴィエト共産主義、ナチズム、原爆、そして現代音楽。

 ショスタコーヴィチの残した15の交響曲は、そんな20世紀が生み出した様々な非人間性を記述した叙事詩に聴こえる。特に、最後の第15番は、全てが通りすぎた後の空虚な回想を思わせる逸品だ。

 ◆ラフマニノフ(1873-1943)

Rachmaninoff 最後に、現代における「ロシアらしい音楽」で忘れることの出来ない作曲家、ラフマニノフのことについても書いておこう。

 彼は、前述の3人よりかなり年上の世代で、ロシア革命当時既に40代。主要な作品(3つのピアノ協奏曲、2つの交響曲など)は書き終えた後で、作曲家としても充分大成している。

 当然、ロシア革命を逃れてアメリカに亡命しても、異国で充分に生活できるだけの人気音楽家だったわけで、時代が変わったからと言って新しい音楽に組みすることはせずせず、19世紀の「古き良き時代の音楽」を終生捨てなかった。言わば、愛すべき「時代錯誤」の音楽家である。

 そのことについては、ラフマニノフ自身も充分に自覚していたに違いない。それでも、彼は自分の音楽を変える気はなかったし、実際、哀愁に満ちたその音楽は、(甘いと言われようが)一般大衆に熱狂的に愛された。ハリウッド映画でたびたび使われ、今でも「映画音楽みたい」というのはラフマニノフっぽい音楽をさすほどだ。

 古い世代にとっては映画「逢引き」(1945年。D.リーン:監督)でのピアノ協奏曲第2番の甘い旋律、少し若い世代にとっては映画「シャイン」(1995年。S.ヒックス:監督)でのピアノ協奏曲第3番の超絶演奏。あるいはTVのトレンディ・ドラマ「妹よ」(1994年。フジTV)で使われ人気を博した交響曲第2番の緩徐楽章の甘い世界。そのほかにも「パガニーニ変奏曲」の中で夢のように盛り上がるメロディ、あるいは「ヴォカリーズ」の世にも美しい旋律など、ポピュラー音楽並みに人々を魅了してきた彼の音楽は枚挙にいとまが無い。

 20世紀という時代のメカニズムを音楽に投影したストラヴィンスキー、その軋轢を悲劇的な叙事詩として描いたショスタコーヴィチ。・・・それに対して、ラフマニノフはあくまでも20世紀の現実から目をそらして「ロマン」への憧れに徹したということなのだろう。
 
 それは確かに「時代」とは遊離していたのかも知れないが、彼の音楽は消え去るどころか、いまだに「二十世紀を代表する音楽」として愛され続けている。
 そのあたりが、音楽の一筋縄では行かない面白さと言うべきか。

 それにしても、ロシアという地は、思えば随分とバラエティに富んだ豊潤な音楽を生み出したものである。

     *   *   *

ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団

11月4日(日) 14:00 横浜みなとみらいホール
リムスキー=コルサコフのオペラ作品集:
・歌劇「プスコフの娘」序曲
・オペラ・バレエ「ムラーダ」より “貴族の行進”
・歌劇 「見えざる街キーテジと聖女フェブローニャの物語」組曲
・歌劇 「金鶏」より数曲
ストラヴィンスキー:バレエ音楽 「火の鳥」全曲(1910年版)

11月5日(月) 19:00 サントリーホール
チャイコフスキー:交響曲第1番 「冬の日の幻想」
ラフマニノフ:交響曲第2番

11月14日(水) 19:00 サントリーホール
チャイコフスキー:交響曲第2番 「小ロシア」
プロコフィエフ:ピアノ協奏曲第3番(p:イェフィム・ブロンフマン)
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番

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2007/09/10

ケフェウス・ノートへのノート

Cepheusnotea_2 この夏、左手のためのピアノ協奏曲〈ケフェウス・ノート〉という曲を作曲した。ピアニスト舘野泉さんのために書かれた作品で、この冬に初演される。

 今回は、生まれ落ちてからまだ日の浅いこの〈ケフェウス・ノート〉という作品を肴に、ひとつの作品が生まれる段取りやいきさつについて、備忘録のようなものをしたためた。ケフェウス・ノートのための「ノート」と言うわけである。

 □構想と委嘱

 舘野泉さんによせる「左手のピアノ作品」を書き始めたのは2004年春。最初に生まれたのが全5章からなる「タピオラ幻景op.92(2004)」という作品。続いて全7曲からなる「アイノラ抒情曲集 op.95(2006)」と全4曲からなる「ゴーシュ舞曲集 op.95(2006)」という兄弟作。
 そしてコンサートでのアンコール・ピース用にクラシック作品をアレンジした「3つの聖歌(2006)」、さらに「3手の連弾のための作品があったら」というリクエストから、「4つの小さな夢の歌(2006)」と「子守唄(2004)」が生まれた。
 
 それらの曲はリサイタルで繰り返し演奏され、出版もされ、CD2枚に録音される幸運を得た。そしてその後も、舘野泉さんは(ご存知のように)「左手のピアニスト」として益々精力的に活動を続けられているので、その延長線上に「左手のためのピアノ協奏曲」を考えるようになったのも当然のいきさつかも知れない。

Flyer その構想が具体的になるのは、2006年初夏。舘野泉さんおよび私のマネージメントであるジャパンアーツより、「翌07年秋のドレスデン歌劇場室内管弦楽団来日公演で、舘野泉氏が同楽団と共演するための協奏曲を書きませんか」という委嘱の打診からである。

 確かに、ピアノ作品というレベルなら作曲者個人のプレゼントあるいは演奏家の個人的な委嘱で可能だが、コンチェルトとなると、その上演には(当然ながらオーケストラが必要となるので)、第三者の資金援助なしには成り立たない。
 そこでドレスデン歌劇場の来日公演の招聘元であり、かつ舘野泉さんと私の共通の音楽マネージメントでもあるジャパンアーツが委嘱の名乗りを上げたわけである。ちなみに、これは「舘野泉 左手の文庫(募金)」の対象曲(第一作目)に当たるそうだ。

 そういう意味では「渡りに船」とも言えるこの委嘱だが、実を言うと「コンチェルトを書ける具体的な機会」を得られる点ではありがたかったものの、通常のオーケストラでなく室内管弦楽団(しかもバッハ時代の編成の!)、つまり編成が限定される点だけは大きなネックであり、即「承諾」とはいかなかったことは告白しておかなければならない。

 ドレスデン歌劇場室内管弦楽団は、バッハからハイドン、初期のモーツァルトあたりをレパートリーとするので、フルートやクラリネットといった新しい楽器はなく、金管楽器類はホルン2本のみ、打楽器の類は(あったとしても)ティンパニに限定される。来日公演では具体的に、オーボエ2,ファゴット1,ホルン2,そして弦楽5部(5,4,3,2,1)という編成になる。現代の作品を書くための音響素材としては、かなり限定された「制約の大きい」編成と言っていいかも知れない。

Cepheusnotes 例えば、ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は、左手のみと言うハンディを補填する意味合いもあってか、オーケストラはかなり大編成だ(フル編成の3管に加えて打楽器群とハープまで加わる)。
 冒頭はピアノ低音域のアルペジオを引き出すため、低音弦やコントラファゴットなど「超低音」の世界を表出し、ピアノ・ソロを受けてテーマを強奏する部分では、フル・オーケストラが壮麗に鳴り渡り、後半では金管楽器と打楽器が総動員されてリズムを誇張する。大編成のオーケストラは、「左手だけのピアノ」という「物足りなさ」をカヴァーすべく、「オーケストレイションの魔術師ラヴェル」の名にふさわしい華麗かつ色彩豊かなサウンドのパレットを繰り広げる。

 しかし、小編成の室内管弦楽では、そういった「片手」のハンディキャップを補強し増幅し「あたかも両手で弾いているように飾りたてる」ような方向に持ってゆくことはほとんど不可能だ。管楽器が古典派アンサンブルの楽器(装飾音型が得意なフルートやクラリネットが存在しない!)に限定され、さらに「色彩」を担当するパーカッションがない(あってもティンパニのみ)ということは、近代オーケストレイションのパレットの彩色的な部分を駆使出来ないことを意味するからだ。

 そのため、当初は(いっそのこと)オーケストラを「弦楽のみ」に限定することすら考えた。大編成で「厚化粧」出来ないのなら(別にそんなことをする必要もないのだが)、ごく自然に「薄化粧」&ナチュラルメイクで行けばいい、というわけである。

 しかし、一旦そう割り切ってしまえば、別に大編成である必要はどこにもなくなる。バックのアンサンブルはピアノを盛り立て音楽を増強するものではなく、ピアノに寄り添い支える控えめな伴侶のようなものと見立てればいいのである。

 かくして編成の問題はクリアし、委嘱を承諾することにした。そして、左手のためのピアノ協奏曲の構想が始まった。

 □コンセプトとタイトル

Cd_ainola さて、具体的に新しい作品を作曲するということになると、まず最初に考えなければならないのは、その作品の「キャラクター(性格)」である。

 私の場合、ひとつの作品を生むに当たっては、必ずキャラクターの「核」になるようなものが必要になる。それは、「自分」と「演奏者」と「作品」、そしてそれが描き出す「世界」を貫く〈方程式〉のようなものであり、作品の座標とキャラクターを決定づける〈定義〉のようなもの、とでも言ったらいいだろうか。

 とは言っても、そんなに小難しいものではない。それは、何かの言葉の組み合わせだったり、小説や詩や絵画の印象だったり、映像的イメージやキイワードのようなものだったり、あるいは作曲上の技法や方法論だったり、色々だ。

 例えば、クレーの絵画「忘れっぽい天使」のイメージ、星の名前プレイアデスとその数「7」によるリズム法のイメージ、星座オリオンとそれを構成する図形の玩具的なイメージ。何でもいいのである。そこから「音型」や「モチーフ」、さらに曲全体の「構造」や「語法」が導き出され、それを基にして音楽を紡いでゆく。

 一方、そうした純粋に個人的かつ自発的な「発想(インスピレイション)」に対して、委嘱者(クライアント)から要求されている「条件(リクエスト)」というのも、重要なポイントになる。

 例えば、時間的な制約(X月X日までに書き上げること、演奏時間はXX分以内)、編成や演奏家に関する制約(初演の演奏家はXX、オーケストラはXX交響楽団)、金額的な制約(委嘱料はXX円、楽譜制作は自己負担)、著作権上の制約(作品はXXで出版、版権は1/2)、時には内容的な制約(XXをテーマにすること、XXへの祝典的作品であること)などなど。
 時には、それらの条件が折り合わなくて破談ということだってある。

 今回の作品における主要な「条件」はふたつ。

 ひとつは「左手のピアノのための」協奏曲であること。
 そして、バックのオーケストラの編成は「(特殊な)室内管弦楽」であること。

 前者については、舘野泉氏のために既にかなりの数「左手のためのピアノ作品」を書いているし、頼まれなくてもコンチェルトは書くつもりだったので全く問題はない。むしろ文字通りの「渡りに船」である。
 ただ、後者については、作曲するに当たってのある種の「制約」としてかなり頭を悩ませることになったのは前述の通り。

 しかし、そのうちにちょっと面白いことに気付いた。
 管楽器は5,弦楽器も5部。ピアノも(片手のみなので)指が5本。つまり、すべてが「5」つながり…ということである。
 一見つまらないことだが、こういうことが発想の「核」になる。

 そこで「5」にちなんだイメージを探し始めた。私のコンチェルト・シリーズは「ペガサス」「ユニコーン」「オリオン」「アルビレオ」と星づくしなので、すぐに見つかった。5つの星からなる星座、カシオペアとケフェウスである。

Cc カシオペアは夜空に輝く全星座の中でも、もっとも目立つ「W」字の形をした5つ星。一方ケフェウスは、そのすぐ横に位置する地味な「歪な五角形」をした5つ星(正確には5つ星+α)。ギリシャ神話では、この二人、王妃カシオペアに王ケフェウスという夫婦である。

 そして、この二人の間に出来た娘が、かの王女アンドロメダ。妻と娘は、たぶんギリシャ神話に詳しくない人でも名前だけは知っている有名人だが、ケフェウスはそれに比べるとかなり地味な存在だ。そして、星座の中でも多分もっとも地味で目立たないもののひとつでもある。

 しかし、夜空を見上げると、銀河をバックにこの夫婦の星座は共に「5つ星」の形をして並んでいる。そのキャラクターは対照的と言えるほど違うものの、共にはっきり「5」を形作っているせいか、それは人の「手」を連想させる。

 そして、銀河を胴体と見立ててみると、カシオペアの5つ星は「右手」、ケフェウスの5つ星は「左手」に位置するではないか。

Cepheusnote 左手だけの「5本の指」、ケフェウスの「左手」、「5」つの管楽器と「5」種類の弦楽器。そこから導き出される「5章」からなる「覚え書き(ノート)」としての構造、それを構成するペンタトニックの「5つ」の音(ノート)からなるモチーフ。

 そして、ちょうど10年前に書いた私の最初のピアノ協奏曲〈メモ・フローラ op.67(1997)〉が「花によせる覚え書き」なら、この左手のためのピアノ協奏曲は「星によせる覚え書き」。つまり〈メモ〉から〈ノート〉への、覚え書きつながりになる。

 こうして〈ケフェウス・ノート〉というタイトル(核)が決まった。

 □楽章とキャラクター

 次いで、音楽の具体的なキャラクターと構成を考える。

 「5」にこだわった全5章の構成を「独立した5楽章制」とすると、全20分ほどの曲では各楽章が4分ほど。組曲や小品集ならそれでもいいが、コンチェルトのような作品では、持続性および全体の統一感に欠ける。そこで、連続して演奏される5パートからなる単一楽章の構成にすることにした。

 次は、個々のパートのキャラクターである。

 基本のイメージは、夜空に地味に(そして少し寂しく)光るケフェウス座なので、光り輝くような壮麗さとは無縁。目を凝らしているうちに徐々にその形が見えてくる。そんなイメージで始まることがポイントだ。これがプロローグとなる〈Part1〉。
 ストリングスの淡い背景の上で、ピアノがぽつりぽつりと「5つの音」からなる断片を紡ぎ始める。そして、それがだんだん集まって形になってゆく。全体の序章である。

11p_3

 次に、ピアノがロマンティックなアクションを伴って登場する。ここからが〈Part2〉。全体を貫くモチーフがいくつか現れては消えるが、これも華やかな技巧を聴かせると言うよりは、モノローグ的な色合いを保つ。
 バックのオーケストラで「厚化粧」を計ることはせず、ここでも抒情的な雰囲気をキープする。ただし、アドリブ的な要素を膨らませることはしたい。というわけで、後半は5音のペンタトニック…すなわちピアノの黒鍵のみによるカデンツァ風即興を加えることにした。

17p
 
 と、ここまでは抒情的な世界に徹してきたが、このあたりでどうしてもアップテンポでポップな(いわばスケルツォ的な)楽想が欲しい。というわけで、次の〈Part3〉では、黒鍵の乱打の中から突然ワルツが飛び出してくることを思い付いた。
 これも5音からなるモチーフによる「軽やかに駆け抜けるワルツ」だが、転調を繰り返しながらぐるぐると乱舞を続けてゆく。本当はちょっと顔を出すだけに留めておくつもりだったのだが、止まらなくなってしまった。

Waltz

 そして、そのままの勢いで全体のクライマックスとなる〈Part4〉へ突入する。ここは、ワルツで集積した運動エネルギーが、カデンツァ風のピアノの自在なパッセージの中で渦巻く世界。
 この部分、元々は「完全にピアノソロによるカデンツァ」を考えていたのだが、最終的にはオーケストラも含めて〈Senza Tempo〉的なカオスを生み出す現代音楽的なパートとなった。自由度の高いピアノのアドリブが激しく荒れ狂い、管楽器のカオスを引き出してクライマックスを築いた後、やがて重々しいペザンテの足取りで徐々に静まってゆく。

36p

 そして、ふたたび抒情の世界に戻ってエピローグ〈Part5〉。モチーフが静かに回想され、ストリングスがしばし楽想を盛り上げた後、ピアノが決然とかつ流れるように歌い始める。
 曲の前半が陰りを持ったマイナーキイっぽい響き(Dのドリア)で終始するのに対して、ここではかすかな笑みのようなメジャーキイ(Fのリディア)が現われる。冒頭の寂しい静寂への回帰ではあるのだけれど、いくぶん幸福感を込めたかったのである。
 そして、最後は星空の中に消えてゆく。

 夜空の「左手」であるケフェウスの備忘録(ノート)の構成は以上である。 

 □スケジュール

Samplea 最後に、今回の作曲のスケジュール・ノートを記して、備忘録の締めとしよう。
 日程は下記の通りである。

 2006年6月:委嘱の打診。
 初演予定の1年半前。この時点では、まだ正確な初演の日程は不明。楽団の来日は「11月頃」ということから、当初「スコアは10月頃(1ヶ月前)に出来上がれば」と言う話だったが、後に指揮者(ドイツ)側の要望もあって、「出来ればかなり早め(8月中)に」ということになった。

 2007年1月頃:作曲の開始。
 どういう感じの作品にするか、パッセージの断片やオーケストレイションのアイデアなどを、ノートあるいはスケッチとして書き留め始める。ただし、まだ構成も編成も決まっていない。この時点では、実を言うと「ピアノのソロパートは〈タピオラ幻景〉そのままで、バックにオーケストラを加えるアレンジを施してコンチェルトにする」ことも考えていた。いろいろと模索している段階である。
 ちなみに、この間は、1月にピアノトリオ(旧作アレンジ)、2〜3月にオーケストラ小品(アレンジ)とフルート・アンサンブル新作、4〜5月に雅楽新作の作曲をしている。

 5月11日:タイトル(ケフェウス・ノート)の決定。
 5月7日、マネージャーから突然「今、チラシを作成中で、タイトルが決まっていましたら、新作のタイトルとコメントを載せたいんですが!」と言ってくる。
 ただし、その頃は、間が悪いことに前作の雅楽「夢寿歌」作曲の真っ只中。タイトルは幾つか構想していたものの、まだ決まっていない。それでも、ただ「左手のためのピアノ協奏曲(委嘱作品・初演・題未定)とチラシに載るのも嫌だったので、「1週間待ってください」と返事する。
 結局、この雅楽作品を仕上げた後、気分転換に行った山の中のホテルで星空を見上げつつ〈ケフェウス・ノート〉と決定(そのいきさつは前述の通り)。ちなみに、その時に送った(チラシ掲載用の)コメントは下記の通り。
 
 ■左手のためのピアノ協奏曲〈ケフェウス・ノート〉

 

 ケフェウス(Cepheus)は星座の名前。
 秋の夜空に並ぶ同じ5つ星のカシオペアを銀河の右手とすると
 ケフェウスは左手。
 そこから聴こえてくる星の響きの覚え書き。

 7月13日:デッサン&構成稿に着手。
 6〜7月中に別の仕事(BS番組のための大編成作品)が入り、その〆切が7月8日。それが仕上がったところで、ひと休みしてから本格的にこの作品の作曲に着手する。
 まずは、今まで頭の中で鳴らしていたイメージや、スケッチや断片として書き溜めていた素材を、全体の構成やバランスなどを考えつつ、五線紙の上に並べてゆく。具体的には、B4の五線紙にシャープペンでデッサンを書き留めてゆく作業である。

 7月21日:デッサンと構成がほぼ固まる。ここで、集められた素材が1曲を構成するに足る分量に達したわけである。この時点で、ようやく最終的な編成(オーボエ2、ファゴット、ホルン2を採用すること)を決断する。

 8月1日:ピアノ・スコア稿に着手。デッサン素材を元に、ピアノパートと伴奏(管楽器2段、弦楽器2段)だけの、いわゆるピアノ・スコア(6段)を書いてゆく。それまでは前後バラバラだったり、楽想と楽想の繋がりが未定だったりしていたものを、テンポやキイを調整しながら、ひとつの流れに組み立ててゆくわけである。

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 この段階から、楽譜ソフトを使ってのコンピュータ入力になる。プレイバックして音を確かめながら、全体および細部を詰めてゆく。そして、8月3日:最初のピアノ稿をまとめる。

 8月13日:ピアノ・スコア稿ほぼ完成。ようやくここで、始めから終わりまでの一貫した流れを持ったひとつの音楽が現れる。作品の全体像がほぼ固まった瞬間である。ただし、実を言うと第4章がどうも気に入らなくて、後にこの段階で書いていたものをバッサリ切り捨てる。

 8月16日:スコア着手。省略形で書いていたピアノスコア稿(6段)を、最終的な編成のスコア(全13段)に変換する。まずピアノパートをスコアに転写(コピー&ペースト)し、伴奏譜のうち楽器が決定しているもの(オーボエのソロやチェロのロングトーンなど)を譜面に配置してゆく。その作業を進めながら、徐々にオーケストレイションを加えてゆくわけである。

 8月23日:すべてのパートを転写終了し、全体が一冊になったスコア(いわば「第1稿」)が出来上がる。ここで、全356小節、B4横長スコアで45ページ、という全体像が形になるのだが、あちこちのパートはまだまだ白いまま。

 このあたりの作業はすべてコンピュータ画面上で行なっているのだが、やはり楽譜になって手元で見ないと確認出来ないこともある。そのため、2日に1度は全ページをプリントアウトしてみて、その楽譜を念入りにチェックして赤を入れる(赤いボールペンで修正する)。すぐ真っ赤になり、それをふたたびコンピュータの画面で入力する。それの繰り返しである。
Datas そのため、コンピュータで作曲すると言っても、プリントアウトされたスコア草稿が一曲につき十数冊ほど出来上がるので、用紙はいくらあっても足りない。一方、コンピュータ内にも「8月24日稿」「8月25日稿」というふうにかかった日数と同じだけフォルダがどんどん増えてゆく。

(ちなみに、このデータ類、コンピュータ本体のハード・ディスクだけの保存では万一ということがあるので、こまめに外付けのHDおよびネット上のiDiskに毎日バックアップを取り、外出するなどPCから離れる時は、必ず作業中のデータをUSBメモリで持ち歩くことにしている。この時点でのデータ消失はそれだけ「怖い」のである)

 8月31日:スコアほぼ完成。とは言っても「ほぼ」であり、ここから最終チェックが始まる。強弱記号・表情記号などの抜けや不備はないか、音のミスや#や♭のミスはないか、奏法(pizzやarcoなど)や矛盾はないか、チェック項目は限りなくあって、どんなにチェックしても必ず見落としがある。

 9月1日から2日にかけてBSの仕事で外出する中、楽屋で最終チェックを続ける。

 9月3日:ついに、決定稿、脱稿。要するに、完成!である。

Photo

 むかしなら「完成!」と言っても、その楽譜を相手に渡すには郵便にしろ手渡しにしろ、まだ時間がかかる。(そこで、「もう郵便で出しました」と言っておいてまだ書き続ける、という〆切を遅らせる裏ワザが使えたのだが…)。

 しかし、今では、コンピュータ入力したスコアはそのまま電子メールに添付して浄譜屋さんに送られる。丸三ヶ月かかって書き上げたスコアも、メールのクリックだけで、消えてゆくのである・・・

Datalist
 データは、「楽譜ソフト(Finale 2007)のデータ」、そして「表紙(タイトルや編成、構成)のテキスト」、および「それらを汎用データ(PDF)に変換したもの」、という3種類。→
 すべて足しても3MBにも満たないが、念のため2つのメールにわけて浄譜屋さん(今回はNHKオフィス企画)と委嘱元(つまりジャパンアーツ)とに送信する。

 これで、作曲の仕事はひとまず終了。あとは初演を待つばかり。
 最終的にどういう作品になったかは、この12月の初演をお楽しみに。

    *

 東京初演は、下記の通り。
 ■ドレスデン歌劇場室内管弦楽団

 2007年12月10日(月)14:00。東京オペラシティ・コンサートホール。 
 ピアノ:舘野泉、指揮:ヘルムート・ブラニー、ドレスデン歌劇場室内管弦楽団。

・モーツァルト:セレナード第13番 ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
・J.S.バッハ:オーボエ・ダ・モーレ協奏曲 イ長調 BWV.1055
・ヴィヴァルディ:「四季」より「冬」

・吉松隆:左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」 Op.102
・モーツァルト:交響曲第29番 イ長調 K.201

 料金:S7,000 A\6,000 B\5,000 C\4,000 学生席\3,000

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2007/08/10

夏休み雑談・作曲家と著作権

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 今年2007年、シベリウスが没後50年を迎える。生年は1865年だから、マーラー(1860年)やリヒャルト・シュトラウス(1864年)あるいはドビュッシー(1862年)などとほぼ同世代だが、91歳の長寿を得て、亡くなったのは1957年9月20日。今年でちょうど50年めということになる。

 まあ、確かに、生誕100年とか200年というのは、数字の語呂がいいだけの一種のお祭りであると言えなくもない。しかし、この「没後50年」と言うのだけはちょっと違う。単に数の上での記念ということだけではなく、きわめて現実的な問題を秘めているからだ。

     *

 御存知のように、現代における主要な文明国においては、音楽にしろ書物にしろ美術にしろ、作者が存在する著作物にはすべて〈著作権〉というものが存在する。
 つまり、人が作品を作ると作者としての権利が発生し、第三者が複製したり改編したり販売したり二次使用する場合は、必ず著作件所有者の許可あるいは著作権使用料を支払う義務がある。

 しかし、現在の制度では、作者の死後50年(国によっては70年)で、この著作権は消滅する。音楽の場合は、作曲者が死んで50年が経てば、著作権が切れ、作品はパブリック・ドメイン(公有物)になる。
 つまり「没後50年」というのは、「さあ、これからはこの作曲家の作品は使い放題だよ!」という「バーゲンセール(?)」の呼び声を兼ねているわけである。
 
 というわけで、クラシック音楽のほとんど…例えばバッハやモーツァルトやベートーヴェンの作品は(皆さん100年も200年も前に亡くなっていて当然ながら著作権は消滅しているので)コンサートで演奏しても、テレビで放送しても、映画やテレビドラマの背景で流しても、替え歌にしてCMで流しても、ロック風にアレンジしてCDにしても、何の許可も要らないし、お金も払う必要はない。シベリウス師も晴れてその仲間入りをするわけである。嗚呼、可哀想な巨匠たち!
 
(ちなみに、没後50年めの同月同日でいきなり著作権フリーになるわけではなく、その年の12月31日までは使用料が発生し、パブリック・ドメインになるのは翌年の1月1日から。

 また、国によってその制度はまちまちで、保護期間は50年だったり70年だったり(最長は100年)一様でなく、作曲者の国籍以外にも出版社の国籍が関係してくるほか、戦時加算など特例も絡むので、同じ作曲家の作品でも曲によって保護期間が違うことがある。くれぐれも、没後50年たったからと言っていきなり使い勝手にするのではなく、ご利用は著作権協会などに確かめてから)

       *

75_2 ところで、この〈著作権〉というシステム、昔からあったわけではなく、確立したのは19世紀も終わり頃(国際的な取り決めとしてベルヌ条約が締結されたのが、1886年)とのこと。

 ということは、クラシック音楽の主だった作曲家たちが活躍していた時代には、著作権などと言う発想すらなかったわけで、クラシック音楽界の作曲家には、著作権の恩恵を受けた作曲家はほとんどいないと言うことになる。

 しかし、現在では作曲家は、自分が作曲した作品について「権利」が保証され、演奏されたり放送で使用されたりした場合は「使用料」がもらえる規定になっている。

 私も「まだ生きている作曲家」として、この著作権制度の恩恵をこうむっている。作品が演奏されれば、それがどこか遠い外国でも知らない街のコンサートでも小さな放送番組でも、著作権団体が使用料を徴収して、作曲家に分配してくれることになっているからだ。

 ただし、問題もある。

 例えば、オーケストラやピアニストがモーツァルトやショパンやブラームスを弾く場合。楽譜を手に入れさえすれば、その曲をどこでどう演奏しようと録音しようと自由だ。何かの許可を得る必要もなければ、お金を支払う必要もない。どういう演奏をしようと、アレンジしようと、切り貼りしようと、メロディに歌詞を付けて歌おうと、なんの問題もない。

 ところが、著作権が生きている作品を演奏する場合は、その国の著作権団体(日本だとJASRAC)に曲目と演奏時間、コンサートの規模(客数や入場料)などを届け出て、規定の作品使用料を払わなければならない。(アレンジしたり歌詞を付けたりしようとする場合には、作曲家当人あるいは権利所有者の許諾が必要になるが、まあ、それは仕方ないとして…)

 これは、市場の原理からすると、現代の作家にとって不利なシステムとも言える。なぜなら、この構造を逆に見ると、クラシック作品を演奏しても「無料」だし余計な「手間」はいらないのに、新しい作品を演奏しようとすると「有料」でかつ「手間」がかかるということになるからだ。

 これは、演奏する側からすれば、「ペナルティ」を付けられている等しい。なにしろモーツァルトを演奏するのはタダなのに、ヨシマツを演奏しようとすると著作権協会が「お金を払え」と言ってくるのだ。「じゃあ、ヤメタ」という人がいて当然ではないか(笑)

 ただでさえモーツァルトと張り合うのは大変なのに、この「権利」というペナルティは厄介だ。これでは、単純に「権利が保証され、使用料が入ってくる」などと喜んでいるわけには行かない。

(純粋に作曲家サイドから言うなら、クラシックを含めたすべての楽曲に対して使用料を少額ずつ取り、それを「生きている作家」に分配・還元するのが理想なのかも知れない。しかし、現実的な徴収・分配のシステムを考えると絶望的に不可能だと言うことも充分理解出来る。困ったものである)

 この著作権におけるジレンマが、現代音楽をして不毛と矛盾の荒野に追いやる結果になったのではないか、という想像もあながち的外れではないような気がする。

    *

100 そして、死後50年まで権利が有効というのも引っ掛かる。

 死んですぐに著作権が切れないのは、遺族を考慮してのことだと言うが、なにしろ死んでしまっているのだから当人には関係ない。死んだ後で、嫁の親戚とか顔を見たこともない甥や姪に使用料が渡ったとしても、何の意味もないではないか。私なども、別に死んでしまったら使用料ゼロになっても少しも構わないと思う。

 それより、死んでから50年間有効だと言うのなら、その分の使用料を生きている間に「前借り」させて欲しい!(笑)。

 にもかかわらず、どうして最近この権利保護期間を巡って死後50年だ70年だともめているのかと言うと、それは(作家当人とは全く関係なく)ひとえに作品の「権利」を持っている出版社や団体にとって大問題だからだ。

 例えばシベリウスにしても、著作権が生きている間は(おそらく)年間数億円という額の著作権使用料が出版社や権利所有者に入って来る。しかし、それが死後50年を境にいきなり「収入ゼロ」になるのだ。これは死活問題である。

 そこで、作品の権利使用料で多額の収入を得ている団体ほど、著作権問題に口を出し始める。有名なのは、ミッキーマウスなど世界中で膨大に稼ぎまくっているキャラクターを多数持つウォルト・ディズニー社だろう。ディズニーが死んで50年(1966年没だから、2016年)で使用料がゼロになっては大変だから、アメリカにおける保護期間を70年に延長する著作権法改正に尽力したというのは有名な話(そのせいで、この70年制度は「ミッキーマウス法」などと密かに呼ばれているのだとか)。その影響は世界に広がり、次は100年に延長する予定と聞く。

 一方、そこまで自分の著作権が膨大な収益を上げていない作家(それが大多数なのだが)にとっては、著作権が死後に渡ってここまで強力になってしまうと、逆に弊害の方が無視出来なくなる。

 生きている間は(当人が話したりメディアに登場したりするので)名前や作品が知られていても、死んでしまったらどうしても、表舞台から姿を消すゆえに一旦忘れ去られる。しかし、ファンがいれば細々とでもCDや復刊本が出されネットで紹介されたりして生き残り、いつふたたび脚光を浴びるようにならないとも限らない。
 しかし、そこに「著作権」の壁が立ちふさがる。

 有名な作家の作品なら、もちろん権利の所在は明らかだから、新しくCDにしたり本を出したりする場合も問題はない。(「これは儲かる」と誰かが思えば、どんな障害も乗り越えることだろう)。 しかし、そこまで有名でない(そして儲かりそうもない)作家の作品の場合、最大の障害が「著作権」になる。
 なにしろ、当人が死んでしまったら作品の「許可」を得られない上、誰にどう許諾をとっていいのかすら分からない場合が少なくないのだから。

 単純に、出版社に版権が残っていれば問題ないはずなのだが、当人が生きている間ならともかく、死んでもなお延々と作品管理していることはあり得ない。作者の遺族に許諾を得ようとしても、奥さんが再婚していたり子供がいなかったり、遺産をめぐって紛糾している家系だったりすればお手上げである。

 その結果、ごく一部の有名かつ死後も売れ続ける作家の作品以外は、「権利」で保護されているがゆえに「封印」された状態になる。そんな状態が作者の死後50年から70年も続けば、確実に忘却の彼方に消えてしまうだろう。

   *

45 私自身もそういった「著作権の壁」を感じたことが少なからずある。

 例えば、以前、放送などで使われてテープによる音源が残っている現代作品の音源を、シリーズとしてCD化出来ないかと相談した時、言下に「不可能です」と言われて驚いたことがある。
 これはもう作曲家の意向どころの話ではなく、著作隣接権が絡んでくるので、その録音に立ち会った演奏家すべての許諾(CDしても構いませんという一筆)が必要になるというのだ。

 これが、実は簡単ではない。演奏が「なんとか交響楽団」というひとつの場合は、その団体の現在の事務局に連絡をとって一括して許可を貰えば済むが、アンサンブルのように色々な演奏家をかき集めた場合は実に絶望的なのだ。
 例えば、3番ヴィオラの人と連絡が取れない。2番ファゴットの人は15年前に亡くなってしまって遺族がいない。ハープの人は外国に行ってしまって日本に帰ってこない。・・・すべてお手上げだと言う。

 結果、その録音は、どんなに歴史的に重要で音楽的に素晴らしいものであっても、倉庫に死蔵されるしかない。
 しかも、死蔵されている間に、アナログの磁気テープは劣化してゆく。演奏者全員が死んで50年経つまで待っていたら、録音された音は消え、ただのゴミになってしまう可能性が大きい。

 それなら「せめてデジタル化して保存したい」と思うところだが、複製には著作権の壁が立ちふさがる。権利者に無断で勝手にダビング出来ないのである。(そして、その許可を得るためには・・・そう。振り出しに戻るのである)

 (ちなみに、レコード録音の場合は、曲がりなりにも契約書が交わされているので、まだこういうトラブルは少ない。そして、最近はこういうことがないよう、事前に念書を取っておくことが多くなっていると聞く。
 しかし、それも「著作権がうるさい」と知れ渡ってきたここ数年ほどの話。それ以前の録音を救済する手だてはないそうだ)

   *
 
25_2 ごく一部のメジャー作品については(例えば、何度も出て来るミッキーマウスのように)、著作権ゆえに問題が発生すれば「法律の方を変えてしまう」という荒技が出来る。大きな映画会社やプロダクションが関わる商業映画なども、「契約」が前提で出演者やスタッフが集まっているから問題は起きにくい。

 しかし、そこまで行かない中小企業作家の作品や小さなプロダクション制作によるものは、「あまり細かいことは言わない」で作ってきたツケがまわってくることがあるそうだ。 
 例えば、テレビ番組、ドキュメンタリーなどでは、エキストラで集めた助演者や通行人の役者、通りすがりの「おばあちゃん」など、許諾の取りようのない人物が映っているゆえに、優れた作品なのにDVDや再放送やアーカイヴ化が出来ないという泣くに泣けない話を聞いた事がある。

 そのせいなのかどうか、最近のテレビ番組では、なんでもない通行人の談話でも、顔を写さず音声を変えていることが不必要なまでに多い。あれはプライバシー保護の故だろうが、うっかり何とかマウスや何エモンのTシャツでも着ていようものならモザイクが即入れられるのは御存知の通り。

 さらに厳密に言えば、他人を写す場合はその人の肖像権を確認する必要があり、自動車が映っていたらその車のデザイナーの、ビルが映っていたらそのビルの設計者の許可と使用料の支払いが必要になることもあり得るのだそうだ。

 ということは、例えば、「渋谷の雑踏」とか「大勢の人でにぎわうイベント会場」などという写真を撮ろうものなら、そこに映っている全ての人すべての物品の「権利」をクリアにしなければ、新聞にも本にもネットにも公表出来ないことになる。しかし、そんなこと出来っこないではないか。

 音楽の場合、映画やテレビや小説やマンガの中で登場人物が鼻歌を歌ったり口笛を吹いたりしても、音楽著作権協会への届け出と使用料の支払いが必要になるのはもはや常識。俳優が話している後ろで鳴っているラジオやテレビから聴こえてくる音楽も、携帯の着メロやオルゴールのメロディも例外ではないと言う。

 さすがに普通の人がお風呂で鼻歌を歌ったり、自転車を漕ぎながら口笛を吹くのは、「個人の娯楽」の範囲内として、著作権フリーになっているが、そのうち、街でふんふんと鼻歌を歌っても、著作権使用料を徴収される時代が決して来ないとは限らない。

 ・・・と以前、某著作権団体の人に「冗談で」言ったところ、「取れる方法が開発されたら、明日からでも徴収したいですね」とお答えになった。おお、こわ・・・

   *

Money そもそも音楽における「著作権」というのは、ぜんぜんお金にならないクラシックの作曲家(とその遺族)への救済と「創作への励み」を思って始まった制度なのだそうだ。

 確かに、いい作品を書いて、それが多く演奏され後世に残れば、それに見合った収入が得られる、というのは作曲家(とその遺族)にとって素晴らしい「恩恵」には違いない。

 しかし、私自身の個人的な経験から言っても、このシステムには「恩恵」と共に「弊害」や「矛盾」があることは否定できない。

 音楽はそもそも特定の作者の所有物ではなく、過去の音楽家たちから受け継がれ、未来へと引き渡してゆく「人間共通の魂」のようなものだ。その上に個人の意匠をかすかに付加したものが「作品」と称される。

 だから、そのことへの個人的な努力と創意工夫は讚えられたとしても、それに所有権を主張するのは、ちょっと違うような気がしてならない。
 単に「複製を作った場合、課金される」、そして「その金額の一部は作者に還元される」。それだけの制度であるべきなのだ。

 だから、権利の名をまとった「著作権」は両刃の剣になる。
 それに、決して唯一絶対の制度ではないことは肝に銘じなければならない。

 作者と作品が、その創造性にふさわしい代償を受けられ、それによって新たな創造が喚起できれば、本来は「権利」などというものは無くてもいい。もしかしたら、無い方がいいのかも知れないとさえ思う。

 だれも「権利」などと言わず、それでも秩序が保たれる。
 そして、誰もが嬉々として音楽を創り、音楽を享受する。

 そんな時代になれば、と切に思う。


   *

 というわけで、(今年いっぱいは我が国での著作権が存在する)シベリウスのコンサートをひとつ、ご紹介。

渡邉規久雄ピアノ・リサイタル〜シベリウスを弾く
10月13日(土)14:00。東京文化会館小ホール

・6つの小品、10のバガテル、10の小品より
・5つの特徴的な印章op.103
・交響曲第3番(作曲家自身によるピアノ連弾版)
 共演:寺田悦子

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2007/07/10

ベートーヴェンはどうして交響曲などという代物を9つも書くことになったのか?

Ludvig1 この世の中に「クラシック音楽」というのが存在し続けているのは、(たぶん)ベートーヴェンのせいである。

 もちろん、彼の音楽が好きかどうかというのは、人それぞれだ。強力な主張と感動を与える音楽…というのは裏を返せば、有無を言わせず押しつけがましい音楽でもある。モーツァルトのように無害な音楽、バッハのように数理的な音楽を好み、ベートーヴェンのような劇的な音楽を敬遠する人もいて当然だ。

 しかし、ロックにしろジャズにしろ演歌にしろ、この世の中にこれだけいろいろな音楽がある中で、200年も昔のヨーロッパの音楽を延々と繰り返し聴き続ける「クラシック音楽」などという奇妙な信仰がいまだに営々と存在し続けているのは、これはもうベートーヴェンという作曲家がいたせいだ。これは間違いない。

 例えばここに「人が喜んで聴くわけでもなく、お金になったり売れたりもしない音楽」などというのがあるとする。誰も聴かないし、お金にもならない。
 そんなものは、どう考えたって(公的な場では)存在できっこない。はっきり言って存在理由がない。音楽とは、基本的に人が(あるいは神が)聴き愉しむためのものだからだ。それが、人の営みの中での「音楽」の位置である。

 しかし、クラシック音楽界では、その(存在理由がないゆえに存在する音楽)が存在し、それを「芸術音楽」などと(偉そうに)言う。その極致が〈交響曲〉という代物だ。好んで聴かれるわけでもなく、お金にもならない。しかし、それを全身全霊を傾けて創る人間(作曲家)がいる。そして、そのことが(なぜか)伝統にさえなっている。

 それは、人に聴かれたり経済的に流通したりする、ということとは全く別の理念で存在する「絶対的な価値」を持った音楽がこの世にあるということにほかならない。(それは個人的な「愛」というものが、経済価値ゼロにもかかわらず、当人たちにとっては「お金に替え難い」心情的価値を持っているのに似ている)。

 音楽(19世紀の西洋音楽限定ではあるけれど)においてそのことを高らかに宣言し(それは、もしかしたら壮大な「詐欺」の始まりだったのかも知れないが)、それを身をもって実践したのが、このベートーヴェンという人なのである。

 ■そもそも交響曲とは?

 とは言っても、交響曲という代物に最初からそんな「絶対的価値」があったわけではない。

 そもそも交響曲(シンフォニー)は、コンサートの最初(あるいは最後)にオーケストラだけで演奏された序曲(シンフォニア)が起源とされている。

 教会で演奏される宗教曲にしろ、劇場で上演されるオペラにしろ、ソリストが華麗な妙技を聴かせるコンサートにしろ、大規模な(大勢の観客を集める)演奏会では、その伴奏にオーケストラ(大編成の楽器アンサンブル)が必要になる。
 ただし、このオーケストラ、あくまで「伴奏する楽団」であって「演奏会の主役」ではない。あくまでも「脇役」として、コーラスや歌あるいは楽器のソリストが登場する前のイントロ場面や、途中のつなぎや休憩、あるいは最後に演奏家たちが退場する時に演奏するのが主な役割なのである。

 しかし、脇役は脇役として、そのアンサンブルの精度や技術にかなりの熟練を要するのも事実。さまざまな演目が上演されるうち、指揮者の指示の元に整然と演奏出来るような、高度な演奏技術をもったオーケストラが生まれても不思議ではない。
Haydn かくして18世紀なかばにハイドンが、楽長として勤めていた宮廷楽団(オーケストラ)のトレーニングに精を出し、その成果を聞かせるためにオーケストラだけの曲を次々と書くようになった。

 指揮に応じて自在に強弱や緩急を変化させるソナタ形式を第1楽章に置き、次いで緩やかなアンダンテ楽章で楽器による美しい歌を聴かせ、さらに優雅でキャッチーな舞曲を聴かせるメヌエット楽章をはさみ、最後にアンサンブルの精度を聞かせるアレグロのフィナーレ(終曲)で締めくくる。
 これは「聴かせる演目」として実に理にかなった構成である。例えば現代のロックコンサートでも、最初に観客を引きつける鮮やかな曲を演奏し、途中にしっとり聴かせるバラードや、コミカルなナンバーを混ぜ、最後に華やかなフィナーレで盛り上げる。

 ハイドンは、この実に効率的で効果的なパートを組み合わせた4つの楽章からなる作品を「シンフォニア」と呼び、様々な機会に応じて新作を書き続けるのである。

 100曲以上に及ぶそれらの作品(交響曲)は、「朝」「昼」「夜」「ロンドン」「V字」「太鼓連打」などなどという愛称を付けられ、一種のキャラクター作品としてコンサートの一部を飾り、作曲家ハイドンの技量とオーケストラのアンサンブル技術を聴衆に印象づけることになる。

Mozart_2 そんなハイドンのシンフォニアに影響され、次の世代の作曲家モーツァルトは幼少の頃から交響曲に手を染めている。最初の交響曲第1番は確か8歳頃の作である。

 宮廷に勤めるわけでもなく自由音楽家として活動をしていたモーツァルトに、ハイドンのような子飼いのオーケストラなどあるはずもないが、自作を自演する個展コンサートでは、どうしてもオーケストラが必要になる。
 メイン・プログラムはピアニストとしてオーケストラと競演する〈ピアノ協奏曲〉だが、バックで演奏するオーケストラをみずから指揮して「作曲の技術」の確かさを聴かせる〈交響曲〉も時には必要だったわけだ。

 とは言っても、モーツァルトにとって、作曲家・音楽家として最大の目標はあくまでオペラや宗教曲。個展コンサートでピアノや指揮の腕を聞かせ、最終的には大きなオペラや宗教曲の仕事を貰うことこそが作曲家であり、〈交響曲〉はそのための通過点にすぎない。
 第40番や第41番などの晩年の傑作交響曲にしても、あくまでも作曲技法の確かさとオーケストラ書法の熟練をアピールし、同時にコンサートに色を添える「大規模な器楽曲」にすぎず、決して作曲作品としての終着点ではありえなかったわけである。

 モーツァルトよりさらに若く、ハイドンに弟子入りして作曲を学んだことのあるベートーヴェンも、最初のスタンスは似たようなものだった。狙っていたのはオペラでの成功であり、〈交響曲〉は自主コンサートなどで作曲家としての技術をアピールするための試作として書き始めたものだった、と言っていいだろう。

 ■ベートーヴェンの交響曲への道

Ludvig3 1800年30歳の時に、ベートーヴェンはウィーンで初めての個展コンサートを開き、本格的なデビューを飾る。それまでは即興演奏が得意なピアノの名手として人気を博してきたベートーヴェンだが、作曲家としての本格的デビューは30歳を迎えてからと、意外と遅い。

 そのコンサートで披露したのが、ピアノ協奏曲第1番、七重奏曲、そして〈交響曲第1番ハ長調〉という作品たち。もちろんピアノは自分で弾き、指揮もこなしている。要するに「ピアノも弾けます」「指揮もできます」「作曲もできます」…と自分を売り込むコンサートなのである。
 つまり、ベートーヴェンは「何でも出来る音楽家」として「オペラでもオーケストラでも何でも書けます」「さあ、私を買ってください」「お金を出して作品を委嘱してください」とアピールしたわけである。

 実際、この時期のベートーヴェンの音楽は、交響曲第1番にしろ第2番にしろ(ピアノ協奏曲にしろ七重奏曲にしろ)、健全でバランスの取れた作品が並ぶ。特に〈第2番ニ長調〉は、「よく書けた」「バランスのよい」しかも「力作」であり、ある意味では欠点のない美しさを持っている。

 それらが、その当時のベートーヴェンの本心の発露だったかどうかは分からない。しかし、音楽家としての自負はいかに高かろうと、健全で分かりやすい音楽を書かなければ仕事にありつけないのも事実。精一杯「人々に愛される」「優れた音楽家」であろうとしていたことは確かだろう。

 ところが、このコンサートの直後から、ベートーヴェンは聴覚の異常を感じるようになり、やがてピアノ演奏どころか日常生活にも不便な「難聴」の状態になる。これは、音を扱う音楽家としては致命的である。人一倍よく聴こえる耳を持っていなければならない職業なのに、その商売道具そのものを失ってしまうのだ。

Ludwig6 かくして「何でも出来る音楽家」どころか「演奏家」としての未来をも断念せざるを得ない状況を自覚し、決定的な挫折を迎えたベートーヴェンは、32歳(1802年)には有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」を書くことになる。
 確かに、音楽家としてこれから階段を上って行こうとするのに、耳が聴こえなくなると言うのは、自殺を考えても不思議ではない状況だ。結果としてベートーヴェンはその選択はしなかったものの、それまでの自分の音楽からはハッキリと決別する意思を固める。

 ここで、おそらく音楽史上初めて「芸術音楽」という概念が誕生する。それは「聴衆にこびたり、お金を得たり、社会的に健全を装う」ことを否定し、「純粋に自己の創作意欲のみに忠実に」音楽を創る姿勢であり、いわゆる「娯楽音楽」の反語となる(形而上学的な…早い話が非現実的な)概念である。

 しかし、それは裏を返せば、もはや聴衆にこびることも、お金を得ることも、健全を装うことも「出来なくなった」ベートーヴェンが、絶望の果てに思い付いた「復讐の雄叫び」と言えなくもない。

 これを後世ニーチェは〈ルサンチマン〉などという言い方で説明しているが、今で言うなら〈逆ギレ〉か。現実の世界ではもはや何によっても勝利を得ることが不可能となった〈決定的な弱者〉は、理念(空想)の世界でのみすべてに逆襲することが出来る。
 ベートーヴェンはそれを実践することにした。他人に何と言われようと本音を叩き付ける…激情型の「作曲家」として生きる決意を固めたのである。
 
 かくして翌1803年に生まれたのが〈交響曲第3番変ホ長調(エロイカ)〉。フランス革命の思想的な影響やナポレオン・ボナパルトの英雄像などを取り込んだこの音楽は、全4楽章で1時間近い巨大さと規模を持つ異形の交響曲である。
 それは、明らかに「(従来の)交響曲」としてはバランスを失した、(この時代としては)誇大妄想狂の産物とでも言えるような作品だ。しかし、それは逆に、新しい「交響曲」という概念が誕生した瞬間でもあった。
 以後、交響曲は、作曲家がその信じる思想と理想と(そして妄想)をすべてぶちまけた「集大成」的な作品として存在することになる。まさしく、この作品から交響曲の歴史が始まったのである。

 ■芸術としての交響曲へ

 そして、オーケストラによる「作曲」という新しい翼を得たベートーヴェンは、次に「具体的な劇性をもったドラマ」としてのオペラの創作に向かう。それは、ある意味では当然の「進化」の方向と言えなくもない。同じドラマ性の表出でも、抽象的にならざるをえない純器楽の〈交響曲〉より、セリフや筋書きのある〈オペラ〉の方がより理想的で壮大な世界を描けるからだ。

 しかし、残念ながら理想の「芸術」を目指す作曲家にとって、現実の「興業」に巻き込まれるオペラの世界はあまりに制御不能だったのだろう。徹底的に苦戦を余儀なくされ、「レオノーレ」「フィデリオ」と名前を変え、版を変えて書き直し、なんとか「オペラで成功する」ことを願ったが、遂にそれは果たされずに終わることになる。

 それでも、三十代半ばの男盛りを迎えて燃えたぎる創作意欲は、連続して書かれた〈交響曲第4番変ロ長調〉〈第5番ハ短調〉〈第6番へ長調(田園)〉という3つの傑作へと結実する。(というより、オペラ不成功のフラストレーションや怨念の爆発が、これらの作品を書かせたような気さえする…)

 疾走感をもった〈第4番〉、緊張感をたたえた〈第5番〉、幸福感に満ちた〈第6番〉、という見事なキャラクターの違いを聴かせるこの3作、さらに〈第4番〉は古典的で軽やかな形式感、〈第5番〉は前衛的で重厚な構築感、〈第6番〉は標題音楽的で視覚的な構成感…がそれぞれ作曲の課題として認められる。一種の三部作と言っていいかも知れない。

Scoreno5 特に〈第5番〉における、「タタタ・ター」というきわめて短いモチーフを積み上げ組み立ててゆく第5番の圧倒的な構築感は、作曲技法的にも音楽的にも見事のひとことに尽きる。
 いや、それよりなにより、西洋音楽の基本中の基本、ドミナント(属和音)→トニカ(主和音)、および〈短調〉→〈長調〉という構図を、「闘争」→「勝利」という図式に模したのも画期的だ。
 シンプルきわまりないにもかかわらずこれほど効果最大かつ説得力最高の「方法論」には、頭がくらくらするほどである。

 一方、第6番では、モチーフを何度も何度も繰り返し流すことで(現代のミニマル音楽に通じるような)、情緒的かつ視覚的な風景を生み出すことに成功している。作曲技法としては、後のワグナーの楽劇や現代の映画音楽の先駆と言うべき特筆すべき手法に満ちているのも注目すべきだろう。
 一般に「標題音楽」とか「描写音楽」というと低く見られがちだが、この作品こそ実はポスト・ベートーヴェン世代(ベルリオーズやワーグナー!)に最大の影響を与えた「ロマン主義」の原点なのである。
 
 かくして、この3つの交響曲によって、芸術音楽の頂点を担う「交響曲」という概念は確立された。ただし、それは逆に言えば、本来は作曲手腕をアピールするための「手段」が、作曲行為そのものの「目的」になってしまったという「倒錯」の瞬間でもあったわけなのだが・・・

 ちなみに、〈第4番〉は1807年の個展コンサートで〈ピアノ協奏曲第4番〉と共に披露されそこそこ評価されている。しかし、古今の交響曲の傑作中の傑作〈第5番〉と〈第6番〉は翌1808年の個展コンサートで同時に披露されたものの、大失敗に終わったというのは有名な話。
 交響曲の傑作が「拍手も得られず、お金ににもならない」という呪いは、この瞬間に始まったと言える。「あの〈運命〉〈田園〉すら、聴衆の支持を得られず、お金にもならなかったのだから」という事実は、キリストの受難に匹敵する呪縛を、その後の音楽史に残したと言っていいかも知れない。閑話休題。

 ■交響曲の完成と未来

Ludvig4 しかし、それでもめげずに、ベートーヴェンは2年ほどブランクを空けた後、〈第7番イ長調〉と〈第8番ヘ長調〉という兄弟作品を書き下ろす。終始リズミカルで挑戦的な〈第7番〉と古典的なドラマ性を持つ〈第8番〉というキャラクターの違いは歴然とあるものの、ほどよい幸福感と完成度の高さが共通している。

 四十代になって書かれたこの2作のうち、ビート感を持ったリズムに満ちた〈第7番〉は、作曲技法的には第5の延長線上にある。モチーフを積み重ね大伽藍を組み上げてゆく5番に対して、こちらは(付点音符によるスキップするような)リズム細胞で壮大な祭典を組み上げてゆく。
 (ちなみに、第6番が「田園に着いた幸福感」や「自然への賛歌」を描いた標題音楽だと言うのなら、この第7番は絶対「お酒を飲んで酔っぱらった幸福感」や「バッカスの神への賛歌」を描いた標題音楽であるべきだと思うのだが如何?)

 対して〈第8番〉は、直線的で古典的な純度の高さを追求し、ベートーヴェンとしては第2番以来久々の「バランスのとれた」交響曲となっている。加えて、独特のユーモアと幸福感にあふれているのも特徴だ。
 これもリズム細胞が全曲を支配しているが、7番とは対照的に(付点音符のつかない)メトロノーム的な(どこか無機質な)リズムでドライヴさせているのも面白い。ある意味では、ベートーヴェンの考えた〈交響曲〉の理想型はこの2作にあると言ってもいいのかも知れない。

 ちなみに、構想順から言うとヘ長調の方が〈第7番〉でイ長調が〈第8番〉という可能性もあったように思う。流れから言うと「田園」から「ヘ長調交響曲」へ繋がる方が自然だからだ。
 しかし、そうすると「ヘ長調」が2曲続くことになる。それで番号を入れ替えたのだろうか?(蛇足ながら〈運命〉と〈田園〉も、初演の時は田園の方が第5番で運命が第6番だったそうな)

 また、この時期に第7番と同時に「ウェリントンの勝利(いわゆる「戦争交響曲)」という曲も「交響曲」として発表されている。これは戦勝祝いで書かれた(オーケストラで戦闘場面を描いた見せ物っぽい)機会音楽だが、ベートーヴェンの生前はもっとも大衆受けした有名な作品となった。
 もちろん番号付きではなかったから現在では彼の交響曲シリーズの中には数えられないが、それを言うなら次の第9交響曲も確か正式には「シラーの詩による合唱付きの大交響曲」というようなタイトルだったはず。
 となると、さてベートーヴェン自身が果たして「9番目の交響曲」という認識で作曲したのかどうか?、ちょっと不明なところもなきにしもあらずなのである。

No9a そして〈第9番〉である。四十代の初めに書いた第8番から10年以上を経て、もうかれこれ五十代の半ばを迎えたベートーヴェンが、それまでの交響曲の常識をすべて覆す異常な作品を書き上げた。それが合唱付きの巨作〈交響曲第9番ニ短調〉である。

 この曲、現在ではもちろん音楽史上未曾有の傑作として知られているが、純粋に作曲作品として見た場合、この曲はあまりにアンバランスで常軌を逸した音楽であることは否めない。冷静にこのスコアを見る限り「どうかしている」としか言いようがないのだ。
 実際、これを発表した当時のベートーヴェンは、耳がほとんど聴こえないこともあって偏屈で人嫌いになり、半ば世捨て人のようになっている。繰り返し書き直し続けたオペラ「フィデリオ」も成功とはほど遠く、作品も晦渋な分かりにくいもの(現在では「深遠」とも評されるが)ばかりになる。

 そんな中で、独唱と合唱の付いた長大で巨大な交響曲を書いた真意はどこにあったのだろう?と常々考える。「全人類への抱擁」とか「星空の彼方の神」を歌い上げる…などというのは、当時のベートーヴェンの現実的生活の中ではもっとも「あり得ない」志向であり、一歩間違えれば、(青年時代のフランス革命の理想に燃えた時期を回想した)中年作曲家の誇大妄想(たわごと)の産物にすぎないとも言えそうだからだ。

 事実、初演は(耳の聴こえない彼が喝采に気付かなかったという感動的な逸話も含めて)成功裏に終わったものの、その後ワーグナーが復活上演を果たすまで「わけの分からない巨作」として不評だったことがそれを裏付ける。

No9 にもかかわらずこの曲が(現代において)傑作として流布している理由はただひとつ。あまりに不可解でアンバランスで歪んだ巨人が最後に歌い始める、あまりにシンプルな(それゆえに圧倒的な)「メロディ」。それに尽きる。
 あのメロディがなかったら、この曲は世紀の駄作として終わった可能性もある。音楽の圧倒的な感興がある反面、構成や楽器法やバランスはあちこちで破綻している。ベートーヴェンは交響曲と言う大伽藍を一人で組み上げ、結局それを最後にぶち壊したかったのかも知れないとさえ思えてくるほどだ。

 しかし、彼の交響曲は生き残った。
 そして「9」というナンバーが、交響曲にとって聖なるナンバーとなった。

   *

パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団

7月16日(祝・月)東京オペラシティ
・ベートーヴェン
「プロメテウスの創造物」序曲
「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」(vn:諏訪内晶子)
「交響曲第3番変ホ長調〈英雄〉」

7月17日(火)紀尾井ホール
・ベートーヴェン
「ピアノ協奏曲第2番変ロ長調」(p:仲道郁代)
「交響曲第8番ヘ長調」
「ピアノ協奏曲第5番変ホ長調〈皇帝〉」

7月20日(金)横浜みなとみらいホール
・ベートーヴェン
「コリオラン序曲」
「交響曲第4番変ロ長調」
「交響曲第7番イ長調」

7月21日(土)横浜みなとみらいホール
・ベートーヴェン
「エグモント序曲」
「三重協奏曲ハ長調」
「交響曲第2番ニ長調」

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2007/06/10

マーラーに聴く人類の行く末

Mahlera むかし、マーラーの墓に詣でたことがある。  自分の作品の演奏に立ち会いにウィーンに寄った時、「そう言えば、マーラーの墓があるのだっけ」と思いつき、とある本の「ウィーン郊外のグリンツィングという所に墓地がある」という一行だけを頼りに、(ろくに場所を調べもせず)ぶらっと出かけたのである。  その地グリンツィング(Grinzing)は、市内から市電(路面電車)を乗り継いで20分ほどの終点駅。とは言え、駅舎も何もないような小さな駅で、降りてもどこにもそれらしいガイドはない。しかし地図をよく見ると、駅をひとつほど戻った小高い丘の上に墓地のマークがあったので、そこを目指して歩くこと数十分。ようやく辿り着いたのは日本で言うと墓園のような感じの処で、門前には花屋があり、「マーラーのお墓は?」と聞くと、「ああ、あるよ」という感じで番号(墓の地番)を教えてくれた。 Grinzinga 墓石は「GUSTAV MAHLER」とだけ書かれたそっけないもので、特にほかの墓に比べて優遇されている様子もない。マーラーは「私を知っているものはそれだけで充分だし、そうでないものに知ってもらう必要はない」と言って、名前以外は刻ませなかったそうだが、なるほど。これなら彼の名前を知らない観光客が訪れる気遣いはまずない。マーラー先生のひねくれた苦虫を噛み潰したような顔が思い浮かぶ。  ちなみに、ヘルシンキ郊外のヤルヴェンパーにあるシベリウスの墓も「JEAN SIBELIUS」とだけ書かれたシンプルきわまりないもの。ただし、こちらは自分の家(アイノラ)の庭にあるので、(違う意味で)知らない人がやって来る気遣いはまずない。「名前だけ書いてあれば充分」という同じシンプル指向でも、その背景はかなり違うような気がする。  それにしても、ベートーヴェンやシューベルト、シュトラウス父子からブラームス、そしてあのシェーンベルクまで、ウィーンで活躍した大作曲家たちはみんな中央墓地に眠っていて、観光名所になっているのに……と思うと、「マーラー先生、なんだかずいぶん差別されてません?」というのが正直な印象だった。 Cond2 しかし、それもそのはず。マーラーが死んだ1911年の時点では、彼は(身も蓋もなく言ってしまえば)「下手な作曲をする気難しい指揮者」にすぎず、一般の(特にウィーンの)音楽愛好家たちにはそもそも作曲家としてほとんど知られていないなかった。当時、マーラーをベートーヴェンやブラームスと並べて「大作曲家」呼ばわりする人間など、まず存在しなかったと言っていいほどなのだ。    なにしろ同じ「作曲もする指揮者」としては、友人でもあったリヒャルト・シュトラウスの方が人気も社会的地位も認知度もはるかに上。R=シュトラウスがその後、オペラ「薔薇の騎士」で大人気を博し、長生きをしてナチス政権下でドイツにおける音楽総裁という最高位にまで登り詰めたことを思うと、マーラーの方はウィーンを追われてニューヨークに渡り、そこで病気になってわずか50歳の若さで死の床に着いてしまうのだから、ほとんど挫折した末の「負け犬」的な死だ。  さらに音楽的な見地から見ても、若い頃は「巨人」や「復活」など前衛的で過激な交響曲でそこそこ楽壇にショックを与えたものの、シェーンベルクやストラヴィンスキーら次世代の現代音楽が台頭して来ては失速ぎみ。第3番以降の作風は、ほとんど「過去のロマン派の生き残り」に過ぎなくなっているのも致命的だ。  そのうえ、もっとも聴衆から乖離した「交響曲」というジャンルに固執した上、すべての作がほとんど再演不可能な巨大で不経済な編成による異常な長さのものばかり。これでは、「(指揮者の地位を利用して)道楽で書いている日曜作曲家」と後ろ指さされてしまうのも無理はない。  なにしろ、マーラーが最初の交響曲を書き始めた頃には、既にドビュッシーが現代音楽の幕開けを告げる「牧神の午後への前奏曲」を発表しているし、その死の年にはポリリズムから複調までを駆使したストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」が生まれているのである。  そのあたりのことを思うと、20世紀を迎えてもなお「大地の歌」や「交響曲第9番」のような後ろ向きの濃厚なロマン派音楽を書いているアマチュア作曲家になど、もはや出る幕はなかったと言うべきだろう。 Beethovena しかも、(不遇の晩年を過ごしながら)死んだことによって一躍その「音楽」に再評価の光が当たったモーツァルトやべートーヴェンと比べ、時代も悪かった。  マーラーの死後1920年代には「無調音楽」が台頭してきていて、調性を持った交響曲などを書く作曲家は「退嬰的なロマン主義者」として音楽界からは無視され…(この時代に登場し〈モーツァルトの再来〉とまで称賛されたコルンゴルトが、後期ロマン派風の音楽を20世紀に書き続けたゆえに楽壇から抹殺されたことは、まさにその象徴的な事件だ)。  さらに1930年代からのナチスの時代には「ユダヤ人音楽家」として社会的にも排斥されるという二重の不遇を受けることになった。このダブル・パンチは決定的である。  つまり、マーラーは挫折と失意と共に死に、その死と共に彼の音楽は無視され葬り去られ、過去の(それこそ膨大な数の)無名の作曲家たちと一緒に、「歴史の彼方に消えてしまう音楽」の仲間入りをするはずだったのである。           *  ところが、彼の音楽は死後60年ほどを経て、息を吹き返す。  私も(クラシックを聴き始めた学生時代のことで)よく憶えているが、マーラーの交響曲は戦後から60年代までのいわゆる「前衛」音楽全盛期には「時代遅れの退嬰ロマン派作曲家」という扱いだったし、普通のクラシック愛好家からも、「指揮の片手間に支離滅裂な長い交響曲を書いていたアマチュアの日曜作曲家」というくらいの認識だった。 Walter コンサートでたまに演奏されるのは、もっとも短く編成がコンパクトな第4番くらい。レコード(当時はLP)で手に入るのも、せいぜいワルター指揮の1番2番と9番ほか、単発のもの数点に限られていた。全集はクーベリックによるもの(ドイツ・グラモフォン)が唯一あったが売れている気配はなかったし、ニューヨーク・フィル常任時代のバーンスタインのマーラー演奏も、贔屓の引き倒し(実はこのレコードのおかげで私は一時「マーラー嫌い」になっていたほど)にしか聴こえなかった。  もっとも、あんまり好意的に聴けなかったのは、時代のせいもある。なにしろマーラーの交響曲と来たら、ほとんどの曲が1時間半近い長さでLP2枚組。大学卒の初任給が1万数千円、学食のラーメンが35円の時代に、交響曲1曲しか入っていないLPが3600円とか4200円とかしたわけで、そんな交響曲など「非常識な代物」でしかなかったのだ。  おかげでその頃は、同じように「LP2枚組の非常識な長さ」を誇っていたブルックナーとマーラーが、「ゲテモノ好きマニア向け交響曲作家」として、常に抱き合わせで語られていた。  その頃、普通のクラシック愛好家に「ブルックナーとマーラーとどっちが好き?」などと聞いても、例えばガールフレンドに「ベンゼン核とカルボニル基とどっちが好き?」と聞いたのと同じ、「はぁ?何言ってんの?」という顔をされたに違いない(ちなみに、わたしは断然ベンゼン核…もとい…ブルックナー党だった!)。  その流れが変わったのは、1971年の映画「ベニスに死す」(ルキノ・ヴィスコンティ:監督)からだとよく言われる。原作はトーマス・マン。年老いた作曲家アッシェンバッハが静養に寄ったベニスで美少年タジオに会い、その「愛」に身もだえしながら死んでゆく奇妙な映画だが、全編に流れるマーラーのアダージェット(交響曲第5番より)が耽美的(かつ退廃的)な雰囲気を醸し出していて話題になった。 1361m この映画のヒットによって「アダージェット」がある種の音楽的人気を得た影響があった……のかどうか、1973年にはカラヤンが初のマーラー録音として交響曲第5番を取り上げ、これもちょっとした話題になった。(この演奏は後に「アダージョ・カラヤン」という大ヒット・アルバムでふたたび脚光を浴び、「アダージョ・ブーム」あるいは「ヒーリング(癒しの)ミュージック」と言う一ジャンルを確立ることになるのは、ご存知の通り)  ちなみに、当時のカラヤンというのは(現在では想像も出来ないかも知れないが)クラシック音楽の人気すべてを一身に受けていたかのような指揮者で、「巨人、カラヤン、卵焼き」(正しくは「巨人、大鵬、卵焼き」。素人や女子供が好きな三大アイテム。今で言うなら「ヨン様、キムタク、ハンカチ王子」か?)とジョークでささやかれたほど、クラシックに興味のない一般人にもその名前が浸透していた有名人だった。  そのカラヤンがマーラーを録音し始めた。戦時中はナチス党員だったことでも有名な彼が、ユダヤ人作曲家マーラーを取り上げことも驚きだったが、当時最大のライバルだったユダヤ系指揮者バーンスタインのお家芸であるマーラーに手を染めたと言うのも両方のファンからは驚きを持って迎えられた。これは(狭いクラシック界でのことではあるが)確かに「画期的な大事件」だったのだ。(その後、カラヤンは「第4番」「第6番」「第9番」「大地の歌」と録音したものの、全交響曲は結局録音せずに終わったのだが…)  マーラーのリバイバル(復活)はまさにこの瞬間に始まった。  きっかけが「映画音楽としての〈アダージェット〉のヒット」というのは、クラシック愛好家としてはちょっと複雑な思いがあるが、この前後、例えば1968年にはSF映画「2001年宇宙の旅」(スタンリー・キューブリック監督)で「ツァラトゥストラはかく語りき」の冒頭部分が使われたのをきっかけにリヒャルト・シュトラウスも復活を果たしている。これ以後、映画(あるいはテレビ)という媒体は、クラシック音楽界も無視出来ない重要なメディアとなるのである。  とは言え、最初に「映画音楽としてのヒット」があったにしろ、その後の本格的なマーラーのリバイバルは、その後ろにある大きな時代の潮流と背景なしには語れない。  時代遅れのロマン派と過小評価されていたマーラーが、クラシック界であたかも新しい時代の寵児のようなブームを迎えたのは、この「70年代後半」という時代における社会の動向が大きく関わっているからだ。           * Avangarde その最も重要なキイワードのひとつは「前衛の終焉」だ。  クラシック音楽の作曲界は、第二次世界大戦後(1950〜60年代)にいわゆる「現代音楽」あるいは「前衛音楽」として、新しいサウンド、新しい語法、新しい音楽概念、新しい記譜法…などなど、斬新でショッキングな話題を供給して世間の注目を得た。  ケージ、シュトックハウゼン、ブーレーズ、リゲティ、ペンデレツキ、クセナキス、武満徹などなど、ある種「スター」とでも言っていいような作曲家たちが次々と登場し、スキャンダラスな新しい作品を発表した。それは、ふつうの聴衆には全く理解出来ない音楽だったにしろ、「なんだか知らないけど凄い!」「科学が進んだ未来では、音楽もこういう摩訶不思議なものになるのに違いない!」という「幻想」を抱かせたことは確かだった。  その「幻想」の前では、もはや調性やメロディのある伝統的な(普通の)音楽は「時代の進化に逆行する(時代遅れの)音楽」であり、「より新しく」「より伝統破壊的で」「より自由な」「より進化した」音楽こそが20世紀の汎世界的な音楽だと、多くの人が(なんとなく)信じてしまったとしても無理からぬことだったのだ。  当時のアヴァンギャルドや電子音楽などは、それほどまでに鮮烈な「新しさ」を持っていた。しかし、最新のニュースを載せた新聞も翌日には古新聞になるように、「新しい」だけのものは賞味期限がある。わずか十数年ほどで「現代音楽」の最大にして唯一の取り柄だった「新しさ」と「自由さ」は失速し、逆に「調性がなく」「メロディもなく」「耳障りで」「大衆性がない」という負の部分ばかりが目立つようになってしまった。 Abomb そのあたりは同時期の「科学信仰の終焉」ともシンクロしている。  第二次世界大戦後はそれこそ世界中の人間が(恐怖や不安を伴いながらも)「原爆という〈地球を破壊しかねない最終兵器〉を持った人類は今こそ、地球最強最高の無敵の存在になった」と感じていた。  未来は(この最終兵器による絶滅さえ回避すれば)、飛行機や自動車やテレビなどの科学文明が世界中をひとつにし、人類はロケットで宇宙に進出し、科学が「より新しく」「より便利で」「より進化した」社会を作り、全人類が理想的なひとつの世界国家のもとに平和で高度な文明を永遠に築いてゆくのだ…という「大いなる物語」が信じられていたのである。  しかし、その「大いなる物語」も、科学物質による大気や河川あるいは土壌の汚染、開発による自然破壊、野生動物の絶滅、食品添加物や薬害などによる人間の身体への影響、などなど科学文明の「負の部分」の拡大によって揺らいで来た。  人間は今まで直線的に「進化」してきて、これからも一直線に「進化」し続けるだろう、と思っていたのに、「実は堂々巡りしているだけなのではないか?」あるいは「もしかしたら自滅に向かって退化しつつあるんじゃないか?」という「悩み(ストレス)」を人類全体が持つようになったのである。  こうなると、どちら向きが「新しく」、どちら向きが「古い」のかすら分からなくなってくる。そして、何が「主流」で何が「支流」か・・・何が「正しく」、何が「正しくない」のかすら・・・混沌としてくるのも当然だろう。  それは「価値観の多様化」とも言えるが、逆に言えば「価値観の解体」であり、「普遍性」や「伝統」の危機でもある。かくして、「聖」も「俗」も同等で、「ホンモノ」も「ニセモノ」も等価値の・・・ある意味では「楽園のような」、しかし、ある意味では「地獄のような」世界が到来したのである。  さらに60年代にプレスリーやビートルズによって「ロック・ミュージック」が台頭してきてからは、旧来のアダルト(大人)中心文化に対して「若者文化」が世界的に巨大な影響力を持ち始め、音楽やファッションだけではなく思想や文化そのものも変質し始めたことも大きい。  ここに至って、世界における「大人たちの常識」は見事に解体し、良く言えば「個人の自由」がすべてに優先する平等志向の世界、悪く言えば35億人(70年代当時)すべて価値も指向もばらばらな「無秩序」で自分勝手な世界に、70代後半以降の人間社会は変質していったわけである。           * Orch とは言え、クラシック音楽を好んで聴くようなレベルの生活水準にある多くの人間にとっては、戦争や飢餓にまみれることなく音楽を享受出来る「近代的な生活」が(もちろん世界にはその恩恵をこうむっていない人たちも数多いけれど)やって来たのも事実。  新しく機能的な大ホールが世界中あちこちに建つようになり、一般の人々もラジオやテレビやレコードでどんな種類の音楽でも気軽に聴けるようになり、録音はステレオとなり高性能オーディオが音楽愛好家に普及し、近代的な大編成のオーケストラも世界各都市に誕生するようになり、演奏家の技術レベルも高いものになってきた。  となると、演奏家も聴衆も、近代的なホールで名技を聞かせ、大編成のオーケストラを鳴らし、オーディオ的にも効果的な音響を駆使し、LPの時代にふさわしい新しさを持ち、しかも「聴いて愉しむ」ことが出来る音楽を必要とするようになるのは当然の帰結だろう。  しかし、「無調音楽」以降のクラシック界の現代作曲家たちは、「前衛の時代」のバブルの味を忘れられず、「夢よもう一度」という幻想にかまけたまま、軌道修正すら出来ずにいる。(まあ、確かに今まで信じ切っていたものを「すべて間違いだった」と捨て去り、まったく違った別の道を行くと言うのは並大抵のことではないのだが)。  これでは、大規模で高音質なサウンドで「メロディ」や「協和音」や「リズム」を鳴らす音楽など書いてくれそうにない。一体どうしたらいいのだろうか?  結論はシンプルだった。  あれ(現代音楽)はなかったことにして  無調音楽直前に戻ればいい。  かくして、マーラーが「引っ張り出されて」きた。  そうと割り切ってしまえば、マーラーの(大オーケストラと合唱を不経済に使う)非常識な巨大さも、ロックバンドが何万人を収容するホールで巨大コンサートを開き、何百万枚というアルバムを売り上げる時代には、当たり前の「誇大妄想」として受け入られる。  個人の音楽愛好家としても、家にあるオーディオ装置で大オーケストラのサウンドをたっぷり満喫出来るなら、LP1面に楽章がひとつしか入らなくて全2枚組になっても(諸物価が軒並み上がる中でレコード1枚の値段は上がってないこともあり)たいした出費ではない。  そして音楽的に見ても、マーラーの音楽の弱点だった(昔はよかった…的な)後ろ向きなロマン主義、(結論がなかなか出ずにうじうじしているせいで)不必要に長く複雑な曲の構造、サウンドは大仰なくせに脆弱な(負け犬のつぶやきのような)内容・・・。それらも、前衛の時代には「退嬰的」と否定されていたが、逆に、前衛という「一直線の進化」という夢に挫折した現代人にとって、実に「身につまされる」共感を得られる音楽に聴こえる。  また、全体的には暗くて長ったらしく煮え切らない音楽ながら、最後のコーダは一応虚栄心を満足させるかのように大音響フォルティッシモ(か余韻たっぷりの泣かせるピアニシモ)で終わるのも、聴き手にとっては高ポイントだ。 Inbal さらに、指揮者界の世代交代の事情も大きい。バッハやベートーヴェンやブラームスやチャイコフスキーなどの泰西名曲は既に老大家指揮者たちの名演が記憶に残っていて、若い指揮者の出る幕はないけれど、ステレオ&デジタルによる新録音、しかも大豪華サウンドなのに既存の名盤がないマーラーともなれば、新しい時代の交響曲録音としてマーケットを開拓できる。(しかも、死後70年を経て、著作権も消失しているし!)  事実、レヴァイン、アバド、インバル、テンシュテット、ショルティ、メータ、ハイティンクなど多くの「新世代」指揮者が、マーラーの交響曲をきっかけに指揮活動を活発化している。  その裏には、マーラーの持つ「ユダヤ性」が、「反ワーグナー的」な意味合いを持つ、ということも含めて戦後の西欧社会における色々な思惑が横たわっているに違いないのだが、そのあたりのアブナイ話題について深入りするのはここではやめておこう。  蛇足ながら「現代音楽界」にも、その当時「新ロマン主義(ネオ・ロマンティシズム)」などという言い方で、もう一度ハーモニーやメロディを取り戻そうという流派が登場したこともあった。  近代音楽の時代に「ふたたび(バッハやハイドンなどの)クラシック(古典派)に戻る」のが「新古典主義」なら、20世紀に「ふたたび(ワーグナーやR・シュトラウスなどの)ロマン派に戻る」のは「新ロマン主義」というわけだ。  現代音楽界におけるこの大変革がもし成就して、調性もメロディも大衆性も兼ね備えた「20世紀の新ロマン主義の大作曲家」がこの時点に西欧社会で生まれていたら、マーラーの出る幕は(もしかしたら)なかったかも知れない。  しかし、それはベートーヴェンやモーツァルトやワーグナーやプッチーニやチャイコフスキーなどの綺羅星のごとき大作曲家たちの名曲を相手に、メロディやハーモニーで真っ正面から勝負するに等しいわけで、相当な音楽性と根性とを必要とするのはご想像の通り。  ところが、クラシック音楽の作曲界が無調音楽に汚染されている間に、メロディを書く才能のある若手はみんなクラシック音楽を見限り、ロックバンドを始めたりミュージカルや映画音楽の世界に行ってしまった・・・。  これでは、対抗馬の生まれようもない。結果、現代音楽界は有効な改革案を実行出来ないまま、演奏家と聴衆のニーズを見失い、妥協と折衷で墜落だけを逃れる迷走の状態に陥ってゆく。  かくしてマーラーの時代が来たのである。

インバル フィルハーモニア管弦楽団 マーラー・チクルス 2007年7月4日(水) ・マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」 ・マーラー:交響曲第1番「巨人」 2007年7月5日(木) ・マーラー:交響曲第2番「復活」 2007年7月9日(月) ・マーラー:亡き子をしのぶ歌 ・マーラー:交響曲第5番 2007年7月10日(火) ・マーラー:交響曲第9番  エリアフ・インバル指揮フィルハーモニア管弦楽団  東京芸術劇場大ホール

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2007/05/10

ピアソラの20世紀

Adios_nonino アストル・ピアソラの音楽を初めて聴いたのは、もう30年以上も前、私がまだ大学2年生だった1973年頃のことだ。  きっかけは高校の時に部活のオーケストラ(慶應高校ワグネル・ソサイエティ・オーケストラ)でヴァイオリンを弾いていた友人のひとりから借りたレコードだった。  そのヴァイオリンの彼は、高校のオーケストラではショスタコーヴィチの交響曲第5番を一緒に演奏した仲だったのだが、大学に上がってからはクラシックから離れ、なぜか「タンゴ研究会」のようなクラブに入ってタンゴの演奏を始めていた。  とは言っても、クラシックのヴァイオリンを弾いていた人間がいきなり即興でタンゴなど弾けるわけもなく、かと言ってタンゴの曲などというのがそうそうスコアになって売っているはずもない。そこで「作曲家を目指しているキミなら、レコードから楽曲をコピーしてスコアに出来るんじゃないか?」と、レコードを持って私のところに頼みに来たようなわけなのである。 Bandneon しかし、私もさすがにタンゴなど詳しいわけもなく、ヴァイオリンにバンドネオンそれにピアノとギターそしてベースというようなアンサンブルであることもその時に初めて知ったほど。アコーデオンと同じような楽器だと思っていたバンドネオンが、実は鍵盤がなくボタン(しかも特殊な並び方をしている!)で演奏する不可思議な楽器だと知ったのもその頃のことである。  かくして、何枚かタンゴのレコードを渡されて「このアルバムの何番目の曲と、そっちのアルバムの何番目の曲と・・・」というようなリクエストを受けて、耳だけを頼りに採譜してスコアを書くことになった。(もっともその時の曲についてはほとんど記憶がない。「インスピラシオン」とか「ガウチョの嘆き」とかいうタイトルだったと思うが、バンドネオンの即興パートを楽譜にするのが物凄く大変だったことだけは覚えている)  その時、参考にとタンゴのレコードを十何枚か借りて聴いたのだが、所詮タンゴはタンゴ。どれもこれも同じに聴こえてさほどの興味は持てなかった。しかし、その中に一枚だけ強烈に心を惹かれたアルバムがあった。それがアストル・ピアソラの「アディオス・ノニーノ」だった。  中でも標題作の「アディオス・ノニーノ」は、胸を締めつけられるようなメロディと強靱なリズムが圧倒的な感動を生む音楽。一聴して「一体この音楽は何なんだ?」とショックを受け、「ピアソラと言うのは一体何者なんだ?」とすぐさまヴァイオリンの彼を問いただすことになる。 In_tokyo_1982_1 その彼いわく、当時のピアソラはひとことで言えば「タンゴの異端児」。伝統的なタンゴを破壊し、ジャズや現代音楽にかぶれた「タンゴでないタンゴ」をやっている「変人」ということだった。  確かにその音楽には「ジャズ」の要素はあるが、同時にストラヴィンスキーやバルトークのようなクラシック近代音楽の要素もあり、さらにビートルズが確立した「汎世界音楽」としてのロックの影響も組み込まれている。  にもかかわらず鮮烈だったのは、その音楽が「心をかき立てずにはおけないパッション」を確実に持っていることだった。先の「アディオス・ノニーノ」にしても、この作品が1959年に彼の父(ノニーノ)の死の報を聞いた悲しみの中で作られた、というエピソードを知らなくとも、胸を打つその「叫び」のような音楽を感じることが出来る。「すごい」と思った。    ちなみに、1970年代初期のその頃と言えば、ピンク・フロイドやイエスあるいはエマーソン・レイク・アンド・パーマーと言った(ポスト・ビートルズ世代の)ロック・ミュージシャンたちが「プログレッシヴ・ロック」と呼ばれる先鋭的なロックの名作を次々に発表していた時代。  同じ年(1973年)の日本ではデビュー・アルバム「ひこうき雲」を発表した荒井由実(松任谷由実)に代表されるニュー・ミュージックが産声を上げていたし、かく言う私も「朱鷺によせる哀歌」を構想してひそかに調性の復権を狙っていた頃。  つまり、世代(私が20歳になりたてで彼の音楽を知った時、ピアソラは既に52歳)は違うとは言え、「ビートルズに影響を受けて育った新しい世代の音楽」を志す「同志」だったわけなのである。 Piazzola アストル・ピアソラ。1921年アルゼンチン生まれ。若い頃からバンドネオン奏者として活躍し、20代半ばからは自身の楽団を率い、自作の演奏を中心に活動を始める。一時はタンゴに限界を感じてアルベルト・ヒナステラあるいはナディア・ブーランジェについてクラシックの作曲技法を学んだこともあったが、やはり自分の音楽はタンゴであると確信し、1955年(30代半ば)からは現代的な作風に転じて「ジャズ・タンゴ」あるいは「モダン・タンゴ」を主唱し、名作を続々と発表し始める。  以後、国内盤輸入盤を問わず彼のレコード(当時はLPである)を買い漁った。最初に聴いた60年代のピアソラ五重奏団によるトローバ原盤の「アディオス・ノニーノ」(1969)。次いで、同じ頃の録音による(当時は幻の名盤だった)タンゴ・オペラの傑作「ブエノスアイレスのマリア」(1968)、連作「ブエノスアイレスの四季」の全曲がライヴで聴ける「レジーナ劇場のアストル・ピアソラ」(1970)、「悪魔のロマンス」などの絶品のメロディが聴ける「ニューヨークのアストル・ピアソラ」(1965)。  後年、録音条件の良いレコードやCDが多く発表されるようになったが、いまだに私の中のベストはこの頃(60年代〜70年代初期)の五重奏団による演奏だ。まだ異端児と評されていたこの頃、ピアソラは「私の音楽を分かってくれる人間など世界で一人もいないだろう」と呟いていたと言う。  しかし、にもかかわらずその音楽は限りなく熱く、切々たる存在感を放射している。その力強さと切なさを兼ね備えた演奏は、どんな新録音にも凌駕出来ない品格を持っているように思えてならない。 Maria_2 この時から、私はことあるごとに「ストラヴィンスキー亡き後、現存する最高の作曲家はショスタコーヴィチとアストル・ピアソラである」と言い続けてきた。もっとも、当時は「百歩譲ってショスタコーヴィチはまあいいとして、ピアソラって誰?」と苦笑されるのが関の山だったけれど・・・。  なにしろ70年代当時というのは前衛音楽の最盛期。「調性がある音楽など現代音楽とは言えない」時代であり、マーラーすら「後ろ向きロマン派の最後の末裔」でしかなかった時代。マーラーがブームになりリバイバルを遂げるのは1971年の映画「ベニスに死す」以後何年も経ってからである。  ショスタコーヴィチにしても「前衛の時代にソヴィエトの政府御用達で〈交響曲〉など書いている時代遅れの例外的作曲家」という評価だったほどなのだから何をかいわんや。「ヘンなタンゴ」を書いているバンドネオン演奏家を「現代クラシック音楽の作曲家」に数える人間などどこを探してもいなかった。  この二人が紛う事無き「20世紀後半を代表する大作曲家」と認知されるようになるのは、それから20年ほど経った、1990年代まで待たなければならなかったのである。  それでも、タンゴ界でのピアソラは(知る人ぞ知る)ビッグ・ネームになっていたので、1982年には初来日することになった。その時はもちろん中野サンプラザまで聴きに行った。  とても60歳を迎えた音楽家とは思えない力強い演奏にも驚かされたが、客席に武満徹氏がいたことにもちょっと驚いた。どうやら誰かに奨められたらしく(小室等氏だという話をどこかで聞いた事があるが、定かではない)、前半が終わったところでそそくさと帰ってしまわれたが、新しい音楽を見出す氏のアンテナの鋭さにはちょっと感心してしまった。閑話休題。 Photo_9 やがてクラシック音楽界でもピアソラが(作曲家として)注目を受け始める。そのきっかけは、1990年のクロノス・カルテットと競演したミニ・アルバム「ファイヴ・タンゴ・センセーションズ」あたりからだろうか。  もちろんそれ以前の80年代にも、バンドネオンのための協奏曲とか、フルートとギターによる組曲「タンゴの歴史」とか、ロストロポーヴィチの委嘱で書いた「ル・グラン・タンゴ」など、オーケストラやクラシックの演奏家とのコラボレーションで作曲され話題になった作品も少なくない。しかし、クラシック界から「現代(同時代の)の作曲家」と認知されるようになったのはこの時期、90年代になってからだ。  しかし、まさにブームになりかけた1992年7月4日、ピアソラは死去する。  71歳だった。  その直後から、追悼盤や旧作のCD化などによりピアソラの音楽は広まっていった。そこには「エスニック」と呼ばれる民族音楽系ポップスの流行という背景もあったし、コンピュータによるデジタル・ビートに飽きた人たちが、アナログのリズムに郷愁を見出した点も見逃せない。当然ながらタンゴそのものもかなり注目を受けるようになっていた。  その中から「ピアソラ」という名前が突出したのは、一般の人にとっては1995年のSF映画「12モンキーズ」(ブルース・ウィルス、ブラッド・ピット主演)のテーマで組曲「プンタ・デル・エステ」の一曲が使われたこと、そして1997年のヨー・ヨー・マによる「リベル・タンゴ」のヒットが大きい。 Kremerしかし、この時期、「現代の音楽」としてのピアソラの音楽は、「難解な現代音楽」に困り切っていた現代のクラシック演奏家たちの間に確実に広まりつつあった。  1995年には須川展也氏による「カフェ1930」  1996年にはクレーメルによる「ピアソラへのオマージュ」、  1997年にはヨー・ヨー・マによる「プレイズ・ピアソラ」、  1998年にはクレーメルによる「ブエノスアイレスのマリア」、  2000年には「ブエノスアイレスの四季」とヴィヴァルディの「四季」を組み合わせた「エイト・シーズンズ」などなど・・・クラシックの演奏家たちによるピアソラのトリビュート・アルバムが次々に生まれるようになった。  この「ピアソラ・ブーム」の一番のポイントは、彼の音楽はタンゴの楽団だけでなく、様々なクラシックのアンサンブルによって演奏可能だという点だ。  現代音楽は高度の作曲技法を駆使しすぎて、ピアノで書かれたらピアノで、オーケストラで書かれたらオーケストラで演奏する以外に使い道がない。楽器のサウンドや奏法の特殊性に依存しきっているので、その他の楽器で演奏したり違う編成にアレンジしてしまったら、作品として成立しないのである。  しかし、ピアソラの音楽は(彼自身が同じ曲を五重奏団や八重奏団や九重奏団など様々な編成で演奏していたこともあり)、ピアノで弾こうが別の楽器にアレンジしようが基本的に「ピアソラの音楽」でありえる。これは(20世紀以前の音楽では当たり前のことだったが)現代では希有のことと言っていい。  上に挙げたアルバムを見てもそれは明らかだ。サクソフォン(須川展也)でもヴァイオリン(クレーメル)でもチェロ(ヨー・ヨー・マ)でも弾ける現代の音楽などあるだろうか?。  以来、ピアソラの音楽は、ピアノ、フルート、ギター、ヴァイオリン、チェロなどのソロ楽器から、弦楽四重奏や室内アンサンブルにピアノ・デュオ、そしてオーケストラに到るまで多種多様なアレンジを施されて演奏されている。  いや、逆に言えば「多種多様なアレンジが可能」だからこそ、彼の音楽はタンゴと言う枠を超えた「20世紀の音楽」になったと言うことなのだろう。  かくして予言は成就されたのである。

Kremerata_1ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ室内管弦楽団 ・マーラー:交響曲第10番より「アダージョ」 ・カンチェリ:リトル・ダネリアーダ(日本初演) ・ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ(アンサンブル版) ・ピアソラ:「ブエノスアイレスの四季」  2007年6月20日(水)7:00pm 東京オペラシティコンサートホール  

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2007/04/10

20世紀における「現代音楽でない音楽」の系譜

Title_1 20世紀は(残念ながら)「現代(無調)音楽」の時代である。

 バッハ〜モーツァルト〜ベートーヴェン〜シューベルト〜ショパン〜ワグナー〜マーラー〜ドビュッシーなどなど数百年に渡って脈々と伝えられてきた「クラシック音楽」には、その時代時代に「新しいがゆえに難解で理解しにくい音楽」が確かに存在した。
 しかし、新しく・難解な音楽も、数十年の時を経てみれば受け入れられる。新しい音楽は、理解し受け入れるのに「少しばかり」時間が必要なだけなのだ。そう思われてきた。

 ところが、20世紀に登場した「現代(無調)音楽」は、ちょっと様子が違う。

 無調で作品が書かれるようになったのは、まさしく20世紀初頭である。それは、調性にがんじがらめになり肥大した後期ロマン派音楽の反動として、産声を上げた。
 最初は「太刀打ちできないほど巨大な」伝統的音楽への「ごまめの歯ぎしり」的な反抗に過ぎなかったはずだった。音楽とはメロディでありハーモニーでありリズムであり、それらすべてが存在しない無調の音楽が世界を席捲するなど、「ありえないこと」のはずだったのである。

 しかし、第一次世界大戦後の1920年代あたりから「十二音主義」という理論をまとった現代音楽の萌芽は、徐々に伝統的な「音楽」を駆逐し始めた。
 それは第二次世界大戦後に到るとさらに顕著になり、「無調でなければ、現代の音楽ではない」とまで言われるようになった。

 もちろん、そんな「現代(前衛)音楽」にも、純粋な愛好家は存在した。聴いて訳が分からなくても「何か新しいもの」を感じさせることに意義を見出す聴き方もあるからだ。
 しかし、通常の音楽の愛好家たち…音楽にメロディとリズムとハーモニーを期待する聴き手たち…は、「50年聴いても理解不可能な」音楽から離反し始め、やがて新作(および現代の作品)に「音楽」であることをまったく期待しなくなった。

 どんな芸術的ジャンルでも、もっとも注目される作品・作家・現象は、「一番新しいもの」であるというのが鉄則である。
 文学でも、いかにゲーテやシェークスピアなどの古典が素晴らしくとも、今月の新刊がもっとも注目され、売れる。スポーツも、過去の大選手よりは若い選手の活躍に人々は惹き付けられる。政治家ですらそうだ。
 新作・新人が待ち望まれ期待されるのが、人間のすべての営みの根源なのである。

 しかし、20世紀のある時期を境に、クラシック音楽界は「新しい音楽」への期待を失った。はかない期待を持って新作の発表は延々繰り返されるが、実際に聴かれるのは、過去の音楽ばかり。そして、演奏されるのも過去の音楽ばかり…という状況に堕してしまったわけである。

 ■20世紀初頭の「まだ音楽的な」音楽たち

 それでも、20世紀も最初の十数年ほどは、まだ「無調」音楽の脅威もなく、19世紀ロマン派の香りを残した名品や、近代の鮮やかなサウンドをまとった眉目秀麗な音楽は数多く作曲されていた。
 厳密に言えば、20世紀の最初の10年はまだ19世紀の「健全なる?」延長線上にあったと言っていいかも知れない。

 例えば・・・
Sibelius_1 1901年:シベリウス交響曲第2番、
   マーラー:交響曲第5番、
   ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番、
   エルガー:行進曲「威風堂々」
 1903年:シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
 1904年:プッチーニ「蝶々夫人」
 1905年:ドビュッシー:交響詩「海」、
   R=シュトラウス「サロメ」
 1908年:マーラー:交響曲「大地の歌」
 1909年:ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番
 1910年:マーラー:交響曲第9番、
   ストラヴィンスキー「火の鳥」、
   R=シュトラウス「薔薇の騎士」
 1912年:ラヴェル「ダフニスとクロエ」

 このあたりは、普通の聴衆が普通に「クラシック音楽」と言って聴ける作品ばかりだ。逆に、「え?この曲が20世紀の作品?」と驚かれそうな作品さえある。

 しかし、20世紀がこのままクラシックの伝統を正統に保持してゆく…という儚い夢は、10年足らずで打ち砕かれることになる。現実の世界で、19世紀的な伝統を破壊する「事件」が起こり始めるのである。

 *1914年:第一次世界大戦勃発
 *1917年:ロシア革命
 *1918年:第一次世界大戦終結

 ■最後の作曲家たちの死 

 このヨーロッパを震撼させた大事件は、19世紀的な「ロマン派の夢」を完膚無きまでに打ち砕いた。戦車や飛行機や戦艦や大砲の存在する現実の世界に、「理想」や「夢」のような幻想を綴る音楽などは木っ端みじんに破壊されたわけである。

 それでも、世界大戦前後にはまだまだ「真っ当な音楽」を書く大作曲家たちの方が圧倒的な支持を得ていた。現実が非人間的になればなったで、逆に「人間性」を歌い上げる幻想が必要になるからだ。
 そんなわけで、大戦後も1910年代から20年代にかけては、まだ(音楽的な幻想の香りを残した)名作が生まれ続けている。

 例えば・・・
Rstrauss 1915年:シベリウス:交響曲第5番、
   R=シュトラウス「アルプス交響曲」
 1916年:ホルスト「惑星」
 1919年:エルガー:チェロ協奏曲
 1922年:ラヴェル編曲版「展覧会の絵」
 1924年:ガーシュウィン「ラプソディ・イン・ブルー」、
   シベリウス:交響曲第7番、
   レスピーギ「ローマの松」
 1925年:ショスタコーヴィチ:交響曲第1番
 1926年:プッチーニ「トゥーランドット」
 1928年:ラヴェル「ボレロ」

 この時代、シベリウスやリヒャルト・シュトラウスあるいはプッチーニやイギリス近代の作曲家たちなど「最後のロマン派の作曲家」はまだ現存していたし、現役で活躍していた。
 あるいはラヴェルやガーシュウィンあるいは初期のバルトークなど、無調でない方向で「新しい20世紀の音楽」を模索する試みも続いていた。

 一方、人類史上初の実験的「社会主義国家」として誕生したソヴィエト連邦では、国家的な規模で「音楽とは、民族的であり、大衆的であり、かつ社会主義的でなければならない」という主義(いわゆる「社会主義リアリズム」)を貫くことで、西欧的な「形式主義的な」流れからは隔絶された音楽芸術の文化を造ろうとした。
 まだ「音楽が音楽でありえることが可能な時代」ではあったのである。

 しかし、クラシック音楽の最後の砦となるべき大作曲家たちが次々に死去していったのも、悲しいことにこの時期である。まさに、クラシック音楽の創作界にとって「死滅の時代」と言っていいかも知れない。

 1911年:マーラー死去
 1918年:ドビュッシー死去
 1921年:サンサーンス死去
 1924年:フォーレ死去、プッチーニ死去
 1934年:エルガー死去
 1937年:ラヴェル死去

 ■現代音楽の誕生

 そして、この「クラシック音楽の絶滅」に対して、入れ替わりに登場した鬼っ子が「現代(無調)音楽」である。

 とは言え、無調でない「現代音楽」の系譜と言うのも存在したわけで、その誕生は、1894年にドビュッシーが「牧神の午後への前奏曲」を発表した時と言うことにでもなるかも知れない。(その前年1893年にドヴォルザークの「新世界より」が発表されていることも考えてみれば象徴的だ)。

 このドビュッシーの音楽は、音楽に新しいサウンドをもたらした革命であり、「新しい音楽」だと誰もが感じたものの、「従来の音楽を否定するもの」とは受け取られなかった。1894年から1912年までのこの時期は、現代音楽にとっての「胎動期」とでも言うべきだろうか。

 そして運命の1913年。ストラヴィンスキーのバレエ「春の祭典」がパリで初演されて大スキャンダルとなり、「現代音楽の時代」が幕を開ける。誰もが「新しい音楽」だと感じ、同時に「従来の音楽を破壊するもの」と受け取った。それは画期的な出来事だった。

 それは、カオス(混沌)としか思えないような、かつてのロマン派音楽とはまったく違ったサウンドとシステムとを持つ「とんでもない音楽」の誕生だったが、そこには確実に「心を熱くする」ある種の「音楽性」が存在した。
 リズムは「ビート」となり、メロディは「モード(旋法)」に変貌していたが、まぎれもない「音楽」である。これこそ「正しい現代音楽」と言うべきだろう。

Schonberg ところが、同じ頃、20世紀初頭にはまだ後期ロマン主義的な作風で「浄められた夜」(1899)や「グレの歌」(1900/11)などを書いていたシェーンベルクが、期弟子のベルクやウェーベルンと共に「無調音楽」を書き始める。

 しかし、鮮烈なサウンドで聴衆を魅了した「牧神の午後」、強烈なインパクトで勇名を轟かせた「春の祭典」という2大名作に比べると、「調性のない音楽」という試み自体は「ヘンな響きの音楽」という程度の反響しか起こしえなかった。
 現実に、「牧神」や「春の祭典」に比する無調音楽の名作は? と訊かれたら、どんな現代音楽マニアでも答えに窮するに違いない。「5つの管弦楽曲」?、「月に憑かれたピエロ」?、「モーゼとアロン」?。残念ながら話にならない。

 しかし、第一次世界大戦というブランクを経た後の1920年代になると、彼らは無調音楽をシステム化した「十二音主義」なる作曲法を主唱・標榜し、一躍「新しい時代の音楽」として注目を浴び始める。

 このあたりの奇妙な「時代の趨勢」には戦慄を覚えざるをえない。なにしろ「新しい時代の音楽」と誤認して「死に神」を呼び込んでしまったようなものだからだ。
 それは、全く同時期に相前後してヨーロッパが呼び込んだ「ソヴィエト共産主義」や「ナチズム」そして「原子爆弾」などとも呼応する、悔やんでも悔やみきれない「20世紀の絶望」と言えるかも知れない。

 もちろん、そのメカニズムについては色々な理由と必然があるのだが、それを論じるのは別の機会にしよう。なにはともあれ(もはや後戻りの出来ない)「現代音楽の時代」が始まったのである。

 ■1930年代以降の「不毛の荒野」

 かくして1930年代を迎えると、いわゆる「クラシックの名曲」に数えられる作品はパッタリと姿を消す。かろうじてクラシカルな大衆性を備えた作品を(落ち穂拾いのように探してみると)残るのはこんな感じだろうか・・・

 1934年:ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲」
 1936年:プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」
 1937年:ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
 1939年:ロドリーゴ「アランフェス協奏曲」

Rachmaninoff この時代、旧勢力の最後の末裔となったラフマニノフは、「時代遅れで退嬰的」と言われようとロマンを追い求める「古き良き時代を夢見る老人」のような存在に追い込まれてしまった。今でも現代音楽界では、メロディやハーモニーのある音楽に対する侮蔑の言葉として「ラフマニノフみたい」という言い方をするほどだ。

 とは言え、人類の音楽がすべて「無調・前衛」に走ったわけではない。(ラフマニノフが、いまだに絶大な人気を誇っているのがいい証拠だ)。大衆音楽のジャンルではこの時代アメリカでは「ジャズ」が隆盛を極め、レコードやラジオの発達によって「ポピュラー音楽」が世界を席巻し始めているからだ。

 つまり、メロディ・リズム・ハーモニー…という音楽の三大要素は、人類の音楽史から疎外されたわけではない。むしろ、逆に「大衆音楽」として強化され、新しいメディアによって世界的に伝播したと言っていいのである。
 しかし、それが逆にクラシック系の創作界から見ると、「〈芸術〉音楽は〈大衆〉音楽とは違う」〜「大衆音楽はリズムとメロディばかりに満ちている」〜「(それなら)芸術音楽はリズムやメロディを排除すべきだ」という(意固地な)論理に凝り固まって行ったようにも思える。

 なにはともあれ、クラシックの創作界から「メロディ・リズム・ハーモニー」、そして「大衆的な分かりやすさ」が決定的に排除され疎外されてゆく。それは「悪魔的な」事実である。

 そして、その傾向に第二次世界大戦の勃発がとどめを刺す。
 *1939年:第二次世界大戦勃発
 *1945年:第二次世界大戦終結

 爆弾や大砲や戦車の登場によって打ち砕かれた「(芸術家たちの)音楽の夢」は、さらに原子爆弾やホロコーストによって決定的に壊死を迎えた。かつて「一瞬して数万人を殺戮する殺人兵器や、数百万の民族を大量虐殺する現実の前では、いかなる音楽も詩も意味を失う」と言った人がいたが、まさに実感だったのだろう。

 人間はもちろんそれでも強欲に生きてゆくのだが、この時点でまさしく、〈神〉も〈芸術〉も死に、「クラシック(芸術)音楽」の創作史は終わりを遂げたのかも知れない。

 

 ■現代音楽とは何だったのか?

Webern とは言え、「無調」に始まった現代音楽は、別に「音楽の破壊」を目論んで生まれたわけではない。そのことは明記しておかなければならないだろう。
 シェーンベルクら新ウィーン楽派が「十二音主義」を主唱した時点では、それは確かに「新しい時代の音楽の形」を呈示した重要な改革だったのである。

 無調というのは、その名の通り「調性がない」。
 ということは、調性の「呪縛」から自由になった音楽が書ける。

 それまでの伝統的な音楽の構造の中では、例えばドイツ人にはイタリア風オペラは書けない、フランス人がポーランド風マズルカを書くのは不可能、日本人がドイツ的フーガを書くなんてありえない…というような、人種あるいは才能に根ざす「音楽の制約」があった。

 しかし、無調の音楽の世界ではそんな制約は生まれない。
 誰もが自由に、何の制約もなく「純粋に音楽的な」発想で音を組み合わせられる。
 これが「現代音楽」の最大の革命だった。

 そのあたりは、王家や貴族が君臨する「旧体制」を壊して、民衆が何の制約もなく自由に暮らせる平等社会を作ろうとした「共産主義革命」と発想が実に良く似ている。

 しかし、(残念なことに)共産主義革命が、古き権威と悪しき束縛を壊したにもかかわらず、やがて「新たな権威」と「新たな束縛」を生んだのと同じ道を、現代音楽も辿ることになる。
 伝統的な呪縛から離れ、自由に音を紡ぐことこそが「現代音楽」の理念だったはずなのに、やがて
 ・・・メロディを歌ってはいけない
 ・・・協和音やハーモニーなどもってのほか
 ・・・感覚(聴いて心地よい)より知性(論理的であること)を優先するべきである
 ・・・芸術なのだから、大衆に受けたりしてはいけない
 ・・・新しいこと人やっていないことをするべきである
 などなど、禁止事項ばかりになってしまったのである。

 これは、「現代音楽」の陥った最大の絶望と言うしかない。

 御存知のように、人類はこの時期(つまり20世紀初頭)に、いくつか「未来への理想に燃えて一歩を踏み出し」ながら、結果的に世界を巻き込んだ巨大な「悪夢」になってしまった事象を知っている。

 例えば、ロシア革命の末に生まれたソヴィエト共産主義。
 そして、ヒトラー率いるナチスによる全体主義。
 アジア中を巻き込んだ大東亜戦争。
 あるいは、原子物理学の成果として生まれた原子爆弾。

 これに、シェーンベルク博士の「無調音楽」も加えるべきだろうか?
 それとも、「死人は出ていない」ことを理由に、外すべきだろうか?

 あれから世界は、大虐殺や戦争や原子爆弾による破壊を越え、新しい世紀を生きている。
 20世紀の悪夢は、ひとまず精算されたかに見える。
 しかし、音楽は? 

 

 ■20世紀における「現代音楽でない作曲家」たち

 最後に、20世紀に主要な作品を発表しながら、全く「現代音楽」という印象のない大作曲家たちを思い付くまま挙げて、この稿の終わりとしよう。

Debussy ★クロード・ドビュッシー
 1862年フランス生まれ。1894年32歳の時の「牧神の午後への前奏曲」で、現代の音楽の新しい時代を告げたが、その音楽は新しいハーモニー感に裏打ちされた美しいサウンドに満ちている。20世紀最初の数年間に、オペラ「ペレアスとメリザンド」(1902)、交響詩「海」(1905)などの名作を生み落としているほか、ショパン以後最大のピアニズムの大家と称されるほどピアノ曲(前奏曲集、子供の領分、ベルガマスク組曲、映像など)に名曲が多い。
 1918年、第一次世界大戦中に56歳で死去。

Ravel ★モーリス・ラヴェル
 1875年フランス生まれ。ドビュッシーと共にフランス近代を代表する作曲家だが、現代音楽の始祖シェーンベルクと同い年。本格的な作家活動は20世紀になってからで、その音楽に「現代的」な感触はありながら、メロディやハーモニーの美しさは比類が無く、どこまでも精緻で叙情的。
 代表作は「水の戯れ」(1901)、「スペイン狂詩曲」(1907)、「ダフニスとクロエ」(1912)など。ピアノ曲とオーケストラ曲に名作が多く、特に「オーケストレイションの魔術師」と呼ばれるほど、そのサウンドは鮮烈。
 第一次世界大戦中は従軍してトラックの運転手を務め、戦後も、「ボレロ」(1928)、左手のためのピアノ協奏曲(1931)、ピアノ協奏曲ト長調(1931)など傑作を多く発表したが、1932年の交通事故を境に作曲が出来なくなり、1937年62歳で死去。

 ★セルゲイ・ラフマニノフ
 1873年ロシア生まれ。モスクワ音楽院を卒業し作曲活動を開始するが、行き詰まって神経衰弱となる。その後、ピアノ協奏曲第2番をひっさげて再登場し、作曲家として世界的になるのが20世紀を迎えた1901年。
 その後1904年にボリショイ歌劇場の指揮者を務め、1909年にはピアノ協奏曲第3番を仕上げ、アメリカへの演奏旅行も大成功。古き良き時代の「ロマンチックで華麗な」しかし「悩める魂」を持った独特の哀愁を持った音楽は、ある意味「クラシック音楽の王道」であり、古臭いと言われながらも人気は今も衰えることを知らない。
 1917年44歳の年にロシア革命が勃発したのを機にアメリカに移住。その後の後半生はビバリーヒルズに邸宅を構え、スイスと行き来しつつ演奏活動などを行なう。1934年61歳の時に「パガニーニの主題による狂詩曲」を書き残し、第二次世界大戦中の1943年に死去。70歳。

 ★ジャン・シベリウス
 1865年フィンランド生まれ。最初はヴァイオリニストを志したが、演奏家になるのは断念し、ヘルシンキ音楽院で作曲を学ぶ。ベルリンにしばらく留学し、20世紀を迎える1900年35歳の時の「フィンランディア」および翌01年の交響曲第2番で、国際的にも知られる作曲家となる。
 その後、ヴァイオリン協奏曲(1903)や、交響曲・交響詩などの名作を発表して、国民楽派を代表する作曲家として名声をほしいままにする。イギリスやアメリカでの人気は絶大で、当時は「現存するクラシック作曲家の中でもっともコンサートでの演奏頻度の高い作曲家」だった。
 しかし、1924年の交響曲第7番、翌25年の交響詩「タピオラ」を最後に、60歳以降は全くと言っていいほど作品を発表しなくなり、30年の「謎の沈黙」を続けた後、1957年に91歳で死去。

 ★グスタフ・マーラー
 1860年チェコ生まれ。後期ロマン派最後の作曲家と言えなくもないが、交響曲第5番(1901)以降は20世紀に書かれた作品。交響曲「大地の歌」(1908)、交響曲第9番(1909)を書き上げた後、交響曲第10番を未完のまま、1911年51歳で死去。

 ★リヒャルト・シュトラウス
 1864年ドイツ生まれ。マーラーとほぼ同じ時期に、ドイツの歌劇場&オーケストラの指揮者として活躍しながら交響詩「ティルオイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」「ツァラトゥストラはかく語りき」など作曲でも活躍する。
 20世紀に入ってからも、オペラ「サロメ」(1905)や「薔薇の騎士」(1910)など主にオペラのジャンルで数多くの名作を作曲。1930年代以降は、ナチス政権下のドイツで音楽界の頂点を極めるが、戦後は完全に「過去の作曲家」となる。
 それでも、「メタモルフォーゼン」(1945)、「4つの最後の歌」(1948)など、ロマン派最後の残照のような作品を残し、1949年85歳で死去。

Puccini_1 ★ジャコモ・プッチーニ
 1858年イタリア生まれ。イタリア・オペラの大作曲家ヴェルディに魅せられてオペラ作家を目指し、「マノン・レスコー」(1893)、「ラ・ボエーム」(1896)で人気オペラ作家の仲間入りをする。
 以後、20世紀を迎えてからも、「トスカ」(1900)、「蝶々夫人」(1904)、三部作(外套、修道女アンジェリカ、ジャンニ・スキッキ)(1918)と名作を続けざまに発表する。
 1924年、最後の大作オペラ「トゥーランドット」を未完のまま66歳で死去。
 
 ★グスタフ・ホルスト
 1874年イギリス生まれ。イギリスは20世紀も「音楽らしい音楽」を書いた作曲家がたくさんいる。ある意味で「アマチュア的な音楽愛好家」の気質があるのだろう。1916年に作曲された「惑星」一作があまりにも有名になってしまったが、合唱曲や吹奏楽曲にも佳品が多い。1934年に59歳で死去。

Vwilliams ★ヴォーン・ウィリアムス
 1872年イギリス生まれ。大器晩成型の大作曲家。交響曲第1番「海の交響曲」が1910年の作。以後、第2番「ロンドン交響曲」、第4番「田園交響曲」、第7番「南極交響曲」のほか、ヴァイオリン独奏が美しい「あげひばり」など名作多数。
 85歳という長寿を真っ当して、亡くなったのは1958年。

 ★フレデリック・ディーリアス
 1862年イギリス生まれ。両親はドイツ人で、1888年以降フランスに住んでいたにも関わらず「イギリスの作曲家」という不思議な人。「ブリッグの定期市」(1907)、「春初めてのカッコウを聞いて」(1912)、「夏の歌」(1931)など、田園の叙情にあふれた名品を20世紀になってから数多く生み落としている。
 1934年に72歳で死去。

 ★ベラ・バルトーク
 1881年ハンガリー生まれ。若い頃はロマン派+ハンガリー民族音楽の狭間で揺れる作風だったが、ストラヴィンスキーとシェーンベルクによる「現代音楽」の洗礼を受けた1910年代以降は、独特の作曲法に基づく名作を多数作曲。代表作は「中国の不思議な役人」(1924)、「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」(1936)、「管弦楽のための協奏曲」(1943)など。
 現代音楽的な晦渋さ難解さは持つが、無調や無機的な音楽にはならず、かと言ってロマン派的な甘さを排した数学的知的オカルト的なアプローチを崩さないその音楽は、ある意味で「現代(無調)音楽」と「音楽」のボーダーライン上にある音楽と言えるかも知れない。1945年、第二次世界大戦終戦の年に64歳で死去。

 ★セルゲイ・プロコフィエフ
 1891年ロシア生まれ。若くして「現代っぽい(未来派)音楽」の作曲家として一世を風靡。ロシア革命から逃れて20代でアメリカに亡命し、ニューヨークやパリを中心に華々しい活躍を遂げる。
 しかし、1933年42歳の時にソヴィエト連邦となった祖国に帰国。その後は、社会主義リアリズムに呼応した(と見える)分かりやすい作風となって佳作を残している。代表作「ロメオとジュリエット」(1936)、「ピーターと狼」(1936)、「アレクサンドル・ネフスキー」(1938)、交響曲第5番(1944)など。
 1953年(のスターリンと同じ日に)61歳で死去。

 最後に、忘れてならないのが・・・
Shostakovich ★ドミトリ・ショスタコーヴィチ
 1906年ロシア生まれ。西欧の現代音楽臭を全くもたない20世紀の作曲家としては、唯一最大の巨匠。1925年のデビュー作「交響曲第1番」以降に書かれた15曲の交響曲、6曲の協奏曲、15曲の弦楽四重奏曲は、西欧の現代音楽界からは「時代錯誤」「退嬰的」「問題外」と罵声を浴びながら、大衆的に圧倒的な人気を誇り、今も「20世紀のクラシック作曲家」としては最大の存在として君臨する。
 とは言え、それは純粋に彼自身の主義や思想から生まれたものではなく、共産主義国家ソヴィエトが彼に無理やり押し付けた「音楽政策」との軋轢から発生したもの、というのが何とも微妙。しかし、1920年代から70年代までの「現代音楽」全盛の時代にあって、まさに孤軍奮闘というべき創作力を発揮し、「最後の良心的な砦」として作品を残し続けた事実は、音楽史上に燦然と輝き続けるに違いない。 1975年69歳で死去。

 そして、この「ショスタコーヴィチ以後」を境にして、1980年代から20世紀の音楽は新たな道を歩み始めるわけなのだが、その話はまた別の機会に・・・

 

プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団

・ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番(pf:上原彩子)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第5番「革命」
 6月2日(土) 2:00p.m. 横浜みなとみらいホール 

・シベリウス:「フィンランディア」
・シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(vn:樫本大進)
・チャイコフスキー:交響曲第5番
 6月5日(火) 7:00p.m. 東京オペラシティコンサートホール 

・チャイコフスキー:幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」
・ショパン:ピアノ協奏曲第1番(pf:ラファウ・ブレハッチ)
・ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
 6月6日(水) 7:00p.m. 東京オペラシティコンサートホール

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2007/03/10

手塚治虫とアトムの時代

Top_6 最近流行りの「昭和30年代」。まだ戦争の傷跡が町のあちこちに残り、日本が戦争に負けた「貧乏な二流国」から立ち直ろうと必死だった時代。団塊の世代よりはちょっぴり若い私(1953年。昭和28年生まれ)はこの時代に少年時代を過ごした。  人々は貧乏だったしモノはなかったし町は汚かった。でも、今から思えば、落ちるところまで落ちた日本が、這い上がることだけを思い、上だけを向いていた時代だったように思う。  その頃の子供たちは、町のところどころにある空襲の焼け跡や壁に残る銃弾の穴などを横目で見つつ、「原っぱ」と呼ばれる空き地で日々暗くなるまで、かくれんぼとか鬼ごっことかチャンバラごっことかで遊んでいた。  テレビもインターネットもゲームもない時代には、「想像力」こそが子供にとって最大の遊び道具だった。想像力さえあれば、空き地に積み上げられた土管が「秘密のロケット基地」に、新聞紙を折った兜が「最強のパワードスーツ」に、落ちていた木の枝が「マシンガン」や「天下の名刀」になった。そして狭い路地は「ガンマンたちが集まる西部劇の町」になったし、古びた家は「スリル満点の幽霊屋敷」に、神社の杜は「猛獣が潜む広大なジャングル」になった。世界は自分たちのものだったのだ。  そんな時代だったから、子供はとにかく「なにかを作る」ことに熱中していた。私も、空き缶のフタで忍者の手裏剣、木材の破片から中世の石弓(今で言うボウガン)、花火と配水管で手製ロケットなどを作ったりして遊んでいた。(もっとも、いずれもちょっとアブナイ傾向だったので、やがて大人たちから禁止されてしまったのだが)  そのうちプラモデルというものが登場すると、飛行機や戦車や戦艦や空母や潜水艦などをせっせと組み立て、あるいは電気機器を解体してはラジオとかアンプとか奇妙な機械を作るのに熱中し始める。  家にピアノはあったものの、音楽は「世の中に色々あるもののひとつ」でしかなく、作曲家になる…などとは夢にも思っていなかった。なりたいものと言ったら2つ。  ひとつは科学者。  もうひとつは漫画家だった。  当時はまだ、未来を作るのは「科学」だと信じられていた時代でもあり、男の子としては原子物理や電気工学あるいは天文学やロボット工学などに憧れていた。なにやら素晴らしいことが出来る「機械」を発明し、宇宙のナゾを解き明かし、病気や戦争や犯罪をこの世の中から消し去ること。それが少年の時の夢のすべてだった。  そして、その情報源というのが「少年雑誌」だった。 Syonen 今でこそ、少年誌というとマンガばかりの本を指すが、当時は読み物の方が遥かに多かった。終戦からまだ十数年という時期だったこともあり、戦記物はそれこそ真珠湾攻撃からミッドウェイ海戦、硫黄島、ゼロ戦、戦艦大和などなど、開戦から終戦に到るまでをほぼ1年間で学習することが出来た。  それにくわえて月世界探検や未来世界を描いた「空想科学もの」、探偵や不可思議な事件を描いた「ミステリーもの」、ちょっと怖い「怪談もの」などなどありとあらゆる魅力的な(そして怪しい)情報がそこには詰まっていた。  昭和34年(1959年)に、初の週刊少年漫画誌「少年マガジン」と「少年サンデー」が創刊される。それまでは「少年」(鉄腕アトムが連載されていた雑誌)・「ぼくら」・「冒険王」など月刊誌が主流だったこのジャンルに、新しい「コミックス」の時代が到来した記念すべき年である。  そして、手塚治虫、藤子不二雄、横山光輝、石森章太郎、ちばてつや、赤塚不二夫、白土三平といったキラ星のごとき漫画家たちが名作を続々と書き始める。  ■手塚治虫との出逢い Atomx 私はこの年に小学校に入学した。そして、最初に買った(買ってもらった)単行本が手塚治虫の「鉄腕アトム」(昭和34年。光文社)だった。  当時は「マンガ」というと、あまり子供には読ませたくないモノであり、小学校のPTAからは「子供に漫画を読ませないようにしましょう」などというお達しが来たりしていたのを記憶している。  しかし、私の父親は手塚治虫に関しては無条件にOKを出していた。その理由が「この人は、医学部を出ているから」(彼は旧制の大阪大学医学部卒。アトム連載開始の年には医師免許も取っている)だったのだが、これは私の曽祖父が医者だったせいだろうか。今となって思うと何ともおかしい(笑)。  この頃、手塚治虫31歳。既に少年漫画界では神様のような存在で、高額所得者として話題になったりもしていたので、新聞でもテレビでも顔はよく知られていた。そして、神話となっている「トキワ荘」から出て、結婚のために「渋谷区代々木初台」というところに新居を構えたのがこの年の秋。  場所は、現在は東京オペラシティがある初台の「商店街」の坂からひとつ道をはいった閑静な住宅地。何故そこまで詳しく知っているかというと、実はここは私の小学校の通学路だったからだ。  そんなわけで、小学校1年生であった私は、この天下のスーパースターに興味津々。下校の時など友だちと一緒によく家を覗きに行った。話をしたり家にあがったりすることなど考えられもしなかったが、姿は時おり見かけた。  時には新聞の取材などをやっていることもあって、友だちなどは記者に写真を撮られて「手塚治虫の家を覗きに来る近所の小学生」というような記事にされたこともあったと記憶している。  今では信じられないが、その家は当時は2階から富士山がよく見えたそうで、一方、階段を上がったところに幽霊が出るといういわく付きの家でもあったそうな。しかし、ここに住んでいたのはわずか数ヶ月で、翌年にはアニメのスタジオ(後の虫プロ)を構えるため富士見台に引っ越してしまう。(それが階段の幽霊のせいかどうかは定かでないけれど)  何はともあれ、私の手塚治虫体験はここが原点なのである。 Atombook_1 この時点での私にとっての手塚マンガの代表作はもちろん「鉄腕アトム」である。最初に買ってもらった単行本2冊は宝物だったし、アトム、お茶の水博士、ヒゲオヤジ先生、天馬博士というキャラクターは、現実の人間より(私の中では)存在感を持っていた。  その頃(50年代まで)のアトムは、正義の味方でもヒーローでもなく、学校に通う普通の少年であり、その物語は「ロボットであることの悲しさ」に満ちていた。だから「アトム赤道を行く」「赤いネコ」「ZZZ総統」「電光人間」「ゲルニカ」「アトラス」「ロボット爆弾」「ブラックルックス」など、ちょっぴり暗い「悩めるロボット少年」としてのアトムが描かれたエピソードは、心に染み込んだまま忘れられない余韻を残している。  また、物語を彩る助演俳優たち、例えば「電光人間」の電光、「幽霊製造機」のプラチナ、「ミドロが沼」のコバルト、「アトラス」のアトラス、「十字架島」のプーク、「ブラックルックス」の少年、「イワンのばか」のイワンなども印象的だった。この頃のアトムは「泣かせるキャラクター」のオンパレードだったのだ。  さらに、「電光人間」のスカンク草井、「赤いネコ」の四ツ足教授、「火星探検」のケチャップ大尉、「人工太陽球」のシャーロック・ホームスパン探偵、「透明巨人」の花房理学士などなど、それだけでひとつの別の物語が作れるような名脇役たちも忘れられない。  一方、アトム以外の手塚作品としては、1960年前後に少年サンデーで連載されていた「0マン」「キャプテンKen」「白いパイロット」「勇者ダン」などが、リアルタイムで毎週読んでいたせいか、強烈な印象を残している。ちなみに、最初に自分のお小遣いで買った単行本は「キャプテンKen」だった。  そんなわけで、(アトム以外の)手塚漫画のベストは?と言われたら、私としては「キャプテンKen」「白いパイロット」そして「新撰組」なのである。  ■アニメ「鉄腕アトム」の登場 Atomtv そして1963年(昭和38年)1月1日、日本初のTVアニメ「鉄腕アトム」が放映される。外国製アニメとしては当時既に、「トムとジェリー」「ヘッケルとジャッケル」「マイティマウス」などが茶の間に流れていたが、漫画で読んでいた主人公がテレビの画面で動くとなるとその衝撃は大きかった。  今でもその瞬間(いとこの家で正月にテレビをつけて一緒に見た)のことを覚えているから、よほど印象的だったのだろう。白黒の画面でぎこちない動き(時々、絵と声が合わなかったりしていた)だったが、とにかく熱狂した。オープニングに流れる「空を越えて〜、ラララ、星の彼方〜」と歌われる主題歌(作曲:高井達雄、作詞:谷川俊太郎。ただし、最初の頃はインストだけで歌詞はなかったと記憶している)は、この時代を生きた人なら知らない人はいないだろう。  しかし、このアニメは原作のアトムとは全く違い、「正義の味方」であり「ヒーロー」である十万馬力のロボットの活躍するファンタジーに変質していた。もちろん、アニメで「悩めるヒーロー」(それが登場するのは15年後の「機動戦士ガンダム」のアムロを待たなければならない)など受け入れられるわけもないから、当然だったのかも知れないが。  逆に、テレビの正義の味方ぶりが原作の漫画の方に伝染して、妹ウランが登場して以降の「アトム」は、やたらと空を飛び十万馬力を駆使し敵をやっつける正義のスーパー少年ロボットになってしまった感がある。  それでも、1960年から64年頃までの作品、「ホットドッグ兵団」「ロボットランド」「アトム対ガロン」「ロボット宇宙艇」「地球最後の日」「地上最大のロボット」などといったエピソードは、子供たちを熱狂させるのに充分なアトムの魅力と、センス・オブ・ワンダーに溢れたストーリーの素晴らしさに満ちあふれていた。  (ちなみに、最強のロボット同士のバトルが人気だった「地上最大のロボット」は、最近、浦沢直樹がリメイク版「PLUTO」を発表し話題になっている)    そして1964年(昭和39年)、東京オリンピックが開催され、日本(東京)は一変する。道路は舗装され、首都高速が頭の上を走り、新幹線が開通し、街はあっという間にキレイになってしまった。「貧乏で汚い二流の都市」だった東京を覚えているのは、たぶん私の世代が最後なのかも知れない。  その頃になると、少年少女マンガで育った第一世代も青年や大人となり、漫画界には「劇画」と呼ばれるリアルなタッチの作品が主流になってゆく。スポーツ根性モノとして一世を風靡した「巨人の星」(1966〜71。川崎のぼる)や「あしたのジョー」(1968〜73。ちばてつや)が社会的事件となったこの時期、単純な正義の味方を貫けなくなった時代の矛盾に巻き込まれたアトムは明らかに失速し始める。  そして、アニメ版のアトムは1966年に放送された最終回(第193話)「地球最大の冒険」で地球を救うため太陽に核爆弾をかかえて突っ込み終了。原作の方も「青騎士」「メラニン一族」「火星から帰ってきた男」などのニヒルで後味の悪いエピソードを残して1968年に掲載紙「少年」の休刊と共に自然消滅してしまう。  私はと言うと、中学時代にはヴェンチャーズやビートルズあるいはウォーカー・ブラザースなどの音楽に熱中し、そして高校に上がった年(1968年)からは、シベリウスの音楽に惹かれて本格的にクラシックの勉強に入り、1970年(昭和45年)の大阪万国博覧会で現代音楽に出逢い、しばらく漫画から離れるようになってしまった。  そして、60年代までは「ワンダー3」「リボンの騎士」「ジャングル大帝」「どろろ」「悟空の大冒険」などヒットアニメを量産して漫画界のトップに君臨していた手塚治虫も、子供向けのテレビ番組では「ウルトラQ」や「ウルトラマン」のような怪獣ものに、そして漫画の方では「劇画」に押されて影が薄くなってゆく。  やがて、アトムが原作・アニメとも終了して70年代に入るとその勢いは衰え、1973年に虫プロダクションが倒産したという報を最後に、一線から退き低迷期を迎えることになる。  その後のことはあまり思い出したくないが(笑)、シベリウスの音楽やプログレッシヴ・ロックやジャズに出逢い、色々あって・・・私は作曲家になった。デビューは1979年。音楽を初めてから10年が経っていた。  ■手塚治虫との再会 Hinotori ふたたび手塚マンガに立ち戻ったのは「火の鳥」という巨作に出逢ってからだ。連載時にリアルタイムで読んだわけではなかったが、ちょうど作曲家としてデビューする前後の1977年頃に5冊ほどを愛蔵版で手に入れて、心の底から驚愕した。  特に「黎明編」(1967)、「未来編」(1967)、「ヤマト編」(1968)、「宇宙編」(1969)、「鳳凰編」(1969)という、アトムの消滅と入れ替えに60年代後半に描かれた連作は、不死の血を持つ永遠の生命である火の鳥をめぐって、神話時代の日本から平安時代、さらにロボット全盛の近未来から地球滅亡の未来に到るまで、過去と未来を交錯させた壮大な物語を描き出した凄まじい名作である。  そこにはまさしく「交響曲」が鳴っていた。もはや「漫画」などではない、壮大な宇宙の叙事詩がそこにはあったのだ。  そして手塚治虫は、70年代後半になって「ブラックジャック」と「三つ目がとおる」でまさしく不死鳥のようなリバイバルを果たし、その圧倒的なストーリー・テラーとしての天才ぶりを世間に見せつける。特に「ブラックジャック」は、毎週毎週よく出来た映画一本分のストーリーを次から次へと繰り出す才能に、だれもが驚嘆した。  80年代になると、漫画界では大友克洋(アキラ)、アニメ界では宮崎駿(風の谷のナウシカ)という才能が「ポスト手塚治虫」としてビッグ・ネームになってゆくが、それでも、成年漫画という新しいジャンルで「陽だまりの樹」や「アドルフに告ぐ」「ネオ・ファウスト」といった大作を発表し続ける手塚治虫の創作意欲はすさまじかった。  その頃「どうしてそんなに寝る間も惜しんで大量に書き続けるのですか?」という質問に、彼はこう答えている。「頭の中にアイデアがバーゲンセールにするほどあるからさ!」  しかし、その壮絶な作家生活の果てに、平成元年(1989年)死去。  60歳と言う若さだった。  日本は、漫画とアニメとロボットという3つの「国技」を生み出した巨大な才能を失った。  ■私の音楽の中のアトム Cd_sym1 その頃から、私の作曲のイメージの中に手塚ワールドのイメージが染み込むようになった。  1990年に書いた「カムイチカプ交響曲」における過去と未来を俯瞰する神の鳥(カムイ・チカプ)はまさしく「火の鳥」のビジョンが元になっているし、1993年のトロンボーン協奏曲「オリオン・マシーン」の冒頭ではTVアニメのアトムのオープニングと同じホールトーン(全音階)のサウンドが鳴り渡る。  そして1997年の「アトム・ハーツ・クラブ・カルテット」という奇妙なタイトルのシリーズは、名前にも「アトム」が登場する。実はこれは、ピンク・フロイドの「原子心母(アトム・ハート・マザー)」のアトムでもあるのだが、第2番ではひそかにアトムのテーマも隠し味のように登場する。  そして、2001年。50年前に「アトムの時代」と夢見ていた遠い未来である「21世紀」がやって来た。残念ながら人の心を持つロボットも、空を飛ぶエアカーも、超小型原子力エンジンもない未来だが、確実に「私たちの21世紀」である。  アトムの物語は、もちろんすべて手塚治虫の空想の世界だが、物語(1966年に書かれた「メラニン一族」のミーバの巻)の中で生みの親の天馬博士がアトムの誕生日を「2003年4月7日」と言っているシーンがある。そこから、誕生年の2003年に合わせて新しいアトムのTVアニメが企画されるという噂が聞こえてきた。  TVアニメ版の「アトム」としては、1963年〜66年に放送された第1作(音楽:高井達雄)、1980年〜81年に放送されたカラー版の第2作(音楽:三枝成彰)に次ぐ、第3作ということになる。 Astroboy この時、思いもかけず「新しく21世紀版としてリニューアルする〈アトム〉の音楽をぜひ」というオファーをいただくことになって、ずっと映画や放送の音楽をまったくやらない「純音楽」の世界にこだわって仕事をしてきた私としては、ちょっと驚いた。  イギリスで録音された私の交響曲(特に第4番)や「アトム・ハーツ・クラブ組曲」(あるいは日頃の言動?)に「手塚治虫ファン」&「アトム好き」の匂い(?)があったのらしい。  アニメの仕事どころか映画やテレビの仕事も未経験(というより避けてきた)だったが、少年時代からのファンであり思い入れの深い「手塚治虫」そして「アトム」と聞いては、断るなどということは微塵も考えられず、一も二もなくOKすることになる。    ただ、当時の私としては「自分はオーケストラの作曲家」であるという自負があったし、手塚治虫がクラシック音楽好きなのも有名な話なので(ムソルグスキーの「展覧会の絵」やチャイコフスキーの交響曲など、多くのクラシック名曲をアニメ化しているし、第1作「アトム」のアトム誕生のシーンでは「運命」が鳴り渡る!)、「音楽はオーケストラで」という条件だけは出させていただいた。  要するに、今回のシリーズで「アトムを通じて子供たちに是非オーケストラ・サウンドを聴いて欲しい!」と目論んだのだわけなのが、嬉しいことに制作側も「音楽はオーケストラで」と意見が一致。冷たくメカニックな未来ではなく、温もりのある「ノスタルジックな未来」を感じさせるサウンドとして、手塚治虫も愛したクラシック音楽のオーケストラが最適ということになった。  余談だが、この時点では、主題歌として耳なじみの「アトムの歌」は、色々な問題(かつて「鉄腕アトム」が「アストロボーイ」としてアメリカなど海外で放送された際の版権の問題など)があって、BGMとしてすら使えるかどうか微妙な状況だった。  おかげで、オープニングとエンディングで流される主題歌に当たる音楽でこのテーマを使うことは断念し、制作会社であるソニー・エンターテインメントのアーティスト、「ZONE」や「藤井フミヤ」によるアトムとはあまり関係のない楽曲が流れることとなった。  御存知のように、最近の番組はほとんど、独自の主題歌やテーマを作らず、関連会社の歌手の新曲をタイアップとして使う。その方が宣伝効果もありCDも売れていいらしいのだが、このあたりの「業界のしがらみ」には失望させられたのも事実である。  (ちなみに、放送の後半では、権利関係がクリアされてなんとか使えるようになり、エンディングでは流せるようになったのだが、時既に遅し…) Astroboycd 一方、劇中の音楽(サウンドトラック)については、丸1年、全50回におよぶ放送の毎週1回1回に違う音楽を作ってつけるわけにも行かないので、まずはフル・オーケストラで「アストロ・ボーイ」「アトムのワルツ」「ウラン」「お茶の水博士」「天馬博士」「地上最大のロボット」「戦闘」「宇宙艇の発進」「悲しみ」「異郷の景色」「大団円」など20曲ほどの主要楽曲を制作することになった。  その後は、回が進むうちにヴァリエーションとして「悲しいアトム」とか「めげているアトム」「嬉しいアトム」「闘うアトム」などのような楽曲注文が来て、順次書き下ろすという形になったのだが、中には、劇中でテレビから流れてくるCMソングとか、登場人物が歌う鼻歌、などというのまであった(笑)。    ちなみに、注文はこんな感じである・・・  M:アトム1(キャラ・モチーフ。戦闘シーンに使用。約4分):冒頭ファンファーレ風に開始。続いて明るく快活なメインモチーフ。全曲を通じ最も印象的に。スペオペ的要素。続いて危機。やや重くなる。必死のアトム。一転して快活な、アップテンポの部分にて終曲。  かくして半年ほどをかけてフル・オーケストラによる20曲ほどを含む100曲近い楽曲を書き下ろし、TVアニメ「アストロボーイ・鉄腕アトム」(監督:小中和哉。制作:手塚プロダクション、ソニー・ピクチャーズ・エンターテインメント。放送:フジテレビ系列)は2003年4月から翌04年3月まで1年間に渡り全50話が放送されることになったのである。  ■アトム・コンサート 2004 少年の頃からの手塚治虫とアトムによせる思いは、アトムの誕生記念のアニメーションにおける音楽を担当する…という形で成就することになった。音楽を長いことやっていると、実に不思議な出逢いがあるものだが、これもそのひとつと言うしかない。  さらなる奇遇として、アトムの育ての親「お茶の水博士」が私と同い年であるというのも、この仕事の最中に知った。2003年4月にアトムが生まれた時に50歳という設定らしいのだが、私も2003年にアトムの音楽を担当した時に50歳。別々の世界の話だが、同い年なのである。  と言うことは、もしかしたら、少年の頃に「科学者になりたい」と思っていた私の、別の姿だったのかも知れない(笑)  ただし、これを機にアニメやテレビの音楽をしようという気はなく、これがこの種の音楽を書く最初で最後の機会であることは譲れなかった。いや、もし手塚治虫氏が生きていたら一度でいい、一緒に仕事をしたかった…とは切に思うけれど。  それでも、放映後、せっかくオーケストラのために書いたこの音楽を、アトムの映像と共に「生のオーケストラ」で子供たちに聴かせてあげられないだろうか、ということからコンサートが制作されたことは、ちょっと楽しい出来事だった。 Qrio 第1回は2004年3月。アトムとお茶の水博士(声の出演)によってオーケストラの楽器が紹介され、巨大なスクリーンに映し出されたアトムの映像を背景にしたフル・オーケストラの世界が多くの子供たちを魅了した。  この時は、現代のアトムというべきロボット「QRIO」がゲストとして登場し、ベートーヴェンの運命を指揮するという歴史的瞬間が話題を集めた。ニュースでも随分紹介されたのでご記憶の方もあるだろうか。  日本の技術者たちが人型ロボットにこだわり、その技術では世界の最高水準なのも、「アトムのようなロボットを作る」という合言葉があったからだという。静かに流れるアトムのテーマに合わせてQRIOが起き上がるシーンは、亡き手塚治虫氏に見せたかったまさに感動の一瞬だった。 Atom また、2005年の愛知万博では、3000人を収容するEXPOドームの巨大なスペースを宇宙船に見立て、宇宙飛行士:毛利衛氏が宇宙の映像と共に登場する演出で会場を沸かせた。   毎回コンサートの最初には「子供たちのための管弦楽入門」(吉松作)という曲で楽器の紹介をし、後半でアトムの映像と共にフル・オーケストラによる組曲を聴き、最後は(その地の小学校に通う)子供たちが大勢登場し、会場のお客さんたちと一緒に「鉄腕アトム」の感動的な大合唱で終わる…という構成も定番となっている。  そして、今年2007年に行われるコンサートでは、最近のクラシック・ブームでTVなどから流れてくる名曲を20曲ほどメドレー風に並べた「コンガラガリアン狂詩曲」、ピアノの300年の歴史を3分で紹介する「ねこふんじゃった変奏曲」(共に、わたくし吉松編曲)、三舩優子さんのピアノによる「ラプソディ・イン・ブルー」が加わり、コンサートを彩ることになっている。  手塚治虫が生んだアトムというキャラクターは、私を含めた数多くの人たちが、少年時代に未来と夢とを象徴する存在として魅せられたように、これからも日本人の心の中に生き続けることだろう。  そして、そこから生まれたささやかなるこのコンサートをきっかけに、新しい21世紀を生きてゆく子供たちが、自分たちの「アトム」を心の中で育ててくれれば、と心から願わずにはいられない。 (付記)冒頭の手塚治虫とアトムの80円切手は、平成9年(1997年)1月に「戦後50年メモリアル」シリーズとして発行されたもの。「私が選んだ懐かしのスター」をテーマに、石原裕次郎、美空ひばりと並んで手塚治虫とアトムが取り上げられた。               * * * ◇アトム・コンサート2007鉄腕アトムと行く!クラシック音楽のステキな世界 ・2007年4月30日(月・祝)11:00/15:00 2回公演。  Bunkamuraオーチャードホール  東京フィルハーモニー交響楽団  指揮:船橋洋介、ピアノ;三舩優子  音楽監督:吉松隆

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