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2008/01/10

音楽の〈和風(ジャポニズム)〉雑感

Japonism ビートルズを聴いてロック音楽に目覚め、チャイフスキーやシベリウスを聴いてクラシック音楽に目覚めた十代の頃、自分が「日本人である」などと(日本にいて)意識したことはほとんどなかった。(あったとしても、オリンピックで日本の選手を応援する一瞬くらいだったろう)。

 東京では、正月と秋祭り以外に着物を来ている人などまず見かけることはなかったし、街にはビルが乱立し道路に車が溢れ、家でも既に畳のある和室より椅子とテーブルがある洋室が中心。能や歌舞伎どころか落語や講談にすらテレビ以外で接することはなく、尺八にしても三味線にしても琴にしても、生の音を聴く機会などまずなかった。(ピアノやギターの音はあちこちから聴こえていたのに!)

 だから、エレキギターをかき鳴らしてロックを歌おうと、オーケストラを指揮して自分の書いた交響曲を演奏しようと、シンセサイザーを駆使して楽曲を作ろうと、そこに自分の努力と運以外の障壁はなく、〈クラシック音楽〉も〈ジャズ〉も〈ロック〉も〈邦楽〉も、音楽は音楽。さしたる違いはないと信じていた。
 
Nodm_2 そうそう。この正月にTVでまとめて見た「のだめカンタービレ」が、まさにそんな世界だ。
 九州の田舎で炬燵にまみれて育った女の子が、音感とピアノの技量だけをきっかけにモーツァルトやシューベルトやショパンを弾き、東京の音大からパリのコンセルヴァトワールまで進んで、世界的なピアニストを目指す。  
 そして、海外で生まれ育ち全く日本的生活を身に付けていない青年が、音楽の才能だけをきっかけにオーケストラの指揮者にあこがれ、ベートーヴェンやブラームスやラフマニノフを演奏し、世界に飛び出してゆく。

 彼らは自分の音楽性や方向については悩むものの、自分が「日本人である」ということについて悩むことは(まだ)一度もない。その自由さは「羨ましい」限りだが、逆に(いかにマンガとは言え)「そのままで大丈夫なのか?」と心配になってしまう。

 もっとも、私も人のことは言えない。70年代(ポスト・ビートルズ時代)のプログレッシヴ・ロックに憧れてバンドでキイボードを弾き始めた時も、ベートーヴェンやシベリウスに憧れて「オーケストラの作曲家」を志した時も、「好きだからやる」という生存本能以外なにもなかった。別に「日本人(東洋人)だからやっちゃいけないなんてことはあるわけがない!」と思っていたわけである。

          *

Rock_2 それが最初に、「ん?」と思ったのは、ロックでだった。

 ロックは(当然ながら)英語で歌う。基本はブルース。これも英語だ。当時一緒にやっていたバンドのリード・ボーカル(今で言うイケメン)氏は、日本人離れしたスタイルで英語もサマになってはいるのだが、実は英語は苦手(学校の授業における英語は…という意味。念のため)。
 それでも、ロックの名曲はすべて英語だったから、それを英語で歌うのは当然であり、それを「カッコいい」と思い、微塵も疑わなかった。

 ところが、ある時、音楽はまったく素人の黒人青年(確か通訳のアルバイトをしながら俳優修業をしていたアメリカ人)に「ちょっと本場の英語の発音を聞かせて」と歌ってもらったところ・・・(青天の霹靂というくらい)驚いた。
 音感やリズム感はまったく素人レベルなのに、英語がクリアなだけで見事な「ロック」になっているのだ。(このことは、英語のしゃべりだけで音楽を成立させる「ラップ音楽」の登場で決定的になるのだが、それはまだまだ後の話だ)。

 この時「あ。英語がネイティヴでない我々にロックは無理だ」と、頭の中で何かが壊れる音がした。ロックに挫折した瞬間である(笑)。(この時にメンバーと「もし日本人がロックで世界に出てゆくとしたら、歌のないインストゥルメンタルしかない」と話したのだが、その戦略は後にイエロー・マジック・オーケストラによって証明されることになる。)

 今でも、もし自分が英語圏の国に生まれていたら、クラシックではなくロックをとっていただろうと思う。それほど「英語がネイティヴでない」ことは致命的に思えたわけだ。

 もちろん、勉強して遜色なく英語を駆使する…という選択肢もあるのだろうが、それでは逆に、今まで20年間日本語をネイティヴにしてきた自分の全否定になる。となると、次は「日本語でロックが歌えるか?」ということになるのだが、その答えは、どう考えても(その時点では)「NO」だった。

Doc82shiro さらに逆のショックもあった。

 例の黒人青年氏は、バンド仲間に「ぼくも黒人に生まれたかった」と言わしめるほど、ラフなファッションが似合い、仕草がカッコよかった。しかし、彼の方は、日本にあこがれて東京に来たくらいなので、和服を着たくて仕方がない。ところが、これがなんとも似合わないのだ。手足が細くて長すぎるせいらしい。

 彼の知り合いの金髪の女優さんもそうだ。ドレスを着たら、それこそ100人の男性が100人とも振り返るような見事なグラマー体形なのだが、どんな豪華な振り袖を着ても(着付けのせいもあるのかも知れないが)失礼ながら学芸会の衣裳にしか見えない。

 それに対して、ドレスでは目立たない日本人体形(?)の日本人女優さんの和服姿のピッタリ決まっていることと言ったら!

 その時に(幾分やぶにらみの視線ながら)思ったのだ。

 なるほど。日本人がいかにカッコよく英語でロック歌っていても、西洋人から見れば、金髪美人が似合わない和服を着ているのと同じか。

 そう言えば、私たちは彼らのたどたどしい日本語を聞いても「日本語お上手ですね」と言う。(もちろん、その逆もあるけれど)。ということは、日本人がカッコよく巻き舌の英語でロックを歌って「お上手デスね」と言われても、そのレベルということか。
 
 そのせいか、ロックに挫折した直後あたりから、なぜか邦楽の若い演奏家との付き合いが生まれ、アルバイトで尺八と琵琶とピアノとベース…などという即興アンサンブルを始めることになった。ちょっぴり「日本」を意識し始めた最初である。
 
        *

Hall 新しい時代に生まれたロックですらそうなのだから、古きヨーロッパの貴族社会で全盛を極めた「クラシック音楽」の場合、事態はもっと複雑かつ深刻なように思える。

 現代の日本人(もちろん自分を含めて)は、洋服を着て椅子とテーブルとベッドのある家で暮らし、パンやパスタを食べ珈琲やワインを飲む暮らしをしている。それ自体は、西欧人の暮らしと大差はない。音楽にしても、普通の家庭にピアノやギターがあり、TVやラジオからは欧米でヒットしているポップスが流れ、子供のころからそう言った西洋の音楽に慣れ親しんでいる。

 だから、その延長線上でロックやジャズやクラシックに魅せられ、モーツァルトやショパンやベートーヴェンに憧れ、パリやウィーンやロンドンやニューヨークを闊歩し、コンサートホールやオペラハウスに通うのは、別に奇妙なことでも何でもない。

 しかし、それらの音楽を「自分の音楽」として再創造しようとする時、奇妙な「違和感」に気付くのだ。

 それは例えば、ヨーロッパの街を歩き、その世界に溶け込んだように思えても、ふと鏡に映った自分の姿は、どこから見ても東洋人であり「異邦人」でしかない…という感覚に似ていると言ったらいいだろうか。

 単に旅行者として通過するならいいのだ。誰もが(お客さんとして)微笑んでくれるだろうから。

 しかし、その音楽の深奥に足を踏み込んだ時、自分の「出自」とその音楽の「出自」との距離感は、無邪気に「音楽に国境はない」などと信じていた甘い期待を打ち砕く。

 それは演奏家の場合、特に深刻なように思える。

 人一倍練習を積み勉強を重ね、コンクールやコンサートでいくら最高のバッハやモーツァルトやシューベルトを演奏しても、(振り袖を着た金髪美人のような)東洋人の外見とのギャップはどうしても付いて回るからだ。

 もちろん、うわべは「人間平等」がグローバル・スタンダードとされているから、それと分かる露骨な差別はない(ことになっている)。それに、ここまで世界が多民族的なカオスになっている現状では、「国籍」がほとんど意味を成さない場面も少なくない。
 ただ、頭でどう納得しようと「日本人がなぜ西洋の音楽を?」という素朴で根源的な疑問は消し去れない。消し去れる筈もない。

Asahi827 こう書くと「日本人には西洋の音楽ができない」と単純に結論付けられてしまいそうだが、このことが決してマイナス要因だけではないということは明記しておこう。なぜなら、自らの「出自」の特異性や違和感こそが、逆に「自分が自分である由縁」でありアイデンティティだと気付けば、短所はいきなり転じて長所となるからだ。

 19世紀後半から20世紀初頭にかけての「民族主義楽派」の登場はその典型だろう。出身地という偏見を逆手にとって、ポーランドからショパンが、ハンガリーからリストが、ロシアからチャイコフスキーが登場し、チェコからスメタナやドヴォルザークが、北欧からグリーグやシベリウスが登場してきて一世を風靡した。

 出自の特異さという「自分の民族的アイデンティティ」は、裏を返せばこれ以上はない強力な武器になる。これはその証明だ。「非西洋的」な「違和感」は、逆に言えば、望んでも手に入れられない強烈無比な「個性」でもあるわけなのだ。

 そして、20世紀中盤の「現代音楽」の時代にも、民族主義的な視点とは全く異なるものの(奇妙なことに)似たような流行があった。

 現代音楽はそもそも、「古きもの」を破壊するというコンセプトのもと調性からリズムから形式から破壊しまくったムーヴメントである。「ヨーロッパの伝統に根ざした音楽」は逆に「古くて悪しきもの」として否定され、斬新で珍奇な音楽素材が「新しい音楽語法」として求められた。(その中には「雑音」や「電子音」なども含まれる)

 それは、ある意味で「音楽そのものの破壊」だったことは否めない。しかし、そのおかげで第二次世界大戦後の一時期に世界を席捲した「前衛音楽」の時代は、非西欧圏の国に生まれた作曲家にとって世界に飛び出すまたとないチャンスとなったことも事実だ。今までは「西洋的でない」ことが致命的な弱点だったものが、それが逆に「大きなセールス・ポイント」になったのだから。

         *

Kabuki_2 そんな時代の回顧も含め、欧米人から見て「非西洋的」な〈ジャポニズム〉の典型と見られるものはどんな音楽(サウンド)なのか、(蛇足ながら)作曲家としての今までの経験からちょっと検証してみよう。

 ◇音と響き・・・東洋的サウンド

 もっとも即効性のある「和風(ジャポニズム)サウンド」は、一発芸的な効果音かも知れない。

 西欧人は、シャッとかバチンとかいう極めて短い効果音的なサウンドに極めて敏感に反応する。具体的には「ヒョウッ」という尺八のムラ息や「バチン」という琵琶の打撃音あたり。これを聴いた西洋人は必ず「オー、サムライ!」と叫んで感嘆するから、これはサムライ映画の影響だろうか。

 そもそも西洋音楽の音と言うのは、基本的に倍音をたっぷり含んだ(ふくよかな)楽音が最高とされる。しかし、この種の音はノイズ成分をたっぷり含んだ「雑音」なので、その対極に当たる。絶対音感で感知できるような音程もなく、それゆえに音楽に組み込まれることは滅多にない。西洋音楽では使われない=非西洋的=東洋的なオリジナリティ…というわけである。

 具体的な作曲技法としては、弦楽器のバルトーク・ピチカート(弦をつまんで指板にバチンとぶつけるピチカート)、あるいはフルートなど管楽器の「ブレス・ノイズ(息音)」が典型的な例だろうか。本来は楽音とは見做されない弦楽器の「楽器を叩く音」や管楽器の「裏返った音」なども、貴重な「ノイズ系(和風)効果音」と言える。

 ◇リズムと間・・・能・歌舞伎

Idutu ついで、音楽の根源に関わる「和風」は、その独特なリズム感覚だ。

 西洋音楽はとにかく「拍節を数える」。メロディでも何でも、1・2・3・4・・・と一定間隔で刻まれるビートの上に乗ってすべてが展開して行く。

 特に和声法や対位法が確立した時代以降の音楽(いわゆるクラシック音楽)は「縦方向のアンサンブル」こそが基本中の基本。ゆえに全パートが同期するための「クリック音(パルス)」が必要となり、それを音無しで行なうために「指揮」が必要となったと言えるほど。この「常に数を数える」状態が西洋音楽の基本だ。

 それに対して、東洋の音楽は「縦方向のアンサンブル」にあまり固執しない。もちろん「合わせる」ことはあるにしても、そのために曲の最初から最後まで「1・2・3・4・と数える」などという異常なことはしない。合わせどころはお互いの呼吸を見計らって「阿吽の呼吸」で行なう。俗に言えば「せ〜の」で合わせるわけである。

 しかし、この「背後に一定の早さで刻まれるリズムがない」あるいは「リズムの早さが伸び縮み(早くなったり遅くなったり)する」音楽というのは、西洋人の耳にはきわめて特異なものに聴こえるらしい。
 もちろん西洋音楽でもカウントから外れる瞬間はあるが、せいぜいフレーズや楽曲の最後の「フェルマータ」の時くらい(それですら「2倍伸ばす」というような暗黙のカウントがあることが多い)。だから、カウント不明の場所に音があると、きわめて不安を覚え「緊張感」が生まれるわけだ。

 もっとも(冷静に考えて見れば)人間の普通の生活の場で「一定の早さのリズム」がある方が実はおかしいわけで、特殊なのは「常に1・2・3・4と数える」西洋音楽の方と言うべきだろう。
 なにしろリズムの基本となる「呼吸」は、寝ている時はゆっくりだし、興奮すればすぐ早くなる。心臓の「鼓動」にしても、話したり、歩いたり、立ったり座ったりするたびに、そのリズムは早くなったり遅くなったりする。音楽が「心」を表現する以上、そのリズムにおけるテンポは、伸び縮みするのが普通なのだ。

 だから、能や歌舞伎などでは、登場人物の行動や心理をトレースするため、リズムはシーンに応じて呼吸のように変化する。この種の「伸び縮みするリズム」は、現代音楽の全盛期に「前衛的手法」として最も注目されたもののひとつだ。

 ◇テンポとピッチ・・・MM40以下の世界

Istra ちなみに、この種の伸び縮みするテンポを統括するのは、日本人特有の「間(ま)」という感覚ということになっている。しかし、この「間」にしても、完全にテンポ感覚のない「阿吽の呼吸」だけでアンサンブルしているわけではない(らしい)。

 西洋音楽における「テンポ」は、モデラート(中庸に)を基本にして、アンダンテ〜アダージョ〜ラルゴ〜レントと遅くなるわけだが、どうやらその下限は「MM=42(リズムの一拍が毎分42の遅さ)」あたり。これは「きわめてゆっくり息をする」ほどのテンポなのだが、これ以下の早さを実際の音楽で使うことは滅多にない。つまり、西洋人の耳には「MM=42」より遅いテンポのものを「リズムのある音楽」として認知しないらしいのだ。

 それに対して、日本人の耳(現代人はもはやそうではないかも知れないが)はそれより遅い「MM=40」以下の音楽に耳慣れている。雅楽などがそうだし、能における「リズムとしては感知できないような」音楽も、実を言うと背後に(MM=40以下の)きわめてスローなリズムが流れている場合がある。

 この極めてスローで伸び縮みするリズムも、日本人にとっては立派に「カウント(リズムを数える)」される世界なのだが、もはやそれをリズムとは感知しない西洋人の耳には、摩訶不思議な「リズムもテンポもない世界」に漂っているとしか感じられない。

 そのため、あまりにスローなテンポの中で発せられる一音は、西洋的な耳では「全くリズムの無いところから発せられた音」に聴こえるということらしい。

 ピッチ(音高)についても同じような事情がある。

 西洋音楽(特にオーケストラ)では、全ての楽器がピッチを厳密に合わせる、というのがアンサンブルの基本中の基本だ。そのためには曲中だろうがところ構わず徹底して「チューニング」を繰り返す。なにしろアンサンブル内のすべての楽器はハーモニーの構成音を担当しているので、それがわずかでもズレるということはハーモニーの破綻に通ずるからだ。だから、ピッチを正確に合わせる、ということにもっとも神経を使う。

 対して、東洋音楽(特に日本音楽)では、ピッチの厳密な一致にはきわめて無頓着だ。雅楽などでは楽器それぞれの旋法の構成音は微妙に異なり、すべての楽器が「完全なユニゾン」で演奏しても、そのメロディ・ラインは微妙なピッチの揺らぎの中に浮遊する。
 むしろ逆に、西洋音楽のように「全ての楽器がぴったり音程を合わせて、寸分たがわずユニゾンで奏する」などという音楽の方が、きわめて不自然で非人間的なのである。

 例えて言えば、ピッチが正確な西洋音楽は「ペンで描かれた(くっきりとした)線」、東洋音楽は「筆で描かれた(にじんだ)線」を至上とする。これも先ほどのリズムの例と似てくるが、「全体の一致」を目指す西洋音楽に対して、東洋音楽は「個の自由」から始まる…とでも言ったらいいのだろうか。

 ◇和風とジャポニズム

 …と、色々な和風アプローチを検証してきたものの、もっともストレートな「和風」は、やはり伝統音楽そのものを使うこと。これに尽きる。どんなに「ジャポニズムの要素」を組み込んでみても、「本物の和風」の威力にはかなう筈も無いのだから。

 しかし、これはある意味「それをやったらおしまい」という禁じ手であり、先に挙げた民族主義の作曲家たちにしても、そこまでは踏み込んでいない。ピアノでマズルカを書くことと、民族舞曲としてのマズルカをそのまま舞台でやることとは、まったく異なる音楽手段だからだ。

 もうひとつ。確かに、日本人であると言うことを押し隠して「音楽の世界」で再創造の輪に入ることは出来ない。しかし、日本人だからと言う理由だけでジャポニズムを標榜すべきだとは思えない。
 能や歌舞伎などろくに見たことがないのに、日本人だからと言って自分の作品に能や歌舞伎を引っ張り出す姿は、むしろ醜悪に見えることすらある。むしろジャポニズムを嫌悪し排除するところから始まる創造だってあるはずで、私もむしろそういうスタンス(のつもり)だ。

 それに、最近では「フジヤマ・ゲイシャ」のジャポニズムなどより、「アニメやオタク」のジャポニズムの方が遥かに世界的認知度を高めている現状もある。そもそも、ここで語った「非西洋的な日本人独自の感覚」など、今の若い世代にはとうに消えてしまった知覚なのだろうし。

 だから、ここまで延々と書いてきたものの、「結局、ジャポ二ズムって何なの?」という問いの答えは・・・思いつかない。

 かくして、今日も音楽家たちは「自分」と「音楽」の狭間で悩み続ける。

        *

Yuzuruオペラ「夕鶴」
原作・脚本: 木下順二 音楽: 團伊玖磨

2008年2月9日(土)
 14:00開演 神奈川県民ホール  
2008年2月11日(月・休)
 18:00開演 サントリーホール  
2008年2月16日(土)
 16:00開演 大宮ソニックシティ大ホール

全一幕、日本語上演、セミ・ステージ形式 
上演時間: 2時間15分(休憩一回含む)

つう: 鮫島有美子 与ひょう: 持木弘 
運ず: 牧野正人 惣ど: 池田直樹

指揮: 現田茂夫
管弦楽: 神奈川フィルハーモニー管弦楽団
児童合唱:世田谷ジュニア合唱団(児童合唱指揮:掛江みどり)
演出: 栗山民也
美術: 堀尾幸男 衣裳: 植田いつ子 
照明: 勝柴次朗 舞台監督: 大澤裕

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コメント

邦楽について調べていて偶然ここへ流れ着きました。
日常生活においてテンポは伸び縮みする方が普通、
考えたこともありませんでしたが、なるほどその通りです。

そもそも西洋音楽には非日常を目指して作られている部分があるように思えます。
普通に生活していては感じることが出来ない整然とした音の響き、
それは普通に生活している人間にとっては未知なる体験、非日常という刺激なわけです。
それを体現し追及することが芸術となった……というのは短絡的でしょうか。
その意味で現代におけるロックやテクノなどの西洋音楽の多様化は
必然と言えるのではないかと思います。

投稿: kon | 2008/08/31 20:53

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