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2008/04/10

ポスト・ベートーヴェンの交響曲小史〜長い交響曲はお嫌いですか?

Symphonists 交響曲の歴史は、ハイドン〜モーツァルト〜ベートーヴェンの3人が、まるでホップ〜ステップ〜ジャンプのような三段跳びで作り上げた大伽藍から始まった。  それは、いかに天才でも「一人では決して出来ないこと」を、全く性格の違う三人が、三人がかりで行ったからこそ成し得た偉業であり、信長〜秀吉〜家康の三人がかりの天下統一を思わせる(と言ったら大げさか)。  その最終工程を受け持ったベートーヴェンは、第3番「英雄」(1804)で交響曲の定義を飛躍的に拡大させる。  すなわち、単なる「多楽章の純オーケストラ作品」という次元から「全人類的表現を成し得る総合芸術的な多楽章形式のオーケストラ作品」(簡単に言えば、要するに「超最高の音楽ッ!」)に高めたのである。そして、続く第4番から第8番まででそれを強固かつ不滅のものにした。  その点では私たちの抱く「交響曲」というイメージは、ベートーヴェンが確立したと言って間違いない。 Beethoven_3 ところが彼は、最後の第9番「合唱付き」(1824)で、さらなる進化を試み、声楽を加えてオラトリオ化するという試みを打ち出す。  その結果、「交響曲」は「純オーケストラ作品」という枠を取り払われ、新たな地平に踏み出すことになる。ある意味で、ベートーヴェンは交響曲の定義を作り上げたと同時に、壊してしまったわけだ。  かくして「交響曲の歴史」は、ハイドンに始まりモーツァルトが切り開きベートーヴェンが極限まで拡大したことで、一旦「終わって」しまったのである。           *   おっと、「これでおしまい」では話は続かない。  しかし、実際のところ、「交響曲」の歴史は、(いかに「ベートーヴェンを超えられない」という意識があったにしても)その後しばらく、あまりぱっとしない状況が続くのは確かだ。  例えば、第9が世に出た1820年代以降を見てみると、ベートーヴェンを崇拝する病弱青年シューベルトが、第7番「未完成」(1822)第8番「グレート」(1828)をひそかに書き上げているが、演奏されるのは彼の死後数十年たってから。  天才メンデルスゾーンの第3番「スコットランド」(1842)、第4番「イタリア」(1833)、少し遅れてシューマンの第3番「ライン」(1850)、第4番(1841)などもあるが、もはやロマン派にどっぷりつかった作曲家たちが、古典的な形式である「交響曲」を創作の主軸と考える時代は終わってしまったとしか思えない惨状だ。    ちなみに「ベートーヴェンの第10番だ!」と絶賛されたブラームスの第1番が生まれるのは、第9から50年以上も後の世の話である。  では、ベートーヴェン以後、「交響曲の歴史」はどこへ行ったのだろう? Berlioz そのキイパーソンは、フランスの鬼才ベルリオーズ(1803〜1869)だ。  パリ在住の医学生あがりで作曲は独学、ピアノが弾けないのでもっぱらギターでスコアを書いていたという(かなりうさんくさい経歴の)彼こそ、実は真っ先に「ポスト・ベートーヴェン」&「ポスト交響曲」を狙った重要人物だ。  彼は、ベートーヴェンの死からわずか3年後の1830年、近代オーケストラ史に残る異様な傑作をひっさげてパリの楽壇に登場する。「幻想交響曲」である。  この作品、「交響曲」とは名ばかりで、まるで演劇のようなストーリー性を持った映像音楽のような作品であるのはご存じの通り。  主人公(自分自身)が、ある女性に恋いこがれたあげく幻想の世界をさまようという筋書きを持つこの作品、阿片を飲んだあげく恋人を殺して断頭台に送られ、死の世界で魔女と乱痴気騒ぎまでする破天荒な交響曲である。  まるで「運命」と「田園」を足して「第7」のビートでシェイクしたようなこの曲で近代管弦楽の扉を開いたベルリオーズは、その後も色彩感あふれる新しいオーケストレイションを駆使し、「交響曲」と題する作品を続けて発表する。いわく、交響曲「イタリアのハロルド」(1834)、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」(1839)・・・。  しかし、そのいずれもが、今我々が考えるような「交響曲」ではない。前者はバイロンの詩を元にしたヴィオラ協奏曲仕立ての作品だし、後者はシェークスピアの有名な戯曲を元にした(独唱と合唱まで参加する)演劇風の作品なのだ。  それなのに、なぜベルリオーズは「これは交響曲だ」と言い張ったのか?  その理由は(彼に言わせると)明快だ。 「交響曲はベートヴェンの第9で〈詩と音楽〉の統合を果たした。  だとすれば、その次の進化は〈演劇と音楽〉の統合であるべきだ」 Berlioza つまり、純器楽作品の最高峰として誕生した「交響曲」は、ベートーヴェンの第9で、詩という「言葉」と合体し、さらなる進化を遂げた。  とすれば、その次の進化は、ストーリー性やドラマ性あるいはヴィジュアル性を持った「演劇(舞台)」と合体することだ。…というわけである。  その点では、ベルリオーズこそ正しくベートーヴェンの意志を継いだ(新しいロマン派の時代の)「交響曲作家」の後継者ということになる。  そもそもベートーヴェンの確立した「交響曲」というもの自体が、ハイドンによって定義された「交響曲」の姿から甚だしく逸脱し、「音楽だけで」表現する芸術として極限まで拡大され最高の高みに到達した異様な代物なのだ。    とすれば、交響曲だからと言って「音楽だけ」にこだわる必要はどこにもない。  人間や世界や宇宙までも表現するのなら、音楽に加えて、言葉や物語や美術や演出までも加え、すべての芸術のメチエ(表現技法)を「総合」することこそが、芸術の最終進化過程。  それこそベートーヴェンが指向した「交響曲」の真の姿ではないか。ベルリオーズは(たぶん)そう考えたわけだ。  そんな(いくぶん誇大妄想がかった)ベルリオーズの視点に対して、超絶技巧ピアニストとして一世を風靡したフランツ・リスト(1811〜1886)は、もう少し現実的に、詩や物語や思想を音楽に昇華するオーケストラ曲の形として、交響曲に変わる新しい音楽の入れ物「交響詩」を考案する。  もはや「交響曲」や「ソナタ形式」などという形にこだわることなはない。(ピアノ曲におけるバラードやラプソディのように)単一楽章の中に自由な構成で「詩」や「物語」や「人物像」などを描けばいい、という発想だ。  実際、この「交響詩」という形は、ロマン派における新しいオーケストラ曲のジャンルとして主流となり、(ドヴォルザークやシベリウスやR=シュトラウスに至る)一つの大きな流れとなってゆく。           * Wagner 同じ頃、ベートーヴェン、ベルリオーズという2人の天才の見果てぬ夢「総合芸術」の概念を、さらに推し進める鬼才が登場する。リヒャルト・ワーグナー(1813〜1883)である。  彼はベートーヴェンの第9の研究から音楽に身を投じ、歌劇「さまよえるオランダ人」(1841)、「タンホイザー」(1845)などを経て、やがて音楽と演劇を統合した「楽劇」を世に問い始める。  濃厚きわまりないロマン派宇宙の極致とも言える「トリスタンとイゾルデ」(1859)、「ニーベルングの指環」(1874)、「パルジファル」(1882)などはその到達点だ。  これは「オペラ」のようでいて「オペラ」ではない。「オペラ」は、もちろん詩や演劇に音楽をつけて舞台上演するもの。その起源はクラシック音楽の黎明期にまでさかのぼる。  しかし、ワーグナーが志向したのは、(ベートーヴェンが第9で目指したように)音楽の表現技術を究極にまで進化させ、言葉や物語からさらにゲルマン民族の歴史や自らの宗教や哲学、それに舞台という場での美術や演出までも加えた「総合芸術」だった。  それこそが実は、ベートーヴェンが提示した「交響曲という思想」の到達点ではないか。…と、ワーグナーは(たぶん)そう考えたわけである。  余談だが、例えばビートルズが1960年代に提示した「ロック」は、ダンス音楽としてのロックンロールではなく、ビートミュージックもクラシックもジャズもインド音楽も、そして様々なメディアやファッションや若者のイデオロギーまでも統合した「ロックという思想」だった。それに似ている。  その点では、ポスト・ベートーヴェンの交響曲の歴史における正しい継承者は、実はベルリオーズ、そしてワーグナーだったと言うべきだろう。  しかし、最大の問題が一つあった。  ベルリオーズの音楽もワーグナーの楽劇も、もはや「交響曲」ではなかったのだ。           * Brahms さて、そこで登場するのが、革新派ワーグナーの対抗馬として登場した保守派の雄ブラームス(1833〜1897)である。  彼は、ベルリオーズやワーグナーのような独学の怪しげな作曲家ではなく、ちゃんと幼少の頃から音楽の才能を開花させ、演奏家から叩き上げでウィーンの楽壇にまで登り詰めた努力の人でもある。  ハンブルクの田舎から出てきた貧乏育ちではあるものの、苦労した分、人情や良識をわきまえた慎重で温厚な性格。ワーグナーのような(白鳥の騎士が出てくるお伽話や、愛の告白とラブシーンばかり続く18禁のオペラを書くような)誇大妄想狂の伝統破壊者を苦々しく思っていた保守系音楽家&評論家たちにとっては、ドイツ音楽の保守王道を擁護してくれる救世主に見えたに違いない。  そんなわけで、いつしかドイツ〜オーストリアの音楽界は「革新(非常識)ワーグナー派」と「保守(大人の良識)ブラームス派」の二大政党に分かれて反目し合うようになってゆく。  となると、一方のワーグナーが伝統や形式をぶち壊し放題で書き上げる「楽劇」で一世を風靡している以上、保守派ブラームスとしては伝統や形式をこそ重んじた「交響曲」の作曲を待望されるのは当然の理。  ただ、先にも書いたように、ベートーヴェンの第9からはもう50年以上の年月が流れている。そんな時代に「ポスト第9」という視点で作曲するのは、いくらなんでも時代遅れと言わざるを得ない。  なにしろ時代はもう、ベルリオーズの近代管弦楽や、ワグナーの壮大な舞台音楽を手にしている。純オーケストラの作品でも、リストが始めた「交響詩」というジャンルが新しい潮流を作り出しつつあるのである。    ブラームスが、交響曲を書くに至るまで20年近くを要し、重い腰をようやく上げたのが40歳を過ぎてからというのは、別に彼が慎重居士だったからだけではない。いかに保守良識派のブラームスでも「交響曲」はもはやあり得ない「時代遅れの」選択だったからにほかならないと私には思える。  では、どうしてブラームスは「交響曲」を書き始めたのだろう?  それは、そこに思わぬ伏兵がいたからだ。  オルガン教師あがりの卑屈な田舎男ブルックナー(1824-1896)である。           * Bruckner ブラームスより10歳近く年上の当時のブルックナーは、作曲家というよりオルガン教師という呼び名がふさわしい。  リンツ生まれで、幼少の頃から特に音楽の才能を見せたという逸話もないこの無骨な男は、音楽の勉強だけは熱心にするものの、その目的は「作品を書くこと」ではなく「資格を集めること」だった、という変わった性格の持ち主でもある。  しかも、ようやくソナタとか室内楽のような作品らしいものを書き始めるのが、三十代も後半になってから。早熟の天才たちなら最晩年の傑作を書き残してとっくに死んでしまっている歳である。  おまけに、その理由が「これ以上集める免状もなくなり、習うネタも底を尽いてしまったから」というのだから振るっている。  時代から全く遊離したこの孤高の中年男ブルックナーは、オルガン曲や宗教曲などに加えて「交響曲ヘ短調」や「交響曲第0番」などという習作を書き潰し、やがて現在「交響曲第1番」と呼ばれる作品を書くことになる。  これが1866年42歳の時。その曲の初演はその2年後だから、実際にブルックナーが交響曲作家として世に出たのは44歳の時。なんとも遅いスタートである。  ところが、このゾウガメのごとき歩みのブルックナー、その後も着実に(まるで「せっせ、せっせ」と音が聞こえるかのように)第2番、第3番、第4番と「交響曲」と連続して書き下ろし始める。 01 そして、50歳の時には、第3番を(当時バイロイト祝祭歌劇場を建設中だった)ワーグナーのところへ持って行き、「お、いいんじゃない」と言うお墨付き(もっとも、ワーグナーがどこまで本気だったのか分からないが)までもらい、ますます交響曲の創作に励むようになる。  当然、噂はブラームスの耳にも届いただろう。田舎出の妙なオルガン教師がせっせと「交響曲」を書いている、という噂だ。  ただし、その交響曲ときたら、素人くさいうえに長大(どれも1時間以上たっぷりある!)で、どこから聴いてもどん臭く、ウィーンの洗練された聴衆にとっては「冷笑」の対象でしかなかった。  しかし、ブラームスとしては内心ひそかにむらむらと「ライバル」意識が燃え上がったことは間違いない。  そして、ブルックナーがじわじわと第5番に達しようと言うことになった時、ブラームスがついに重い腰を上げた。  そう。「こんなやつに〈交響曲〉を書かれるくらいなら、俺が書くっ!」と立ち上がったわけである。  かくして、15年以上もほったらかしていた楽譜のスケッチを引っ張り出し、ベートーヴェンへの情熱を噴出させながら一気に書き上げたのが…、かの「交響曲第1番」(なんじゃないかと私はひそかに思っている)。1876年、ブラームス43歳の時である。  ちなみに、この年、52歳になったブルックナーは第5番を書き上げている。 Bruckner_4 ブラームスの交響曲が、意固地なまでに「伝統的な」4楽章形式と2管編成(ブラームス型とすら言われる)にこだわったのは、こけおどし的(と見える)大オーケストラを使うワーグナー〜ブルックナーへの対抗心の現れと見るべきだろう。  と言うことは、ブルックナーがいなかったら(たぶん)ブラームスの交響曲は全く違ったものになっていただろうと思えるし、そもそも交響曲などというものを書いていなかったのではなかろうか?  対して、ブルックナーの方はと言うと、ブラームスを意識していたとはあんまり思えない。と言うより、彼の頭の中にあったのは、オルガンを勉強し対位法を勉強しワーグナーを勉強し交響曲を勉強し、せっせせっせと地道な歩みで「交響曲」の山を登り詰めることだけだったようなのだ。  それでも、現実の社会では「卑屈な小男」という印象でしかなかったというブルックナーが、ブラームスの交響曲(4曲ともすべて35分前後という中編サイズ)の優に倍の演奏時間(70分から80分)を要する巨大編成(3管でホルン8本、ハープ数台というような)オーケストラで、神や大自然と屹立するような壮大な「交響曲」を書き続けたというのは、音楽の奇跡としか言いようがない。 02 そのブルックナーは、ワーグナーの死の年(1883年)に書き上げた第7番で、ようやく(遅まきながら)交響曲作家として認められるが、ブラームスは「あんな蛇がのたくったみたいな音楽が交響曲だって?」とどこまでも辛口。    以来、二人はウィーン楽壇を代表する二大作曲家であり、ベートーヴェンを継ぐ交響曲作家でありながら、犬猿の仲になってしまったのはちょっと残念な気もする。    ちなみに、ブラームスは第1番で交響曲デビューして後、1885年までの10年弱で4番までの交響曲を書き上げ、一方のブルックナーは1896年に72歳で亡くなるまでに第9番(未完)までを書いている。  ブラームスが10年で4曲に対して、ブルックナーは30年間で9曲。両者とも「遅筆」のイメージがある割には、ほぼ2〜3年に1曲のペースというのはちょっと意外だ。  そして、ブルックナーが最後の交響曲(第9番)を未完のまま死去したのが1896年72歳の時。  その葬儀の時「次は私の番だ」と力なく呟いたというブラームスは、第4番(1885)を最後に15年間、交響曲に手を染めることなく翌1897年に死去。64歳。    その後、この2人が奇妙なライバル関係の中で墓場から掘り起こした「交響曲」は、中央楽壇から離れた地で新たな芽生えを迎える。  ロシアのチャイコフスキー、チェコのドヴォルザーク、フィンランドのシベリウスなどが、熱き民族主義をブラームス型の交響曲に植え込むことによって、独自の世界を広げていったのである。  しかし、ここではブラームス以降の中央楽壇の行く末にもう一度目を向けよう。  二十世紀を間近に控えた世紀末のウィーンで、「交響曲」は指揮者として音楽活動を始めたひとりの青年作曲家に継承されるからだ。グスタフ・マーラー(1860-1911)である。           * Mahler マーラーは、チェコの寒村で生まれ、努力の末まず地方のオペラ劇場の指揮者として音楽家のキャリアを積み始める。そして、さまざまの歌劇場を転々とし(まるで双六か出世ゲームのように)ライプチヒ、ブダペスト、ミュンヘンと歩を進めてゆき、ようやく中央楽壇に到達して交響曲の作曲の世界に踏み込んだのが二十代後半。  とは言っても、実は28歳(1888年)ころ書き上げた最初の第1番(巨人)は、当初は全2部5章からなる「交響詩」として発表されているし、34歳(1894年)ころ書かれた続く第2番(復活)も、最初の章が「葬礼」と題された「交響詩」として発表されている。  もともとは「交響曲」として作曲されたわけではないのである。  そもそも彼の構想するオーケストラ作品は、自作の歌曲と密接に連携(メロディや主題を転用)しているし、影響を受けた文学作品の構成や、「巨人」「青春」「挫折」「復活」などといったテーマ性を持ち、第1部第2部と言った構成まで持っている。  歌劇場の指揮者としてオペラにも精通し、どこまでも「ロマン派」なマーラーとしては、ブラームス的な伝統的多楽章の「純器楽交響曲」など視野になかったことは間違いない。  それなのに、なぜマーラーは「交響曲」を、しかも番号付き交響曲の道を歩み始めたのだろう?  その理由は、(たぶん)ブラームスに対するブルックナーのように、同じ時期に、同年代の指揮者であり作曲家である盟友リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)がいたからだ(と私には思えてならない)。 Strauss マーラーと5つ違いの後輩シュトラウスは、ミュンヘン宮廷管弦楽団のホルン奏者の息子として生まれ、まず指揮者として音楽のキャリアを積み始める。  そのあたりはマーラーと同じだが、最初の一歩がミュンヘンからだったぶん出世が早い。二十代ですでにベルリン宮廷歌劇場の指揮者に就任、作曲家としても「ドン・ファン」(1888)、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」(1895)、「ツァラトゥストラはこう語った」(1896)、「英雄の生涯」(1898)など「交響詩」の名作を次々書き出した。  全く同じ時期に、「巨人」「葬礼」という作品を「交響詩」として発表してきたマーラーが、これを意識しないはずがない。    自分は、歌劇場を転々として来たので大編成の近代オーケストラを駆使した「演出効果」には詳しいが、「どんなものでもオーケストラ・サウンドにしてみせる」と豪語するようなシュトラウスのようなはったりはとても出来ない。マーラーはそう感じたことだろう。  あるいは、派手で楽天家のシュトラウスに対して、生真面目で悲観主義者のマーラーは、ある種の「形式」を欲していたこともあったのかも知れない。  交響詩と題しながら、第1部・第2部と構成分けをしたり、楽章別のキャラクターにこだわったのも、そういうマーラーの性格の現れだろう。  それに、マーラーは学生時代にブルックナーと親交があったので、番号付き交響曲の作曲家としては微妙な師弟関係にある。  それなら、R=シュトラウスと同じ土俵で(自分には無縁の「派手さ」を競うような)「交響詩」を書くより、「交響曲」で独自性を打ち出した方がいい。  ベートーヴェンの第9のことを思えば、コンサート一晩分の長さを持ち、(オペラ劇場での経験を生かした)声楽や大編成オーケストラを駆使した「交響曲」があったっていいじゃないか。  …とマーラーは(たぶん)そう思ったのだ。  かくして、彼は35歳1895年の時に着手した次作を「交響曲第3番」と題し、さかのぼってその前の二つの作品に交響曲第1番「巨人」、第2番「復活」と題することにした。  交響曲作曲家マーラーが誕生した瞬間である。 03 そんなわけで、マーラーの「交響曲」の位置は、ブルックナーより、むしろ「ベルリオーズ」の後継者に近い。  ・多楽章ではあるが「純音楽」ではなく、詩や哲学を内包しているが「劇場用音楽」ではない。  ・表現形式としては「交響詩」だが、あくまでも「交響曲」として番号にこだわる。  ・巨大編成のオーケストラや特殊な編入楽器(そり鈴やハンマーなど)あるいは声楽(独唱はもちろん混声合唱から児童合唱まで)を無尽蔵に使う。  このあたり、すべてベルリオーズゆずりだからだ。  これが、(R=シュトラウスに対抗して)マーラーが確立した立ち位置だった。  そして、この「立ち位置」を得たことにより、マーラーは(ふっ切れたように)世紀の変わり目である1900年40歳の時に第4番を作曲してから、ほぼ1-2年に一曲というハイペース(1902年に第5番、1904年に第6番、1905年に第7番、1906年に第8番)で交響曲を書きまくり始める。  1900年から11年までの12年間に番号付き6曲(4番〜9番)と「大地の歌」そして未完の10番を入れると計8曲。1年半で1曲という凄いハイペースである。  ちなみに、対するシュトラウスの方も、このマーラーの動向を意識したのかどうか、世紀の変わり目以降はもっぱらオペラの世界に熱中し、ほとんど交響詩を書かなくなる。  しかも、最後の2つの交響詩は「家庭交響曲」(1903)と「アルプス交響曲」(1915)というタイトルなのが、(この2人の微妙な関係を匂わせて)なんとも面白い。 04 ただ、ブルックナーの9つの交響曲が徐々に「高み」に向かってゆく歩みだとすると、マーラーの9つの交響曲は彷徨い解体してゆく見果てぬ夢のように思える。  特に、マーラーが最後に書き上げた〈交響曲第9番〉に聞こえるのは、まさしく交響曲の歴史への「惜別」だ。  瓦解してゆく人生、そして崩壊してゆく調性、解体してゆく形式。それは音楽における「到達点」ではなく、まるで(この先に何もない)「終着点」のように聴こえてならない。  その「終着点」を自らも予感したのだろう。マーラーは、ベートーヴェンも師匠格のブルックナーも「第9番」を書いて死んでいるというジンクスを恐れ、1910年に9番目の交響曲を完成させるとすぐ、(これは「最後の交響曲」ではない!と確認するかのように)次の「第10番」の作曲に取り掛かっている。  しかし、翌1911年に高熱をおしてカーネギーホールでのコンサートを指揮したマーラーは病に倒れ、ウィーンに戻って間もない5月にあっけなく死去してしまう。  第9のジンクスは成就され、交響曲は再びその「終焉」を迎えたのである。  彼の最期の言葉は「モーツァルト!」だったそうだ。            *  そして、ベートーヴェンからベルリオーズへ、さらにマーラーへと受け継がれた交響曲のDNAは、二十世紀を迎えてとある社会主義国の青年作曲家に継承される。  …のだが、その話はまた今度。            *
Frankfurtフランクフルト放送交響楽団日本公演 ■6月3日(木) サントリーホール 7:00p.m ・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」  (ピアノ:エレーヌ・グリモー) ・ブルックナー:交響曲第7番(ノヴァーク版) ■6月4日(火) サントリーホール 7:00p.m ・R・シュトラウス:4つの最後の歌  (ソプラノ:森麻季) ・マーラー:交響曲第9番ニ長調  パーヴォ・ヤルヴィ指揮  フランクフルト放送交響楽団
B_flyerドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団日本公演 ■7月3日(木)サントリーホール 7:00pm ・ウェーバー:オベロン序曲 ・メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調  (ヴァイオリン:千住真理子) ・ブラームス:交響曲第1番ハ短調 ■7月4日(金)サントリーホール 7:00pm ・ウェーバー:オベロン序曲 ・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」  (ピアノ:中村紘子) ・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調 ■7月6日(日)横浜みなとみらいホール 2:00pm ・ウェーバー:オベロン序曲 ・メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲ホ短調  (ヴァイオリン:千住真理子) ・ワーグナー:ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲 ・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」  (ピアノ:中村紘子)  ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮  ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団

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