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2008/06/10

バロック音楽についての雑感

Baroques 私が作曲した曲で最初に正式に(つまり公開の場所で)音になったのは、もうかれこれ30年以上も前、毎日音楽コンクール(当時)の作曲部門(室内楽)に応募するべく22歳(1975年)の時に書いた曲で、タイトルを「歪んだ真珠の牧歌」という。編成は、フルート、ヴァイオリンそしてピアノである。  緻密に#♭を交えてごちゃごちゃと書き込んだ書式のおかげで、譜面の審査は通り、なんとか本選まで残って演奏はされたのだが、実は曲の最後にぬけぬけとトナール(協和音。要するにドミソの響き)の響きを隠し込んでいて、演奏でそれが露呈。審査員諸先生方のお怒りを買って、最下位で落選してしまった。 (譜面だけだと、#♭だらけで一見無調の「ゲンダイ音楽風」に見えるのだが、演奏してみると一目瞭然、最後に堂々とドミソが鳴りわたる…という仕掛けだったのである)。「無調でなければ〈現代の〉音楽ではない」という時代の悲劇というか喜劇というか…。 Pastoral_2  この曲、現代の音楽にしては古風な(バロック風の)トリオ・ソナタの編成で、3つの楽器が、それぞれ無調っぽい旋法の無限旋律を延々と紡ぎながら、怪しいカノンのような対位法で絡んでゆくという趣向の音楽。  そこで、20世紀における「新しい(歪んだ)ポリフォニー宣言」ということで、「歪んだ真珠の…」という奇妙なタイトルを付けたのだが…。  さて、バロック音楽の「バロック(Baroque)」というのが「歪んだ(いびつな)真珠」という意味である…ということはどのくらいの方がご存じなのだろう? ■バロック音楽とは? Classic3 21世紀の現在、世間一般に「クラシック音楽」と呼ばれているのは、(大雑把に言えば)ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンあたりから始まって19世紀のロマン派あたりまでの西洋ヨーロッパ音楽のこと。(年代で言うと、おおよそ18世紀後半から20世紀初頭まで、日本で言うなら、江戸時代の中頃から明治の後半あたりまでということになる。)  作曲家では、ハイドン(1732年生まれ)、モーツァルト(1756年生まれ)あたりまでが18世紀世代。そして、ベートーヴェン(1770年生まれ)が作曲家デビューを飾ったのがちょうど1800年。つまり、彼の活躍は19世紀になると同時に始まっているわけで、そう考えてみると(一般的な意味での)「クラシック音楽」というのは「18世紀の助走を経て19世紀に全盛を極めた西洋音楽」と言ってしまってもよさそうだ。    とは言っても、もちろん18世紀以前にも西洋音楽は立派に存在していたのは言うまでもない。この「クラシック音楽」の前夜、17世紀あたりの西洋音楽を(俗に)「バロック音楽」と言う。 Haendel 作曲家だと、バッハとヘンデル(この二人は18世紀半ばまで活躍していた)がビッグネーム。同世代では、「ターフェル・ムジーク」で有名なテレマンや、チェンバロ曲で知られるスカルラッティ、ラモーなどがいる。  そして、もう少し遡ると登場するのが、「四季」で人気のヴィバルディや、クープランあるいはパーセルと言った作曲家たち。「カノン」で有名なパッヘルベルもこのあたりだ。  さらに17世紀前半のバロック初期まで遡ると、音楽史上最古の有名オペラ「オルフェオ」(1607)で知られるイタリアのモンテヴェルディや、ドイツのシュッツ、フランスのリュリやシャルパンティエなど、古楽マニアにはおなじみの(しかし一般音楽愛好家には未知の)大作曲家たちが並ぶ。  ちなみに、その前、16世紀から14世紀あたりまで遡った音楽は「ルネサンス音楽」、そのさらに前(14世紀頃から古くは6世紀頃まで遡る)は「中世音楽」と呼ばれるのだが、そのあたりの話はいずれまた。
■ バロック=「いびつな真珠」  この「バロック(Baroque)」という言葉はフランス語で、冒頭でも書いたように、「歪んだ真珠」を意味するポルトガル語の「Barroco(バロッコ)」が起源とされている。 Akoyapearl 真珠は、御存知のように、アコヤ貝の中で石などを核にして育つ(生体鉱物というのだそうである)丸い粒状の宝石。現代では指輪や首飾りにするのがもっともポピュラーだが、クレオパトラは美しくなる薬として(酢に溶かして)飲んでいたそうだし、ヨーロッパの王侯貴族は家具や部屋の装飾にも使っている。  ダイヤやルビーなどの鉱物系の宝石は人工的にカットして美しい形にするわけだが、真珠の方は、なにぶん貝が自然に作るものなので、常に完璧な球体になるとは限らない。核となるものの形次第で、ときどき歪な形の真珠も出来上がる。これが「Barroco(いびつな真珠)」である。 Pearl 宝石としての「歪んだ真珠」がどういう価値を持つのかは専門外でわからないが、少なくとも「丸い」のが正しく美しい形で、いびつな真珠とは要するに「出来そこない」という(否定的な)意味を持つことは想像に難くない。  そこで、当時(17世紀ヨーロッパ)、それを芸術様式に結びつけて、調和と均整の取れた美を追究する古き(16世紀的)芸術嗜好に対して、「人工的」で「表現過多」な文化的趣味を「出来そこない」かつ「悪趣味」という意味を込めてこう呼んだのが始まりのようだ。 (ちなみに、ほぼ同じ時代の好意的な言い方で「ロココ風」というのがある。これは同じ人工的な装飾趣味でも、けばけばしくなくて優美繊細なもの、というニュアンスらしい。クープランやスカルラッティのチェンバロ曲やモーツァルトの「フルートとハープの協奏曲」などがその典型。同じ「派手」でも、上品と下品とがある…ということか)  そんなわけで、今でこそ「バロック音楽」あるいは「バロック様式の美術」というのは、端正で精緻かつ穏やかな印象だが、生まれた当時は、かなり「異端児」の意味合いがあった、というのは面白い。 Chant 実際、私も一時バロック音楽から遡って中世ルネサンス音楽にはまっていた頃、15〜16世紀のミサ曲やマドリガルに聴き浸った後でふと17世紀のバッハやヴィヴァルディなどを聴くと、やけに不協和音や人工的な冷たい表現が耳について仕方がなかった記憶がある。 (その後、さらにモーツァルトなど聴こうものなら、その不協和音ときついリズムは「つぶれた真珠」。ベートーヴェンに至っては、もう耳をつんざく「爆発する真珠」にしか聞こえない!)  これは要するに、耳が中世音楽のなだらかなポリフォニーの世界に慣れてしまうと、バロック音楽には調和や均整を壊すような「作曲家のエゴ」が聴こえ、それが表現の過多(やり過ぎ)となって、まるで端正な真珠の粒の中に混じった「歪んだ」異物に見えるということなのだろう。  その時、初めて「なるほど。歪んだ真珠とは言い得て妙だな」と思い知った次第。  とは言え、もちろん、その「歪んだ」部分こそが、18世紀以降隆盛を極める「表現芸術」の核心部分。この「作曲家のエゴ」無しにその後の西洋音楽の発展はないのも事実なのだが。  ただ、神のもとでの「無私」の調和を目指した音楽と比べると、これはもう欲望や感情をぶつける「私利私欲(?)」がどんどん肥大してゆく「いびつな」世界。穿った見方をすれば、バロック以降の西洋音楽は、「表現」という名の「エゴ」が露骨に全開になってゆく「堕落」の歴史と言えるのかも知れない。  
   ■ バロック音楽の「形」  と、そんな極論はともかく、そんな「表現芸術」の原点である「バロック音楽(バッハ以前の音楽)」を聴くポイントとして、まずは「ポリフォニー」というあたりに注目してみよう。 Polyphony◇ ポリフォニーと対位法  そもそも「西洋クラシック音楽」の「原点」とは、(身も蓋もなく言ってしまえば)「ドミソ」である。  世界各地の民族音楽には、必ずと言っていいほど「音階」がある。それは人間の音楽にとって必需品と言っていい。西洋音楽の「ドレミファ」も、それだけを見れば、「民族音楽的な音階」のひとつにすぎない。  しかし、その音階の音の組み合わせを「ハーモニー」として体系付けたのは、西洋音楽最大の功績。中でも「ドミソ」こそは(力説するのはちょっと恥ずかしいけれど)その基礎中の基礎になる。  俗に「ハモる」と言うが、あれは科学的に言うと「自然倍音列」に沿った音が並んだ時に感じる「快感」。(どうして人間の聴覚…そして脳が、そんなものに快感を感じるのかは、また別の機会に)  しかし、その調和と均衡に満ちた快感の元である「ドミソ」を延々と唸っているだけでは音楽にならない。全く変化しない自然倍音の協和の世界に、人間は(なぜか)感性も知性も感じないのだ。これが実に最も興味深いポイントなのである。  では、この「調和」の世界に感覚と知覚を刺激する「音楽」を組み込むにはどうしたらいいのか? Devil ここで、人間による(動物には決して出来ない)「悪知恵」が発揮される。それは、まさに天使的(なのか悪魔的なのか定かでないが)な「裏技」だ。  わざと「ドミソ」の調和と均衡を「崩す」のである。  それによって、その後にくる「調和と均衡」を際だたせることが出来る。  音楽的に言うと「協和音に行く前にちょっとじらす」・・・つまり「不協和音」を入れるのである!  この究極の「裏技」(なにしろ自然界には存在しない、人間以外には応用不可能のテクニックなのだから!)に気付いたことこそが、以後数百年の人類の音楽史に貢献する「西洋音楽」最大の発見であり、「人類史上最大の発明のひとつ」なのである。(いや、大げさでなく)。           *  以後、西洋音楽の歴史とは、協和音にゆくための「じらし方」のテクニックの歴史となる。 Domisol 例えば、ドミソに行く前に、ドの半音下を鳴らしたり全音上を鳴らしたりする(ドミナント。要するにシレソ)。あるいは、近似の別の倍音列の和音を鳴らす(サブ・ドミナント。つまりファラド)。    そして、半音下とか全音上を上がったり下がったりする「じらし」を、2声部・3声部と増やして行き、それを絡みに絡ませて「まだか?」「もっと」「まだまだ」「もう少し」「あとちょっと」・・・とじらしまくる高等テクニック。  それこそが「ポリフォニー(多声部の音楽)」そして「対位法」の神髄である。 (ちなみに、2つ以上の声部が和合したり離反したりして協和音に至る過程を「じらす」のが「ポリフォニー」。それに加えて、さらにリズム的なズレまでを駆使して「すれ違い」の高等テクニックを駆使するのが「対位法」)  …と、これだけでは単なる「音の遊び」に過ぎないが、何とも不思議なことに、この「和音の協和・不協和」の変化に、人間は「感情」の変化を感じ取るのである。  そのため、なぜか「音」の変化は「心」の変化とシンクロする。単なる「音」の調和のバランスが織りなす(空間認識にも似た)知覚なのにもかかわらず、人間はそこから「感情」の変化を感じ取って「心」を体感してしまうのである。  それゆえ、「音楽」は「感情」を(擬似的に)表現できる。いや、出来てしまう。これが、「音楽」のもたらす最大の奇跡だ。  かくして「音楽」は、人間の「感情」と密接にリンクした人類最高の文化のひとつになったわけである。           *  この「じらし」のテクニックが、楽器と結びついてどんどん高度になって行く過程が、バロック音楽では聴ける。 Vivardi 対位法だけ(ある意味では、数学的な音の組み合わせ)で出来ているのに神の表現にまで迫るバッハの音楽や、一つのメロディをずらして重ねただけの「カノン」に絶妙の情感が組み込まれたパッヘルベルの音楽。あるいは、ヴァイオリン属あるいは管楽器の軽妙な響きに「自然観」が聞こえるヴィヴァルディの音楽。  ギザギザなすれ違いポリフォニー(対位法)で出来た「歪んだ真珠」は、調和や均衡を崩すことで「人間」や「自然」の表現に向かう。その鮮烈な一歩がそこには聞こえる。  (その後、「じらす」ためのテクニックが、バロック音楽〜クラシック(古典)音楽〜ロマン派〜近代音楽とどんどんエスカレートしてゆき、二十世紀に至って文字通りの「不協和音」を奏で始めたのは、皮肉な苦い結末としか言いようがないけれど・・・。)
◇ 通奏低音  話は変わって、そんなバロック音楽のちょっと目を引く特徴に、「通奏低音」というシステムがある。楽語(イタリア語)で「Basso Continuo(バス・コンティヌオ)」、ドイツ語だと「Genaral Bass(ゲネラル・バス)」と言う。  耳で聞くだけではあまりよく分からないが、楽譜を見れば一目瞭然。譜面には低音(バス)の音型だけが書かれていて、そこに7とか2とか56とか34とかの謎の数字が書いてあるからだ。   Basscontinuo_2  この「通奏低音」のパート、楽譜としては1段だが、通常この譜面で低音楽器(チェロやヴィオラ・ダ・ガンバあるいはファゴットなど)および鍵盤楽器(チェンバロあるいはリュートやギター)が演奏する。  これは、現代で言うなら、ドラムとベースそしてサイドギター(あるいはキイボード)の作り出す「リズムセクション」のようなもの。  ポップスやジャズでは、メロディ譜に、C、G7、Am、F#9…などの「コード・ネーム」が付いたもので演奏するが、あれと同じである。  これは、曲全体のコード進行とリズムの構造が書かれている設計図なので、当然ながら曲の始めから終わりまで途切れることなく記譜されている。そこで「常に鳴っている=通奏」「バスのパート=低音」、「通奏低音」というわけである。   ベースの音型は「対位法的に」書かれているので、ほぼその通り演奏するが、それを伴奏するチェンバロは「数字」に従って、音を紡いでゆく。 Number 例えば、ハ長調で何も書いていない場合は、そのまま「ドミソ」。「4」と書いてあれば(ハ長調の基音であるドから数えて)4番目の音「ファ」、「6」と書いてあれば6番目の音「ラ」を加えて演奏する。  そして、「7」ならドミソに7番目の音「シ」の音を加えたいわゆる「セブンス」、「56」なら「ソとラ」、「34」なら「ミとファ」を演奏するということになる。  後は、その和音の構成音で出来てさえいれば、どういう音の組み合わせで弾くか(例えば、単純に和音だけを弾くか、対位法的に凝ったパッセージを弾くか)は演奏者の自由に(ある程度)まかされている。「即興」とまではいかないが、演奏家の個性やセンスが発揮できるわけだ。  ただし、ジャズでは「ジャズ風にスウィング」し、ロックでは「ロック風に8ビート」で演奏しなければぶち壊しになるのと同じで、そこは楽曲の「様式」に合った(イタリアではイタリア風、フランスではフランス風の)弾き方をしなければならないのは言うまでもない。           *  ちなみに、現在出版されているバロック時代の作品の楽譜の多くは、チェンバロのパートもだいたい「リアリゼイション」と称して全ての音が書いてあるので、念のため。 (なにしろ、現代の「クラシック音楽」の音楽家は「楽譜に書いてるとおり弾く」という訓練しか受けていないので、今さら「自由に弾いていい」と言われても、どうしたらいいか分からないのである) Triosonata もうひとつ余談。この「通奏低音」という言葉、かなり専門的な用語ではあるものの、「音楽の低い部分で(途切れずに)常に鳴っている音」というイメージが印象的なせいか、文学作品などで「XXは、彼の人生で常に通奏低音のように響いていた」などという表現によく出会う。    ただ、バロック音楽などにおける「通奏低音」には、そういった「宿命」的なニュアンスは薄い。(そもそも、あまり「低音」という感じがしないからだろうか)。  むしろ、コントラバスなどの正統派低音楽器による繰り返し音型「バス・オスティナート」や、民族音楽やミニマル音楽などで耳なじみの低音の保持音「ドローン」の方が、このイメージには近いかも知れない。閑話休題。
Orch◇ 指揮とアンサンブル  それにしても、こう見てくると、「バロック音楽」というのは、その音楽の形が(その後のクラシック音楽より)ジャズやロックに近いということに改めて気付く。  そう言えば、バロック音楽では、クラシック音楽には不可欠の「指揮者」もいない。その代わりに、ヴァイオリンのトップ(オーケストラで言うコンサートマスター)か、チェンバロ(かつては作曲者本人であることが多かった)が、弾き初めの合図を出す。  後は演奏家が(そのテンポで)アンサンブルを進めてゆく。バンドで曲の始めにドラマーが「ワン・トゥー、ワントゥースリーフォー!」とやるのと同じだ。  そして、曲の終わりも、誰かがキューを出してリタルダンド(テンポをだんだん落とす)していって終わる。音の最後の切り方は(出だしと同じく)ヴァイオリンのトップの弓に合わせる。ロックバンドなら、ギタリストが飛び上がって着地するのが最後の「ジャン」の合図だが、あれに似ている。 Cembalo こういった「指揮なしのアンサンブル」が可能なのは、編成がさほど大きくなく、ひとつの楽曲がほぼインテンポ(一定のテンポ)で演奏される場合に限られる。  ロマン派以降の音楽のように、編成が巨大な上、曲の中でテンポやダイナミクスが激しく変化する音楽は、指揮者なしでアンサンブルを進めるのは極めて難しい。  その点、バロック以前の音楽は、現在のポップスと同じで、バラードはバラード、アップテンポの曲はアップテンポというように、ひとつの曲は(ほぼ)ひとつのテンポ設定で出来ているから、ある意味バンド感覚で演奏できる。  そして、その音楽構造は(ほぼ)「メロディ」と「コード進行」と「ベース・ライン」で出来ている。クラシックよりはジャズやロックに近い感じがするのはそのせいだ。    確かに「進化論」的に言えば、ロマン派以降のクラシック音楽の方が、はるかに「高度かつ複雑」な進化を遂げているのは明白かも知れない。しかし、何でもかんでも進化すればいいというものではなく、進化することで失うものも大きいことは、人類の進化を見れば明らかだ。  18世紀以後、クラシック音楽は色々な「手練手管」を覚え、大人になっていった。ハーモニーや対位法は複雑化し、表現は肥大化し、オーケストラは圧倒的に巨大化し、音楽は経済社会の中で金や権力にまみれていったわけだ。  不協和音とテンポとダイナミクスを駆使する高度な作曲テクニックは、多種多彩な表現を得ることを可能にした。しかし、それは逆に言えば、癒されることのない感情的ストレスへの転落をも意味する。 (まさに「現代人のストレス」を音にした感のある「現代音楽」を聴けば、進化で手にしたものと失ったものが身に染みようというものだ)  だからだろうか、現代人は時々、時代を逆行してシンプルな音楽に逃げ込み、そこに癒しの効能を求めるようになった。  古典派以降の音楽と比べると、圧倒的に「じらし」の「優しさ(若々しさ)」があるバロック音楽が珍重されるのは、そんな時だ。
 ■古いは新しい、新しいは古い  バロック音楽以前の音楽は、よく「古楽」などと呼ばれる。  確かに「新しい音楽」「古い音楽」と言い方をしたら、それはもうバッハなどのバロック音楽は「古い」音楽に違いない。 (個人的には、チェンバロの金属的な響きや、弦楽器のノンヴィブラートの音は、意外とかなりモダンで「鋭利」な世界のような気もしなくはないのだが…)。  しかし、よく考えてみれば、例えば50歳の人にとっての「古い(昔の)音楽」と言ったら、それは若かった頃の「青年」時代の音楽だ。  同じように、音楽史を人間の一生に見立てて、円熟した「ロマン派」の音楽を「大人(壮年)」の音楽とすると、モーツァルトやベートーヴェンは若々しい「青年」の音楽。そして、バロック音楽こそはみずみずしい「少年」の音楽ということになる。  西洋音楽が(かすかな「じらし」とポリフォニーと通奏低音に託して)初々しい「自己主張」を始めた時代の、若さに満ちた音楽。それこそがバロック音楽だと言えばいいのかも知れない。    バロック音楽は「古い」音楽ではない。  クラシック音楽がまだ少年の瞳を持っていた頃の  「若い」音楽なのである。
          *
ゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラ Flyer■2008年7月9日(水) 14時開演 東京オペラシティ □ゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラ □クリスチャン・フンケ(指揮&ヴァイオリン) 曲目 ・ヘンデル:「水上の音楽」組曲第1番 ヘ長調より ・ヴィヴァルディ:合奏協奏曲集「調和の霊感」より 第6番イ短調
 ・J.S.バッハ:G線上のアリア
 ・パッヘルベル:カノン ・ヘンデル:オンブラ・マイ・フ
 ・J.S.バッハ:管弦楽組曲第2番
 ・J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番
 ・J.S.バッハ:ブランデンブルク協奏曲第4番

Flyer■2008年7月10日(木) 19時開演 サントリーホール □ゲヴァントハウス・バッハ・オーケストラ □クリスチャン・フンケ(指揮&ヴァイオリン) ★村治佳織(ギター) 曲目 ・ブランデンブルク協奏曲 第1番 ・チェンバロ協奏曲第5番 ★ ・チェンバロ協奏曲第2番 ★ ・ブランデンブルク協奏曲第4番 ・2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 ・ブランデンブルク協奏曲第2番

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コメント

はじめまして、「楽語.com」というサイトを運営している者です。
楽典・音楽用語を楽しく暗記出来るよう、ゴロを用いた教材をサイトで公開しています♪たのしいのでぜひ遊びに来て下さい。
http://www.gakugo.com/
突然、失礼しました。

投稿: tatsuto | 2008/07/26 12:32

読ませて戴きました。大変勉強になりました。
福岡の古楽祭にもいってきました。今年はクイケン3兄弟も参加し、色々勉強になりました。
我社で企画しましたDVD「ルネッサンス バロック音楽大系」右記HPhttp://www.universe-1.jpで是非ご覧になってください。
突然失礼致しました。

投稿: 石井 誠 | 2008/10/09 19:07

はじめまして投稿させて頂く上原よう子です実は私、中学校の頃から作曲家ヴィヴァルディの事がメチャクチャ大好きですってゆーか興味がありますよ小学校の頃はあの人の事を女性だとおもいましたが、現在ではロックスターみたいにメチャクチャカッコイイナァって感じておりますヴァイオリン弾いてる姿にメチャクチャキュンっとしちゃいます(b^▽^)b☆d(^▽^d)(生々しい姿はもちろん、イラスト姿も。)ヴィヴァルディのイラスト姿は髪の毛が長く、デコルテだしてる姿にメチャクチャキュンっと感じております☆(*^▽^*)☆♪♪私はそんな彼が大好きです(^o^)//"""""""

投稿: 上原よう子 | 2013/08/23 21:40

始めましてm--m とても勉強に成りました。
バロック音楽がとても好きなので、感性と
言う部分での理解が大部分なものですから。

ルネサンス・バロック魅了されますね。

投稿: 体験型未来づくりネット | 2014/05/31 12:20

お久しぶりです実は私、高校生の頃にヴィヴァルディの他にバッハにも興味を持ち始めましたよ☆(*^▽^*)☆音楽の父でまるでオルガニストメチャクチャカッコいいですね(-^〇^-)息子たち4人が作曲家デビューしちゃうなんてメチャクチャ素敵だと思います(b^▽^)b☆d(^▽^d)ヴィヴァルディのイラスト姿の他にバッハのイラスト姿もメチャクチャカッコ良くイケメンだと思っちゃいます新しいニュースヴィヴァルディの切手が別のサイトにて発見メチャクチャキュンってしちゃいますバロック音楽は美しい名曲ばかりですねお勉強になります☆(*^▽^*)☆♪♪♪♪

投稿: 上原 瑶子 | 2014/06/17 22:23

こんにちは~
別のサイトにてヴィヴァルディの伝記映画があったんですよ~!(b^ー°)ヴィヴァルディの伝記映画がなんかのミニシアターで上映されてたんですって!(メジャーかなんかは知らんけど…。)
ヴィヴァルディの役していた人がメチャクチャイケメンだなんてかなりビックリですよ☆(*^▽^*)☆まるでロックスターみたいにメチャクチャカッコいいですよ(b^▽^)b☆d(^▽^d)
ヴィヴァルディ役をしていた人の格好良さにメチャクチャキュンって感じちゃいます(b^▽^)b☆d(^▽^d)

投稿: 上原よう子 | 2014/09/28 14:34

こんばんは☆(*^▽^*)☆
お久しぶりです~ 実は私、ヴィヴァルディの愛弟子のアンナ・マリーアにメチャクチャ興味がありますよ~☆(*^▽^*)☆
超一流のバイオリニストでついには『合奏・合唱の娘達』の楽長まで仕切っていたんですよ(o^∀^o)ヴィヴァルディがピエタを去った後は彼女が『合奏・合唱の娘達』の楽長の跡を継ぎましたよ女性楽長はもう本当に素敵過ぎです☆(*^▽^*)☆
あまりに美しすぎて「アンネッタ先生素敵ー」って叫んじゃいますね!(b^ー°)

話が変わりますが、ヴィヴァルディのイラスト姿で、デコ出しの髪型がメチャクチャお気に入りです(b^▽^)b☆d(^▽^d)色っぽく、セクシー姿がメチャクチャ気に入っておりますよo(`▽´)o
バスローブの組み合わせがグッドかもヴィヴァルディの『四季』の他に『スターバト・マーテル』の名曲も聴いてみたいです☆(*^▽^*)☆
ヴィヴァルディ先生は本当に名プロデューサーになっちゃうし、アンナ・マリーア先生は女性楽長になっちゃうから、私なんかはまるで℃素人に見えちゃいます

ヴィヴァルディ先生とアンナ・マリーア先生は本当にカッコいいし、メチャクチャ大好きです☆(*^▽^*)☆

投稿: 上原よう子 | 2014/11/22 21:59

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