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2008/07/10

自律型の作曲家たち

Dionysos 私が作曲を志した十代の時、音楽における先輩あるいは師匠として心を惹かれたのは、いわゆる「(生まれながらの)天才」型の作曲家ではなく、「独学(あるいは自律型)」の作曲家たちだった。

 なにしろ私自身、幼少の頃から音楽の英才教育を受けたわけでも、早熟な天才として育ったでもない。本を読んだり絵を描いたり科学に興味を持ったりした挙げ句、十代の後半にようやく「音楽」に辿り着いた「回り道」組である。

 今さら物心つく前から音楽一筋の(モーツァルトのような)アポロ型天才タイプにはなれるはずもないし、もう一度幼少時代に戻って絶対音感やピアノの習得など出来るはずもない。だから、早熟の天才たちの音楽には心打たれるにしても、その路線の音楽語法は自分とは無縁であると割り切ってしまっていたわけなのだ。

 それに、早熟な「天才」というのは、要するに物心つく前から「親」に音楽を仕込まれた「他律型」の促成栽培の別名であって、自らの意志で音楽の道を選んだわけではないではないか。自分は、いろいろ試行錯誤し挫折しながら、自分の手で音楽の道を選んだ「自律型」なのだ。そんな軟弱な天才たち恐るるに足りず!
 …などという無茶苦茶で負け惜しみ的な自負もあったことも確かだったりする。

 そもそも、もし例えばモーツァルト先生の処に作曲の教えを請いに行っても、たぶん「思い付いたメロディをさらさらと書けばいいのだよ」という以上の教えはないに違いない。それは、私たちが改めて「どうやって2本足で歩いているのですか?」と尋ねられても即答できないのに似ている。(考えた挙げ句の返事はたぶんこうだ。「どうやって? そんなこと考えたこともないよ!」)

 その点、独学・自律型(ディオニソス型)の作曲家は、通常の早熟な天才たちから比べると極めて遅く、十代後半から音楽を専門的に勉強し始めたゆえに、そこに至るまでに既に(音楽以外の)豊富な知識と(何よりも)挫折を知っている。そして、その音楽には「どうやって自分の音楽世界を作って来たか」という英知を秘めている。なにしろ彼ら自身がそうやって試行錯誤を重ねながら音楽を探り当てて来たのだから。

 だから、十代後半に(専門家になるにしてはかなり遅れて)音楽を志した私としては、作曲を学ぶに当たってこの種の同じ(遅れてきた)作曲家たちに非常に興味があったわけなのだ。

 というわけで今回は、音楽を自分自身の意志と手腕でもぎとった「自律型の作曲家たち」のお話である。

          *

■ まずは「アポロ型」の作曲家たち

 音楽史を彩る「大作曲家」たちの伝記には、幼少の頃から驚くべき音楽の才能を発揮したという逸話がたくさんある。

Mozart 8歳で最初の交響曲を書き、12歳でオペラを書いたモーツァルト。12歳でモーツァルト並みの弦楽ソナタを作曲し、十代で早くもオペラの作曲家として活躍し始めたロッシーニ。8歳にしてピアニスト・デビュー、16歳にしてワルシャワ音楽院へ入学したショパン。十代から旺盛な作曲活動を始め、わずか31年の生涯で歌曲や交響曲など1,000作近くを残したシューベルトなどなど。

 その類型を挙げると、こんな感じだろうか。

 1.幼少(5−6歳)の頃からピアノに親しむと同時に、大人を驚かせるような音楽の才能を発揮し、最初の小品を作曲する。

 2.その才能に驚いた先生の口利きで、わずか十代にして音楽家デビューあるいは音楽院に入学。そこでも天才ぶりを発揮する。

 3.成年になる頃(20歳前後あるいは音楽院を卒業する頃)には、いっぱしの音楽家として活動し「天才」の名をほしいままにする。

(4.しかし、三十代半ばまでに失脚するか挫折するか早死にする。)

 この手の「アポロ型(生まれついての天才タイプ)」の大作曲家は、一見、才能を天から授かって生まれてきた、神に祝福された最強無敵の存在のように思える。

 しかし、考えてみればこれは(最初に書いたように)早期教育による「促成栽培」の結果であり、自分の意志で音楽を選択したわけではない。日本人から見れば「5歳でフランス語がぺらぺら」という子供は、それだけでもう「天才」に思えるが、フランスでは全ての子供がフランス語をぺらぺら話す。同じように、幼少から仕込まれれば「言葉」と同じ程度には「音楽」を操ることは可能だ。

 しかし、問題は「それで何を話すか?」という点であり、音楽以外の経験を得ずに「神童」から「天才音楽家」へ進級してしまうと、選択肢を封印されてきた危うさがやがて体を蝕み始める。

 そのせいかどうかは定かでないが、この種の早熟の天才の「才能」が機能するのは三十代半ばまで、というのも恐ろしい現実だ。よほどの幸運がない限り、そこから先も「巨匠」として生き延びる例は、極めて稀のように思われる(…と、ここでも負け惜しみの悪意を込めて余計な一言を言ってみる)。

■ そして自律型の作曲家たち

Beethoven モーツァルトに代表される、そんなアポロ型に対して、「ディオニソス型(苦労して育った自律型タイプ)」の典型は(異論もあるかも知れないが)、ベートーヴェンだ。

 彼は、落ちぶれた宮廷歌手だった父親から少年時代に無理やり音楽の教育を受けたあたりは「他律型」。しかし、家計を助けるために音楽で稼がざるを得ず、二十代まではもっぱら「(作曲も出来る)即興演奏ピアニスト」として活動しながら、苦学して音楽を学んでいる。

 そして、耳が悪くなったことから本格的に作曲家に転身したのは30歳になってからと意外と遅い。シューベルト(享年31)ならもう最晩年だ。ここまで挫折し悩んだ末に「作曲」に辿り着いたのだから、立派な「自律型」と言って良いだろう。

 今でこそ「クラシックを代表する大作曲家」として「天才」の名を欲しいままにしているが、音楽史上初の「フリーター作曲家」(自由芸術家…と言えば格好いいが、役職どころか定職もなく、一歩間違えれば野垂れ死に必至の不安定な立場だ)の道を邁進した彼の音楽人生を見ていると、「自律型」作曲家の最初の代表者は彼しかないと思えてくる。

Berlioz そして、このベートーヴェンに次ぐ「自律型」にして、音楽史上空前絶後の「独学」の大作曲家が、医学生あがりのベルリオーズ(1803〜1869)だ。

 ベートーヴェンが「英雄」交響曲を書いていた頃、フランスの医師の家庭に生まれた彼は、父親の仕事を継ぐべく医学の勉強をするため18歳でパリに出てくるまで、音楽を専門的に勉強したことはない。子供の頃に(一般教養程度に)楽譜の書き方を教わり、十代にギターを習った。それだけだ。ピアノを学んだことすらなかったらしい。この時点ではまさしく一介の「医学生」でしかなかったのだ。

 ところが、パリで本場のオペラを見たことと、解剖の実習で「これは自分に向いてない」と思ったことがきっかけ(?)だったのか、医師の道を断念していきなり音楽への転身を決意する。そして、(父親の猛反対を受けながらも)音楽を本格的に学ぶべく、パリ音楽院(コンセルヴァトワール)に出入りを始めたのが19歳の時。

 作曲の勉強を始めたのはこの時点からだった筈なのだが、いきなりオペラやオラトリオを構想し始め、21歳の時には「荘厳ミサ曲」を作曲して発表。さらに27歳の時には、かの「幻想交響曲」を発表し一躍「新進作曲家」として音楽界に躍り出たのは御存知の通り。
 
 その後、彼はロマン派文学と強く関わった問題作を発表し続け、「近代管弦楽法」を確立したオーケストラ作曲家の元祖となり、現在でも続くフィルハーモニー協会の創立に関わっている。要するに、近代オーケストラは、このベルリオーズが元祖であり、その後のワーグナーやマーラーに繋がる色彩的なオーケストラ・サウンドや、現代におけるオーケストラの隆盛は、彼なしには考えられないと言っていいのである。

 その点では、彼は紛う事なき「天才」なのだが、彼に「音楽の才能」があったのか?と言うと、(不遜なことに)首をかしげざるを得ない。何か違った「とてつもない才能」が、ベルリオーズをベルリオーズにした、ということなのだろう。

          *

Tchaikovsky と、そこまで極端な独学自律型の暴走する天才ではないものの、ロシア最大の作曲家であるチャイコフスキー(1940〜1893)も、幼少の頃の「天才エピソード」がない不思議な経歴の作曲家だ。

 彼はロシアの裕福な鉱山技師の家に生まれ、家庭教師からピアノを習ったことはあるものの、プロの音楽家になるなどとは思いもせず、普通の法律学校に進学して「法科の学生」になっている。
 さらに19歳で卒業して法務省の役人に就職までしているから、ここまでは完全に「ペテルブルクの一役人」として一生を終えたかも知れない生涯だ。

 しかし、その頃ペテルブルクに初めて音楽学校が創設されることになり、チャイコフスキーが出入りしていた音楽教室のピアニストだったルビンシュタインに勧められて、そこに遅い入学を果たすことになる。
 
 そこで本格的に音楽の勉強を始めたのが21歳の頃。法務省に勤めながらの二足のわらじだったが、やがて役人の仕事を辞め、音楽一本に道を定めることになる。(とは言え、27歳頃までは法務省に在籍していたらしいのだが)

 そして、25歳で音楽を卒業し、モスクワに創設された音楽院の教授を務めながら作曲家として活動を始め、交響曲第1番(冬の日の夢)などを発表。その後は三十半ばまでに「ピアノ協奏曲第1番」や「白鳥の湖」など話題作を続々発表し、人気作曲家への道を邁進している。

 彼の場合は、ベルリオーズとは違って(一応)子供の頃からピアノはたしなんでいたもの、音楽院の創立が数年ずれ込んでいたら、あるいはルビンシュタインが引き抜いていなかったら、そのまま法務省に勤務し続け、作曲家チャイコフスキーは誕生しなかった可能性が高い。

 これは「自律型」にちょっぴり「外因(運)」が混じっている不思議な例と言うべきか。

           *

 この時代のロシアの作曲家たち(特にチャイコフスキーを取り巻く「ロシア五人組」の面々)は、独学組がきわめて多い。

Mussorgsky その代表格であるムソルグスキー(1839〜1881)は、幼少期には裕福な地主の家で育ち、一般教養として家庭教師から手ほどきを受けたらしくピアノも多少はたしなんでいたが、体系的に音楽を学んだことはない。(もっとも13歳の頃にピアノ小品を作曲して、父親がお金を出して楽譜を出版したことがあったというから、少年時代までは絵に描いたような「良家の子女」である)

 その後、エリート武官になるべく勉学にいそしみ、一時は士官候補生になったものの、音楽への夢を絶ちきれず、19歳の頃に軍務は退役。しかし、その頃、実家は農奴解放政策(1861)のあおりを受けて没落。下級官吏として貧乏生活を送りながら、バラキレフに個人的に作曲を学びつつ、また「ロシア五人組」の仲間に支えられつつ、ほぼ独学で歌曲やオペラの作曲に邁進することになる。

 やがて三十代半ばに歌劇「ボリス・ゴドノフ」で開花、ドビュッシーも一目置いた斬新な和声感を始め、イマジネーションの奔流が見事な「はげ山の一夜」や「展覧会の絵」など今でも世界中で愛聴される名作を残すが、生きている間に恵まれた作曲家生活を送ったとはとても言い難いのはちょっと悲しいところだ。

 その同じロシア五人組で「ダッタン人の踊り」の名メロディで知られるボロディン(1833〜1887)も、「独学」では負けていない。

 なにしろ、彼は生涯「化学者」が本職(化学の世界では「ボロディン反応」の発見者として有名)で職業は「軍医」なのだ。こちらも良家の子女として幼少の頃ピアノにたしなんだことはあったものの、30歳を過ぎるまで音楽をちゃんと勉強したことはなく、同じ「ロシア五人組」仲間のバラキレフに出会って後、三十代後半になってようやく交響曲やオペラ(イーゴリ公)などを書き始めた遅咲きの人である。

Rkorsakof そして「ロシア五人組」の中ではもっとも若く博識で知られる「独学の人」リムスキー=コルサコフ(1844〜1908)も、本職は海軍の「軍人」だ。

 貴族の家に生まれた彼は、少年時代から音楽に親しんではいたものの、海軍兵学校に進学。卒業してロシア海軍に入隊し、二十代までは海軍で航海実習などに携わる傍ら、「ロシア語人組」の仲間と交流し、独学の日曜作曲家として趣味でオーケストラ曲やオペラを作曲する生活を送っている。

 そんな海軍の軍人だった21歳の時には、ロシア人として初とも言われる「交響曲」を発表しているから、文字通りの「玄人はだし」という奴である。

 このあたりは「芸術家」タイプと言うより、いかにも「学者」タイプの創作姿勢だ。それもあってか、(独学で正式な楽歴がないにもかかわらず)27歳の時にペテルブルク音楽院の「管弦楽法」の教授に抜擢されている。

 以後は、音楽史上屈指の管弦楽法の大家として交響組曲「シェエラザード」や歌劇「金鶏」などの名作を作曲するほか、ムソルグスキーやボロディンの作品のオーケストレイションや、今でも愛読者の多い「管弦楽法」の大著を残し、教師としてグラズノフとストラヴィンスキーという偉大な弟子を育てている。

 彼は(音楽史上にはちょっと珍しい)、自由奔放自滅型の芸術家とは対照的な、面倒見の良い社会常識をわきまえた「自立型」作曲家の代表格と言えるだろう。

          *

Stravinsky そのリムスキー=コルサコフの弟子であるストラヴィンスキー(1882〜1971)も、チャイコフスキーと同じく、大学までは法律を学んでいた典型的な独学の作曲家だ。

 彼の場合は、父親が音楽のプロ(オペラ歌手)だったので、少年時代は、家でコンサートが開かれたり、オペラ劇場に潜り込んだりと、音楽の素養は人並み以上にあったようだが、音楽はあくまでも「趣味」。オペラやコンサートに通いながら、学業としては(興味を持てないまま)法律を学ぶべく大学に進んでいる。

 ところが、法律の勉強のために入った大学で、偶然にもリムスキー=コルサコフの息子ウラジミールと親友となる。それをきっかけに、この大作曲家に弟子入りすることになり、本格的に「作曲」を勉強をし始めたのが20歳の頃。ただし、個人的な師事であり、音楽院に入学はしていない。

 その後、師リムスキー=コルサコフばりの色彩的なオーケストレイションを会得して、25歳にして短いオーケストラ曲「花火」を作曲。それが新しい作曲家を探していたロシア・バレエ団のディアギレフの目に止まり、パリで上演する新作バレエの作曲家に大抜擢。27歳にしてバレエ「火の鳥」を発表して、一夜にして人気作曲家の仲間入りをするわけである。

Sibelius 大学までは法律の勉強をしていた、という点は北欧フィンランドの大作曲家シベリウス(1865〜1957)も同じだ。
 彼の場合も、20歳でヘルシンキの大学に入学した時点では、法律を学ぶ(あまり出来のよくない)学生にすぎなかった。

 ちなみに、大学で「法律」を学んでいた作曲家は、チャイコフスキーにシベリウスにストラヴィンスキーなど奇妙に目に付くが、「法律」の勉強が音楽に関係するとはとても思えない。自分の進路を決めかねている状態(いわゆるモラトリアム)を保つのに(むしろまったく音楽とは無縁なゆえに)大学の「法科」が(親を納得させるのに)有効だったということなのだろう。

 実際、シベリウスの場合は、地方都市のいくぶん裕福な医者の家に育ったものの、特に医者を志すこともなく、音楽の素養は、ちょっとヴァイオリンを弾いていた…という程度。大学に進む時点でも進路は定まらず、夢想癖があるせいか、あまり成績はよくなく、2年も進級できずにいたほどという。

 だから、大学の「法科」を選択したというのも、医学には進めず、かと言って親の面子もあるので大学へは行かねばならない、というジレンマの末の決断だったようだ。(などと聞くと、なんとなく自分の学生時代を思い出して、人ごとではない思いに駆られてしまうが…)

 しかし、そんなモラトリアム時代に、図書館で見つけた「作曲法」の本でなんとなく独習を始め、音楽への思いが絶ちがたくなっていたのも事実。そこで、大学にはいると同時に(当時創立したばかりの)音楽院にも在籍することを親に許可してもらう。これがシベリウス20歳の頃。

 とは言っても、専門的な音楽の勉強などしたこともなく、ピアノが弾けるわけでもない。そこで、幼い時から馴染んでいた唯一の楽器がヴァイオリンだったことから「それでは、せめてヴァイオリン専攻で」と入学することになったらしい。この時点で彼が後の「大作曲家」になろうなどとは、誰一人予想しなかったに違いない。

 結局、シベリウスが「作曲」にはっきり進路を決めたのは23歳頃。それも、神経質で「あがり性」なため人前で演奏するようなヴァイオリニストはむいていない…と断念したのがきっかけと言うから面白い。

 それでも、その後は室内楽作品を中心に作曲を次々に発表、めきめきと頭角を現し、24歳で卒業する頃には「もっとも期待される新人作曲家」として認められるようになり、ベルリンとウィーンへ留学。
 そして留学から戻った26歳の時に発表した「クレルヴォ交響曲」の成功で作曲家として開花し、「フィンランディア」によって国民的な作曲家となるわけである。


      
 ■自律と多様性

 と、自律型「独学」の作曲家たちを幾つか並べてみると、何となく共通項が見えてくる。

Dokugaku_2 1.親がインテリ階級のある程度裕福な家庭に育ち、幼少の頃から、教養としての「音楽」には親しんでいること。

 2.十代後半(15歳〜17歳前後)で音楽に目覚めるが、音楽の専門学校には行かず、その後の数年間は別の学問(法科か理系)を勉強。しかし、途中(20歳前後)で何かをきっかけに転身、作曲を志していること。

 3.その後の数年(20歳〜25歳頃)はきわめて吸収力旺盛に勉学を進め、二十代後半(26歳〜29歳)には後に作曲家として一家を成す「自分自身の作風」を確立していること。

          *

 ふむふむ、なるほど・・・と私としては思うわけなのだ。(もっとも、独学の作曲家を目指すわけでもない普通の音楽愛好家諸氏には「それがどうした?」という話かも知れないが)。

 確かに、こと音楽に関しては、残念ながら「物心ついて」「自分でやりたいと言い出す」歳から訓練を始めたのでは、ほとんど手遅れに近い。特にピアノやヴァイオリンなど演奏の専門職になるのはほぼ絶望的と言っていい。

 だから、早期教育は「その道を究める」のにきわめて必要不可欠なのだが、大きな(そして致命的な)問題がひとつある。それは、音楽の道以外の選択肢をもたずに育った純粋培養ゆえに「多様性に欠ける」ことだ。

 純粋種は、たったひとつの要因(病気や環境変化)でたちまち絶滅することがある。早熟型天才もどこかそれに似ていて、「若い」で売れていた時代を過ぎた頃に訪れる袋小路や挫折が、人生においても致命傷になることが少なくない。これは、早熟型天才の悲しい宿命と言えるだろうか。

 その点「自律型」の音楽家は、物心ついてから・自分自身の意志で音楽を目指しているから、(最初に挫折や袋小路を抜けて来ているわけで)、環境変化が多少あろうともすぐさま絶滅に陥るという確率は低い。

 多様性を含んだ雑種が生き残るのは、生命の鉄則なのである。

 というわけで、私としては今でも「生まれついての天才」や「子供の時から才能を発揮していた神童」より、自分の力でのし上がってきた「うさんくさい」「食わせものの」「怪しげな」独学・自律型の才能に興味を引かれる。

 才能は、天から貰うものでも、親に付けて貰うものでもない。無理やり自分で見つけてきて、自分のその手で掴むものだからだ。

 とは言え、(私を含めて)食わせものの才能の99%は、やはり「食わせもの」でしかないのも確かなのだが・・・(+ +;)以上、妄言多謝。

          *

00_2アメリカン・バレエ・シアター「白鳥の湖」

・2008年7月23日(水)18:30
 ・24日(木)13:00/18:30
 ・25日(金)13:00/18:30

  オデット/オディール:ニーナ・アナニアシヴィリ
  ジークフリート王子:ホセ・カレーニョ
  ロットバルト:ジャレッド・マシューズほか
 (キャスト詳細はHPで御確認ください)

 17日(木)18日(金)オール・スター・ガラ
 19日(土)20日(日)21日(月祝)「海賊」

 東京文化会館大ホール

ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団

・2008年10月4日(土)14:00。横浜みなとみらい大ホール
 グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調(p:上原彩子)
 シベリウス:悲しきワルツ
 シベリウス:ヴァイオリン協奏曲ニ短調(vn:川久保陽紀)

・2008年10月8日(水)19:00.東京オペラシティ
 ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界から」
 グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調(p:上原彩子)
 ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
 
 クリスチャン・ヤルヴィ指揮ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団

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コメント

日本にも自律型「独学」の作曲家って結構いますよね。
伊福部さんに戸田さん入野さんに武満さん、湯浅さん、佐藤聡明さんに吉松先生っと。

でもその後の世代って、ほとんど居なくなりますね。

なんででしょう?

投稿: ホルたん | 2008/07/11 12:54

【貴族の家に生まれた彼は、少年時代から音楽に親しんではいたものの、海軍兵学校に進学。卒業してロシア海軍に入隊し、二十代までは海軍で航海実習などに携わる傍ら、「ロシア語人組」の仲間と交流し、独学の日曜作曲家として趣味でオーケストラ曲やオペラを作曲する生活を送っている。】

「ロシア五人組」ですね(* ̄ー ̄*)

投稿: そもさん | 2012/07/27 15:39

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