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2008/09/10

北京オリンピック記念:オペラ「トゥーランドット」考(後編)

Turandotb さて、登場人物も出そろったので、物語を始めよう。(前編を読んでいない方は、まずこちらから)

 ■第1幕

 むかしむかし。舞台は中国の首都、北京の王宮(紫禁城か)の前。夕方。

 役人が口上を述べる。「北京の人民たちよ。掟はこうだ」。すなわち、トゥーランドット姫に結婚を申し込んだ者には謎が3つ出される。それを解いた者は姫と結婚できるが、解けなかった者は「死」が待っている。

 その挑戦者(であり敗北者)、月の出と共に処刑される王子を一目見ようと、王宮の前の広場は人でごった返している。

 その騒ぎの中で、群衆にもまれて倒れそうになる老人と、それを介護するお供の若い女性。実は、国破れて盲目で放浪の身のティムール王と、付き人の女奴隷リューの二人。

 彼女が「誰か手を貸して」と声を上げたところで、偶然にもその近くにいた、同じく放浪の末に首都北京にやってきた王子カラフと再会する。

 再会を喜ぶ三人。その目の前をペルシャの王子が刑場に引かれてゆく。怒りに駆られた王子カラフは、その酷い姫の姿を見ようと身を乗り出す。

 しかし、トゥーランドット姫を一目見た王子カラフは、その美しさに魂を奪われる。そして、父王やリュー、さらに三人の大臣たちが止めるのも聞かずに、銅鑼を鳴らして謎への挑戦を宣言する。

Pinponpand ■ 第2幕

 三大臣ピン、パン、ポンが登場し、これまでのいきさつを述べる。

 むかしは、賑やかな祭りの場だったものが、姫に結婚を申し込む者に3つの謎を出し、解けなかった者は死刑、などという掟を作ってから、もう20人以上が犠牲になり、ひどいことになっている…という嘆きの歌。
 
 そして、ラッパの音が聞こえ、姫が登場して謎かけの儀式が始まる。

 命を粗末にせず心変わりを諭す老皇帝アルトゥーム。しかし、王子カラフはあくまでも謎への挑戦を要求する。
 「謎は3つ。死がひとつ」と言う姫に、カラフは「違う。謎が3つ。命がひとつだ!」と高らかに宣言する。

 最初の謎は「人々の上に翼を広げるもの。人々は追い求めるが、いつも夜明けと共に消えるもの」。王子は答える。「それは〈希望〉だ!」

 次の謎は「炎のように燃えるもの。夢を見れば燃え上がり、敗北や死で冷たくなるもの」。王子は答える。「それは〈血〉だ!」

 そして、最後の謎は「おまえに火を付ける氷。おまえを奴隷にも王にも出来るもの」。王子は考えたあげく答える。「わたしの勝ちだ。それは〈トゥーランドット〉!」

 挑戦者が3つの謎を解いたので喜ぶ群衆。しかし、結婚を渋る姫。「誓いは神聖じゃ」と姫をいさめる老皇帝。
 しかし、姫は拒む。「私はいやです。おまえのものにはなりません。それとも力尽くで抱こうというのですか?」

 王子カラフは「いや、姫よ。私は〈愛〉に燃えるあなたこそが欲しいのです」。
 そして、言う。「無理やり結婚を迫る気はない。今度は私が謎をひとつ出そう。私の名前を夜明けまでにあてなさい。そうしたら私は死んであげましょう」

Turandot01 ■第3幕

 かくして北京に「王子の名が分かるまで、今夜は誰も寝てはならぬ」というおふれが出る。

 役人たちは「もし名前が分からなかったら死刑になる!」と恐怖し、三大臣は、宝石を並べたり、拷問されるぞと脅かしたり、いろいろな手管を使ってカラフに辞退を申し出る。しかし、彼は聞く耳を持たない。

 やがて、放浪の老人とお付きの娘(老王ティムールと従者リュー)が、名無しの王子と会話を交わしている…という密告があり、二人が姫の前に引きずり出される。

 拷問をして名前を吐かせようとする役人たち。
 しかし、拷問をおそれながらも、リューは王子の名を決して言わない。「名前は私だけが知っています。でも決して言いません」

 拷問に耐え口をつぐむリューに「なぜ、そこまでして王子の秘密を守ろうとするのか?」と問う姫。リューは答える。「〈愛〉です。姫さま」

 そして美しいアリアが始まる。「氷に包まれたあなたも、熱い炎に負かされて、きっとあの方が好きになるでしょう。夜明けまでに…」。
 そして、役人からナイフを奪うと、自らの胸に突き立てて死ぬ。

 ショックを受ける姫と王子、死体にすがって泣き崩れる老ティムール王。「かわいそうなリュー。許しておくれ」と悲しむ民衆たち・・・・・

           *

 ・・・・実は、プッチーニが書き上げたのはここまでである。以前から病のため仕事が遅れがちだったプッチーニだが、ここまでのスコアを書き上げて1924年11月24日、死去する。

 しかし、台本とスケッチは残されていたし、生きていれば完成まで(おそらく)ひと月ほどというペースである。(出版スコアで言うと、全460ページほどのうち400ページが完成。残り60ページが未完)

Alfano そこで、残されたスケッチを元に、プッチーニの遺族がフランコ・アルファーノ(プッチーニより17歳ほど若いイタリアのオペラ作家)に補作を依頼し、6ヶ月ほどで完成する。
 そして、初演は、作曲者の死後1年半ほどたった1926年の4月に行われることになった。

 ただし、初演の指揮者トスカニーニは、(その補完のいきさつや出来に不満があったこともあり)初日の公演では、プッチーニが書いた最後のシーン(リューの死)まででタクトを置き、「ここでマエストロは亡くなりました」と言って、演奏を終えている。

Poster01 ■未完のフィナーレ

 プッチーニが完成できずに終わった最後の未完の場面の筋書きはこうだ。

 リューの死にショックを受けている姫に、王子カラフは言う。
 「死の姫、氷の姫よ。もう空から地上に降りてきなさい。あなたのために流された血を見なさい」
 しかし、姫は「私は人ではない。清らかな天の娘なのです。おまえが冷たい抜け殻を抱こうとも、私の心は天上にあります!」と拒む。

 そこで、カラフは「あなたの心が天上にあろうと、肉体はここにあります」と言い、姫にキスをする。

 おそらく生まれて初めて他人に(しかも異性に)肌に触れられたことで急に気弱になり、泣き始める姫。「ああ、トゥーランドットが消えてゆく。わたしの栄光は終わった。何という恥だろう」。「これ以上の勝利を望まないで。どうかあなたの名前の秘密と共にこの国を去ってください」。

 しかしカラフは言う。「秘密?。そんなものはない。私はあなたのものだ。その証拠に、私の命をあなたにあげよう」。「私の名はカラフ。ティムールの息子だ!」
 その途端、姫は叫ぶ。「あなたの名前が分かりました!」

 ふたたび壮麗な宮殿の前。
 皇帝や役人たちや居並ぶ民衆の前で、トゥーランドット姫は言う。
 「この男の名が分かりました」

 息をのむ人々。
 姫は続ける。「この人の名は…」

 「…愛!」

 後は、めくるめくようなハッピー・エンディングだ。民衆が「愛!」と呼応し、二人の愛を祝福し、「おお、太陽よ。命よ。世界の光よ。愛よ。永遠に!」と歌う壮大な合唱(「誰も寝てはならぬ」の美しいメロディ)と金管の別働隊までも加わる圧倒的なサウンドによる大団円の音楽が鳴り渡る。

Turandot01_2 ■もう一つのエンディング

 この幕切れ、確かに急展開ゆえに感動的だ。

 トゥーランドット姫が、「この男の名前」を「愛(Amor)!」と叫ぶ所は、いつ聞いてもゾクッとする。
 それに続く圧倒的なサウンドの洪水も、「大団円」にふさわしい光り輝くファンタジーを体感させてくれる。

 しかし、にもかかわらず、よく考えてみるとちょっと気になるところがいくつもあるのである。

 その1。リューの献身的な自死は、確かに感動的で心を動かされる。しかし、姫の側から見れば、これはカラフ王子に思いを寄せる「別の女がいた」ということであり、女性としてはあんまり「愛が深まる」要素ではないんじゃないだろうか?

 その2。カラフの言動も気になる。目の前で、自分への無償の愛を告白して死んだ女性(リュー)がいるのだ。その死骸を目の前にして「それはそれ、これはこれ」と別の女を口説き続けるのは、人間的にちょっと問題があるのではなかろうか?

 そのうえ姫に対して「自分が殺してきた男たちの血のことを思いなさい」と諭すに至っては、「今そこで自分のために死んだリューの血のことはどうなんだ?」と突っ込みたくなる。

 その3。にもかかわらず、自分に結婚を申し込んだ男性を何十人も殺してきた姫が、カラフのキスひとつでへなへなと〈愛〉に目覚める。

 まあ、キス一発で敵の女スパイを自分の味方にしてしまう往年のジェームス・ボンド(007)の例を持ち出すまでもなく、(あるいは大審問官にキスしたドストエフスキーの神の子の話を思い出してもいい)西欧文明におけるキスの威力は最強なのかも知れない。

 でも、これは現実にはあり得ない単なる「男の夢」なのではなかろうか。(まあ、だからこそオペラなのだ…と言ってしまえばそうなのだが)

          *

Score 一説には、プッチーニが「トゥーランドット」を最後の部分だけ未完成のまま死んでしまったのは、単に「作曲が間に合わなかった」だけではなく、この「氷のように冷たいお姫さま」が「愛」に目覚める過程がうまく描けなかったのが一因という。

 モーツァルト死後、弟子のジュスマイヤーが補完して完成させた「レクイエム」のように、この「トゥーランドット」も、「作曲家の意図を生かしたもっと別の補筆がありえるのではないか?」という不満と共に、別の補完版が試みられる要素は十分にある訳なのだ。

 そのひとつが、「トゥーランドット」初演から75年ほどたって書かれた現代作曲家ベリオによる補完版。メロディラインや台本はほぼ同じながら、オーケストレイションや演出の表現が違うことで、リューの死からの展開はずいぶん違った印象になっている。

Dvd05 この現代作曲家ルチアーノ・ベリオ(1925〜2003)による新しい補完版は、2001年にカナリア音楽フェスティバルのために書かれ、リューの死から終幕まで20分ほどを補筆完成させたもの。(ゲルギエフ指揮ウィーン・フィルによるDVD版で聴くことが出来る)

 アルファーノの補完による現在の版では、リューの死からカラフの告白そして「愛」の宣言から終幕までほぼ一直線に「サウンドの洪水」が力ずくで物語を進めるが、ベリオ版は(現代音楽風の不協和音やサウンドも含めて)いくぶん屈折した「暗さ」と「静けさ」が印象的だ。

 もちろん、さすがのベリオも、筋書を変えるまでの補完はしていない。「愛」の宣言の後、二人は抱き合い、合唱はそれを優しく包むように歌い、(まさに氷が溶けた世界のように)暖かく静かに終わる。
 ハッピーエンドではあるが、色々な悲しみを踏みしめての浄化された終焉。大音量で「愛!」を絶叫し、祝賀的な大団円になる現行版とは全く違った世界だ。

 なにしろ姫は「愛」に目覚めたことで逆に、今まで殺してきた王子たちやリューの犠牲を感じることとなり、「結婚」するからと言って脳天気に喜ぶことはもう出来なくなっている。

 そして、王子の方も、召使いリューから「告白」されたうえ、愛の証に「自殺」されてしまうわけで、そのショックが「心の傷」にならないわけがない。

 というわけで、二人は「愛」を語るもののそこに明るさはなく、暗く消え入るようなトーンで終幕が描かれる。当然ながら歓喜の合唱はなく、音楽は静かに厳かに終わるわけだ。
 ある意味では、こちらの方がはるかにリアルであり、現代人にとっては納得の出来る描写と言えそうだ。

 しかし、これではグランド・オペラとしての「トゥーランドット」のカタルシスはないのも事実。
 そもそもが男と女のおとぎ話なのだ。おとぎ話にリアルはいらない。やっぱり元の「トゥーランドット」の方がいい、という見方も賛成だ。

         *

Cd06 ここからは余談だが、カラフが謎の答えを口走ってしまい、姫がそれを聞いて「この者の名前が分かりました!」と叫んだ瞬間、「ぎょっ」としない男っているのだろうか?

 男は(特にイタリア男性なら)女性を口説くのに「私の命はあなたのもの」と言うくらいはお約束。そして、女性の方が「いや」と呟いて涙を流すのも「お約束」だ。

 つまるところ、この攻防戦は「恋の駆け引き」。ストレートな直球勝負あり、外角に外すつり玉あり、虚実を入り交えた心理作戦でもある。

 3つの謎を出す第1ラウンドまでは、姫が絶対優勢。しかし、謎を解いた時点でカラフ王子が逆転勝利。しかし王子が自分から謎を出すという「勇み足」でドロー。

 続く第2ラウンドでは、名前を知る奴隷を見つけたことで姫が先取ポイント。しかし、その奴隷が名前を吐かずに死んでしまい、カラフは勢いに乗ってキスまで獲得。姫にすれば、万事休すのマッチポイントである。

 そこで、最後の手段の泣き落とし作戦。勝負を最後まであきらめない捨て身の攻撃である。そして、それが功を奏して、相手にペナルティを与えることに成功。

 カラフからすれば、3つの謎を解いた後もひたすら自分の愛を拒む無垢の姫に、さまざまな言葉を駆使して(押せ押せで)口説き文句を並べ、キスにまで持ち込み、9回2死2−3まで追い詰めた。あと一球でゲームセットというところである。

 しかも、相手はもう敗北を認めて弱気になり、打つ気を見せず涙目になっている。そこで勝利への余裕もあってか、絶対投げてはいけない一球…もとい…口にしてはいけない一言(謎の答え)を口走ってしまう。それがあの瞬間だ。

 その時、姫は「しめた!」と思い、王子は「しまった!」と思ったはずだ。そして、それを見ている観客(特に男性!)は、「この馬鹿!」と舌打ちをする。「女の涙にだまされた!」

 そして、物語は最初の場面に戻る。王宮の前に人々が集まり、役人が口上を述べ、首切り役人が登場し、哀れな新しい犠牲者(カラフ)がひとり、月の出と共に処刑されるのである。

 トゥーランドット姫が「この者の名が分かりました!」と叫んだ時、見ているほとんどの観客が想像するのは、この結末なのではなかろうか?。

 9回2死まで相手を追い込んでいたのに、最後の最後で逆転サヨナラ・ヒットを打たれた哀れな男の物語。
 それはそれで劇的なドラマである。

 しかし、姫は思いもかけない言葉を発する。
 「この人の名前は〈愛〉!」
 その一言で、すべてが瓦解する。

 考えてみれば、これはものすごい言葉である。
 なにしろ9回2死まで来た勝負をすべて帳消しにし、勝者も敗者もない「めでたしめでたし」の世界に全員を引き込んでしまうのだ。

 だからこそ「トゥーランドット」の物語に人々は感動する。
 夢物語だと思いつつも・・・

         *

Dvd07 しかし、根が素直でない筆者としては、感動的な夢物語に涙しつつも、素直でない余計な妄想を思いつく。
 というわけで、最後にもうひとつ、さらなる余談としてこんなフィナーレはどうだろう?

 現行版の「トゥーランドット」のまま、華やかにハッピー・エンディング…となった後で、急に舞台がふっと暗くなり、王子の首切りの場面になる。
 
 夢から覚めて呆然とするカラフ王子。そして、プー・ティン・パオ(首切り役人)登場。月の出と共に斧が振り下ろされ、哀れカラフは刑場の露と消える。

 つまり、今までの話は、王子が首を切られる寸前に見た〈夢〉でした…というわけだ。

 一人取り残され、呆然とする盲目の老ティムール王。憮然とする老皇帝アルトゥーム。
 そして、トゥーランドット姫の「オーッホッホッ」という高らかな哄笑が響き、合唱が皇帝と姫をたたえ(カラフが加わった「亡霊の合唱」の恨み節をかき消して)幕が下りる。

 最後の数十秒での劇的な大どんでん返し(?)演出である。だれかやらないだろうか? 大ブーイング必至だろうけど・・・

 ・・・いや、そんなことを言いながらも、華美なハッピー・エンディングの現行版が(プッチーニの意志とは違うにしても)私は気に入っている。
 氷のように冷たい心のお姫さまが、愛に目覚める「大人のおとぎ話」。そして、誰でもちょっと身につまされる「愛」の物語。

 その方が「現実の世界は忘れて、オペラの世界へようこそ」というオペラの理念に合っているような気がする。

 そして、その方が「おとぎ話の中にしか〈愛〉はないのさ…」と言っている(淋しげな)プッチーニの顔が見えるような気がするからだ。

         *

Turandot

ソフィア国立歌劇場公演「トゥーランドット」

・ 10月4日(土)14:00 東京文化会館
・ 10月5日(日)14:00 東京文化会館

主なキャスト
トゥーランドット(S):
 マリアナ・ツヴェトコヴァ(4日)/エレーナ・バラモヴァ(5日)
リュー(S):
 ツヴェテリーナ・ヴァシレヴァ(4日)/ラドスティーナ・ニコラエヴァ(5日)
カラフ(T):
 カメン・チャネフ(4日)/コスタディン・アンドレーエフ(5日)

全国公演
10月12日(日)愛知県芸術劇場
10月13日(月・祝)三重県文化会館
10月15日(水)盛岡市民文化ホール
10月19日(日)北九州芸術劇場
10月20日(月)シンフォニア岩国
10月22日(水)長野県伊那文化会館
10月24日(金)サンポートホール高松
10月25日(土)兵庫県芸術文化センター
10月26日(日)パルテノン多摩

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コメント

こんにちは。初めてコメントさせていただきます。

オペラに造詣が深いわけではなく、むしろほとんど何も知らない身なのですが、トゥーランドットのお話は漫画などで読んだことがあり、吉松様の「ちょっと気になるところ」について疑問を持ったのでコメントさせてください。
見当違いなことを言っていてもどうかお許しください。


まず「その3」の「キスひとつで愛が目覚めた」なのですが、姫はキスという行為で愛に目覚めたのではなく、その後に王子が自ら自分の名を申し出たことで愛を知ったのではないのでしょうか。

王子は自分の名を当てたら姫のために死ぬことを約束しており、名前を教えることは姫を勝たせ姫の意思にそぐわない結婚を中止することを意味します。
そうやって、彼女のために自ら負けよう、彼女の高貴な(天子の娘という意味ではなく、「愛する一人の人間」という意味で「高貴な」)意思を尊重するためには自分の命だって捨ててみせよう、という姿勢が、彼女に「愛とはこういうものか、これが愛か」という認識を与えたのではないでしょうか。

愛する人のために命を捨てるという行為は、王子のために死を選んだリューと重なります。

リューは自分の死の理由を「愛」と姫に説明しますが、この時点では姫にはその意味が分からなかったのではないでしょうか。それまでにも自分のクイズ対決に負けて死んでいった男は大勢いましたが、それはあくまでも姫にとっては「美しい姫や玉座」と「死」をお互いの対価とした契約のようなものであり、次々と無謀な賭けに挑む男たちに何故なんだろうと疑問に思いはしても、そこで愛を知るには至らなかったのではないかと思います。

しかし、王子が死ぬのは姫との対決に負けたことによる「対価」ではなく、勝者でありながら姫のために勝利の座を降りた、「無償」のものであるように思います。

第3幕でリューから王子へ向けられた愛が、今度は王子から姫に(明確に姫にも分かる・納得できる形で)向けられ、そこで初めて愛を知った姫はその愛を受け入れた、ということなのではないでしょうか。


そして、次に「その1」の「別の女」ですが、他人からそのように「愛」を向けられていたという事実は、愛が深まる要素ではないどころか、むしろ心という器(比喩的な表現で申し訳ありません)が空っぽだった自分とは違い王子はとても温かいもので満たされており、愛を知り愛を与えられる素敵な男性であるということを認識することができる事実なのではないでしょうか。

両想い・片想い・片想われを問わず、「別の女がいる」ということはそれだけで全て厭うべきものにはならないような気がします。

その具体的状況によっては、「別の女」との関係こそがその男性を魅力的にさせるものになるのではないでしょうか。

例えば、若い頃から10年近く一人の女性を愛していて別れたという男性がいたとして、その人と新たに付き合うことになった場合に、確かにその女性の存在は男性の中で重く大切なものではあるので複雑な気持ちになることもあるでしょうが、それだけ人を大切にすることができる素敵な男性なのだなという認識にも繋がるかと思います。

そのような具体的状況の例はかなり少ないのかもしれませんが、少なくともこのお話で私が姫であったなら、リューの想いを面白くないとは思わないだろうなぁ、と。

脳内お花畑な女と思われるかもしれませんが、私はこの物語を、男女の恋の駆引きではなく、少女漫画のような純然たる愛の物語と解釈していましたので、上記の点が少し引っかかりました。


「その2」については私も同様に疑問に思っております。

リューの死後、姫を口説く時と結ばれた後の両方の時点で、王子と姫(姫は愛を知った後だけでいいですが)がリューのことを気にかけるような描写があれば十分納得するのですが、それがないとリューの想いが2人の中で軽く扱われているようでモヤモヤが残りますね。

ただもしかしたら、「あなたのために死んだ男たちの血を思いなさい」というのは、男たちの死は、その時点の姫からしたら「契約の対価」でしかなくても、王子からすれば姫への「愛」そのものであり、リューの死を重く受け止めているからこそそのセリフが言えるのかもしれません。

長くなって申し訳ありませんが、ここで終わらせていただきます。

投稿: りん | 2015/01/14 08:12

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