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2008/10/10

現代音楽はお好き?

Scorexx 個人的に現代音楽についてはずっと「アンチ」を表明してきた。

「音楽は音楽でなければ音楽ではない」というテーゼ(?)の元に「現代音楽撲滅運動」というのを提唱したり、果ては「現代音楽は、ホロコースト・原爆と並ぶ20世紀の悪夢である」とぶちあげたり。

 もっとも、「あれは(ヨシマツ流の)プロパガンダにすぎない」…と(陰では)見抜かれているところもあるのも事実。何しろ、私は20代まではコテコテの「現代音楽マニア」だったのだから。

Scorex
 ただ、どんな現代音楽マニアでも「ゲンダイオンガク」の悪名の高さは認めざるを得ない。いわく「難解」、いわく「不気味」、いわく「メロディもハーモニーもリズムもない」、いわく「作曲家の独りよがり」。

 現代音楽界ではスーパースター級の作曲家であるメシアンやシュトックハウゼンやブレーズ、あるいはベリオやリゲティや武満徹などの作曲家の古典的名作ですら、一般の音楽愛好家の耳には(例えば同じ20世紀の作曲家…ラヴェルやプッチーニやショスタコーヴィチやピアソラなどのように)普通に愛好されているとはとても言い難い。

 その原因(つまり1920年代にアーノルド・シェーンベルク博士が主唱した「十二音主義」に端を発する〈無調音楽〉)と功罪についてはハッキリしているが、それについてはここでは触れない。あちこちで書いてきたし、もうアジるのにも飽きてきたし(笑)

 しかし、現代音楽のすべてが、ただひたすら「難解」で「楽しむ要素がなく」「聴衆の理解を超えて複雑」か?と言うと、それには「そんなことはない!」と声を大にして言いたいのも事実。
 なぜなら、現代音楽の諸作にも、音楽的に「面白く」「わかりやすい」書法が(確かに)あったのだから。(実際、私もそれに惹かれて現代音楽の書法を勉強したのだし)

 そして、その書法は、現代音楽という「調性がなくて」「メロディもリズムもなくて」「形式もない」という荒野を抜けたからこそ発見できた「音楽語法」なのだ。

 それに気付くと、現代音楽のちょっと違った聴き方が見えてくる。

          *
 
■グラフィック(お絵かき)スコア

Sonoris 私が十代で現代音楽的な作曲法に興味を持った時、一番「面白い」と思ったのは、ペンデレツキ、ルトスワフスキと言ったポーランドの現代作曲家が60年代に試みた「グラフィック・スコア」系の書式だ。

 単に「グラフィック・スコア(図形楽譜)」というと、デザイン画みたいになった楽譜を指す。音符よりも、マルや線やギザギザなどの模様がちりばめられたもので、イメージは何となく伝わるが、楽譜としての機能(どの音をどう演奏する)は放棄していて、完全に「絵」になってしまっているものが多い。

Uoza03 それでも、「丸い音」とか「四角い音」あるいは、「とげとげの音」とか「きらきらの音」などというのは、五線紙の音楽より「何となくのイメージ」は膨らむような気もしないでもないのだが。

 特に、電子音楽やテープ音楽では、そもそも音素材が「楽音」ではなく、「とげとげの音」や「きらきらの音」そのものなので、こういったデザインっぽい楽譜の方が作曲のイメージを伝えるのに有効だったに違いない。

 この「電子音楽」っぽい音を、オーケストラやアンサンブルで実現しようとした時に生まれたのが、次に紹介する〈トーン・クラスター〉という手法である。

■トーン・クラスター

Uoza01 「トーン・クラスター(Tone Cluster)」というのは、「音響の固まり」というような意味。楽譜に書くと、#♭だらけの音符がブドウの房(cluster)みたいに並ぶので、そう呼ばれている。

 音で言うと、例えばピアノの鍵盤をゲンコツか手のひらで白鍵も黒鍵も一緒くたにして鳴らすような音である。

 短音で鳴らすと「ぐちゃ!」とか「ごわん!」というようなノイズっぽい音になり、長音で鳴らすと「ごおー(低音)」とか「きいーん(高音)」のような摩訶不思議な音が得られる。

 この「トーン・クラスター」の最もシンプルかつ印象的な使い方の代表例が、リゲティの「アトモスフェール」(1961)というオーケストラ作品である。
 SF映画「2001年宇宙の旅」では、真空の宇宙空間の不気味さを表すのにこのサウンドが使われたので、ご記憶の方もおられるだろう。

Atomosphere スコアだと、こんな感じ→になる。

 要するに、最低音から最高音までのすべての音を(半音でずらしながら)オーケストラの楽器で一斉に鳴らす。「ぐちゃ〜〜」とも「ぐお〜〜〜」ともつかない神秘的で壮大な音がする。(確かに、真空の宇宙空間やブラックホールを思わせるような、無重力感たっぷりのサウンドである)

 しかし、これをスコアに書くのは大変だ。なにしろフル・オーケストラで80人近いオーケストラの楽器すべてが違う音を出すわけだから、その音の数だけ五線の段が必要になる。

 例えば、この作品(アトモスフェール)では、弦楽器はヴァイオリン:14+14、ヴィオラ:10、チェロ:10、コントラバス:8、計56の楽器がそれぞれ別の音を出すので、ストリングスだけで56段の五線譜が要る。

 さらに、フル・オーケストラの部分になると、フルート:4、オーボエ:4、クラリネット:4、ファゴット:4、ホルン:6、トランペット:4、トロンボーン:4、チューバ:1、それにピアノが加わる。さて、何段の五線紙が要るでしょうか?

 ところが、ここに「アイデア賞」ものの書法が登場する。それが、ペンデレツキが考案したクラスターのスコア。クラスターの一番下の音と上の音だけ指定して、あとは黒く塗りつぶすのである。
 なんという明快さ!。

Threnody スコアを見れば、そのシンプルさは歴然だ。ヴァイオリン24本、ヴィオラ10本、チェロ10本、コントラバス8本、計52の弦楽器が、4分音単位でずれた音程を2オクターヴに渡って鳴らす。

 これを伝統的なスコアの書式で書くと、52のばらばらの音を指定するのに五線は52段必要になる。
 しかし、この「グラフィックっぽい」書式を使えば、たったの6〜7段で記譜できる。

 しかも、個々のクラスターの質や動き(音のイメージ)が一目で分かる。こんなわかりやすいオーケストラのスコアがあるだろうか? もしかしたら、バッハのフーガなんかより遙かに「分かりやすい」楽譜なんじゃないだろうか?

 こういう「クラスター」をデザイン的に組み合わせて作品を作る一派を「クラスター楽派」などと呼んでいた。私も、現代音楽の語法での作曲は、当初このスタイルを基礎にしていた。

 しかし、このわかりやすい「グラフィックっぽい」スコアの書式は、その後さらにもう少し進化・発展する・・・

 ■デザイン&アドリブ

Cello02 例えば、こんな感じだ→。
 発想は(クラスターのデザインと同じで)グラフィックな音響パッチワークだが、素材は(一応)音符で出来ている。

 なので、楽譜は読めなくても、チェロがねちゃねちゃとソロをしている周りで、クラリネットが鳴り、次いでストリングスがゴチャゴチャと動き出す…という音のイメージは「見える」のではなかろうか?

 普通のクラシックのスコアでは、演奏していないパートも全休符が書き込まれたまま五線譜は存在するが、ここでは音を出していないパートの五線譜はバッサリ削除している。
 おかげで、どの楽器がどこでどういうパッセージを演奏し始めるか…というのが一目瞭然となる。極めて「視覚的」な発想だ。

 こういうスコアを見ていると、これはもはや「作曲」などではなく、「音響のデザイン」なんじゃないか?と思われる方もいるだろうが、まさにその通り。

 つまり「メロディ」でなく色々な「音の素材」を、「ハーモニー」ではなく「クラスター」的な発想で、「対位法」ならぬ「デザイン」として組み合わせてゆく。そんな「作曲法」が現代音楽の時代に生まれたわけである。

 この「クラスター楽派」のポイントは、一にも二にも「音の素材の斬新さ」だが、半音や微分音のクラスターにこだわっているだけでは、「動き」に欠けるのが致命的。所詮ロングトーンでしかないから、音楽に「律動感」がなくなるのである。

Cello01 そこで、音に「動き」を加えるべく、アドリブの早いパッセージを演奏してみる。
 音の選び方は「クラスター」と同じ。十二音だったり微分音だったり、どうせハーモニーとは関係ないのだから、何を弾いても(無調であれば)効果は同じだ。

 このあたりはジャズの発想(アドリブ)に似ている。しかも、ジャズと違って縦に合わせるアンサンブルの必要すらない。(なにしろ「ビート」がないのだから)

 となれば、楽器が「ぴろぴろぴろ」とか「きききき」とか「しゅるしゅるしゅる」とか自由に(アドリブ)でパッセージを演奏し、それを自在に組み合わせることで作品を「デザインしてゆく」…という書法が可能になる。

 これは、ちょっと画期的な作曲法だ。

 唯一の問題は、楽器が「アドリブ(でたらめ)」で弾くのを、どうアンサンブルとして成立させるのか?という点だが、それもシンプルな解決法がある。

Samplea 指揮者は、クラシックの楽曲では「4拍子」なら「1・2・3・4」という拍子を振る。
 しかし、このアドリブ・デザインでは、楽器のグループが「ぴろぴろ」や「ききき」を演奏し始めるタイミングで「キュー」(指さす)を出す。(例えば、指で「1」や「2」を示す)
 演奏者はその「キュー」の合図で「ぴろぴろ」を弾き出せばいいのである。

 ルトスワフスキが多用したのは、この手法。個人的には「センツァ・テンポ(テンポなし)書法」などと呼んでいたが、「偶然性」の音楽手法のひとつ、あるいは「アドリブ動律」などと呼ぶ人もいる。

 これ、なかなか「面白い」音楽の形ではないだろうか?

■折衷&調性への回帰

Threnodyt 私が、1980年に「朱鷺によせる哀歌」で試みたのは、この手法を「半音(要するに無調)」のクラスターでなく、「全音(要するに協和音)」のクラスターでサウンドさせてみる…という発想の転換だった。

 そこからは、極めてシンプルな結果が生まれる。つまり、モード(旋法)やコード(和音)の構成音でクラスターを作れば、Dm7とかGm9というハーモニー感を持った新しいサウンドが出来るのである!

 入口は「(無調の)トーン・クラスター」なのだが、気が付けば「ハーモニー」の世界がそこには広がっている。まるで、暗いウサギの穴を抜けたら「不思議の国」に出たような感じだ。

 ただ、こういう「デザイン」的な音楽の作り方というのは、調性のある音楽の延長線上に発想するのは難しい。機能和声や拍子に固執して音楽をやっている限り、おそらく100年たっても生まれ得なかった語法に違いない。

 しかし、一旦「調性」も「ハーモニー」も「リズム」もないことにして、そこから音素材の組み合わせだけで音楽をデザインする…という発想になった時、(思いも寄らない)新しい「音楽の形」が生まれた。これは、ちょっと面白い発見だった。

 となれば、この種の現代音楽的手法を、「調性」や「ハーモニー」や「リズム」のある世界に逆輸入して取り込めば、まったく新しい(かつ音楽的な)音楽語法が手に入るのではなかろうか!…と、考えるのは当然のことのように思われる。

 そんなこともあって、80年代以降はこの「グラフィックっぽい」書式も、クラスターや偶然性などの枠を越えて、「モード(旋法)」を交えて使われたり、ロマン派的な音楽をコラージュする方法として使われたり、と、いろいろな手法が試みられている(ような気がする)。

 私は「鳥」の音型をこのアドリブ・パッセージに応用して「鳥のシリーズ」というのを書き続けてきたが、音楽デザイン的に「様々な様式を取り込む」という発想は、クラシック音楽界とリンクした新しい作品が生まれる可能性を秘めている。と私には思える。

Piano01 例えば、ルトスワフスキが1970年にロストロポーヴィチのために書いた「チェロ協奏曲」や、1988年に(当時若手の大人気ピアニストだった)クリスチャン・ツィメルマンのために書いた「ピアノ協奏曲」も、その手法の一成果だ。

 チェロ協奏曲は、まだ現代音楽的なテイストを残しながら、超絶技巧のチェロに色彩的なオーケストラが絡む「音の遊びっぷり」が見事だったが、その18年後のピアノ協奏曲はかなりクラシック音楽のテイストが現れる。

 とは言っても、まだまだ不思議なサウンドは健在。ただ、鋭角的かつ挑戦的な趣向は後退し、旋法も交えた(どこかショパンやプロコフィエフも匂わせるような)軽やかなピアノのパッセージに、いくぶん控えめなオーケストラが音の遊びを仕掛けるように絡んでゆく。
 どこか「可愛らしさ」も感じる佳品である。

 こういう作品を聴くと、現代音楽がクラシックの諸先輩たち(実際、ルトスワフスキやペンデレツキは、ショパンの後輩なのだし!)との音楽的リンクを目指す「新しい時代」を感じられるような気がする。

 聴く側としては、そんな新しい時代の「音の遊び」を素直に楽しむのが一番だろう。
 確かに、聞き慣れた昔の音楽とはちょっと違うが、メロディやハーモニーがないから「分からない」と思いこむのは早計。ないからこそ面白い世界だってあるのである。

          *

■クリスチャン・ツィメルマン(p)/チョン・ミョンフン(指揮)

Zi◎2008年11月20日(木) 19:00開演
・ルトスワフスキ:ピアノ協奏曲
・チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調「悲愴」ほか
◇サントリーホール 大ホール(東京)
チョン・ミョンフン(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

◎2008年11月23日(日・祝) 18:00開演
・ルトスワフスキ:ピアノ協奏曲
・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調「運命」ほか
チョン・ミョンフン(指揮)、東京フィルハーモニー交響楽団

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コメント

チャイコフスキー先生の交響曲第6番「悲愴」にて、G9のクラスター(レファソラシの密集)を使用していると、「名曲探偵アマデウス」で解説されていたのを思い出しました。

新作交響曲、新作ヴァイオリン独奏曲に期待しています。

投稿: 田中 | 2008/10/11 11:33

現代音楽に関心のある学生です。
グラフィック的楽譜にもしっかりとした理論があったとは、とても勉強になりました。

投稿: fkd | 2012/12/25 00:32

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