音楽の荒唐無稽とウソ〜ショスタコーヴィチ「明るい小川」をめぐって
歴史に「もし」を持ち込むのは無意味である…とはよく言われることだ。でも、音楽を聴くたびに無数の「もし」が頭をよぎるのは止められない。
「もしモーツァルトが50歳を過ぎるまで長生きしていたら」「もしベートーヴェンの耳がよく聞こえていたら?」「もしショパンがピアノに出会わなかったら?」「もしチャイコフスキーが音楽院に行かずそのまま役人になっていたら?」「もしシェーンベルクが12音などというものを発明しなかったら?」・・・そして「もしジョン・レノンがポール・マッカートニーと出会わなかったら?」
その中でも、私が個人的に非常に興味をもつのは、「もしショスタコーヴィチがソヴィエト政府と関わることなく(自由に)創作を続けていたら?」という「もし」だ。
◇作曲家と国家政府
作曲家がその時代の政治と関わる例は、あまり多くない。モーツァルトやベートーヴェンがいかに人類の生んだ最高の芸術家でも、生きている時代の社会的地位は「ただの音楽家」。有名文化人として国王や貴族および大衆に顔が知られているのは確かだが、政治的発言権があったとは思えない。
しかし、やがてヴェルディやワーグナーあるいはプッチーニなどのような大ヒット・オペラ作家が生まれるようになると、社交界に顔が利いて社会的地位も上がり始める。バイエルン国王に劇場設立の金を出させたワグナーなどは、「有名人(あるいはセレブ)として国家政府に関わった外交的作曲家の代表格だろう。
さらに20世紀になると、ウィーンを始めとするヨーロッパの歌劇場でかなり政治的権力を持つようになったマーラーや、ナチスドイツ政権下で音楽総裁(日本で言うなら文化庁長官?)という文化芸術の最高権力の地位に登りつめたリヒャルト・シュトラウスなどが登場する。
そこまで政治的な地位はなくても、例えばイギリスのエルガーや、フィンランドのシベリウスなどは、国を代表する音楽家として国家的待遇を受けている。国としては(世界的に著名な文化人として)少なくとも「優秀な外交官」一人くらいの価値を見出していたと言っていい。
そのあたりは、今で言うなら、「映画俳優」とか「人気ロック・グループ」あるいは「オリンピックで金メダルを取った選手」という感じか。
なにしろクラシック音楽を聴くようなセレブリティ相手の「人気」だから、高学歴・高年齢・高収入な人種が相手である。
そんなセレブ人種に有効な、世界的に流布されている文化メディアの「著名人」で、新聞や各種メディアがこぞって取り上げ、首から国の名前をぶらさげている宣伝広告マン。しかも、政治的な発言はしない。これはもう、外交のための客寄せパンダ…として(ある意味)最高の存在である。
こういう「パンダ」が数匹いてくれたら、国としては便利極まりない。なにしろ相手国にひとり送り込めば、下手な外交官数十人分の外交を果たしてくれるのだ。宣伝効果も抜群だし、きわめて経済的なのだから。
…と、そんな外交戦略の中に、20世紀初期から中期までは「クラシック界の作曲家」も混じっていたわけであり、第2次世界大戦から東西冷戦期に「東側」のそんな音楽外交官としてスポットを浴びていたのが、かのショスタコーヴィチである。
◇ソヴィエト連邦の誕生とショスタコーヴィチ
1917年のロシア革命を発端として、新しい社会主義国家「ソヴィエト社会主義共和国連邦(U.S.S.R)」が20世紀に産声を上げた。正式な発足は1922年。
共産主義(いわゆるマルクス=レーニン主義)の始祖であるウラジーミル・レーニンを建国の父として生まれたこの国は、1991年に解体するまでほぼ70年間、アメリカ合衆国と並ぶ地球最大最強の国家として、そして東側を代表する超巨大国家として世界に君臨することになる。
今でこそ「東西」冷戦とか分裂と言っても、若い人にはピンと来ないかも知れないが、かつては第二次世界大戦後の世界を真っ二つに分けた対立の構図だった。「東側」とは、ソヴィエトや東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ポーランドなど社会主義国家群、それに対して「西側」は、アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツなど自由主義国家群である。念のため。
現代ではさすがにソビエトを始めとする東側の社会主義を礼賛する人は少数派だが、誕生直後は、20世紀という新しい時代の未来を担った新興国家であり、理想的な社会がそこに生まれるかも知れないという「期待」を持っていた人は少なくなかった。
しかし、その期待された国の始祖レーニンはソヴィエト連邦誕生の翌々年1924年にあっさり死去し、ソヴィエトはその弟子であり一党独裁を強化する野望に燃えるヨシフ・スターリンの政権下となり、激動の時代へ突入する。
そして、そんな時代に「運悪く」作曲家としての第一歩を踏み出したのが、我らがドミトリ・ショスタコーヴィチである。なにしろ、このスターリン政権下のソヴィエト連邦が誕生した翌年(1925年)に、19歳で交響曲第1番を引っさげてデビューしたのだから!(なんという間の悪さだろう!)
おかげで彼は、新しい国家「ソヴィエト連邦」が生んだ最初の青年作曲家として注目を受け、「現代のモーツァルト」と絶賛され、まさに「期待の星」としてめきめきと頭角を現してゆくのはいいのだが、そこから「ちょっと奇妙な世界」に踏み込んでゆく。
◇社会主義リアリズム
さて、この「ちょっと奇妙な世界」ソヴィエト連邦は、「人類史上初の社会主義国家」として(当然ながら)「新しい理想的社会」の建設を目指していた。
それは、ある意味では壮大な「実験」だった。「王様や金持ち」vs「労働者・庶民」という・・・「支配(搾取)するもの」と「支配(搾取)されるもの」・・・という構図を打破し、民衆がすべて「平等」に生活できる、労働者のための理想国家を(少なくとも理想としては)作ろうとしたのである。
そのためには、政治・経済の改革だけでなく、「科学・産業」や「文化・芸術」も「社会主義的な理念」が要求される。そう考えた。
特に、文化芸術における方針は、スターリンが提唱した(とされる)「社会主義リアリズム」・・・形式においては民族的。内容においては社会主義的・・・という言葉に集約される。
要するに「芸術」は…
・平明で分かりやすく
・労働者階級(大衆)に健全な娯楽を供給し
・ロシアの民族的伝統を正しく継承し
・夢物語ではなく現実(リアリズム)に即し
・かつ社会主義的な思想にのっとったもの
…であるべきとされたのである。
これは、政治家が「音楽」に求めるものとしては、至極妥当な見解と言えなくもない。まあ、役人的な頭で「音楽」を考えたら、こういうものが「理想」なのだろう。それは、何となく想像できる。
ただし、これが条例となって、「正しく民族的」とか「平明で健全」あるいは「社会主義的」という方針が一人歩きし始める恐ろしさも同時に感じざるを得ない。(そして、それは現実になるのである)。
対して、このソヴィエト誕生の1920年代というのは、西欧ではモダニズムがもてはやされた時代。音楽でも、ストラヴィンスキーの原始主義やシェーンベルクの12音主義が生まれた頃で、時代を先取りしたい若い作曲家にとっては、「平明で健全」とか「正しく民族的」などと言う指針は、完全に時代に逆行した「政治家の妄想」と思えたに違いない。
ただ、この時点では、若きショスタコーヴィチとしては、まだ「未知の理想」に疑いを抱いてはいなかっただろうし、「反発心」も抱いていない。
19歳のデビュー作「交響曲第1番」では、モダニズムとグロテスクさを噴出させたものの、その後21歳で書かれた交響曲第2番「10月革命」や、23歳の時の第3番「メーデー」では、社会主義的なスローガンを組み込み、一応は政策と折り合う方向を模索している。
続いて22歳で発表したオペラ「鼻」は、ちょっと力を入れすぎて凄まじいモダンさと不条理さに偏ったが、24歳の時のバレエ「黄金時代」、25歳の時の「ボルト」では社会主義賛美の筋書きの中に自身のモダニズムを封じ込めることを試みている。
さらに28歳の時に書いた集大成的なオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」では、彼なりに「ロシア的」で「大衆的」かつ「リアリズム」な作品を目指し、それを達成した。(しかも、再演を重ねて、人気も上々だ)。大成功じゃないか。ショスタコーヴィチとしては、そう思ったはずだ。
◇青天の霹靂としての「批判」
ところが、その「才気」にガツンと鉄槌が下ろされる。1936年1月28日(ショスタコーヴィチ29歳)の「プラウダ」に掲載された「音楽ではなく荒唐無稽」という記事である。
これは、具体的には1934年に初演されたオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」への批判で、特に彼の音楽について「調子はずれで理解不能なメロディの断片とキチガイじみたリズムで出来ていて、歌は金切り声や叫び声ばかりの荒唐無稽さ!」と一喝し、「平明で分かりやすい音楽とは全く逆の危険な傾向」と断罪する内容だった。
そして、続いて2月6日には、1935年に初演されたバレエ「明るい小川」に対して、「バレエの嘘」というが記事が掲載された。こちらは、「バレエというロシアの伝統的な芸術を、かくも軽々しくも浅はかな世界に描くのは嘘いつわりと言うしかない」というかなり批判的な内容である。
この続けざまの2つの「批判記事」連打に、ショスタコーヴィチは驚愕する。(言ってみれば、新聞テレビで「詐欺で逮捕!」と大々的に放送され非難された某小室X哉みたいな状況なのだ。「人民の敵」というレッテルを貼られて作品が次々と上演拒否され、下手すると作曲家としての未来を完全に絶たれかねない最悪の事態である!)
もちろん現代では、別にニューヨークタイムズの社説や朝日新聞の文化欄で自分のオペラやバレエに批判的な記事が載ったところで、それは単なる「好意的でない批評が載った」という程度のことであり、作家生命に関わる深刻な打撃ではない。
しかし、当時の「プラウダ(皮肉なことに「真実」という意味)」はただの新聞にあらず。国家を牛耳るソヴィエト共産党の機関誌であり、そこに載せられた内容は(真実とはほど遠いにせよ)政府の公式見解に等しいのだから大変だ。
革命を描いた交響曲も書き、オペラ「鼻」や「マクベス夫人」などの人気作もモノにし、自分なりに政府と折り合いを付け、ソヴィエトで最も期待される青年作曲家としてトントン拍子に出世してきた(と思っていた)ショスタコーヴィチだが、ここでザンブと冷や水を浴びせられる形になったわけである。
◇批判は妥当だったのか?
この時のプラウダによる批判記事を、役人による「見当違いの芸術批判」とする見方もあるが、そうとも言い切れない。(若くして人気の作曲家に対する妬みやっかみが見え隠れするのは確かだが)その批判内容は、必ずしも的外れではなく、一応は的確と思えるからだ。
なにしろ「マクベス夫人」の音楽に対する描写は、まさに「その通り」だし、「明るい小川」への指摘もツボを得ている。
ただし、オペラでは作曲家は敢えて「調子はずれの音」や「キチガイじみたリズム」を繰り出して主人公の異常な心理を描いているのだし、バレエでは平明さを心がけるゆえに虚構の音楽世界に徹している、のだが。
そこで、この「批判」を「あくまでも善意に」取れば、調子に乗っていろいろな音楽に手を出すあまり悪いクセが着いてしまった若い音楽家を「矯正」するべく、「伝統に忠実にね」とか「才能にまかせて書き飛ばすのではなく、内容を吟味しなさい」とか「フォームが乱れているから、基本に戻った方が良いよ」というアドバイスであり、文字通りの「助言」と言えなくもない。
ところが、この記事が載った1936年というのは、スターリンによる独裁体制が確立されて、大粛正(政府に反対する勢力を抹殺する)が行われた時代の始まりの年。となると、かなり事情は違う。
平和時ならただの「助言」でも、独裁政権下では「警告」。反抗して「反体制的」だと睨まれようものなら、ただちに「反逆罪」として銃殺されかねないのだ。(実際、この時期に粛正され銃殺された軍人、文人、一般人は、一説によると200万人!とも言われる)。ことは単に「音楽上の見解の相違」ではなく「命に関わる問題」ということになる。
おかげでショスタコーヴィチは、その時に作曲中で12月に初演予定だった(モダンで非ロシア的な巨作)交響曲第4番を、演奏せずに撤回。それによって事態の悪化をかろうじて食い止めることになる。
ちなみに、この「第4番」、確かに今聴くと、ショスタコーヴィチの若き才気が、モダンかつグロテスクでエネルギッシュでミステリアスに暴走した見事な力作(実際、純音楽的な交響曲としてはこれを彼の最高傑作と挙げる人も少なくない)。
しかし、これが当時演奏されていたら確かに、オペラの「荒唐無稽」、バレエの「嘘」、交響曲の「支離滅裂」と叩かれ、作曲家生命の危機を迎えた(かも知れない)ことは想像に難くない。
ところが、ショスタコーヴィチはそんなことではめげなかった。なんと翌37年(革命20周年)の11月には(第4番とはがらりと路線を変えた、しかし悲劇的な重厚さを湛えた)「交響曲第5番」を発表。政府が提唱する「社旗主義リアリズム」路線にのっとった名作として名誉回復を果たしてしまうのである。
この第5番の内容についてはここで詳しく検証する余裕はないが、少なくともこの「変わり身の早さ」こそが、スターリン政権下のソヴィエトでショスタコーヴィチが生き延びた最大の要因となる。
もっとも、それゆえに当時の西側諸国からは「体制に迎合する日和見作曲家」という誤解を受けることになるのだが・・・。(それが単なる「迎合」ではないことは、第5を聴けば明らかなのに)
以後、死ぬまで続くショスタコーヴィチの複雑なストレスはここから始まった。
ちなみに、戦後にも「ジダーノフ批判」というのがあって、独ソ戦に勝利した年に発表した「第9番」がちっとも壮大でも合唱付でもなかったことに対する「バッシング」が吹き荒れたのだが、そこまで行くと(とにかく「国の気に入らないことを敢えてやってやる」という)意地というか確信犯的なものを感じざるを得ない。
◇「荒唐無稽」と「ウソ(虚偽)」を比べてみる。
それにしても、ショスタコーヴィチというのは不思議な人である。世界的ヒット作となったこの第5交響曲以後も、彼は「問題作」を書いては「国から批判を受け」、それに答えて「平明な作品を書いて名誉回復し」、しかし、その舌の根も乾かぬうちにまたぞろ「(反体制的な)問題作」を発表して当局に睨まれる…というイタチごっこ的な創作を繰り返している。
おかげで15曲ある交響曲も、その評価はバラバラだ。
政府に誉められて輝かしい評価を得た「第7番(レニングラード)」や「第11番(1905年)」「第12番(1917年)」など、ソヴィエト礼賛系の作品は西側では体制迎合の作品として最低の評価を受け、まともに演奏されることすら少ない。
一方、ソヴィエト政府から問題作扱いされた幻の「第4番」や、暗い戦争交響曲「第8番」、あるいは政府のユダヤ人政策を揶揄した「第13番(バビ・ヤール)」、無調音楽に接近した死についての歌曲集「第14番(死者の歌)」などが、現在は極めて高い評価を得ている。これは皮肉というべきか面白いと言うべきか。
対して、初期のモダニズム炸裂のオペラ「鼻」や「カテリーナ・イズマイロワ(マクベス夫人を改訂改題)」、あるいは純音楽としてのコンチェルト(協奏曲)やカルテット(弦楽四重奏曲)は、幸いなことに社会主義的なスローガンが皆無なため、自由主義諸国でも「遅れてきた名作」として評価されている。
その一方、プロパガンダが内容(特に歌詞!)に混じっているオラトリオ「森の歌」や「十の詩曲」、「10月」や「ステパンラージン」など革命や政治的人物を描いた交響詩、そしてソヴィエト時代の競技場や工場や農場を舞台にしたバレエ「黄金時代」「ボルト」「明るい小川」などは、まともに評価されているとはとても言い難い。
(ただし最近では、黄金時代やボルトなどの世界は、「お伽噺」として容認されつつあるような気もするが)
考えてみれば、ショスタコーヴィチの問題作はすべて「荒唐無稽」の衣をまとい、体制迎合作は道化が語る「ウソ(虚偽)」の物語と言えなくもない。そこに矛盾する二重の評価が錯綜し交叉するのは、彼の音楽の宿命なのだ。
その点、最初の「プラウダによる批判」は、実に見事にショスタコーヴィチの音楽の二面性を予見し喝破していることになる!
◇幻のバレエ「明るい小川」
そんなショスタコーヴィチの道化的な「ウソ(虚偽)」の世界の代表作、幻のバレエというべき「明るい小川」を最近DVD(ジャパンアーツからもらったサンプル映像)で見ることが出来た。若い頃からのショスタコーヴィチ・マニアと自負する私でも、この作品をまともに聴き・見たのは、初めてなのだから、ショスタコーヴィチの世界はまだまだ奥が深い。
今、バレエ「明るい小川」を見ると、音楽はどこまでも明るく平明かつダンサンブルで、「え?これがショスタコーヴィチ?」と驚いてしまうほど軽やかで屈託がない。感触としてはバレエというよりはほとんどミュージカルに近いと言うべきだろうか。「軽薄」と言ったらその通りだが、とにかくどこまでも「みんなで楽しく」の世界なのだ。
舞台はコルホーズ。これは、社会主義的な理想的農業を目指した集団農場のことで、タイトルの「明るい小川」はその農場の名前。要するに「小川牧場」といった感じだ。
この舞台設定からして政治臭のある物語かと思いきや、話自体は、可愛い踊り子に浮気した夫を妻がやりこめて、最後はめでたしめでたし…という「フィガロの結婚」や「セヴィリアの理髪師」系の「愉快」で「軽やか」な人畜無害な物語。
次から次へと繰り出されるコミカルなダンスの数々に酔い痴れているだけで、筋書きなど分からなくても充分面白い。まるでフレッド・アステアでも出てきて踊りそうな、どこまでも脳天気なコメディ仕立てで、楽しいと言ったらこれほど楽しい舞台はない。ソヴィエト製「ミュージカル・ショウ」の名作と言っていいだろう。
事実、ソヴィエト国内での大衆的な人気という点では、ショスタコーヴィチ最大の成功作?だったのだそうだが、さもありなん。暗く深刻に歴史や戦争や社会主義を描く交響曲なんか、一般大衆からすれば「面白くも何ともない」わけで、「労働者の娯楽」としては、これこそ理想の逸品と言うべきだろう。
(そのあたりの構図は、黒澤明の文芸大作よりも、「男はつらいよ」の方が大衆には受ける…みたいなものか)
しかし、あまりにミュージカル的(というよりショー仕立て)だから「ロシアの伝統的バレエ」とか「社会主義リアリズム」とかいう視点から見ると、問題が多いことは否めない。そこが、お堅い役人たちの不評を買った理由のようだ。
なにしろ、これだけダンスが続くのに、いわゆるチャイコフスキー的な「ロシア的」「民族的」な香りはほとんどなく、だからと言ってストラヴィンスキー的な「先鋭的」「機械的」な香りもない。
これを「バレエというロシアの伝統的な芸術を、かくも軽々しくも浅はかな世界に描いた」「嘘(いつわり)の世界」と見破った「プラウダ」は偉い!(のかも知れない)
まさに「軽やかで軽妙な虚構(ファンタジー)の世界」がここにある。でも、芸術は「ウソ(虚構)だからこそ楽しい!」のでは?
◇ショスタコーヴィチの「もし」
で、そうそう、(ずいぶん回り道をしたが)最初のテーマである「もしショスタコーヴィチがソヴィエト政府と関わることなく(自由に)創作を続けていたら?」に戻ろう。
彼が、批判も粛正も米ソの軋轢に巻き込まれもせず、すくすくと創作を続けていたら・・・
・・・まずは、交響曲第1番、オペラ「鼻」、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、交響曲第4番…という路線の延長線上に、「政治的プロパガンダなし」の「モダニズム音楽」を書いていた・・・ことは間違いない。
とすれば、音楽としては、第5番以降に聴かれる苦虫を噛みつぶしたみたいな(時に退屈極まりない)哲学的アダージョはなくなり、暴走するアレグロや軋むリズム、そして独特の旋法にまみれた変拍子のメロディが、多彩な世界を描いたことだろう。
そして、作品としては…まさしく現代におけるモーツァルトのように、オペラや交響曲やコンチェルトを縦横無尽に書き続け、少なくとも、(女性を主人公にした)連作オペラや、マーラーばりの巨大交響曲、そして思いもかけない主題のバレエや舞台作品を聴けたことだろう。
あるいは、1950年代あたりには西側に亡命する選択肢だって、ゼロではなかったはずだ。とすれば、アメリカでバーンスタインと一緒に後期の交響曲を連作していた可能性だってあったかも知れない。
彼のことだから、アメリカに亡命したとしても、ストラヴィンスキーのように主義手法を変えることはなく、こつこつと力作を生涯書き続ける姿勢は変わらなかったはず。でも、あのリズム感と才気なのだ。もしかしたら「ウエストサイド物語」ばりのミュージカルだって書いたかも知れない。
それはそれで楽しい想像だ。
でも、「人の不幸は蜜の味」(笑)。
やっぱりソヴィエト連邦やスターリン独裁政権や独ソ戦や戦後の米ソ冷戦や雪どけに巻き込まれ、「苦渋」に満ちた人生を送ったショスタコーヴィチの音楽だからこそいい。
つまらない結論かも知れないが、やはりソ(連)にあれショスタコーヴィチ。
彼は「明るい小川」ではなく「暗い大河」なのだから。
(あ、なんだかオチがついてしまった・・・)
*
■ボリショイ・オペラ「明るい小川」〈全2幕〉
作曲:ショスタコーヴィチ
振付:アレクセイ・ラトマンスキー
・12月9日(火)19:00
・12月10日(水)19:00
上演時間:約2時間5分
・東京文化会館
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コメント
お久しぶりです。嘗ての同志です。
偶然発見!
一つだけ、コメントを。
「明るい小川」って、猛烈誤訳なんです。
本当は「澄んだ流れ」。「清流牧場」です。
大体、「小川が明るい」って表現自体、おかしくね?
お邪魔しました~m(_ _)m
投稿: EAEDA | 2008/11/30 22:56