
今でこそ普通に(いや、普通以上に)お酒をたしなんでいるが、実を言うと、私がアルコールを飲み始めたのは30歳を過ぎてから、とちょっと遅い。
なにしろ音楽を志してからは貧乏と放浪の二十代だったから、酒に回すお金などあるはずもなく、願掛けもかねて「酒は口にしない」と決め込んでいた。
とは言っても下戸の家系ではない。医者だった曾祖父は留学中にドイツ人とビールの飲み比べをやり、陸軍の軍人たちと酒の飲み比べをやって、どちらも圧勝したという酒豪だそうだから、酒飲みの血筋であることは確かだ。
生まれて初めてアルコールというものを口にしたのは、これも生まれて初めて自分の書いたオーケストラ作品が演奏された28歳の頃。それまでは、ウィスキーもブランデーもビールも「茶色いお酒」という以外区別が付かなかったほどである。(いや、本当の話)。
しかし、飲み始めると持ち前の妙な研究心が頭をもたげ、色々な種類の酒を飲み歩き飲み倒し(カクテル200種類制覇とか、ワイン飲み比べとか、日本酒酒蔵巡りの旅とか)、すっかり呑兵衛になるのにさほどの時間はかからなかった・・・のだが、それはまた別の話。
お酒を飲み始めて面白いと思ったのは、同じワインや日本酒でも、その産地によって微妙に味が違うこと。そして、舌が「美味しい」と思う酒とは別に、「酔い口が良い」酒があるということだった。
特に、日本酒は「米」と「水」の芸術品。「甘い」「旨味がある」「香りがある」「清々しい」など色々なタイプの美味しさがあるが、それとは別に、自分と「水が合う」ものがある。
そういう酒は、飲んだ瞬間に「これは美味しい!」と感じるのではなく、飲むにつれて体に心地よく染み込んでゆき、なんだか良い夢を見ているような気分になる。
それはどうやら、産地に関わりがあるらしく、日本酒を飲み始めてからは「どこの地域のお酒か」ということが一番気になるようになった。

美味しいと思うお酒は全国色々だが、私個人が「水が合う」と感じるのは北陸や東北のものが多いことにも徐々に気付き始めた。
私の家系自体は、別に北の出身ではなく、むしろ中国地方(津和野)や九州が出自と聞いているので、ちょっと意外な感じがしたのだが。
で、「そういうことありますか?」と酒飲みの先輩に訊いたことがある。すると、「そう言えば、ぼくは広島あたりの瀬戸内海系の水が合うな」と言う。
そして曰く「魚だって自分が生まれた川の水の匂いを覚えていて、そこに戻るくらいだから、人間だって遙か昔の先祖が飲んだ水の記憶が残ってるのかも知れないね」。
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…などという話をし出したのは、「こういう音楽が好き」とか「こういう響きに心を動かされる」というのもまた、水と同じく人それぞれの遠い昔の「音の記憶」に関わるんじゃないか?と感じてならないからだ。
以前、作曲家仲間の西村朗氏と話していて、「自分の音楽のルーツ」のような話になった時、それを確信した。
二人とも全く同世代で、戦後の復興を果たした日本で生まれ、中学時代にクラシック音楽に目覚め、現代音楽に接したのもほぼ同じ時期。違うのは、私が「東京」で彼が「大阪」で生まれ育ったことくらいだ。
しかし、それぞれの感性のアンテナに「これはいい!」と引っかかる音楽が微妙に違う。
私は、チャイコフスキー、シベリウスなどの音楽に惹かれて作曲を志し、宮澤賢治にしろアイヌ文化にしろ、ヨーロピアン・ジャズにしろ、ブリティッシュ・ロックにしろ、なぜか「北方」の文化指向を持っている。
対して、西村氏の方は、入口はベートーヴェンやシューベルトでも、その後、作曲を学ぶに従って東アジアやインドの音楽や文化に惹かれるようになり、実際そうした音楽からインスパイアされたものを自身の音楽の根幹に据えている。
その理由について論じているうちに、「もしかしたら、先祖が北回りで日本に来たか、南回りで来たかの差じゃないか?」という話になったわけである。

最新の学説では、われわれ人類の共通の先祖は、何十万年か前にアフリカ大陸で生まれたということになっている。
それは、世界中のあらゆる人種民族のDNAサンプルを解析し、その遺伝子情報を遡ってゆく…という方法で得られた結論なのだそうだが、地球上のすべての人間は、20万年ほど前にアフリカで生まれた一人の女性(イブと呼ばれている)を起源とするのだそうだ。
人類すべての母が一人の女性であるというのは、ちょっとロマンチックに過ぎる発想だとしても、我々人間がすべて共通の起源を持っているというのは、なんとなく納得できる。
世界中の人間が、ある程度の差異はあってもみんな「音楽」に共通の反応を示すのは、すべての人間が兄弟であるからに他ならない…というのは、(これもロマンチックに過ぎる考えかも知れないが)心躍る話だ。
なにしろ、そうなれば人間に違いなどなく、ただ「どこに住みついたか」だけが人種を決定しているにすぎないことになる。
アフリカの人々は故郷にとどまり、ヨーロッパの人々は北上して「北」の地に住み着き、アジアの人々はさらに東を目指して大いなる旅の果てに自身の地に根を下ろし、日本人はさらに海を渡って日本列島に来たわけだ。
私の先祖はヨーロッパを北上し、たぶんフィンランドあたりを抜け、ロシアからシベリアを踏破して「北回り」で、日本列島にたどり着いた。
一方、西村氏の先祖は、中近東からインドや東アジアを回って「南回り」で日本列島にたどり着いた・・・というわけだ。
(もちろん、シルクロードの時代よりもっと昔のことである)
これが人類学的にどこまで信憑性のある話かどうかは別として、そう考えると、なんとなく「音楽の嗜好」の差も分かるような気がする。
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それに、こういう発想をしてみると、音楽の見方がちょっと変わる。
クラシック音楽の本家であるヨーロッパ(欧米)の人々は、アフリカの記憶を遺伝子情報の中に持っている。だからアフリカ起源のロックのようなビート音楽に血が騒ぐ。(それは、日本人も同じだ)
でも、彼らは「それより東」の旅をしていない。だから、当然、中近東やアジアの記憶はないし、それらの音楽に郷愁は感じない。
その点、スラブ(チェコからロシア)やアジア(インドから中国)の人々は、アフリカやヨーロッパの記憶は持っている上に、自分たちの風土から得た記憶を上乗せしている。
でも、彼らはそれより東の旅はしていないから、その地域の音楽に郷愁を感じない。
しかし、我々日本人は前人未踏の「大いなる旅」の果て(極東)に住み着いている。
だから、先祖が経由してきたすべての文化圏の音楽に(深い浅いの違いはあっても)郷愁を感じる。
なぜなら、その遺伝子的記憶の中に、先祖が旅してきたアフリカからヨーロッパそしてアジアに至る風土の記憶をすべて蓄積させ持っているからだ。
そう。ここから導き出される結論は、「われわれ日本人は、アフリカからアジアに至るすべての世界の記憶を意識の底に擁しているのではないか?」という壮大なことになる。(なにしろ我らの先祖は、こんな極東の果てまで旅してきたのだから)
現実に日本人である私たちの中に、ヨーロッパやアフリカの記憶がどれほど残っているかは心許ないけれど、無意識の記憶の底の底にダイブしてゆけば、それは「ある」はずなのだ。
そう考えると、日本人にとっての「西洋クラシック音楽」というものの意味(そして見方)が根本的に変わってくる。
日本人がクラシック音楽の指揮や作曲や演奏に関わる時、必ず悩みつつ自問するのは「なぜ東洋人である自分が、西洋というまったく違う文化で生まれた音楽をやるのか?」という一点である。
しかし、この「大いなる旅」の視点からすれば、その問いの答えは実にシンプルだ。
日本人である自分の〈ルーツを辿る旅〉をしているのである。
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と、妙な前振りになってしまったが、そんな日本人の音楽的な「記憶のルーツ」を辿るとすると、その旅の第一歩はどこになるのだろう?と考えてみる。
もちろん、同じ日本人でも「南回り組」もいるはずだから、誰もが同じ嗜好というわけではないというのは、既に述べたとおり。
でも、演歌や歌謡曲ではなく〈クラシック音楽〉に惹かれる人は、「北回り組」の遺伝子の記憶を持っている可能性が大だ。
ということは、まず海を渡っての第一歩は「ロシア」ということになる。ここは、ひとつ「ロシアの音楽」でも聴いてみることにしようか。
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そもそもある世代から上の日本人にとって、「ロシア民謡」というのは特別の思い入れがあるはず。
私はリアルタイムではまった世代よりは若いのだけれど、それでも「カチューシャ」「ともしび」など懐かしく思い出す曲は10ではきかない。
その原点は、最近ノスタルジーとして良く語られる昭和30年代。その頃、町には「歌声喫茶」というのがあって、普通の人が(今のカラオケに通うように)集まってロシア民謡をよく歌っていた。
なぜ「ロシア民謡」だったのか?というと、それは別に、大昔の遺伝子情報云々という話ではなく、その直前の第二次世界大戦でシベリア抑留にあった人たちが、その地で知ったロシア文化を戦後日本に伝えたからだ。
(ちなみに、「シベリア抑留」というのは、敗戦によってソヴィエト軍の捕虜となった日本人が、シベリアなどの収容所に抑留されて強制労働に従事させられたこと。念のため)
私の高校の時の先生も、このシベリア抑留組。収容所で何度か死にそうな目にあったそうで、「ソヴィエト嫌い」ではあったが、そこで慣れ親しんだロシアの文化への敬愛の情は隠さなかった。
おかげで、ボルシチ、ピロシキ、ルパシカ、バラライカなどから、プーシキン、ドストエフスキー、エイゼンシュテインまで、ロシアの話をずいぶん聞いた。(その影響か、大学に進んだ時は、第二外国語に「ロシア語」を専攻したほどだ)

そんな世代が生み落とした「歌声喫茶」のブームは1950年代後半。エレキギターを含むバンドやカラオケ機器などが出る少し前である。
伴奏は店内にあるアップライトのピアノかアコーデオン。(ちなみに、エレキギターによるバンド・ブームが起きるのは1960年以降)。集まるのは主に、若い労働者や学生たち。
まだ、フォークソングなどというしゃれたものはなく、(ギター片手のフォークソングが日本の音楽界を席巻するのは、1966年あたり以降)、ロシア民謡や小学校唱歌、労働歌などを、歌集などを見ながら歌い合ったようだ。
お金はなく、生活に追われ、でも未来への希望はたっぷり胸に秘めている若者たちが集まるわけだから、肩を寄せ合い声を合わせていると、自然と話は「社会」のことになり、いくぶん政治的な性格も帯びてくるのは当然の帰結か。
そのせいか、「うたごえ運動」という幾分政治的な色合いのあるムーヴメントに発展してゆく。
その勢いの中で、ショスタコーヴィチの「森の歌」とか「10の詩曲」、スヴィリドフの「悲愴オラトリオ」なども一般の合唱団で歌われていた。それはよく覚えている。
私のショスタコーヴィチ体験は、このあたりがルーツになっている。
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今でこそ、共産主義国家「ソヴィエト連邦」というのは(スターリン独裁政権や冷戦時代の記憶からか)、あまりいい印象で語られることは少ないような気がする。
しかし、その頃は「人間がみんな平等」で「ひとつの思想の元に構成された新国家」であるソヴィエトを、ある種の理想郷だと思っていた人は少なくなかった。
私は、思想的なことにはさっぱり興味は持たなかったが、チャイコフスキーを入口にしてクラシック音楽を聞き始めた後、その原点であるロシア民謡から、当時はソヴィエト政府お抱え作曲家とされていたショスタコーヴィチまで、ずいぶんロシアものを聴いた。
その頃は「新世界レコード」(ソヴィエト国営メロディア・レコードの日本での輸入元)というレーベルがあって、社会主義リアリズムの成果(?)とされる交響曲やオラトリオや合唱曲やソナタなどを結構聴くことが出来たことも大きい。
ショスタコーヴィチ、ハチャトリアンがやはり多かったが、スヴィリドフ、シチェドリン、カバレフスキー、ミャスコフスキー、ティシチェンコなどなど多くのソヴィエトの作曲家の存在もそこで知った。
また、赤軍合唱団による「ロシア民謡」の歌声も鮮烈な記憶として残っている。町で突然聞こえてきた「トロイカ」や「ポリュシカ・ポーレ」に泣かされたことも一度や二度ではない。(むかしは、喫茶店やスキー場のジュークボックスなどでは、良くロシア民謡がかかっていたのである)。
個人的に、「演歌」までストレートなマイナー節になると体が受け付けないのだが、ペーソスと泣きのパッションを持った「ロシア民謡」は結構「水が合う」音楽だったのだ。
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ただ、ロシア民謡がすべてそういう「泣き」のパッションによる曲ばかりというわけではなく、日本人がそういう好みの歌だけをロシアから輸入してきた結果に過ぎないらしい(…とは最近知った話)。
そもそも「民謡」と言っても、古くから民衆の間で歌われてきたいわゆる「民族音楽的な歌謡」ではなく、戦後ソヴィエトで生まれた流行歌や赤軍の歌から伝わったものも多いそうだ。
日本で言うなら、「荒城の月」とか「雪の降る町を」とか「上を向いて歩こう」が〈日本民謡〉として伝わってしまった…みたいなものなのだろうか。
例えば、有名な「ヴォルガの舟歌」や「トロイカ」「ステンカ・ラージン」「黒い瞳」あたりは帝政ロシア時代の歌らしいが、「カチューシャ」や「ともしび」が生まれたのはソヴィエト時代になってから。
かの「ポリュシカ・ポーレ」に至っては、クニッペルという作曲家が1933年に書いた交響曲第4番(コムソモール戦士の詩)の一節なのだそうで、ちょっと驚いてしまう。
〈ロシア民謡〉ではなく〈ロシアの歌〉…というくらいでいいのかも知れない。
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そして、ロシア民謡というと、一人で歌うのではなく「コーラス」が基本。あの独特な分厚いコーラスを聴くとぞくぞくするのは、私だけではないはずだ。
その裏には、「民謡」ではなく、ロシア正教による賛美歌コーラスの歴史がある。チャイコフスキーの序曲「1812年」冒頭に出て来る聖歌(フランス軍の「ラ・マルセイエーズ」に対して、ロシアを象徴するテーマとして敬虔かつ崇高に登場する)あれである。
同じ聖歌でも、西洋キリスト教の例えば「グレゴリオ聖歌」のような、柔らかく細身で清涼な世界と比べると、圧倒的な違いがある。もっとも印象的なのは、何と言っても男性低音(バス)の野太く重量級の力感だろう。
普通、男声の最低音はせいぜいMi(ミ)。しかも、最低音周辺というのは声が充分に出ないので、貧弱な音になってしまう。

しかし、彼らは楽々とそれより下のDo(ド)の音まで出す。これはちょっと西欧諸国のコーラスや日本のコーラスでは真似できない。
そして、西洋キリスト教系の聖歌が、対位法的にからむ繊細な織物のようなサウンドを指向しているのに対して、ロシア正教の聖歌はハーモニーの厚みと深みが特色だ。
(ソヴィエト時代は、オーケストラもコントラバスを増量して低音をゴーゴー響かせるのが得意だったから、これは彼らの音の嗜好なのだろう)
そこから生み出される肉厚のハーモニー。これこそ、ロシアの合唱の最大の魅力である。
ムソルグスキーの歌劇「ボリス・ゴドノフ」にしろ、前述のショスタコーヴィチのオラトリオ「森の歌」や男声合唱付きの「交響曲第13番」にしろ、バスが朗々と鳴り渡るこの分厚く力強いコーラスの存在無くしてはあり得ない。
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チャイコフスキーとラフマニノフは共に、そんな敬虔かつ重厚なサウンドを持つロシアのコーラスのために大作を残している。「晩祷」そして「聖ヨハネ・クリソストムスの典礼」だ。
共に、無伴奏で歌われる長大なミサ曲(カトリックのミサ曲とはもちろん違うが、ロシア正教会で徹夜で行われる典礼儀式のための音楽)だが、ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」やブラームスの「ドイツミサ曲」に通じる宗教曲の名作である。
ちなみに〈聖ヨハネ・クリソストムス〉というのは、日本人には聞き慣れない名だが、ロシア正教では重要な聖人として崇拝されている人物とのこと。
4世紀のキリスト教聖職者で、説教が巧みだったことから「黄金の口」=「金口(きんこう)」という二つ名(?)を付され、ロシア正教では「金口・イオアン」と呼ばれている。

そのため最近では、ラフマニノフのこの曲は英語タイトル(Liturgy of St.John Chrysostom)の訳である「聖ヨハネ・クリソストムスの典礼」でなく、ロシア語からの訳である「金口イオアン聖体礼儀」と記述されることもあるので、ちょっとややこしい。
私の記憶の底には、さすがにロシア正教は眠ってなさそうだが、チャイコフスキーやラフマニノフあるいはストラヴィンスキーの音楽のルーツとして聴くと、なかなか面白い発見がある。
…と、お酒のルーツを辿る旅から、ずいぶん妙な方向へ話が飛んでしまったが、今回はここまで。
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国立モスクワ合唱団
The State Moskow Chamber Choir
2009年来日公演
◇これがロシア民謡だ
5月31日(日)14:00横浜みなとみらいホール
6月3日(水)14:00サントリーホール
・ロシア民謡「ともしび」「カチューシャ」「黒い瞳」「トロイカ」「ステンカ・ラージン」「ポーリュシカ・ポーレ」ほか

◇ロシア合唱の神髄を堪能する一夜
6月2日(火)19:00東京オペラシティコンサートホール
・ロシア民謡「黒い瞳」「ステンカ・ラージン」「ボルガの舟歌」「カチューシャ」
・ボロディン歌劇「イーゴリ公」より「ダッタン人の踊り」
・ラフマニノフ「聖ヨハネ・クリソストムスの典礼」
ウラディーミル・ミーニン:芸術監督
国立モスクワ合唱団
コメント
こんばんは。
なんとなく納得させらされる話で、楽しく読みました。
アフリカ起源からの日本への伝播音楽説はフムフムですね。
1991年いきエフに行ったとき、友人の家に招かれて聴いた民謡は、自然に集まった女性たちの合唱でした。
日本で知られていないキエフの民謡なのでしょうが、、
実に素晴らしかったことを思い出しました。
モスクワにはもう残っていないかもしれませんね。
楽しく読ませていただき、感謝いたします。
今日もスマイル
投稿: kawazukiyoshi | 2009/04/10 22:49
「さらに西を目指して」「それより西」…
これは「東」ですね?
あと、最も長く旅をしてきたのは日本人ではなく、
凍結したベーリング海峡を通ってアメリカ大陸まで渡り、
さらに南半球まで行ってしまった南米のネイティヴアメリカンらしいです。
つっこみばかりで済みません…
根拠はありませんが私の先祖はコーカサスとかカザフといった
中央アジアを経由してきたんじゃないかという気がします。(つまり中周りですか…)
投稿: Kullervo | 2009/04/15 05:22
ご指摘感謝。
修正しました。
投稿: 管理人 | 2009/04/15 07:20
確かに、吉松先生は弥生顔、西村先生は縄文顔でいらっしゃいますよね(^ ^)。興味深いことです。
投稿: 田中 | 2009/04/21 12:41