
今回は「日本のオーケストラのはじまり」というお話を少し。
まずは日本オーケストラ史におけるパイオニア、山田耕筰(1886〜1965)と近衛秀麿(1898〜1973)の話あたりを入口に始めよう。

山田耕筰は1886年(明治19年)の生まれ。少年時代に西洋音楽の手ほどきを受け、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入学。声楽科を卒業した後1910年(明治43年)24歳の時にドイツ(ベルリン音楽大学作曲科)に留学している。(ちなみに、森鴎外が軍医としてドイツ留学したのが1884年(明治17年)。夏目漱石が英文学研究のためイギリス留学したのが1900年(明治33年)。共に軍や文部省などから任命されての留学だが、山田耕筰の場合はパトロンからの援助を受けての私費留学。)
ベルリンではブルッフ(ヴァイオリン協奏曲で有名)に作曲を師事し、1912年(大正元年)に「かちどきと平和」という日本初の交響曲を作曲。帰国後は日本での本格的な「オペラ上演」と「常設オーケストラの設立」を目指して奔走。1917年(大正5年)には渡米してカーネギーホールで自作のオーケストラコンサートを指揮。…と、まさに日本における西洋音楽受容史(特にオーケストラと作曲)のパイオニアと呼ぶにふさわしい人物である。

一方の近衛秀麿は、山田耕筰より12歳ほど若く、貴族(近衛家)出身。ドイツ留学から戻った山田耕筰に作曲を学び、1923年(大正12年)24歳で渡欧。指揮をクライバー、作曲をダンディなどに学び、翌24年にはベルリンフィルを振って指揮者デビューも果たしている。
(ちなみに、山田・近衛とも、定期演奏会を客演指揮したわけではなく、オーケストラをお金で雇っての自主公演である。念のため)
日本における最初の本格的なオーケストラ誕生は、この山田耕筰がドイツ留学から戻った1915年(大正4年)頃。まずは、彼の留学のスポンサーでもあった財界の大御所が設立した音楽鑑賞サークル「東京フィルハーモニー協会」母体としたオーケストラ(ただし、軍楽隊や少年音楽隊などからメンバーを集めた混成楽団)を作ったのが始まりだったようだ。

その後、1924年(大正13年)に、ヨーロッパ留学から戻った近衛秀麿の助力を得て「日本交響楽協会」を設立。
翌25年(大正14年)には「日露交歓交響管弦楽演奏会」(近衛指揮で「運命」、山田指揮で自作およびR・コルサコフ「シェエラザード」。公演は全4日間で場所は歌舞伎座)を成功させ、1927年(昭和2年)に「新交響楽団」として最初の定期公演を開始する。

この「新交響楽団」は、1925年(大正14年)にラジオ放送を始めたJOAK(現在のNHK)に出演するようになり(当時は、JOAKオーケストラ、東京放送管弦楽団など色々な呼称があったようだ)、戦後1951年(昭和26年)NHK交響楽団となる。
本格的な日本のオーケストラの歴史が始まるのはこのあたりからだろうか。

ちなみに、学生やアマチュアのオーケストラはこの頃既に幾つか存在していたようで、慶應義塾大学のワグネル・ソサイエティが総合的音楽団体として合唱団およびオーケストラを発足させたのが1902年(明治35年)。
もちろん山田耕筰のいた東京音楽学校にも、学生によるオーケストラは存在していた。写真→は1904年(明治37年)頃の東京音楽学校管弦楽団。
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□少年音楽隊

正史でないオーケストラの活動としてさらに古いのは、意外にも百貨店の楽団(ブラスバンド)として発足した「少年音楽隊」。
これは、その名の通り、可愛い制服を着た「少年」たちが十数人ほどで、新店舗のオープン時や娯楽場・食堂などで余興として演奏するもの。
音楽愛好団体ではなく商業的なものなので、起源を辿れば(年配の人には昔懐かしい…いわゆる)チンドン屋さんということにでもなるだろうか。
もともとは江戸末期から明治にかけて、三味線(チン)と太鼓(ドン)を含む小規模(3〜4人)な楽隊が、人通りの多いところを練り歩き、口上を述べたりビラをまいたりという商業的な宣伝活動をしたのが始まり。(戦後は、クラリネットが定番になったが)
それが、大きな店になるに従って大人数の楽隊(あるいは軍楽隊)を雇うようになってゆき、明治20年代(1887年頃)になると民間で西洋楽器を演奏する楽隊が生まれ、やがて家族向けの百貨店で「少年による」小規模楽団へと進化していったようだ。
1909年(明治42年)まず東京の三越百貨店で「三越少年音楽隊」が創設され、1912年(大正元年)には大阪三越で少年音楽隊、京都大丸少年音楽隊が誕生。
以後、百貨店や大型店舗における少年音楽隊が一種のブームとなったというから、ちょっと面白い。
また、「男の子」だけの少年音楽隊に対抗して、1911年(明治44年)には白木屋(現・東急百貨店)で「女の子」だけの「白木屋少女音楽隊」が登場。この成功を受けて1913年(大正2年)には「宝塚少女歌劇団」が生まれている。

現在の東京フィルハーモニー交響楽団も、1911年(明治44年)に名古屋の「いとう呉服店」(現・松坂屋)で「音楽隊」として発足のが最初とのこと。
後に1938年(昭和13年)に東京で「中央交響楽団」として活動を開始。現在の「東京フィル」の名称になったのは戦後1945年(昭和20年)から。
この「少年音楽隊」の出身者は、やがてプロの演奏家や作曲・編曲家(主にジャズや軽音楽系)となり、大正時代に入ってから流行歌の作曲、ダンスホールでの演奏、劇場あるいは映画館での音楽演奏などに大いなる才能を発揮するようになる。
(実際、大阪のウナギ料亭「出雲屋少年音楽隊」からは、服部良一が輩出している)
□浅草オペラ

この少年音楽隊と並んで、もう一つ、この頃のオーケストラ・シーンで面白いのが、大正時代に大衆向け娯楽として一世を風靡した「浅草オペラ」。
日本における日本人によるオペラ上演は1903年(明治36年)に東京音楽大学(東京芸術大学)の奏楽堂でグルックの「オルフェウスとエウリディーチェ」が上演されたのが初。ただし、この時はオーケストラではなくピアノ伴奏。
その後、1911年(明治44年)「帝国劇場」に洋劇(歌劇)部設立。専属の管弦楽団(帝劇オーケストラ)が編成され、ここで「魔笛」や「トスカ」「蝶々夫人」などオペラの上演が始まっている。

座席数1700という本格的な劇場で、オーケストラピットも充実しているが、どのくらいの編成だったのかは不明。
また、この時期すでに「日本人による(日本語の)創作オペラ」が上演されている。中には外国人作曲家に作曲を頼んだ例もあるが、東儀鉄笛/坪内逍遙による「常闇」を始め、「羽衣」「熊野」「釈迦」「胡蝶の舞」などという純国産オペラが幾つか上演されたという。
しかし、この国立による本格的オペラ上演は、(制作にお金がかかるうえ、聴衆がちっとも来ない…という普遍的な理由による)財政難もあって1916年(大正5年)にあっけなく終了してしまう。
それに代わって、この時のオペラ作りのノウハウを大衆演劇と合体させた公演が、当時東京で最大の娯楽街浅草で行われるようになる。これが、田谷力三や藤原義江あるいは榎本健一(エノケン)などスターの登場もあって、一世を風靡した「浅草オペラ」である。

オペラといっても、歌あり踊りありの創作オペレッタあるいはミュージカル・ショウ的なものが多かったようだが、それでも、オッフェンバックの「天国と地獄」、ビゼーの「カルメン」、ヴェルディの「椿姫」などから、リヒャルト・シュトラウスの「サロメ」まで本格的なオペラも上演しているというからたいしたものである。
ただし、伴奏を担当するオーケストラの編成は(3管編成フルオーケストラなどには程遠く)せいぜい十数人程度。弦楽アンサンブル(ヴァイオリン4,チェロ2,コントラバス1)に、フルート、クラリネット、トランペット、トロンボーン、そしてピアノが加わる・・・といった処だったようなのだが。
当然ながら、かなりアレンジを施した上演ということになるが、西洋音楽しかもオペラを、ここまで大衆的な娯楽に仕立て上げたエネルギーは凄い。
(この浅草オペラに魅せられたことがきっかけでオペラや西洋音楽のファンとなった作家も多く、宮澤賢治、永井荷風、川端康成などはオペラの台本まで書いているほど)
しかし、この「浅草オペラ」も、全盛を極めた1923年(大正12年)に起こった関東大震災により壊滅的な打撃を受け、その後、衰退してしまう。
そのまま大衆娯楽としてのオペラが浅草を中心に根付いていたとしたら…どんな世界になっていただろう。
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□黒船来航と軍楽隊

さて、そんな「大正」からさらに「明治」以前へ遡って、「一般の日本人がいつ頃西洋楽器の合奏を初めて耳にしたのだろう?」と探ってゆくと・・・どうやらペリー率いる黒船が浦賀にやってきた1853年(嘉永6年)あたりになりそうだ。
(もちろん、「西洋楽器を初めて聴いた日本人」ということになれば、おそらく織田信長や豊臣秀吉あたりが登場することになるのだろうが、それはまた別の話)
その頃のアメリカ海軍の楽隊がどういう楽器編成だったかは定かでないが、当時の絵などから見ると、ラッパ類(トランペット、ホルン)に笛(フルート、クラリネット)そして打楽器(中太鼓、大太鼓)という7〜8人ほどだったと思われる。オーケストラというよりは吹奏楽である。

ちなみに、鎖国時代の唯一の窓だった長崎では、1840年代(黒船来港よりさらに10年以上前)に、オランダの軍楽隊が、当時最新の楽器サックスも加えた16人ほどの編成で来日していたという記録があるそうだ。(サクソフォンの誕生は1840年代のベルギーだから、まさに出来たてほやほやの最新楽器ということになる)
そして1850年代(安政年間)には、長崎奉行所内にオランダ海軍のマーチ譜を伝習するセクションが出来、幕末には薩摩・長州・土佐など国内にも「鼓笛隊」が誕生する。
西洋音楽は、まず長崎に入ってきて、西から徐々に東(江戸)へと向かうわけである。

薩長で生まれたこの鼓笛隊は、幕末維新期の軍楽隊(「宮さん宮さん」や「維新マーチ」などを演奏しながら行進した楽隊)で有名だが、この時代はまだ金管楽器類は輸入されておらず、楽器自体は和風の笛や太鼓である。
西洋楽器が日本に入ってきたのは、鎖国が解かれ明治を迎えた1869年(明治2年)。
イギリスより薩摩藩に軍楽隊の楽器一式(主に金管類)が届き、軍楽隊長フェントンによる指導(信号ラッパの吹き方、楽譜の読み方など)が始まった。
そして1871年(明治4年)には、陸軍および海軍に「軍楽隊」が正式に発足。
現在の「吹奏楽団」の編成で、行軍における行進曲の演奏だけではなく、公的な儀式も担当。翌1872年(明治5年)の品川〜横浜間の鉄道開通式にも早速演奏を行っている。
この軍楽隊が式典で演奏する「国歌」が必要になり、1880年(明治13年)に生まれたのが「君が代」。
メロディは宮内省式部雅楽課(奥好義)の作曲による雅びな旋律線なのに、ハーモニーはドイツ人の軍楽隊教師(エッケルト)が「軍楽隊向けに」付けたため、今聞くときわめて不思議なバランスに仕上がっている。

…と、ここまではもっぱら吹奏楽系(木管、金管、打楽器)の音楽だが、1879年(明治12年)には文部省に「音楽取調掛」(後の東京音楽学校。現在の東京芸術大学)が設立され、いよいよピアノやヴァイオリンを含む「西洋音楽」の吸収が本格的に始まる。
□宮内省式部と鹿鳴館
吹奏楽系(ラッパ類)の西洋楽器は「軍隊」によっていち早く実用化されたが、弦楽器(ヴァイオリン系)はさすがに軍隊のような「野外」の演奏には適さない。
弦楽器系の楽器の導入は、明治になって世相が落ち着き「平和的な」音楽行為が愛でられるようになってから「室内」でゆっくり普及が始まった。

この「弦楽器系」の西洋楽器の習得に音楽学校と同時に(あるいはより早く)取り組んだのが、宮内省の音楽担当セクションである式部職楽部。
古来から宮廷での音楽(雅楽)を司ってきた太政官雅楽局が、明治を迎えて「宮内省式部職楽部」となり、和楽器のほかに先のフェントンらの指導により西洋楽器(主にヴァイオリンなどの弦楽器)の伝習が行われるようになったのが始まりとのこと。
彼らはもちろん、本来は雅楽(笙・篳篥)を奏する世襲の楽師たちなのだが、明治維新以降は和楽の弦楽器(箏や琵琶)も専門に演奏するようになり、さらにこの時期、(宮廷で演奏する必要に駆られて)西洋楽器の習得にも取り組むようになった。
そして1881年(明治14年)頃には、その成果が実って小編成ながらオーケストラの演奏が出来るようになり、宮中で小さなコンサートが開かれたそうだ。

さらに1883年(明治16年)には、西洋風のダンスを踊るための施設が明治政府のお声掛かりで誕生する。御存知の「鹿鳴館」である。
これは、外国(欧米)からの賓客や外交官を接待する「舞踏会」や「祝賀会」を催す社交場として作られた建物で、舶来の舞踏会を演出するためにワルツ(ヨハン・シュトラウスなど)のような西洋の舞曲が連日演奏された。
そこで動員されたのが、陸軍の「軍楽隊」の吹奏楽セクションと「宮内省式部職」の弦楽器セクションによる混成のオーケストラ。(とは言っても、せいぜい数人の小編成。ダンスで実際に演奏されたのは、ほとんど吹奏楽編成の曲だけだったようなのだが)
無理やり洋装した明治の日本人の姿ともども、今から見ればかなり滑稽なものだったのかも知れないが、何はともあれ、軍楽隊で培われた「管楽」と、宮内省で培われた「弦楽」がここで統合され、ここに初めて「管弦楽(オーケストラ)」の音が日本に鳴り響いたわけである。
□ そして現代へ
そんな時代から、かれこれ130年近くがたつ。
山田耕筰・近衛秀麿らのオーケストラ運動から数えてもざっと100年ほどだ。
日本にオーケストラ音楽が初めて入ってきたこの時代(20世紀初頭)というのは、西洋ではロマン派が既に終焉を迎え、ストラヴィンスキーやシェーンベルクによる現代音楽が台頭してきた頃。
この時代を境に、日本のオーケストラは「失った時間」を取り戻そうと地道に西洋古典からロマン派音楽そして民族主義の音楽までを習得し吸収するのに全精力を傾けてきた。
それに対して、作曲家たちは「過去」(ロマン派や民族主義の音楽)はスルーしたまま、より新しい音楽を模倣し再生する道を突っ走ってきた。
そして、どちらもそれなりの成果は上げた。しかし、「過去」の習得に全力を傾けてきた演奏界と、「現代」の模倣に血道を上げてきた作曲界とのギャップを埋めるのは、まだまだ難しそうだ。
それでも現在、日本におけるオーケストラ界は劇的な進化発展を遂げ、現在、プロのオーケストラとして活動している団体だけでも30前後。市民オーケストラや学生オーケストラを含めるとどれほどの数になるのか想像も出来ないほどの「オーケストラ大国」に育っている。
未来がどういう形になるのかは誰にも分からないが、100年の歴史の上に「私たちの音楽」を根ざす大樹たちがより豊かな世界を築くことを祈りたい。
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最後に、現代の日本のオーケストラ界を俯瞰するため、私が関わった日本の主要オーケストラをほぼ創立年代順に並べてみよう。(青字の曲名は演奏してもらった作品。設立年以降の紹介が多少大雑把な点はご勘弁を)
NHK交響楽団(東京)
1927年(昭和2年)新交響楽団として第1回演奏会。1951年(昭和26年)NHKの後援でNHK交響楽団となる。
・朱鷺によせる哀歌
東京フィルハーモニー交響楽団(東京)
1938年(昭和13年)中央交響楽団として活動を始める。1946年(昭和21年)東京フィルハーモニー交響楽団となる。
・ギター協奏曲「天馬効果」(初演、CD)、交響曲第2番「地球にて」(初演)、カムイチカプ交響曲、朱鷺によせる哀歌ほか多数
群馬交響楽団(高崎)
1945年(昭和20年)高崎市民オーケストラとして発足。翌46年に群馬フィルハーモニー交響楽団と改称。1963年(昭和38年)に群馬交響楽団として活動を始める。
・朱鷺によせる哀歌(海外公演)
東京交響楽団(東京)
1946年(昭和21年)東宝交響楽団として設立。1951年(昭和26年)に東京交響楽団となる。
・ドーリアン(初演)、ギター協奏曲「天馬効果」、ファンファーレ2001(初演)
大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪)
1947年(昭和22年)関西交響楽団として設立。1960年(昭和35年)に大阪フィルハーモニー交響楽団として第1回演奏家を開催。
・カムイチカプ交響曲(初演)、朱鷺によせる哀歌、サイバーバード協奏曲
九州交響楽団(福岡)
1953年(昭和28年)福岡交響楽団を前身として発足。1973年(昭和48年)にプロのオーケストラとして活動を始める。
・鳥と虹によせる雅歌
京都市交響楽団(京都)
1956年(昭和31年)創設。同年第1回定期演奏会開催。
・ファゴット協奏曲「一角獣回路」(委嘱初演)
日本フィルハーモニー交響楽団(東京)
1956年(昭和31年)文化放送の専属オーケストラとして設立。翌1957年第1回定期演奏会を開催。
・朱鷺によせる哀歌(初演)、鳥たちの時代(委嘱初演)、トロンボーン協奏曲「オリオンマシーン」(委嘱初演)、ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」(初演)、交響曲第2番、第3番ほか多数
札幌交響楽団(札幌)
1961年(昭和36年)札幌市民交響楽団として発足。翌62年、札幌交響楽団として活動を始める。
・朱鷺によせる哀歌、ギター協奏曲「天馬効果」、鳥は静かに
読売日本交響楽団(東京)
1962年(昭和37年)読売新聞・日本テレビによって設立。同年第1回演奏会を開催。
・朱鷺によせる哀歌、サイバーバード協奏曲(初演)
広島交響楽団(広島)
1963年(昭和38年)広島市民交響楽団として発足。69年(昭和44年)広島交響楽団として活動を始める。
・トロンボーン協奏曲「オリオンマシーン」、ギター協奏曲「天馬効果」、サイバーバード協奏曲
東京都交響楽団(東京)
1965年(昭和40年)東京オリンピック記念事業の一環として、東京都のオーケストラとして設立。
・交響曲第5番(初演)、朱鷺によせる哀歌(CD)、ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」、カムイチカプ交響曲、サイバーバード協奏曲
名古屋フィルハーモニー交響楽団(名古屋)
1966年(昭和41年)設立。同年第1回定期演奏会を開催。
・ギター協奏曲「天馬効果」、サイバーバード協奏曲、カムイチカプ交響曲、朱鷺によせる哀歌
新星日本交響楽団(東京)
1969年(昭和44年)設立。2001年(平成13年)東京フィルと合併。
・朱鷺によせる哀歌、ギター協奏曲「天馬効果」、サイバーバード協奏曲、鳥たちの祝祭への前奏曲(委嘱初演)
神奈川フィルハーモニー管弦楽団(横浜)
1970年(昭和45年)設立。同年第1回定期演奏会。
・朱鷺によせる哀歌
関西フィルハーモニー管弦楽団(大阪)
1970年(昭和45年)室内合奏団として発足。1982年(昭和57年)に関西フィルとして活動を始める。
・交響曲第3番(初演)、第4番(初演)、チェロ協奏曲「ケンタウルス・ユニット」(初演)、左手のためのピアノ協奏曲(2管編成版初演)、ソプラノサクソフォン協奏曲「アルビレオ・モード」(初演)、鳥は静かに、ほか多数
新日本フィルハーモニー交響楽団(東京)
1972年(昭和47年)日本フィルと分裂する形で設立。小澤征爾の指揮する自主運営オーケストラとして活動を始める。
・朱鷺によせる哀歌(CD、海外公演)
山形交響楽団(山形)
1972年(昭和47年)設立。同年第1回定期演奏会開催。
・サイバーバード協奏曲
仙台フィルハーモニー管弦楽団(仙台)
1973年(昭和48年)宮城フィルハーモニー管弦楽団として発足。1981年(昭和56年)仙台フィルハーモニー管弦楽団として活動を始める。
・ファゴット協奏曲「一角獣回路」(CD)、鳥たちの時代、朱鷺によせる哀歌、子供たちのための管弦楽入門、コンガラガリアン狂詩曲
東京シティフィルハーモニック管弦楽団(東京)
1975年(昭和50年)設立。
・鳥たちの時代、鳥は静かに
岡山フィルハーモニック管弦楽団(岡山)
1992年(平成4年)設立。
・鳥と虹によせる雅歌(委嘱初演)
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関西フィルハーモニー管弦楽団 東京特別演奏会
2009年7月1日(水)19:00開演 サントリー・ホール
曲目
・サン=サーンス: 交響詩「死の舞踏」作品40
・吉松隆:左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」作品102a
(改訂2管編成版・関東初演)
・シベリウス: 交響曲第1番 ホ短調 作品39
指揮:藤岡幸夫、ピアノ:舘野泉
◆メモ
関西フィルは、おそらく私の曲を最も数多く演奏している日本のオーケストラである。まだデビューしたての80年代に小松一彦氏の指揮でギター協奏曲「天馬効果」や「鳥たちの時代」を演奏してもらい、2000年代からは正指揮者となった藤岡幸夫氏の指揮でトロンボーン協奏曲「オリオンマシーン」や「鳥はふたたび」など多くの作品を取り上げてもらった。ここで初演(世界初演、関西初演)され生まれ落ちた作品も少なくない。
2001年:交響曲第4番(初演)
2002年:一角獣回路:サクソフォン版(初演)
2003年:チェロ協奏曲「ケンタウルス・ユニット」(初演)
2004年:交響曲第3番(関西初演)
2005年:ソプラノサクソフォン協奏曲「アルビレオ・モード」(初演)
2008年:左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」(2管編成改訂版初演)。
日本のプロ・オーケストラの中では歴史が浅い新しい団体に属するが、ザ・シンフォニーホールで行われている定期演奏会はいつもかなりの盛況で驚かされる。特に聴衆に若い層が多いことは、クラシックの未来を考えると実に心強くたのもしい。また、指揮者とマネージャーおよび楽団員たちの信頼関係も、音楽を愛する熱っぽさにしっかり支えられていて羨ましいほどだ。東京でもきっと素晴らしい演奏を聴かせてくれることだろう。
ちなみに、今回の東京でのコンサートの3人、ピアノ:舘野泉、作曲:吉松隆、指揮:藤岡幸夫・・・は、同じ高校(慶應義塾高等学校)の出身者である。在学中はお互い全く知り合うすべもなかった先輩後輩が(何かに導かれて一つに集まり)こういうコンサートで共演するというのは、まさに不思議な縁であり、ある意味「夢の共演」ということにでもなるだろうか。
コメント
吉松さんはじめまして。 最近こちらのブログを発見して、ちょっと興奮気味の日本フィルファンです。 よろしくお願いします。
さて、初めから不躾で恐縮なのですが、
> もちろん山田耕筰のいた東京音楽大学にも、学生によるオーケストラは存在していた。写真→は1904年(明治37年)頃の東京音楽大学管弦楽団。
のくだり、もしかして「東京音楽学校」ではありませんか? 文頭の7行目には「東京音楽学校」とありますので、「?」と思いました。
ブログを遡りますと、為になり興味深い文章がたくさんありすぎて、どこから読んだら良いか迷います。 とりあえず日本フィルの「アストロボーイ」を聴きながら、ぼちぼち読ませていただきますね。 ありがとうございます。
投稿: uncle bear | 2009/06/10 21:20
ご指摘ありがとうございました。
修正しました。
投稿: 管理人 | 2009/06/10 23:37
早速の訂正ありがとうございます。 私のブログやSNSの日記でこちらの「月刊クラシック音楽探偵事務所」と「八分音符の憂鬱」を紹介させていただきましたところ、何人かの方から感謝されました。 みな、更新を楽しみにしていますので、よろしくお願いします。
投稿: uncle bear | 2009/06/11 02:15
吉松隆様・・・、<日本のオーケストラ事始め>大変面白く読ませていただきました。浅草オペラとエノケンが出てきたのにはびっくりしたり、なるほどと思ったりしました。小さい時<歌う狸御殿>とかいうエノケンのミュージカル風映画を観て、子供ながらに器用な人だなと感心した記憶があります。さて私は音楽の方は疎くて恐縮ですが、ご文に接して二三興味を持ったことがあります、もしお教えくだされば大変ありがたいです。・・・まず山田耕作さんの時代に耕作さん自身クラシックをレコードで聴いたことはあったのでしょうか、lpはまだありませんでしたが・・・。また、外国のオーケストラが初来日して生でそれを聴き、よし俺もやってやるぞと発奮した逸話でもあるのでしょうか。それともう一つ東京音楽学校は男女共学だったと何かで聞きましたが、耕作さんと同時代の女性で音楽界で活躍された人にはどんな人がいるのでしょうか。たいていは中高の音楽の先生になるか、何かの楽団に所属して活躍するとかだったと想像しますが・・・。さて吉松様のことはこの「~事始め」で初めて知りました。遅まきながら日本のクラシックについてぼちぼち勉強したいと思っていますのでどうかよろしくお願いいたします。
投稿: 大坪暁史 | 2011/02/12 13:59