夏休み雑談:名曲の生まれ方
クラシックには「名曲」と呼ばれるものがある。
それだけでも凄いのに、中には「不滅の名曲」などと呼ばれるものまであって、それはもう、誰が何と言おうと「名曲」であって、まるで生まれた時から「名曲」であり、そのままずっと何百年も「名曲」であり続け、永遠に「名曲」の座を保ち続けるかのような迫力だ。
しかし、「誰が決めたの?」と素朴な疑問をぶつけられると、言葉に詰まってしまうことが多い。
まあ、敢えて言うなら、あちこちの「名曲50選」とか「20大名曲」とか「不滅の名曲ベスト100」などというリストにエントリーされている率の高い曲が、なんとなく上から順番に「トップ当選名曲」「当然常連名曲」「当確名曲」「ギリギリ当選名曲」「次点名曲」「残念名曲」などとランク付けされているという感じだろうか。
要するに、名曲の基準や条件があるわけでもなく、「名曲審査委員会」などというのがあって決めたわけでもない。より「多くの人」が、より「長い期間」にわたって、より「大きな声で」「名曲だ」と言い張り続けたもの。それが「名曲」ということになる。
◇不遇の誕生
それにしても「名曲」と呼ばれるものの初演のエピソードには、半端でなく「不遇」なものが多い。
例えば、ベートーヴェンの「運命」「田園」。
1808年12月にベートーヴェンの自作披露演奏会(作曲家の自腹)で2曲揃って初演されたものの、反響ほとんどゼロ。冬の寒い日のコンサートで、しかも人気オペラの公演日とかち合ったらしい…とも聞くが、数少ない当日の聴衆にも「特に印象のない曲」というくらいしか認識されなかったというから驚く。
そして「第9」も、初演こそ「耳の聞こえない老作曲家が最後の力を振り絞って書いた大曲」ということで拍手を受けたものの、その後は「全くわけの分からない曲」として(若きワーグナーによる蘇演で再評価するまで)長らく凡作扱い。最後の合唱の感動部分はともかく、トータルに「名曲」として認知されているかどうかは現在でも意見が分かれるのでは無かろうか。
続いて、シューベルトの「未完成」。
1822年シューベルト25歳の頃に作曲した交響曲だが、これは初演すらされていない。2楽章まで書いて知人に楽譜を預けたところ、その知人が棚にしまったまま忘れてしまい、発見されたのはシューベルトが死んで40年近くたった後という、不遇を極めた名曲である。
もっとも彼の場合、亡くなったのが31歳とあまりに早かったので、恵まれた初演や成功の記録は全くなく、作曲家として報酬を受け取った記録も皆無に近いから仕方ないのかも知れないが。
そしてモーツァルトの3大交響曲。
モーツァルトの場合も、35歳と早死になので、不遇の記録は少なくない。なにしろベートーヴェンの先駆となる交響曲の名作として知られる第39番変ホ長調、第40番ト短調、第41番ハ長調「ジュピター」という3曲も、何のために書かれ、どこで演奏されたかも分からない「馬の骨」交響曲で、誕生の詳細は不明らしいのである。
とどめはチャイコフスキーの「白鳥の湖」ほか。
ポピュラー的人気ではクラシック界無比のパワーを誇るチャイコフスキーだが、彼の曲も作曲当初は「理解されない」不遇をたっぷり味わっている。
現在では「これのどこが〈分からない〉のか、分からない」と思えるほど「分かりやすい」ピアノ協奏曲第1番変ロ短調、ヴァイオリン協奏曲ニ長調が共に、献呈するはずだった演奏者にすら分かってもらえず初演も批評家にこてんぱんの不評…という惨状。
そしてバレエと言ったらこれ!というほどの超人気作「白鳥の湖」も、ボリショイ劇場での初演は不評で、その後演目から外されてしまったそうだし、最後の大傑作「悲愴」交響曲も初演は「よくわからない曲」という印象でしかなかったそうだ。
…と延々と「初演が不遇だった名曲」を数え上げてゆくと、止まらない。むしろ、初演が好評だった「生まれも育ちも名曲」という作品を挙げてゆく方が(数が少ないので)楽かも知れない。
唯一思い付くのはドヴォルザークの「新世界」交響曲か。作った当人は「そこそこの出来」と言うくらいだったのに、初演は作曲者が当惑するほどの大好評で、以後かれこれ100年以上にわたって「名曲」の地位を不動のものとしている。これはちょっと例外的なサラブレッド的名曲かも知れない。
◇不遇の条件
では、本来「名曲」なのに、初演で失敗するというのは、どんな理由があってのことなのだろう?
1.演奏の悲劇
まず思い付くのは、初演の演奏がまずかったという理由だ。
これは多い。なにしろ初演というのは(当然、今まで誰も演奏したことがないので)、楽譜の音の確認やリハーサルを頻繁かつ多めに取らなければならないのだが、好条件が揃えることが難しいからだ。
主に経済的な理由(お金がない)や時間的理由(作曲家が楽譜を書き上げるのが遅い)が重なり、リハーサル少なめ(あるいは無し)ということがあまりにも多い。そうなると、初めて弾く曲を、少ない練習時間で、理解もなく演奏するのだから、良い演奏になることは難しい。
そもそも現在では「大作曲家」に数えられる巨匠たちも、傑作を産み落としている三十代四十代の頃はまだまだチンピラ音楽家。演奏する側にはまったく「名曲を演奏している」という感覚はなく、気を入れた演奏など望むべくもないのも敗因のひとつか。
さらに「自分で振ってしまう」ことが多いのも問題だ。この「作曲者自身の指揮」というのは一見「その曲を一番理解している人間」による指揮なのだから理想的に思える。しかし、実は逆に言えば「もっともその曲を客観視できない人間」による指揮(つまり、我が子の試験を親がやるようなもの)になり、裏目に出たときは(指揮の技術の不備も加わって)収拾が付かなくなること必至なのである。
2.場違いの悲劇
続いて、相手(聴衆)が悪かったという事例。
これは、例えば「酒を飲みたい」と思っている客の前に「コーヒー」を持って行っても無駄なのと同じ…と言えばいいだろうか。どんな最高級のコーヒーでも「こんなのは酒じゃない!」と言われておしまいである。
あるいは、セクシーな衣装に身を包んだ若い美女がいたとして、男性ばかりの劇場に登場したらそれはすごい拍手と歓声に包まれるだろうが、観客が女性ばかりだったら多分なんの反応もないに違いない。しかし、逆にイケメンだった場合は・・・(以下略)
初演の場所と「相手」は選ばなければならないのである(しかし、選べないのがそもそも悲劇なのだが)
3.時間差の悲劇
そして、時代の「空気」が読めなかった悲劇も少なくない。音楽は「少し新しい」か「少し古い」くらいが適温で、「新しすぎる」のと「古すぎる」のは徹底的に排除される。
最新ニュースの載った「新聞」も、一日経てば「古新聞紙」。生みたての卵だって、わずか数日で「賞味期限」から「消費期限」へ、さらに「値引き品」から「廃棄処分」へと扱いが変わる。「時間」は残酷だ。
さらに、もっと政治的な「時間差」を伴うこともある。
例えば、「わが祖国」あるいは「われらが英雄」というような音楽を書いた場合。独立運動全盛の時代や祖国防衛戦争の真っ只中なら、共に「名曲度120%」と賛美されるかも知れないが、その後の国の進路次第で「国民的名曲」と呼ばれるか「廃棄処分」になるか、これはもう神のみぞ知る世界である。
だから、音楽にうかつなテーマを付けてはいけない。現在では「絶対的な善」にみえる「平和」や「反戦」や「自然保護」だって、善になったのはほんの半世紀前。
となると「地球温暖化」や「エコ」だって、半世紀後にどんな評価を受けているか分かったモノではないのだから。
◇名曲の温度差
さらにもう一歩進んで、「名曲」と感じる感覚が絶対的なものではなく、時代や国や個人によって大きな「温度差」があるというのも、ちょっと厄介な問題だ。
つまり、Aさんは「奇跡のような名曲だ」と絶賛するのに、Bさんには「その良さがさっぱり分からない」という場合。あるいは、Cさんには「つまらない退屈な曲」としか思えないのに、Dさんは「渋くて深みのある傑作」と絶賛するような場合。
個人的に私は(クラシックを本格的に聴き始めた十代後半の頃)、例えばベートーヴェンやチャイコフスキーは聴いてすぐに感動したし、ドビュッシーやシベリウスなどは「自分の感性に合っている」と感じ、ショスタコーヴィチやワーグナーあるいはブルックナーなどは「感性は違うけど、面白いと思う」と感じた。武満徹、黛敏郎、松村禎三、シュトックハウゼン、ペンデレツキなどという現代音楽も聴いた途端に「面白い」と思った。
一方、ブラームス、シューマン、シューベルトなどのドイツ・ロマン派は「自分の感性からはほど遠いし、面白い所も見い出せない」という印象だった。マーラーも「長くて暗くてくどくて粘着質すぎる」と受け入れられなかったほどだ。
これはもう「知らないおじさんが退屈なことをしゃべってる」という感じがするだけで(それなりに蘊蓄があるのかも知れないが)どこが良いのかさっぱり分からないというのが正直な印象だった。
(もちろん今では、すべて「聴き込んで」その良さを体感しているけれど)
以前、ドイツの演奏家氏(一流オーケストラの弦楽器奏者)とそういう話をすることがあったのだが、彼はそのブラームスやシューマンを信奉する一方「私にはロシア音楽やフランス音楽がよく分からない」と言う。
理由を聞いてみると、いくつかメロディを歌ってみて「ほら、みんなメロディの冒頭にアクセントがない。音楽としておかしいだろ?」。
なるほど、ドイツ語は言葉の冒頭にほぼ必ずアクセントがあって、文章は「Yes」か「No」(ドイツ語では「Ja」か「Nein」)かが必須。
冒頭のアクセントが弱いと、どこからパッセージが始まっているのかが曖昧になり、それがそのまま音楽としての「内容」の弱さにつながり、何を伝えたいのか分からない、そして「音楽として二流だ」ということになるのらしい。
しかし、日本人的な感覚から言うと、冒頭のアクセントが明快でYes Noがはっきりしている方が、むしろキツくて人間味に欠ける感じがする。
ロシア音楽ならその曖昧なところのペーソスが良いのだし、フランス音楽は曖昧ゆえにファンタジーをかき立ててくれる。
われわれ日本人なんかYes Noをハッキリさせないことこそ美徳だと考えるし、それがそれぞれの国の個性なんじゃないか?・・・とくだんの彼に言うと、「へえ、そういう考え方もあるのか。初めて知ったよ」と感心されてしまった。
数十年に渡ってオーケストラで世界中の音楽を演奏してきた彼にしてこうなのだから、言葉の壁は音楽にもあるのだなあ…としみじみ思い知ることになった。
つまるところ、人間は「自分の言語」を基準にして音楽を聴いているということなのだろう。
だから、本来は感性で捉えるべきものを「思考」で取り込んでしまい、音楽が「分かる」「分からない」などと言うわけだ。
◇名曲の国籍
その証拠に、ドイツ音楽圏で「名曲」と呼ばれているものと、フランスやイタリア音楽圏で「名曲」と呼ばれているものには、かなりの温度差がある。
ロシア音楽圏、イギリス音楽圏、アメリカ音楽圏、日本音楽圏と視野を広げるとその違いはもっと顕著になる。
ドイツ音楽では構成ががっしりしていて「生真面目に哲学している」タイプが尊ばれるが、イタリア音楽ではそんな「人生を楽しんでいない」音楽など問題外。「歌」こそが命だ。一方、フランス音楽では「感性(センス)」こそが重要ポイントだが、ドイツ音楽ではそんな「とらえどころが無い」ものは切り捨てられる。新興国アメリカは「軽やかで新しいモノ」に目がないが、ヨーロッパでは逆に「軽薄で深みのないモノ」というマイナス評価になる。
そんなわけで、例えばドビュッシーやサティやフォーレなどはフランスでは「大作曲家」だが、ドイツ音楽圏で必ずしも正当に評価されているとは思えないし、逆にブルックナーやマーラーがフランスやイタリア音楽圏で真っ当に聴かれているとも思えない。ワグナーやブラームスだってドイツ音楽圏の外でどれほど理解されているかはきわめて疑わしい。
個人的に大好きなオペラ「エフゲニ・オネーギン」も、ロシアでは超名作だが海外では決して「名曲」には数えられないし、同じく個人的に信奉しているシベリウスも、イギリスとアメリカでは大作曲家だがドイツやフランスで良い評価を聴くことはあまりない。そして、そのイギリスでは大作曲家のエルガーやヴォーン=ウィリアムスは、イギリス以外ではほとんど評価されていない。「世界」も色々だ。
この国籍による温度差は、こういう音楽が好き、嫌い…というような単なる「国民性」から生まれるもの以外に、「民族的コンプレックス」や「歴史的確執」あるいは「差別感情」に基づくもっと根深いものもあるから難しい。
例えば、日本のクラシック音楽界は(その歴史的経緯から)長らく「ドイツ音楽こそ最高」という意識に汚染されてきた。大作曲家をあげると、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェン・ブラームス・ワーグナー…とドイツの作曲家しか思い浮かばない人は要注意。
そのドイツ音楽圏は(おそらく)堂々と「わがドイツ音楽が一番」と思っている。実際、三大Bを始めとする大作曲家がぞろぞろいるのだから無理もないけれど、フランス音楽やイタリア音楽に対しては微妙なコンプレックスを抱きながらも決して優位の姿勢を崩さない。
だから、フランス人のベルリオーズやユダヤ人のマーラーを、決してベートーヴェンやワーグナーと同レベルの大作曲家とは認めないし、ロシアのチャイコフスキーやチェコのドヴォルザークなどは人気があることは認めても、芸術音楽として高い評価はしない。
しかし逆に、イタリア音楽圏の視点から見れば、クラシック音楽のすべてはそもそもイタリアから生まれたもの。音楽はグレゴリオ聖歌から誕生し、イタリア・オペラで開花したものなのだから、バッハから始まったドイツ音楽などは「田舎の分家」に過ぎない。太陽降り注ぐイタリアから遠い田舎に流れ伝わった地味で野暮ったい音楽…と言ったところか。
対して、ロシア音楽圏は、近代化に出遅れたコンプレックスを秘めつつも、チャイコフスキー以後のロシア音楽の底力は世界に冠たるものだという自負がある。ブラームスあたりまでは認めても、そこから以後は「すべての名曲はロシアにあり」と(無理やりな愛国心も交えて)思っている。実際、チャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフ、ショスタコーヴィチなどなどを並べて見ればその錚々たる布陣は圧倒的だ。
一方、イギリスや東欧・北欧の諸国、さらにアメリカやわが日本などは、自国に「お国自慢の名曲」はあるものの、西洋音楽史に普遍的に食い込めるか?という点に関しては徹底的なコンプレックスがある。
もちろん民族的な「おらが国が一番」的な自負はあるのだが、自分の国の作曲家の作品でありながら、ドイツ人に認められたから「名曲」である、とかニューヨークで評判だったから「名曲」である…というような外の権威に左右される。さらに、そんなコンプレックスの裏返しの「優越感」というのもあったりするので、「名曲」の認識にも複雑なお家事情を秘めていたりする。
余談だが、この「おらが国」という優越意識が外に飛び火すると、他の民族への「差別」になることもあるので、要注意。ユダヤ風、ジプシー風、ハンガリー風、アラビア風、トルコ風、アフリカ風、アジア風・・・いずれも、(作曲者当人にそういう意識が全くなくても)一歩間違うと「差別」と指弾されることがある。
さすがに、昨今は「差別」むき出しの音楽作品はみかけなくなったが、モーツァルトやベートーヴェンの「トルコ風」やブラームスやリストの「ハンガリー風」はちっともトルコやハンガリーの音楽ではないのだそうだし、海外で「日本風」と言って鳴らされる音楽は珍妙なものが少なくないのは御存知の通り。
好意的に描いたつもりでも、思いもかけず「差別的作品」あるいは「国辱的作品」として抹殺される「名曲」もなくはないわけだ。
対して、そんな分かりやすい「差別」はもう時代遅れ、という人もいる。確かに現代ではもう一歩進んだ奇妙な差別の力学が世界に蔓延していて、話はもう一段階複雑だ。
例えば「XXX人は劣っている」という意識を自分の中に持っているインテリが、「あいつは差別主義者だ」と言われたくないために、逆に「XXX人の音楽は素晴らしい」などと賛美する。
(心理学用語では、何というのだろう。おそらく適当な用語があるはずだ)
この「XXX人」の処に色々な人種名を入れると、「名曲」を浮かばせたり沈ませたりする複雑怪奇なスクランブル交差点が立ち現れる。
◇非名曲の名曲
似たような方向でさらに厄介なのは、「多数派に人気な音楽」イコール「名曲」…という大前提を根本的にくつがえし、「(素人にはすぐにその良さが分からない)少数派限定」のものこそ「名曲」であるとする視点だ。
例えば「新世界から」「ボレロ」「展覧会の絵」「シェエラザード」「ラプソディ・イン・ブルー」「アランフェス協奏曲」というようなポピュラー名曲は、誰も名曲であることを疑わないし、お客にとにかくウケる、聴いて楽しい音楽である。これは確かである。
しかし、「人気がある」「分かりやすい」というのは、内容に「大衆に媚びた」所があるからに過ぎなくて、真の名曲は「すぐに理解するのが難しい」ものの中にこそある…と主張する人が(特にクラシック音楽マニアには)いるわけだ。
(それは宮澤賢治の「ドングリの山猫」の中で、「大きいのが偉いんだ」「いや背が高いのが偉い」と主張するドングリたちに「いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ」と言い放つ山猫に似ている)
こういうマニアにかかると、「名曲」の分布図はまったく違ったものになる。
例えば、ベートーヴェンなら、「運命」や「田園」「合唱」などは論外で、晩年の晦渋な弦楽四重奏曲やピアノ・ソナタこそが最高の「名曲」。ワーグナーの楽劇なら、有名な「ワルキューレ」や「タンホイザー」あるいは「トリスタンとイゾルデ」などではなく、晩年の宗教じみた「パルシファル」こそが至高の名品。
さらに、シベリウスなら、人気の交響曲第2番やフィンランディアあるいはヴァイオリン協奏曲などではなく、後期の第6番や第7番あるいはタピオラ。ショスタコーヴィチの交響曲なら、ダントツで有名な「第5番」は認めず、一般人には難解な「第4番」や「第8番」あるいは「第14番」こそを最高傑作とする。
現代音楽マニアになるとこれはもっと顕著になり、20世紀にもなってショスタコーヴィチのような「分かられてしまう」交響曲を書くのは問題外。無調で非人間的で斬新で(それゆえに多数派には決して理解されない)無機質な音響の構築物こそが「最高の知性」の象徴である…という主張をし始める。
要するに、素人が一回聴いただけで面白いと思えるような「分かりやすさ」は名曲の条件ではなく、通が何度も聴いてようやく理解できるような「新しさと深みとを持った音楽」こそが「名曲」である…というわけだ。
これこそ(一般の人間に「クラシックはめんどくさい」ともっとも敬遠される)クラシック・マニアの「心の闇」……なのだが、これもあまり批判めいたことを書くと「人のことが言えるのか!」と突っ込まれそうなので、この件についてはここまでにしておこう。
◇名曲は作られる
最後にもうひとつ、名曲の「不遇」の逆に、突然の「優遇」というのもある。もしかしたら、これが「名曲の作り方」のもっとも大きなファクターかも知れない。
それは、「大衆的なメディアで使用され、一挙に大勢の一般人に知られること」である。
かつての「コンサート」だけの時代では、どんな名曲名演でも数百人から千人そこそこの聴衆が耳にするのが限度だった。
しかし「レコード」というメディアが登場した瞬間から、聴衆は全世界の数万人数十万人に膨れあがった。
そのため、意外な曲が、人気演奏家や指揮者が取り上げたことで一躍「名曲」の仲間入りをした例は多い。(かつては、カラヤンがレコーディングしただけで「名曲」の仲間入りをしたものだったのだ)
もともと「名曲」の素質があったから取り上げられたのか、取り上げられたから「名曲」に聴こえるだけなのか、それは定かではないが・・・
そして、さらに巨大なメディアが「映画」だ。
映画も普通は新たに作曲された音楽を付けるものだが、既製のクラシック曲から、映画の雰囲気に合った「聴き所」だけを切り取って拝借することも(主に経済的な理由で)行われることが多い。
考えてみればかなり安直な音楽の使い方だが、映像とマッチした時にこの効果は抜群なものとなる。
なにしろ「聴き所」のピンポイント攻撃が出来るし、映像との相乗効果で印象は鮮明になる。コンサートのように「全曲」聴いたのでは気付かずに通り過ぎてしまうような(そして作曲者自身も意図しなかったような)部分にスポットが当てられる。これは強力だ。
1960年代までの現代音楽全盛の時代には「時代遅れの退嬰的ロマン派」にすぎなかったマーラーの交響曲を一気に「名曲」に押し上げたのは、映画「ベニスに死す」(1971年。監督:ルキノ・ヴィスコンティ)。
この映画の中で第5番のアダージェットが印象的に使われたことで、マーラーは1970年代に一気にリバイバルを果たし、「アダージェット」は「ポピュラー映画音楽」並みの人気名曲となった。
さらに、それに先立つ数年前、SF映画「2001年宇宙の旅」(1968年。監督:スタンリー・キューブリック)で使われたリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」も、そのインパクトは強烈だった。
この二つの事件は、前衛音楽全盛の時代に、後期ロマン派の過剰に豪華なサウンドが逆に「クラシック音楽の魅力」として再評価された画期的な出来事だったと言える。
それ以前では、例えばラフマニノフのピアノ協奏曲第2番も、往年の映画「逢びき」(1945年。監督:デヴィッド・リーン)で使われて、一気に「映画音楽っぽい」クラシックの代表作になった名曲。
おかげで、かつてはラフマニノフといったらこの「第2番一曲だけの(一発屋の)作曲家」という扱いだったが、音楽映画「シャイン」(1996年。監督:スコット・ヒックス)で第3番が使われたのを機に、一気に第3番の方が「名曲」扱いになった。
また、日本では、テレビのトレンディドラマ「妹よ」(1994年。フジテレビ)で「交響曲第2番」第3楽章の一部で流れる甘いメロディが印象的に使われ、マニアしか知らなかった渋い大曲が(多くの若い女性に聴かれるほど)一気にブレイクしたことがある。
よく御存知の最近の例では、テレビドラマ「のだめカンタービレ」(2006年。フジテレビ)のタイトルで使われて一躍「携帯電話の着メロ第一位」にまで輝いたベートーヴェンの交響曲第7番。
子供までが、まるでアニメの主題歌と同じレベルで「ベト7」を知っている…という素晴らしい(恐ろしい?)状況が生まれ、この曲をプログラムに入れたオーケストラの演奏家に若い人が押し寄せる…という奇妙なブームが起きたのは記憶に新しい。
(さらに、原作のコミックスに出てくるモーツァルトの「2台のピアノのためのソナタ」やエルガーの「ヴァイオリン・ソナタ」などという超レア曲のCDが売れたりしている。おそるべし、のだめ)
そして、著作権が切れたのをきっかけに「ジュピター」(ホルスト作曲、組曲「惑星」の第4曲「木星」のメインメロディ)に歌詞が付けられてヒットしたのは何年前だったろうか。いわゆる大作曲家にはまったく数えられていないマイナー作曲家による、マニア向けの管弦楽曲…だったのに、今では宇宙や自然の映像のBGMには定番の有名曲になってしまった。
あるいは、2006年冬期オリンピックのフィギュア・スケートで金メダルを取った荒川静香選手の演技のBGMに流れた「トゥーランドット」。これも、プッチーニといったら「トスカ」か「蝶々夫人」かろうじて「ラ・ボエーム」だったのが、チャイナ風の妖しいメロディに乗っていきなり大人気オペラに浮上。
つい最近では、同じくフィギュア・スケートの浅田真央が演技で使ったハチャトリアンの「仮面舞踏会」そして、村上春樹の小説「1Q84」に出て来るヤナーチェクの「シンフォニエッタ」・・・。
そのたびに、クラシック界は「特需」に沸き、いきなり「名曲」に成り上がった曲がCDやらコンサートやらに氾濫する。
実際、何万枚というレベルでCDが売れたり、コンサートに客が来たりするそうだから悪い話ではない。素直に新しい「名曲」の誕生を歓迎するばかりだ。
しかし、こうなると、もうクラシックのどんな曲でも、何かの「きっかけ」さえあれば、「名曲」にでっち上げられそうだ。
保存期間が切れて倉庫に山積みにされていた忘れ物の山から、適当にどれか一つつまみ上げて誰かに売ってみたら、思いがけない大金になる…というような話だもの。
(もちろんポップス界では、色々な手練手管でこういう「人工的」なきっかけをCMや映画やテレビドラマで作り出し、ヒット曲を製造するのが常套手段なわけなのだが)
ある意味、宝の山なのだなあ、クラシック音楽というのは。
(時々、不遇や貧乏の呪いがかけられていたりはするけれど…)
名曲は、名曲として
生まれるのではない。
名曲に「なる」のである。
…というわけで、夏休みの雑談はここまで。
*
■パーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響楽団
2009年
11月1日(日)14:00 サントリーホール
・バーンスタイン:「キャンディード」序曲
・シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
(ヴァイオリン:庄司 紗矢香)
・ドヴォルザーク:交響曲第9番 「新世界より」
11月4日(水)19:00 サントリーホール
・バーンスタイン:ディヴェルティメント
・ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー
(ピアノ:クリスチャン・ツィメルマン)
・ラフマニノフ:交響曲第2番
| 固定リンク
「2009年記事」カテゴリの記事
- 生の音楽・煮た音楽(2009.12.10)
- 映画音楽の作り方(2009.11.10)
- 音響合成マシンとしてのオーケストラ(2009.10.10)
- やぶにらみワグネリアンがゆく(2009.09.10)
- 夏休み雑談:名曲の生まれ方(2009.08.10)
コメント
いつも分かりやすいお話しをありがとうございます。 今では名曲と呼ばれる曲が作曲当時は恵まれなかったという話は良く耳にしますが、今回のように整理して具体的に解説していただくと、素人には本当に理解しやすく、楽しく読ませていただきました。
私はチャイコフスキーやショパンが好きで、要するに理屈ではない綺麗なメロディーとハーモニーとドラマティック性が備わっていないとなじめないところがあります。 よくコンサートのアンコールで演奏される、分かりやすい小品も、私にとってはかなりの確率で名曲なのですが、一般的にはそこまでは賛同されないかも知れません。 多くの聴衆に「名曲」と支持されることが「名曲」の必須条件なのでしょうね。
投稿: uncle bear | 2009/08/10 19:04
>ドイツ語では「Da」か「Nein」
ドイツ語では「Ja」か「Nein」、の間違いと思われます。Да/ Нетはロシア語ですね。
投稿: くろべえ | 2009/08/11 23:56
ご指摘感謝。
修正しました。
投稿: 管理人 | 2009/08/12 00:13
ヤナーチェクの「シンフォニア」 ってシンフォニエッタの事ですか?わざわざ「」で囲ってるってことはシンフォニエッタとは違う曲という意味でしょうね。プロの作曲家が間違うとも思えないし…。う~む。
投稿: タイセイ | 2009/08/19 00:32
弘法にも筆の誤り
投稿: やなチェック | 2009/08/19 09:37
うまい!座布団1枚!
投稿: タイセイ | 2009/08/24 23:14