映画音楽の作り方
最近、「ヴィヨンの妻〜桜桃とタンポポ」という映画の音楽を担当した。
太宰治の生誕100年記念として企画された映画で、原作は小説「ヴィヨンの妻」。監督:根岸吉太郎、脚本:田中陽造。主演は、松たか子、浅野忠信。公開に先立ってモントリオール国際映画祭で最優秀監督賞を受賞し、この10月に全国ロードショー公開された。
そこでこの機会に、映画音楽について体験談も交えてお話しておこう。
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◆映画音楽とは?
「映画音楽」というジャンルが登場したのは、1920年代にトーキー映画が普及してからだから、結構新しい。
当然ながら主立ったクラシックの作曲家は関与しておらず、「映画音楽」というジャンルに音楽を提供したのは、オネゲルやミヨー、プロコフィエフやショスタコーヴィチあたり以降の現代作曲家ということになる。
ただし、〈作曲家〉(および脚本家)が中心になって作られていた「オペラ」に比べ、「映画」を統括するのは(御存知のように)〈監督〉。
その下に脚本家(ストーリーおよび台本の担当)・美術(背景のセットや衣装や小道具のデザイン担当)・音楽(背景の音楽担当)・撮影(カメラ)・照明・特殊効果・録音・編集などなど膨大なスタッフが加わる「集団創作」である。
作曲家はその中の「音楽」の部分だけを担当する一スタッフに過ぎない。
その「映画」に、作曲家はどんな音楽をどんな風に付けてゆくのか。そのあたりを考察してみよう。
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◆オープニングとメインテーマ
「映画音楽」の作曲…と言って一番イメージしやすいのは、何と言っても「メインテーマ」だろう。
映画の冒頭オープニングには必ず「タイトル(題名)」が大きく映し出され、さらに主な俳優やスタッフの名前が次々に登場する。
その数分間は「絵と文字」だけなので「音楽」は必需品。そこに流れる音楽は、多くの場合、その映画を象徴するもっとも印象的でキャッチーなメロディやテーマが使われることが多い。全編のイメージを決定する「メインテーマ」である。
「風と共に去りぬ」「第三の男」「ゴッドファーザー」「禁じられた遊び」「ロミオとジュリエット」「ニューシネマパラダイス」「スターウォーズ」などなど・・・タイトルを聞いただけでメロディが思い浮かぶ名曲が綺羅星のごとく並ぶ。
恋愛映画ならロマンチックでメロディアスな音楽、スペクタクル映画なら壮大なオーケストラサウンドによる音楽、SF映画なら電子音や現代的サウンドの音楽。歴史劇ならその時代にあった宮廷や民族音楽。
あるいは「主題歌」としてヴォーカルがメインになることもある。また、そこまで予算をかけられない場合も、ギター一本(禁じられた遊び)や民族楽器チター(第三の男)など、小さな編成で印象的な音楽を作ることも可能だ。
時には、映画の印象を決定づける最も重要なアイテムになることさえあるので、作曲家にとっては腕の見せ所と言えるだろう。
◆登場人物のテーマ
常にというわけではないが、「主人公のテーマ」や「ヒロインと愛のテーマ」「悪役のテーマ」などを作り、音楽的なわかりやすさを追求する。これはワーグナーの楽劇のライトモチーフ(主導動機)あたりが元祖か。
この場合、メロディもだが、楽器の種類を選ぶのも重要なポイント。例えば主人公がギター、恋人がハープ、悪役がチューバ、母親がフルート、などなど(どんな観客にも聞き分け可能な)音色の違いを振り分けるわけだ。
こういう多彩な楽器や楽想の振り分けが、楽譜で可能なのがオーケストラ系音楽の強み。これが、いまだに「映画音楽」界で(ジャズやロック系の音楽を差し置いて)オーケストラが重用されている理由だろうか。
さらに、「人物」ではなく「情景(シーン)」そのものに付く音楽もある。
◆シーンの音楽
シーン(Scene)というのはストーリーのひとまとまり。「ラブシーン」とか「戦闘シーン」とか「回想シーン」とかのシーンである。
通常、映画音楽ではこのシーン単位に「M1(Music1)」「M2」という番号を振って音楽を付けてゆく。「ラブシーン」ならラブシーンらしく、「戦闘シーン」なら戦闘シーンらしく、「クライマックス・シーン」ならクライマックスらしく雰囲気を作ってゆくわけだ。
そんなシーン音楽には「お約束」も多い。
ラブシーンではロマンチックなストリングスやサックスのエロティックな響き。サスペンスシーンでは弦のトレモロ。(幽霊が出そうなシーンなら「ひゅーどろどろ」)。戦闘シーンならアップテンポで太鼓やドラム群の連打・・・。
そしてタイプとしては2つ。
基本はもちろん、そのシーンの展開に応じて音楽を付けてゆくタイプ。感情が高ぶったりスピード感が増したりすれば、それに応じて音楽を変化させてゆく。
一方、シーンに丸々ぺたりと一曲を付けるBGM(Back Ground Music)タイプもある。これはシーン内の起伏に全く関係なく、「過去を回想しているシーン」とか「刑事が聞き込みに回っているシーン」とかを一括りにする付け方。明快で分かりやすいが、やり過ぎると安直な感じになる。
表情付けタイプでは、明るいコード(長調)と悲しいコード(短調)の対比も感情表現に極めて有効だし、不協和音や無調の「不安感」「不気味さ」も映画では極めて効果的。
ハーモニーやリズムそしてテンポの変化の妙味はすべて、映像と組み合わされることで増幅される。逆に言えば、映像はハーモニーとリズムの妙味を加えることで、その表現の大きさが倍加するわけである。
映画に「音楽」を付ける最大の理由はこのあたりか。
◆フェイドイン、フェイドアウト
ちなみに、それらのシーンごとの音楽は(生演奏と違って)知らない間に徐々に聞こえてきて、知らない間に徐々に消えてゆく…と言う付け方が可能。これは「映画音楽」の大きな特徴のひとつ。
生演奏のオペラなどでは不可能だが、映画では単に音量を上げ下げすればいいだけ。なので、打ち寄せる波の音の中から静かに聞こえてくる…とか、風の音の中に融けるように消えてゆく…などと言った音楽の使い方が出来る。
この、だんだん音楽が聞こえてくるのを「フェイドイン(Fade In)」、だんだん消えてゆくのを「フェイドアウト(Fade Out)」という。
◆場面転換(ブリッジ)の音楽
さらに、あるシーンから次のシーンに切り替わる時(舞台でいうなら照明が暗くなって次のシーンになる時)、前のシーンの雰囲気を残しつつ次のシーンの前触れをするのが「場面転換(ブリッジ)」の音楽。
せいぜい10秒とか20秒…と短いものが多いが、これも舞台音楽や映画音楽では重要な効果をもたらす。
映画の映像は(現実世界と違って)フィルムの「1コマ」で全く違った世界や次のシーンにポンと飛んでしまうわけで、その「断層」を強調するか柔らかくするかがこのブリッジの音楽で左右されるわけである。
アニメのような展開の早い映像では、それこそ「チャンチャン」とか「ピポパ」というような単なるアクセントや擬音のような2〜3秒のブリッジも多用される。
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◆カットとモンタージュ
シーンよりもっと細かい…映画における最も短い場面の単位をカット(Cut)という。カメラをセットしてフィルムを回して撮影できる最小単位(回さない最小単位は「一コマ」)である。
これは監督が「用意、スタート!」と言って始まり、「はい、カット!」と言って終わるフィルムのひとまとまり。
それこそ数コマ(数秒)の場合もあるし、監督によっては延々と一つのシーンを一カットで撮影することもある。
このカットを複数組み合わせることで、「映画」は実際にはあり得ない(そして映像に映っていない)場面を観客に「想像」させることが出来る。
例えば「主人公が崖から飛び降りて死ぬ」などと言うシーンを現実に一つのカットとして撮るのは不可能だが、カットを組み合わせることで「表現」出来る。
まず、主人公の顔のアップ(カット1)、高い崖の遠景(カット2)、崖の縁に見える足(カット3)、落ちる小石(カット4)、空の景色と悲鳴(カット5)・・・というようなカットを繋ぎ合わせてゆけば、見た人は「主人公が崖から落ちた」と認識する。
これを「モンタージュ」手法といい、映画の基本テクニックである。
◆シークエンス
さらに、この「崖から落ちるシーン」は、細かく言うと「崖までやってくる」「過去を回想する」「ちょっとためらう」「靴を揃える」「空を見上げる」「ダイビングする」「誰もいない崖の上」などのカットの連続があり、これらのひとまとまりをシークエンス(Sequence)という。
文章で言えば、「第1章:崖の上にて」というのが「シーン」。「彼は崖の上に立った」というような一文が「カット」。彼が崖の上に立ち、空を見上げて昔のことを思い出し、そこに一陣の風が…というような文章のひと段落が「シークエンス」というわけである。
この映像のシークエンス内のどのカットで音楽が始まってどのカットで終わるか、というのが音楽におけるシークエンス。そして、これは結構映画の流れや印象を左右する。
例えば、シーン全体に(前述のBGM風に)音楽を貼り付ければすべて「回想」みたいに見せることも出来るし、顔のアップにピンポイントで音楽を付ければ、死を選んだ理由(失恋や絶望)に同情した悲劇に仕立てることができる。
あるいは、緊張感のある音楽を付ければ「死ぬことの恐怖」や「不条理」にスポットを当てることが出来るし、即物的に風の音とかごうごういう地鳴りのような音楽を付ければホラーっぽくもなる。
同じ映像でも、「どこからどこまでをシークエンス(連続)と捉えて、どういうタイプの音楽を付けるか」によって、ストーリーの流れや見る人の感情を左右することが出来るわけだ。
◆コントラスト
そういった「シーンごとの音楽」にはもちろん、悲しいシーンに悲しい音楽、楽しいシーンに楽しい音楽、を付けるのが基本である。
しかし、全くその逆の対照的(コントラスト)な音楽を付け、それによって全く違った「イメージ」を喚起させる場合もある。
例えば、「悲しい」シーンに「楽しい」音楽をぶつける場合。
悲嘆に暮れる主人公が立ち尽くすシーンに、楽しげな音楽をかぶせる。それによって、その落差から来る「違和感」で悲しみの深さと無情さを倍加させる効果が生じるわけだ。
人間は悲しければ泣くものだが、涙を流して泣かれるより、静かに微笑まれる方が「悲しみ」の深さを表現できることもある。それに似ている。
逆に、楽しいシーンに物凄く「暗い音楽」をかぶせる場合。
例えば、子供たちが無邪気に遊ぶ映像に、不気味で暗い葬送の音楽をぶつける。これは、これから起こる悲惨な事件(戦争や虐殺や大災害)の予感と不安を強烈に印象づけることが出来る。
ただし、これは全くはずれてしまう可能性も含んでいるので、使う際には相当な計算が必要である。
◆対位法
さらに、このコントラストの応用にもなるが、映像と音楽とが違った視点で交差する「対位法」(複数の声部を交差させる技法)も映画のテクニックとして知られる。
これは、2つ以上の(対照的な)ストーリーが1つの場面で同時進行するもので、もちろん映像だけでも成立するが、音楽が付くと一層効果的になる。
例えば、「悲しみ」に暮れる主人公の横で、ラジオが「楽しい」ワルツを流している…とか、無邪気に遊んでいる子供たちの背後で、テレビが父親の死を報道している…というような効果である。
ただし、これもコントラスト以上に「計算づく」の作り方であり、うまくゆけば効果は絶大だが、まるっきり気付かれないこともあり、だからと言って強調し過ぎると、わざとらしい計算ばかり目立って理屈っぽくなる。
繰り返し見たり、説明されたりして初めて「なるほど」と思う「隠し味」のようなものと考えるべきだろうか。
◆シンクロとずらし
このように音楽は基本的に「映像の雰囲気」に合わせるものだが、さらにもっと細かく「アクション」にぴったり合わせる(シンクロさせる)こともある。
オペラでも、例えばピストルの発射音とか、ナイフで刺す瞬間などのアクションに「音楽」でアクセントを付けるのは常套手段としてよく使われる。
映画は(映像に合わせて音楽を付けるので)もっと正確に、主人公の動作に音楽をシンクロさせることが出来るわけだ。
登場人物たちが、振り向いたり、走ったり止まったり、笑ったり泣いたり…するのに音楽を付けてもいいし、さらに、雨や水滴のポツン…とか、足音のトボトボ…とか、葉っぱの落ちるヒラヒラ…などにすべてピッタリ音楽を合わせることだって出来る。
もっとも、アニメなどでは有効なこの手法も、実写映画であまりにも映像とシンクロさせた音楽を付けてしまうと、逆に不自然(マンガチック)になることもある。
笑ったり泣いたり、ドアを開けたり走ったりするたびに、それらしい音楽が付くのは、「操り人形」のようにに見えるからだろうか。
一方、シンクロさせるのではなく、意図的に音楽を前後に「ずらす」こともある。アクションの寸前に音楽が出れば一種の「予感」になり、後ろにずれて音が出れば「追体験」のような効果を生む。
さらに極端にずらして、映像と一致しない音楽にすると、前述の「コントラスト」の効果になるわけだ。(ちなみに「シンクロ」というのは、映画用語では撮影と同時に音声(セリフ)も撮る「同時録音」のこと)
◆無音
ところで、映画全体における「音楽」の比率…ということになると、アメリカ(ハリウッド)映画はかなり高比率だ。音楽のないシーンが見当たらないほど「これでもか」と全編にうるさいほど大きな音楽が付けられていることが多い。
もちろん音楽を付けるのが「サービス」ということもあるが、一説には「雑音消し」という意味合いが大きいらしい。
つまり、音楽がないと、映写機の音や観客たちの出す雑音(なにしろ映画館には大勢の人が座って、ものを食べたり飲んだり話したりしながら見ているのだ)で現実に引き戻されてしまうし、映画館の安物スピーカーから出るノイズを消すために大きい音で音楽を流す必要があったわけだ。
現在では映画館の音響再生装置はかなり高性能になったが、音楽がないところでも、地響きみたいな低周波とか、風の音のようなホワイトノイズがはいっていることが多い。あれは「無音」恐怖症とでも言うのだろうか。
対して、日本映画は(セリフだけで)「無音」のシーンが少なくない。これは、観客が静かだという国民性なのだろうか?
個人的にも、静かに淡々と進んでいる物語なら、そこに敢えて「音楽」など付ける必要はないとさえ思う。
ただ、「無音」というのは意外と緊張を強いるので(特にラヴシーンなどでは音楽なしだと居たたまれなくなる)、「匂い消し」として音楽が欲しいと思うこともあるにはあるのだが・・。
考えてみれば、現実の世界では後ろに「音楽」など聞こえていないわけで、どうして映画はあんなに全編音楽が付いているのだろう?と不思議に思うことも時々ある。
しかし、そのあたりについては、「それを言っちゃあおしまい」ということなのだろう。
(そう言えば、かのヒッチコック監督は、海上での漂流シーンにオーケストラの音楽を付けた作曲家に向かって、「どうして海の上なのにオーケストラが聞こえてくるんだ?」という禁断のひと言を発したそうな。
しかし、その時の作曲家の反論がふるっている。「じゃあ、どうして海の上なのにカメラがあるんですか?」)
◆SE(効果音/現実音)
映画には「音楽以外の音」も沢山ある。ひとつはもちろん登場人物たちの「セリフ」だが、もう一つ重要なのは「SE(Sound Effect:効果音/現実音)」である。
ピストルの発射音や爆発音などから、ドアの音や自動車の音などの現実音、風の音や雨の音などの自然の音。映画に使われる音はそれこそ膨大にある。
撮影の時に一緒に録音された音もあるが、多くは編集の段階でレコードやCDなどの「音源」や、効果音スタジオで作られたサウンドを映像に合わせることで作られる。
これは「作曲家」の仕事の範疇ではなく、「録音」や「効果」の仕事だが、ある種「音楽的」に付けることも可能だ。
例えば(日本人にとっては)蝉の鳴き声は「暑い夏のノスタルジー」を想起させる最高の音楽だし、波の音やせせらぎの音などは「癒しの空間」を創出させる最強の音楽になる。
また、舞台となる時代の音楽(流行歌など)もSE音楽として重要な役割を演じることがある。「リンゴの歌」がラジオから聞こえてくれば時代は瞬時に「終戦直後」になるし、「東京オリンピックのマーチ」が聞こえてくれば1964年に記憶がタイムスリップする。
ただし、国籍や世代によってそういうSEの感じ方が違うことがあるので注意が必要。昔の流行歌そのものを知らない若い世代には、戦後も1960年代も記憶にはないし、「季節の風物詩」的な音はその国や地方以外の観客には通じないことも多い。
しかし、それらすべての「音」を音楽的に扱うのも、ある意味では「映画音楽」の効果に含まれるのかも知れない。
*
と、映画に付ける「音楽」の種類について述べてきたが、ついでに「映画音楽」を制作するうえでの段取りとノウハウについても話しておこう。
監督や俳優やスタッフがすべて決定し、映画の撮影が始まるのは「クランクイン」。そこから数ヶ月(長い場合は数年)の撮影期間を経て、撮影が一通り終わる(全シーンを撮り終える)のが「クランクアップ」。(クランク云々というのは、昔の撮影カメラの手回しハンドルから来ているらしい)
映画制作に「作曲家」が参加するのは、そのあたりからだ。
もちろん「台本」の段階で、どういうタイプの音楽にするかという構想は始めるものの、具体的に「どのくらいの長さの音楽を、どのくらいの数だけ作曲するか」というのは、実際の映像と全体の寸法が決まらなければ、決定しようがないからだ。
◆テンプトラック
撮影が終わったフィルムを台本通りざっと繋ぎ合わせたのが「ラッシュ・フィルム」。この段階ではセリフ以外の「音」は入っていない。
作曲家はその映像を見て、映画の世界観を感じ「どこにどういう音楽を付けるか」を構想するわけだが、この時、監督によっては「ここはこんな感じで」と既成の曲を当て嵌めていることもある。これをテンプトラック(Temporary Track)という。
例えば、キューブリック監督のSF映画「2001年宇宙の旅」では、冒頭の壮大な天体シーンに流れる「ツァラトゥストラ」や、宇宙船が飛ぶシーンの「青きドナウ」など、すべて監督が「こんな感じで」と当て嵌めた「仮の」音楽だったそうだ。しかし、結局それ以上の音楽を作曲家が作ることが出来ず、そのまま本編でも使用することになったらしい。
また黒沢(明)監督もテンプトラックにクラシック名曲を愛用する人だったらしく、影武者では「軽騎兵序曲」、「乱」では「大地の歌」などなどが全編にわたって仮の音楽として付いていたという。
これは、確かに「監督のイメージする音楽がわかりやすい」という反面、監督の音楽センスと「既成の音楽のキャラクター」に縛られてしまう難点もあるわけで、作曲家にとっては痛し痒しの代物と言えなくもない。
◆プレスコとアフレコ
一方、「映像に後から音楽を付ける」のではなく、最初に「セリフや音楽」を収録し、それに後から映像を付けてゆくこともある。これをプレスコ(Pre Scoring)という。
ディズニーのアニメ映画などは大体この方式。「音」に合わせて「絵」を描いてゆくのだから、当然ながら映像と音とを完璧にシンクロ出来る。
例えば(前述のように)主人公が転んだり、葉っぱが落ちたり、水滴が音階を奏でたり…というようなシーンを、完璧に「音楽」に合わせて作ることが出来るし、しゃべる口の動きなども完全にセリフと合わせられるわけだ。
ただし、手間はかかるし費用も大変そうだ。
それに対して、出来た映像に合わせて後から音を付けるのがアフレコ(After Recording)。
撮影している時は単にセリフの寸法で口をパクパクさせておいて、それに後で俳優(あるいは声優)が合わせる。
音楽の場合は、映像に合わせて後から音楽を書き、画面に合わせて音楽を嵌め込む。
この場合は、ラフ(未完成)の映像でも、寸法さえ合っていればそれに合わせて「セリフ」や「音楽」の制作を同時進行させることも可能。時間的にも予算的にもプレスコよりは遙かに効率的と言える。
◆編集
こうして監督や作曲家が作り上げた「完成映像」も、そのまま劇場公開されるわけではなく、さらに制作サイドから「編集」の手がはいる。
多くの場合、台本通り撮影した全シーンを繋ぎ合わせると、最終的な寸法の何倍もの長尺になるのが普通。(今回の「ヴィヨンの妻」の場合も、この段階では3時間以上あった)。しかし、映画として上映出来るのは普通せいぜい2時間前後。どうしても数十分から数時間分は泣く泣くカットしなければならない。
その場合、実際に撮影した当の監督では、苦労して撮ったシーンを簡単にカットはできないのが人情。
そこで、制作会社や専門の編集者が「客観的」(かつ「映画をヒットさせる」ため)に、長すぎるシーンをカットしたり、分かりやすくシーンを入れ替えたりすることがある。これが「編集」。
時には、セリフを替えてしまったりエンディングを挿げ替えてしまう(例えば主人公が死んでしまうラストをハッピーエンドに変えたりする)こともあるそうだ。
音楽でも例えば、新しく書いた音楽を全部NGにして結局テンプトラックの音楽にしてしまったり、微妙な表現だった音楽を差し替えて分かりやすく全編メインテーマの繰り返しだけにしてしまったり、と言うことが起こるわけだ。
そして、編集が終了すると、映像と音(音楽やセリフや現実音)をすべて合わせる「ダビング」という作業を行い、その結果出来たものを「試写」する。
スタッフが立ち会って行うこの最初の試写を「初号試写(あるいは「0号試写」)」という。
俳優は、ここで初めて「どのカットが使われて」「どのカットがカットされたか」を知るわけなのだが、端役の俳優さんなどは、編集によって自分が映っているシーンがゼロになってしまうこともあるらしい。
そんなわけなので、音楽があちこち切り貼りされるくらいは「映画の世界」ではごく普通のこと。ここで「仕事」と割り切れない人は、この仕事は向いていないと言うことなのだろう。
*
◆選曲
ドラマなどでは、「作曲」ではなく「選曲」という音楽の付け方もある。
これは、作曲家に新しく音楽を描いてもらうほど予算がない場合、出来合いの曲を選んできて嵌め込むことで、映画のスタッフ・クレジットに「作曲家」の名前が無く「選曲」だけの場合は、この方式である。
ちなみに、私も昔ラジオドラマでこの「選曲」のアルバイトをしたことがある。(シーンにあった音楽のCDを選び、曲タイトルとアーティストと使用時間を著作権協会に申請し、所定の使用料を支払えばいい。確かに新たに作るよりは遙かに安上がりだ)
また、作曲家が「どのシーンにどの音楽」と考えて作曲するのではなく、作曲家は注文された楽曲を作るだけで、「どの曲をどのシーンに嵌めるか」は「選曲」担当に任せる…という方法もある。
この場合、作曲家は(例えば「音楽監督」というようなスタッフから)「主人公のテーマ」「場面転換の音楽:15秒」「悲しいシーンの音楽:3分20秒」「戦闘シーン:パターンA,パターンB」「回想シーン:ソロ、アンサンブル」というような注文で音楽を書いてゆき、数十曲ほどをストックさせる。
それを選曲担当者が、「このシーンにこの音楽」と決めて、映像に嵌め込んでゆくわけである。
特に、毎週放送される連続ドラマなどのような場合は、毎回作曲家が新しいシーンに合わせて作曲しスタジオ録音するのでは手間もコストもかかるので、最初に書いた数十曲(時には百曲以上)のストックの中から「選曲」担当が音楽を当て嵌めてゆくことが多い。
◆タイアップ楽曲
もうひとつ、作曲家にとって複雑な「仮想敵」が、最近はびこっている「タイアップ楽曲」。これは、メインテーマあるいはエンディング曲のかわりに、有名アーティストや新人アーティストの「新曲」や「ヒット曲」を使うこと。
映画音楽の作曲家が書く「インストゥルメンタル」のテーマ曲より、ヒットを狙える「ポップス楽曲」を使う方が、効果としてもインパクトとしても上と言うことなのだろう。
映画会社としてはそのアーティストやレコード会社が映画のプロモートをしてくれる利点があり、レコード会社としては映画がそのままアーティストと楽曲の「宣伝」になる利点がある。
そんな利害関係の一致から、両者が手を結ぶ(タイアップ)わけである。
最近の日本映画の場合はこれが実に多い。映画の主人公が映画の雰囲気で歌う歌ならまだしも、まったく関係ないアーティストが(しかも詞の内容も映画と全く関係ないような)歌を歌っている場合は、本当に絶望的になる。
それに付き合わされる作曲家としては…「メインテーマを書かなくて良いから楽だ」と考えるべきか、「自分がせっかく作った音楽の世界を否定されるようでイヤだ」と考えるべきか微妙なところ。
◆サウンドトラック
さて、以上のような艱難辛苦の末、映画がすべて出来上がると、その「映像」と「音声」は一本のフィルム(数巻)に納められる。
このフィルムはもちろん映像が収録されているわけだが、その横に音声が録音されたトラックがあり、これを「サウンドトラック」(Sound Track)という。
本来は、音楽以外のセリフやSE(効果音)などもすべて含む「映画の音の部分」なのだが、普通はサウンドトラックというと映画の「音楽」のことを指すことが多い。
本編の映画で使われた音源(シーンに応じてフェイドイン・フェイドアウトしていたり、加工されている)をそのまま収録したものが「オリジナル・サウンドトラック」。
対して、スタジオで収録されたオーケストラなどの演奏音源を収録したものを「オリジナル・サウンドスコア」と呼んで区別することもある。
(さらに、映画の時とは違う演奏者で録音し直した「サウンドトラックスコア」(オリジナルではない)というのもあるそうだ。)
今回の映画「ヴィヨンの妻」のサウンドトラック盤CDは、後者の「オリジナル・サウンドスコア」。映画本編では使われなかった楽曲も含め、加工される以前の録音時の状態で収録されている。
作曲家としては、映画本編こそが「完成作品」とも言えるし、こうして音楽だけをひとつにまとめたものこそ「作品」とも言えるが、共にちょっと不思議な距離感がある…と言うのが正直なところか。
映画においては「音楽」は空気のようなもので、特に印象に残らない方が普通と言えなくもない。
ただ、「音楽」の部分に注目して鑑賞することで、「映画」もまた違った見方が出来る。見慣れた映画を「音楽」という視点で見直してみると、新たな発見があって面白いかも知れない。
*
Cast
松たか子、浅野忠信
室井滋、伊武雅刀、広末涼子
妻夫木聡、堤真一
Staff
監督:根岸吉太郎
脚本:田中陽造
原作:太宰治
音楽:吉松隆
撮影:柴主高秀
照明:長田達也
録音:柿澤潔
美術監督:種田陽平
美術:矢内京子
編集:川島章正
衣装デザイン:黒澤和子
フードスタイリスト:飯島奈美
製作(C):フジテレビジョン パパドゥ
新潮社 日本映画衛星放送
★映画公式ホームページ:HP
☆サウンドトラック盤:CD
・BMG (アリオラ・ジャパン):BVCL29
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