生の音楽・煮た音楽
音楽を聴くのに「生(ライヴ)」が良いか「録音(CD)」が良いか、というのは良く知られた「究極の二択」だ。
まず正攻法なのが、こんな主張。
音楽の本来の形は「生演奏」であって、レコードに録音されスピーカーから流れてくるものは、音楽を「記録(Record)」したものに過ぎず、生で聴けない場合の代用品に過ぎない。
私の師あるいは父の世代はこれが文字通り正論だった。
例えて言えば、レコードは恋人の「写真」や「肖像画」のようなもの。本物がいない時の代用品あるいはいつでも思い出せるアイテムとしては有効だが、「本物の恋人」と比べるべくもない。
なるほど。そう言われてしまうと、議論はここでおしまいである。代用品が本物にかなうわけがない。
しかし、私はどちらかと言うと「代用品派」である。
なにしろ「生の本物」(コンサート)より「代用品」(レコードやラジオ)の方で音楽を吸収して育ったのだから。
そもそも極東の島国に住む貧乏苦学生としては、ベルリン・フィルやウィーン・フィルによるベートーヴェンの演奏やマーラーの交響曲やイタリア・オペラ、あるいはブリティッシュ・ロックやモダン・ジャズの演奏をそうそう「本物」で聴けるわけもない。物理的にも経済的にも不可能である。
だからチャイコフスキーもシベリウスもブルックナーもピンクフロイドもビル・エヴァンスもアストル・ピアソラも、私は全部「代用品」で聴き、感動し解析し、自分の中に吸収してきた。
さらに、レコードという代用品すらない音楽の場合は、「楽譜(スコア)」というものだけで「想像」して音楽を聴いていた。
かつては(ウォークマンやiPodのように)外に持ち歩けるような音楽を聴く道具はなかったから、カバンに入れて持ち歩くのは楽譜(スコア)であり、それをめくりながら頭の中で音楽を再生していたのである。
これなどはもう「代用品の代用品」。どこにも「音」は聞こえないまま、頭の中に音楽を満たすという「空想の音楽」とでも言うべきだろうか。
もし「生の演奏以外は本当の音楽ではない」ということになったら、私は「本当の音楽を聴いたことがない」ことになるだろう。
□音楽で世界を聴く
さて、「本物の音楽」などと簡単に言ってしまったが、そもそも「音楽」に本物やまがい物があるのだろうか、というあたりについて考えてみよう。
簡単に言ってしまえば「音楽」というのは、「音の組み合わせ」が生み出すニュアンスを、感性や感情とリンクさせて楽しむ「感覚的な娯楽」ということにでもなるだろうか。
細かく論じると壮大な物語になるので、それはここでは省くが、元々は「音」という情報の中に、人間が「安心」や「不安」を聞き取ったことから始まった。
原始の時代、例えば、「自分と同じ音域の声」を聴くことは、「仲間が近くにいる」という安心に繋がり、「鳥の声やせせらぎの音」のような音を聞くことは、「周りに危険な動物や事象が無く平穏なこと」を保証してくれた。
逆に、「甲高いノイズ」は仲間の悲鳴や危険な動物の鳴き声を暗示し、耳で聞こえる以下の「低周波」は、地震の地鳴りや野獣の接近の「危険」を告げる。音の微妙な変異は「命」に関わる問題であり、耳は世界を知るセンサーでありアラームだったわけだ。
この「耳」が感知する「音」は、ほぼ20Hz前後から20,000Hz前後(いわゆる可聴音域)。ゆえにCDに収録されているのも、この音域であり、20Hz以下・20KHz以上の音は「人間には聞こえない音」としてカットされている。
しかしながら、「音楽的な音」として人間が聴く音域はもっと狭く、例えばオーケストラでの最低音(コントラファゴット)が30Hzほど、最高音(ピッコロ)が4,000Hzほど。
さらに、「心地よい音」として認識するのは、人の声の音域(100Hzから1,000Hz前後)と言われている。
もちろん自然界には人間の可聴音域以上の高音(倍音や高周波)や以下の低音(低周波や振動)も溢れている。そちらは「耳で聞く」のではなく文字通り「肌で感じる」世界だ。
それらすべてを「感じる」のが(前述のように)「世界」を聴く行為ということになる。
一説には、「耳」(つまり頭の横に付いている一対の聴覚器官)というのは、単にもっとも使用頻度の高い「可聴音域」を感知するための部品にすぎず、本来は身体全体の「皮膚」そのものが「空気振動を感知する器官」なのだそうだ。
つまり、身体全体の皮膚感覚で「世界を感じる」ことが、「音楽」の起源であり、「耳」だけに聴こえるのは「世界の一部を切り取ったもの」、すなわち「音楽の一部」でしかないことになる。
ということは「音楽」が世界を表現するものだとすれば、単に「耳」で聞こえる可聴音域内の情報は「その一部」にすぎない。文字通り「肌で感じる」聴き方こそ、「本当の音楽」の「正しい聴き方」ということになりそうだ。
□体感する音楽
実際、生演奏のコンサートに接して、「これはレコードでは絶対味わえない世界だ!」と実感するのは「耳」以外の感覚に触れた時だ。
例えば「和太鼓」。レコードやCDではどんなに高音質でも、ドンドコいうだけの「音」しか聞こえないが、実際に目の前で聴くと、バチが叩き出すビートとともに空気が頬にあたり、低周波が皮膚から内蔵まで共振するのが分かる。
宮澤賢治の「セロ弾きのゴーシュ」で、ネズミの子がチェロの胴体の中に入り、ごうごうとなるその振動で病気が治ってしまう…というエピソードがあるが、まさにあの感じである。
耳には聞こえない低音(低周波)には確かに、皮膚や内臓や神経そのものを震わす。これはスピーカーやヘッドホンで再生可能な「音」とはレベルの違う効果があるようだ。
この低音のパルスによる効果は、特にロック音楽では著しい。大音量によるビートのシャワーは確かに内蔵や下半身を直撃して、聴く人をむりやり「興奮」の状態へと引きずり込む。
音量を上げることで、音は文字通り「空気の振動」となり、その音圧が心臓マッサージのように、心拍数を上げる効果を持つわけだ。
一方、クラシックのコンサートでは、逆に「高音」の伸びやかさが命だ。いわゆる「楽音」というのは、その音自体が440Hz(ラ)でも、その上に880Hz・1760Hz・3135Hz・6271Hz・12543Hz…というような「倍音」が重なっていて、その倍音の豊富さが「豊かな音」を生む。
そして、優れたホールは「楽器」と同じく、多くの楽器たちが奏でる倍音を調和させ、豊かな「響き」にまとめる。
だから、その中で音楽を聴くことは、チェロの胴体の中に入った子ネズミと同じで、ホール全体の響きに包まれ、豊かな倍音を身体一杯に浴び、身体ごと共鳴する快感を得られることになる。
確かに、耳に聞こえるのは「目の前のステージ上で発せられる音」なのだが、そこから放射される音の残響や倍音や共振が「空間」を感じさせるわけだ。
余談だが、むかし、FMの番組で「雪がしんしんと降り積もる」という音を録音した話を聞いたことがある。「何も音がしない」という状態を「録音する」というのは矛盾しているが、これが実に興味深い話だった。
もちろん何も音がしない以上、収録された音は「しーん」というホワイトノイズにすぎない。しかし、4チャンネルのスピーカーの中央に座ってこの音に180度ぐるりと取り囲まれると、まさに「雪がしんしんと降り積もる」音が聞こえるのだ。
実際、CDの録音でも、スタジオで楽器の音だけを収録した場合、どんなに素晴らしい良い音で録ってもそれは「狭い空間の響き」にしか聞こえない。だから、通常はそこに「残響(エコー)」と呼ばれるものを加える。そうすることでそこに(擬似的ながら)「空間」が生まれる。
さらに、ホールでの録音の際も、演奏のほかに「(何も音のしない)ホールの音」を録音し、それを重ねることがある。すると、そこに「広い空間」が聞こえてくるのである。
つまるところ、生(ライヴ)の世界には、単に「音」だけでない様々な情報が、聴き手を取り巻いている。
そして、「録音」の技術もまた、生の世界に迫るべく日進月歩で「単に演奏を収録する」だけでない世界へと進化を続けているわけである。
□音楽の聴き方の変化
こう考えてゆくと、例えば「最新の技術を駆使した録音」で収録された音楽を、極上のコンサートホールのステージ上に、オーケストラのように空間配置させたスピーカーで聴く…というのも、(採算はともかく)コンサートの形態としてもっと普及してもいいような気がしてくる。
確か1970年の大阪万博の時の「鉄鋼館」もそんなコンセプトだったし、これはオーディオ・マニアなら誰でも一度は抱く「夢」と言えるだろう。
ところが、21世紀における現実はちょっと違う方向に向かっている。
すなわち、「生」の演奏に匹敵するような高級な録音・再生装置をオーディオ的に求める…のではなく、音楽を「手軽に」「独占する」…という方向だ。
その始まりは、もちろんレコードの登場だろう。その後カセットテープの出現によりラジカセ(ラジオとカセット再生装置が合体したもの)やウォークマン(イヤホンで視聴可能な小型再生機器)が普及し、最近はデジタル録音技術によるCDやDVD、音楽をデータそのものとして受信再生するiPodやiTunesが、音楽の聴き方の最前線に浮上してきた。
その進化のポイントの一つは、音源と人間との「距離」だ。コンサートホールでは音源であるステージと聴衆の座る座席とは数メートルから数十メートルの距離があるが、それがスピーカーによる試聴では数十センチにまで近づき、ヘッドホンでは耳に直接音源が接触するまで近づいている。
・演奏視聴(コンサートホール) 数十メートル〜数メートル
・外耳視聴(スピーカー) 数メートル〜数十センチ
・内耳視聴(ヘッドホン・イヤホン)数センチ〜数ミリ
・脳内再生(鼻歌・想像) 距離ゼロ
これは重要なポイントだ。なぜなら作曲家や演奏家が、音源(音楽の想像や楽器演奏)に身体をほぼ接触させて一体化させている(もっともピュアでダイレクトな)状態…というのを、近現代の聴衆は科学技術の進歩によって「個人で」手にすることが出来るからだ。
それは、確かに「音」としてのより多くの情報量や「空間」あるいは「体感」には欠けるが、音楽との「一体化(自己所有)」と「アクセス」に関しては究極の利便性を手にしたということでもある。
なにしろ、ボタンを押したり画面をタッチするだけで、「好きな音楽」が「好きな時」に「好きな場所」で「好きなだけ」聴けるのだ。
それこそは、音楽創造者にしか許されなかった至高の贅沢である「音楽を自分の世界に取り込む」ことであり、音楽の究極の聴き方と言えるかも知れない。
私も実を言うと、最近の音楽の聴き方はほとんどiTunesであり、コンピュータに取り込んだCD数百枚ほどとネット配信でされる音源とをモニタースピーカーで聴くのが、おそらく音楽鑑賞の90%以上を占める。
LPレコードの時代は、「交響曲を聴く」と言ったら、30分なり40分なりを「音楽だけの時間」に設定し、ちゃんとソファなり椅子なりに座ってスピーカー(かヘッドホン)の前で腕組みしたりして聴いた憶えがあるが、今はそう言うことはすっかりなくなった。
交響曲どころか「テ・デウム」だろうが「ドイツ・レクイエム」だろうが「パルジファル」だろうが、仕事をしたり原稿を書いたりしながら、簡単に「アクセス」し視聴できるようになったのだ。まさに「夢」のような環境である。
こういう聴き方の出現で、「生」の音楽が脅かされ…あるいは、滅亡するのでは…と心配する向きも多いが、おそらくそれはないだろう。
ここまでくると、iTunesなどでの聴き方は「代用品」どころか、全く別の「新しい聴き方」であり、どちらかがどちらかを駆逐するというような関係ではなくなっているからだ。
おそらく問題はシェア(占有率)だけなのだ。(ただし、それが音楽関係者には死活問題なのだろうけれど…)
音楽を再生するメディアが「生に匹敵するような」方向に進化しているとすれば、確かに追いつき追い越された時点で「生」の存在理由はなくなる。
しかし、「生とは全く違った」方向に進化している以上、「生」の存在理由・存在価値は変わらない。むしろデジタルやネットの技術によって、「生」とは全く違った音楽の聴き方が普及すればするほど、「生」の存在理由は際立ってくるはずだからだ。
□生のデメリット
と、ここまでは「生」の優位性を認めてきたが、私としては最初に述べたように「代用品」派である。
それは、「生(ライヴ)」であることの問題ではなく、現在の「コンサート」という形態の抱える問題と言えるかも知れない。
例えば…
・音楽を聴く場所と時間を制限される
・楽曲を選べない。
・大勢の聴衆と場所を共有するためノイズから逃れられない
・狭い椅子に座り続けるストレスがある
コンサートは通常、平日なら夜7時から始まって9時頃終わる。これは普通の人が昼間は働いているという現代の社会状況に合わせた時間でしかなく、必ずしも音楽を聴くためのベストの時間とは言い難い。
むかし…電気がなかった時代は、芝居や音楽会も昼間の時間帯に行い、暗くなる時間に終演ということだったらしいが、そういうのがもっとあってもいい。
さらに、大勢の人の間に挟まれて2時間ほど身動きできない…という「閉塞感」があること。これは致命的な弱点だ。
そのうえ左右の耳で音楽を聴くのに、その左右の耳のすぐそばに他人がいる。これは、どう考えても音楽を聴くベストな状況ではない。
また、ホール中に生身の人間が数百人から千人以上びっしり座り、じっとして音楽を聴くというのも異常な状況だ。これだけ人数がいれば、いかに照明を落としてステージだけを照らし出したとしても、視界に入らないわけにはいかず、彼らの出すノイズや動きもかなり「音楽を聴く邪魔」になる。
もちろん携帯電話や雑談や紙袋のノイズなどなどのマナー違反の雑音は問題外だが、いつもにもまして「耳をすます」状態にあるのに、そのまわりに千人前後の人間がいるのでは「静かさ」を確保出来るはずもなく、どこかで「我慢」を強いられる。
そのうえ、開演と同時にドアを閉められて閉じ込められれば「閉所恐怖症」がむずむずするし、両側を他人に挟まれると(まるで挟み将棋の駒になったような気分になる)「はさまれ恐怖症」というのも発症しそうになる。いや、冗談でなく。
(またまた余談ながら、そんなコンサート嫌いの私が唯一の例外としてせっせと通っていたのが、現代音楽のコンサートだった。もちろんレコードで聴けない超マイナー音楽が聴けるということもあるが、いつもガラガラで客がいないので開放感があり、座席も自由なら出入りも自由でノイズは舞台の上だけ…というのが、私にとっては「天国」だったのだ。いや、冗談でなく…)
と、もちろんこれらは個人的で勝手な言いぐさにすぎないが、生(ライヴ)のコンサートにはある種の「我慢」が必要であることは否定できない事実だ。
なにしろ最大のメリットである空間性は「閉塞感」で失われ、大勢の聴衆と音楽を共有することのデメリットも受け入れざるを得ないのだから。
このあたりを気にし出すと、かつてグールドやビートルズがそうだったように、余計なノイズがなく時間に縛られない「スタジオ」こそが最高の場であり、それを収録したCDなどの加工されたメディアこそが完璧な「音楽」だ…という結論を出す音楽家も出て来ることになる。
さらに聴き手の側も、座席の位置やほかの聴衆の存在に惑わされることなく、いつでもアクセスできベストポジションで鑑賞できる個人所有の「完璧な音楽」を追い求めるようになる。これも自然の流れだろう。
□ライヴの生命
しかし、(にもかかわらず)この「時間と場所に縛られ」「聴衆の存在に惑わされる」ということこそが、実は「ライヴ」のもっとも重要な、そして最大の魅力なのだから困ってしまう。
なにしろ「ライヴ」は、時間と場所に縛られているからこそ一回こっきりでやり直しがきかない「緊張感」があり、聴衆がいるからこそその反応によって変化する「間合い」や「ニュアンス」があり、それらが織りなす「空気」と舞台と客席との心が通い合ったときに生まれる「共感」があり、それらが織りなす「音楽が生まれる瞬間」に立ち会う「感動」を得ることが出来る。
ステージに一度でも上がった経験のある人は、客席から返ってくる反応の「ぞくっ」とする(リアルタイムの)皮膚感覚を知っているはずだ。こればっかりは、どんな高性能メディアでも再現できない。
そして、自分の出す音で客が微笑んでくれたり涙を流してくれている…と感じた時の高揚感は、「100%完璧な音楽」とは違う「プラスアルファ」を放射する。
これを感じたいがゆえに人はライヴに行く。それは単に「音楽を聴く」ためだけの行為ではなく、演奏者と聴衆とが共同で作り上げる「祭」に立ち会う行為であり、そこは「生身」の演奏者たちの前に「生身」の観客がいるからこそあり得る「一期一会」の空間である。
これに立ち会うことこそがライヴでしか味わえない醍醐味であり、なんだかんだ言っても多くの人がライヴのコンサートに行ってしまう最大の理由なのだろう。
* * *
■コンサート紹介 これぞライヴで! 2010年
■悠久の古都プラハが世界に誇る
巨匠&名門オーケストラによる
名曲の夕べ
ズデニェク・マーカル指揮 プラハ交響楽団
1月11日(月) 14時開演 横浜みなとみらいホール
スメタナ:「モルダウ」~連作交響詩「我が祖国」より
モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 第5番 「トルコ風」
ヴァイオリン:千住真理子
ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調「新世界より」
1月12日(火) 19時開演 東京オペラシティ コンサートホール
スメタナ:「モルダウ」~連作交響詩「我が祖国」より
ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 作品104
チェロ:長谷川陽子
ドヴォルザーク:交響曲第9番ホ短調「新世界より」
1月14日(木) 19時開演 サントリーホール
シューベルト:交響曲第8番ロ短調「未完成」
ショパン:ピアノ協奏曲第1番
ピアノ:仲道郁代
ヤナーチェク:シンフォニエッタ
■ニュー・イヤー・コンサート2010
ペーター・グート (指揮&ヴァイオリン)
森 麻季 (ソプラノ)
ウィーン・シュトラウス・フェスティヴァル・オーケストラ
1月11日(月・祝) 14時開演 ミューザ川崎シンフォニーホール
1月13日(水) 19時開演 サントリーホール
ヨハン・シュトラウスⅡ:「こうもり」序曲
ヨハン・シュトラウスⅡ:「こうもり」より
“公爵様、あなたのようなお方は”★
“田舎娘をやるときは”★
ヨハン・シュトラウスⅡ:ポルカ「クラップフェンの森で」
ヨハン・シュトラウスⅡ:ワルツ「春の声」★
レハール:「メリー・ウィドウ」より“メリー・ウィドウ・ワルツ”
ヨハン・シュトラウスⅡ:ワルツ「美しく青きドナウ」
ヨハン・シュトラウスⅡ:「皇帝円舞曲」
■エヴァルト・ダネル (芸術監督・ヴァイオリン)
錦織 健 (テノール)
スロヴァキア室内オーケストラ
2月9日(火)19時開演 東京オペラシティ コンサートホール
2月11日(木・祝)14時開演 横浜みなとみらいホール
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より、「春」
ヘンデル:オラトリオ「メサイア」より
バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番 ト長調
ヘンデル:歌劇「セルセ」より“オンブラ・マイ・フ”
ヘンデル:歌劇「リナルド」より“私を泣かせて下さい”
メンデルスゾーン:弦楽のための交響曲第10番 ロ短調
モーツァルト:歌劇「後宮からの逃走」より”おお、コンスタンツェ、おまえにまた会えるとは”
フンメル:メヌエット
モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」より“恋人を慰めて”
モーツァルト:歌劇「魔笛」より“なんと美しい絵姿”
モーツァルト:セレナード K.525 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク
*
月刊「クラシック音楽探偵事務所」が本になりました。
講談社+α新書(プラスアルファしんしょ)「クラシック音楽はミステリーである」。
バッハとショスタコーヴィチの暗号、ドン・ジョバンニ殺人事件、作曲家と連続殺人犯の共通項、トゥーランドットの深読み、などなど連載された原稿を軸に大幅に加筆したミステリー仕立ての全5編。
12月21日発売。定価:¥838(税別)。
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