リズムについてのあれこれ(後編)
前回はリズムの基本「(直進する)2拍子」と「(回転する)3拍子」についての(勝手な)私論を述べたが、今回はその展開形を少し。
■リズムのバリエーション
西洋クラシック音楽は、ハーモニーや対位法においてはかなり高度な次元にたどり着いたが、ことリズムに関しては「2つ(4つ)」か「3つ」しか数えない不思議な低空飛行を続けてきた(ような気がする)。
アンサンブルの最高峰たる〈オーケストラ〉ですら、リズム・セクションは数百年にわたってティンパニとシンバルどまり。
そもそも「管弦楽」というくらいで「打楽器」に関しては二の次三の次。「和声法」や「対位法」に関する研究は膨大に成されているものの、「リズム」に関しての探求はほとんど聞いたことがない。
確かに「クラシック音楽」というのは(教会オルガニスト出身のバッハが「音楽の父」と呼ばれるように)お堅い「教会音楽」から派生したもの。
お祭り空間で演奏される「世俗音楽」などと違って、「リズムのノリ」などという下俗な(下半身的な)ものには関心がなかったのか、それとも意識的に避けてきたのだろうか。
それでも、四分音符あるいは八分音符だけで(アンサンブル命の)音楽を作るのは、さすがに面白くないと感じていたクラシックの作曲家(例えばベートーヴェン!)もいたに違いない。
やがて(五線譜の上に)「付点」のリズムが登場することになる。
◇付点リズム
ちなみに、「付点リズム」とは、1拍を「2:2」に等分するのではなく、「3:1」に分けるリズム。
これは、そもそもは「リズム」として生まれたのではなく、対位法主題を書くときの記譜上の約束事にすぎなかったように思える。
賛美歌などでスローテンポで歌われる限り、単なる3拍と1拍の音符の経過に過ぎないからだ。
しかし、アップテンポで繰り返すと、そこにある種の呪術的な「ノリ」(グルーヴ感)が発生する。
裏拍を「3:1」というバランスでずらすため、リズム拍の重心が後ろに移動する。このことが、スキップするような効果を生み出すわけである。
これを最大限に利用したのが(おそらく)ベートーヴェンだ。
最初はピアノの即興演奏でのバリエーション(変奏)のひとつとして取り込んだものだったのが、やがてこの付点リズムによる「ビート感」の表現に没頭するようになる。
例えば、有名な第7交響曲で全編にわたって聞こえるのが、この付点リズム。第9のスケルツォにもあちこち登場する。
ベートーヴェンの音楽が、その先輩筋にあたるハイドンやモーツァルトと決定的に違うのは、この付点リズムによるビート感・グルーヴ感を純音楽に導入したことが大きいことは間違いない。
それによって、ベートーヴェンの音楽は現代にも通じる「ビート音楽」のテイストを持つことになったわけだ。
◇6/8リズム
ちなみに、この「付点音符」、楽典上では「3:1」のリズムということになるのだが、あるいは、こう書いて「2:1」のスウィングするリズムを表すこともあったのかも知れない。(現実的には、アップテンポになった場合、「3:1」と「2:1」のスキップ感の差を聞き分けるのはかなり難しい。)
実際、ベートーヴェンは「6/8拍子」を使って、この「2:1」のスウィングするリズム(♩♪)を登場させている。
例えば、ヴァイオリン協奏曲のフィナーレ(ロンド)の主題。まさにスウィングするノリのリズムが奔流となる名品だ。
ちなみに、(前回述べたように)直線的な「4拍子」より、そのなかに「3」を内包することによって、ワルツ的な円運動(前回述べた揺れるリズム感)を取り込むことが出来る。
とすれば、「3:1」の付点リズムより、「2:1」のスウィング・リズムの方がよりグルーヴ感を得られる理屈になる。
ただし、西洋音楽の通常の五線譜記譜では、4拍子の楽曲の中にこの「2:1」のリズムを持ち込もうとすると、当然ながら三連符の連続になる。記譜するとこんな感じになり↓ひどく煩雑だ。
そこで、ジャズなどの記譜の場合は、すべて八分音符で書いて「Swing !」と付記したり、こんな風に書いたりする。
要するに、西洋クラシック音楽において「リズム」が発達しなかったのは、五線譜という記述法が「向いていなかった」ことも理由のひとつと言えなくもないわけだ。
だから、もしかしたらモーツァルト以前のクラシック楽曲でも(譜面の上では単に八分音符や付点音符として書かれているだけで)実は「スウィング」して演奏されていた可能性も無いとは言えない。
昔からそんな気がしてならないわけである。
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■リズムの「崩し方」
ところで、この「リズム」。一定の繰り返しに乗ってビートを刻み続けるのはきわめて心地よいのだが、ずっと同じ心地よいリズムを刻んでいるとさすがに人の耳は飽きてくる。
ハーモニーにしてもそうだ。トニカ=協和音(例えばドミソ)は心地よいが、ずっとドミソが続く音楽ではいくらなんでも退屈だ。
そこにドミナント(例えばシレソ)あるいは不協和音が挿入されることによって、協和音の心地よさが倍増する。これがハーモニーの基本である。
リズムもそれに似ている。
回転する3拍子はともかく、直進する2(4)拍子は、ある種の「気分転換」を必要とする。
そこで、リズムのドミナントというべき様々なリズム崩しのテクニックが登場するわけである。
◇シンコペーション
リズム崩しの基本は、強拍を外すシンコペーションから。
これは、ビートの裏拍(弱拍)にアクセントを置くだけのシンプルな技である。
しかし、これによって4ビートは事実上8ビートになるわけで、微妙な推進力が音楽に与えられる。
モーツァルトのニ短調ピアノ協奏曲の冒頭などは印象的な好例。「リズム崩し」の第一歩である。
◇臨時アクセント
次いで、文字通りの「崩し」に近いのが、アクセントを「外す」技。
通常、一番大きなアクセントは「1拍目(小節の頭)」、次が「3拍目」というのが基本だが、これを外す。
つまり「2拍目」や「4拍目」にアクセントを付けるわけである。
これによって、聴き手に軽いショックを与えることが出来る。
そして「一定不変のリズム」への安心感を壊すことで、一種の「(心地よい)緊張感」を聴き手に(そして演奏者にも)与える。
この臨時アクセントをシンコペーションと組み合わせることで、膨大なリズム・パターンが生まれる。
そのリズム・パターンが地方の特色となり(例えば、タンゴやサンバのように)伝統となるわけだ。
一方、完全にランダムに崩しアクセントを入れると、全編にわたって緊張感を持続させることになる。
これは後の「変拍子」に繋がる。
◇だましリズム
このリズム崩しのバリエーションのひとつが、4拍子の中に、3拍単位のリズムを紛れ込ませる「だましリズム」。
4拍子は、2小節単位だと「4+4」で8拍。これを、例えば「3+3+2」というアクセントで刻む。
3拍子と思わせて、実は4拍子の枠(3と4の共通の倍数の拍数)に収める。だから「だまし」リズムというわけである。
もう少し凝ったものだと、8小節の「4+4+4+4」という16拍を使って、「3+3+3+3+4」というような(気付くのに少し時間がかかる)「だまし」リズムを作ることも出来る。
(譜例:ゴーストバスターズ)
そう言えば、歌謡曲でも「とんでとんでとんでとんでとんでとんで…」と3拍連打を組み込んだ意欲作があった。
■変拍子
◇複合拍子
ところで、民族音楽あるいは近代音楽には、「5拍子」や「7拍子」などの変則的なリズムが時々見られる。
多くの場合、4(2)拍子と3拍子の混合(複合)。つまり「2+3」なら「5拍子」、「4+3」なら「7拍子」になる。
一見ひどく複雑そうに思えるが、例えば民族舞踊のダンスの中で「手をしゃんしゃんと叩いて(2拍子)、ぐるっと回る(3拍子)」というようなアクションを考えた時、これは「1・2」+「1・2・3」の「5拍子」こそがきわめて自然であることに気付く。
先にも書いたように、人間にとっての基本は「1、2、3」まで。そして踊る振付の基本は「直線的なステップ」と「回転するステップ」の組み合わせである。
とすれば、リズムの基本が「踊る」…という点にある以上、振付やアクションと密接に関わるリズムが、複合拍子になることは、別に不自然でも何でもない。
さらに、この複合の具合が、民族独特の「踊り」と「音楽」に結びつくことも当然と言うことになるだろうか。
◇ポリリズム
この複合拍子をアンサンブルとして複数組み合わせると、「ポリリズム(複リズム)」になる。
この「ポリリズム」というのは、現代音楽の手法としてはストラヴィンスキーが「ペトルーシュカ」で全面的に取り入れた例が有名。
これは、例えば4を刻んでいるリズムの上で、5拍や7拍単位のメロディやパッセージを重ねて鳴らす手法。複数のリズムがポリフォニックに複合して同時進行するわけである。
これも、2つの並行ポリくらいなら一種の崩しリズムに聞こえるが、3つ4つと重なってゆくとある種のカオスに聞こえてくる。
(実際、ストラヴィンスキーが目指したのも、様々な舞曲があちこちから聞こえてきて雑踏になってゆく描写であり、その点では見事な使い方だ)
◇変拍子
そのさらなる進化形として、近代(現代)になって登場した特殊なリズムに「変拍子」というのがある。
これは「4拍子」「3拍子」「5拍子」ところころ拍子を変える作曲法で、いわばリズム崩しの究極に当たるもの。
演奏者にとっては、1小節ごとに拍子が変わるので、安心できず大変な音楽だが、それもそのはず。その裏には「ずっと4拍子や3拍子が連続すると演奏する方もルーズになるので、緊張感を保つため」リズムを変則的にする…という作曲者の思惑もあったりする。
ある意味では、人間にとっての「1、2、3まで」という限界を超えた音楽への挑戦と言えなくもない。
もっとも有名な、そして凄まじい変拍子の例は、かのストラヴィンスキー先生の「春の祭典」だろう。
1970年代のプログレッシヴ・ロックと呼ばれるジャンルでも一世を風靡したリズム技法だが、リズムというもっとも「直感的」な世界に、数学的な「知性」を持ち込んだギャップが、人間の音楽のある種の臨界を感じさせて秀逸だった。
(なにしろ、変拍子というのは、その作品におけるリズムの「数列」を知っていなければアンサンブルは100%不可能。
リズム感という直感の通用しない「知的でマニアック」な音楽空間を作るには最適の音楽語法と言えるかも知れない。)
◇非可逆リズム
一方、20世紀の現代音楽界では、音階の12の音を数理的に処理しようとした「12音主義」のように、リズムも数理的に処理することが試みられた。
例えば、「34217」というような数列からは↓このようなリズム(と言えるのかどうか分からないが)を作ることが出来る。
そして、このリズムを逆行させると、別のリズムが出来る。
このようにして出来たリズム主題?を12音列と組み合わせることで、完全に数理的な作曲法による音楽作品を書くことが可能ということになる理屈である。
そこで、メシアンは、このような逆行リズムの解析から、順序を逆さにして生まれるようなリズム(回文「たけやぶやけた」…のようなもの)を「非可逆リズム」などと呼んで、その作品の中に組み込んだ。
(ちなみに、逆さから演奏しても同じになるなら「可逆」リズム…と言いそうだが、逆から演奏しても違うリズムにならない(同じリズムになってしまう)=逆行しても意味がない=逆行不能=非可逆リズム…ということなのらしい)
ただし、これも12音列と同じく、楽譜上では「楽しい音符の遊び」として機能するものの、音楽として耳で聞く限りにおいては認知不可能。(言うなれば「非認知リズム」・・・?)
どうも、この方向でリズムを「数学的に」もてあそぶのは、不毛と言わざるを得ないようだ。
◇俳句とプレイアデス拍子
などと言いながら、私も「プレイアデス舞曲集」を始めとして、かなり「変拍子」を多用している。
と言うより、現代に生きる作曲家としては「なぜ最初から最後まで1.2.3.4と数えながら音楽を書くのか分からない」というのが本音である。
なぜなら、音楽以外の世界では「ずっと4ばかり」とか「ずっと3ばかり」などという数字の連続は不自然以外の何者でもないからだ。
例えば、俳句の5・7・5、短歌の5・7・5・7・7…など、耳に心地よいリズムを持つが、西洋音楽風に言えば「5/8、7/8、5/8」という不自然な変拍子ということになる。
私たちが普通に話している「ことば」も、すべて「4」に押し込めたとしたら、きわめて不自然だ。
例えば、上記のセリフ、無理やり4拍子にはめると「なぜさい、しょからさ、いごまで、いちにい、さんしと、かぞえな、がらおん、がくをか、くのかわ、からない」となる。まるでラップだ。
しかし、普通に話すときは「なぜ、さいしょから、さいごまで、いちにいさんしと、かぞえながら、おんがくを、かくのか、わからない」。
これを拍子に直すと「2/8、5/8、5/8、8/8、6/8、5/8、4/8、5/8」という変拍子になる。
並べると、きわめて不思議な数字の羅列になるが、耳に響くリズムの流れは心地よい。と言うより、こちらの方がはるかに自然である。
もっとも、歌にする場合は、さすがに変拍子の歌というのは難しいので、4拍子にはまるように歌詞の並びを組み直す。
この歌詞だとこんな感じか。
ただ、このような「なんでもかんでも4つに数える症候群」(略して「なん4症」)には、ちょっと危惧を感じ始めている。・・・
■4拍子の弊害
そもそも(これも前回も述べたことだが)、現代おいて音楽の「グローバル・スタンダード」のような顔をして世界中に繁殖している「4拍子」、実は決して人類の音楽の基本ではない。
それは「英語」に似ている。確かに英語は、現時点で「世界的な汎用言語」であり、国によっては「公用語」。しかし、それぞれの民族が昔から話しているのは(現在でも)それぞれの民族の言語であり、英語だけが世界を記述する言語ではない。
同じように、現在、欧米のポップスが広く世界中で聴かれているため、その基本となる「4拍子」の音楽が汎世界的に広がっているが、多くの民族音楽は決して「4拍子」を基本としていない。
日本にこの「4拍子」が入ってきたのは、おそらく明治時代。それ以前の民謡や祭りのビートは(4つに数えるなど思いも寄らない)違ったリズムで出来ていたことは間違いない。
実際、何度か日本の伝統芸能や民謡や踊りの音楽に接したとき思い知ったのは、「世界は4つになど数えていない音楽だらけである」ということであり、「よそ者にはどういうビートで数えているのか分からない音楽」にあふれているということだった。
例えば、こんな民謡の一節(刈干切唄)。メロディラインは、歌詞・息の長さなどによって伸び縮みするため、どうがんばってもそこから「拍節」を抽出できない。↓
しかし、作曲家の性として、どうしても「どういう構造になっているのか?」「楽譜にするとどうなるか?」が気になって仕方がない。
さらに、楽譜に組み込んでアンサンブル化するためには、とにかく「小節」の中に音符として封じ込めなければならない。
そこで、「採譜」された楽譜というのを見てみる。
すると、そこにあるのはメロディの形骸だけ。
あの魅力的な旋律が、2拍子や4拍子で区切った途端に、なんともつまらない譜面になってしまうのである。
残念ながら、4(2)拍子で五線譜に記譜された民謡は、その瞬間に「生命」を失ってしまう。
メロディはリズムで封じ込めることは出来ないのである。
◇ビート音楽汚染
かつて、アジアやアフリカなど非ヨーロッパ文明を植民地化するに当たって、西洋諸国(スペインやイギリスといった国々)は、キリスト教の布教に専念したり、タバコや嗜好品などで懐柔したりした。
それでも、なかなか伝統的な民族的宗教観や価値観を西洋化するのは難しい。そこで多くの血が流されたわけなのだが、20世紀になって、奇妙な「全世界西洋化」のアイテムが、非ヨーロッパ文明を懐柔し破壊するのに一役買うことになった。
その「最強」の武器が「4ビート」の音楽なのだとか。
なにしろどんな未開の文明の住人(特に若い世代ほど顕著なそうだが)も、ラジカセでビート音楽を聴かせると、3日でその虜になる。そして、100年続いた自らの伝統音楽をすっかり忘れてしまうのだそうだ。
その破壊力を「武器」と呼ばずして何と言うべきだろう。
かく言う私も、1960年代にロック・ミュージックが登場した時、(自分の国の伝統音楽などほったらかして)熱狂し、新しい時代の汎世界音楽が生まれたと感じたことを思い出す。
しかし、当初は旧態依然の古い音楽に対する新しい世代の台頭だったこの「ビート音楽」は、その後、コンピュータによるデジタル・ビートが登場してからは、ある種の「汚染」と呼んでも良いような侵食を世界中の文明に対して見せ始める。
そして、気が付くと、テンポの変化(緩急やフェルマータ!)が全くなく、一定のパルスを延々と刻み続けるだけの音楽が世界中に蔓延し、それ以外の音楽を見つけるのがほぼ不可能になった現状がある。これはちょっと由々しき事態なのかも知れない。
もちろん、リズム(ビート)が生み出すこの「音楽の力」は、「世界中の民族、すべての人類が同じ音楽によってひとつになる」という言い方をすれば、素晴らしくも理想的な「夢の実現」と言えなくもない。
しかし、「それ以外の音楽をすべて忘却(絶滅)させる」という側面があることに思い至ると、「ちょっと待てよ」という気になる。
いわく「音楽に国境はない」
いわく「音楽は世界の共通言語である」
この美しくも素晴らしいテーゼは、実は恐ろしい裏の部分を秘めている。そのことに気付くと、音楽は「怖い」側面を帯びてくるのである。
…と、リズムについてあれこれ考えているうちに、ちょっと暗い結論に辿り着いてしまった。
*
■ベルリン放送交響楽団
指揮:マレク・ヤノフスキ
・シューベルト:交響曲第7番「未完成」
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調(p:ラファウ・ブレハッチ)
・ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
2009年2月9日(月)19:00開演 サントリーホール
・ベートーヴェン:エグモント序曲
・ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調(vn:樫本大進)
・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調
2009年2月13日(金)19:00開演 サントリーホール