モーツァルトのピアノ協奏曲な世界
クラシック音楽を聴き始めた十代の頃、「好きな作曲家」の中にモーツァルトは入っていなかった。
苦手とか嫌いとか言うのではなく「存在感のない音楽」という感じだったと言えばいいだろうか。
当時はと言うと、チャイコフスキーやシベリウスの濃厚な抒情に魅了され、超重量級のワーグナーの「ニーベルングの指輪」やブルックナー&マーラーの交響曲全集そしてショスタコーヴィチやストラヴィンスキーなど20世紀の音楽に血道を上げていた頃。軽やかなモーツァルトの音楽はあまり「本格的な音楽」には聞こえなかったということかも知れない。
ただ、そんな頃、先輩の一人がこんなことを言っていたのはよく覚えている。
「でも、朝起きたらモーツァルトのピアノコンチェルトがラジオから聞こえてくる。それに勝る幸福な瞬間はちょっとないと思うよ」
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その後、難解複雑な「現代音楽」の世界を経て、作曲家として独り立ちし始めた頃、その真逆とでも言うべきシンプルさを持ったモーツァルトの音楽に魅せられるようになった。
特に惹かれたのは、ディヴェルティメント風の軽やかな楽想のアンサンブル曲(…ニ長調のディヴェルティメントやフルート四重奏曲…)だ。そのアレグロは、青空の下を疾走するような比類のない軽やかさと美しさを持ち、音が「美しく」「軽やかに」存在する以外なにもない…という究極の自然体と言うべき世界である。
特に、(朝、至福の目覚めを約束してくれる)ピアノ協奏曲は、自分の音楽の中でひとつの夢のような目標となった。だから、私の「メモ・フローラ」という名のピアノコンチェルトは、変ロ長調のコンチェルト(第27番)に魅せられるあまりそのオマージュとして書かれている。
なぜモーツァルトのピアノコンチェルトか…というのは、一言では説明しがたいが、西洋クラシックの古典で「硬派」の代表と言えば、それはもう何と言ってもベートーヴェンの9つの交響曲。それに対して、「軟派」の代表というと・・・それこそが、モーツァルトのピアノ協奏曲ではないか、と思ったわけなのだ。
なにしろ、その「なよっ」とした軽やかさはベートーヴェンのそれとはまさに対照的。(極端に言えば)質量ゼロ、エネルギー・ゼロの世界である。
ストリングスと木管の織りなす柔らかなサウンドの上を、ピアノがまるで宝石の粒のような音でころころと銀のしずくを落としてゆく。
それは、まるで朝日を浴びた木々の緑のような、果てしなくピュアな世界だ。
もちろん「交響曲」のような、世界を構築する響きを全身全霊で組み立てる「硬派」の音楽とはまったく対照的な「軟派」の音楽だが、それが朝起きた途端に陽光と共に聞こえてきたら、…それは確かに「この世の幸せ」というべき瞬間に違いない。
■モーツァルトのピュアさ
しかし、モーツァルトという作曲家には(出会いの最初から感じていたように)どうも存在の希薄なところがある。
その証拠に、〈西洋クラシック音楽史〉の中でのモーツァルトは、必ずしも常に「大作曲家」の地位にいるわけではない。
以前、畏友:西村朗氏と古今の作曲家を診断する対談本を作ったとき、モーツァルトについて「毒にも薬にもならない〈最大公約数的な音楽〉」という、ちょっと悪口っぽい評価で意見が一致したことがある。
確かに彼の名は「天才」の代名詞であり、その音楽は多くの人に愛されている。なにしろ「音の純粋な心地よい響き」だけで出来ていて、聴き手に「思想を押しつけること」も「理解を強いること」もしないのだから、嫌われる理由もない。
しかし、それは逆に言うと、「なにも引っ掛かるところのない(空気や水のような)音楽」ということでもあり、万人に好かれるけれど魂を揺さぶるわけではない、要するに「思想や内容が全くない音楽」というとらえ方も出来ることになる。
さらに「モーツァルトみたい」というと、若くして才能を持った音楽家への最高の賛辞であり「輝かしい才能」の代名詞である。
しかし、それは逆に言うと、それ以降の年齢や経験を経ての「円熟」や「深さ」は感じさせない(もっと言えば、子供のまま成長を止めている)ということでもある。
水のようにピュア(純粋)…ということを、「不純物のない天からの授かり物」とプラスにとるか、「毒にも薬にもならない内容のないもの」とマイナスに取るか。
それは、聴く人の音楽観や世界観(そして「ひねくれ方」)と同時に、時代や社会の風潮にも大きく左右されるようだ。
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実際、ベートーヴェン以降のロマン派の時代には、モーツァルトの音楽は(愛好者は多くいても)必ずしも高い評価を受けてはいない。
ロマン派の時代というのは、「音楽」というのは音だけの享楽を求める「娯楽」にあらず、人間や世界や思想を象徴し代弁するもの…すなわち「芸術」であるべきだ…という時代である。
ただ「きれい」であったり「優美」であるだけでは意味はなく、そこに「人間そのものの有り様」や「思想」や「感情」や「苦悩」が刻印されていなければ、価値は認められない。
ただ水のようにピュアでは、ダメなのである。
そう言えば、明治の日本でも、西洋文明を代表する音楽としてまず入ってきたのはベートーヴェンやワグネル(ワーグナー)のような向学心や愛国心を鼓舞するようなドラマチックな作品だった。
モーツァルトも愛好されていたが、それは初心者向けか(鹿鳴館などの社交場でBGMとして演奏されるような)軽音楽扱いだったと言っていい。
富国強兵・西洋に学び、追いつき追い越せ…という青雲の志に燃えた明治の日本とすれば、音楽もまた世界観を広げ心を高揚させてくれるような壮大なヴィジョンを持つものが最高であり、モーツァルトのような軽やかで貴族趣味の「軟弱な音楽」は評価されなかったわけだ。
(一説には、ベートーヴェンとモーツァルトの評価の高低で、社会情勢が分かるという。戦争や革命や激動の時代にはベートーヴェンが、逆に平和でセレブで軟弱な時代にはモーツァルトが愛好されるのだそうだ)
しかし、第二次世界大戦後、彼の短調の曲に漂うかすかな「無常観」について小林秀雄が「モーツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない」などと書いたあたりから、日本人のモーツァルト観は決定的に変化し始める。
■モーツァルトの暗い一面〜疾走する悲しみ
そのせいか、今でも、モーツァルトのピュアさに紛れ込んだ晩年の「翳り」こそ、彼の音楽の魅力だという人は多い。
確かに、モーツァルトのト短調の哀愁や、ニ短調の闇からの光、ハ短調のくすんだ暗さ…は、素朴で古風な「ロマン派」的な世界ながら、心惹かれる暗いファンタジーの世界を広げてくれる。
後の本格的なロマン派の仰々しさや物々しさがなく、軽やかさが残っているのも魅力だ。
実際、ワーグナーやブラームスが闊歩していたロマン派王道の時代にかろうじて評価されていたモーツァルト作品は、ニ短調のピアノ協奏曲(第20番)やト短調のシンフォニー(第40番)、あるいは歌劇「ドン・ジョバンニ」のような「短調」で書かれた作品だった。
そもそもモーツァルトの時代、音楽とは「芸術」などという大層なものではなく、聴き手を心地よくさせる「娯楽」だ。彼の音楽の大部分を「長調」の響きが占めているのも、そのせいである。
楽器(特に弦楽器、そして管楽器)は、その響きの基本に自然倍音がある。そこから生まれる(いわゆるドミソドの)長音階こそが、最も楽器を美しく鳴らす響きだったわけだ。(そのあたり詳しくは「作曲家はどうやって調性を選ぶのか?」を参照)
そんな伸びやかな自然倍音たちが醸し出す「長調」の響きに、一音あるいは二音ほど「濁った」音を差し込むのが「短調」。だから、その響きは(かすかな違和感として)「不安」や「悲しみ」を感じさせる。
現代では「長調」は「明るい響き」、「短調」は「ちょっと暗い響き」などと軽く説明されるが、モーツァルトの時代には「短調」というのは「不協和音」ぎりぎりの世界だったと言っていいかも知れない。
それを敢えて使うというのは、音楽にサスペンス色やミステリー色を加えるちょっとした「味付け」だったわけだ。
果たしてモーツァルトがどこまで「芸術的必然」に駆られて自分の音楽に「短調」を組み込んだのかは分からない。ただ「長調」ばかりでは「何の悩みもないおバカな世界」にしか聞こえない。そのあたりはモーツァルト本人も重々分かっていたわけなのだろう。
そこで、29歳の時のニ短調のピアノ協奏曲第20番あたりから、モーツァルトは意識的に「短調」の世界に踏み込む。
しかし、これは当時の彼の音楽のファンにとっては「不協和音で曲を書き始めた」みたいなものだったらしく、あっと言う間に人気急落。定収入を得られるはずの予約演奏会にも客が集まらなくなり、晩年の「不遇」「貧乏」そして35歳という若さでの夭逝に繋がってゆく。
まさに「デーモン(音楽の悪魔)」に魅入られたわけなのだが、間接的にモーツァルトを殺すことになった不人気なこの「短調」の世界が、続くロマン派の時代には彼の音楽を生き延びさせる命綱になったというのは、幸運と言うべきなのか、あるいは皮肉な話と言うべきなのか。
■ピアノ・コンチェルトの誕生と量産
ちなみに、モーツァルトのピアノ協奏曲は、番号付きのもので第27番まである。
最初が17歳の時に書いたニ長調(第5番。それ以前の作は他人の曲の編曲らしい)。しかし、十代の頃はヴァイオリン協奏曲が多く、本格的にピアノ協奏曲の世界に踏み込んだのは、20歳を過ぎて音楽家として独り立ちしてから。
その理由は簡単で、自作発表の「予約演奏会(今で言う「定期演奏会」)」で自作自演するため。
つまり、作曲家としての存在をアピールするため、100人強くらいの聴衆を予約者(定期会員)として集め、アンサンブルを指揮したり自分でピアノを弾いたりして「新作」を披露するわけだ。
そういうコンサートを定期的に開くことによって、定期会員からの「予約金」という定収入が得られる…という経済的理由がひとつ。
さらに「作曲のテクニック」と「演奏の腕前」を聴かせ、一流の音楽家としてもっと大きな仕事(オペラや宗教曲の注文や、どこかの楽士長の役職など)を得る。それは芸術活動であると同時に「就職活動」でもあったわけで、それには〈ピアノ協奏曲〉というのは打って付けだったわけだ。
実際、1782年(26歳)から86年(30歳)までの4年間で第11番から25番までの15曲が固め書きされている。
この量産期から外れるのは、21歳の時の第9番「ジュノム」と、30歳を過ぎた晩年の2曲(第26番「戴冠式」と最後の第27番)くらいだ。
名作として知られるのは、短調の世界に踏み込んだドラマティックな第20番(ニ短調)から以降、明朗な第21番(ハ長調)、絶品のアダージョを持つ第23番(イ長調)、暗いロマンを描く第24番(ハ短調)、「戴冠式」という名で知られる華やかな第26番(ニ長調)、そして最後の微光を放つ孤高の第27番(変ロ長調)。
ただし、彼の時代のピアノは現代のような「グランド・ピアノ」ではなく、5オクターヴ60鍵ほどの中型サイズの鍵盤楽器(ロックバンドなどがステージで使う〈キイボード〉のサイズ)である。
足で踏むペダルはなく、鍵盤の下に着いているダンパー(弦の残響を止める)バーを膝で押すのみ。(詳しくは「ピアノの300年史」参照)。当然、大ホールで大きなオーケストラ相手に「超絶技巧を効かせる」というコンチェルトなどあり得るはずもなく、〈ピアノ協奏曲〉と言っても基本的には「チェンバロでもピアノでも弾けるコンチェルト」である。
伴奏オーケストラは、管楽器はペアのオーボエ、ファゴット、ホルン。それにオブリガートとしてフルート1本、あるいは(当時の新しい楽器)クラリネットが加わる程度。
ストリングスのセクションは弦楽四重奏でも演奏可能だから、室内でのサロン・コンサートでも充分演奏できたはずだ。
たまに(第24番ハ短調や第26番「戴冠式」協奏曲のように)トランペットとティンパニが加わるものもあるが、これは屋外で演奏する時「ハデにするため」のオプションらしい。
もちろん現代のコンサートでは、普通の2管編成オーケストラとグランドピアノで「クラシックっぽく」演奏されるわけだが、当時モーツァルトが弾いていたサウンドは、アドリブも含めてかなり即興的で「ジャズ風」なものではなかったかと想像する。
なにしろ当時のピアノ(クラヴィコードあるいはフォルテピアノ)は楽器としては過渡期の代物で、かなりポキポキした乾いた音がする。しかも、ペダルがないので現代のピアノのようなレガート(流れるような)奏法を期待するのは無理というもの。
そう考えると、今ここで延々と語っている(朝、聞こえてきたら幸福なような)「モーツァルトのピアノ協奏曲サウンド」のほとんどは、モーツァルト当人には全くあずかり知らぬ、現代風グランドピアノと近代オーケストラ・サウンドによる「誤訳」の世界ということになる。
いや、もしかすると現代の私たちが「モーツァルト的」と考えているサウンドのほとんどが、実はモーツァルトが考えていた音楽ではない…という衝撃の視点もありそうだ。
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■モーツァルトの至高〜無常の長調
ここからは、モーツァルトの熱狂的信者の方々は読まない方がよろしいかも知れないが・・・
そもそも「モーツァルトの音楽」などというのはあったのだろうか?
ハイドンやベートーヴェンやブラームスなどいわゆる「大作曲家たちの音楽」は、彼らが(ある意味では強引に)血肉で作った個性が刻印されている。
でも、モーツァルトが作っていた音楽にそれは希薄だ。
子供の頃からヨーロッパ中を飛び回り、才能に任せてあちこちでオペラや交響曲や協奏曲から宗教曲まで雑多に手を出し書きまくっていた彼の「創造」には、作風やスタイルに関する確固たる理念はない。
ただイタリア音楽を聴けば、それ以上にイタリア的な軽やかで明朗な音楽を書き、ハイドンを聴けば、それ以上に無駄がなく完成度の高い弦楽四重奏や交響曲を書き、ロココ風の音楽を聴けば、それ以上に華麗で流麗な音楽を書く。
つまり、彼の音楽と見えるものは、すべてその時代の雑多な音楽を、彼風に濾過し蒸留したもの。
要するに「モーツァルトの音楽」というのは存在せず、そこにあるのはモーツァルトという才能に反射した「その時代の音楽のエッセンス」に過ぎない…というのが今回の暴論の趣旨である。
それに、現代においてモーツァルトの「天才」と見えるもの(例えば、斬新に聞こえる形式や転調やパッセージなど)は、おそらく聴く人をちょっと脅かそうという子供っぽい悪戯心から成されたもので、シリアスな芸術的創意とは違う。それは、どこまでも「遊び」なのだ。
そこから導き出されるモーツァルト像は、音楽については「何も考えていない」、ただ自分の周りにある音楽すべてを「鏡のように反射させ」、ただひたすら「遊んでいただけ」…ということになる。
これはロマン派以降の視点からすると究極の「悪口」に聞こえるかも知れないが、このことこそがモーツァルトの凄さでもある。
そんな境地で音楽を書けるのは「天使」か「阿呆」しかいないからだ。
(モーツァルトがそのどっちか?…というのは各自お考えを)
だから、そんな「天使(無垢な子供)」であるモーツァルトの音楽を、ロマン派以降の視点で「芸術性」だの「精神性」だので論じても意味は無さそうだ。
かろうじて、モーツァルトの無垢に混じり込んだ「翳り」として最高だと思うのは、彼が死の直前に到達した〈「短調」に踏み込む直前で回避された「長調」の作品〉だろうか。
ニ短調ピアノ協奏曲のデーモンもドン・ジョバンニの煉獄もレクイエムの涙も、所詮は先達がハイドンしかいない時代の独り言のロマン。次世代の作曲家たちのロマン的表現の原点とはなったが、その後ハーモニーやサウンドの怒濤の表現拡大によって軽く凌駕されている。
しかし、ただ長調の音階の音を絶妙に組み立てるだけの「軽さの美学」(決して皮肉ではなく!)では、いまだにモーツァルトを凌駕する「天使(かつ阿呆)」の境地に達した作曲家はいない(決して皮肉ではなく!)。
その到達点が・・・晩年のイ長調(第23番)や最後の変ロ長調(第27番)のピアノ協奏曲や、クラリネット協奏曲そしてクラリネット五重奏曲、あるいは「アヴェ・ヴェルム・コルプス」や「魔笛」の幾つかのアリアなどに聞こえるわけなのだが・・・
そこには、「長調」で明るい世界なのに、不思議なほど透明な無常観が漂っている。(それは、作曲法的に言うと、ドミナント的あるいは導音的なテンションを限りなくゼロに近づける高等技法とでも言えるだろうか)
言うなれば「敢えて表現しないことによる表現」。
これこそ、その後のロマン派の時代にも達成し得なかった、そしてモーツァルトだけが手に入れた(しかし、手に入れたと同時に当人が死んでしまい封印されてしまった)孤高の音楽語法なのかも知れない。
なぜなら…
人は、本当に悲しいとき、涙を流して泣いたりしない。
ふと、力なく微笑むのだ。
*
□2010年3月21日(日)14:00
東京オペラシティ・コンサートホール
・モーツァルト
ピアノ協奏曲第23番
イ長調K.488
交響曲第35番「ハフナー」ニ長調 K.385
・
グリーグ
ホルベルグ組曲 (ホルベアの時代より)
・モーツァルト
ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491
レイフ・オヴェ・アンスネス:指揮&ピアノ
ノルウェー室内管弦楽団