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2010/03/10

オペラへの遙かなる道〜ヴェルディvsプッチーニ(前編)

Title そもそもクラシック音楽の世界で「プロの作曲家になる」というのは、「オペラで成功をおさめる作曲家になること」だった。

 私たちが「クラシック音楽の作曲家」の原点として真っ先に思い出すモーツァルトやベートーヴェンは、教会や貴族の「雇われ音楽家」という地位から訣別して〈自由な音楽家〉として独立した。記念すべき「芸術家としての作曲家」の誕生である。

 しかし、残念ながら〈芸術家〉というのは「職業」ではない。誰だって詩を口ずさめばその瞬間から〈詩人〉であり、ちょっと顔が良くて女の子にもてれば〈イケメン〉、人をだましてお金をくすねれれば〈詐欺師〉だが、それは恒久的な仕事でも安定収入の道でもないから「職業」とは言えない。それと同じだ。

Mozart そもそも、今でこそソナタとか交響曲というような作品が「不滅の名曲」と呼ばれているものの、現実問題としてはそんなものを書いて「収入」につながることはまずない。頼まれもせず自由意志でソナタや交響曲のような曲を書く場合は、収入にならないどころか、逆に上演するために自腹を切らなければならないことだって少なくないほどだ。

 それでも作曲家がそういう作品を書くのは、「私はこういう音楽を書けるのですよ」と自分のスキル(技術)をアピールし、「大きな仕事」を得るための…今で言うなら「就活(就職活動)」だ。自分でオーケストラを雇って自作自演の「作品発表会」を開いたところで、それにかかる労力や経費と入場料収入を考えた場合、赤字にならなければ御の字…と言うレベル。(ベートーヴェンの自作発表会やモーツァルトの予約演奏会も、そんなものだったに違いない)

 それでも、作曲家たちは損して得取れとばかりに自分の音楽をアピールし、最終的な「大きな仕事」を得るために努力を重ねた。それこそが大きな社会的成功と経済的報酬につながる「作曲家」としての最終目標であり、それが「オペラ」だった。

□作曲家はオペラを目指す

Composera 作曲家が「音楽」を書いて得られる収入というのは、お金持ちや演奏家に頼まれて曲を書くときの「委嘱料」、そして楽譜が出版されたときの「出版料」くらい。現代では「著作権」という考え方があるが、それが定着するのは20世紀になってから。普通は「演奏家」や「指揮者」として活動し、そこで自分の曲を演奏して「出演料」を手にするのが基本。自分が知らないところで自分の曲が演奏されても一円にもならない。

 それでも、ラジオ放送もテレビもCDもない時代、自宅で音楽を聞くには自分で弾くか、あるいは雇われ楽士に演奏させるかしかなかったわけで、「楽譜」は多く出版され、そこそこは売れていた。ただし、ピアノや楽器の演奏をたしなむ裕福な階級に限定されるわけだから、ヨーロッパ中で売れても部数としてはせいぜい数百というレベルだろう。大衆に売れる「歌曲」や「ピアノ小品」でも数千といったくらい。それだけで「印税生活」が出来るはずもない。

 芸術家と言い張っても、(実家が金持ちだったり、有力なパトロンが付かない限りは)つまるところ貴族の子女にピアノを教えたり、音楽学校で生徒を教えて給料をもらったり、という以外の「安定収入」はほぼありえなかったわけだ。

Operaw しかし、「オペラ」だけは違った。
 ヨーロッパの都市にはほとんど公立の劇場があり、王族や貴族がパトロンの宮廷劇場から、一般市民の娯楽施設である市民劇場まで、映画もテレビもない時代の唯一の「娯楽施設」として機能していた。

 演劇だけ音楽だけ舞踊だけの興業ももちろんだが、中でもオペラはそれらすべてが合体した究極の「総合娯楽舞台」。ドラマもあれば音楽もあり、主人公の英雄やヒロインたちに心酔し、美術や衣装も楽しめ、時にはバレエや踊りが加わることもある。これはもう究極のエンターテインメントというしかない。

 現代で言えば「映画」と「テレビ」と「ゲーム」と「コンサート」をぜんぶ一緒くたにしたような最高最大の「娯楽」。それに関わる作曲家に莫大な報酬が転がり込んで来るチャンスが充分にあったのである。

 とは言えオペラは、登場する歌手や合唱、オーケストラと指揮者、舞台美術や演出家、などなど大勢のスタッフが必要なうえ、ある程度のリハーサル期間が必要だから、初期投資(イニシャル・コスト)は莫大な金額になる。(人件費や舞台・衣装・大道具・小道具など含めて、ざっと数億円から十数億円というレベルだろうか)。とても作曲家が一人で自腹を切れる次元ではない。

 しかし、一旦「舞台」を作り上げれば、あとは数百あるいは千人前後は収容できる劇場で、結構な入場料を取る公演を何回でも開くことが可能。もちろん国や金持ちたちからのバックアップもあっただろうが、立派に「興業」として成り立ち、うまく行けば大儲けが出来るものだったわけだ。

 その「核」となるのは、もちろん人気歌手だが、演目そのものは「脚本家」と「作曲家」が作るもの。となれば、著作権がどうのという意識がなくても、当然ながら「作曲家の取り分」は興行収入(入場料x客の数)の何%という形で確保される。

 人気になって続けて再演されるようになれば運用費用(ランニング・コスト)は出演者たちのギャラだけとなり、ある時点からは収入のほとんどが「儲け」になる。さらに、「台本」と「楽譜」さえ送れば、別に作曲家が指揮や演奏に出かけなくても、ヨーロッパ中のあちこちの劇場でも上演されるようになる。こうなれば、作曲家は家に居たままどんどん入ってくる莫大な興行収入を待っているだけでいい。

 そういうオペラをひとつ手にすることが出来れば、生活に不安はなくなり、さらに複数連作できれば、安定した高収入が保証される。当然ながら新作の作曲料も高騰するし、オペラに集まる金持ちたち(時には王侯貴族や大富豪たち)とも交流が増え、お金に困ることもなくなり、それこそセレブな生活が思いのまま。音楽の道での社会的成功を目指す作曲家にとっては、これは最大にして究極の「目標」だったのである。

□オペラ「負け組」と「勝ち組」

Beethoven かくして多くの作曲家たちがオペラに挑戦し、かのモーツァルトも自作のオペラの成功不成功に生涯一喜一憂を繰り返したが、成功組はごくわずか。オペラの成功を夢見て苦闘しながら、結局は負け組となった「大作曲家」の方がはるかに多い。その筆頭は何と言ってもベートーヴェンだろう。

 1805年35歳というもっとも脂ののりきった頃に渾身の力作として「フィデリオ」を書き下ろすも、初演は失敗。その後、幕数を減らしたり序曲を書き直したりと何度も何度も改訂し、10年ほどかけて現在聞くような形に完成させてなんとか好評を得たが、10年かけて1曲だけではとても豊かな「収入」になるはずもなく、晩年はひたすら貧乏作曲家のイメージが強い。

 しかし、この時オペラがすんなり成功してお金持ちになっていたら、交響曲などというお金にならないジャンルに固執することもなかっただろうから、第4番以降の交響曲はもしかしたら存在しなかった可能性が大きい。このオペラへの挫折とストレスが、逆に不屈の人ベートーヴェンを育てたとも言えるので微妙なところだ。

Rossini このベートーヴェンの時代にオペラ界で一世を風靡した「勝ち組」の筆頭がロッシーニ。1816年24歳の時に書いた「セヴィリアの理髪師」を始めとする軽やかでエンターテインメント性にあふれた諸作品は、本拠イタリアはもちろんのこと、ベートーヴェンの全盛期のウィーンでも大人気で、現在のベートーヴェンとロッシーニの人気をそのまま逆にしたほどの圧倒的な差があったようだ。(実際、飛ぶ鳥を落とす人気作曲家だった30歳のロッシーニは、ウィーンを訪れた時に52歳のベートーヴェンのアパートを表敬訪問し、その貧乏暮らしに涙したと伝えられている)

 全盛期は年に4曲近く書き飛ばし、イタリア国内はもちろんパリやウィーンでも大絶賛を受け、生涯で40近いオペラを書きながら37歳の時の「ウィリアム・テル」であっさり打ち止めにしたあとはグルメ三昧の楽隠居。76歳で亡くなるまでオペラの再演報酬やイタリアやフランスなどあちこちの国からの年金で(全くお金に困ることのない)セレブな生活を送ったそうである。

 そのため「ロッシーニのようになりたい!」というのが、この時代以降、すべての貧乏作曲家たちのあこがれの目標になる。

Schubert 今では「歌曲」の作曲家として不滅の地位を保っているシューベルトも、オペラを当てたくて悪戦苦闘しながら夢破れた「負け組」の一人。あれだけの美しいメロディを生み出していながら、オペラの演劇性とは肌が合わなかったのか、「アルフォンゾとエストレッラ」「家庭争議」「フィエラブラス」「4年間の歩哨兵勤務」「双子の兄弟」「サラマンカの友人たち」などなど、かなりの数のオペラを書いているが成功したものは一つもない。

 もっとも、1828年にわずか31歳で亡くなっているし、「魔王」のようにドラマ性を全開にした歌曲も書いているので、一旦コツを覚えたら人気オペラ作曲家に大化けする可能性も十分あったように思われる。

Berlioz ポスト・ベートーヴェンの時代の革命児であり「幻想交響曲」(1830)で近代オーケストラの始祖となったベルリオーズも、最終的にはオペラの成功を目指した一人。ベートーヴェンの「第9」に音楽の未来を見ながら、純器楽的な交響曲への方向はあっさり見限り、演劇性を追求した劇的交響曲「ロミオとジュリエット」、劇的物語「ファウストの劫罰」に続き、「ベンヴァヌート・チェリーニ」「トロイ人」「ベアトリスとヴェネディクト」など大規模なオペラに挑戦している。

 彼の近代オーケストラにおける革新性は常に話題になっていたし、それなりの人気もあったものの、残念ながら(フランス製ということもあったのかどうか)興行的に成功したオペラ作曲家とはとても言い難い。大作をものにはしたものの、彼もオペラに関しては「負け組」に数えていいだろう。

Meyerbeer それに対して、フランスを中心に一世を風靡したのがマイアベーア(1791〜1864)という作曲家だ。ポスト・ロッシーニの世代にあたる(ロマン派初期の)オペラ作曲家で、ドイツ生まれながらイタリアで音楽を勉強し、パリを本拠地にして作曲を続けたという不思議なスタンスの人。

 しかし、ロッシーニ的なイタリア・オペラのセンスと、ドイツ的な構築性とドラマ性を併せ持ち、さらにフランス的な華麗さを見事に統合させ、「エジプトの十字軍」「ユグノー教徒」と言った人気オペラを発表、グランド・オペラ(豪華絢爛な歴史絵巻的なオペラ)の世界を確立した。

 当時は完全な「勝ち組」の作曲家で、むかしの音楽史の本などではモーツァルト、ベートーヴェンなどと肩を並べ、ワーグナーやヴェルディに強い影響を与えた「大作曲家」クラスの扱いだったのだが、今では残念ながらほとんど作品が上演される機会もなく、名を知る人も少なくなってしまった。これを「勝ち組」というのか「負け組」というのか・・・?

Wagner そんなロッシーニやマイアベーアの成功を横目で見ながら、「彼らのようなオペラ作曲家になりたい」という野望に燃えて貧乏時代を耐えたのがワーグナー。そのわりにロッシーニの軽さともマイアベーアの華麗さとも無縁のゲルマン的な暗い題材が多いが、独特の押し出しの強さ?もあって「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」などを成功させ、新進オペラ作曲家としてのスタートを切る。

 とは言え、彼のゲルマン臭の強い神話的で晦渋なオペラは、一般大衆向けとは言えずどこまで興行的に通用したかは疑問。しかし、バイエルン国王ルードヴィヒ二世という大パトロンを得たことで、その後の状況は一変する。以後は、お客が入るかどうか=興業収益を得られるかどうか、ということを考えずに、自分専用のオペラ劇場「バイロイト祝祭歌劇場」まで手に入れ、妄想狂的な次元にまで膨らんだインスピレーションを自由に暴走させることができた。(おかげで国が一つ傾いてしまったが)

 彼の場合は、ちょっと例外的な(と言うより反則に近い)力ずくの「勝ち組」というべきだろうか。

 このワーグナーの影響力か、その後しばらく「オペラ(歌劇)」というのが、かなり社会的にも金銭的にも肥大した(現代で言うならハリウッド風大スペクタクル映画のような)イメージになったのは否めない。
 そのあたりの反感からか、全く金にならないと分かっていて交響曲のような純音楽の世界に邁進するのが潔い…とする作曲家も出て来る。ブラームスやシベリウスなどがハッキリ「オペラには手を出さない」というポリシーを口にしたのは、逆に「オペラを書いて一儲け」みたいな音楽姿勢を(本音はどうあれ)嫌ってのことなのだろう。「武士は食わねど高楊枝」か。
 
 …と、こうざっと見てくると、交響曲やソナタのジャンルでは「勝ち組」も「負け組」もさほど収入の格差はないものの、オペラに限っては天文学的な収入の格差があることがよく分かる。

 確かに、「芸術を創造する」ことより「娯楽を供給する」ことにこだわるのが「プロの作曲家」であり、そのプロ意識が莫大な収入を生む。しかし、一方でそういった「娯楽の供給」に長けた特質は、「芸術性の低さ」という評価によって打ち砕かれてしまう「両刃の剣」であることも確かだ。
 それはもちろん純粋に「音楽性」の問題でもあるが、同時に、成功を得られなかった大多数の音楽家&評論家たちの「復讐」でもあるから、かなりの怨念が籠もっていてちょっと怖い。

 生きているうちに「お金」をもらって死後は引きずり下ろされるか、生きているうちは貧乏で死後は「栄誉」を得るか。まさに究極の選択…(いやいや、生きているうちが花の方が良いに決まってるような気もするが)。これはなかなか難しい問題である。

Tchaikovsky ちなみに、ちょっと不思議なのが、クラシック界屈指のメロディ・メイカーであるチャイコフスキーの場合だ。彼も、そのメロディ作りの才能を生かしてオペラの成功に苦闘し続けた一人。「エフゲニー・オネーギン」「スペードの女王」あたりはロシア限定で知られているが、「オルレアンの少女」「マゼッパ」「鍛冶屋のヴァークラ」「イオランタ」など未完に終わったものも含めると十数編のオペラを書いていながら、彼を「オペラ作曲家」に数える人はまずいない。

 彼の音楽は「芸術音楽」という視点では必ずしも高評価でないものの、聴き手の心をわしづかみにする「恥ずかしいまでに見事な」メロディや曲作りのセンスは、クラシック音楽界でも最高峰の一つ。なにしろ「バレエ」の世界を大衆的なファンタジーにまで昇華させ、「交響曲」ですら大衆的なレベルの成功にしてしまう最強の作家なのだ。

 その彼がなぜオペラでだけ成功できなかったのだろう? 
 こればかりは「謎」だ。

□ヴェルディとプッチーニ

 つまるところ、いかに才能があっても「娯楽」と「芸術」を統合し、両手に花を持つのがいかに大変か…ということだが、それでも、オペラで「成功」をおさめた「勝ち組」で、かつ現代でもその人気を不動のものとしている大作曲家がいる。
 ヴェルディとプッチーニである。
 
Verdi ジュセッペ・ヴェルディ(1813〜1901)は、ワーグナー(1813〜1883)と同い年の生まれ。ワグナーが「さまよえるオランダ人」を書き上げた1842年に、ヴェルディも最初の成功作「ナブッコ」をスカラ座で初演して、オペラ界にその名を知らしめているから、作曲家としてのキャリアもほぼ同じだ。

 片やドイツっぽさ全開の楽劇を目指せば、片やイタリアっぽさ全開のオペラを開花させ、聴くものの愛国心を駆り立てたのも同じ。ヴェルディの場合は「イタリア統一運動」と呼応し、ワーグナーの方はドレスデンの三月革命に参加している。共に血の気の多い、民族主義者の顔を持っている。

 四十代には、片や「リゴレット」と「椿姫」、片や「トリスタンとイゾルデ」という人気作をものにし、人気実力ともイタリアおよびドイツの最高峰に登り詰め、セレブの地位を確保。国家的な作曲家となった1867年という壮年期には、ワグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に拮抗するかのような「ドン・カルロ」といった大作に踏み込んだのも同じ。

 そして、その到達点とも言えるスペクタクル巨編としてヴェルディは「アイーダ」、ワーグナーは上演に4夜かかる「ニーベルングの指輪」を発表。ある意味でオペラの頂点を極めたと言っていい。さらに、晩年にはいくぶん軽めの透明感を持つ「ファルスタッフ」そして「パルジファル」を最後の作品として残したのもどこか似ている。

Puccini 一方、ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)は、ヴェルディが 最後のオペラ「ファルスタッフ」を発表した1893年に、「マノン・レスコー」の成功でオペラ作曲家の仲間入りを果たしている。

 その後は「ラ・ボエーム」(1896)、「トスカ」(1900)、「マダム・バタフライ」(1904)の三作で完全にヴェルディに次ぐ最大の人気イタリア・オペラ作曲家としての名声を確立している。

 ただし、時代は二十世紀を迎え、プッチーニのあまりにも分かりやすくて大衆に受ける作風は、ドビュッシーやシェーンベルクあるいはストラヴィンスキーなどが登場し始める「新しい音楽」の風潮の中では浮いていたことも事実。最後のオペラ「トゥーランドット」(1926)も含め、その後の「前衛音楽」の時代には「時代遅れ」という酷評をされたこともあった。

 しかし、大衆的な人気という点では圧倒的で、いまだにそのメロディの美しさと叙情的かつ感傷的な音楽は、愛され続けている。

 というわけで、次回は、そんなヴェルディとプッチーニの世界にもう少し踏み込んでみよう。

           *

トリノ王立歌劇場

Traviata

ヴェルディ「椿姫」
・7月23日(金)18:30東京文化会館
・7月26日(月)18:30東京文化会館
・7月29日(木)18:30東京文化会館
・8月1日(日)15:00東京文化会館

Boheme_2

プッチーニ「ラ・ボエーム」
・7月25日(日)15:00神奈川県民ホール
・7月28日(水)18:30東京文化会館
・7月31日(土)15:00東京文化会館

総裁:ヴァルター・ヴェルニャーノ
指揮:ジャナンドレア・ノセダ
トリノ王立歌劇場管弦楽団&合唱団

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