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2010/06/10

天才とは何だ?〜ブラームス型凡楽のすすめ

Brahms 以前、とあるクラシックの音楽番組からブラームスについての取材を受けたことがある。開口一番「ブラームスはどんなところが天才なんでしょうか?」と聞かれたので、言下に「いや、彼は天才じゃないでしょう」と応えたところ、「・・・・・」。
 取材はボツになった。

 どうやら番組としては・・・ブラームスは「保守的」な作曲家というイメージがあるが、実は「こんなに斬新」で「こんなに画期的」なことをやっていたんです・・・というような指摘とコメントが欲しかったらしいのだが、私の意見は全く逆。
 ブラームスは「保守的で」「新しいことをやらない」「才能のない作曲家」なのに、現代に至る〈クラシック音楽〉の基礎を作った。そこが凄いのだ。

 そもそも、昔から「天才」という言い方はどうも違和感がある。人のプラス部分をなんでも「天才」と一括りにしてしまうのは、マイナス部分を何でもかんでも「気違い」と一括りにしてしまうのと同じで「思考停止」でしかないと思うからだろうか。

 それに、音楽を「評論」視点で見る人は、なぜか「新しい」とか「天才」というのを金科玉条にするけれど、そもそもクラシック音楽界というのは、(ブラームス以来)全く新しいことをやらずに100年も200年も前の天才が作った音楽を崇め奉るだけの閉鎖社会。「新しい」ことからも「天才」的な所行からも背を向けたブラームスの視点こそが、その後のクラシック音楽界の基礎になっているんじゃなかろうか。
 だからこそ、3大Bはバッハ・ベートーヴェン・「ブラームス」なのである(巨人・大鵬・「卵焼き」…のようなオマケではなく!)。これを「凄い」と言わずして何と言おう。いや、皮肉でなく。

 考えてみれば、ベートーヴェンが改革し肥大化させた「交響曲」を、(ベルリオーズやワーグナーやマーラーのように)その延長線上に発展させるのではなく「伝統」として古典化してしまった発想が凄い。
 その古臭い「交響曲」の理念を立ち上げたうえでそこそこの名作を4つほど残したことで、その後の民族主義楽派(チャイコフスキーやシベリウスやドヴォルザークら)における「交響曲」隆盛の道筋を指し示したのも画期的だ。
 ベートーヴェンの(直感的イマジネーションの火花のような)9つに対抗するのはお手上げだが、ブラームスのような教科書的な交響曲なら「私にも作れるんじゃないか」と思えなくもない。事実、ロシアや東欧や北欧の作曲家の卵たちにそう思わせ、実際にその成果を実らせたわけだから、クラシック音楽界におけるその影響は確かにバッハ・ベートーヴェンに比肩する。(くどいようだが、皮肉でなく…)

 そのおかげで、ベートーヴェンが9つ書いて「それで終わってしまった」感じさえしていた「交響曲」を、半世紀ほど経ってから蒸し返し、ベルリオーズやワーグナーがどんどん斬新かつ近代的に肥大化させていったオーケストラを「2管編成」などというオーソドックスの墓場に封じ込め、「オーケストラの定期演奏会」という百年一日の世界の王道レパートリーを確立した。
 文字通りの「保守・反動」なのだが、その威力は絶大で三日天下の前衛より100倍革命的だ。

 実際、長年オーケストラのコンサートやFM音楽番組の解説をやっていて実感するのは、「どうしてオーケストラって言うのは、こんなにブラームスばっかりやるのだろう」ということ。そう呆れてしまうほど、ブラームスの演奏頻度は多い。
 決して「人気がある」わけでも「お客を呼べる」わけでも「華やかさ」や「分かりやすさ」があるわけでもない。言ってみれば、校長先生の訓辞みたいな…内容があると言えばあるけど、おもしろみがないと言えば言える…という音楽なのだが、なぜかアマチュアでもプロでも安心して演奏できる「クラシック音楽の基本の基本」がそこにはあるのだ。
 だから、ブラームスの4曲およびその影響下に書かれたブラームス型2管編成の類型交響曲(ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウスなど)がなかったら、オーケストラというものが21世紀にまで生き残っていたかどうか疑わしい。

 確かに「天才」の凄さは一目瞭然だが、ブラームスはその逆。全く一目瞭然でない地味なところから、100年間にわたってじわじわ効くボディブロウを叩き出す。
 地味でシャイで人見知りのまま「石橋を叩いてこつこつ」型でのし上がり、何かと目立つワグナーやブルックナーに嫉妬し、真面目で堅物で面白いことひとつ言えないタイプで婚期も逃し、そこから来る劣等感からしみ出す「皮肉」っぽい視点にまみれ、根っから人が悪いくせに外見上は穏やかな文化人を気取る。一言で言えば「(最強の)ひねくれたオジサン」だ。

 …などと力説すればするほど、「ああ、ブラームスがお嫌いなんですね〜」と溜息をつかれそうだが、まあいいや。
 考えてみれば、バッハ・ベートーヴェン・ブラームスの三大Bは3人とも(生まれつきの天分に恵まれた…という意味での)「天才」とはほど遠い、後天的かつ結果論的な「巨匠」。むしろ、天分に恵まれなかったことで生涯ジタバタし通しだった印象の方が強い。
 天分に恵まれたわけでもない者が、ここまで音楽史に影響を与える「音楽的偉業」に到達した、という事実の凄さ。これを「天才」と呼ぶのなら、むしろ「天災」と言って欲しい。(…というオヤジギャグを言うためにここまでのうのうと話してきたわけではない。念のため)

 □天才のメカニズム

Rossini_gioacchino ちなみに、世間的にいう「天才」というのは…

1.若くして秀でた才能を発揮する人。
2.経験や論理でなく「直感」で行動し(ているように見え)、それがことごとく成功する(ように見える)人。

 同じ秀でたことを同じ期間で成し遂げても、5歳から初めて20歳で成し遂げれば「天才」と呼ばれるが、45歳から初めて60歳で成し遂げても、あまり「天才」とは呼ばれない。
 若くして(普通の平凡人ならまだ子供や学生をやっている年代で)才能を発揮しているからには、後天的な努力や修練ではなく「生まれつき」の「天からの才能」があるに違いない…という想像が「天才」の語源なのだろう。

 さらに、Aから直接Dを導き出すような直感的な思考をする人こそ「天才」と賞される。AからBを経てCを加味しつつDに至る…というような順序立てた思考で辿り着いた行動をする人は「天才」とは呼ばれにくい。
 それは、普通の人から見ると、その思考の過程が想像できず「直感」で結論に到達しているように見えるからだが、シャーロック・ホームズ譚の例を挙げるまでもなく、意外と(普通の人とは違った思考過程ではあるものの)順序立てた思考で結論を出しているだけのことが多い。
 ただ、それが「鮮やかに的中」したり、熟慮の末とは思えないような「早さ」で結論が引き出されると、それは紛れもなく「天才的」と見える…ということなのだろう。

 例えば、日本の田舎町に「7歳でフランス語がペラペラの子供がいる」と言われたら、「すわ天才か!」と思ってしまうかも知れない。まるで「生まれつき」フランス語をしゃべる謎の技能が備わっていたかのように見えるからだ。
 でも、両親がフランス人…と聞けば「なあんだ」で終わってしまうはず。

 同じように、「8歳で交響曲を書きました」とだけ聴けば、それは紛れもなく「天才!」と言われそうだ。でも、両親が音楽家で2〜3歳の頃から五線紙とピアノにまみれて育ち、父親所蔵のオーケストラのスコアを悪戯半分で書き写すような少年時代を送っていたとなると、どうなのだろう。
 それは8歳で原稿用紙100枚の自作のファンタジー小説を完成させた…とか、9歳でノート3冊分の長編マンガを書き上げた…と言うのと同じで、どの小学校でもクラスに一人くらいはいそうな気がする。

 さて、ここまでの結論として、「天才などいるものではない」と言うべきなのか、「子供はそもそもみんな天才なのだ」と言うべきなのか。
 ブラームス先生から始まった「やぶにらみ天才考」、少し袋小路にはまってきた気がする。

□天才のパターン

Mendelssohn そこで、ちょっと視点を変えて、クラシック音楽界の伝統的な「天才」物語に焦点を合わせてみよう。

 クラシック音楽界には、伝説的な「天才」のパターンがある。まず、幼少時から音楽に囲まれた(裕福な。あるいは親が音楽通の)家庭に育ち、2〜3歳から言葉と同じ次元で音楽を吸収して行く。
 当然ながら5〜6歳には既に才能の片鱗を見せるようになり、10代初めともなると「自分の音楽」の世界を確立させ、大人を驚かせる。

 その際「音感の良さ」というのが「音楽の才能」の必須条件のように言われるが、普通程度の知能を持つ子供なら「r」と「l」の発音も、「赤」と「緑」の区別はつく。同じように、幼いときから自然に音楽を耳にしていれば、絶対音感もソルフェージュ能力も「ことば」と同様に扱えるようになる。

 ただし、いかに早期教育しても、現実に「音楽」での表現に興味を示すのは思春期になってから。(女子は少し早いらしいが)おおむね14〜17歳あたりで「音楽への興味」として外に現れ、そこから修練を積むことで26〜28歳あたりで(公式デビューあるいは代表作品などの形で)開花する。
 その後、作家生活に入った場合は、37〜38歳あたりでピークを迎え、その後何度か浮き沈み(スランプ)を経て、最終的に50歳頃終息を迎える。(これは、不思議なことに女性の出産にも当てはまる。人間という生物の持つサイクルなのだろう)

 そういった人生を「レース(競争)」に例えれば、確かに早くスタートを切った方が有利だ。物心つく前から音楽に親しみ、5〜6歳で既にピアノに親しんでいるという方が、30歳を過ぎてピアノを一から練習し始めるより、どう見ても「有利」なのは間違いない。
 それに、そもそも人間の脳の仕組みなのか、(一説には)本能的なレベルで技能が脳に染み込むのは9歳くらいまでらしい。世界のあちこちを飛び回って英語やドイツ語や日本語がぺらぺらというマルチリンガルの人も、寝言など本能的に口に出る言葉は9歳の時に話していた言語だという。
 その伝でゆくと、少なくとも9歳以前に「音楽」に触れる機会を持っていないと、その後にいくら勉学として吸収しても「ネイティヴ」にはなれない、ということになる。少なくとも「言語」のレベルで「音楽」を操るには、10歳を過ぎて「自分の意志で」習得を始めるのでは遅いようなのだ。

 結果、幼少時の「まだ物心が付いていない」頃に親から受ける「教育」がいかに重要かということになるのだが、じゃあ、出来るだけ小さい頃から徹底的に叩き込めばいいのかというと、ここにも大いなる問題がある。
 
 言葉と同じように(ネイティヴに)「音楽」を操れる…と言うのは、普通の人が言葉を話す時、文法だの修辞法だのを意識しないのと同じように、まったく直感的かつ自然に音楽を組み立てられる…と言うこと。(日本人は英語を日本語に翻訳してから理解するが、ネイティヴになると英語を英語のまま理解する。それと同じだ)。
 だから、そこに論理的思考や計算の跡筋はみられない。音楽をさらさら作曲する天才に「その曲はどうやって作ったんですか?」と聞いても「自然に頭に浮かんだ」とか「空から聞こえてきた」というような返事しか返ってこない。この不思議さ加減が「天才」の「天才」と呼ばれる所以である。
(そう言えば、かの長嶋茂雄はバッティングの極意を聞かれて「ボールがびゅっと来たら、ばしっと打つんですよ」と応えたとか。これが「天才」風の答え方だ)

 ただ、これは普通の人でも「ことば」ではやっていること。もしあなたが友達とぺらぺらとおしゃべりをしている時、外国の人から「今ノ文章ハドウヤッテ作ッタンデスカ?」と聞かれても、おそらく答えは「天才たち」と同じはず。
 ネイティヴでない人間は、「何を言おうか」と考え、それを単語に置き換え、さらに文法に沿ってそれらを並べ、それを正しく発音する…という過程を経ないと言葉を話せない。
 さらに、相手の返事を「聞き取り」、その単語の意味を把握し、文法的な並び方を確認し、それを自分のネイティヴな言語に翻訳し、その内容を理解する。それが「会話」。
 でも、幼少時からその言語を脳内システムフォルダに持っているネイティヴな人は、すべてをすっ飛ばして「口」が勝手に動くのに任せている。これが「天才」のメカニズムということになる。

□創造のメカニズム

Schubert ただし、音楽にしろおしゃべりにしろ、愉しんでいる分にはいいのだが「生業」にする場合、この「自然に頭に浮かぶ」ことほど怖いものはない。なぜなら、浮かんでこなくなったら、おしまいだからだ。

 前述のように、音楽を言語レベルで幼少時に自然に習得するのは「有利」である。早い効果的なスタートを切れる、という点で、この「まるで天から生まれつき備わっていたかのような才能」は、いきなり初回で3ランホームランを打つほど先取ポイントが大きい。
 例えば、音楽の基本の習得に12年かかるとして、中学卒(14歳)で始めた場合は26歳でようやく第一歩だが、4歳から始めれば16歳でデビューも夢ではない。これは天に祝福された「天才」に見える。

 しかし、16歳デビューの直感がそのまま30歳40歳まで続くことは、まずない。今まで直感でぺらぺらしゃべっていたものが、実は「主語と述語」だの「動詞と形容詞」だの「敬語」だののシステムを持っていることに気付く時が来るからだ。
 それは、それまで「自然」に「直感」で作ってきたものに改めて向き合い、果たして文法的な整合性や論理的な構築性があるかどうか考える必要に迫られることと言ったらいいだろうか。その時「自分がどうやって音楽を生んでいるか」という基本が自分で分からないことになると、これは一転して大いなる「不利」になることがある。
 幼少時から自然に100本の足で歩いているムカデが、大人になって改めて「自分はどういう順番で足を動かして歩いているのだろう」と考え始めたら動けなくなってしまうのに似ている…と言ったら漫画的に過ぎるだろうか。

 その証拠に、この種の早期促成栽培型天才少年は、多くの場合、ピーク時の直後(三十代後半あたり)に大きな壁に直面し、その際に早死にしてしまうか、その後才能を枯渇させてしまうことが実に多い。通常の人生でも「厄年」と呼ばれるように、成長から熟成に至る狭間に、肉体的精神的な「壁」に突き当たる。その時、運悪くそれを乗り越える体力と精神力が無ければ、命を落とすことも少なくない。
 8歳で交響曲を書き作曲家として大活躍しながら35歳で夭逝したモーツァルト、そのモーツァルトの再来と騒がれ十代からオペラのヒット作を連発しながら37歳を境に引退したロッシーニ、あるいは歌曲や交響曲やソナタなど膨大な名作を残しながら31歳で死んでしまったシューベルト、作曲に指揮に教育に秀でながら38歳で急死したメンデルスゾーン……

 それは、前述のような生物的な人生サイクルによるものもあるが、行動パターンから来る必然の部分もあるかも知れない。
 例えは変だが、「剣の天才」というのがいたとして、子供の頃からいつでも抜き身の剣を持って自分より強い相手を求めて真剣勝負…などという人生をやっていたら、三十を過ぎて長生きするのは不可能なのは自明の理。なにしろ、命を賭けた勝負においては「勝率100%」以外の人はすべて死んでしまうのだから。
 そうなると、あっさり若くして死ぬか、さっさと引退して花でも愛でる余生を送るか…二つの人生しかないのは明らか。(その場合は、前者が「天才」っぽいが、単に逃げ損なっただけ…でどっちも同じと言えば同じと言えそう)

 そこから先を生き残るのは、数多い「挫折」を経験していることと、それ故に培われた「戦略」を持っていることだ。
 確かに「天才」というのは羨ましいところはあるけれど、「天才」になるのは、あまり幸福なこととは言えそうもない。前述のように、初回に3ランホームランを打って後半コールド負け(それでも歴史に残る)などという人生より、盗塁やスクイズを積み重ねて3点差を地味に逆転(ただし、あんまり話題にはならない)という人生の方がいい…と思うのだがどうだろうか。

□凡才のすすめ

02_2 もっとも「天才」になることを怖れるまでもなく、世界の大部分の人は、生まれつきの天分には恵まれず、現世での才能も開花しないまま、そこそこの人生を生きるのが普通。これが「凡才」。

 それでも、「音楽」を愛でるのに何の不自由もない。子供の頃から両親やまわりが日本語を話す環境に育っていれば、「小学校にも上がらないのに日本がぺらぺら」というレベルにはなる。同じように、数十年にわたって日々音楽を愛で続けていれば、凡夫の才でも何らかの形になる。「天才」である必要などまったくない。いや、むしろ「天才」などではないからこそ、音楽を生涯自由に愛でられるわけだ。

 おそらくモーツァルト少年やメンデルスゾーン少年は、まわりに音楽好きの大人がたくさんいたから、面白がって色々なことを教えてくれたのだろう。だから、ちょっと大人びた会話を覚えて「耳年増」になり、10歳の頃にはもう交響曲を書いたりオペラを書いたりして、大人たちを喜ばせる術を覚えて育った。そして、子供が書いた音楽を面白がる大人たちの手で、それらの作品は世に出された。だから20歳を迎える頃にはいっぱしの音楽家としてデビューもしていた。そのぶん、音楽家としてのキャリアは早かったわけだ。

 一方、ベートーヴェン少年やブラームス少年はそこまで「いいとこ坊ちゃん」で育ってはいない。それでも、毎日両親や友達と話したり勉強や日記でことばを操るうち、いっぱしの「おしゃべり」に育ってゆく。毎日自転車に乗って遊んでいるうちに両手を離しても運転できるようになるように、ピアノで話し、音楽で世界を記述できるようになった。
 そして、自分の道を自分で「音楽」と決めたのは思春期を迎えた17歳頃。それから本格的に音楽を勉強し、(酔狂な大人のバックアップなしに)自力で「音楽界」という険しい山の登山口に辿り着くにはそれなりの年月が必要だから、かなり苦労している。きちんと「挫折」を積み「戦略」を培っているのである。

 ピアノの即興演奏家としてウィーンで活動を始めたベートーヴェン青年がようやく「作曲家」という道の入口に辿り着いたのが30歳。ブラームス青年が「交響曲」の世界に踏み込んだのは40歳過ぎ。
 遅いと言えば遅いが、大卒で企業に就職した学生が、それなりの仕事が出来る地位(課長や部長クラス)になるのは早くてこのくらいだろうから、同じようなものと考えるべきだろう。

 現在では「早熟の天才」に括られるシューベルトは、少年時代はウィーン少年合唱団の前身ともなる寄宿学校で音楽を学び、早熟と耳年増を究め、メガネをかけて小太りであだ名はキノコ。今で言うなら完全に「アニメおたく」をやってそうな少年だ。
 17歳あたりから交響曲やミサなど書き始め、高卒レベルでまずはシンガーソングライター的な歌曲作曲のプロとなり、友達の家を点々としながら膨大な曲を書き散らし続け……20代半ばで交響曲(未完成&グレート)やピアノソナタの水脈を見つけたところで、わずか31歳の若さで死んでしまった。
 要するに、あの「未完成交響曲」が25歳、最晩年の円熟期の傑作と呼ばれる交響曲「ザ・グレート」やピアノソナタ第21番のような音楽ですら、30歳前後の「ようやく自分らしさが出てきた最初の名作」にすぎないのだ。生き残っていれば「若い頃ちょっと苦労して」で済んだことが命取りになってしまったわけだ。

□天才の終焉

01 ただ、面白いことに、このような「十代で才能を発揮して、二十代でいっぱしのプロ」というタイプの天才型作曲家の系譜は、前期ロマン派を境に途絶えてしまう。
 逆に言えば、ロマン派の時代になると、十代やそこらの「天才風」耳年増少年がプロに混じって音楽出来るようなレベルではなくなった(必要以上に高度になった)、と言うこともあるのかも知れない。

 そして、その後といえば、ベルリオーズにしろワーグナーにしろブラームスにしろチャイコフスキーにしろマーラーやブルックナーにしろ、幼少の頃はさほど音楽一途でなく、20歳過ぎてもさっぱり才能の片鱗を見せなかったような怪しい経歴の「天才」が俄然多くなる。
 彼らは、子供の頃から音楽に親しんではいるものの、少年時代までは絵画だの演劇だの科学だのにうつつを抜かし、モラトリアム(猶予)期間には法律や医学を勉強し、17歳前後のある時、突然「音楽」に目覚める…というのがパターンだ。(つまり、しっかり「挫折」と「戦略」を持って世に出ているのである)

 確かにスタートは遅いが、いわゆる知能指数は高そうな青年ばかりなので、一旦道を定めるとその吸収力が驚異的なのも共通項。ほぼ数年で最低限の音楽の基本はマスターしてしまい、基礎に縛られないぶん革命的な理想に燃え、下積みの苦労を経て20代後半か30歳近くなってようやく楽壇に登場。その後は明確な個性を持って音楽界に作品を提供し続ける。
 彼らの根幹にあるのは、幼少時に植え付けられた「直感」などではなく、厳しい生存競争の中で身につけた「戦略」だ。だから、ある時は、敵を攻撃し、ある時は懐柔し、人の悪さと政略を全開にして「自分の芸術」をアピールする。なので、こういう作曲家たちをモーツァルトやシューベルトのような才能と一緒に「天才」の一言で括りたくない、と言うのが本音。全く違ったベクトルの才能だからだ。 
 かくして、この種の「戦略家」たちが跋扈し始める時代以降、もはや(幼少時の早期促成栽培でスタートが早かったというだけの)無垢な「天才」たちに出る幕はなくなったとも言える。クラシック音楽はロマン派の時代を迎え、もっと「人が悪くて」「陰謀に長け」「天才ではない人間たち」によって、世界侵略(?)を始めるのである。
 そして、ブラームスはそんな時代を象徴する「天才ではない巨匠」なのだ。

 ちなみに、ブラームス青年は20代の頃、ピアノが弾けるという特技を活かしてハンガリー出身のヴァイオリニストの伴奏ピアニストのアルバイトを勤め、あちこちを演奏旅行(いわゆるドサまわり)に廻っている。
 少年時代には場末の居酒屋でピアノを弾いていたという経歴と並んで、音楽家のキャリアとしては、ちょっと隠したい過去になるのかも知れないが、その際、ウィーンやパリなどの上流階級から見れば下品で世俗的な「ジプシー音楽」(当時は単に東方の辺境地の音楽という意味で「ハンガリー音楽」と括られていた)に出会ったことは、彼の後の人生に大きく関わってくる。
 なにしろ、この時に採譜した田舎の民謡や舞曲を、のちにピアノ連弾による「ハンガリー舞曲集」として出版。これが意外や大ヒットして、生涯ブラームスに印税を供給し続け、作曲家生活を安定させる基盤になったのだから。
 この経済的安定がなければ、呑気に交響曲を書き続けられたとも思えないし、かの名作「ヴァイオリン協奏曲」も、この時のジプシー音楽との出会いがなければ生まれなかったであろう独特の哀感と節回しを持っている。
 生まれついての才能などより、挫折や暗い過去こそが、やがて大いなる財産となる。若い頃の苦労はお金を払ってでもしろ、というのを地でゆく話である。

 と、とりとめのない話になったが、今回はここまで。

          *

イヴァン・フィッシャー指揮
 ブダペスト祝祭管弦楽団

Flyer

6/21(月) 19:00 東京オペラシティ コンサートホール


・ブラームス:ハンガリー舞曲 第7番 ( I.フィッシャー編曲)
・ブラームス:ハンガリー舞曲 第10番

・ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 (vn:ヨーゼフ・レンドヴァイ)

・ブラームス:交響曲第4番


6/23(水) 19:00 大宮ソニック・シティ 大ホール
・
ロッシーニ:歌劇「アルジェのイタリア女」序曲
・メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(vn:神尾真由子)
・シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレイト」

Budapest_orch

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コメント

2013/08/27 18:00
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削除しました

投稿: わけわからん | 2013/08/27 18:00

⇧出ましたね。キ印コメント。
センセのブログでは初めてお目にかかります。
非常に貴重な珍品ですので、是非しばらく晒し者にしておいて下さい。

投稿: Semi | 2013/08/27 18:11

実に面白い

投稿: 3c3b | 2014/03/03 11:27

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