オペラの中の女と男
中学時代、そろそろ「性」に目覚め初めた頃、ソヴィエトのSF小説だかで「女性像」について目からウロコ的な記述に出会ったのが忘れられない。
男性が惹かれる女性のポイントというと、大体「髪の毛が長くて」「胸が大きくて」「お尻が大きくて」「足がすらりとしていて」(そして「若くて」)というような、かなり図式的な好みがある。その理由は、人間がまだ原始人だった頃の「太古の記憶」によるものだと言うのである。
生物のオス(♂)にとってメス(♀)というのは、第一義に「子孫」を残すためのパートナー。自分の「種(遺伝子)」を確実かつ健全に「子供」の形で残し、それを安全かつ健康に育てられる相手…という「条件」でパートナーを捜す。その「条件」は、魚類・鳥類・爬虫類それぞれ違うのだろうが、我らが人間は哺乳類として独特の「選別法」がある。中でも、二足歩行になった「人類」の選別法は独特だ。
まず胎児を育てる安定した子宮がポイントになるため、大きな骨盤を持った、すなわち「お尻の大きな」女性を選択する。そして、生まれた乳児に栄養つまり母乳を供給する器官の充実を確保するため、乳房の大きな、すなわち「胸の大きい」女性を選択する。さらに、健康な若い卵子を供給でき、出産というハードな行為に耐えうる「若さ」を持った女性を選択する。これは「知性」より奥に仕込まれた「本能」であり、男性は決してそれに抗えない。
そして、ベビーカーどころか衣服すらまだ存在しない原始人の時代には、生まれたばかりの赤子を落とさないように移動するための唯一の道具が「長い髪」。長髪が女性のシンボルであるのは、髪に赤子を巻き付けて抱く必需品だった名残らしい。
さらに、何か危険が迫ったときは、赤子を抱いて逃げなければならない。そこでは脚力が必要になる。「すらりとした長い足=脚線美」は決して美術的な意匠ではなく、現実的な「機能」の象徴だったわけだ。
もちろん、現実問題としては、お尻が大きい=安産、胸が大きい=母乳の安定供給、髪が長い=赤ん坊の安全、足がきれい=逃げ足が速い、というわけにはいかない。しかし、複数の異性の中から(接触せずに)特定の個体を選別する方法は、さしあたり「外見(ルックス)」しかないわけで、男性にとっては「外見」が異性選択の最重要ポイントになる。
そして、少なくとも「群れ」の中で、もっとも優れた女性(と外見で見える個体)をゲットするのが、男性の「存在原理(生きる理由)」でありステータス・シンボル(権威の象徴)。結果、特定の群れの中でもっとも「外見」の揃った女性を捜し出すのが「男の本能」になったというわけだ。
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この即物的な「真実(?)」に、(女性にもう少しマシな幻想を抱いていた)中学生だった私は、ちょっとショックを受けたわけなのだが、同時にこの「解析」、女の子からもひどく評判が悪かった。「女を子供を産む道具にしか見ていない」とか「所有物とかモノと思ってる」というのが批判の中心。そのあたりは、その後のフェミニストたちの主張と同じだ。
じゃあ、女性の「男の選び方」の方はどうなんだろう?ということになるわけだが、女性の側にとって最重要なのは、「妊娠」し「子供」が出来た後の育児期間に、「食糧」を確保してくれて自分と子供を「安全」に扶助してくれること。これに尽きる。
そう考えると、やはり「力」を持っていることが何と言っても最重要ポイント。要するに「食料」および「安全」を確保してくれる「力」である。それは古代には、獲物を狩ってくれる「体力」や、敵から身を守ってくれる「武力」だったが、やがて近代になると、農耕や社会生活を制御する「知力」、群れの中で優位を保証する「権力」などが台頭してくる。現代であれば「経済力」のある男ということになるだろうか。
ということは、女性から見ると男性の「外見(ルックス)」の良さはあまり優先課題ではないように思える。しかし、これはやはり男の場合と同じで、「優れた男」に見える「外見」を持っている男の方が、若い女性にとって「優位性の確保」に繋がるということなのだろう。なにしろ、経済力や知力や地位は、外からひと目では見えないのだから。(ただし、男性における「外見(ルックス)」があまり当てにならないことは、徐々に思い知ることになるようだが)
結果、大雑把に言うと「〈外見〉で選ぶ男性」に対して「〈中身〉で選ぶ女性」という図式になる。女性の側にも、もちろん男性の肉体的な「外見」について「好み」はあるようだが、それはあくまでも「好み」。男性が女性に抱くような「抗えない強力な磁力」のようなものではなさそうだ。
そもそも、男性は「若くて見栄えのいい異性」を一旦ゲットし「種(自分の遺伝子)」を残しさえすればいいのに対し、女性の方の問題は「そのあと」。出産から育児の期間の「安全」を保証してもらう必要がある。その分、「現実的」にならざるを得ない、ということだろうか。
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そのあたりの話で最近、ちょっと面白いと思ったのは、女性が男性を選ぶときの「免疫学」から見たメカニズムの研究だ。
よく若い女性が、「オヤジ(お父さん)の匂い」を不快に思うという話。あれは免疫学的に言うと極めて妥当な反応なのだそうだ。
そもそも女性にとって、自分のパートナーである男性を選ぶ最も重要な生物学的ポイントは、「自分とはなるべく違ったタイプの遺伝子」を持った異性なんだとか。
例えば、「Aという病気に弱い」という同じタイプの男女が結婚した場合、子供は「Aという病気に弱い子」ばかりになってしまう。なるべく違った遺伝子を持つ同士が交配することで、「Aという病気」に対する免疫が強まる「可能性がある」。だから、違うタイプの遺伝子を持った異性を選ぶ。これが、人間の生物的本能の基本なのらしい。
そう言えば、古代社会から「近親相姦」は禁止されているが、それは単なる風習とか倫理ではなく、「より免疫的に強い」子孫を残すためのメカニズムということになる。同じタイプの遺伝子を持った(同じ免疫系の)種族は、Aという病気が流行したら最後、全滅してしまう。なるべく多様な遺伝子を持つ子供たちを持つことで、そのうちの数人が生き残る=種族が全滅せず後世に子孫を繋げられる、という構造だろうか。
しかし、タブーがあったとしても、一夫一婦制が確立されておらず戸籍などというものがない原始社会では「同じ遺伝子を持った異性」かどうかなんて分からない。そこで、「出産可能な若い女性」は「匂い」でそれをかぎ分け、「この人はダメ」「この人はOK」と選び分けてきたのだそうだ。
つまり、若い女性が「匂い」で「ダメそう」と感じるのは、その相手が近親者(父親や兄弟)である可能性が大。女性が出産可能になった時、父親や兄弟のような身近な異性に「性的魅力」を感じてしまっては困るので、「匂い」というストッパー(&アラーム)が組み込まれているわけだ。そして、「いい匂い」あるいは「匂いがしない」と感じる男性こそが、自分のパートナーであると女性は選別するのらしい。
ネットや携帯の時代に「匂い」?と、ちょっと首をかしげそうになる話だが、実際、若い女性を集めて「近親者と他人の衣服の匂いをかぎ比べる」という実験をしたところ、現代の女性も「いい匂い」と「不快な匂い」という形でかなり正確にかぎ分けられたのだそうだ。
これはちょっと面白い。「外見」で選ぶ男性と、「匂い」で選ぶ女性。こういう視点の恋愛は「音楽」にならないものだろうか?
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そう言えば「オペラ」というのは、男と女の恋を描くものがほとんど。それが主題でないにしても、恋が全く登場しないオペラと言うのはあまり思い浮かばない。
その中で、主人公たちがどんな「外見」どんな「匂い」でお互いを選んでいるのか、ちょっと興味が沸いてきたが、「舞台」では「外見」は衣装で隠れているし「匂い」は嗅ぐわけにいかないので、それはちょっと無理か。
それに、色々な恋のさや当てや事件があって最後は「結婚してめでたしめでたし」…という話は多いものの、その基本は「二人の世界」。その向こうに「子供」が見え隠れしたり、そこから先の「子孫」にまで視点を伸ばした物語となると、グッと少なくなる。
例外の代表作としては、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」。あれは、英雄ジークフリートが「子孫」として誕生する話を、父ジークムントと母ジークリンデの恋の馴れ初めや、そもそもの前世の呪い話から遡って延々と語る壮大な物語。兄と妹が結婚して英雄が生まれるという「近親相姦」譚だが、その「特殊」さゆえに「神話」になったということだろうか。
でも、「結婚してめでたし」のオペラの中にも、「子孫」への視点が伸びているものが幾つかある。
プッチーニの最後のオペラ「トゥーランドット」も、おとぎ話(寓話)っぽく仕立てられながら、実は「男を選ぶ女(お姫さま)」の壮大な婿選びに巻き込まれた「男」の物語。恋とか愛ではなく、現実的に「子孫」を残さなければならない皇女(トゥーランドット姫)が、父親である老王の「孫の顔を見なければ死んでも死にきれぬ」という後押しで、いやいや相手を選ぶ。
現代の普通の一般家庭にも「まだ結婚したくない」という娘はいくらでもいて、色々な理由を付けては駄々をこねるわけだが、それが中国の王室ともなると話が大きくなる。結婚する相手は、まず「私の出す3つのナゾナゾを解かなきゃイヤ」。しかも、「解けなかった時は、首をチョン切っちゃう」と言ってしまったことから話は始まるわけだ。
冷静に考えると、これは要するに「まだ結婚したくない」姫さまが、無理難題をふっかけて結婚相手を断る「方便」。確かに、皇女として権威や力は充分すぎるほど持っているから、そもそも当人にとっては「結婚」するメリットはない。安全と食糧は既に充分すぎるほど確保されているのだから、敢えてそこから外に踏み出す「必然性」が認められないわけだ(そのあたりは、現代の女性と似ている)。
しかも、先の「免疫」の話で言うと、豪華な宮殿の中で香水や美食にまみれて「異性の匂い」など忘れて育っている。当然ながら、かぎ分ける能力を発揮する「場」もない。老王から言われている「子孫を残す」という大儀を、頭では理解しているが、身体が拒んでいる。それをモラトリアム(猶予)するための「子供っぽい」アイデアが上記の「条件」だったわけだ。
いくら何でも「負けたら首をチョン切られる」と分かっていて挑戦するバカな男はいないだろう、というのが姫さまの考え。ところが、「男」は女性の想像を遥かに超えた「バカ」なのである。その証拠に、いい年をした大の男が、痴漢だの盗撮だの下着泥だのポルノだので捕まる事件が後を絶たない。阿呆なことに命を賭けるのが「男の性」なのかも知れない。嗚呼。
そこで、首を切られようがなんだろうが、「この世で一番見栄えのいい女」つまり皇女にして若き美女でもあるトゥーランドット姫に結婚を申し込むべく殺到する。そこから生まれた壮大にして異様な「おとぎ話」的展開が、「トゥーランドット」の世界である。
プッチーニがこのオペラの作曲を手がけたのは1923年頃から亡くなる年(1924年)まで。自分に結婚を申し込む男の首をチョン切ってしまう「氷のように冷たいお姫さま」と、彼女への愛を証明するために3つの謎に挑戦する「放浪の王子カラフ」が、なんとなく恐妻家のプッチーニと奥さんの冷めた関係を思わせて、微妙な味わいがある。
ちなみに、献身的な「秘する恋心」を抱きながら、王子を守るために自ら命を絶ってしまう可哀想な女奴隷リューは、元々の物語にはないプッチーニの創作。(実際に、プッチーニ家にいたメイドの少女がモデルなんだとか。そのあたりの詳しい話はこちらで)
ただし、この彼女、命を賭けて「愛」をアピールするものの、王子カラフは全く「異性」として眼中にない。これは、考えてみるとあまりにも可哀想。この「悲劇」の方が、トゥーランドット姫とカラフ王子の話などより聴き手の心を打つほどだ。
そして、オペラの終幕では、3つの謎を解かれながらも、最後まで「結婚」を拒むトゥーランドット姫に対して、王子カラフが捨て身のキス攻撃で「愛」を獲得する。この王子のキスによって、トゥーランドット姫は「この人の名は愛!」と叫んで、婚姻を発表するのである。
ただし、プッチーニ自身は、この結末(キスだけでカラフの愛を受け入れてしまうこと)にどう「必然性」を与えるか悩みに悩んで、結局「未完」に終わってしまったほどらしい。でも、前述の「免疫学」の話を聞いていたら、プッチーニも納得できたかも知れない。つまり、トゥーランドット姫は、自分とは異質の遺伝子の「匂い」をかぎ取ったゆえに、カラフを受け入れたのだ。
つまり、キスによって「女性を籠絡した」と思うのは男性の大いなる勘違い。女性にとっての「キス」というのは、「相手の免疫の確認」という(高度に戦術的な)意味があるのである。
女性おそるべし。
この近代イタリアオペラの雄プッチーニに対して、ほぼ同世代のドイツ音楽圏における最大の人気オペラ作家のひとり:リヒャルト・シュトラウスも、同じ頃、ちょっと面白い「愛の形」をオペラにしている。
それが、1919年に初演されたオペラ「影のない女」。これは「恋」の物語ではなく、おとぎ話的な「出会い」があって結ばれた「お妃さま」と「王さま」の、その後。つまり、結婚後の物語である。
お妃さまの方は、霊界の王の娘で、人間ではない。動物に姿を変えて人間界に降りてきたところ、王様と出会う。そして、愛し愛されて人間界で結婚するのだが、彼女には「影」がない。これがオペラのタイトルの所以。
本人はそのことの「意味」を知らなかったのだが、ある時、霊界からの使者の口から、それは「子供を産めない」ということだと知る。しかも、1年12ヶ月たっても「影のない」状態が続くと、夫である「王」が石になってしまう。その期限があと3日。そう聞かされ吃驚仰天する。
話としては極めて「おとぎ話」(寓話)的なシチュエーションだが、早い話が皇室や武家と同じ。幸せな結婚をしてお互い愛し合っていても、お妃が皇位継承者である男の子を生めない身体(影のない女)で、その状態が何年も続くと「血筋」を保つために「側室を付ける」とか「血族の別の男児に継承を移行させる」とかの強硬手段が必要になる。まさに「石になる」状況だ。
一般家庭でも、「子供が生まれない」というのは、「未来」を考えた場合切実な問題だろうから、「結婚してめでたしめでたし」の先にあるあらたな「テーマ」として、「子孫」への視野をオペラに組み込んだシュトラウスの視点は、面白い。
かくして物語は動き始め、「影のない妃」は人間界に降りてゆき、「影」が要らない(生むことを放棄した)という女から「影」を譲り受けようと画策するのだが……
心打たれるのは、シュトラウス(あるいは台本のホフマンスタール)の「愛」の視点だ。
ワーグナーばりの音楽で「エロティシズム」を描くように見えて、実は「愛というのは、生まれてくる未来の命のための架け橋なのだ」という「家庭的」とも「宇宙的」とも取れる視点が、この作品のベースになっている。それは一幕最後で「影の声」によって歌われるのだが、これはちょっと感動的だ。
その後の人間界での、もう一人の夫婦とのいきさつはオペラを鑑賞する楽しみに取っておくとして、この話、最後はハッピーエンドで終わる。影のないお妃さまは「影」を得られることになり、無事に子供が生まれることになったお妃さまと王さま(そして、人間界のもう一組の夫婦)が抱き合うのが終幕のシーンである。
この大団円の場で、舞台の背後から「まだ生まれていない(これから生まれてくる)子供たちの声」が「お父さん、お母さん」とささやくように聞こえてくる。
その最後の一句が、なんとも可愛くもあり、ちょっぴり怖くもある。
「僕たち子供は、
招待されてこの世に生まれる
〈お客(ゲスト)〉に見えるかも知れないけど、
実は、僕たちこそがこのお祭りの
〈主催者(ホスト)〉なんだよ」
要するに、男性を縛り付ける女性の「外見」への衝動も、女性が選別する男性の「匂い」への機能も、すべて「これから生まれてくる子供たち」によって仕掛けられたもの。
私たちが「性衝動」とか「愛」とか思っているものは、彼らによって体中のあちこちにセットされた「タイマー」や「アラーム」なのである。
子供たち、恐るべし。
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■マリインスキー・オペラ2011年来日公演
■リヒャルト・シュトラウス「影のない女」
2011年2月12日(土)16:00 東京文化会館
2011年2月13日(日)14:00 東京文化会館
■プッチーニ「トゥーランドット」
2011年2月18日(金)18:30 NHKホール
2011年2月19日(土)14:00 NHKホール
2011年2月20日(日)14:00 NHKホール
■特別コンサート
・ベルリオーズ「トロイアの人々」
2011年2月14日(月)18:30 サントリーホール
・ワーグナーの夕べ
2011年2月15日(火)19:00 サントリーホール
・ロシア音楽の夕べ
2011年2月16日(水)19:00 横浜みなとみらいホール
ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ