2010/01/10

クラシック音楽の新しいレパートリーを考える

Scoresw_2 昨年秋の、新政権による行政刷新委員会の事業仕分けは、音楽界にも飛び火し「どうして2番じゃいけないんですか?」という驚愕の質問と共にクラシック界にも衝撃が走った。特に、オーケストラへの助成金の見直し…という一項には、あちこちから悲鳴に近い声が上がったほどだ。

 当然ながら、指揮者やオーケストラ関係者を中心に政府への抗議の声が上がったわけなのだが、実を言うと政治家サイドの「芸術に対する無理解な発言」などより遙かに衝撃的だったのは、その後ろで一般市民からあがった「どうしてオーケストラなんかに我々の税金を投入しなければならないの?」という素朴な疑問と冷たい批難の声の方だった。

Tokyoorch そもそも日本における「クラシック音楽」というのは、明治以降「西洋に学べ」「西洋に追いつき追い越せ」という国是の中で推奨されてきたもの。かつてはドイツ人のようにベートーヴェンを演奏し、イタリア人のようにオペラを演じる…ことがすなわち「近代化」であり、「文明国」の仲間入りの指針だった。

 特にオーケストラというのはその象徴であり、国あるいは都市がオーケストラを持っていると言うことは、経済的に豊かで安定し、市民の(西洋基準での)知的文化水準が高く、治安もよく一般市民の生活水準が保証されている、ということの証でもあった。
 だからこそ、世界の多くの国家や都市は、公的な予算を投入してオーケストラを保有し、その水準を上げることに勤めてきたわけだ。

 ただ、冷静に考えてみると、オーケストラが演奏する「クラシック」といわれる音楽は、ヨーロッパという地域限定の18〜19世紀からせいぜい1920年代あたりまでのもの。日本で言えば、江戸時代後半からせいぜい明治時代であり、「歌舞伎」とか「落語」と同じくらいの時代の文化である。

 それは日本にとっては、まさに「鎖国」から「明治維新」までの「もっとも西洋とリンクしていなかった時代」の異国の音楽。極端に言えば「日本文化とは完全に無縁の音楽」である。
 だからこそ「異文化の吸収」の指針になっているわけなのだが、この点に気付くと、「どうして税金を投入してまで(まったく自分たちの文化とは相反する音楽を)保護しなければならないのか?」という疑問がわき起こるのは避けられないのかも知れない。

Orchjapan 日本が歌舞伎や落語や大相撲などを「文化」として保護し国費を投入するのは分かる。そして、ドイツやイタリアがオーケストラやクラシック音楽そのものを「文化」として保護育成するのも分かる。なぜなら自分たちの国の古の文化なのだから。

 しかし、日本がクラシック音楽やオーケストラを保護するのは、ドイツが落語や大相撲を保護するようなもの。景気が良くて膨大な資金がある時代ならともかく、不況で一般市民の生活すら危うくなってきた時代にそれを優先するのはおかしいのでは?…という疑問が、事業仕分けをきっかけに大きなハテナとなって浮上してしまったわけだ。

■国と音楽

 もっとも、その点については、特に愛国主義に燃えなくとも、普通に疑問に思うことなのだろう。明治以降、多くの日本の音楽家が「自分たちの国の音楽」を作るべく努力を重ねると同時に、政治サイドからも「国産の音楽を優先してやるべし」というバックアップがあった時代が存在した。

 政治的に見れば「保護貿易」?のような発想で、「外国の音楽ばかりを演奏する」のではなく「邦人の音楽を演奏すべし」ということだったのだろう。特に戦前戦後の一時期は「コンサートでは国産の曲を入れるべし」「放送でも邦人の作品を優先して選曲すべし」…という政治的な保護に直結した。作曲家にとっては、嬉しいような有り難迷惑のような微妙なバックアップではあるのだが。

 さらにこの保護政策は、戦前のキナ臭い時代には「敵性音楽(敵国の音楽)」を禁止する動きにも繋がった。…のだが、そもそもクラシック音楽の主たる作品はドイツかイタリア産。両国とも日本とは同盟国(日独伊)の間柄だったので、ベートーヴェンやブラームス、あるいはイタリアオペラの名曲を演奏するのはOK(ロシアも大戦末期までは敵国ではなかったので、チャイコフスキーやリムスキー=コルサコフなどもOK)。さほどこじれた話にはならなかったようだ。

Berlin1936 そんな時代の風潮の中で、日本でも結構、民族主義的かつ大衆的な作風のクラシック系作品が生まれている。例えば、近代オリンピック・ベルリン大会(1936)には「音楽部門」というのがあって、日本からも山田耕筰、諸井三郎、箕作秋吉、伊藤昇、江文也という5人の作曲家が参加している(ちなみに、この時は江文也が銅メダル)。
 クラシック系音楽の新作も、当時はそれなりに世界進出の役割を果たす可能性を期待され、国がバックアップするだけの価値を持っていたことになる。

 しかし、巨大な問題が一つ。国が推奨すると言うことは、軍事的・外交的・経済的にメリットがある場合に限るのだから、「国策」に沿った音楽であることが必須。ヒトラーの時代のドイツ、スターリンの時代のソヴィエトを思い起こせば分かるように、国策に沿った=すなわち軍国主義礼賛的な作品は、時代に隷属せざるを得ない。
 結果、当時は国威発揚としておおいに賞賛され利用された作品は、現代では戦争に荷担した音楽として歴史から抹殺されることになった。そして、その逆に時代に背を向けた作品は、時代の風に吹き飛ばされて跡形もなく消失した。
 かろうじてその時代を生き延びたショスタコーヴィチの音楽などでその片鱗を垣間見ることは出来るが、その影で膨大な数の作品が抹殺され消滅させられたことは想像に難くない。

■終戦そして前衛の時代

 そして、1945年、人類史上空前の犠牲を払った世界大戦が終わると、今度は(当然ながら)戦争の狂気への反省から、「民族主義」「国威発揚」「闘争勝利」の匂いを持つ音楽は全否定されるようになった。時代は常に移り気で冷酷だ。

 その反動から一躍表舞台に躍り出たのが、思想的に「自由」で「モダン」な音楽。かつては「伝統」や「旧体制」に反するゆえに日陰の道を歩んできたが、その伝統や旧体制が瓦解したこの時期には、手っ取り早く(軍国主義でない)「新しい時代」をアピールできる強力アイテムとなった。

 特に、戦時中、軍事的に開発されていた色々な技術…電気回路や放送・録音など…は文字通りの「新しい(聴いたことのない)サウンド」の宝庫であり、それを応用することで、若い世代の作曲家たちは労せずして「誰も聞いたことのない新しい音楽」を発信することが出来た。

 この「戦争が落としていった新しい技術」と「新しい時代という夢」が激しい化学反応を起こし、「前衛(アヴァンギャルド)」という表現指向は隆盛を極める。そして、この「新しければすべてOK」という傾向は、戦後からいわゆる高度成長時代の1960年代に(戦争を知らない)若者文化の台頭と共に全盛を極めたわけである。

 そんな特需に乗って、いわゆる「現代音楽」も全盛期を迎える。なにしろレパートリーになるかどうか、経済的にペイするかどうか、大衆に理解されるかどうか…などなど、本来なら「音楽」に問われるすべてのことを全く考慮しない(芸術的な)「音響作品」が可能だった。ある意味、芸術家たちにとって理想の時代だったと言えるかも知れない。

Expo70 そのピーク(であり最後の輝き)が1970年の大阪万博前後だろうか。シュトックハウゼンがまるで国賓待遇で来日し、当時30〜40代の現代音楽作曲家たち(武満徹、黛敏郎、湯浅譲二などなど)が政府や大企業のパビリオンの音楽を担当し、現代音楽サウンドを一般大衆のレベルにまで広めた。

 おかげで農協の旅行で万博を訪れた一般庶民までもが、現代音楽というと「ああ、あのガリガリギーギー言うわけの分からない音楽ね」と認識するまでに至った。そして、その余波はいまだに尾を引いているほどだから、どれほどのインパクトだったかは推して知るべし。
 思えば、これが「現代の音楽」と「一般社会」がかろうじてリンクした最初にして最後の蜜月期?と言えるだろうか。(これは、もちろん皮肉です。念のため)

 ところが、調性の破壊や騒音から特殊奏法そして電子音まで、片っ端から極限までの新しさを追求した結果、普通の耳で聞き分けられるような「新しさ」は、あっと言う間に底をつくことになる。

 普通の人間がすべて普通の格好をしていた(そしてラジオのノイズすら新しかった)時代には、ぬいぐるみの怪獣と不思議な電気ノイズだけでみんな驚いて恐怖してくれたが、それは最初だけ。
 やがてすぐに慣れてしまうと、キバをはやそうがウロコを生やそうが首を8つにしようが「どれも同じ」になってしまう。「前衛」が生み出した音楽は「新しい」ゆえ衝撃を持って迎えられたが、20年と立たずに聞き飽きられてしまったのである。(それは、一目惚れで即結婚したカップルが、ハネムーン帰りの成田であっさり離婚してしまったようなものだろうか…(泣)

■そして個の時代

Titanic 私が〈クラシック系創作音楽〉の世界に身を投じたのは、まさにこの頃。思えば最悪のタイミングだった。200年の伝統を誇る西洋音楽の末裔であり「現代」の最先端を行く巨船……と思って乗り込んだところ、氷山にぶつかって沈没しかけているタイタニック号だった、という感じか(笑)。

 しかし、それはこの時代を生きた作曲家たちなら共通して持っていた「苦悩」だったに違いない。つまり、少年時代ごく普通にピアノやクラシック音楽を学び、すくすくと才能を伸ばしその行き着く先として〈作曲家〉への道を選んだのに、そこではもはや「書くべき音楽」がデッドエンドになっていることに気付かされたのである。
 演奏家はまだいい。ショパンを弾くにしろチャイコフスキーを弾くにしろ、古き良き時代のクラシック音楽の世界に留まることが出来る。しかし、作曲はその道を喪失してしまった。これはまさに青天の霹靂だったわけなのだ・・・

 かくして、その後(1970年代以降)のクラシック系芸術音楽の創作界は、ほぼ3つに分裂してゆく。

・ひとつは、60年代までの「現代(前衛)音楽」のスタイルに固執し、それを「伝統」と捉え、閉鎖的なサークルを作って「60年代までの夢の時代よ、もう一度」…と(現実には目をつぶって)突き進む一派。

・もうひとつは、そんなクラシック系音楽界をきっぱり見限り、ロックやジャズのような違った音楽ジャンルで大衆向けの視点を持って自身の音楽的才能を全開しようとする一派。

・そして、テレビや映画のようなジャンルに「実用的な(純音楽ではない)」音楽を供給することで自分の音楽を全うしようとする一派(これは群れを成さないので、個人と言うべきか)。

Pinkfloyd 1970年代にポスト・ビートルズ世代による新しいロック(例えば「プログレッシヴ・ロック」など)が開花したのも、本来ならクラシック音楽界に進むはずの「音楽(作曲)の才能のある青年」たちが、ロック界に流れ込んだのが原因の一端にあるような気がする。

 日本でも、戦後のこの時期までは(まだ〈クラシック音楽界〉というのがステータスになり得たので)「クラシック界で主たる活動をしつつ、映画など二次的な音楽活動もする」…というスタンスの作曲家が多かったが、この時代を境に、はっきり映画なら映画テレビならテレビとジャンルを特化したプロの作曲家が増え始める。

 結果、それに続く多くの才能ある「作曲家の卵たち」がクラシック音楽を捨て、商業音楽の世界に続々と流出し始める。
 なにしろ、同じ電子音やテープ・コラージュを作るのだって、現代音楽界よりロックやポップス界の方が(世界的ヒットを期待できる分)遙かに高価な機材を駆使できるし、「斬新で」「ポップで」「大衆的で」なにより経済的・社会的・芸術的すべての面において「成功」することが可能なのだ。

Screen そして、豊饒な響きのオーケストラが書きたければ、クラシック音楽界より映画音楽界の方が100倍も1000倍も自由に才能を開花できる。とっておきのメロディが書ければ経済的にも大きな報酬に繋がる。
 また、ロックやジャズや民族音楽などとのコラボレーションも、CMやゲーム音楽の中では自由であり、冒険どころか奨励してくれる。現代音楽界などより遙かに大きい「音楽的な新しい試み」が可能なのだ。

 なにしろ、そこにはちゃんとした「音楽への需要」があり、経済的にも機能するため、機材にしろスタジオにしろ演奏家にしろ最高のものが結集する。その結果、努力と優劣に応じた報酬が保証される。
 そこでは、自分勝手さを「芸術」と言い張るような逃げや甘えは通用しない。こちらの方が本当の「プロ」の世界と言うべきだろう。

 かくして、1970年代以降、音楽の才能がある作曲家がクラシック音楽界に留まる理由…というのが消失してしまったわけなのである。

■さらなる苦難の道

 …などと書いてゆくと「そこまで分かっていてクラシック音楽で作曲をやってるのはなぜ???」と言われそうだが、まだまだ茨の道は続く。

 にもかかわらず(そんな様々なデメリットを乗り越えて)「クラシック系音楽」に新しいレパートリーを作曲することに挑戦するといかなることになるか、をお話しよう。

 まずは、新しい作品に対する「壁」というのにぶち当たる。
 一番の巨大な壁は、「クラシック名曲」の壁だ。

◇名曲の壁
 
 いわゆる「現代音楽」的な曲を現代音楽専門のコンサートで演奏する限りは、マニアがマニアの音楽を聴き合っている狭い閉鎖空間。例えて言えば、トカゲやヘビやムカデが並ぶところに「爬虫類マニア」や「鱗マニア」が集まってくるのだから、不協和音や変な音を「気持ち悪い!」などと言う人はそもそも紛れ込んでいない。
 逆に、ちょっとウロコが光っていたり、尻尾がトゲトゲだったりすれば「おおー」と感嘆の声が上がる。「普通の人が見たらヘンに思うんじゃないか?」などと我に返りさえしなければ、楽しくも温い世界なのである。

Stars しかし、「普通の音楽」として勝負する場合は、そうはいかない。なにしろ、マニアでも何でもない普通の聴衆の前で、モーツァルトやチャイコフスキーやドヴォルザークのような誰もが名曲と認めている曲と一緒に並べて演奏されるのだ。

 これはもう、最盛期のバレンチノやゲーリー・クーパーやアラン・ドロン(たとえが古いか)など古今の美男が並ぶ中にぽんと押し出されてハンサム度を比べられてしまうようなもの。
 ポッと出のアイドル歌手や学校一のイケメンという程度のオトコが「調性」や「メロディ」の破片をまとったくらいでは太刀打ちできない恐怖の世界なのである。

 そういった伝説の八頭身美男俳優が並ぶオーケストラのコンサートに、日本人体形の新人が登場する場合は、お情けで冒頭10分くらいの「お耳汚し」の前座を務めさせられるのが常。(ちなみに、15分を超えようモノなら張り倒される)。
 なにしろお客は「お馴染みの美男俳優たち」を見に来るのであって、前座は「余計なことをせず、ちょっとくすぐってさっさと消える」のが役割。そのあたりを良く分かった常連客は、そもそも10分ほど遅れてコンサートに来るので、お耳汚しは聴かないで済むという仕組みである。

 この強固な伝統を打ち破り、ベートーヴェンやアラン・ドロンを押しのけて(?)トリにのしあがるのは、それはもう並大抵のことではないのである。

◇著作権という壁

Bruck さらに、立ちふさがるもうひとつの壁は「著作権」である。

 著作権のシステムというのは、音楽を上演したり録音したり放送したりすると、各国の著作権管理団体の規定の料金が発生し、その分配金が死後50年(国によっては70年)にわたって作曲家(およびその権利所有者)に支払われるというもの。

 これは、「作曲者」にとっては、「自分の曲が演奏されれば(ちゃんと)お金になる」という一見理想的なシステムに見える。
 でも、これのおかげで、現代の新作は大いなるリスクを抱えているのも事実だ。

 なぜなら、「使用(演奏)する側」から見ると、モーツァルトやベートーヴェンのような作曲家の作品は(著作権が切れているので)無料で使い放題。なのに、生きている作曲家の作品を演奏したり録音したりすると、「許可」および「使用料支払いの義務」が生じることになるからだ。

 これは、良く言って「関税」、悪く言えば「ペナルティ(罰金)」を課せられるようなもの。なにしろ、新しい作品を演奏するには「関税を余計に払え」、あるいは「罰金を払え」と言っているのに等しいのだから。

 例えば、古いヨーロッパ産のものは(持ち主が死んでいるので)極上ワインでも宝石でもドレスでも「みんなタダ」。一方、国産の新しいモノは生産者が一生懸命作ったぶん税金がかかるので「一つ10,000円」。そういう世界で、新しい国産の酒を売るのがいかに大変か。ご想像頂きたい。
 
 しかも、そんな「犠牲」の上に作曲家に支払われる著作権使用料というのは、オーケストラ・コンサートで15分程度の新作が演奏されて、多くてせいぜい1万円前後(時には数千円)。
 世界中のオーケストラがこぞって演奏するようになったとしても、その金額はとても「大の大人が仕事として生涯をかける」レベルではない。こんな業界に才能が集まってくるわけがないのである。嗚呼。

■新しいレパートリーは可能か?

Scoresw ……と書いてきて、いよいよ「どうしてそこまで分かっていてクラシック音楽で作曲をやってきたのか」…分からなくなってきた(笑)

 私は、かれこれ40年、「オーケストラ」という楽器に憧れて「音楽」の道を突っ走ってきた。もちろん60年代の前衛音楽はどっぷり体験したが、問題の1970年頃にはシンセサイザーに出会い、ロックやジャズを体験し、コンピュータにも出会った。そして「新しい時代の音楽」の流れはもはやクラシックから離れたと確信するに至った。
 
 にもかかわらず、オーケストラに新しいレパートリーを提供する…という作曲姿勢は、作曲家としてデビューしてから30年変わることはない。
 それは(…まあ、単に私が「バカである」ということもあるかも知れないが)、オーケストラが作り出す音楽(音響)こそが、すべてを凌駕する「人類の音楽」だという確信が(不思議なことに)まったく変わらないからだ。

 盟友:藤岡幸夫氏が、指揮の師匠である渡邊暁雄師に繰り返し言われたという言葉がある。

「我々音楽界の人間は、
 過去の作曲家の音楽を演奏して生きている。
 だから、今の作曲家にその恩返しをしなければならない」

 これは作曲家にも言える。
 現代の作曲家は、過去の多くの作曲家たちが無償の愛を注いで生み落とした音楽を聴き吸収し、それを糧として作曲家の今を生きている。
 だから、その系譜に自分なりの愛とメッセージを注ぎ返して、次の世代に引き継ぎ手渡す義務がある。

 確かに、音楽の世界は一見(私たちのかすかな努力などちっぽけな塵芥に思えるほど)豊饒だけれど、明治時代以前の(著作権が切れた)音楽遺産を食いつぶしてゆくだけで、これから先クラシック音楽が(特に日本で)生き残れるとは思えない。
 先の事業仕分けに象徴されるような「正論」が突きつけられる危険は、常にあるからだ。

 ジャズにしろロックにしろ、確かに外来音楽として入ってきた黎明期にはスタンダード・ナンバーをコピー演奏していた。でも、すぐにオリジナルを演奏し「自分たちの音楽」にしてきたはず。今はもう改めて「オリジナル」だの「新作」だの謳う必要もないほど、オリジナルの新曲を演奏するのが普通になっている。

 それなら、オーケストラだってクラシック楽器だって、私たちの時代の、私たちの世界の、私たちの感性によるレパートリーを新しく作り増やしてゆく時代が来て当たり前なのだ。

 そのために作曲家として出来ることは・・・

 良い曲を書いて、とっとと死んで、著作権が切れる死後50年(70年はきつい!)に次の世代に手渡すこと・・・(って、こんな結論で良かったのか??)

          *

Ja2010a東京フィル 新・音楽の未来遺産

New Classic Remix vol.1 ”Rock & Bugaku”

・吉松隆:アトム・ハーツ・クラブ組曲第1番 
・ドヴォルザーク(吉松隆:編曲)アメリカ Remix 
 ~弦楽四重奏曲「アメリカ」によるピアノとオーケストラのための


・黛敏郎」BUGAKU(1962)
・K.エマーソン(吉松隆:編曲)タルカス 

ピアノ:中野翔太  
演奏:藤岡幸夫 指揮 東京フィル 
監修:吉松隆


2010年 3月14日(土)15:00開演

東京オペラシティコンサートホール(初台)



入場料:S席¥5,000、A席¥4,000、B席:¥3,000、学生¥1,000

申し込み・問い合わせ:東京フィルチケットサービス:03-5353-9522

*コンサートの詳細はこちら

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2010/02/10

モーツァルトのピアノ協奏曲な世界

Mozartaa クラシック音楽を聴き始めた十代の頃、「好きな作曲家」の中にモーツァルトは入っていなかった。
 苦手とか嫌いとか言うのではなく「存在感のない音楽」という感じだったと言えばいいだろうか。

 当時はと言うと、チャイコフスキーやシベリウスの濃厚な抒情に魅了され、超重量級のワーグナーの「ニーベルングの指輪」やブルックナー&マーラーの交響曲全集そしてショスタコーヴィチやストラヴィンスキーなど20世紀の音楽に血道を上げていた頃。軽やかなモーツァルトの音楽はあまり「本格的な音楽」には聞こえなかったということかも知れない。

 ただ、そんな頃、先輩の一人がこんなことを言っていたのはよく覚えている。
「でも、朝起きたらモーツァルトのピアノコンチェルトがラジオから聞こえてくる。それに勝る幸福な瞬間はちょっとないと思うよ」

        *

Memoflora その後、難解複雑な「現代音楽」の世界を経て、作曲家として独り立ちし始めた頃、その真逆とでも言うべきシンプルさを持ったモーツァルトの音楽に魅せられるようになった。

 特に惹かれたのは、ディヴェルティメント風の軽やかな楽想のアンサンブル曲(…ニ長調のディヴェルティメントやフルート四重奏曲…)だ。そのアレグロは、青空の下を疾走するような比類のない軽やかさと美しさを持ち、音が「美しく」「軽やかに」存在する以外なにもない…という究極の自然体と言うべき世界である。

 特に、(朝、至福の目覚めを約束してくれる)ピアノ協奏曲は、自分の音楽の中でひとつの夢のような目標となった。だから、私の「メモ・フローラ」という名のピアノコンチェルトは、変ロ長調のコンチェルト(第27番)に魅せられるあまりそのオマージュとして書かれている。
 
 なぜモーツァルトのピアノコンチェルトか…というのは、一言では説明しがたいが、西洋クラシックの古典で「硬派」の代表と言えば、それはもう何と言ってもベートーヴェンの9つの交響曲。それに対して、「軟派」の代表というと・・・それこそが、モーツァルトのピアノ協奏曲ではないか、と思ったわけなのだ。

 なにしろ、その「なよっ」とした軽やかさはベートーヴェンのそれとはまさに対照的。(極端に言えば)質量ゼロ、エネルギー・ゼロの世界である。
 ストリングスと木管の織りなす柔らかなサウンドの上を、ピアノがまるで宝石の粒のような音でころころと銀のしずくを落としてゆく。

 それは、まるで朝日を浴びた木々の緑のような、果てしなくピュアな世界だ。
 もちろん「交響曲」のような、世界を構築する響きを全身全霊で組み立てる「硬派」の音楽とはまったく対照的な「軟派」の音楽だが、それが朝起きた途端に陽光と共に聞こえてきたら、…それは確かに「この世の幸せ」というべき瞬間に違いない。

■モーツァルトのピュアさ

No23f しかし、モーツァルトという作曲家には(出会いの最初から感じていたように)どうも存在の希薄なところがある。
 その証拠に、〈西洋クラシック音楽史〉の中でのモーツァルトは、必ずしも常に「大作曲家」の地位にいるわけではない。

 以前、畏友:西村朗氏と古今の作曲家を診断する対談本を作ったとき、モーツァルトについて「毒にも薬にもならない〈最大公約数的な音楽〉」という、ちょっと悪口っぽい評価で意見が一致したことがある。

 確かに彼の名は「天才」の代名詞であり、その音楽は多くの人に愛されている。なにしろ「音の純粋な心地よい響き」だけで出来ていて、聴き手に「思想を押しつけること」も「理解を強いること」もしないのだから、嫌われる理由もない。

 しかし、それは逆に言うと、「なにも引っ掛かるところのない(空気や水のような)音楽」ということでもあり、万人に好かれるけれど魂を揺さぶるわけではない、要するに「思想や内容が全くない音楽」というとらえ方も出来ることになる。

 さらに「モーツァルトみたい」というと、若くして才能を持った音楽家への最高の賛辞であり「輝かしい才能」の代名詞である。
 しかし、それは逆に言うと、それ以降の年齢や経験を経ての「円熟」や「深さ」は感じさせない(もっと言えば、子供のまま成長を止めている)ということでもある。

 水のようにピュア(純粋)…ということを、「不純物のない天からの授かり物」とプラスにとるか、「毒にも薬にもならない内容のないもの」とマイナスに取るか。
 それは、聴く人の音楽観や世界観(そして「ひねくれ方」)と同時に、時代や社会の風潮にも大きく左右されるようだ。

          *

Composersg 実際、ベートーヴェン以降のロマン派の時代には、モーツァルトの音楽は(愛好者は多くいても)必ずしも高い評価を受けてはいない。

 ロマン派の時代というのは、「音楽」というのは音だけの享楽を求める「娯楽」にあらず、人間や世界や思想を象徴し代弁するもの…すなわち「芸術」であるべきだ…という時代である。
 ただ「きれい」であったり「優美」であるだけでは意味はなく、そこに「人間そのものの有り様」や「思想」や「感情」や「苦悩」が刻印されていなければ、価値は認められない。
 ただ水のようにピュアでは、ダメなのである。

 そう言えば、明治の日本でも、西洋文明を代表する音楽としてまず入ってきたのはベートーヴェンやワグネル(ワーグナー)のような向学心や愛国心を鼓舞するようなドラマチックな作品だった。
 モーツァルトも愛好されていたが、それは初心者向けか(鹿鳴館などの社交場でBGMとして演奏されるような)軽音楽扱いだったと言っていい。

 富国強兵・西洋に学び、追いつき追い越せ…という青雲の志に燃えた明治の日本とすれば、音楽もまた世界観を広げ心を高揚させてくれるような壮大なヴィジョンを持つものが最高であり、モーツァルトのような軽やかで貴族趣味の「軟弱な音楽」は評価されなかったわけだ。

(一説には、ベートーヴェンとモーツァルトの評価の高低で、社会情勢が分かるという。戦争や革命や激動の時代にはベートーヴェンが、逆に平和でセレブで軟弱な時代にはモーツァルトが愛好されるのだそうだ)
 
 しかし、第二次世界大戦後、彼の短調の曲に漂うかすかな「無常観」について小林秀雄が「モーツァルトの悲しさは疾走する。涙は追いつけない」などと書いたあたりから、日本人のモーツァルト観は決定的に変化し始める。

■モーツァルトの暗い一面〜疾走する悲しみ

Mozart そのせいか、今でも、モーツァルトのピュアさに紛れ込んだ晩年の「翳り」こそ、彼の音楽の魅力だという人は多い。

 確かに、モーツァルトのト短調の哀愁や、ニ短調の闇からの光、ハ短調のくすんだ暗さ…は、素朴で古風な「ロマン派」的な世界ながら、心惹かれる暗いファンタジーの世界を広げてくれる。
 後の本格的なロマン派の仰々しさや物々しさがなく、軽やかさが残っているのも魅力だ。

 実際、ワーグナーやブラームスが闊歩していたロマン派王道の時代にかろうじて評価されていたモーツァルト作品は、ニ短調のピアノ協奏曲(第20番)やト短調のシンフォニー(第40番)、あるいは歌劇「ドン・ジョバンニ」のような「短調」で書かれた作品だった。

 そもそもモーツァルトの時代、音楽とは「芸術」などという大層なものではなく、聴き手を心地よくさせる「娯楽」だ。彼の音楽の大部分を「長調」の響きが占めているのも、そのせいである。
 楽器(特に弦楽器、そして管楽器)は、その響きの基本に自然倍音がある。そこから生まれる(いわゆるドミソドの)長音階こそが、最も楽器を美しく鳴らす響きだったわけだ。(そのあたり詳しくは「作曲家はどうやって調性を選ぶのか?」を参照)

 そんな伸びやかな自然倍音たちが醸し出す「長調」の響きに、一音あるいは二音ほど「濁った」音を差し込むのが「短調」。だから、その響きは(かすかな違和感として)「不安」や「悲しみ」を感じさせる。

 現代では「長調」は「明るい響き」、「短調」は「ちょっと暗い響き」などと軽く説明されるが、モーツァルトの時代には「短調」というのは「不協和音」ぎりぎりの世界だったと言っていいかも知れない。
 それを敢えて使うというのは、音楽にサスペンス色やミステリー色を加えるちょっとした「味付け」だったわけだ。

 果たしてモーツァルトがどこまで「芸術的必然」に駆られて自分の音楽に「短調」を組み込んだのかは分からない。ただ「長調」ばかりでは「何の悩みもないおバカな世界」にしか聞こえない。そのあたりはモーツァルト本人も重々分かっていたわけなのだろう。

 そこで、29歳の時のニ短調のピアノ協奏曲第20番あたりから、モーツァルトは意識的に「短調」の世界に踏み込む。
 しかし、これは当時の彼の音楽のファンにとっては「不協和音で曲を書き始めた」みたいなものだったらしく、あっと言う間に人気急落。定収入を得られるはずの予約演奏会にも客が集まらなくなり、晩年の「不遇」「貧乏」そして35歳という若さでの夭逝に繋がってゆく。

 まさに「デーモン(音楽の悪魔)」に魅入られたわけなのだが、間接的にモーツァルトを殺すことになった不人気なこの「短調」の世界が、続くロマン派の時代には彼の音楽を生き延びさせる命綱になったというのは、幸運と言うべきなのか、あるいは皮肉な話と言うべきなのか。

 ■ピアノ・コンチェルトの誕生と量産

Smallm ちなみに、モーツァルトのピアノ協奏曲は、番号付きのもので第27番まである。
 最初が17歳の時に書いたニ長調(第5番。それ以前の作は他人の曲の編曲らしい)。しかし、十代の頃はヴァイオリン協奏曲が多く、本格的にピアノ協奏曲の世界に踏み込んだのは、20歳を過ぎて音楽家として独り立ちしてから。

 その理由は簡単で、自作発表の「予約演奏会(今で言う「定期演奏会」)」で自作自演するため。
 つまり、作曲家としての存在をアピールするため、100人強くらいの聴衆を予約者(定期会員)として集め、アンサンブルを指揮したり自分でピアノを弾いたりして「新作」を披露するわけだ。

 そういうコンサートを定期的に開くことによって、定期会員からの「予約金」という定収入が得られる…という経済的理由がひとつ。
 さらに「作曲のテクニック」と「演奏の腕前」を聴かせ、一流の音楽家としてもっと大きな仕事(オペラや宗教曲の注文や、どこかの楽士長の役職など)を得る。それは芸術活動であると同時に「就職活動」でもあったわけで、それには〈ピアノ協奏曲〉というのは打って付けだったわけだ。

 実際、1782年(26歳)から86年(30歳)までの4年間で第11番から25番までの15曲が固め書きされている。
 この量産期から外れるのは、21歳の時の第9番「ジュノム」と、30歳を過ぎた晩年の2曲(第26番「戴冠式」と最後の第27番)くらいだ。

 名作として知られるのは、短調の世界に踏み込んだドラマティックな第20番(ニ短調)から以降、明朗な第21番(ハ長調)、絶品のアダージョを持つ第23番(イ長調)、暗いロマンを描く第24番(ハ短調)、「戴冠式」という名で知られる華やかな第26番(ニ長調)、そして最後の微光を放つ孤高の第27番(変ロ長調)。

 ただし、彼の時代のピアノは現代のような「グランド・ピアノ」ではなく、5オクターヴ60鍵ほどの中型サイズの鍵盤楽器(ロックバンドなどがステージで使う〈キイボード〉のサイズ)である。

 足で踏むペダルはなく、鍵盤の下に着いているダンパー(弦の残響を止める)バーを膝で押すのみ。(詳しくは「ピアノの300年史」参照)。当然、大ホールで大きなオーケストラ相手に「超絶技巧を効かせる」というコンチェルトなどあり得るはずもなく、〈ピアノ協奏曲〉と言っても基本的には「チェンバロでもピアノでも弾けるコンチェルト」である。

Quintet 伴奏オーケストラは、管楽器はペアのオーボエ、ファゴット、ホルン。それにオブリガートとしてフルート1本、あるいは(当時の新しい楽器)クラリネットが加わる程度。
 ストリングスのセクションは弦楽四重奏でも演奏可能だから、室内でのサロン・コンサートでも充分演奏できたはずだ。

 たまに(第24番ハ短調や第26番「戴冠式」協奏曲のように)トランペットとティンパニが加わるものもあるが、これは屋外で演奏する時「ハデにするため」のオプションらしい。

 もちろん現代のコンサートでは、普通の2管編成オーケストラとグランドピアノで「クラシックっぽく」演奏されるわけだが、当時モーツァルトが弾いていたサウンドは、アドリブも含めてかなり即興的で「ジャズ風」なものではなかったかと想像する。

 なにしろ当時のピアノ(クラヴィコードあるいはフォルテピアノ)は楽器としては過渡期の代物で、かなりポキポキした乾いた音がする。しかも、ペダルがないので現代のピアノのようなレガート(流れるような)奏法を期待するのは無理というもの。

 そう考えると、今ここで延々と語っている(朝、聞こえてきたら幸福なような)「モーツァルトのピアノ協奏曲サウンド」のほとんどは、モーツァルト当人には全くあずかり知らぬ、現代風グランドピアノと近代オーケストラ・サウンドによる「誤訳」の世界ということになる。

 いや、もしかすると現代の私たちが「モーツァルト的」と考えているサウンドのほとんどが、実はモーツァルトが考えていた音楽ではない…という衝撃の視点もありそうだ。
 
             *

■モーツァルトの至高〜無常の長調

Mozartm ここからは、モーツァルトの熱狂的信者の方々は読まない方がよろしいかも知れないが・・・

 そもそも「モーツァルトの音楽」などというのはあったのだろうか?

 ハイドンやベートーヴェンやブラームスなどいわゆる「大作曲家たちの音楽」は、彼らが(ある意味では強引に)血肉で作った個性が刻印されている。
 でも、モーツァルトが作っていた音楽にそれは希薄だ。

 子供の頃からヨーロッパ中を飛び回り、才能に任せてあちこちでオペラや交響曲や協奏曲から宗教曲まで雑多に手を出し書きまくっていた彼の「創造」には、作風やスタイルに関する確固たる理念はない。
 ただイタリア音楽を聴けば、それ以上にイタリア的な軽やかで明朗な音楽を書き、ハイドンを聴けば、それ以上に無駄がなく完成度の高い弦楽四重奏や交響曲を書き、ロココ風の音楽を聴けば、それ以上に華麗で流麗な音楽を書く。

 つまり、彼の音楽と見えるものは、すべてその時代の雑多な音楽を、彼風に濾過し蒸留したもの。
 要するに「モーツァルトの音楽」というのは存在せず、そこにあるのはモーツァルトという才能に反射した「その時代の音楽のエッセンス」に過ぎない…というのが今回の暴論の趣旨である。

 それに、現代においてモーツァルトの「天才」と見えるもの(例えば、斬新に聞こえる形式や転調やパッセージなど)は、おそらく聴く人をちょっと脅かそうという子供っぽい悪戯心から成されたもので、シリアスな芸術的創意とは違う。それは、どこまでも「遊び」なのだ。
 
 そこから導き出されるモーツァルト像は、音楽については「何も考えていない」、ただ自分の周りにある音楽すべてを「鏡のように反射させ」、ただひたすら「遊んでいただけ」…ということになる。

 これはロマン派以降の視点からすると究極の「悪口」に聞こえるかも知れないが、このことこそがモーツァルトの凄さでもある。
 そんな境地で音楽を書けるのは「天使」か「阿呆」しかいないからだ。

 (モーツァルトがそのどっちか?…というのは各自お考えを)

No23 だから、そんな「天使(無垢な子供)」であるモーツァルトの音楽を、ロマン派以降の視点で「芸術性」だの「精神性」だので論じても意味は無さそうだ。

 かろうじて、モーツァルトの無垢に混じり込んだ「翳り」として最高だと思うのは、彼が死の直前に到達した〈「短調」に踏み込む直前で回避された「長調」の作品〉だろうか。

 ニ短調ピアノ協奏曲のデーモンもドン・ジョバンニの煉獄もレクイエムの涙も、所詮は先達がハイドンしかいない時代の独り言のロマン。次世代の作曲家たちのロマン的表現の原点とはなったが、その後ハーモニーやサウンドの怒濤の表現拡大によって軽く凌駕されている。

 しかし、ただ長調の音階の音を絶妙に組み立てるだけの「軽さの美学」(決して皮肉ではなく!)では、いまだにモーツァルトを凌駕する「天使(かつ阿呆)」の境地に達した作曲家はいない(決して皮肉ではなく!)。

 その到達点が・・・晩年のイ長調(第23番)や最後の変ロ長調(第27番)のピアノ協奏曲や、クラリネット協奏曲そしてクラリネット五重奏曲、あるいは「アヴェ・ヴェルム・コルプス」や「魔笛」の幾つかのアリアなどに聞こえるわけなのだが・・・

 そこには、「長調」で明るい世界なのに、不思議なほど透明な無常観が漂っている。(それは、作曲法的に言うと、ドミナント的あるいは導音的なテンションを限りなくゼロに近づける高等技法とでも言えるだろうか)

 言うなれば「敢えて表現しないことによる表現」。

 これこそ、その後のロマン派の時代にも達成し得なかった、そしてモーツァルトだけが手に入れた(しかし、手に入れたと同時に当人が死んでしまい封印されてしまった)孤高の音楽語法なのかも知れない。

 なぜなら…
 人は、本当に悲しいとき、涙を流して泣いたりしない。
 ふと、力なく微笑むのだ。

          *

Flyer■アンスネス&ノルウェー室内管弦楽団

□2010年3月21日(日)14:00
 東京オペラシティ・コンサートホール

・モーツァルト
 ピアノ協奏曲第23番
イ長調K.488
 交響曲第35番「ハフナー」ニ長調 K.385
・

グリーグ
 ホルベルグ組曲 (ホルベアの時代より)
・モーツァルト
 ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 K.491

 レイフ・オヴェ・アンスネス:指揮&ピアノ
 ノルウェー室内管弦楽団

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2010/03/10

オペラへの遙かなる道〜ヴェルディvsプッチーニ(前編)

Title そもそもクラシック音楽の世界で「プロの作曲家になる」というのは、「オペラで成功をおさめる作曲家になること」だった。

 私たちが「クラシック音楽の作曲家」の原点として真っ先に思い出すモーツァルトやベートーヴェンは、教会や貴族の「雇われ音楽家」という地位から訣別して〈自由な音楽家〉として独立した。記念すべき「芸術家としての作曲家」の誕生である。

 しかし、残念ながら〈芸術家〉というのは「職業」ではない。誰だって詩を口ずさめばその瞬間から〈詩人〉であり、ちょっと顔が良くて女の子にもてれば〈イケメン〉、人をだましてお金をくすねれれば〈詐欺師〉だが、それは恒久的な仕事でも安定収入の道でもないから「職業」とは言えない。それと同じだ。

Mozart そもそも、今でこそソナタとか交響曲というような作品が「不滅の名曲」と呼ばれているものの、現実問題としてはそんなものを書いて「収入」につながることはまずない。頼まれもせず自由意志でソナタや交響曲のような曲を書く場合は、収入にならないどころか、逆に上演するために自腹を切らなければならないことだって少なくないほどだ。

 それでも作曲家がそういう作品を書くのは、「私はこういう音楽を書けるのですよ」と自分のスキル(技術)をアピールし、「大きな仕事」を得るための…今で言うなら「就活(就職活動)」だ。自分でオーケストラを雇って自作自演の「作品発表会」を開いたところで、それにかかる労力や経費と入場料収入を考えた場合、赤字にならなければ御の字…と言うレベル。(ベートーヴェンの自作発表会やモーツァルトの予約演奏会も、そんなものだったに違いない)

 それでも、作曲家たちは損して得取れとばかりに自分の音楽をアピールし、最終的な「大きな仕事」を得るために努力を重ねた。それこそが大きな社会的成功と経済的報酬につながる「作曲家」としての最終目標であり、それが「オペラ」だった。

□作曲家はオペラを目指す

Composera 作曲家が「音楽」を書いて得られる収入というのは、お金持ちや演奏家に頼まれて曲を書くときの「委嘱料」、そして楽譜が出版されたときの「出版料」くらい。現代では「著作権」という考え方があるが、それが定着するのは20世紀になってから。普通は「演奏家」や「指揮者」として活動し、そこで自分の曲を演奏して「出演料」を手にするのが基本。自分が知らないところで自分の曲が演奏されても一円にもならない。

 それでも、ラジオ放送もテレビもCDもない時代、自宅で音楽を聞くには自分で弾くか、あるいは雇われ楽士に演奏させるかしかなかったわけで、「楽譜」は多く出版され、そこそこは売れていた。ただし、ピアノや楽器の演奏をたしなむ裕福な階級に限定されるわけだから、ヨーロッパ中で売れても部数としてはせいぜい数百というレベルだろう。大衆に売れる「歌曲」や「ピアノ小品」でも数千といったくらい。それだけで「印税生活」が出来るはずもない。

 芸術家と言い張っても、(実家が金持ちだったり、有力なパトロンが付かない限りは)つまるところ貴族の子女にピアノを教えたり、音楽学校で生徒を教えて給料をもらったり、という以外の「安定収入」はほぼありえなかったわけだ。

Operaw しかし、「オペラ」だけは違った。
 ヨーロッパの都市にはほとんど公立の劇場があり、王族や貴族がパトロンの宮廷劇場から、一般市民の娯楽施設である市民劇場まで、映画もテレビもない時代の唯一の「娯楽施設」として機能していた。

 演劇だけ音楽だけ舞踊だけの興業ももちろんだが、中でもオペラはそれらすべてが合体した究極の「総合娯楽舞台」。ドラマもあれば音楽もあり、主人公の英雄やヒロインたちに心酔し、美術や衣装も楽しめ、時にはバレエや踊りが加わることもある。これはもう究極のエンターテインメントというしかない。

 現代で言えば「映画」と「テレビ」と「ゲーム」と「コンサート」をぜんぶ一緒くたにしたような最高最大の「娯楽」。それに関わる作曲家に莫大な報酬が転がり込んで来るチャンスが充分にあったのである。

 とは言えオペラは、登場する歌手や合唱、オーケストラと指揮者、舞台美術や演出家、などなど大勢のスタッフが必要なうえ、ある程度のリハーサル期間が必要だから、初期投資(イニシャル・コスト)は莫大な金額になる。(人件費や舞台・衣装・大道具・小道具など含めて、ざっと数億円から十数億円というレベルだろうか)。とても作曲家が一人で自腹を切れる次元ではない。

 しかし、一旦「舞台」を作り上げれば、あとは数百あるいは千人前後は収容できる劇場で、結構な入場料を取る公演を何回でも開くことが可能。もちろん国や金持ちたちからのバックアップもあっただろうが、立派に「興業」として成り立ち、うまく行けば大儲けが出来るものだったわけだ。

 その「核」となるのは、もちろん人気歌手だが、演目そのものは「脚本家」と「作曲家」が作るもの。となれば、著作権がどうのという意識がなくても、当然ながら「作曲家の取り分」は興行収入(入場料x客の数)の何%という形で確保される。

 人気になって続けて再演されるようになれば運用費用(ランニング・コスト)は出演者たちのギャラだけとなり、ある時点からは収入のほとんどが「儲け」になる。さらに、「台本」と「楽譜」さえ送れば、別に作曲家が指揮や演奏に出かけなくても、ヨーロッパ中のあちこちの劇場でも上演されるようになる。こうなれば、作曲家は家に居たままどんどん入ってくる莫大な興行収入を待っているだけでいい。

 そういうオペラをひとつ手にすることが出来れば、生活に不安はなくなり、さらに複数連作できれば、安定した高収入が保証される。当然ながら新作の作曲料も高騰するし、オペラに集まる金持ちたち(時には王侯貴族や大富豪たち)とも交流が増え、お金に困ることもなくなり、それこそセレブな生活が思いのまま。音楽の道での社会的成功を目指す作曲家にとっては、これは最大にして究極の「目標」だったのである。

□オペラ「負け組」と「勝ち組」

Beethoven かくして多くの作曲家たちがオペラに挑戦し、かのモーツァルトも自作のオペラの成功不成功に生涯一喜一憂を繰り返したが、成功組はごくわずか。オペラの成功を夢見て苦闘しながら、結局は負け組となった「大作曲家」の方がはるかに多い。その筆頭は何と言ってもベートーヴェンだろう。

 1805年35歳というもっとも脂ののりきった頃に渾身の力作として「フィデリオ」を書き下ろすも、初演は失敗。その後、幕数を減らしたり序曲を書き直したりと何度も何度も改訂し、10年ほどかけて現在聞くような形に完成させてなんとか好評を得たが、10年かけて1曲だけではとても豊かな「収入」になるはずもなく、晩年はひたすら貧乏作曲家のイメージが強い。

 しかし、この時オペラがすんなり成功してお金持ちになっていたら、交響曲などというお金にならないジャンルに固執することもなかっただろうから、第4番以降の交響曲はもしかしたら存在しなかった可能性が大きい。このオペラへの挫折とストレスが、逆に不屈の人ベートーヴェンを育てたとも言えるので微妙なところだ。

Rossini このベートーヴェンの時代にオペラ界で一世を風靡した「勝ち組」の筆頭がロッシーニ。1816年24歳の時に書いた「セヴィリアの理髪師」を始めとする軽やかでエンターテインメント性にあふれた諸作品は、本拠イタリアはもちろんのこと、ベートーヴェンの全盛期のウィーンでも大人気で、現在のベートーヴェンとロッシーニの人気をそのまま逆にしたほどの圧倒的な差があったようだ。(実際、飛ぶ鳥を落とす人気作曲家だった30歳のロッシーニは、ウィーンを訪れた時に52歳のベートーヴェンのアパートを表敬訪問し、その貧乏暮らしに涙したと伝えられている)

 全盛期は年に4曲近く書き飛ばし、イタリア国内はもちろんパリやウィーンでも大絶賛を受け、生涯で40近いオペラを書きながら37歳の時の「ウィリアム・テル」であっさり打ち止めにしたあとはグルメ三昧の楽隠居。76歳で亡くなるまでオペラの再演報酬やイタリアやフランスなどあちこちの国からの年金で(全くお金に困ることのない)セレブな生活を送ったそうである。

 そのため「ロッシーニのようになりたい!」というのが、この時代以降、すべての貧乏作曲家たちのあこがれの目標になる。

Schubert 今では「歌曲」の作曲家として不滅の地位を保っているシューベルトも、オペラを当てたくて悪戦苦闘しながら夢破れた「負け組」の一人。あれだけの美しいメロディを生み出していながら、オペラの演劇性とは肌が合わなかったのか、「アルフォンゾとエストレッラ」「家庭争議」「フィエラブラス」「4年間の歩哨兵勤務」「双子の兄弟」「サラマンカの友人たち」などなど、かなりの数のオペラを書いているが成功したものは一つもない。

 もっとも、1828年にわずか31歳で亡くなっているし、「魔王」のようにドラマ性を全開にした歌曲も書いているので、一旦コツを覚えたら人気オペラ作曲家に大化けする可能性も十分あったように思われる。

Berlioz ポスト・ベートーヴェンの時代の革命児であり「幻想交響曲」(1830)で近代オーケストラの始祖となったベルリオーズも、最終的にはオペラの成功を目指した一人。ベートーヴェンの「第9」に音楽の未来を見ながら、純器楽的な交響曲への方向はあっさり見限り、演劇性を追求した劇的交響曲「ロミオとジュリエット」、劇的物語「ファウストの劫罰」に続き、「ベンヴァヌート・チェリーニ」「トロイ人」「ベアトリスとヴェネディクト」など大規模なオペラに挑戦している。

 彼の近代オーケストラにおける革新性は常に話題になっていたし、それなりの人気もあったものの、残念ながら(フランス製ということもあったのかどうか)興行的に成功したオペラ作曲家とはとても言い難い。大作をものにはしたものの、彼もオペラに関しては「負け組」に数えていいだろう。

Meyerbeer それに対して、フランスを中心に一世を風靡したのがマイアベーア(1791〜1864)という作曲家だ。ポスト・ロッシーニの世代にあたる(ロマン派初期の)オペラ作曲家で、ドイツ生まれながらイタリアで音楽を勉強し、パリを本拠地にして作曲を続けたという不思議なスタンスの人。

 しかし、ロッシーニ的なイタリア・オペラのセンスと、ドイツ的な構築性とドラマ性を併せ持ち、さらにフランス的な華麗さを見事に統合させ、「エジプトの十字軍」「ユグノー教徒」と言った人気オペラを発表、グランド・オペラ(豪華絢爛な歴史絵巻的なオペラ)の世界を確立した。

 当時は完全な「勝ち組」の作曲家で、むかしの音楽史の本などではモーツァルト、ベートーヴェンなどと肩を並べ、ワーグナーやヴェルディに強い影響を与えた「大作曲家」クラスの扱いだったのだが、今では残念ながらほとんど作品が上演される機会もなく、名を知る人も少なくなってしまった。これを「勝ち組」というのか「負け組」というのか・・・?

Wagner そんなロッシーニやマイアベーアの成功を横目で見ながら、「彼らのようなオペラ作曲家になりたい」という野望に燃えて貧乏時代を耐えたのがワーグナー。そのわりにロッシーニの軽さともマイアベーアの華麗さとも無縁のゲルマン的な暗い題材が多いが、独特の押し出しの強さ?もあって「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」などを成功させ、新進オペラ作曲家としてのスタートを切る。

 とは言え、彼のゲルマン臭の強い神話的で晦渋なオペラは、一般大衆向けとは言えずどこまで興行的に通用したかは疑問。しかし、バイエルン国王ルードヴィヒ二世という大パトロンを得たことで、その後の状況は一変する。以後は、お客が入るかどうか=興業収益を得られるかどうか、ということを考えずに、自分専用のオペラ劇場「バイロイト祝祭歌劇場」まで手に入れ、妄想狂的な次元にまで膨らんだインスピレーションを自由に暴走させることができた。(おかげで国が一つ傾いてしまったが)

 彼の場合は、ちょっと例外的な(と言うより反則に近い)力ずくの「勝ち組」というべきだろうか。

 このワーグナーの影響力か、その後しばらく「オペラ(歌劇)」というのが、かなり社会的にも金銭的にも肥大した(現代で言うならハリウッド風大スペクタクル映画のような)イメージになったのは否めない。
 そのあたりの反感からか、全く金にならないと分かっていて交響曲のような純音楽の世界に邁進するのが潔い…とする作曲家も出て来る。ブラームスやシベリウスなどがハッキリ「オペラには手を出さない」というポリシーを口にしたのは、逆に「オペラを書いて一儲け」みたいな音楽姿勢を(本音はどうあれ)嫌ってのことなのだろう。「武士は食わねど高楊枝」か。
 
 …と、こうざっと見てくると、交響曲やソナタのジャンルでは「勝ち組」も「負け組」もさほど収入の格差はないものの、オペラに限っては天文学的な収入の格差があることがよく分かる。

 確かに、「芸術を創造する」ことより「娯楽を供給する」ことにこだわるのが「プロの作曲家」であり、そのプロ意識が莫大な収入を生む。しかし、一方でそういった「娯楽の供給」に長けた特質は、「芸術性の低さ」という評価によって打ち砕かれてしまう「両刃の剣」であることも確かだ。
 それはもちろん純粋に「音楽性」の問題でもあるが、同時に、成功を得られなかった大多数の音楽家&評論家たちの「復讐」でもあるから、かなりの怨念が籠もっていてちょっと怖い。

 生きているうちに「お金」をもらって死後は引きずり下ろされるか、生きているうちは貧乏で死後は「栄誉」を得るか。まさに究極の選択…(いやいや、生きているうちが花の方が良いに決まってるような気もするが)。これはなかなか難しい問題である。

Tchaikovsky ちなみに、ちょっと不思議なのが、クラシック界屈指のメロディ・メイカーであるチャイコフスキーの場合だ。彼も、そのメロディ作りの才能を生かしてオペラの成功に苦闘し続けた一人。「エフゲニー・オネーギン」「スペードの女王」あたりはロシア限定で知られているが、「オルレアンの少女」「マゼッパ」「鍛冶屋のヴァークラ」「イオランタ」など未完に終わったものも含めると十数編のオペラを書いていながら、彼を「オペラ作曲家」に数える人はまずいない。

 彼の音楽は「芸術音楽」という視点では必ずしも高評価でないものの、聴き手の心をわしづかみにする「恥ずかしいまでに見事な」メロディや曲作りのセンスは、クラシック音楽界でも最高峰の一つ。なにしろ「バレエ」の世界を大衆的なファンタジーにまで昇華させ、「交響曲」ですら大衆的なレベルの成功にしてしまう最強の作家なのだ。

 その彼がなぜオペラでだけ成功できなかったのだろう? 
 こればかりは「謎」だ。

□ヴェルディとプッチーニ

 つまるところ、いかに才能があっても「娯楽」と「芸術」を統合し、両手に花を持つのがいかに大変か…ということだが、それでも、オペラで「成功」をおさめた「勝ち組」で、かつ現代でもその人気を不動のものとしている大作曲家がいる。
 ヴェルディとプッチーニである。
 
Verdi ジュセッペ・ヴェルディ(1813〜1901)は、ワーグナー(1813〜1883)と同い年の生まれ。ワグナーが「さまよえるオランダ人」を書き上げた1842年に、ヴェルディも最初の成功作「ナブッコ」をスカラ座で初演して、オペラ界にその名を知らしめているから、作曲家としてのキャリアもほぼ同じだ。

 片やドイツっぽさ全開の楽劇を目指せば、片やイタリアっぽさ全開のオペラを開花させ、聴くものの愛国心を駆り立てたのも同じ。ヴェルディの場合は「イタリア統一運動」と呼応し、ワーグナーの方はドレスデンの三月革命に参加している。共に血の気の多い、民族主義者の顔を持っている。

 四十代には、片や「リゴレット」と「椿姫」、片や「トリスタンとイゾルデ」という人気作をものにし、人気実力ともイタリアおよびドイツの最高峰に登り詰め、セレブの地位を確保。国家的な作曲家となった1867年という壮年期には、ワグナーの「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に拮抗するかのような「ドン・カルロ」といった大作に踏み込んだのも同じ。

 そして、その到達点とも言えるスペクタクル巨編としてヴェルディは「アイーダ」、ワーグナーは上演に4夜かかる「ニーベルングの指輪」を発表。ある意味でオペラの頂点を極めたと言っていい。さらに、晩年にはいくぶん軽めの透明感を持つ「ファルスタッフ」そして「パルジファル」を最後の作品として残したのもどこか似ている。

Puccini 一方、ジャコモ・プッチーニ(1858〜1924)は、ヴェルディが 最後のオペラ「ファルスタッフ」を発表した1893年に、「マノン・レスコー」の成功でオペラ作曲家の仲間入りを果たしている。

 その後は「ラ・ボエーム」(1896)、「トスカ」(1900)、「マダム・バタフライ」(1904)の三作で完全にヴェルディに次ぐ最大の人気イタリア・オペラ作曲家としての名声を確立している。

 ただし、時代は二十世紀を迎え、プッチーニのあまりにも分かりやすくて大衆に受ける作風は、ドビュッシーやシェーンベルクあるいはストラヴィンスキーなどが登場し始める「新しい音楽」の風潮の中では浮いていたことも事実。最後のオペラ「トゥーランドット」(1926)も含め、その後の「前衛音楽」の時代には「時代遅れ」という酷評をされたこともあった。

 しかし、大衆的な人気という点では圧倒的で、いまだにそのメロディの美しさと叙情的かつ感傷的な音楽は、愛され続けている。

 というわけで、次回は、そんなヴェルディとプッチーニの世界にもう少し踏み込んでみよう。

           *

トリノ王立歌劇場

Traviata

ヴェルディ「椿姫」
・7月23日(金)18:30東京文化会館
・7月26日(月)18:30東京文化会館
・7月29日(木)18:30東京文化会館
・8月1日(日)15:00東京文化会館

Boheme_2

プッチーニ「ラ・ボエーム」
・7月25日(日)15:00神奈川県民ホール
・7月28日(水)18:30東京文化会館
・7月31日(土)15:00東京文化会館

総裁:ヴァルター・ヴェルニャーノ
指揮:ジャナンドレア・ノセダ
トリノ王立歌劇場管弦楽団&合唱団

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2010/04/10

薄幸のヒロイン対決 〜ヴェルディvsプッチーニ(後編)

Vp ヴェルディとプッチーニは、イタリア・オペラの二大巨人でありながら、かなり対照的な作風だ。
 一言で言えば、ヴェルディは男性的で「ドラマティック(劇的)」、プッチーニは女性的で「リリック(抒情的)」。
(ちなみに、現代では、男性的と女性的の意味はほぼ逆転or無意味化しているが、それはそれ)

 ただ、この二人、30代後半の中堅という時期に、「男の純情」を描いたオペラを書いているのが面白い。ヴェルディは「椿姫」、プッチーニは「ラ・ボエーム」。今回はこの2作にスポットを当てて、この二大巨匠の愛の世界を語ろう。

 まずは、この2作の簡単な紹介から。

Traviata2■椿姫@ヴェルディ

□概要とあらすじ

 原作はデュマの小説「椿姫」(1848年)。台本はピアーヴェ。作曲:1853年(ヴェルディ:40歳)。

 舞台は19世紀のパリ(イタリア・オペラなのに…)。「椿姫」と呼ばれた高級娼婦ヴィオレッタが主人公。

 この源氏名の由来は、「椿」の花をいつも身につけていたからだそうだが、いつもは「白い椿」、そして生理中だけ「赤い椿」を付けていた…というあたりが普通の堅気の女性とは違うところ。

 売春婦という言い方をしてしまうと身も蓋もないが、夜の社交界とは言え相手は貴族や大金持ち。当然ながら知的水準もファッションのセンスも高かったわけだから、かなりの知識と教養(例えば、宝石やワインなどから、歴史や政治、文学や音楽などなど)が必要だったはず。

 そのあたりは、江戸時代の吉原で言う「太夫(たゆう)」を思わせる。こちらも、大金持ちの隠居や文化人などを相手にするには、芸事から文学に至るまで相当の教養が必要。中には「椿大夫」などという遊女もいたかも知れない。

(ちなみに、江戸時代は「椿」というとポトリと花が落ちるのが首が落ちるのを連想させ、武士には不人気な花だったそうだが、西洋の椿Cameliaはちょっと違った種類)
 
Camelia そんな海千山千の(今で言うと…政治家や作家など金持ちのパトロンが大勢いる銀座の最高級バーの)ナンバーワン・ホステスが、ある時、パーティにやって来た純情青年アルフレードに「実は前から好きだったんですぅ」と告白され、恋に落ちてしまうのが、この「椿姫」のお話。

 その理由はよく分からない。劇中で当人も「不思議だわ」と何度も呟いているように、魔が差したのか、今の生活から離れたかったのか…
 しかし、その思いは意外と本気で、パトロンとの繋がりもバッサリ捨て、邸宅や財産も処分して、純情青年との「つつましい生活」を夢見て一途に突っ走る。

 ところが、青年の父親からすれば、「世間を知らない若い息子が、商売女にたぶらかされている」としか見えない。しかも、息子が「娼婦と結婚する」などということにでもなれば、娘の結婚話に差し障る。
 そこで、抗議に出向くのだが、話すうちに相手の「純愛」に気付き、非礼はわびながらも「身を引いてくれ」と嘆願。情にほだされた彼女は、結局、自分の方から別れ話を持ち出して、青年と分かれることを決心する。

 ヴィオレッタから「別れの手紙」を送りつけられ、「裏切られた」と誤解し激昂する純情青年アルフレード。新しいパトロンと思い込んだ男爵と決闘することになるなど「すれ違い」は頂点を極める。
 結局、父親が真実を話して誤解は解けるが、二人の間にできた溝は簡単に元には戻らない。

 数ヶ月後、ようやくすべてが解決し、青年アルフレードはヴィオレッタの元に戻ってくるが、その時既に遅く、病(肺結核)に冒されていたヴィオレッタは、アルフレードの胸の中で息を引き取ってしまう。

Traviata1 □背景

 まさに「純愛もの」の王道を行く物語だが、「娼婦」が主人公というのは、さすがにちょっと特殊と言えなくもない。
 現在でも眉をしかめる方々がゼロではないだろうし、発表当時のイタリアでも「娼婦が主人公のオペラなんて!」と、かなり問題作だったようだ。

 タイトルが原題の「椿姫(La Dame aux camelias)」ではなく「トラヴィアータ(La Traviata):堕落した女」とされたのも、そんな検閲のせいらしい。
 要するに、主人公はあくまでも「堕落して人の道を踏み外した売春婦」であり、それが「天罰」を受けて病死する…という筋書きとして申請したことでなんとか上演を許可された…ということのようだ。

 しかし、ヴェルディは主人公の名前を「ヴィオレッタ」(すみれの花)と名付けたほか、前奏曲でもいきなり清楚で悲劇的なイメージを打ち出し、全面的に「同情」のポーズを隠していない。
 大金持ちのパトロンに囲まれて、連日豪華なパーティで遊興を極める日々…という堕落した境遇ながら、魂は高貴な女性…というのが、ヴェルディから見たヴィオレッタ像…のようだ。

 これは、日本で言えば、まさに吉原の大夫(遊女)と大店の息子の道ならぬ恋…という「心中もの」の王道を行くストーリー。「椿姫」の日本での人気はそのあたりの共感もあるのかも知れない。

Boheme3■プッチーニ「ラ・ボエーム」

□概要とあらすじ

 一方の「ラ・ボエーム」の方は、原作はミュルジュールというフランスの詩人による短編集「ボヘミアン生活の情景」(1849)。台本は(トスカ、蝶々夫人も手がけた)ジャコーザ&イッリカ。作曲は1895年(プッチーニ37歳)。

 タイトルの「ボエーム(La Bohème)」はボヘミアン。もともとは定住せずに放浪している人たち(ジプシーや旅芸人など)のことだが、転じて(貧乏ながら自由に)生活している芸術家や詩人・作家などのこと。
 語源の「ボヘミア」はチェコ西部地域の名称(ドヴォルザークがこのボヘミア出身)。この地方の牧畜民の服装や生活スタイル(アメリカ西部のカウボーイのルーツ)が、放浪民や芸術家のスタイルを思わせたことから、そう呼ばれるようになったらしい。

 舞台はパリ(イタリア・オペラなのに…)。季節は冬。主人公は、そんなボヘミアンである貧乏詩人のロドルフォ。
 安下宿の一室で貧乏仲間と暮らしている彼は、クリスマス・イヴの夜、火を借りに来たお針子のミミと出会い、恋に落ちる。

 貧しいながらも仲間たちと共にカフェに集まってクリスマスを楽しむロドルフォ。しかし、肺病(肺結核)がミミの体を蝕んでいる。

 二人は慎ましい生活を始めるが、ロドルフォの方は「自分のような貧乏な男と一緒ではミミの病気が治らない」と、分かれる決心をする。
 一方のミミは、そんなロドルフォの決心を知り、自分から身を引く決心をする。

 そして、数ヶ月後、ミミは肺病の末期となり、「死ぬ前にもう一度だけ会いたい」とロドルフォの部屋を訪れるが、恋人に看取られながら息を引き取ってしまう。

Boheme4 □背景

 タイトルの「ラ・ボエーム」は「若きボヘミアンたち」というようなニュアンスで、一種の青春群像のような趣がある。普通オペラのタイトルは「マノン・レスコー」「トスカ」「蝶々夫人」「トゥーランドット」など主人公の名前であることが多いので、ちょっと異例といえば異例かも知れない。

 貧乏詩人や画家たち(音楽家や哲学者も登場する)の群像をオペラにしたのは、プッチーニ自身が若い頃こういったボヘミアンな生活をしていたことがベースにあるようだ。
 実際、ミラノの音楽院時代に、同期の作曲家マスカーニ(カヴァレリア・ルスティカーナの作曲者)と安アパートで共同生活をしていたようで、その頃の苦学していた経験がかなり反映されているらしい。
 そう言われると確かに、第1幕などの貧乏生活の描き方には妙なリアリティがある。

 そのせいか、プッチーニは台本にもかなり細かい注文を出していたようで、2人の台本作家(ジャコーザ&イッリカ)と侃々諤々の議論をしながら構想から3年めにしてようやく完成。
 作曲はその後ほぼ丸1年をかけて進められ、最後の「ミミの死」のシーンはそれこそ涙を流しながら作曲したという。

 最初から最後まで「貧乏な」話というのは、オペラではちょっと珍しいが、クリスマス・イヴのカフェなど賑やかな群衆場面もあり、明るく楽しい場面も多い。
 このあたりは「椿姫」と同じで、華やかなパーティや賑やかな音楽が流れれば流れるほど、悲劇が浮き立つ…という効果があるようだ。

Traviata3■椿姫vsボエーム

□初演と評判

 さて、30代後半に差し掛かった中堅オペラ作曲家が描いた2つの「男純情」の物語。その時代にはどういう評価をされたのだろう?

 ヴェルディが「椿姫」を発表したのは、40歳の頃。初演は、1853年3月、ヴェネツィアのフェニーチェ劇場。既に「ナブッコ」「マクベス」「リゴレット」「イル・トロバトーレ」などで中堅のオペラ作家として成功を手にしている。
 しかし、この「椿姫」でちょっとした挫折を味わうことになる。

 その理由は、肺結核で死ぬ薄幸の美女ヴィオレッタを歌った歌手が、まるまる太ったソプラノだったこと・・・というのは(音楽史上に残る笑い話?としても)有名。

 ただ、終幕部分は失敗でも、このオペラ、冒頭すぐパーティで賑やかに歌われる「乾杯の歌」にしろ、ヴィオレッタが恋を感じる「ああ、そは彼の人か」のアリアにしろ、全編「名旋律」のオンパレード。
 これほどふんだんに惜しげもなく素敵なメロディを繰り出すオペラはちょっとない。ビゼーの「カルメン」と並んで、(筋書きなど微塵も分からなくても)誰もが音楽だけで夢中になるオペラの筆頭と言えるだろう。

Boheme2 一方のプッチーニ「ラ・ボエーム」が生まれたのは、その40年後。当時のプッチーニは、オペラ3作目に当たる前作「マノン・レスコー」で一躍大人気オペラ作家になった新進の36歳。「ラ・ボエーム」はそれを受けての渾身の自信作である。

 初演は、1896年2月トリノ王立劇場。指揮はそこの音楽監督に就任したばかりの29歳のトスカニーニ。
 3年前(1893年)同じトリノで初演した前作の「マノン・レスコー」ほどの「大成功」とまでは行かなかったが、聴衆はこの美しいオペラにすぐ夢中になったようだ。

 ただし、ドラマティックというよりリリカル(抒情的)な物語と音楽だったせいか、批評家の受けはよくなかったらしい。
 その後もプッチーニ作品には必ずつきまとう「内容が軽い」「お涙頂戴」「時代錯誤」という悪口は、この頃からあったようだが、それがプッチーニのオペラ最大の魅力なのだから仕方がない。

 しかし、第1幕の「冷たい手を」や「わが名はミミ」あるいは 第2幕の「ムゼッタのワルツ」をはじめ名旋律の宝庫。
 その後、ローマ、ナポリ、パレルモで再演されると、聴衆の熱狂はピークに達し、以後、この作品はプッチーニの代表作として、世界中で愛され続け現在に至っている。
 

Traviata7□類似点

 それにしても、この二つの作品、よく似ている。

 ひとつは、徹頭徹尾、真正面から純愛を(恥ずかしくなるほど正攻法に)描いていること。
 こういう直球勝負の話は、時代によっては「お涙頂戴」とか「笑ってしまう」とか全否定されることも少なくない。最近の日本は「純愛」ブームらしいのでOKだが、ひねくれた演出にかかると「喜劇」になりかねない危険な題材でもある。

 もうひとつは、「愛するがゆえに身を引く」恋人と、それを「心変わり」と誤解して悩む相手…という対位法的な「すれ違い」を使って、観客をやきもきドキドキさせる手練手管。
 これは、「障害が大きいほど、愛は強くなる」という恋愛ドラマの法則に則ったトラップ(?)…というより「お約束」。出会って→相思相愛になり→ハッピーエンド…ではオペラにならないのである。

 そして最後に、薄幸の美女が恋人の胸の中で「死んでしまう」という究極の「落としどころ」を完備していること。
 それでなくともオペラは、「主人公の死」で終結するものが多い。普通は悲劇的なドラマ力学のクライマックスとして「死」を設定するが、この2作はむしろアンチ・クライマックスというべきか。それでも、「泣けるシーン」としてのこの「とどめ」の一発は最強だ。

 ちなみに、ヴィオレッタ、ミミとも、死因は「肺結核」。
 このオペラの舞台となる19世紀中頃は、原因不明の病気であり、発病すると、やせ細り、末期には咳と共に吐血する「死の病」。しかも、治療法は「空気の良い場所で静かに療養する」しかなく、伝染性のある病気であることすら知られていなかった。
 コッホにより病気の原因(結核菌)が解明されたのが1882年、抗生物質ストレプトマイシンの発見が1943年。日本でも「労咳(ろうがい)」と呼ばれ、戦後しばらくまでは死亡率の首位を占める「死の病」の定番だった。
 
 そんな「不治の病」で、純愛に燃える二人の仲が引き裂かれ、最も美しい若い時期にもかかわらず死に至る。これで泣かなければ人間ではない…というような「お涙頂戴の王道」(決して否定的な意味ではなく!)である。

 これはヨーロッパ人の涙腺も直撃しただろうが、我らが日本にも「浪花節」とか「心中もの」の歴史があり、この手の話には涙腺がゆるんでしまうこと請け合いだ。

Traviata8□ヴェルディとプッチーニの恋愛経験

 ところで、この「純愛」路線の2作、どうやら作曲家自身の恋愛体験とも重なるところがあるようだ。

 ヴェルディは、1836年(23歳)に恩人でありパトロンでもある知人の娘と結婚しているが、4年後に死別。その直後、最初の成功作「ナブッコ」に出演したソプラノ歌手(3人の子持ちの未婚の母)とやがて同棲を始めている。

 この二人、のちに正式に結婚するのだが、「椿姫」を作曲したのはちょうど「亡き妻への思い」と「新しい恋人への愛」に挟まれていた頃。
 ヴィオレッタの「若くして病死する女性」という姿は、おそらく20代後半で病死した自分の妻に重なるのだろうし、「愛しているのだが添い遂げられない」という煩悶は、妻の死の後すぐに愛人と結婚できないヴェルディ自身の悩みとも重なったのだろう。
 
 ちなみに、そんなカトリック的に厳格で真面目なヴェルディに対して、同い年のワーグナーは真逆のスタンス。奥さんがいながら数人の女性と付き合い、その中の一人である人妻マチルダとの不倫関係からイメージを暴走させた名作「トリスタンとイゾルデ」を書き上げている。
 こちらは「純愛」どころではなく、愛をめぐるどろどろの不倫劇だが、やはり現実世界の経験なくしてこういう「愛」の形を描くのはあり得ないのかも知れない。

 一方のプッチーニは、作曲デビュー前の26歳頃、駆け落ち同様に人妻(2人の子持ち)と同棲を始めている。
 当然、貧乏作曲家のまま、夫がいる女性と、自分のではない子供たちを扶養する生活だったわけで、まさにそのまま「ボエーム」の世界と重なるところがある。

 この内縁関係は、相手の夫が死んだことで解決し、正式に「結婚」することになったのだが、それはなんと20年もたってから。
 そして、晩年にはこの(愛妻だったはずの)奥さんをめぐってトラブルに巻き込まれることになるのだが、それは別の話。(興味ある方は「トゥーランドット」の回を参照のこと)

 作品と現実は違う…という人もいるけれど、この2作、どう考えても(意外と根が純情な)ヴェルディとプッチーニの実体験から生まれた部分が大。
 享楽家のモーツァルト先生や独身のベートーヴェン先生、ましてや女ったらしのワーグナー先生には絶対書けない題材だと思うのだが、どうだろうか。

 

 そうそう、この二作「男の純情」を描いたオペラであると冒頭に書いたが、物語では「純愛を貫いて死ぬ」のは女性の方。それなら「女の純情」では?…という疑問を抱かれた方もいるだろうか。

 その答えは簡単。「女性の純情」などというのは、「男の純情」が描く妄想の中にしか存在しないのだよ、ワトソンくん。

           *

トリノ王立歌劇場

Traviata

ヴェルディ「椿姫」
・7月23日(金)18:30東京文化会館
・7月26日(月)18:30東京文化会館
・7月29日(木)18:30東京文化会館
・8月01日(日)15:00東京文化会館

Boheme_2

プッチーニ「ラ・ボエーム」
・7月25日(日)15:00神奈川県民ホール
・7月28日(水)18:30東京文化会館
・7月31日(土)15:00東京文化会館

総裁:ヴァルター・ヴェルニャーノ
指揮:ジャナンドレア・ノセダ
トリノ王立歌劇場管弦楽団&合唱団

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2010/05/10

演奏する作曲家 vs 作曲する指揮者

Musiks あの「のだめカンタービレ」の中に、ちょっとしゃれたセリフがあった。

 むかしは、音楽理論を熟知し理性で音楽を把握できる人のみを「ムジクス(音楽家)」と言い、
 歌ったり演奏したりするだけの人を「カントル(歌い手)」と呼んだ。

 これは、カンタービレ(歌うように)ということばの語源を語るセリフで、ただピアノを弾いたり歌ったりして音楽を楽しむだけでなく、知的に音楽を探究する姿勢があってこそ「音楽家」なのですよ、という「ちょっといい話」。

 確かに中世やルネッサンス期の「音楽家」というのは、音楽を歌ったり演奏したりする人のことではなく、音楽全般に通じた人のことだったようだ。
 実際、古代ローマ時代には「文法、修辞学、弁証法」と共に「算術、幾何、天文、音楽」がインテリの必修七科目だったそうで、「音楽」は単なる「娯楽」などではなく立派に「学問」のレベルだったらしい。

 かのレオナルド・ダヴィンチがそうだったように、「世界はどういう風に出来ているのか?」という視点を持って物事を突き詰めてゆくと、科学(世界の出来方)、算術(数の出来方)、幾何学(図形の出来方)、医学(人間の身体の出来方)、天文学(宇宙の出来方)、美術(色彩や形の出来方)、建築学(建造物の出来方)などと並び、音楽(音の出来方)もまた、分離できない「人間の知識」になるわけだ。
(もちろん、一人でそれらをすべて修めるのは一握りの天才だけだっただろうけれど)

□宮廷楽長と楽士たち

Cooka ただ、その後、ちょっと時代を経て、バッハが登場するバロック時代あたりになると、「音楽家」というのは、理想に燃える「学者」というよりは、宮廷や貴族に仕える「プロの職人」…例えて言えば「料理長(シェフ)」のような存在になる。

 彼は、日々の食事やパーティや儀式の時にそれに応じた料理を供給する総元締めだ。コース全体を構成し料理法を指示し素材を吟味しワインを合わせる。それらすべてに精通していて、料理人たちを統率する。
 料理も作れるし知識もあり教養とセンスもある。それが「料理長(シェフ)」。スープは作れるけどワインは分からない、デザートは作れるけど食材についての知識はない、では務まらない。

 その点は、音楽家(ムジクス)も同じ。教会や宮廷や劇場を舞台にして、パーティや儀式あるいは劇のための「音楽」を供給する。教会での宗教的儀式の場合はミサや葬式・結婚式・などの作法に通じ、それにふさわしい曲を構成しなければならないし、野外のパーティや室内の会合、食事会や舞踏会などなど、編成や楽想を合わせなければならない。
 当然、新しい曲を「作曲」し、その演奏を指導し「指揮」し、「演奏」もこなす必要が出てくる。また演奏する「楽士」たちを選別したり教育するのも役目だから、楽器全般から音楽理論そして作法すべてに精通していなければ務まらないわけだ。

 それでも、いかに歴史に残る天才料理長でも、300年前の料理献立とレシピが後世に残るわけではない。同じように、バッハが日々書いた作品もすべてが残っているわけではない。そのあたりも似ている。
 もしかしたら、宮廷の中で演奏されてそのまま消えてしまった曲の中に、バッハを遙か凌駕する名品があったのかも知れないが、歴史に「もし」は禁句。それを知る手立てはもはやない。

Listz□作曲する演奏家たち

 そんなマルチな「音楽家」が、「演奏」と「作曲」に分離し始めるのが、18世紀末のモーツァルトやベートーヴェン登場の頃。
 教会や貴族に雇われる統合的な「楽長」という職が、貴族社会の解体で「事業仕分け」され、民間に投げ出されてしまったのが始まりということになる。

 自由になった…と言えば聞こえはいいが、逆に言えば、エサをくれる飼い主がいなくなった「犬」の状態。毎日のエサは自分で調達せざるを得なくなるので、才能のある音楽家はすべて、自分の「芸」を「金銭」に換える手管だけを頼りに生きていかなければならなくなった。

 そんな実力本位の弱肉強食の世界ですぐに「お金になる」のは、何と言っても、どんな素人の目の前でも鮮やかな演奏を聴かせる「演奏家」。お客が喜ぶ演奏をすれば、弾いたその場でおひねりがもらえる。いわゆる「日銭が稼げる」わけだ。
 その頃は「著作権」なんていう概念はなかったから、人の曲だろうが何だろうが演奏するのは勝手。ただし、逆に言えば、自分で書いたオリジナル曲を人に演奏されても文句は言えないのだが。

Mozart この「演奏家」という仕事、才能がありさえすれば、身体ひとつで世界中どこへ行っても(ただしピアノがある場所に限るけれど)稼げるものの、所詮その日暮らしの肉体労働。病気になったり年を取って弾けなくなったりすれば、おしまいという過酷な商売でもある。

 そんな音楽家にとって、高収入が得られるもっとも理想となった最終目標が「オペラ」の作曲。歌と合唱とオーケストラのための楽譜を書くという専門的な技術が必要だが、ヨーロッパ各都市の劇場で上演されるようになれば、経済的に潤ううえに、社会的「地位」も保証される。

 結果、19世紀以降のヨーロッパは、「演奏家」としてオリジナルを発表し、それを足がかりに(オペラ委嘱の声がかかる)「作曲家」への地固めをする「天才」たちが続々現れるようになった。

 その先駆的存在がモーツァルト(1756〜1791)。10代ではヴァイオリンも弾いてソナタやコンチェルトを披露し、20代には自作のピアノ協奏曲で「予約演奏会」を開くほどの人気を博し、さらにはオペラでも幾つか成功作をものにして、自由な芸術家としての存在を謳歌した。(少し若死になのは計算外だったけれど)
 彼の場合は、演奏し作曲するのが一体化しているので、「演奏家」と「作曲家」が分離できない。ビートルズが作曲し演奏する…のか演奏し作曲するのか分離できないのと同じだ。
 
Beethoven このバランスが「作曲」に傾きだしたのは、ポスト・モーツァルト世代のベートーヴェン(1770〜1827)から。
 彼は20代までは「即興演奏が得意なピアニスト」として人気を博していて、今で言うとジャズ・ピアニストに近い感じ。どんなテーマでも変奏して弾いてしまうのが得意だったそうだ。(これも「著作権」などと言われなかった時代だからこそかも知れない)

 しかし、演奏家にとってもっとも大事な耳が悪くなってゆき、徐々に「作曲」に転向し始めるのが30歳前後。最初は、自作のピアノ協奏曲などは自分で弾いていたが、やがてそれも他人に任せるようになり、完全に「作曲」を専門にするようになる。
 自作の初演に限り「指揮」も担当したが、人を統率するような人格に欠けていたのと耳が悪いのとが重なって、彼の指揮で初演されて成功した例は皆無。まさに「作曲だけをする作曲家」の元祖である。

 対して、ショパン(1810〜1849)は、新しいモダンピアノの登場とシンクロして「新しいピアノ・サウンド」による演奏が得意なピアニストとして登場。オリジナルのピアノ曲を中心にしたリサイタルで一世を風靡した。
 ヴァイオリンのパガニーニ(1782〜1840)、ピアノのリスト(1811〜1886)と並んで、もしかしたら、こういうタイプの演奏家はこの時代にもっといたのかも知れないが、録音が残らない時代としては「作品」が残っていなければ存在しないも同然。
Chopina ショパンの場合は、その美しい即興演奏をそのまま楽譜に封じ込めたものが「作曲」として後世に伝えられ、世界中のピアニストたちがその恩恵に浴することになった。ただし、若い頃書いた2つのピアノ協奏曲以降は、ピアノ曲しか書かないという「ピアノ限定」のちょっと不思議な「作曲家」ではあるけれど。

 一方、ショパンと同い年のシューマン(1810〜1856)は、若い頃ピアニストを目指して奇妙な指のギプスを考案しての練習に明け暮れ、逆に指を壊してしまって「作曲家」に転向した人。そのため「演奏家」としての活動歴がほとんど無い、という点で純粋な「作曲家」の元祖と言えるのかも知れない。
 ただし、彼の場合は、音楽評論のような「文筆業」でも活動していて、現在の「文章も書く作曲家」(私もそのひとり)の大先輩となった。

 ポスト・シューマン世代のブラームス(1833〜1897)も、若い頃はピアニストとして活動していた一人。ただし、最初は家計を助けるため居酒屋で弾き初め、伴奏ピアニストとしてヴァイオリニストと演奏旅行に廻ったり、いわゆるリサイタル・ピアニストとは程遠い地味な活動歴だ。
 それでも、自分のピアノ協奏曲を第1番第2番(共に難曲!)を自身のピアノで初演しているらしいので、テクニックはかなりのものだったようなのだが。

Bartok02 近現代では、バルトーク(1881〜1945)が最初はピアニストを目指して勉強した人。24歳の時にはパリのコンクールに作曲とピアノで参加し、ピアノ部門の方で2位になっている(その時の1位はバックハウス)。
 祖国ハンガリーの音楽院で教授になったのも「ピアノ科」だったが、民謡の採集やドビュッシーやストラヴィンスキーなどの影響から独自の作風を確立し、「作曲家」として名作を生み始める。

 そんな経歴のせいか、彼の音楽には、東欧の民族主義っぽい土臭い響きの裏に、物凄く明晰で冷たい合理主義者の視線が入り交じっている。さらに妙にオカルト趣味も加わる絶妙のバランスは、「中国の不思議な役人」や「弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽」などに見事に結実することになる。
 また、晩年、アメリカに亡命した頃は「作曲家」だけでは生活できず、ピアノを弾くようになった。その頃書いた「コントラスツ」ではベニー・グッドマン(cl)とシゲティ(vn)と共演もしている。

 同じく若い頃、ピアノの達人として知られていたのがショスタコーヴィチ(1906〜1975)。音楽院時代には無声映画のピアノ伴奏などで鍛え、20歳の時に第1回ショパン・コンクールにソヴィエト代表として参加したほど(その時の優勝者は一緒に参加したレフ・オボーリン)。自作のピアノ協奏曲やピアノ五重奏なども自身のピアノで演奏していて、それらの音源は現在でも聴くことが出来る。

Conductora□指揮をする作曲家たち

 一方、ピアニストとして活躍できるほど演奏に秀でているわけでもなく、オペラを当てるほど成功していない作曲家予備軍がたむろするのが、「指揮者」という職種だ。(…という言い方だと、なんだかちょっと偏見が混じっているような気もするが)

 19世紀以降、自由芸術家が理想とされるロマン派になると、「作曲家」という専門職を目指す若者が登場し始める。この場合の「作曲」は、すなわち「オペラ」を成功させること。経済的な自立は「オペラ」の成功にかかっていたわけだ。
 しかし、その道は一朝一夕には成らず。それを目指すための足がかりとなり、そして経済的な収入も得られるのが(他人の書いたスコアを演奏する)「指揮」という仕事だ。

 作曲の勉強をしているのだから、当然「楽譜の読み書き」は人一倍出来る。オーケストラのスコアを読み取り、ピアノで弾いたりするのも作曲家は得意とするところ。そして、上手くすれば「自作」も紛れ込ませることが出来る。ある意味、最高の副業と言えなくもない。

Berlioz そんな作曲家/指揮者の先駆者が、ポスト・ベートーヴェン世代のベルリオーズ(1803〜1869)。彼は、そもそも音楽を学んだのも独学で(学生時代に勉強していたのは医学)ピアノは弾けなかったらしい。かの「幻想交響曲」も、唯一弾ける楽器であるギターで作曲したと言うから、彼の作品にピアノ曲がないのもうなずける。

 しかし、「楽器の演奏はまったく出来ないのに一番偉そうにしている」という現代の「指揮者」の地位は彼によって確立されたんじゃないかと思うほど、その存在感は圧倒的だ。
 近代オーケストラは彼を始祖として生まれたと言っていいほどだし、「管弦楽法」という名著はその後の「指揮者/作曲家」の後輩たちにとってバイブルのような本となっている。

Mendelssohn そこまで強烈な個性ではないものの、「指揮者」の指針を極めたのがメンデルスゾーン(1809〜1847)。彼はそもそも「指揮棒を振って指揮をする」というスタイルの創始者と言われ、現代の「指揮法」の基本を打ち立てた人でもある。

 それまでの「指揮者」は「(最終的には)自分の作品を演奏する」というのが目的だったが、彼によって「昔の名作(クラシック)を出来るだけ良い演奏で再現する」という(今に通じる)「クラシック音楽」の基本概念が生まれた。その点でも、彼は「クラシック音楽」の始祖の一人と言ってもいいかも知れない。
 また、彼はインテリ教養人としても知られていて、語学に秀でていたほか、詩や文学に造詣が深く(ゲーテも知り合いだったそうな)、美術(水彩画)でも玄人はだしの作品を残している。まさしく、かつての「ムジクス」を地でゆく理想形のような音楽家である。

Wagner ワーグナー(1813〜1883)も、文学(演劇)と音楽そして美術を統合したという点で、ある意味「ムジクス」の伝統を継承する巨人。若い頃は、先輩に当たるウェーバー(魔弾の射手の作曲家)に心酔して、指揮をし歌劇を書くのを理想としていたようだ。

 しかし、彼もベルリオーズ同様、音楽の専門教育は受けておらず、むしろ文学(劇作)に血道を上げていたほどで、ピアノの腕前は不明。合唱指揮者を皮切りに、地方の劇場の指揮者の職を点々としながら、自作のオペラを書き進めている。
 彼は、指揮についての著作を残し、ハンス・フォン・ビューローなどの指揮者の育成にも関わっているが、メンデルスゾーンなどと違って「自分以外の音楽を指揮する」ことに興味はなかったようだ。

Mahler ポスト・ワーグナー世代のマーラー(1860〜1911)とリヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)も、指揮でのし上がった組。共に、あちこちの地方の歌劇場指揮者の職を転々としながら、自作のオーケストラ作品を発表して「作曲家」としても活動した「作曲家/指揮者」の代表格である。

 シュトラウスはバイエルン・ベルリンおよびウィーンの宮廷歌劇場の指揮者も務め、マーラーの方は、ウィーン国立歌劇場およびニューヨーク・フィルの指揮者まで勤めているから、共に指揮者として最高峰の地位まで登り詰めたと言っていいだろう。
 ただし、シュトラウスの方は「オペラ」を成功させて「指揮も出来る作曲家」としても人気を博したが、マーラーの方は交響曲に固執したためか、生きている間は「作曲もする指揮者」にすぎなかった、と言うのがちょっと違うところか。

Furt_2 20世紀を代表する大指揮者フルトヴェングラー(1886〜1954)も、このマーラー型の「指揮者/作曲家」を目指した人。3つの交響曲やピアノ協奏曲など、ブルックナーばりのロマンティシズムを湛えた大作を残しているが、もはやロマン派の作風では生き残れない時代に生まれた不運で、残念ながら「作曲家」として評価する人は少ない。

Bernstein 一方、レナード・バーンスタイン(1918〜1990)はミュージカル「ウエスト・サイド物語」一曲で「指揮者」としても「作曲家」としても語られた希有の人。自分でスコアを書いたわけでもないミュージカルの作曲で評価されるというのは、本人にとって微妙な処があったのかも知れないが、その余波で3つの交響曲や「ミサ曲」など幾つかの秀作は今でも聴かれ続けており、コープランドと並ぶ現代アメリカを代表する作曲家に数えられている。

 そう言えば、現代音楽の作曲家で、指揮もこなす人物は少なくない。本業の「作曲」では生活できないことと、そのくせ譜読みの能力はあることから、副業として選択する人が多いせいだろうか。
 十二音音楽の開祖であるウェーベルン(1883〜1945)も、半ばアルバイトとは言え結構指揮をこなしていたようで、友人ベルクのヴァイオリン協奏曲などの録音を残している。
 
Boulez 戦後では、ピエール・ブーレーズ(1925〜)が筆頭。彼は傑作「ル・マルトー・サン・メートル(主のない槌)」で前衛作曲家として鮮烈にデビューした人。その後、自分の作品の演奏や録音の時に「自分で振った」のがきっかけで現代モノを振るようになり、そのまま「指揮者」として活躍するようになった。

 基本的に、近代フランスのドビュッシー・ラヴェルからストラヴィンスキーやバルトークあたりまでの20世紀音楽が専門で、現代作曲家ならではの「明晰な楽曲分析」とクールな「サウンドの構築性」が特徴。
 彼の場合は、「作曲家が指揮もする」というレベルを超えて、新しいタイプの「指揮者」として一家を成したと言えそうだ。

Sinopoli もう一人、ジュゼッペ・シノーポリ(1946〜2001)も、若い頃は現代作曲家として音楽祭を賑わせた一人(私も学生時代にダルムシュタット音楽祭などの放送で彼の作品を耳にしたことがある)。三十代になって現代音楽専門の指揮者としてデビューし、その後は作曲家特有の明晰な解釈でレパートリーを広げ、やがて指揮者が本業になってゆく。

 もともとロマン派の気質があったのか、ブーレーズのような現代モノ専門ではなく、マーラーやワーグナーからイタリア・オペラまで濃厚なロマン派大作に名盤も多く残している。同時に、作曲の方でも…歌劇「ルー・ザロメ」(1981)など力作を残しているが、さて、後世の評価はどうなるのだろう。

Salonens そして現役バリバリの指揮者/作曲家としては、エサ=ペッカ・サロネン(1958〜)がいる。彼は、サーリアホ(1952〜)や同世代のリンドベルイ(1958〜)と並んで世界的注目を得たフィンランドの新しい世代の作曲家のひとり。

 二十代後半に代役指揮者としてフィルハーモニア管弦楽団を振って(マーラーの交響曲第3番)好評を得てから指揮者歴が始まり、現在では現代作品や北欧の作曲家の作品を中心にさまざまなレパートリーをこなす大人気指揮者。
 作曲家としてもいまだに現役として新作を発表し続けていて、北欧風の抒情とほどよい調性感を組み込んだ21世紀らしいサウンドが特徴。
 
          *

 と、「ムジクス(音楽家)」の話から、現代の指揮者事情まで来てしまったが、もし究極の「音楽家」というのが居るとしたら、彼(彼女)は、「作曲」をし「演奏」し「指揮」をし、さらに音楽理論を研究し、評論や批評を弁じ、人の音楽を愛で、自分の音楽を追究する…ということになるのだろうか。

 ただ、現代ではそれらが高度に専門化してしまって、とても「一人」で手に負えるレベルではないのも事実。
 小学校では、算数・国語・理科・社会・体育・美術・音楽…と一人の先生が教えるけれど、中学ではもう不可能。「世界を究めたい」という夢は、果てしなく細分化されてゆく。それと同じかも知れない。

 それでも諦めずに「作曲家」や「演奏家」という狭い枠を超え、すべてを総合する「音楽家」を目指すのも良し、
 逆に、細分化された重箱の隅まで入り込んでいって、誰一人到達したことのない究極の「個の音楽」を見出すのも良し。

 それが、ミューズの神に魅入られた哀れな人間の生きる道。

 Good Luck!

          *

Flyerサロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

2010年5月31日(月)19:00 サントリーホール
・ムソルグスキー「禿げ山の一夜」(原典版)
・バルトーク:組曲「中国の不思議な役人」
・ベルリオーズ「幻想交響曲」

2010年6月2日(水)19:00 サントリーホール
・サロネン「へリックス」
・チャイコフスキー「ヴァイオリン協奏曲」
 vn:ヒラリー・ハーン
・シベリウス「交響曲第2番」

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2010/06/10

天才とは何だ?〜ブラームス型凡楽のすすめ

Brahms 以前、とあるクラシックの音楽番組からブラームスについての取材を受けたことがある。開口一番「ブラームスはどんなところが天才なんでしょうか?」と聞かれたので、言下に「いや、彼は天才じゃないでしょう」と応えたところ、「・・・・・」。
 取材はボツになった。

 どうやら番組としては・・・ブラームスは「保守的」な作曲家というイメージがあるが、実は「こんなに斬新」で「こんなに画期的」なことをやっていたんです・・・というような指摘とコメントが欲しかったらしいのだが、私の意見は全く逆。
 ブラームスは「保守的で」「新しいことをやらない」「才能のない作曲家」なのに、現代に至る〈クラシック音楽〉の基礎を作った。そこが凄いのだ。

 そもそも、昔から「天才」という言い方はどうも違和感がある。人のプラス部分をなんでも「天才」と一括りにしてしまうのは、マイナス部分を何でもかんでも「気違い」と一括りにしてしまうのと同じで「思考停止」でしかないと思うからだろうか。

 それに、音楽を「評論」視点で見る人は、なぜか「新しい」とか「天才」というのを金科玉条にするけれど、そもそもクラシック音楽界というのは、(ブラームス以来)全く新しいことをやらずに100年も200年も前の天才が作った音楽を崇め奉るだけの閉鎖社会。「新しい」ことからも「天才」的な所行からも背を向けたブラームスの視点こそが、その後のクラシック音楽界の基礎になっているんじゃなかろうか。
 だからこそ、3大Bはバッハ・ベートーヴェン・「ブラームス」なのである(巨人・大鵬・「卵焼き」…のようなオマケではなく!)。これを「凄い」と言わずして何と言おう。いや、皮肉でなく。

 考えてみれば、ベートーヴェンが改革し肥大化させた「交響曲」を、(ベルリオーズやワーグナーやマーラーのように)その延長線上に発展させるのではなく「伝統」として古典化してしまった発想が凄い。
 その古臭い「交響曲」の理念を立ち上げたうえでそこそこの名作を4つほど残したことで、その後の民族主義楽派(チャイコフスキーやシベリウスやドヴォルザークら)における「交響曲」隆盛の道筋を指し示したのも画期的だ。
 ベートーヴェンの(直感的イマジネーションの火花のような)9つに対抗するのはお手上げだが、ブラームスのような教科書的な交響曲なら「私にも作れるんじゃないか」と思えなくもない。事実、ロシアや東欧や北欧の作曲家の卵たちにそう思わせ、実際にその成果を実らせたわけだから、クラシック音楽界におけるその影響は確かにバッハ・ベートーヴェンに比肩する。(くどいようだが、皮肉でなく…)

 そのおかげで、ベートーヴェンが9つ書いて「それで終わってしまった」感じさえしていた「交響曲」を、半世紀ほど経ってから蒸し返し、ベルリオーズやワーグナーがどんどん斬新かつ近代的に肥大化させていったオーケストラを「2管編成」などというオーソドックスの墓場に封じ込め、「オーケストラの定期演奏会」という百年一日の世界の王道レパートリーを確立した。
 文字通りの「保守・反動」なのだが、その威力は絶大で三日天下の前衛より100倍革命的だ。

 実際、長年オーケストラのコンサートやFM音楽番組の解説をやっていて実感するのは、「どうしてオーケストラって言うのは、こんなにブラームスばっかりやるのだろう」ということ。そう呆れてしまうほど、ブラームスの演奏頻度は多い。
 決して「人気がある」わけでも「お客を呼べる」わけでも「華やかさ」や「分かりやすさ」があるわけでもない。言ってみれば、校長先生の訓辞みたいな…内容があると言えばあるけど、おもしろみがないと言えば言える…という音楽なのだが、なぜかアマチュアでもプロでも安心して演奏できる「クラシック音楽の基本の基本」がそこにはあるのだ。
 だから、ブラームスの4曲およびその影響下に書かれたブラームス型2管編成の類型交響曲(ドヴォルザーク、チャイコフスキー、シベリウスなど)がなかったら、オーケストラというものが21世紀にまで生き残っていたかどうか疑わしい。

 確かに「天才」の凄さは一目瞭然だが、ブラームスはその逆。全く一目瞭然でない地味なところから、100年間にわたってじわじわ効くボディブロウを叩き出す。
 地味でシャイで人見知りのまま「石橋を叩いてこつこつ」型でのし上がり、何かと目立つワグナーやブルックナーに嫉妬し、真面目で堅物で面白いことひとつ言えないタイプで婚期も逃し、そこから来る劣等感からしみ出す「皮肉」っぽい視点にまみれ、根っから人が悪いくせに外見上は穏やかな文化人を気取る。一言で言えば「(最強の)ひねくれたオジサン」だ。

 …などと力説すればするほど、「ああ、ブラームスがお嫌いなんですね〜」と溜息をつかれそうだが、まあいいや。
 考えてみれば、バッハ・ベートーヴェン・ブラームスの三大Bは3人とも(生まれつきの天分に恵まれた…という意味での)「天才」とはほど遠い、後天的かつ結果論的な「巨匠」。むしろ、天分に恵まれなかったことで生涯ジタバタし通しだった印象の方が強い。
 天分に恵まれたわけでもない者が、ここまで音楽史に影響を与える「音楽的偉業」に到達した、という事実の凄さ。これを「天才」と呼ぶのなら、むしろ「天災」と言って欲しい。(…というオヤジギャグを言うためにここまでのうのうと話してきたわけではない。念のため)

 □天才のメカニズム

Rossini_gioacchino ちなみに、世間的にいう「天才」というのは…

1.若くして秀でた才能を発揮する人。
2.経験や論理でなく「直感」で行動し(ているように見え)、それがことごとく成功する(ように見える)人。

 同じ秀でたことを同じ期間で成し遂げても、5歳から初めて20歳で成し遂げれば「天才」と呼ばれるが、45歳から初めて60歳で成し遂げても、あまり「天才」とは呼ばれない。
 若くして(普通の平凡人ならまだ子供や学生をやっている年代で)才能を発揮しているからには、後天的な努力や修練ではなく「生まれつき」の「天からの才能」があるに違いない…という想像が「天才」の語源なのだろう。

 さらに、Aから直接Dを導き出すような直感的な思考をする人こそ「天才」と賞される。AからBを経てCを加味しつつDに至る…というような順序立てた思考で辿り着いた行動をする人は「天才」とは呼ばれにくい。
 それは、普通の人から見ると、その思考の過程が想像できず「直感」で結論に到達しているように見えるからだが、シャーロック・ホームズ譚の例を挙げるまでもなく、意外と(普通の人とは違った思考過程ではあるものの)順序立てた思考で結論を出しているだけのことが多い。
 ただ、それが「鮮やかに的中」したり、熟慮の末とは思えないような「早さ」で結論が引き出されると、それは紛れもなく「天才的」と見える…ということなのだろう。

 例えば、日本の田舎町に「7歳でフランス語がペラペラの子供がいる」と言われたら、「すわ天才か!」と思ってしまうかも知れない。まるで「生まれつき」フランス語をしゃべる謎の技能が備わっていたかのように見えるからだ。
 でも、両親がフランス人…と聞けば「なあんだ」で終わってしまうはず。

 同じように、「8歳で交響曲を書きました」とだけ聴けば、それは紛れもなく「天才!」と言われそうだ。でも、両親が音楽家で2〜3歳の頃から五線紙とピアノにまみれて育ち、父親所蔵のオーケストラのスコアを悪戯半分で書き写すような少年時代を送っていたとなると、どうなのだろう。
 それは8歳で原稿用紙100枚の自作のファンタジー小説を完成させた…とか、9歳でノート3冊分の長編マンガを書き上げた…と言うのと同じで、どの小学校でもクラスに一人くらいはいそうな気がする。

 さて、ここまでの結論として、「天才などいるものではない」と言うべきなのか、「子供はそもそもみんな天才なのだ」と言うべきなのか。
 ブラームス先生から始まった「やぶにらみ天才考」、少し袋小路にはまってきた気がする。

□天才のパターン

Mendelssohn そこで、ちょっと視点を変えて、クラシック音楽界の伝統的な「天才」物語に焦点を合わせてみよう。

 クラシック音楽界には、伝説的な「天才」のパターンがある。まず、幼少時から音楽に囲まれた(裕福な。あるいは親が音楽通の)家庭に育ち、2〜3歳から言葉と同じ次元で音楽を吸収して行く。
 当然ながら5〜6歳には既に才能の片鱗を見せるようになり、10代初めともなると「自分の音楽」の世界を確立させ、大人を驚かせる。

 その際「音感の良さ」というのが「音楽の才能」の必須条件のように言われるが、普通程度の知能を持つ子供なら「r」と「l」の発音も、「赤」と「緑」の区別はつく。同じように、幼いときから自然に音楽を耳にしていれば、絶対音感もソルフェージュ能力も「ことば」と同様に扱えるようになる。

 ただし、いかに早期教育しても、現実に「音楽」での表現に興味を示すのは思春期になってから。(女子は少し早いらしいが)おおむね14〜17歳あたりで「音楽への興味」として外に現れ、そこから修練を積むことで26〜28歳あたりで(公式デビューあるいは代表作品などの形で)開花する。
 その後、作家生活に入った場合は、37〜38歳あたりでピークを迎え、その後何度か浮き沈み(スランプ)を経て、最終的に50歳頃終息を迎える。(これは、不思議なことに女性の出産にも当てはまる。人間という生物の持つサイクルなのだろう)

 そういった人生を「レース(競争)」に例えれば、確かに早くスタートを切った方が有利だ。物心つく前から音楽に親しみ、5〜6歳で既にピアノに親しんでいるという方が、30歳を過ぎてピアノを一から練習し始めるより、どう見ても「有利」なのは間違いない。
 それに、そもそも人間の脳の仕組みなのか、(一説には)本能的なレベルで技能が脳に染み込むのは9歳くらいまでらしい。世界のあちこちを飛び回って英語やドイツ語や日本語がぺらぺらというマルチリンガルの人も、寝言など本能的に口に出る言葉は9歳の時に話していた言語だという。
 その伝でゆくと、少なくとも9歳以前に「音楽」に触れる機会を持っていないと、その後にいくら勉学として吸収しても「ネイティヴ」にはなれない、ということになる。少なくとも「言語」のレベルで「音楽」を操るには、10歳を過ぎて「自分の意志で」習得を始めるのでは遅いようなのだ。

 結果、幼少時の「まだ物心が付いていない」頃に親から受ける「教育」がいかに重要かということになるのだが、じゃあ、出来るだけ小さい頃から徹底的に叩き込めばいいのかというと、ここにも大いなる問題がある。
 
 言葉と同じように(ネイティヴに)「音楽」を操れる…と言うのは、普通の人が言葉を話す時、文法だの修辞法だのを意識しないのと同じように、まったく直感的かつ自然に音楽を組み立てられる…と言うこと。(日本人は英語を日本語に翻訳してから理解するが、ネイティヴになると英語を英語のまま理解する。それと同じだ)。
 だから、そこに論理的思考や計算の跡筋はみられない。音楽をさらさら作曲する天才に「その曲はどうやって作ったんですか?」と聞いても「自然に頭に浮かんだ」とか「空から聞こえてきた」というような返事しか返ってこない。この不思議さ加減が「天才」の「天才」と呼ばれる所以である。
(そう言えば、かの長嶋茂雄はバッティングの極意を聞かれて「ボールがびゅっと来たら、ばしっと打つんですよ」と応えたとか。これが「天才」風の答え方だ)

 ただ、これは普通の人でも「ことば」ではやっていること。もしあなたが友達とぺらぺらとおしゃべりをしている時、外国の人から「今ノ文章ハドウヤッテ作ッタンデスカ?」と聞かれても、おそらく答えは「天才たち」と同じはず。
 ネイティヴでない人間は、「何を言おうか」と考え、それを単語に置き換え、さらに文法に沿ってそれらを並べ、それを正しく発音する…という過程を経ないと言葉を話せない。
 さらに、相手の返事を「聞き取り」、その単語の意味を把握し、文法的な並び方を確認し、それを自分のネイティヴな言語に翻訳し、その内容を理解する。それが「会話」。
 でも、幼少時からその言語を脳内システムフォルダに持っているネイティヴな人は、すべてをすっ飛ばして「口」が勝手に動くのに任せている。これが「天才」のメカニズムということになる。

□創造のメカニズム

Schubert ただし、音楽にしろおしゃべりにしろ、愉しんでいる分にはいいのだが「生業」にする場合、この「自然に頭に浮かぶ」ことほど怖いものはない。なぜなら、浮かんでこなくなったら、おしまいだからだ。

 前述のように、音楽を言語レベルで幼少時に自然に習得するのは「有利」である。早い効果的なスタートを切れる、という点で、この「まるで天から生まれつき備わっていたかのような才能」は、いきなり初回で3ランホームランを打つほど先取ポイントが大きい。
 例えば、音楽の基本の習得に12年かかるとして、中学卒(14歳)で始めた場合は26歳でようやく第一歩だが、4歳から始めれば16歳でデビューも夢ではない。これは天に祝福された「天才」に見える。

 しかし、16歳デビューの直感がそのまま30歳40歳まで続くことは、まずない。今まで直感でぺらぺらしゃべっていたものが、実は「主語と述語」だの「動詞と形容詞」だの「敬語」だののシステムを持っていることに気付く時が来るからだ。
 それは、それまで「自然」に「直感」で作ってきたものに改めて向き合い、果たして文法的な整合性や論理的な構築性があるかどうか考える必要に迫られることと言ったらいいだろうか。その時「自分がどうやって音楽を生んでいるか」という基本が自分で分からないことになると、これは一転して大いなる「不利」になることがある。
 幼少時から自然に100本の足で歩いているムカデが、大人になって改めて「自分はどういう順番で足を動かして歩いているのだろう」と考え始めたら動けなくなってしまうのに似ている…と言ったら漫画的に過ぎるだろうか。

 その証拠に、この種の早期促成栽培型天才少年は、多くの場合、ピーク時の直後(三十代後半あたり)に大きな壁に直面し、その際に早死にしてしまうか、その後才能を枯渇させてしまうことが実に多い。通常の人生でも「厄年」と呼ばれるように、成長から熟成に至る狭間に、肉体的精神的な「壁」に突き当たる。その時、運悪くそれを乗り越える体力と精神力が無ければ、命を落とすことも少なくない。
 8歳で交響曲を書き作曲家として大活躍しながら35歳で夭逝したモーツァルト、そのモーツァルトの再来と騒がれ十代からオペラのヒット作を連発しながら37歳を境に引退したロッシーニ、あるいは歌曲や交響曲やソナタなど膨大な名作を残しながら31歳で死んでしまったシューベルト、作曲に指揮に教育に秀でながら38歳で急死したメンデルスゾーン……

 それは、前述のような生物的な人生サイクルによるものもあるが、行動パターンから来る必然の部分もあるかも知れない。
 例えは変だが、「剣の天才」というのがいたとして、子供の頃からいつでも抜き身の剣を持って自分より強い相手を求めて真剣勝負…などという人生をやっていたら、三十を過ぎて長生きするのは不可能なのは自明の理。なにしろ、命を賭けた勝負においては「勝率100%」以外の人はすべて死んでしまうのだから。
 そうなると、あっさり若くして死ぬか、さっさと引退して花でも愛でる余生を送るか…二つの人生しかないのは明らか。(その場合は、前者が「天才」っぽいが、単に逃げ損なっただけ…でどっちも同じと言えば同じと言えそう)

 そこから先を生き残るのは、数多い「挫折」を経験していることと、それ故に培われた「戦略」を持っていることだ。
 確かに「天才」というのは羨ましいところはあるけれど、「天才」になるのは、あまり幸福なこととは言えそうもない。前述のように、初回に3ランホームランを打って後半コールド負け(それでも歴史に残る)などという人生より、盗塁やスクイズを積み重ねて3点差を地味に逆転(ただし、あんまり話題にはならない)という人生の方がいい…と思うのだがどうだろうか。

□凡才のすすめ

02_2 もっとも「天才」になることを怖れるまでもなく、世界の大部分の人は、生まれつきの天分には恵まれず、現世での才能も開花しないまま、そこそこの人生を生きるのが普通。これが「凡才」。

 それでも、「音楽」を愛でるのに何の不自由もない。子供の頃から両親やまわりが日本語を話す環境に育っていれば、「小学校にも上がらないのに日本がぺらぺら」というレベルにはなる。同じように、数十年にわたって日々音楽を愛で続けていれば、凡夫の才でも何らかの形になる。「天才」である必要などまったくない。いや、むしろ「天才」などではないからこそ、音楽を生涯自由に愛でられるわけだ。

 おそらくモーツァルト少年やメンデルスゾーン少年は、まわりに音楽好きの大人がたくさんいたから、面白がって色々なことを教えてくれたのだろう。だから、ちょっと大人びた会話を覚えて「耳年増」になり、10歳の頃にはもう交響曲を書いたりオペラを書いたりして、大人たちを喜ばせる術を覚えて育った。そして、子供が書いた音楽を面白がる大人たちの手で、それらの作品は世に出された。だから20歳を迎える頃にはいっぱしの音楽家としてデビューもしていた。そのぶん、音楽家としてのキャリアは早かったわけだ。

 一方、ベートーヴェン少年やブラームス少年はそこまで「いいとこ坊ちゃん」で育ってはいない。それでも、毎日両親や友達と話したり勉強や日記でことばを操るうち、いっぱしの「おしゃべり」に育ってゆく。毎日自転車に乗って遊んでいるうちに両手を離しても運転できるようになるように、ピアノで話し、音楽で世界を記述できるようになった。
 そして、自分の道を自分で「音楽」と決めたのは思春期を迎えた17歳頃。それから本格的に音楽を勉強し、(酔狂な大人のバックアップなしに)自力で「音楽界」という険しい山の登山口に辿り着くにはそれなりの年月が必要だから、かなり苦労している。きちんと「挫折」を積み「戦略」を培っているのである。

 ピアノの即興演奏家としてウィーンで活動を始めたベートーヴェン青年がようやく「作曲家」という道の入口に辿り着いたのが30歳。ブラームス青年が「交響曲」の世界に踏み込んだのは40歳過ぎ。
 遅いと言えば遅いが、大卒で企業に就職した学生が、それなりの仕事が出来る地位(課長や部長クラス)になるのは早くてこのくらいだろうから、同じようなものと考えるべきだろう。

 現在では「早熟の天才」に括られるシューベルトは、少年時代はウィーン少年合唱団の前身ともなる寄宿学校で音楽を学び、早熟と耳年増を究め、メガネをかけて小太りであだ名はキノコ。今で言うなら完全に「アニメおたく」をやってそうな少年だ。
 17歳あたりから交響曲やミサなど書き始め、高卒レベルでまずはシンガーソングライター的な歌曲作曲のプロとなり、友達の家を点々としながら膨大な曲を書き散らし続け……20代半ばで交響曲(未完成&グレート)やピアノソナタの水脈を見つけたところで、わずか31歳の若さで死んでしまった。
 要するに、あの「未完成交響曲」が25歳、最晩年の円熟期の傑作と呼ばれる交響曲「ザ・グレート」やピアノソナタ第21番のような音楽ですら、30歳前後の「ようやく自分らしさが出てきた最初の名作」にすぎないのだ。生き残っていれば「若い頃ちょっと苦労して」で済んだことが命取りになってしまったわけだ。

□天才の終焉

01 ただ、面白いことに、このような「十代で才能を発揮して、二十代でいっぱしのプロ」というタイプの天才型作曲家の系譜は、前期ロマン派を境に途絶えてしまう。
 逆に言えば、ロマン派の時代になると、十代やそこらの「天才風」耳年増少年がプロに混じって音楽出来るようなレベルではなくなった(必要以上に高度になった)、と言うこともあるのかも知れない。

 そして、その後といえば、ベルリオーズにしろワーグナーにしろブラームスにしろチャイコフスキーにしろマーラーやブルックナーにしろ、幼少の頃はさほど音楽一途でなく、20歳過ぎてもさっぱり才能の片鱗を見せなかったような怪しい経歴の「天才」が俄然多くなる。
 彼らは、子供の頃から音楽に親しんではいるものの、少年時代までは絵画だの演劇だの科学だのにうつつを抜かし、モラトリアム(猶予)期間には法律や医学を勉強し、17歳前後のある時、突然「音楽」に目覚める…というのがパターンだ。(つまり、しっかり「挫折」と「戦略」を持って世に出ているのである)

 確かにスタートは遅いが、いわゆる知能指数は高そうな青年ばかりなので、一旦道を定めるとその吸収力が驚異的なのも共通項。ほぼ数年で最低限の音楽の基本はマスターしてしまい、基礎に縛られないぶん革命的な理想に燃え、下積みの苦労を経て20代後半か30歳近くなってようやく楽壇に登場。その後は明確な個性を持って音楽界に作品を提供し続ける。
 彼らの根幹にあるのは、幼少時に植え付けられた「直感」などではなく、厳しい生存競争の中で身につけた「戦略」だ。だから、ある時は、敵を攻撃し、ある時は懐柔し、人の悪さと政略を全開にして「自分の芸術」をアピールする。なので、こういう作曲家たちをモーツァルトやシューベルトのような才能と一緒に「天才」の一言で括りたくない、と言うのが本音。全く違ったベクトルの才能だからだ。 
 かくして、この種の「戦略家」たちが跋扈し始める時代以降、もはや(幼少時の早期促成栽培でスタートが早かったというだけの)無垢な「天才」たちに出る幕はなくなったとも言える。クラシック音楽はロマン派の時代を迎え、もっと「人が悪くて」「陰謀に長け」「天才ではない人間たち」によって、世界侵略(?)を始めるのである。
 そして、ブラームスはそんな時代を象徴する「天才ではない巨匠」なのだ。

 ちなみに、ブラームス青年は20代の頃、ピアノが弾けるという特技を活かしてハンガリー出身のヴァイオリニストの伴奏ピアニストのアルバイトを勤め、あちこちを演奏旅行(いわゆるドサまわり)に廻っている。
 少年時代には場末の居酒屋でピアノを弾いていたという経歴と並んで、音楽家のキャリアとしては、ちょっと隠したい過去になるのかも知れないが、その際、ウィーンやパリなどの上流階級から見れば下品で世俗的な「ジプシー音楽」(当時は単に東方の辺境地の音楽という意味で「ハンガリー音楽」と括られていた)に出会ったことは、彼の後の人生に大きく関わってくる。
 なにしろ、この時に採譜した田舎の民謡や舞曲を、のちにピアノ連弾による「ハンガリー舞曲集」として出版。これが意外や大ヒットして、生涯ブラームスに印税を供給し続け、作曲家生活を安定させる基盤になったのだから。
 この経済的安定がなければ、呑気に交響曲を書き続けられたとも思えないし、かの名作「ヴァイオリン協奏曲」も、この時のジプシー音楽との出会いがなければ生まれなかったであろう独特の哀感と節回しを持っている。
 生まれついての才能などより、挫折や暗い過去こそが、やがて大いなる財産となる。若い頃の苦労はお金を払ってでもしろ、というのを地でゆく話である。

 と、とりとめのない話になったが、今回はここまで。

          *

イヴァン・フィッシャー指揮
 ブダペスト祝祭管弦楽団

Flyer

6/21(月) 19:00 東京オペラシティ コンサートホール


・ブラームス:ハンガリー舞曲 第7番 ( I.フィッシャー編曲)
・ブラームス:ハンガリー舞曲 第10番

・ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 (vn:ヨーゼフ・レンドヴァイ)

・ブラームス:交響曲第4番


6/23(水) 19:00 大宮ソニック・シティ 大ホール
・
ロッシーニ:歌劇「アルジェのイタリア女」序曲
・メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲(vn:神尾真由子)
・シューベルト:交響曲第8番「ザ・グレイト」

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2010/07/10

オペラの中の女と男

Metropolis 中学時代、そろそろ「性」に目覚め初めた頃、ソヴィエトのSF小説だかで「女性像」について目からウロコ的な記述に出会ったのが忘れられない。

 男性が惹かれる女性のポイントというと、大体「髪の毛が長くて」「胸が大きくて」「お尻が大きくて」「足がすらりとしていて」(そして「若くて」)というような、かなり図式的な好みがある。その理由は、人間がまだ原始人だった頃の「太古の記憶」によるものだと言うのである。

 生物のオス(♂)にとってメス(♀)というのは、第一義に「子孫」を残すためのパートナー。自分の「種(遺伝子)」を確実かつ健全に「子供」の形で残し、それを安全かつ健康に育てられる相手…という「条件」でパートナーを捜す。その「条件」は、魚類・鳥類・爬虫類それぞれ違うのだろうが、我らが人間は哺乳類として独特の「選別法」がある。中でも、二足歩行になった「人類」の選別法は独特だ。

 まず胎児を育てる安定した子宮がポイントになるため、大きな骨盤を持った、すなわち「お尻の大きな」女性を選択する。そして、生まれた乳児に栄養つまり母乳を供給する器官の充実を確保するため、乳房の大きな、すなわち「胸の大きい」女性を選択する。さらに、健康な若い卵子を供給でき、出産というハードな行為に耐えうる「若さ」を持った女性を選択する。これは「知性」より奥に仕込まれた「本能」であり、男性は決してそれに抗えない。

 そして、ベビーカーどころか衣服すらまだ存在しない原始人の時代には、生まれたばかりの赤子を落とさないように移動するための唯一の道具が「長い髪」。長髪が女性のシンボルであるのは、髪に赤子を巻き付けて抱く必需品だった名残らしい。

 さらに、何か危険が迫ったときは、赤子を抱いて逃げなければならない。そこでは脚力が必要になる。「すらりとした長い足=脚線美」は決して美術的な意匠ではなく、現実的な「機能」の象徴だったわけだ。

 もちろん、現実問題としては、お尻が大きい=安産、胸が大きい=母乳の安定供給、髪が長い=赤ん坊の安全、足がきれい=逃げ足が速い、というわけにはいかない。しかし、複数の異性の中から(接触せずに)特定の個体を選別する方法は、さしあたり「外見(ルックス)」しかないわけで、男性にとっては「外見」が異性選択の最重要ポイントになる。

 そして、少なくとも「群れ」の中で、もっとも優れた女性(と外見で見える個体)をゲットするのが、男性の「存在原理(生きる理由)」でありステータス・シンボル(権威の象徴)。結果、特定の群れの中でもっとも「外見」の揃った女性を捜し出すのが「男の本能」になったというわけだ。

         *

Jomon_2 この即物的な「真実(?)」に、(女性にもう少しマシな幻想を抱いていた)中学生だった私は、ちょっとショックを受けたわけなのだが、同時にこの「解析」、女の子からもひどく評判が悪かった。「女を子供を産む道具にしか見ていない」とか「所有物とかモノと思ってる」というのが批判の中心。そのあたりは、その後のフェミニストたちの主張と同じだ。

 じゃあ、女性の「男の選び方」の方はどうなんだろう?ということになるわけだが、女性の側にとって最重要なのは、「妊娠」し「子供」が出来た後の育児期間に、「食糧」を確保してくれて自分と子供を「安全」に扶助してくれること。これに尽きる。

 そう考えると、やはり「力」を持っていることが何と言っても最重要ポイント。要するに「食料」および「安全」を確保してくれる「力」である。それは古代には、獲物を狩ってくれる「体力」や、敵から身を守ってくれる「武力」だったが、やがて近代になると、農耕や社会生活を制御する「知力」、群れの中で優位を保証する「権力」などが台頭してくる。現代であれば「経済力」のある男ということになるだろうか。

 ということは、女性から見ると男性の「外見(ルックス)」の良さはあまり優先課題ではないように思える。しかし、これはやはり男の場合と同じで、「優れた男」に見える「外見」を持っている男の方が、若い女性にとって「優位性の確保」に繋がるということなのだろう。なにしろ、経済力や知力や地位は、外からひと目では見えないのだから。(ただし、男性における「外見(ルックス)」があまり当てにならないことは、徐々に思い知ることになるようだが)

 結果、大雑把に言うと「〈外見〉で選ぶ男性」に対して「〈中身〉で選ぶ女性」という図式になる。女性の側にも、もちろん男性の肉体的な「外見」について「好み」はあるようだが、それはあくまでも「好み」。男性が女性に抱くような「抗えない強力な磁力」のようなものではなさそうだ。

 そもそも、男性は「若くて見栄えのいい異性」を一旦ゲットし「種(自分の遺伝子)」を残しさえすればいいのに対し、女性の方の問題は「そのあと」。出産から育児の期間の「安全」を保証してもらう必要がある。その分、「現実的」にならざるを得ない、ということだろうか。

          *

Robotw_2 そのあたりの話で最近、ちょっと面白いと思ったのは、女性が男性を選ぶときの「免疫学」から見たメカニズムの研究だ。

 よく若い女性が、「オヤジ(お父さん)の匂い」を不快に思うという話。あれは免疫学的に言うと極めて妥当な反応なのだそうだ。

 そもそも女性にとって、自分のパートナーである男性を選ぶ最も重要な生物学的ポイントは、「自分とはなるべく違ったタイプの遺伝子」を持った異性なんだとか。
 例えば、「Aという病気に弱い」という同じタイプの男女が結婚した場合、子供は「Aという病気に弱い子」ばかりになってしまう。なるべく違った遺伝子を持つ同士が交配することで、「Aという病気」に対する免疫が強まる「可能性がある」。だから、違うタイプの遺伝子を持った異性を選ぶ。これが、人間の生物的本能の基本なのらしい。

 そう言えば、古代社会から「近親相姦」は禁止されているが、それは単なる風習とか倫理ではなく、「より免疫的に強い」子孫を残すためのメカニズムということになる。同じタイプの遺伝子を持った(同じ免疫系の)種族は、Aという病気が流行したら最後、全滅してしまう。なるべく多様な遺伝子を持つ子供たちを持つことで、そのうちの数人が生き残る=種族が全滅せず後世に子孫を繋げられる、という構造だろうか。

 しかし、タブーがあったとしても、一夫一婦制が確立されておらず戸籍などというものがない原始社会では「同じ遺伝子を持った異性」かどうかなんて分からない。そこで、「出産可能な若い女性」は「匂い」でそれをかぎ分け、「この人はダメ」「この人はOK」と選び分けてきたのだそうだ。

 つまり、若い女性が「匂い」で「ダメそう」と感じるのは、その相手が近親者(父親や兄弟)である可能性が大。女性が出産可能になった時、父親や兄弟のような身近な異性に「性的魅力」を感じてしまっては困るので、「匂い」というストッパー(&アラーム)が組み込まれているわけだ。そして、「いい匂い」あるいは「匂いがしない」と感じる男性こそが、自分のパートナーであると女性は選別するのらしい。

 ネットや携帯の時代に「匂い」?と、ちょっと首をかしげそうになる話だが、実際、若い女性を集めて「近親者と他人の衣服の匂いをかぎ比べる」という実験をしたところ、現代の女性も「いい匂い」と「不快な匂い」という形でかなり正確にかぎ分けられたのだそうだ。

 これはちょっと面白い。「外見」で選ぶ男性と、「匂い」で選ぶ女性。こういう視点の恋愛は「音楽」にならないものだろうか?

          *

Score■オペラの中の女と男

 そう言えば「オペラ」というのは、男と女の恋を描くものがほとんど。それが主題でないにしても、恋が全く登場しないオペラと言うのはあまり思い浮かばない。

 その中で、主人公たちがどんな「外見」どんな「匂い」でお互いを選んでいるのか、ちょっと興味が沸いてきたが、「舞台」では「外見」は衣装で隠れているし「匂い」は嗅ぐわけにいかないので、それはちょっと無理か。

 それに、色々な恋のさや当てや事件があって最後は「結婚してめでたしめでたし」…という話は多いものの、その基本は「二人の世界」。その向こうに「子供」が見え隠れしたり、そこから先の「子孫」にまで視点を伸ばした物語となると、グッと少なくなる。

 例外の代表作としては、ワーグナーの「ニーベルングの指輪」。あれは、英雄ジークフリートが「子孫」として誕生する話を、父ジークムントと母ジークリンデの恋の馴れ初めや、そもそもの前世の呪い話から遡って延々と語る壮大な物語。兄と妹が結婚して英雄が生まれるという「近親相姦」譚だが、その「特殊」さゆえに「神話」になったということだろうか。

 でも、「結婚してめでたし」のオペラの中にも、「子孫」への視点が伸びているものが幾つかある。

Turandots ◇トゥーランドット

 プッチーニの最後のオペラ「トゥーランドット」も、おとぎ話(寓話)っぽく仕立てられながら、実は「男を選ぶ女(お姫さま)」の壮大な婿選びに巻き込まれた「男」の物語。恋とか愛ではなく、現実的に「子孫」を残さなければならない皇女(トゥーランドット姫)が、父親である老王の「孫の顔を見なければ死んでも死にきれぬ」という後押しで、いやいや相手を選ぶ。

 現代の普通の一般家庭にも「まだ結婚したくない」という娘はいくらでもいて、色々な理由を付けては駄々をこねるわけだが、それが中国の王室ともなると話が大きくなる。結婚する相手は、まず「私の出す3つのナゾナゾを解かなきゃイヤ」。しかも、「解けなかった時は、首をチョン切っちゃう」と言ってしまったことから話は始まるわけだ。

 冷静に考えると、これは要するに「まだ結婚したくない」姫さまが、無理難題をふっかけて結婚相手を断る「方便」。確かに、皇女として権威や力は充分すぎるほど持っているから、そもそも当人にとっては「結婚」するメリットはない。安全と食糧は既に充分すぎるほど確保されているのだから、敢えてそこから外に踏み出す「必然性」が認められないわけだ(そのあたりは、現代の女性と似ている)。

 しかも、先の「免疫」の話で言うと、豪華な宮殿の中で香水や美食にまみれて「異性の匂い」など忘れて育っている。当然ながら、かぎ分ける能力を発揮する「場」もない。老王から言われている「子孫を残す」という大儀を、頭では理解しているが、身体が拒んでいる。それをモラトリアム(猶予)するための「子供っぽい」アイデアが上記の「条件」だったわけだ。

 いくら何でも「負けたら首をチョン切られる」と分かっていて挑戦するバカな男はいないだろう、というのが姫さまの考え。ところが、「男」は女性の想像を遥かに超えた「バカ」なのである。その証拠に、いい年をした大の男が、痴漢だの盗撮だの下着泥だのポルノだので捕まる事件が後を絶たない。阿呆なことに命を賭けるのが「男の性」なのかも知れない。嗚呼。

 そこで、首を切られようがなんだろうが、「この世で一番見栄えのいい女」つまり皇女にして若き美女でもあるトゥーランドット姫に結婚を申し込むべく殺到する。そこから生まれた壮大にして異様な「おとぎ話」的展開が、「トゥーランドット」の世界である。

Turandot プッチーニがこのオペラの作曲を手がけたのは1923年頃から亡くなる年(1924年)まで。自分に結婚を申し込む男の首をチョン切ってしまう「氷のように冷たいお姫さま」と、彼女への愛を証明するために3つの謎に挑戦する「放浪の王子カラフ」が、なんとなく恐妻家のプッチーニと奥さんの冷めた関係を思わせて、微妙な味わいがある。

 ちなみに、献身的な「秘する恋心」を抱きながら、王子を守るために自ら命を絶ってしまう可哀想な女奴隷リューは、元々の物語にはないプッチーニの創作。(実際に、プッチーニ家にいたメイドの少女がモデルなんだとか。そのあたりの詳しい話はこちらで)

 ただし、この彼女、命を賭けて「愛」をアピールするものの、王子カラフは全く「異性」として眼中にない。これは、考えてみるとあまりにも可哀想。この「悲劇」の方が、トゥーランドット姫とカラフ王子の話などより聴き手の心を打つほどだ。

 そして、オペラの終幕では、3つの謎を解かれながらも、最後まで「結婚」を拒むトゥーランドット姫に対して、王子カラフが捨て身のキス攻撃で「愛」を獲得する。この王子のキスによって、トゥーランドット姫は「この人の名は愛!」と叫んで、婚姻を発表するのである。

 ただし、プッチーニ自身は、この結末(キスだけでカラフの愛を受け入れてしまうこと)にどう「必然性」を与えるか悩みに悩んで、結局「未完」に終わってしまったほどらしい。でも、前述の「免疫学」の話を聞いていたら、プッチーニも納得できたかも知れない。つまり、トゥーランドット姫は、自分とは異質の遺伝子の「匂い」をかぎ取ったゆえに、カラフを受け入れたのだ。

 つまり、キスによって「女性を籠絡した」と思うのは男性の大いなる勘違い。女性にとっての「キス」というのは、「相手の免疫の確認」という(高度に戦術的な)意味があるのである。
 女性おそるべし。

 この近代イタリアオペラの雄プッチーニに対して、ほぼ同世代のドイツ音楽圏における最大の人気オペラ作家のひとり:リヒャルト・シュトラウスも、同じ頃、ちょっと面白い「愛の形」をオペラにしている。

Poster ◇影のない女

 それが、1919年に初演されたオペラ「影のない女」。これは「恋」の物語ではなく、おとぎ話的な「出会い」があって結ばれた「お妃さま」と「王さま」の、その後。つまり、結婚後の物語である。

 お妃さまの方は、霊界の王の娘で、人間ではない。動物に姿を変えて人間界に降りてきたところ、王様と出会う。そして、愛し愛されて人間界で結婚するのだが、彼女には「影」がない。これがオペラのタイトルの所以。

 本人はそのことの「意味」を知らなかったのだが、ある時、霊界からの使者の口から、それは「子供を産めない」ということだと知る。しかも、1年12ヶ月たっても「影のない」状態が続くと、夫である「王」が石になってしまう。その期限があと3日。そう聞かされ吃驚仰天する。

 話としては極めて「おとぎ話」(寓話)的なシチュエーションだが、早い話が皇室や武家と同じ。幸せな結婚をしてお互い愛し合っていても、お妃が皇位継承者である男の子を生めない身体(影のない女)で、その状態が何年も続くと「血筋」を保つために「側室を付ける」とか「血族の別の男児に継承を移行させる」とかの強硬手段が必要になる。まさに「石になる」状況だ。

 一般家庭でも、「子供が生まれない」というのは、「未来」を考えた場合切実な問題だろうから、「結婚してめでたしめでたし」の先にあるあらたな「テーマ」として、「子孫」への視野をオペラに組み込んだシュトラウスの視点は、面白い。

 かくして物語は動き始め、「影のない妃」は人間界に降りてゆき、「影」が要らない(生むことを放棄した)という女から「影」を譲り受けようと画策するのだが……

 心打たれるのは、シュトラウス(あるいは台本のホフマンスタール)の「愛」の視点だ。
 ワーグナーばりの音楽で「エロティシズム」を描くように見えて、実は「愛というのは、生まれてくる未来の命のための架け橋なのだ」という「家庭的」とも「宇宙的」とも取れる視点が、この作品のベースになっている。それは一幕最後で「影の声」によって歌われるのだが、これはちょっと感動的だ。

 その後の人間界での、もう一人の夫婦とのいきさつはオペラを鑑賞する楽しみに取っておくとして、この話、最後はハッピーエンドで終わる。影のないお妃さまは「影」を得られることになり、無事に子供が生まれることになったお妃さまと王さま(そして、人間界のもう一組の夫婦)が抱き合うのが終幕のシーンである。

 この大団円の場で、舞台の背後から「まだ生まれていない(これから生まれてくる)子供たちの声」が「お父さん、お母さん」とささやくように聞こえてくる。
 その最後の一句が、なんとも可愛くもあり、ちょっぴり怖くもある。

 「僕たち子供は、
  招待されてこの世に生まれる
 〈お客(ゲスト)〉に見えるかも知れないけど、
  実は、僕たちこそがこのお祭りの
 〈主催者(ホスト)〉なんだよ」

 要するに、男性を縛り付ける女性の「外見」への衝動も、女性が選別する男性の「匂い」への機能も、すべて「これから生まれてくる子供たち」によって仕掛けられたもの。
 私たちが「性衝動」とか「愛」とか思っているものは、彼らによって体中のあちこちにセットされた「タイマー」や「アラーム」なのである。

 子供たち、恐るべし。

          *

マリインスキー・オペラ2011年来日公演

■リヒャルト・シュトラウス「影のない女」
 2011年2月12日(土)16:00 東京文化会館
 2011年2月13日(日)14:00 東京文化会館

Schatten_head

■プッチーニ「トゥーランドット」
 2011年2月18日(金)18:30 NHKホール
 2011年2月19日(土)14:00 NHKホール
 2011年2月20日(日)14:00 NHKホール

Turandot_head_2

■特別コンサート
・ベルリオーズ「トロイアの人々」
 2011年2月14日(月)18:30 サントリーホール
・ワーグナーの夕べ
 2011年2月15日(火)19:00 サントリーホール
・ロシア音楽の夕べ
 2011年2月16日(水)19:00 横浜みなとみらいホール

ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー・オペラ

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2010/08/10

夏休み総力特集「ロックmeetsクラシック」

Presley 20世紀の初め、伝統と新しい近代文明との狭間で大きな曲がり角を迎えるヨーロッパ音楽(西洋クラシック音楽)に対し、新大陸アメリカでは、全く異質の文化が出会うことによって生まれた新しい音楽が開花していた。

 それは、奴隷として新大陸に連れてこられた黒人たちによるアフリカ音楽と、移民として入植した白人たちのヨーロッパ音楽が奇妙に融け合った音楽で、最初は遠いアフリカへの郷愁と奴隷の境遇を嘆きつつギターをかき鳴らす「ブルース」として広まった。
 やがて、この音楽は西部の酒場に転がっていたピアノや南北戦争の軍楽隊の楽器(トランペットやベース、太鼓など)と合体して、いくぶん賑やかな酒場の音楽「ジャズ」となった。
 そして、1920年代頃には、この「ジャズ」は、アメリカを代表する音楽として洗練の極に達する。ガーシュウィンやラヴェルが登場した時代だ。

 さらに、第二次世界大戦前後、黒人音楽「ブルース」にリズムを加えたシンプルなダンス・ミュージック「リズム&ブルース」が、放送やレコードの普及と共に一世を風靡する。戦後の日本に鳴り響いた「西洋」音楽はこのあたりがルーツだ。
 そして、1950年代頃、エルヴィス・プレスリーらの登場によって、さらに激しい「腰を揺らし(Rock)回して(Roll)踊るような音楽」に昇華。「ロックンロール(Rock'n'Roll)」と呼ばれるようになる。
 
Beatles この「ロックンロール」は本家ヨーロッパにも逆輸入され、1960年代には、ビートルズに代表されるバンド編成(エレキギター、ベース、ドラムス)の音楽として、現代のさまざまな素材(古きヨーロッパ音楽からエレクトロニクスやメディア、そしてファッションまで)を取り込んだ汎世界的な音楽に進化する。
 これが「ロック」。異なる文化(ヨーロッパ文化とアフリカ文化)が新しい時代の潮流の中でリミックスされた、正真正銘の「20世紀の音楽」の誕生である。

□ロックmeetsオーケストラ

 そんな出自の音楽である以上、「ロック」が音楽史上の大先輩である「クラシック音楽」に敬愛を抱くのはある意味当然であり、その最大のアンサンブル・ユニット「オーケストラ」と共演したいというのは、多くのバンドが抱いた夢だったと言っていいかも知れない。

Wakeman その夢は、1970年代初頭、エレキギターの音を千変万化に加工するエフェクターや、シンセサイザーあるいはメロトロン(コーラスやストリングスの壮大なサウンドを作り出すアナログ式サンプリング型キイボード)などの登場と相まって、ロックバンドでオーケストラに匹敵するサウンドと宇宙を作り出す試み「プログレッシヴ・ロック」あるいは「シンフォニック・ロック」という世界に昇華する。
 
 しかし、この時代のクラシック系の創作音楽界は、(いわゆる)「前衛音楽」「現代音楽」が最盛期。リズム(ビート)やハーモニーが明確な「ロック」など、取り込むどころか認めることすら出来なかったことは、返す返すも残念としか言いようがない。
 確かに「ロックにはクラシックの遺伝子が組み込まれている」しかし「クラシックにはロックの遺伝子はない」。クラシックという父親こそが、ロックという息子に学ぶべきだったのだ。
 そして、この時の「狭量さ」が、その後のクラシック系創作音楽界(現代音楽界)衰退の致命的要因となってゆく…。

Orchestra そんなジリ貧の現代音楽界を尻目に、ロック界は電子音楽サウンドから古典的クラシック音楽までを貪欲に吸収し、商業的な成功も加わって圧倒的な存在感を音楽シーンに刻印してゆく。
 そして 1970年代後半になると、ロック界で成功したバンドが、その豊富な「儲け」をつぎ込んで、「オーケストラを雇う」試みが頻出し始める。敷居が高いとは言え、数万ドルのギャラさえ出せばオーケストラは「雇える」のである。そこで「箔を付けるため」ということも含めて、成功したミュージシャンたちはオーケストラとの共演をしたがったわけだ。

 ところが、ロックバンドがオーケストラと共演すると、ロックの方は、「クラシック」を意識して日頃のパワーやビートを出せないもどかしさが残る。一方、オーケストラの方は、指揮者が振るリズムとドラムスが叩き出すビートの狭間でうろたえているという感じになる。
 その結果、残念ながら「お互いに気を使い合う」といった感じで、双方25%ずつの力が合体して計50%程の出来…と言うのがほとんどだった。

 結局、「ロックとクラシックの融合」というヴィジョンは、あまりにも魅力的な試みながら、結果的にはどれも不完全燃焼。あちこちに不満が残る出来でしかないというのが、個人的な印象だった。

Tarkusx_2 ロックの魅力は、まず第一に「エネルギー(パワー)」。
 それは、PAで電気増幅されドラムスで強化された大音量サウンド(音の質量)と、ビートの持つスピード感(速度)が生み出す衝撃である。

 なにしろ、運動量の方程式は
 エネルギー(パワー)=「質量」x「速度」
 音量の大きさとスピードこそが、パワーの原点なのである。

 この「質量」と「スピード」をオーケストラに移植せずに、オーケストラでのロックはあり得ない。

Tarkusq さらに「構造」も重要ポイントになる。
 なぜなら、作曲家がもっとも意匠を凝らすのは「構造」だからだ。

 ロックンロールの時代は、音楽というのは2〜3分のものと決まっていた。SPレコードの収録時間と言うこともあるが、所詮4ビート8ビートで12小節あるいは16小節の繰り返しでしかない音楽。3コーラスも繰り返せば飽きてしまう。当時のDJもラジオで流すのは「2分台まで」と決めていたほどだと言う。

 しかし、「ロック」になってからは違う。ビートルズが最初に打ち出した「コンセプト・アルバム」という構想は、2〜3分の楽曲をLP一面(20分前後)あるいは、アルバム一枚分(40分前後)をひとつのコンセプト(発想・テーマ)を持つひとつの流れとして「構成」する考え方だ。

 そして、ポスト・ビートルズのアーティストたち(特にプログレッシヴと呼ばれるバンド)は、この「20分前後」という枠での「構成」にこだわった。
 例えば、ピンクフロイドの「原子心母」や「エコーズ」、EL&Pの「タルカス」、イエスの「危機」などは20分前後の「交響詩」として構成されている。その「構成」があるからこそ、物語性と存在感を持つわけなのだ。
 だから、そのモチーフやテーマだけを抜き出して「適当な」アドリブや変形を加えて曲をでっちあげることは、作曲者および楽曲へのレスペクト(敬愛)の視点からすれば「あり得ない」。

 この「破壊力」と「スピード」をそのままに、「構成」を忠実に取り込みつつオーケストラで「remix(再構築)」すること。それこそが「ロックをオーケストラ化する」基本なのである。

◇制作の過程

Tarkus 私が、クラシック・オーケストラの作曲家を志したのが、1970年前後。大学(ただし一般大学)に入学した頃だから、かれこれ40年ほど前になる。

 当初は、「現代音楽」と呼ばれるクラシック系純音楽に傾倒していた訳なのだが、この前後(1970年から75年あたりまで)に「プログレッシヴ・ロック」という新しいタイプのロック・ミュージックが次々に登場するのに接し、「新しい時代の音楽」としてかなりの衝撃を受けることになる。

 中でも、スローテンポで前衛的かつ抒情的サウンドを紡ぐピンクフロイド、賛美歌的なコーラスに緻密な構成と変拍子リズムを凝らしシンフォニックな宇宙を描くイエス、ジャズとクラシックとロックを直結させた世界に荒々しくも強靱なビートで切り込んだEL&Pの3つのバンドは、同時代の「現代音楽」の脆弱さを遙かに超越した巨大で「新しい」音楽世界を作っていて、衝撃的だった。

 ちなみに、個人的に「クラシカルなシンフォニーに匹敵する名作」として注目していたのは、ピンクフロイド「原子心母」「エコーズ」「狂気」、イエス「ラウンドアバウト」「危機」「シベリアンカートゥル」「海洋地形学の物語」、そしてEL&P「タルカス」および「悪の教典#9」というような、演奏時間が20分前後(あるいはそれ以上)のシンフォニックな構成感を持つ大作群である。

 当時の「現代音楽界」は、「調性やメロディやリズムがある音楽などはもはや死に体である」という考え方が基本で、その主張のうえに「斬新で先鋭的な」音楽を「新しい技法、新しいテクノロジー」と共に作ってゆく機運だった訳なのだが、プログレッシヴ・ロックには「調性」も「リズム」も「メロディ」もすべてがあった。しかも「それでいて新しい!」のである。これはショックだった。
 結果、それらの音楽に匹敵する「オーケストラ・サウンド」を(現代音楽界で)作るのが、作曲家としての私の当時の目標となっていたわけである。

 その最初の試みは1974年頃。アマチュアのロックバンドに入って上記の「エコーズ」や「狂気」をコピー演奏するところから始まった。キイボードを弾いていたので、「タルカスごっこ」や「リック・ウェイクマンごっこ」をよくやっていたのを覚えている(笑)。

 そして、1979年には、オーケストラ曲「ドーリアン」で、EL&P的変拍子ブラスロックのオーケストレイションを初めて試みる。
 これが実質上、私のクラシック音楽界デビューだったのだが、「ストラヴィンスキー的」とは評されても「ロック的」と指摘する人はクラシック(現代音楽)界には皆無。クラシックとロックの「遠さ」(とロックへの無知さ加減)に、ショックを受けることになる。

 翌年、「朱鷺によせる哀歌」を発表。こちらはピンクフロイド的な抒情的クラスターを使ったモード(旋法)作法の試みだったのだが、こちらも「ピンクフロイド的」などという指摘は皆無。「調性がある」という些末的なことばかりに注目され、半ば呆れ、半ば諦めの「現代音楽界デビュー」を迎えることになる。

 1982年、コンピュータ打ち込みによるMIDIの規格が登場。パソコン上でいくつかの断片を試みに入力し始める。ただし、まだ「変拍子」の入力が難しい仕様だったので、プログレ系の曲の入力は無理だった。
 それでも、1986年頃に導入したドラム音源では、十六分音符ひとつひとつにアタックを付けるとどんな曲でも(ショパンでも!)「EL&Pっぽく」なることを発見する(笑)

 1990年、最初の交響曲「カムイチカプ交響曲」を発表。第3章「FIRE」の章で、今まで蓄積してきた「ロック的なオーケストレイション」の集大成を試みる。
 この成果は、1994年の「サイバーバード協奏曲」を経て、2001年の「交響曲第5番」Finaleで全開になる。

 この頃から、ネット内でプログレ作品のコピーやMIDI演奏を試みている幾つかのサイトを見つけて、チェックを始める。全曲すべての採譜というのはさすがになかったが、部分的にかなり参考になる出来のものを発見。
 勇気づけられると同時に、チャレンジ精神が頭をもたげてくる。

 2008年6月、東京フィルから「音楽の未来遺産」というシリーズの監修を打診される。主に現代作品の中から、新しいレパートリーとなるようなものを選曲し、一夜のコンサートを構成する企画だが、「現代曲」である必要はないということで、アレンジを拡大させた「リミックス」という構想を提案。

 その目玉として、EL&Pの「タルカス」のオーケストラ化を具体的に進めることに決定。(実を言うと、元々はこの企画は3回のシリーズで、タルカスは最後の回の目玉として暖めていたのだが、諸般の事情と某政権の事業仕分けの影響で残る2回は消滅。いきなり初回に大物登場となった…のだが、それは別の話)

 かくして、今まで採譜してきたものと、MIDIデータなどを合わせた「大まかな全体の楽譜」が出来たのが2008年11月。
 そして、具体的なオーケストレーションの構想にかかることになった。

 ◇採譜と構成

 EL&P(エマーソン・レイク&パーマー)が1971年に発表したセカンド・アルバム「タルカス」は、当時ベストセラー・アルバムとなった大人気曲ではあるものの、曲の性質上、クラシックのように「スコアが出版される」ということはなかった。

 もともとロックのミュージシャンは楽譜を書かない。(私もロックバンドでキイボードを弾いていたので良く分かるのだが)それぞれのパートは、自分用のメモのような楽譜は持っているが、全員のパートを記譜した「スコア」に当たるものは存在しない。

 だから、ロックやポップスの曲の場合(ビートルズなどでもそうなのだが)、「楽譜」として出版されるのは、メロディと歌詞のうえに簡単なコードネームが付いているものにすぎない。
 しかも、それは当人たちが書いたものではなく、誰かに採譜させたものを元に出版社が作った楽譜であり、全曲の構成をそのまま楽譜にしたものはない。
(近頃、レッド・ツェッペリンなどの完全バンド・フルスコアなどというのも見かけるようになったが、それはごく最近のことだ)

 そのため、まずは「採譜する」という作業からすべては始まった。
 そして、おおまかなバンドスコアが仕上がったところで、全体の構想に入ることになった。

 全体の構成は
  1.Eruption(噴火)
  2.Stones of Years(ストーンズ・オブ・イヤーズ)
  3.Iconoclast(偶像破壊)
  4.Mass(ミサ聖祭)
  5.Manticore(マンティコア)
  6.Battle Field(戦場)
  7.Arua Tarkus(アクアタルカス)。
 
 1(噴火)および5(マンティコア)は、かなり器楽的に書かれているので、そのままインスト(つまりオーケストラ)にするのは比較的容易に思われた。
 メカニックな変拍子フレーズの繰り返し(リフ)の上に、モチーフが色彩的に浮遊するので、ストラヴィンスキー的あるいはバルトーク的なオーケストレイションが可能。

 一方、2(ストーンズ・オブ・イヤーズ)、4(ミサ聖祭)および6(戦場)は、グレグ・レイクのヴォーカルが入る。ここはビートが後退してバラード的な響きになる分、ストリングスで膨らませるアレンジが可能。
 ただし、メロディはシンプルなフレーズなので、歌詞がなければ完全な「繰り返しパターン」で極めて平凡。しかも、一歩間違うと安っぽいムード音楽風の響きになってしまうので注意が必要か。

 そして、問題は、3(偶像破壊)、4(ミサ聖祭)の中間部、および7(アクアタルカス)。ここはシンセサイザーやギターを含めた激しいアドリブがあるので、そもそも「採譜」が困難な部分が多い。しかも、採譜できても「そのまま」オーケストラで演奏させるようなアレンジは不可能。ここをいかに処理するかが「タルカスのオーケストラ化」最大の難関ポイントとなりそうだ。

Tarkusbook

◇編成

 オーケストラ化に当たって、当初は、ストラヴィンスキーの「春の祭典」に匹敵するパワーを持つ作品と言うことで、それと同等の編成(5管編成、ホルン8、トランペット5、チューバ2の巨大編成!)を考えていた。
 しかし、レパートリーとして考える以上、ある程度「普通の編成」で演奏できる必要がある。そこで、最終的に「通常の3管編成オーケストラ」とすることにした。
 ただし、タルカス・シフト(?)を敷いている。

Top ピッコロ
 フルート 2
 オーボエ 2
 イングリッシュホルン
 クラリネット 2
 バス・クラリネット
 ファゴット 2
 コントラファゴット

 ホルン 6
 トランペット 4
 トロンボーン 2
 バス・トロンボーン 1
 チューバ 1

 ポイントは、タルカスの咆哮を描くブラス・セクションのパワーアップ。特にホルンは、通常4本のところを6本使う。原曲のキイが「F(ヘ長調)」なのも、ホルン(in F)の活躍のしどころ。トランペットも4本に増量。

 そして第二のポイントは5人のプレイヤーから成るパーカッション。
 
 まず、ティンパニx5。
 そして、続く3人の「パーカッション群」は、
 シンバル系・・・
 ・通常のオーケストラ用サスペンド・シンバル
 ・ハイハット・シンバル、スプラッシュ・シンバル
 次いで、太鼓系
 ・トムトム3〜5
 ・スネアドラム
 ・バスドラム2
 要するに、この3人でほぼロックのドラムセット1つ分を分担する形になっているわけだ。
 ちなみに、バスドラムは、大きめの通常演奏用(ドンというアタック用)のほか、小振りでミュートさせたもので「キックペダル式バスドラム」の音を作っている。

これに加えて、アクセント用の小物、まずはキラキラ系
 ・トライアングル
 ・ウィンドチャイム
 ・アンティク・シンバル
そして、アタック系
 ・ウッドブロック
 ・カウベル
 ・タンブリン
 ・タムタム

さらに、もう一人のパーカッションが加わる。
 ・マリンバ:これはメカニックな硬質なフレーズを作るため
 ・ヴィブラフォン:ジャージーな雰囲気を作るため
 ・チューブラベル:最後の「カーン」
 
 そして、弦楽五部は通常のオーケストラ通り。

 ちなみに、原曲の「歌」の部分を、実際にコーラスあるいはテナーなどで歌わせることも考えないではなかったが、経費の点であっさり却下されてしまった(笑)。

◇オーケストレイションのポイント

1.Eruption

101 冒頭(00:19)、5拍子(4+3+3)の印象的リフに乗って断片的なテーマが登場する。キイボードではオルガンの左手のベースラインとドラムスがシンクロして強力な推進力を持つ変拍子リズムが発進するところ。

102 ここは、オーケストラのどの楽器でも、この強力なバスパターンの繰り返しに耐えられる音を連続演奏するのは無理。そこで、チェロ、バスーンをデヴィジにして、それぞれ4・3・3のブロックに解体し、これにマリンバとピアノのバスを重ねることで、リズムのグルーブ感と「リフ」の推進力を出すことにした。

 続く、曲想が変わる部分(00:43。5拍子から4拍子へのシフト)のアクセントは、バスドラのクレッシェンド+ティンパニの装飾音付きアタックで強化。
 これは、その後何度となく出て来るが、オーケストラで出しうる最も強力なアクセント記号として、かなり有効だ。

103 そして、ミニムーグによるタルカスの咆哮(00:57)。これはさすがに1パートだけの吹奏ではパワーで負けるので、金管を総動員。ホルン6本、トランペット4本、計10本での「雄叫び」である。

 その後の、同じくミニムーグによるグリッサンドの(グイーーンという)咆哮(01:44)は、ホルンのグリッサンドにトロンボーンのスライド・グリッサンドを重ねてみた。
 シンセっぽいというわけではないが、タルカスの咆哮という点では、こちらの方が生っぽくていいような気もする(笑)

 このあとは変拍子の嵐、しかもフォルティッシモの連続とあって、オーケストラは大変だ。しかし、このあたりは律儀に変拍子リズムにアクセントを付けてゆけばいいので、逆にオーケストレイション作業としては楽な方か。

2.Stones of years

 一旦静まって、グレグ・レイクの歌が入る「ストーンズ・オブ・イヤーズ」のパートが始まる。

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 メロディはシンプルなフレーズ(00:12)の1番2番の繰り返しだが、なるべく歌のテンポ・ルバートのニュアンスを活かして採譜。繰り返したときに「全く同じ」にならないように心がけた。

 問題は、この歌に絡むキースのオルガン・アドリブ(00:24)。

202

 これは楽譜にするのが大変だったところ(泣)
 このあたりは、木管楽器が活躍。

 続くハモンドオルガンのソロ(01:04)。

203_2

 これも絶妙なフレーズを活かしたくて、トランペット〜ホルンと受け渡して「ソロ」で。
 このあたりは微妙に木管楽器と絡むのだが、採譜が追いつかず、ちょっともごもごしている(笑)

3.Iconoclast

301 ふたたび変拍子リフの世界(00:03)へ。

 これは普通に弦の刻みで。同じ音型をピアノのバス音域とハイハットでユニゾンさせ、4+3+3のアクセントをマリンバおよびパーカッション(トムトムとサイドドラム)で分担させている。

302 続いて、フルオケ総動員のリズムのアクセント(00:58)が連続して登場する厄介な部分。
 すべてシンコペーション的な処(つまり拍の頭でないところ)にアクセントがあるので、指揮者に「かんべんしてよ〜」と泣かれる(笑)。

 そのあと、十六分音符の短いフレーズが交互に登場するパターン(01:05)は、弦の1・2および、クラリネットとオーボエで分担。
 ここはなかなか可愛い響きがする。

4.Mass

 そして、曲はふたたびグレグ・レイクの歌が入る「ミサ聖祭」のパートへ。

401

 ここもメロディ・パターンとしては同じ形の繰り返し(00:12)。

402_2

 構成としては、9小節のメロディの後にウッドブロックの合いの手が2小節入って、転調して次(2番)に移ってゆくというパターン。
 流れはシンプルで分かりやすいのだが、同じメロディを1番2番と歌うので、インストにしてしまうと完全に同じ繰り返しになる。(歌のパートがないと、ハッキリ言って退屈になるのである)。なので回数は省略することに。

 難しかったのは、そのあとの断片的なリズムの上で浮遊するハモンドオルガンの(スタッカートが印象的な)アドリブの部分(00:48)。

 ここは、原曲通りの採譜はあきらめて、オーケストラ的に(特殊奏法なども含めて)点描風の変奏をして処理。コルレーニョ(弦を弓の木の部分で弾く)やバルトークピチカート(バチンと音を立てるピチカート)駒の外の部分を弾く特殊奏法(しゃっくりのような音が出る!)をちりばめてある。

403 そして、さらに難関だったのが、次のアドリブ部分(01:15)。エレキギターの印象的な刻みリズムに乗って、オルガンの超絶フレーズからシンセのグリッサンドが交錯し、それにギターのアドリブも絡む。

 ここも、原曲そのままというのを放棄して、ランダムなアドリブによる「破壊的なパワー」の表現を最優先として、パーカッション群によるアドリブ合戦にしてみた。
 スコア上は、現代音楽的な「ad lib ... tomtoms,cymbals etc...」というような注釈付きで、ランダムっぽいフレーズが記されている。

404

 トムトム系の楽器を持つパーカッション2が、まず8小節の自由なアドリブ(01:15)。次いでシンバル系のパーカション3が加わって2倍のパワーとなって8小節のアドリブ(01:28)。
 その間、弦楽器は、背景の4度の和音をトレモロで半音ずつずり上がってゆき、テンションを高めてゆく。

 ここは唯一、原曲から離れて「オーケストラの色彩」を重点にした部分である。

5.Manticore

 続いて、敵役?マンティコアの登場。冒頭の変拍子リズムに似ているが、今度は9/8拍子のリフ(00:00)。

501

 最初は、チェロとバスーンで登場し、徐々に楽器が増えていって、全楽器のテュッティになる。

 そして、このリズム・パターンにハモンドオルガンが2小節ずつの合いの手を入れる絶妙な部分(00:22)が始まる。

502

 これは2小節単位で都合4回入るのだが、オーケストラの色彩を活かして、トランペット〜ピッコロ〜クラリネット〜オーボエと受け渡してみた。
 フルオーケストラによるリズム2小節と、次々に楽器が変わる木管のソロ2小節が、交互に演奏される。ここは、オーケストラ的に「おいしい」(最小の努力で最大の効果が上がる)ところである。

 このあと、マンティコアのテーマなのか、8/9リズムに乗ってハモンドオルガンのメカニックなソロが疾走し始める(01:05)。

503

 ちょっと聞くとトランペット・ソロのように聞こえるが、この部分をすべてをソロで吹奏するのは不可能。そこで、トランペット2本で交互に演奏させている。
 それでも、結構きついパッセージの連続なので、トランペットは大変である(泣)。

6.Battle Field

 曲は、コラール風の厚い和音による導入の後、ふたたび歌の入る「戦場」のパートへ。
 ここは、一種「荘厳な」力強さがある部分だが、「声」ゆえのパワーは望むべくもないので、いくぶんクラシカルな「コラール」的な感じを強調。エレキギターの不思議なフレーズは採譜しきれずホルンで(00:17)

 そして、「戦場」と言いながら、どこか寂しげなグレグ・レイクの歌(00:20)が印象的。これはイングリッシュホルンで、いかにも寂しげに。

601

 合いの手として、バスクラリネットの寂しげな〈溜息〉モチーフを加えてみた(00:28)。
 
602そして、終盤のテーマともなる、ファンファーレ的なモチーフが登場(00:42)。

 寂しげな歌と、この「闘争本能」のようなモチーフの交錯がこのパートのポイント。
 原曲では、エレキギターの力強いソロが入るのだが、これはさすがに採譜しきれず大幅にカットすることに(++)。この部分の約1分半のカットのおかげで、全体が原曲より少々短くなっている。
 

7.Aqua Tarkus

701 終曲。冒頭で、先のファンファーレ的なモチーフがどこか空虚に鳴り響く(00:00)。これはピアノとマリンバで。

 これが「戦闘開始」の合図なのか、スネアドラムのミリタリックなリズムが始まり、繰り返されるうちに巨大なエネルギーが蓄積されてゆく(00:52)

 そして「ボレロ」が始まる(01:02)のだが、この小太鼓リズムがなかなかいい。

703

 このリズムが延々と繰り返される上に、テーマがどんどん巨大な質量へ増殖してゆく。
 繰り返しのボレロ・テーマは、木管楽器と弦楽器が担当。徐々に楽器を増やしてゆくことで、ボレロっぽさを出している。

 さらに、このボレロにからむミニムーグのソロ(01:02)がなんともカッコいい。

704

 原曲ではシングルトーン(単音)のムーグサウンドで演奏されるが、増殖してゆく大オーケストラサウンドの中でハッキリ「存在感」を主張するのは、単なる1パートのソロでは無理。
 そこで、この部分、金管を総動員した。

 キイボードの即興的なフレーズをそのまんま一音残さずトレースし、しかも、そのフレーズを金管全員のユニゾンで吹奏している。
 最初はホルン4本によるユニゾンで始まるが、徐々に増えていって、6本の斉奏になり、途中からそれにトランペット2本が加わり、最後は4本全員が参加。
 つまり、総計10本の金管楽器で、ミニムーグのフレーズをユニゾン演奏する訳である。なんと馬鹿馬鹿しくも爽快な響きであることか!(01:29)

705

 このボレロ部分が静まって行き、銅鑼(タムタム)が強烈な一打を放つと、曲はいよいよ最後の部分へ(02:50)。
 ここは、Part1「Eruption(噴火)」の後半が完全に再現される。ふたたびタルカスの咆哮が聞こえ、冒頭の5拍子リズムが復活。

 最後に、叩き付けるようなコードの連打(03:49)。(この部分、原曲にない「リタルダンドをかけて」と指揮者に注文。そのため最後の一音にゆく直前、うめくような壮絶なかけ声が聞こえる!)

 コーダは、フルオーケストラの巨大エネルギーの見せ所(04:00)。金管10本によるテーマの斉奏および、高音でのアドリブによるトリル、パーカッション群のアドリブ連打(隠し味にチューブラベルの一打)を加え、壮大な「ヘ長調」の主和音を「轟音」のレベルにまでボリュームアップしてみた。

706

          *

 ちなみに、これは「タルカスにクラシック風のオーケストレイションを施したもの」などではない。「オーケストラでロックを演奏する」ことの可能性を40年かけて追求した一つの「個人的成果」(言うなれば、夏休みの宿題のようなもの)である。

 もともと誰かに依頼されたものではなく(コンサート自体は東京フィルの企画だが)、10代から20代にかけて大きな音楽的喜びを与えてくれたプログレッシヴ・ロックという音楽ジャンル(そして、作曲者キース・エマーソン氏)に寄せる「敬愛」の念から発したもの。その点では、このスコアは純粋に個人的な「趣味」の産物というべきだろう。

 本来なら、何らかの形でこのスコアを公開(出版)し、私が学んだロックのオーケストレイションに関するノウハウを若い人に伝承したいところだが、現在の著作権法上それは叶わない。
(ちなみに、この曲の著作権は、作曲者のキース・エマーソン氏と作詞者のグレグ・レイク氏にあり、それ以上の権利が交錯して再演を妨げることがないように、私の編曲権は放棄している)

 願わくば、今回の試みをベースに(そして、このメモのようなオーケストレイションの覚え書きを参考に)、新たにロックの名曲のオーケストラ化に挑戦する若い人が出て来ることを、望んでやまない。

 そして、20世紀後半以降のクラシック音楽の歴史に、プログレッシヴ・ロックがもたらした大きな成果が正当に評価され正しく刻印されることを、心から望む次第である。

          *

□歴代〈ロックmeetsクラシック〉アルバム

Sgtpeppers 最後に、ロックとクラシックが出会ったアルバムを思い付くまま挙げて、この稿の締めとしよう。

1967 ビートルズ「サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツクラブバンド」
 ビートルズとクラシックの出会いは弦楽四重奏をバックに歌った1966年の「エリノア・リグビー」(「リヴォルバー」収録)あたり。そして、翌年発表されたのがこの歴史的一枚。ロックンロールにクラシックのサウンドを組み込み、さらにブラスバンドや電子音楽からインド音楽まですべてを吞み込んだ衝撃作であり、「ROCK」という世界を確立した記念すべきアルバムである。ここから「ポスト・ビートルズ」=「プログレッシヴ・ロック」の道は始まった。

Moodyblues1967 ムーディ・ブルース「Days of Future passed(サテンの夜)」
 最初に「クラシック・オーケストラ」をロックと合流させたのは、プログレッシヴ・ロックの草分け的なバンド〈ムーディ・ブルース〉のこのセカンドアルバム。オーケストラによる印象派風のサウンドを使ったイメージアルバム風の作りで、ドビュッシー風の美しいサウンド。その名の通り「ムーディ」な響きがする。

Deeppurple1969 ディープ・パープル「コンチェルト・フォー・グループ&オーケストラ」
 ライブでのロックバンドとオーケストラ(M.アーノルド指揮ロイヤル・フィル)との歴史的初共演。バンドのキイボード奏者ジョン・ロードの作曲による全3楽章7パートからなる演奏時間約1時間の大作。バロック時代の合奏協奏曲風という感じ。

1970 ピンクフロイド「原子心母」
 純然たるクラシック・オーケストラではないが、ブラスやコーラスを前面に出したシンフォニックな抒情的サウンドによる「プログレッシヴ」ロックの原点というべき一枚。
 ロックなのに「自然賛歌」とでも言うべき叙情性と、どこかシベリウスにも通じるスロービートの中に浮遊する旋律性が個人的に衝撃だった。しかし、ピンクフロイド自体は、その後オーケストラにもクラシックにも接近を試みていない。

Tarkus_21971 EL&P「タルカス」/「展覧会の絵」
 ピンクフロイドとは全く対照的に、ハードさとスピード感を全面に出したプログレッシヴ・ロックの雄の登場。上品でリリカルなクラシックではなく、バルトークやストラヴィンスキーなどの異教のバーバリズムにあふれたクラシック音楽をロック・トリオで演奏した前者、クラシックの名曲そのものをロック化した後者。いずれも「ロックにクラシックを取り込み凌駕する」という覇気にあふれた強烈な試みだった。

1972 イエス「危機」/「海洋地形学の物語」
 ロックバンドでクラシカルな構成感とサウンドを描き上げた恐るべきアルバム。緻密にスコアで書かれたような「シンフォニック」な構成感は、まさに「シンフォニック・ロック」。後者は全4楽章LP2枚分の長さを持つ「マーラーの交響曲」に匹敵する大作。

1974 リック・ウェイクマン「地底探検」/「アーサー王と円卓の騎士」
 そのイエスのキイボード奏者リック・ウェイクマンが、ピアノ・シンセサイザー・オルガンなどキイボード群の圧倒的な色彩的サウンドをオーケストラと絡ませた意欲作。ナレーターが付いてSFや歴史物語を描くライブ・パフォーマンスとしても成功を収めた名作。

Rypdal1974 テリエ・リプダル「Whenever I seem to be far away」
 リプダルは北欧ノルウェイのジャズギタリスト。サステインを効かせたエレキギターのロングトーンと、シベリウスの「トゥオネラの白鳥」ばりの抒情的なストリングス・オーケストラ(&オーボエ、クラリネット)が絡むタイトル曲は絶品。マイナーな作品ながら、個人的にかなり衝撃を受けた一枚である。

1976 アラン・パーソンズ・プロジェクト「怪奇と幻想の世界」
 ピンクフロイドの録音エンジニア:A.パーソンズが立ち上げた全編スタジオワークによるアルバム。「アッシャー家の崩壊」におけるオーケストラサウンドのセンスがなかなか見事で印象的だった。

Works1977 EL&P「WORKS」
 バンドの3人がオーケストラと共演したアルバム。
 K.エマーソンは完全にクラシック編成によるピアノ協奏曲を披露している。

1993 シンフォニック・イエス
1994 シンフォニック・ジェネシス
1994 シンフォニック・ピンクフロイド
 プログレッシヴ・ロックをオーケストラで演奏した一連の企画シリーズ。実際にメンバー数人が参加しているものもあり、ロックバンド+オーケストラの共演になっている。

Cd_morgaua1997 ディストラクション
 我が国の弦楽四重奏の雄モルゴア・カルテットがプログレの名曲に挑んだ衝撃の一枚。プログレのオマージュ&コラージュ作である拙作「アトム・ハーツ・クラブ・カルテット」を始め、イエスやキングクリムゾンのアレンジ・ピースなどを収録。今回の企画の原点となったアルバム。

Ingway1998 イングウェイ・マルムスティーン「新世紀」
 エレキギターとオーケストラのための協奏組曲変ホ短調。ギターパートそのものはかなりクラシカル(バロック風)だが、それを巨大な音響のエレキギターでやる独創性が光っている。

1999 メタリカ「S&M」
 サンフランシスコ交響楽団との共演ライヴ
2000 スコーピオンズ「Moment of Glory(栄光の蠍団)
 ベルリン・フィルとの共演ライヴ。
 共に、いわゆるヘビーメタル系のバンドだが、意外とオーケストラでやっても違和感のない抒情的メロディが魅力。

2010 タルカス〜クラシックmeetsロック

Tarkusr

 

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2010/09/10

ハレルヤコーラスはなぜニ長調なのか?

Hallelujah 最近、「調性」に関する入門書のような本を上梓した。

 もともとの企画は、クラシックの名曲を調性別に列挙して、初心者向けにCD付きで紹介する「調性で読み解くクラシック」というもの。

 要するに「ハ長調ならこんな名曲(例えば、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」など)があります」「ホ短調ならこんな名曲(例えば、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界から」など)があります」というように名曲を並べ、それぞれの「調性」の性格や特徴について簡単に解説を加える、というクラシック音楽入門書である。

 古典派クラシックの曲はたいてい「交響曲A短調」とか「ソナタB長調」「ワルツC短調」などと大書してあるから、その範囲内では「調性別の名曲」の選別はきわめて簡単だ。
 ただし、ロマン派以降の名曲となると(例えば「白鳥の湖」の情景のテーマとか、新世界交響楽の「家路」のメロディ、「惑星」のジュピターの旋律など)「何調」で書かれているか?と調べるのは、ちょっと手間がかかる。

 しかし、それより何より問題なのは、「調性に関する解説」の部分だ。
 例えば「長調は明るく、短調は暗く感じるのはなぜ?」とか、
「作曲家が曲を書く時に〈ニ長調〉とか〈変ホ長調〉とかを選ぶ理由は?」、
 あるいは「ドミナント(属和音)からトニカ(主和音)にハーモニーが変化すると、どうして〈解決〉した感じになるのか?」

 それぞれ理由はシンプルと言えばシンプルだが、それには「音楽的」「科学的」「歴史的」な視野による解説が必要で、ひとこと「これこれこういうわけなのです」ではすまない。
 かと言って、それらをパスして「調性についての本です」と言い張ることも出来ない。

 そこで、作曲家歴30年の筆者としては、自分の今までの経験をふまえ、さらに独断と私見をまじえて(と言うより独断と私見だらけなのだが)「調性とは何なのか」と言うことを、図らずも徹底追究することになったわけである。

□ハーモニーとは何か

 さて、音楽の三要素は「リズム、メロディ、ハーモニー」と言われる。
 細かく言うと、さらに幾つかのパラメータ(変数)があるが、ざっくり言えばこの3つだ。
 しかし、この3つ、誕生した歴史を見るとものすごい時代的な開きがある。

Human 我らが人類は、500万年ほど前にアフリカで誕生し、100万年ほど前に新天地を求めて世界各地に壮大な旅を始めた…と言われている。

 そんな人類が手にした「音楽」の最古株は(もちろん)「リズム」。
 そもそも循環系の器官(心臓)を持つタイプの生物ならすべて体内に「リズム」つまり「生命維持のためのビート(鼓動)」を持っているから、「音楽」だけでなく、生物そのものの根源に関わる要素のひとつと言うべきだろう。

 ただし、人類がそれを「リズム」として意識し、人為的に使い出したのは、「二足歩行」になり両手が自由になってから。つまり「手」でものを叩く…という行為が可能になってからということになる。それでもたっぷり数十万年前といったところだろうか。

 一方「メロディ」は、「声」を発する器官を持ち、それをコントロールする筋肉と知性を必要とするため、哺乳類あるいは鳥類あたり以上の「知的」生物に限られるアイテム。
 人類がそれを手にしたのは、おそらく「ことば」より古いと思われるが、「あーー」とか「おーーー」と唸るだけでは「メロディ」とは言えない。人為的に(いわゆる)「メロディ」として使い出したのは、原始的な村社会や宗教が生まれた頃だから、歴史としては数万年前といったあたりだろう。

Chanta それに対して、もっとも新しい音楽の要素である「ハーモニー」の登場は、ぐっと新しい。まず、アフリカを出てヨーロッパの山岳地域の「洞窟」に人類の祖先が住むようになり、そこの「お風呂場エコー」的な響きの中で神を讃える「聖歌」としての「メロディ」を歌い始めたのは(おそらく)数万年前。

 それから数千年の間、洞窟の中にこだまする「聖歌」の残響を聞き続けていた彼らは、そのうちに、オクターブや完全5度ずれた「聖歌」が、不思議な「ハモり方」をすることに気付き始める。

 そこから「多声部でハモる」歌い方が広まったのが、キリスト教成立からさらに数百年たった頃。「グレゴリオ聖歌」と呼ばれる(現存する最古の)作曲作品が生まれたのが9〜10世紀のことだ。

Chantb
 やがて、それを「楽譜」というものに記述して、メロディ・ラインの組み合わせ方(対位法)やハモり方(和声法)への研究が始まったのが11世紀頃。
 さらに、それらが統合されて、ようやく今で言う「ハーモニー」の基礎が固まったのは、15〜6世紀頃。せいぜい500年ほど前のことだから、「リズム」や「メロディ」に比べると、まったくの新参者ということになる。

 この「ハーモニー」以外の「リズム」と「メロディ」に関しては、おそらくどんな古代文明でも、独自の体系を持って、豊饒な「音楽」文化を持っていたはず。
 ただ、こと「ハーモニー」に関しては、ここまで高度に発達したのはヨーロッパという地域特有の、しかもここ1000年限定の独自の現象のように思えてならない。そして、その独自の進化の背景となったのが「キリスト教」だ。

□調性とキリスト教との深い関係

Humanb 人間の手足が2本+2本である以上、どんな文明の「リズム」も2拍子&4拍子であるのは基本中の基本。
 人間の祖先が二足歩行となり両手が空いたとき、まずは、何かを叩いて「定期的なパルス音」を作り出すことは、最初に試みられたはずだ。
 やがて、それを「ビート(鼓動)とシンクロさせて」楽しむ…という形の「音楽」が生まれ、さまざまな文明で、さまざまなバリエーションを持って普及していった。

 一方、「メロディ」の方は、最初は「単音」の「あーー」とか「おーー」という唸り声として生まれ、次にそれを2音3音「上下」させる、という形で進化して行く。
 それが、やがて両手で「道具」を扱う時代になると、「弦楽器(ハープや琴)」や「管楽器(笛やラッパ)」の登場し、そこから「音階」…という概念が生まれたわけだ。

 このあたりまでは世界共通だが、そこから先は、民族それぞれに「音階のそれぞれの音の間隔」に関するアプローチの差が現れる。これが…「旋法」。
(ちなみに、普通の感覚では短調っぽい音階の方が人間の耳には合っているようで、おおくの「民族的旋法」は短調系だ)

 しかし、残念ながら、遺跡や古文書からは「音」は発掘されないので、古代人たちがどんな「音楽」を奏でていたかは、「空想」の域でしかない。

Egypt それでも(遙か紀元前の)古代ギリシャ文明は、ドーリア・フリギア・エオリアなどさまざまな「旋法」を体系として持っていたし、その科学的解明もすすめていた。一方で、我らがアジア地域でも、古代中国が数学的なアプローチからオクターブを「12音」とする楽理を確立している。

 もちろんエジプト文明も、壁画に笛や太鼓やラッパや竪琴などの楽器が描かれていることからすると、かなり立派な「音楽」が存在していたはずだし、古代ローマ帝国の音楽などはさぞかし高度な技法に満ちたものだったに違いない。

 それらの豊饒な「音楽文化」に比べると、当時の(後に西洋クラシック音楽の総本山となるはずの)中央および北ヨーロッパ地域には、洞窟で細々と聖歌をつぶやくくらいの貧相な音楽しかなかったような気がする。

 ところが、その「貧相な音楽文化」に大逆転ホームランの兆しが訪れる。それが、2000年ほど前の「キリスト教」の誕生である。
 当初は、辺境の地域に起こった小さな宗教にすぎなかったのだが、それがローマに伝わりヨーロッパ全土に広がり、気が付くとヨーロッパ文明がすべて「キリスト教」の教義を中心にして動くまでに浸透していった。

Vinci そして、この「キリスト教」の全ヨーロッパ浸透を核にして、洞窟の代わりに「教会」で「聖歌」を歌う〈音楽セクション〉に「最高の知性」が結集されるようになった。
 例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチらが活躍した頃の中世ヨーロッパでは、「音楽」の総合的研究(歌う、演奏する、作曲する)は、「代数」「幾何」「天文学」「建築学」などに匹敵する「インテリ必須の華の学問」となっていたほどという。
 音楽は、単なる娯楽などではなく、「宗教(キリスト教)」と「科学」と「社会」そして「人の心」を結ぶ、壮大な「英知」となったのである。

 おかげで、その1000年ほどの間に、音楽の科学的側面が徹底研究されるようになる。
 例えば、音の振動比が1:2の「オクターブ」、および2:3の「完全5度」が「もっとも調和した響き」として確立され、さらに協和音としての「ドミソ」(音の振動数比が3:4:5)が理論として確立されるわけである。

 人間の耳には不自然に聞こえても、振動比として完璧な比率を持った「ドレミファソ」が「音階」の王者に君臨したのもこの時期。(ちなみに、ドとソが2:3、ドとファが3:4、ドとミが4:5)

 この「宇宙的な調和」がキリスト教的な「神」の姿と共振したのか、さらに「三和音」という考え方が「三位一体(父と子と精霊)」の教義に沿ったこともあったのか、この「ハーモニー」のシステムは、宗教的な強い背景(とバックアップ)を得て、全ヨーロッパに浸透し、強大な展開を遂げるのである。

□五線譜と「宗教曲」

Scorea もうひとつ、「キリスト教的自然倍音ハーモニー」と並んで画期的な「発明」となったのが「楽譜」だ。

 10世紀前後に、「音」の高さを「◆」や「●」で記述するシステムが考案され、それは、やがて15世紀頃には「五線譜」として確立する。これは、どんな声でも楽器でもすべての「音(厳密には、音高と音長)」を記述できる画期的な「大発明」だった。

 事実、これが「ことば」より強力な「全キリスト教的共通言語」としてヨーロッパ中に広まった。結果、この「五線譜」で記述された音楽は、キリスト教文化圏ならほとんど何処でも読み込め「音楽を再生」できる(ラジオやCDのない時代としては最強・無敵の)「音楽伝達メディア」となったわけである。

Bach そして18世紀、「音楽の父」バッハの登場を迎える。
 この頃には、「キリスト教」も「五線譜」もすっかり全ヨーロッパ共通の「文化」となり、五線譜でキリスト教的音楽を書くことは、平民出身の学徒としてはおそらく最高の「花形職業」となったと言っていいかも知れない。

 以後、ヨーロッパの音楽家たちにとって、「名誉」を得るには「宗教曲(オラトリオやミサ曲)」、そして「生計」を得るには「歌劇(オペラ)」。…という2大目標が確立し、人類史上初(そして唯一の)「作曲家の時代」を迎えることになる。

 というわけで、バッハはもちろん、ヘンデル、ハイドンからモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト……などなど、作曲家たちはすべて(実際はどこまで敬虔なキリスト教徒なのか分からないにしても)せっせと「宗教曲」の作曲に励んでいる。

 実際、ヨーロッパの楽壇で「敬愛される作曲家」というのは、曲の知名度とか大衆的人気とは別に、「宗教的な大作」を残した作家が多い。そのあたりは、やはりヨーロッパに根深い宗教的な背景なのだろう。
 だから、大作曲家たちはすべて宗教的な大作を残している。J.S.バッハの「マタイ受難曲」、モーツァルトの「レクイエム」、ベートーヴェンの「荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)」・・・
 ヘンデルの「メサイア」、ハイドンの「天地創造」、メンデルスゾーンの「エリヤ」は、(メサイア以外は)演奏頻度がさほど高いとは言えないが「三大オラトリオ」として定番の地位を固めているし、イギリス人ならこれにエルガーの「ゲロンティアスの夢」を加え、フランス人なら「火刑台上のジャンヌ・ダルク」を加えるだろうか。

Mass 革命児ベルリオーズもデビュー作は「荘厳ミサ」や「レクイエム」だし、「テ・デウム」や「キリストの幼時」など宗教関連の作品も少なくない。
 また、どこからどう見ても敬虔なキリスト教徒などではなさそうな革命家ワーグナーも、「さまよえるオランダ人」から「タンホイザー」や「パルジファル」に至るまでキリスト教の「救済」を組み込んでいるし、ブラームスも、ドイツ語で聖書の語句を引用再構築するという裏技ながら「ドイツ・レクイエム」という大作をものしている。

 イタリア・オペラという「世俗界」の作曲家たちも、ロッシーニ・ヴェルディ・プッチーニそろって宗教的作品にしっかり手を染めているが、これはカトリックの総本山ローマを意識してのことだろうか。

 近現代になると、逆に、あまりにキリスト教真っ正面の作曲はいくぶん影をひそめるが、ユダヤ人で「カトリック」の呪縛に七転八倒したマーラーにしても、表だってキリスト教的な「宗教曲」は書いていないものの、「復活」や「千人の交響曲」には宗教的な香りがぷんぷんする。

 ヨーロッパ中央楽壇から離れた異教徒的スタンスの「民族主義楽派」にしろ、いくぶんオカルト的な密教にテーマを求めたドビュッシーやサティ(一説にはワーグナーも)にしろ、まったく「キリスト教」あるいは「宗教的」な素材を取り上げなかった作曲家というのはきわめて少数派に見える。
 近現代でも、あのシェーンベルクでさえ、集大成のオペラは旧約聖書が題材の「モーゼとアロン」だし、20世紀アメリカの寵児バーンスタインも(ロックっぽい現代性を持ちながら)「ミサ」を書いているし、前衛派と呼ばれたペンデレツキやリゲティも宗教曲を書いている。

 クラシック音楽の系譜で完全に「キリスト教離れ」している(というより宗教がらみにノータッチ)の作曲家は、ピアノに固執したショパンとラヴェルくらいか。
 それ以外では、ソヴィエト共産主義体制で大作曲家をやっていたショスタコーヴィチくらい。宗教的大作のはずのオラトリオも、彼の場合は「森の歌」。まあ、これも「スターリン教」の宗教音楽だと(皮肉めいて)言って言えなくもないのだが。

□神の頭文字はD。

Ddur と、ここで最初の「調性」の話に戻るのだが、そんな「宗教曲」でよく使われる特別な「調」というのがある。

 それが「ニ長調」だ。

 もともと「ニ長調(#2つ)」というのは、ヴァイオリン属の楽器には必ず開放弦としてある「D(Re)」の音が主音なので、弦楽器がのびのび響くのが特徴。
 それは、ベートーヴェン、チャイコフスキー、ブラームス…というヴァイオリン協奏曲の名曲が揃って「ニ長調」であることからも分かる。

 ただ、それだけではない「理由」がある。それは、「神」はラテン語で「Deus」、「ニ長調」は「D」。Dは、神の頭文字の「調性」なのである。

 そこで、神に関わる曲を書く時、作曲家は「D」つまり「ニ長調」を選択するようになった。事実、バロック期前後には「テ・デウム」のような「神の賛歌」は、多くが「ニ長調」で書かれている。

Handel 例えば、ヘンデルの「メサイヤ」の中の、神を讃える有名な「ハレルヤ・コーラス」がニ長調。この曲、冒頭は(バッハのマタイ受難曲と同じ)「ホ短調」で暗く始まるが、神を讃える「ハレルヤ」の大合唱と、最後の「アーメン」のコーラスは「ニ長調」。これは完全に「神=D」を意識している。

 ベートーヴェンの有名な「第九」も、(宗教曲ではないものの)フィナーレでは「この星空の彼方に父なる神が必ず住んでいる」と、神を歌い上げるため「ニ長調」。
 その結果、冒頭の第1楽章は同主調の「ニ短調」になる。同じ理由で、宗教曲として書き上げた「荘厳ミサ曲(ミサ・ソレムニス)」もニ長調である。

 ただ、この「神=D」にこだわるのは、古典派まで。その後は(さすがに「こじつけ」にすぎると思ったのか)宗教曲好きなブルックナーにしても、古典派回帰のブラームスにしても、「弦が良く鳴るキイ」としての「ニ長調」にしか興味がなくなったように見える。
(まあ、言ってみれば「迷信」みたいなものだから、それも当然と言えば当然のような気がするけれど)

Unmei ちなみに、音階が「ドレミファソラシド」と呼ばれるようになった理由は、ちょっと音楽に詳しい人なら一度は聞いたことがあるはず。(そう、11世紀頃、冒頭の歌詞がUt…Re…Mi…Fa…Sol…で始まるヨハネ賛歌から考案されたもの)

 では、それより前、音階に「ABCDEFG」という名前が付いたとき、どうして「ド」ではなく「ラ」の音が「A」になったのか?

 もうひとつ。その音階にどうして「#」と「♭」などというものを付けるようになったのか? 
 そして、どうしてそれを「シャープ(とがった)」とか「フラット(平ら)」などと呼ぶようになったのか?

 その答えを知りたい方は・・・・・

         *

Flyer■ドレスデン聖十字架合唱団&
 ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団・・・

ヘンデル:オラトリオ「メサイア」全曲
・2010年11月30日(火)18:30 
 東京オペラシティ・コンサートホール

J.S.バッハ「マタイ受難曲」全曲
・2010年12月3日(金)18:30。
 サントリーホール
・2010年12月5日(日)14:00。
 横浜みなとみらいホール

出演
 ローデリッヒ・クライレ(指揮)
 ユッタ・ベーネルト(ソプラノ)
 森麻季(ソプラノ)メサイアのみ
 マルグリエット・ファン・ライゼン(アルト)
 アンドレアス・ウェラー(テノール)福音史家
 クラウス・メルテンス(バス)
 ヘンリク・ベーム(バス)

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2010/10/10

鳥たちの作曲法

Earthq むかし無名で貧乏な作曲家の卵をやっていた頃、同じ境遇の若い作曲家仲間にこう問われたことがある。

「もし自分の書いた音楽が誰の耳にも届かないとしても、
 それでも君は作曲をするか?」

 二十代の始め、大学もやめて完全に無職無収入のまま、独学で作曲の勉強だけしていた「どん底」の頃だ。実際、その前後数年にわたって、まったく誰の耳にも届かない音楽を作曲し続けていた真っ只中であり、考える余地もなく「もちろん、作曲する」と答えた。

 もっと怖い問いもあった。
「誰の耳にも届かなかった〈音〉は
 それでも存在したことになるのか?」

 これは(特に音楽をやるものにとっては)かなり怖い想像だ。
 音は発せられて空気を振動させる。でも、それが誰の耳にも届かなければ、それは〈音〉として観測されない。すなわち〈存在〉しないことと全く区別が出来ない。

 作曲されても、演奏すらされない音楽は、そもそも空気を振動させることすらない。作曲家の頭の中には〈存在〉しても、〈音〉としてすら生まれることのない〈幻〉だ。
 それでも、それは〈存在〉していると言えるのか。

Maria 弟子のそんな恐怖を受けて、師匠(松村禎三氏)はこう言ってくれた。
「誰の目にも届かない崖の下に咲いている〈花〉も
 それは〈存在〉している。
 そして真っ暗な洞窟の奥にある〈マリア像〉も
 それは〈存在〉している。
 同じように、誰の耳にも届かない音楽も
 それは、確かに〈存在〉していると思うよ」

 これは、普通の人にとっては単なる「イメージ・トレーニング」の域を出ない問いかも知れないが、当時の「若く無名で演奏されない音楽の作曲家たち」にとっては、かなりシビアな、そして命を賭けた問いでもあったのだ。
 

□信仰告白

Angel その頃、いったい何を目指し何を信じて、お金にならないどころか誰の耳にも届かず演奏すらされない音楽を毎日毎日書き続けていたのか?…実は良く覚えていない。
 あまりに思い出したくない記憶が多すぎて、頭の中からその時期の記憶がすっぱり抜け落ちているからだ…

 おそらく西洋の作曲家なら(先のマリア像の如く)「神」…という「誰も見ないものを見、誰も聞かないものを聴いている存在」を空想(信仰)することで、自分を納得させるのだろう。
 でも、残念ながら「二十世紀の東京」というすさんだ地に生まれた私には「信仰」など持ち合わせがなかった。

 確かに、「神様」がどこかにいる…という想像は楽しいが、少なくとも「彼」が私のことなどすっかり忘れていることだけは確実なのだ。
 デビュー作として書いた「忘れっぽい天使」には、そういう自虐的な信仰告白が刻印されている。

 普通の音楽愛好家には意外に思われるかも知れないが、作曲家は決して「誰かに聴いて欲しい」と思って曲を書くわけではない。
 もちろん、聴いてくれないよりは聴いてくれる方が嬉しいし、聴き手とのコンタクトは人生の重要な宝だ。
 でも、それは作曲する「目的」ではない。

 私自身、そもそも音楽を志した当初から、「職業としての作曲家」を目指したわけではなかったし、純音楽の作曲家が「(それで生計を立てられるという意味での)職業」だとすら思っていなかった。

 それは、例えて言えば、「火星に行きたい」という「夢」のようなものと言ったらいいだろうか。
 それで「生計を立てる」などというのではなく、誰かに認めてもらい褒めてもらいたいというのでもない。逆に、それを達成するためにすべてを犠牲にしてもいいし、全財産を投げ出してもいい。そして、行けたら死んでもいい。そういう類の人生の「目的」である。

 だから、作曲家としてデビューして最初に音楽誌(今は亡き「音楽芸術」)からエッセイの寄稿を依頼されたとき、こう書いた。

「音楽というものがあまりにも素晴らしいので、
 せっかく生きているのだから
 せめて美しい音楽のひとつも書いてから
 野垂れ死ぬのも悪くない」
 
 それは、「作曲家宣言」であると同時に「遺書」でもあったわけだ。

□演奏家に出会う

Scoresw それなのに(意に反して(笑)のうのうと生き残り、それからずっと、この歳になるまで「音楽」をやって来られたのは、これはもう、一にも二にも素晴らしい演奏家たちとの出会いのせいだ。その点だけは「神様」に感謝してもいい(もし、いたら…の話だが)。

 実は、クラシックの「作曲」というのは、壮絶な世界である。
 なにしろ「クラシック音楽界」というのは、18〜19世紀の西洋の天才たちが書き残した「遺産」の宝庫である。200年ほどの間に書かれたピアノやオーケストラのための膨大な名作があり、それを演奏したり聴いたり勉強したりするだけで、普通の人ならたっぷり一生かかる。

 しかも、それらの曲は(作家が死んでたっぷり50年以上たっているので)著作権フリーで、演奏も録音も自由。これらの「遺産」を食いつぶしていれば、演奏家たちもレコード会社も充分暮らしてゆける。それが天下御免の人類遺産「偉大なる不滅のクラシック(古典)」というわけだ。

 そんな「遺産御殿」に、生きている作曲家がのこのこと「新しい曲を書いたんですけど…」などと言って楽譜を持って行っても、門前払い確実である。演奏家たちはまず全くと言って良いほど興味を示してはくれない。

 ごくたまに「遺産ばかりの日々にも飽きたし…」という酔狂な…もとい、奇特な演奏家がいないでもないが、それでも、せいぜいリサイタルやコンサートで「ちょっと箸休めに」演奏する10分ほどの曲があれば、それで充分。コンサートのメインにするつもりなどはさらさらない。

 そこで「現代の」作曲家たちは、過去にはなかったタイプの「聴いたことのない音楽」を作るため、艱難辛苦の末、調性を外しリズムを取っ払いメロディを解体した新しい音楽を開発したのだが……
 …それは、演奏家にとっても聴衆にとっても単なる「聴きたくもない音楽」でしかなかった。この音楽史最大の不幸は、悲劇だったのか喜劇だったのか…

          *

 しかし、クラシック音楽界と言えども、「遺産」の恩恵に浴している人たちだけではない。そこには、本心から「新しい曲(財産)が欲しい!」と思っている人たちもいる。
 それが「大作曲家たちによる名作を残されていない恵まれない楽器たち」の演奏家である。

 そこで「誰の耳にも届かない音楽」の作曲者だった私も、同時代に生きる「何でも良いから新しい音楽が欲しい」演奏家たちと出会い、「利害関係の一致」から「同志」になり、音楽の共同制作が始まったわけだ。

 実際、私の記念すべき「デビュー作」(初めて一般聴衆の入ったコンサートで演奏された作品)となったのは、クロマティック・ハーモニカという…おそらくクラシック系の作品は皆無な楽器のための「忘れっぽい天使」という作品だった。
 これは、崎元譲氏というこの楽器の名手との出会いがなければ生まれなかった作品であり、私にとっても全く予期しなかった新しい音楽との出会いとなった。

 続いてギター。これもバロック系やスペイン系の名作小品は多いものの、クラシック界では「アランフェス協奏曲」以外にオーケストラと共演できる作品はほぼ皆無という「恵まれない楽器」と言えなくもない。
 この楽器には、山下和仁氏という新世代の「神」演奏家との出会いから、協奏曲(天馬効果)および、三部作(風色ベクトル、水色スカラー、空色テンソル)が生まれた。

 さらに、ファゴット(馬込勇氏)のための協奏曲(一角獣回路)、トロンボーン(箱山芳樹氏)のための協奏曲(オリオン・マシーン)、サクソフォン(須川展也氏)のためのソナタ(ファジーバード)と協奏曲(サイバーバード)。そして、邦楽器(二十絃、尺八、そして雅楽!)のための作品たち。
 いずれも、過去の大作曲家たちが作品を残さなかった不遇な?楽器たちのための音楽であり、これらはみんな、演奏家からの「とにかく曲が欲しい!」という切なる願いと熱意に応えて生まれたものだ。

 こういう「演奏家との共同作業」…いや、もっと根源的な深いところでの「お互いの遺伝子を交換する作業」というべき「音楽作り」の楽しみを知ったことが、この壮絶なる世界で作曲家を何十年も続けることになった最大の理由と言えるだろうか。

Scrap これはもう「生きる」ということの根源に近い「遊び」の境地だ。そこには「芸術」も「神」も「お金」も関係ない。

 遊びをせんとや生まれけむ
 戯れせんとや生まれけん

 そんな「遊び」の中で生まれた(作曲家だけが味わえる)究極の「楽しみ」を象徴する出来事として、ファゴット協奏曲が初演された時、現代音楽のとある先輩作曲家にこう言われたことを、苦笑と共に思い出す。

「この曲は、少なくともボクが知っているファゴット・コンチェルトの中で最高の曲だよ」
「でも、ボクが知ってるファゴット・コンチェルトは、キミの曲だけだけどね」

 これは「作曲家の愉しみ」としては、最高のものだ。その後、同じような皮肉を聞きたくて、トロンボーン・コンチェルトやサクソフォン・コンチェルトを書いたと言ってもいいかも知れない(いや、冗談でなく)。

 もしかしたら「緩やかな自殺」に等しい行為なのではないか?と、あれほど苦悩した「誰の耳にも届かない音楽」の先にあった思いがけない世界は、今、音楽の不思議と素晴らしさとをしみじみ感じさせてくれている。

 世界は本当に面白い。

 ■組曲「優しき玩具たち」op.108

Tatenoa 左手のピアニストになられた舘野泉さんとの出会いも、そんな音楽の不思議さを改めて感じさせてくれた出来事だ。

 ほんの数年前まで、自分が「左手のピアノのための音楽」を作曲するなどとは想像もしたことがなかったし、もちろん舘野さん自身も、自分が「左手のピアニスト」として活躍することになろうとは、微塵も想像もしなかったはずだ。

 それが、いつの間にか「タピオラ幻景」(全5曲)に始まり、「アイノラ抒情曲集」(全7曲)、「ゴーシュ舞曲集」(全4曲)という独奏曲を書くことになり、さらに左手ピアノ用にアレンジした「3つの聖歌」、3手連弾用の「子守歌」「3つの子守歌」、さらに左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」という曲を書くまでに至った。(もしかしたら「世界で最も多く左手ピアノの曲を書いた変な作曲家」としてギネスブックに載るかも知れない?)

 そのうち半分以上は、「頼まれもしない」のに書いた曲なのだが(笑)、そこまで深入りしてしまった理由は本当にシンプルなもので、「演奏家から求められること」の喜び、という一言に尽きる。

 それでも、さすがに調子に乗って「作り過ぎた」感は否めず、しばし自粛を考えていたのだが、昨年2月、舘野泉さんの受勲パーティでこう耳打ちされてしまった。

「来年(2010年)、演奏生活50周年の記念コンサートを開くことになったのですけれど、芸大の同窓で盟友の2人、トランペットの北村源三さんとクラリネットの浜中浩一さんと一緒に演奏できる曲を書いてくれませんか?」

Tpcl_2 それにしても、舘野さんの左手のピアノは、次から次へと色々な音楽が飛び出してくる魔法の玉手箱のようだ。色々な作曲家が、色々なキャラクターの曲を書いてきては、舘野さんがそれを演奏する。
 抒情的で美しかったり、現代風でおどろおどろしかったり、ジャズ風に洒落ていたり、その色彩と反射の妙は万華鏡のようにきらきらと変幻自在だ。

 今回も、「クラリネットとトランペットとピアノ!!!」という世にも不思議な編成の音楽については・・・断言しても良いが、そんな世にも不思議な編成の曲は音楽史上一曲もないし、書かれるとも思えない・・・作曲家としては「ありえない」と思った。

 でも、書いてしまった(笑)。

 たぶんチェロとかヴァイオリンのような和音を弾く楽器が要りますね…と言うと、「息子と弟がヴァイオリンとチェロを弾くので、一緒に演奏できればさらに嬉しいですけど」というダメ押しのひとこと。
 結果、左手ピアノ、クラリネット、トランペット、ヴァイオリン、チェロ……という逃げも隠れも出来ない「編成」が決まってしまった。

 ところが、この編成、作曲家的には「ありえない組み合わせ」ながら、ひな壇に並べてみると、意外にも見事なバランスであることに気付く。

 まず舘野さんのピアノが「王将」。
 その横に、息子さんたちが「金将(ヴァイオリン)」「銀将(チェロ)」としてがっちり脇を固める。
 そして、その左右に、舘野さんとは芸大の同級生で、それぞれ日本を代表する名人の「飛車(クラリネット)」と「角行(トランペット)」が攻撃と防御を担当する。
 まさに完璧に近い布陣なのである。

Tendertoyss タイトルは、組曲「優しき玩具たち」とした。
 これは、旧作「優しき玩具」とリンクした曲があることに因るが、元々は…もちろん石川啄木の「悲しき玩具」のもじりである。

 曲は、まず舘野さんが「玉手箱」ならぬ、「おもちゃ箱」を開ける「プロムナード」(ムソルグスキーの「展覧会の絵」風に!)から始まる。

 すると、さまざまなタイプの音楽が玩具箱から飛び出してくる。オモチャたちの舞曲や行進曲、クラリネットを吹くピエロの人形、トランペットを吹く兵隊の人形、鳥たちの歌う聖歌、十二音で踊る狂乱のダンス。

 全体の構成はこんな感じだ。
 
 1.プロムナード Promenade
 2.南西からの舞曲  Dance from South-west
 3.散漫なロマンス Diffuse Romance
 4.行進曲の遠景 Distance of March
 5.信号手の回想 Memoir of Trumpeter
 6.聖歌を歌う鳥たち Birds in Hymn
 7.アーノルド博士のワルツ Waltz for Dr.Arnold
 8.虹色の祝祭 The Feast in Rainbow

 この曲、「玩具」と題されてはいても、子供のための音楽ではない。ここでの「玩具箱」は、子供部屋にある「オモチャ箱」ではなく、大人が、何十年ぶりかで開く昔の「玩具箱」だからだ。

 そこに入っているのは、古びた小さな人形だったり、錆びてくすんだブリキのラッパだったり、ぼろぼろになったピエロの人形だったり…
 でも、開けると同時にそれらは輝き出す。そして、そこには「誰にも見えない」昔の思い出や記憶が詰まっている。

 時には、悲しい曲に心から笑い、楽しい曲に涙を流す。それが「大人になる」ということだ。
 そんな「玩具」たちの心が聞こえてくれると嬉しい。

■マリンバ協奏曲「バード・リズミクス(鳥リズム法)」op.109

Mimura もうひとつ、この夏に「優しき玩具たち」に続けて書いたのが、マリンバのための協奏曲である。
 こちらは若い女性マリンバ奏者、三村奈々恵さんの委嘱で作曲したものだ。

 マリンバ(Marimba)はアフリカ原産で、長さの違う木の板を並べて棒(スティック)で叩く楽器。「リンバ」がアフリカのバンツー語で「木の棒(板)」という意味、その複数形が「マ・リンバ」なのだそうだ。

 このアフリカ原産の民族楽器マリンバは、木の板の下にヒョウタンを吊して、それを共鳴胴にするもので、音域はせいぜい1オクターヴ半ほど。
 現在使われるような「マリンバ」になったのは、20世紀になってからで、中南米(グァテマラ、メキシコあたり)が起源らしい。

Marimba
 現代のマリンバは、木の板をピアノの鍵盤と同じような順番に並べ、各板の下部には金属のパイプが共鳴管として付いている。
 音域も4オクターヴ(中には5オクターヴのものもある)と広く、それを先端にゴム球の付いた木の棒「マレット」で叩く。

 木琴(シロフォン)は、高音が鋭く音域も狭い(多くの場合、共鳴管を持たない)木質打楽器だが、マリンバは、中低音域の深みのある響きが特徴。
 マレットの先端の材質の違いで、ソフトからハードまで音色を変えわれるほか、トレモロ(ロール奏法)でメロディを歌ったり、複数のマレット(基本は左右2本ずつ計4本)でハーモニーを作ったりすることも出来る。

Marimbab 個人的にも、自作のオーケストラ曲でのマリンバの使用頻度はかなり高い。交響曲第2番「地球にて」のフィナーレは完全にマリンバ(+カリンバ)によるリズムの饗宴だし、最近ではオーケストラ版「タルカス」のハモンドオルガン風アタックのパッセージはマリンバを多用している。

 マリンバの作品としては、むかし安倍圭子さんに頼まれて書いた(…なぜか演奏された記録のない)「バードスケイプ」(op.20/1984)という「幻の」曲があるほか、山口多嘉子さんのパーカッションのために書いた作品の中に、マリンバが入っているものがゴッソリある。
 パーカッション群のための「鳥リズム」(op.46/1991)、ホルンとパーカションのための「ミミック・バード・コミック」(op.63/1995)、ピアノとパーカッションのための「チェシャねこ風パルティータ」(op.94/2005)などなど。

 当然、新しい世代のマリンバ奏者として三村奈々恵さんのことは知っていたし、CDも聴いていたので、「マリンバのコンチェルトを」と頼まれた時、別に悩むこともなく、頭の中でアフリカの鳥たちと一緒にリズムを奏でるマリンバの音が鳴り始めた。

 タイトルは、実を言うとふと思い付いた「モッキンバード」(木琴だけに…)というオヤジギャグ?が頭の中をグルグル回って困ってしまったのだが、最終的に「鳥たちのリズム法」ということで「バード・リズミクス(Bird Rhythmics)」とした。

 曲は3つの楽章からなる。

Mbird 第1楽章:Bird Code(鳥の符号)
 鳥の断片的な鳴き声(符号)の中からマリンバがゆっくり音を刻み始め、やがてすべてを巻き込むリズムの交錯へ広がってゆくアレグロ楽章。

 第2楽章:Rain Song(雨の歌)
 大地をぽつんぽつんと落ち始める「雨」によせる歌。中間部では呪術的な「雨乞い」の舞踏が始まり、ふたたび「雨の歌」に回帰する。

 第3楽章:Bird Feast(鳥の饗宴)
 極彩色のアフリカの鳥たちとマリンバによるリズムの饗宴。熱帯的で楽天的(人生肯定的)なフィナーレ。

 この曲を書いている間中、日本は記録的な猛暑日が延々と続き、頭がほとんど「亜熱帯」になっていたせいか、アフリカのリズムによる「音の遊び」が心地よかった。
 なにしろ、誰の耳に届かなくても、森には鳥たちの歌が満ちているし、大地にはリズム(生命の律動)が満ちている。

 つまるところ、地球という「オモチャ箱」から聞こえてくる夢、
 それが「音楽」なのだ。
 とすれば、存在するかどうかで悩む必要など全くなかったことになる。

 それは確かに私たちと共に「ある」のだから。

          *

Flyer□組曲「優しき玩具たち」
 舘野泉デビュー50周年 自主公演リサイタルツアー
 ピアノ・リサイタル2010

2010年10月22日(金)
 札幌コンサートホール リサイタルホール
2010年10月26日(火)
 福岡銀行本店ホール
2010年11月10日(水)
 東京オペラシティコンサートホール 
2011年 2月06日(日)
 いずみホール(大阪) 

記者会見

□マリンバ協奏曲「バード・リズミクス」
 独奏:三村奈々恵

2010年11月27日(土)
 京都市交響楽団定期演奏会/京都コンサートホール
2011年1月22/23日(土/日)
 山形交響楽団定期演奏会/山形テルサ
2011年5月21日(土)
 東京フィル「響きの森」コンサート/文京シビックホール

 

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