音楽の力・夢の力
2011年3月11日のあの時間(14時46分)は、東京渋谷の仕事場でいつものように仕事をしていた。
最初にゆっくりした大きな振幅の揺れが始まり、やがて尋常でないひどさになり、ピアノや机が軋み始め、壁から本やCDが落ちてきた。「震度5強」。東京でこれほどの揺れを体験するのは、五十余年の人生で初めてだった。
数分で揺れは収まったが、しばらくすると再び大きな揺れが始まったので、iPhoneと部屋の鍵だけを持って外に出た。仕事場のあるマンションは築40年以上の古い建築だが、一応は堅牢に出来ているので中に居た方が安心……。と理屈では分かっていても、人間、本能的に閉鎖空間から逃げ出そうとするものらしい。それは誰もが同じだったらしく、何人もの住民が外に出ていた。
実家に何度か電話して母の安全を確認してから、ネットで地震速報を検索してみた。最初の速報では「三陸沖」が震源で、マグニチュード「7.9」。そうしている間も大きな余震が続き、地面はしばらくゆらゆら揺れてていた。
部屋に戻ると、天井まで積み上げていたCDや本が雪崩となって崩れ、足の踏み場もない惨状になっていた。さいわいコンピュータなど機器の類に被害はなかったので、すぐさま電源を落とし、部屋の復旧はあきらめて、すぐに実家に戻った。
(こちらは徒歩圏内なので問題なかったが、東京は電車やバスなど交通機関がすべてストップ。外出先から自宅まで徒歩で帰る「帰宅難民」の列が,夜中まで続いていた)。
その後、徐々に分かってきたこの震災による惨禍の圧倒的な大きさは御存知の通りである。
そして、その日は、日本の歴史に深く刻まれる日になった。
*
あれから、ひと月がたった。
宮城・福島・岩手・茨城の海岸線沿いの幾つかの街は壊滅状態となり、当初は数千人と言われていた死者行方不明者は、最終的には3万人に迫る勢いだ。
震度は「9.0」と修正された。日本の観測史上では最大。二十世紀以降世界中で発生した地震としても4番目の大きさ。この地震で、日本列島は太平洋側に最大5mほど動き、1.2mほど沈下し、さらに地球の自転も100万分の1.8秒ほど早くなったのだそうだ。
被害は「地震」そのもののより、その後に起こった津波によるものが甚大だった。地震直後のテレビは、海から押し寄せる物凄い高さの津波の映像を映し初め、その後、堤防を乗り越え、街を吞み込み、車や家を押し流す驚愕の災害シーンを見せつけられることになった。
そして、半世紀以上前の戦争の時に聞いた(白黒写真でしか記録されていないような)空襲の惨劇と一面の焼け野原を超える未曾有の惨禍を、日本中世界中の人々が目にすることになった。
一方、励まされるニュースもあった。世界中からすぐさま「日本を支援する」声が上がり、多くの人たちがエールを送ってくれたことだ。(震災直後の20日には、キース・エマーソン氏も「The Land of Rising Sun」というピアノ曲をYou Tube にアップして、日本への支援を呼びかけてくれている)
また、この未曾有の大災害にもかかわらず、大混乱や暴動略奪なども起きず、泣き叫ぶ人もおらず、みんな冷静で、物資のない商店でも静かに列を作り、お互い譲り合っている(ように見える)という点に、世界中が驚愕し「日本人は凄い」という声が広がった。
これは、最近すっかり自信を無くしかけていた日本人の誇りをちょっぴりくすぐる(かすかな)「Good News」だった。
ところが、そんな日本人への好感も、津波被害を受けた原子力発電所の問題が絡んで怪しくなる。あれ以来、制御不能になった原発(福島第1原発)は、まるで「荒ぶる神」のように暴走し放射能をまき散らし続け、多くの人間の必死の努力にもかかわらず、未だに収拾の見込みが立っていない。
テレビでは「安全です」あるいは「直ちに身体に影響はありません」などと繰り返し伝えられたが、外国人たちは一斉に日本を捨てて海外に逃げてゆき、あっと言う間に東京はゴーストタウンのようになってしまった。
震災から4日めに大阪行きの新幹線に乗ったとき、乳幼児を抱えた夫婦や大きな荷物を持った家族で満員だったが、これは明らかに「放射能疎開」ということなのだろう。
大阪では「このまま関西に居たら?」と何人かに囁かれた。関西から見れば,東にある地域は全て心配の圏内。「東京」もその中に含まれる。
さらに海外から見れば、その大阪や四国九州あたりも「日本」という点では同じ心配の圏内。海外に知人友人を持つ人はみな「外国に(逃げて)来なさい」と言われた(今でも言われる)そうだ。
現実的には、すぐさま関西や海外に「避難」するほどの実害はないにしても、外国における必要以上の心配を笑うことは出来ない。
なにしろ、唯一の被爆国として「原爆許すまじ」を国是としていながら、「地球を放射能汚染させる」という大罪を(想定外の災害の結果であり、まったく望まなかったにも関わらず)犯してしまったのは事実だからだ。
確かに日本は今回の大震災の「被害者」だが、世界から見れば、地球環境における巨大な厄災をもたらした「加害者」にもなってしまったわけだ。これは、もう取り返しが付かない現実と言うしかない。
*
その二重三重に起こった(起こりつつある)被害のあまりの大きさに「音楽」は声もない。
そして、音楽界でも「被害」は深く静かに進行している。
今回の震災で、都内でも天井が崩落して死者を出した九段会館の惨事が報じられたが、そのほかにも天井や壁の崩落が起きたホールや会館は少なくない。
実際、震源地から遙か離れた首都圏近郊の「ミューザ川崎」ホールが、天井や壁が崩落して半年以上使用不可になった。コンサートの時間帯ではなかったので人的被害はなかったが、まだ新しく当然耐震構造も供えていただろうホールが、もし客席に客が居たら大惨事になっていたかも知れないレベルの被害を被った事実は、今後いろいろな波紋を広げそうだ。
私の周辺でも、3月末にCD録音を予定していた「秩父ミューズパーク」が、震災の被害で使えなくなり、日程は全てキャンセルになった。山の上の風光明媚な場所にあるホールなのだが、据付の地震計では震度7を記録し、ホール建物にもかなりの損害を受けたそうだ。
そして、震災の後に広がった交通網の寸断により、東京でも3月中のコンサートはほぼすべてキャンセルとなった。(ただし、震災直後の11日12日は、意外と「中止にさせる余裕もなく」コンサートが開かれていたようだ)。
さらに、震災被害からの「自粛」モードと、電力不足による「計画停電」のダブル・トリプルパンチにより、東日本のコンサートは次々に「中止」となった。(私が大阪にリハーサルに出かけた企画も、翌日東京で行うはずのコンサートが、楽団員および聴衆の交通の確保が難しいこと、などの理由で中止になっている)。
その後、4月に入るとさすがに「全て中止」という事態は解除されるようになった。しかし、祭りやイベントなどの多く(例えば、5月の浅草三社祭や8月の江戸川花火大会など)は「自粛」の名の下に中止の決定となり、その余波はまだ続いている。
昭和天皇の崩御(1989年1月)以来の「歌舞音曲の自粛」だが、ホールや音楽事務所やオーケストラからすれば、コンサートが開けないうえ、キャンセル料やチケットの払い戻し金が発生するわけで、かなりの負担を生むことは確実だ。
さらに、外来の演奏家たちの多くが、原発問題(放射能)を怖れて来日をキャンセルしている。当初は、ひと月くらいたてばほとぼりは冷めているだろう…という楽観論があったが、未だに好転をみせない状況下で、続々と5月6月以降の外来演奏家が来日をキャンセルし始め,いつまで続くか予断を許さない。
特に、クラシック音楽の本場であるヨーロッパ圏は「放射能」問題に過敏だ。日本の政府筋が「身体に直ちには影響のないレベル」といくら説明しても、日本に来ることを躊躇する傾向は、今後数年以上続くだろう。しばらく「日本のクラシック音楽界」にとっては「冬の時代」が来ることも覚悟すべきなのかも知れない。
もちろんこれは、現実に震災の直撃を受けた人たちに比べれば、ごく小さな「被害」と言えるのかも知れない。しかし、ボディーブローのように、ダメージは確実に身体をむしばむ。今後しばらく(もしかしたら数年)は続くであろうこの被害を最小限に食い止めるため、音楽界の結束も必要になることだろう。
以前、例の「事業仕分け」のせいで、どうして「オーケストラ」や「オペラ」などと言うものが必要なのですか?というシビアな意見が噴出したことがあった。(それはつまり「音楽などというものにお金をかける必要があるのですか?」という問いかけだったわけだ)
確かに、音楽は生活に直結した「力」を持たない。
にもかかわらず、人々はどんな時も音楽を聴き続けるし、個人はCDやコンサートで音楽を享受し、近代都市はこぞってオペラハウスやコンサートホールを持ちたがる。
それは、「音楽」がある場所には、ゆるぎない「日常」があるからだ。
そして、コンサートホールに音楽が満ちている街には、何よりも「安全」があり、その背後にそれを維持できる豊かな「経済」があり、それを娯楽として享受できる「文化」がある。
音楽は、人間の営みそのものであり、音楽があると言うことは、そこに人間の営みがあることを意味する。
つまり、音楽の役割というのは、「ここに人間の営みがあり,生命が居る」ということを人々に伝えることにあるわけなのだ。
だから、音楽は歌い続ける。
そして、ふたたび歌い初める。
*
□余談・・・
ウィンナ・ワルツの中でも屈指の傑作ヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」が書かれたのは1867年。日本では大政奉還が行われた慶応3年、翌年が明治元年にあたる。
この曲が書かれた時のウィーンは、プロイセンとの戦争(いわゆる普墺戦争:1866)に大敗して街全体が意気消沈していた頃。(そう聞くと、なんだか震災でがっくり来ている今の日本の姿を重ねてしまう)。
そこで、そんなウィーンっ子に対して「がんばれ」「元気出せ」と歌い励ます曲を,とシュトラウスのところに「男声合唱曲」の依頼が舞い込んだ。(このあたりも、今さかんにCMなどで「がんばろう日本!」と連呼されている状況を彷彿とさせる)
そして、書き上げられたのが,この曲の原曲である合唱曲。
アマチュアの男声たちで歌われる(少しコミカルで威勢のいい)曲調で、「ウィーンっ子たちよ,陽気にやろうぜ。くよくよしたって仕方がない。景気よく踊ろうじゃないか!」というような歌詞(詞:ヨゼフ・ワイルJosef Weyl )がついていたそうだ。
ちなみに、バリトンが〈♪ドミソ・ソ〜〉という主旋律を歌うと、テナーが〈♪ソソ・ミミ〉という合いの手で掛け合う形になっていて…
「ウィーンっ子よ、陽気にやろうぜ(Wiener seid froh)。
♪なんでだ?(Oho,wieso)」
「あれを見ろよ,(No so blickt nur um)。
♪どれどれ?(I bitt' warum?)」
「カーニバルじゃないか。(Ei, Fasching ist da!)
♪ホントだ(Ah so, na ja!)」
…という風に続く。一歩間違うと「不謹慎」と言われそうな軽さだ。
それでも、歌詞の最後の…
「幸せはもう戻ってこない。
時はすぐ過ぎ去り、
バラだって色あせてしまう。
だから、踊ろう。
今はひたすら踊ろう」。
…というあたりは共感できる。単なる「がんばろう」でなく、人生訓のようなものが込められているわけだ。
しかし、この合唱版は市民の共感を得られず不評に終わる。(踊ることへの「自粛」ムードもあったのかも知れない)
そのまま歴史の彼方に消えていたかも知れないところだが、(一説にはシュトラウス夫人のアドバイスで)上品なイントロと共にオーケストレイションを施して,現在のような「ワルツ」として蘇った。
そして、翌1868年のパリ万国博覧会で披露したところ,今度は大人気と成り、今ではシュトラウスのワルツBEST1であると共に、クラシックの名曲の中でも屈指の傑作に数えられている。
現在では、ウィーン・フィルの新年コンサートで最後のトリを担う定番の名曲。冒頭の弦のトレモロによる序奏が聞こえてきたところでお客から「来た来た」という拍手が起こり、指揮者はそれを聴いて演奏を一時ストップさせ、オーケストラ全員が「あけましておめでとう!」と叫ぶ…というのが伝統的「お約束」になっているほどだ。
実を言うと、個人的にこの曲、あまりにも耽美的でのどかな楽想のせいか、苦手な曲のひとつである。甘さたっぷりの砂糖菓子のようで、辛党の身には食べずして「もう結構」という感じなのだ。
SF映画の古典的名作「2001年宇宙の旅」で宇宙空間に浮かぶ宇宙ステーションのシーンでこの曲が流れたときも、美しいかどうかという以前に「場違い」と感じたほどだった。
ところが、今回の震災で色々なコンサートが消し飛び、私が担当するFM音楽番組で(敢えて言えば「穴埋め」として)この曲が流れてきたとき、実を言うと初めてこの曲の「涙が出そうな美しさ」を感じ、惚れ直してしまった。
この曲の無為なまでの甘美なメロディは、逆に「辛い」状況下では、その「甘さ」によって天国的なまでの「日常」を見せてくれるということなのだろう。それは「夢の力」と言っていいのかもしれない。
そうだった。
音楽というのは,落ち込んだ人や悲しんでいる人に「がんばれ」「元気を出せ」と尻を叩くものではなく、ましてや勇気や希望を押しつけるものではない。
音楽の「メッセージ」はそういう言語的次元のものではなく(もちろん、ことばを伴った「歌」のメッセージ性は,また別の次元にあるけれど)、ただ美しいもの、ただ青いもの、それらがごく普通に日常の中に存在する。そのことの素晴らしさ愛おしさを伝えることこそが「音楽」の役割なのだ。
真性の絶望は音楽では癒せない。
でも、絶望の淵にある魂に,音楽は極めて有効だ。
だから、人の営みがある限り、音楽はこれからも、ただひたすら「美しく」、ただひたすら「青く」あり続けるだろう。
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■東日本大震災 復興支援チャリティ・コンサート
《クラシック・エイド》
2011年5月18日(水)19:00
東京オペラシティ・コンサートホール
チケット発売:4月17日(日)
□出演(予定)
上原彩子、清水和音、舘野泉、仲道郁代、
練木繁夫、三舩優子(ピアノ)
遠藤真理、木嶋真優、木野雅之、小林美恵、
千住真理子、滝千春、長谷川陽子(弦楽器)
赤坂達三(管楽器)
足立さつき、河野克典、坂本朱、佐藤しのぶ、
鈴木慶江、錦織健、森麻季、水口聡(声楽)
曽我大介(司会) 他
・曲目未定。
・私(吉松隆)も作品と編曲で参加します。