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2011/06/10

青少年のための「未来」入門

Photo_3 先日(今年の5月)、ベルリン・フィルの定期演奏会を指揮した佐渡裕氏は、小学校の時の卒業文集に「ぼくはベルリン・フィルの指揮者になる!」と書いていたそうだ。
 当時は、「総理大臣になる」とか「ノーベル賞を取る」というのと同じ大風呂敷で他愛もない子供の夢と聞こえたことだろう。
 でも、38年後、その夢は実現された。

 私も、14歳の時に始めて「運命」を聴き、「ぼくも交響曲を5つ書く!」と決めた。
 当時はまだ、クラシックを聴き始めたばかりの普通の中学生だったから、総理大臣やノーベル賞どころか「火星に行く」というクラスの99%あり得ない「夢のまた夢」だった。
 でも、34年後、夢は実現した。

 子供の時に抱く「夢」は、一生の宝だ。
 そして、夢は壮大な方がいい。
 叶っても、まだ上があるから。

Conductorx8□音楽との出会い

 音楽との出会いは人それぞれで、音楽を楽しむのに決まり事は何もない。好きなように聴き、好きなように楽しめばいい。

 それは事実だが、もし「プロの音楽家」を目指すとなると話は別だ。
 特に、ピアノやヴァイオリンを完璧に弾きこなすには、幼少の頃からの基礎訓練が必須とされる。早くて3歳、遅くても9歳。10歳を過ぎて物心ついてから本人が「音楽をやりたい」と言い出してから始めたのでは手遅れ。…というのがこの世界の常識だ。

 逆に、幼少時から毎日鍛錬すれば、特に音楽の才能に恵まれなくても(普通の「こまっしゃくれた」レベルの子供なら)誰でも、擬似「天才」クラスの技量を発揮する。
 赤ん坊の頃から毎日かかさず日本語を聴いていれば、誰でも5歳くらいで「日本語ペラペラ」になれる。音楽でもスポーツでも芸事でも,生まれ育った「環境」がものを言うわけだ。(特に、親がそのジャンルのプロないしは愛好家であるれば申し分ない)。

 そこでは、特に系統立てた教育を受けなくても、「門前の小僧,習わぬ経を読む」の故事のように、「見よう見まね」がかなり有効だ。
 幼児に「文法」や「修辞法」を教えなくても、あるレベルまでは「自然に」「耳から」言葉を学んでゆくように、「音楽」もあるレベルまでは「自然に耳から」学べるからだ。
 あまりガチガチに「英才教育」を施すより、親のやっている様子を近くで見せる…というくらいが、逆に効率的なのかも知れない。

 そもそも、若い頃というのは、吸収の早さが尋常ではない。どんどん新しい細胞が生まれ、新しい神経回路ができてゆく、その成長のスピードのせいだろうか。いやいややっていると10年でも吸収できないことが、スイッチが入った途端に10日ですべて吸収できることだってある。

 かく言う私も、それをこの身で体感した一人だ。
 子供の頃に系統立てた音楽教育を受けた覚えはなく、それこそ9歳前後にピアノを「いやいや」習ったことがある程度。しかも、クラシック音楽をそれと意識して聴き始めたのは14歳(中学3年)。ベートーヴェンやチャイコフスキーなどの主要名曲を知ったのは高校に上がってからと、かなり遅い。

 しかし、14歳で「スイッチが入った」。その後の「吸収」はめちゃくちゃなスピードだった。
 はっきり言って、「先生に習っているヒマなどなかった」。あまりにも、知りたいこと、調べたいこと、学びたいことが多かったからだ。
 だから、「音楽大学に行く」などという選択は考えたこともなく、毎日毎日ピアノを弾き、片っ端からレコードを聴き、楽譜を読み本を読み、起きている間はすべて「音楽」の吸収に当てた。
 それでも「自分の音楽」に達するのに7年、それを世に出すのにさらに7年かかったのだけれど…。

String4□教わる音楽、知る音楽

 とは言え、おそらく、何か芸事(音楽でもピアノでもバレエでもゴルフでも野球でも)を始めるとき、専門家から系統立てたレッスンを受けることを考える、というのが普通だろう。

 すべての芸事には「基本」があり、その上にさまざまな技術を積み上げて行くというのが鉄則だ。
 しっかりした基礎があってこそ、その上に堅牢な建造物を建てられる。基礎が出来ていないのは、ぐずぐずの土台の上に建物を建てるようなもの。いくら積み上げても崩れてしまう危険がある。

 ただ、私は個人的に、この「教わる」と言うことにものすごく抵抗があるのだ。
(さて、ここから先はきわめて個人的な偏見に満ちた意見になるので、もし今ちゃんとした先生について音楽や芸事を習得している若い方は、「独学のおかしな男」の戯言とご笑覧いただき、参考にされないことをお勧めする。)

 中学生にあがった時、初めてギターを買ってもらった。
 クラシックギターとしてではなく、最新のヒット曲やフォークソングをかき鳴らす楽器としてのギターである。当然ながら、誰に習うわけでもなく教則本を読むでもなく、ひたすら「コードネーム」(CとかG7とかAmとか)の押さえ方を覚えることばかりに必死になった。

 そんなある日(おそらくギターを手にして一週間ほどして)、ギターの弦を左手指で押さえながら、その指をぶるぶると「ふるわせる」と、豊かに膨らんだ音になることに気付いた。「大発見だ」と思った。アルキメデスの原理を発見したアルキメデスのように「ユーリカ!」とでも叫んで表に飛び出そうかと思ったくらいの感動だった。
 
 そこで、翌日、学校にゆくとギターを弾く同級生をつかまえて、意気揚々とこうまくし立てた。「おい、知ってるか。ギターの弦を押さえる指をふるわせると、凄いいい音がするんだ!」
 すると、彼は答えた。「それはヴィブラートっていうんだ」。
 それでおしまいである。

 そう、それは弦楽器を演奏する人なら誰でも知っている演奏法の基本〈ヴィブラート〉であり、残念ながらそれは「世界初」の発見ではなかったわけだ。
 なので、残念ながら、音楽史に「ヴィブラートの発見者」として私の名前が記されることはないわけだが、独力でヴィブラートを発見したという事実は変わらない。その時の感動は、今でも「指先」に残っているほどだ。

 …という話を(作曲家になってからインタビューなどに答えて)したところ、「ちゃんと基礎から教えてもらわないと、無駄な回り道をしてしまいますよね」という(理性的な)反応をされて、ちょっと驚いた。私はまったく逆だと思っている。
 もし、先生についてギターを習っていて、ある日「さあ、今日はヴィブラートの勉強ですよ」と言われて、指をふるわせるレッスンをする。それで「ヴィブラート」が自分のテクニックとして組み込まれ、ヴィブラートというものの衝撃を体験しないまま音楽家になったとしたら、そんなつまらないことはないではないか。

 例えば、もしあなたが、推理小説作家になる英才教育と称して、子供の頃から古今東西すべての推理小説の「犯人」と「犯行方法(トリック)」を(原作を読む前に)先生に教わってしまったとしたら、どうだろう。
 確かに、推理小説の知識に関するプロにはなれるかも知れないが、それと引き替えに「推理小説を読んでトリックに驚嘆する楽しみ」をすべて奪われることになる。それと同じだ。
(と言い張っても、賛同を得られにくいことは重々承知しておりますが)

1957□道は迷うべし。

 このような「ひねくれ方」は、まあ、普通ではないのだろう。
 小さい頃しばらくやっていたピアノの「おけいこ」でも、先生の言うことをよく聞く子(特に女の子)が、すくすくと腕を上げて行き、与えられた曲の練習よりデタラメな即興演奏をする方が好きな私のような子はどんどん脱落していった。

(また笑われるかも知れないが、ドミナント〜トニカという和声の基本も、この時のデタラメ即興演奏の中で自分で「発見」した。それがドミナントというものであることを知ったのは、10年近く後のことである)

 確かに、芸事は、
 先生の言うことをよく聞き,
 ひたすら基本に忠実に、
 日々の鍛錬を決して欠かさないこと。
 これに尽きる。

 でも、ひねくれた独学の徒としては、これだけは言いたい。
 道を行く時は、とことん迷い、寄り道した方がいい。
 真っ直ぐ目的地に着いてはいけない。
 また、真っ直ぐ目的地に着くような道を選んではいけない。

 そのことについて「学問に王道なし」というような道徳や修身っぽい言い方をされることがあるが、違う。
 それは極めて簡単なことで、最速最短の道を教わってしまったら「ぜんぜん面白くない」からだ。

 この道をまっすぐ行って、途中右に崖があるから迂回して、斜め左に昇ってゆくと右にきれいな景色が見えて、下に珍しい花が咲いていて、そこから15分急坂を上がると頂上……などと全て教えてもらえば、間違いなく安全に早く頂上に着く。でも、それでは「旅」する楽しみはない。

 道に迷い、あぶなく崖から落ちそうになり、逆に思いもかけない景色に出会ってため息をつき、偶然見つけた美しい花を愛でて心癒され、一歩一歩踏みしめたうえで頂上を極める。
 その「寄り道」の体験すべて、苦労の記憶すべてが「楽しみ」なのだ。寄り道や回り道や挫折は「無駄」でも「障害」でもない。エピソードが多ければ多いほど面白い「旅の楽しみ」なのである。

 だから、若い人に音楽を伝えるときも、手取り足取りで無難な「名曲」に誘うようなガイドは避けたいと切に思う。「ベートーヴェンは天才です」「この曲は不朽の名曲です」という勧められ方を好む人もいるけれど、それが逆効果な場合もある。
 クラシック嫌いの多くは、こういう「押しつけがましさ」を嫌うことから生まれている気がする。「こういう曲もあります」「でも、こんな曲もあります」でいい。その中から、自分で好みの一曲に「出会う」こと。それが、音楽との出会いの醍醐味なのだから。

Testa_2 □こどものための

 などと言いながら、いくぶん押しつけがましく名曲を並べてしまいがちな〈子供のためのコンサート〉にも何度か関わったことがある。

 ヨーロッパのコンサート(劇場)文化は、そもそも夕方から始まり夜中に終わるという点からも、2時間近く静かに黙って座っていなければならない点からも、「子供おことわり」の世界。子供は家で子守に任せてから、大人だけでいそいそと出かける「大人だけの」世界だ。

 しかし、そんな夜のコンサートに集まる紳士淑女たちも、もともとは子供。どこかで「音楽」に出会わなければ、夜のコンサートに集う聴衆には育たない。
 そして、オーケストラや音楽家たち(そしてクラシック音楽界全体)からすれば、「こどもたち」こそが、自分たちの音楽を聴いてくれる「次の世代の聴衆」。それを育てないことには未来はない。
 そこで、最近は「こどもたちのための」と謳ったコンサートが多く開かれるようになった。

 そう言えば、野球やサッカーなどのスポーツは、昔からしっかりこういうシステムを取り入れている。子供の頃こういう形で競技とチームになじむと、大人になってからもそれは刷り込まれたままになる。無料で子供のために試合を解放しても、彼らは「未来の観客」として帰ってくるので、元は取れるという寸法だ。

 それに触発されてかどうか、最近ではクラシック音楽も、ホールやオーケストラ単位でしっかり未来の「観客」を育てることを考え始めた。良いことだと思う。
 別に,プロの音楽家を育てるだけが「音楽教育」ではない。音楽文化を支える大人を育てることこそ、未来への投資なのだから。

 というわけで、最近は「こどものための」と謳ったコンサートやCDなどの企画も随分増えてきた。ただ、「子供向け」だからといって手を抜くのは極めて危険である。
 子供たちは、テレビやCDなどで結構普通に一流楽団のノーミスの音楽を聴いているわけで、手を抜いた演奏はしっかり分かるからだ。
 
 そして、もうひとつ。大人の視点から「子供はこういう音楽が好きだろう」と「やさしい曲」を選ぶのも危険だ。
 数年前にやった「子供ためのコンサート」でも、(TVの「のだめカンタービレ」やCMなどの影響で)普通に「ベートーヴェンの交響曲第7番」や「プロコフィエフのロミオとジュリエット」あるいは「ヴェルディのレクイエム」などが小学校低学年の「耳なじみレパートリー」に入っていた。

 私も、小学校1年の頃(つまり、まだクラシック音楽など全然興味がなかった頃)、父親の持っていたレコード・コレクションの中でもっともお気に入りだったのは、「子供用」のピアノ小品集などではなく、プロコフィエフの「ピーターと狼」とブリテンの「青少年のための管弦楽入門」をカップリングした一枚だった。
 特に「管弦楽入門」のコーダ、ピッコロから始まってオーケストラのさまざまな楽器が次々に加わって壮大なフーガになる処が大好きだった。オーケストラなど生で聴いたこともない6歳児が、である。
 逆に、モーツァルトやシューベルトなどは「使っている音が幼稚!」と軽蔑していた。少なくとも小学校に上がればもはや幼児ではない。「お子様向け小品」なんか聞きたくないのである。

 唯一、子供向けとしてNGなのは、「長い」曲くらいだろうか。さすがに、ブラームスやブルックナー級の40分から1時間を超えるような交響曲を「全曲」というのは、子供が「じっとして聞く」限界を超えている。
 ただし、メロディにしろリズムにしろサウンドにしろ、キャラクターの「変化」がくっきりしているものなら、ひとつの楽章二十数分くらいはOKなはずだ。
 あとは、演奏家の「熱意」次第。本当に「この曲面白いんだよ」という姿勢が伝われば、おそらくどんな曲でも子供は付いてくる。

 子供の頃から「本物」を聴かせ、「本物」だけを見せること。
(あるいは、自分で本物を探し、本物だけから学ぶこと)
 音楽や芸事に王道があるとしたら、それに尽きる。

Cut01_2■出会った言葉たち

 最後に、私が音楽を志してから出会った、印象的な(そして、人生を左右した)言葉を3つほど紹介して、この稿の締めとしよう。
(もちろん「独学のおかしな男」が言うことだから、正攻法の格言ではない。念のため)

 プロになって苦しみながらやるより
 アマチュアで楽しみながらやるほうがいいと思うよ。

 これは、高校時代に「作曲家になろうと思っています」とカミングアウトした時、音楽の先生が言った言葉。
 これは、「正論」だ。そう言われたらグウの音も出ない。

 確かに、音楽は「楽しい」けれど、プロの世界は「厳しい」。
 なにしろ、幼い頃から才能を発揮し日々の膨大な鍛錬をこなし,険しい道を這い上がってきた「天才」や「達人」たちが日本中世界中から集まり、絶えずしのぎを削っている世界なのだ。
 そこで頭角を現し、さらに10年20年と生き残って行くのは、想像を絶する苦闘の連続が待っている。(多くの音楽家が「我が子には音楽家の道に進ませたくない」と考えるのは、その「苦しみ」を味あわせたくないからだ)

 でも、「だから、やらない」というのは逆。
 先にも書いたように、「苦しい」からこそ面白いのであって、大変だからこそ、それを突き抜けたときに至高の喜びがある。新しいものを手にするのは(女性が子供を産むのだって)苦しくて当然。「苦しければ苦しいほど、その先にある喜びは大きい」(by ベートーヴェン)とも言えるのだ。

 よく「音楽は〈音を楽しむ〉こと」とか「音楽は楽しくなければ」と言う。
 しかし、別に「楽で」「心地よい」だけが「楽しさ」ではない。七転八倒し苦しみ悩み抜いてこそ手に出来る「楽しみ」だってある。
 むしろ「苦しんでやろう」「悩み抜いてやろう」と思って音楽の道に進む。それでいいではないか。それこそ人生を賭けるに値する一生の「楽しみ」なのだから。

 やめろと言ってやめられる人はやめればいい。
 やめろと言ってもやめない人だけが生き残る。

 これは、音楽大学の某先生の言のまた聞き。
 音楽でも稽古事でも何でも、始めてしばらく経つと、誰でも壁にぶち当たり、こう考える。「自分には才能がないんじゃないだろうか」「このまま続けても芽が出ないんじゃないだろうか」「やめた方がいいんじゃないだろうか」。
(どんな大芸術家でも、そう考えたことのない人はいないはずだし、プロになってからも、毎日そう思い、毎日悩んでいる人は多いはずだ)

 音楽や芸事の「先生」をやっていると、そういった悩みを告白する生徒や弟子が毎日やってくる。おそらく全員が、一度は悩みに悩んだ末、こういった相談を持ち込むと言ってもいいかも知れない。
 その時、くだんの先生は「そう思うなら、やめたら?」と言い放つ。そして、この言葉を言うのだそうだ。

 確かに、40数年音楽をやって来て、しみじみ思う。
 私にもし「才能」というのがあったのだとしたら、
 それは「能力」でも「感性」でも「努力」でも「運」でもなく、
 ただ「どんなことがあってもやめなかった」こと。
 それだけだと思う。

 お金になる仕事と、お金にならない仕事があったら
 お金にならない方の仕事をやれ。
 お金にならない仕事の方が「尊い」

 最後に、これは、彫刻家をやっていた(母方の)祖父の言葉。
 人間にとって一番重要なのは、(それが一円にならなくても)「己の存在すべてをかけて〈美〉を希求すること」。
 これは、明治の職人気質を持った貧乏彫刻家(よく言えば「清貧」芸術家)の祖父だからこその言葉。いい作品を作りそれが評価されてお金が入る…というのはOKだが、金銭のために仕事をするのは下の下だという。

 常識的に考えればめちゃくちゃな教えだし、「働いて稼いでこそ仕事」という社会の根本を覆す極論だが、作曲の道を歩み出した私には(「狭き門より入れ」のような)「聖なる言葉」に思われた。

 しかし、随分たってからこれは、自分の仕事がまったく収益を生まなくとも,それを超えて孤高を貫くための「やせ我慢の理屈」だということに気が付いた。
 音楽でも美術でも芸事でも、自分の芸や技が認められ「お金」に結びつくことを嫌う人などいるはずもない。しかし、どんなに優れた仕事も作品も、「お金」に直結するとは限らない。むしろ、真摯に自分の道を貫くとき、往々にして世の無理解と「貧乏」は付きまとう。

 そんな時、「お金にならない」ことや「評価されない」ことを卑下し絶望するのではなく、むしろそれこそが尊い「生きる道」なのだと喝破する。これは、力強い励ましの言葉なのだ。

 実際、この言葉のおかげで、まったく経済的にも社会的にもどん底だった20代30代を乗り越えることが出来た。私にとっては「人生にくさびのように食い込んだ至高の一言」である。

 でも、まあ、楽に手っ取り早くまっすぐの道をすくすくと進めれば,それに越したことはない。
 最後の最後に、蛇足の一言を付け加えようか。

 ・・・大人の言うことを信じてはいけない。
    信じるものはすべて自分で探し
    自分のその手でつかみなさい。・・・(^○^)

          *
 
Flyerベルリンフィル八重奏団

モーツァルト:ホルン五重奏曲 変ホ長調 K.407
モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581


ベートーヴェン:七重奏曲 変ホ長調 Op.20 

□2011年6月27日(月)東京オペラシティコンサートホール

アメリカン・バレエ・シアター

□オープニング・ガラ
・7月21日(木):18:30
□スペシャル!ドン・キホーテ
・7月22日(金):18:30
□ドン・キホーテ
・7月23日(土)13:00/18:00
・7月24日(日)13:00/18:00
□ロミオとジュリエット
・7月26日(火)18:30
・7月27日(水)18:30
・7月28日(木)18:30
□クロージング・ガラ
・7月29日(金)18:30

◆東京文化会館

Ab

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コメント

未来ある若者(?!)の一人です。
励まされました。まるで私に書いて下さったみたいな気がしました。ありがとうございます!!。
「君は作曲には向いているタイプなんだよね、でも成功する確率は非常に!薄いね」と言われたことで20年以上悩み苦しみました。
しかし私のような者でも、あきらめずに求めれば、心に響くメロディやハーモニーが書ける(浮かんでくる)ようになるものですね。最近では持ち前の絶対音感で楽器がなくても音が書けるようになってきました。
わたくしも別に子供の頃からできてたわけではなくて教育されてきたわけでもなくて、なんというか、目覚めたという感じです。
叩けば扉は開く。求めれば誰でも(?!)目覚めるものではないかと思います。
同じ苦しむなら、本当に自分自身と人を感動させるために苦しめばいいのだと思いました。
ラクを選んだことによるよろこびよりも、絶え間なき苦しみから得られるよろこびを私も選びたい。作曲家というのは仏道修行僧みたいなものかもしれません。
NHKスペシャルの音楽を手掛ける作曲家目指して、これからもがんばります。
長くなりましたが、吉松さま、本当に素晴らしいメッセージをありがとうございました!!!。

投稿: Suisho (T.M.) | 2011/06/11 11:26

初めまして。
音大と音高で楽器を教えながら、演奏している者です。
まさに学生達に普段言っている・・・というよりは叫んでいることなので、共感+感動でした。
涙が出るくらい嬉しかったです。
先日、とある女性アーティストに「苦しむために演奏しています」と言ったら、「ドMですね」と返され、しばらく立ち直れなかったことを思い出しました(笑)

投稿: KZ | 2011/06/13 23:16

感動しました。
言葉のひとつひとつに、とても重みがあります。

投稿:   | 2011/07/26 00:19

50歳でトランペットと作曲を学んでいる中年男です。
トランペットは娘が生まれてから33歳で初めて触れ、プロのレッスンを受けるも、まともに音が出るまで5年以上、音域が広がってスタンダード曲をふけるようになったのは10年過ぎていました。
小学生の娘と一緒にピアノを習い、その後夜学で音楽理論を学んだのは45歳からでした。

傍から見ればただのバカです。(妻は馬鹿にして「無駄使い」を責めます)
それでも、吉松さんの書かれた本でここに書かれたことを何度も読み返して、いまだにやめずに続けています。(^^;

昨年のTPレッスンの発表会では、自作のバラードをトランペット教室の講師にピアノ伴奏(イントロフリーで)してもらって、ピッコロTPで演奏しました。蝸牛のような歩みですが、確実に進んではいます。

スイッチが入る瞬間、私にはこれからなのかもしれません。

夜のパリを歩いていて、ルーブルの脇のガード下でバッハの無伴奏を弾いていた女性がいました。多分コンバトの学生の小遣い稼ぎでしょう。
ストリートミュージシャンでもいい。人前で自作曲を聴いてもらいたい。いつかパリの街角で、トランペットで伸びやかに唄いたい。

人間は死んですべてが無になるのではない。魂は死にません。永遠に生きて学んでいく。私は死んでもあの世で音楽を続けます。(^^

投稿: 小林正幸 | 2012/03/22 17:46

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