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2011/07/10

夏休み特集1〈音楽のもうひとつのチカラ〉

Music 時々、テレビなどで思いがけず自分の音楽に出会うことがある。

 思いがけずと言うのは、クラシックの音楽番組などで「○○作曲・・・」と予告されて放送されるのではなく、普通の番組の背景にBGMとしてふいに自分の書いた音楽が聞こえてくるからなのだが、作曲家にとっては嬉しくもありちょっと吃驚させられもする瞬間だ。(注:参照)

 全ての番組をチェックできるわけもないので実態は分からないが、アートっぽい映像に静かなピアノ曲…とか、ドラマの抒情的なシーンにストリングス系の曲…というクラシカルな使い方は「なるほど」という感じ。
 ちょっと現代音楽っぽい変拍子の曲をいくぶんコミカルな場面に使われるのも、まあ「アリかな」という感じ。

 しかし、時には、バラエティ番組でいきなりオーケストラのど派手な部分…とか、クイズ番組でブリッジ風に一瞬…というような使い方をされることもあり、これはさすがに、「そう来たか!」とギョッとしたり苦笑したりする。

(注:ちなみに、既にCDになっている音源を放送局が使う場合、作曲家への事前の連絡や許可の申込みなどはまずない。音楽著作権協会と出版社と放送局の間でなにがしかの契約があって、「届け出」は必要だが「許可」までは要らないようだ。逆に、そういうBGMに使うたびにいちいち「許可」の問い合わせが来たら煩雑でしょうがないわけだが)

Tv 書いた当の作曲家としては,自分の作品を勝手に(イメージとぜんぜん違う方向で)使われるのは、まあ、心中穏やかではないが、「音楽」というのはそもそもそういう(敢えて言えば「XXとハサミは使いよう」な)処があるのも事実。

 これは、変な言い方をすれば、例えば自分の「娘」がテレビや映画に「女優」として出て、配役としてヒロインならぬ悪女をやったり宇宙人をやったりするようなもの。
 知らないでテレビを見ていた父親が、ギョッとしようが「イメージが違う!」と驚こうが関係ない。それに似ている。

(もっとも、父親の中には激怒して仕事をやめさせる人もいるし、作家の中には激怒して抗議に及ぶ人もいる。作ったものの権利と言えば権利だが、世に出た作品は(娘でも音楽でも)もはや作家の所有物ではない。手元に置きたいのであるなら、公表しないことだ。)

 もうひとつ、さらに言ってしまえば、イメージ通りの場面にイメージ通りの音楽を付け、イメージ通りの俳優にイメージ通りの役をやらせる「なるほど」系の使い方は、きわめて正攻法で無難ながら、そればかりだとつまらない。

 時には、清楚なお嬢さんっぽい女優に悪女をやらせてみたり、とぼけた気の弱そうな俳優に敏腕刑事をやらせてみたりする方が、意外な面白さが発揮できる。
 同じように、まったくイメージと違う音楽を付けることで思いがけない化学反応を狙う「そう来たか!」系の使い方を混ぜるのもまた、音楽の使い方としてはアリなのである。

□選曲の戯れ

Studiol
 むかし、ラジオ番組の「選曲」というアルバイトをしたことがある。

 放送局のCD倉庫から、適当なアルバム(クラシックでもポップスでも映画音楽集でもなんでもいい)を選び、場面にあった音楽を嵌め込んでゆくのが仕事である。ニュース番組や教養番組、あるいは(新たに作曲を頼むほど予算のない)ドラマなど「選曲」の出番は結構多い。
 ジャンルを問わず自由に音楽のタイプを選べるので、知っている音楽ジャンルの幅が広ければ広いほど有能と言うことになる。

 使うのは数十秒から長くて1分前後。1曲丸々流せるような長尺の場面はほとんどないので、曲の「一部分」を使う。時には短いブリッジ(場面転換)の音楽で数秒ということもあるので、なるべく「瞬間芸」的な(十数秒で完結するような)短い音楽が使い勝手という点ではベター。

 歌詞のある(そしてある程度知られている)ヒット曲だと、本編より歌を聴いてしまうのでBGMとしてはNG。(それに、歌詞が聞こえてしまうとさすがに著作権の問題が出て来る…)
 また、背景に薄くかかるのが基本なので、音量を落としたときバスドラムの音しか聞こえないようなビート音楽もNG。結果、アルバムの中の器楽だけの小品とか、曲のイントロだけとか歌の間奏のインストの部分だけというような使い方が多くなる。
 
 小さなラジオドラマの音楽を(作曲ではなく選曲で)担当したこともあったが、これは音楽次第で雰囲気と内容がかなり変わるので、なかなか面白かった。

King 主人公が不思議な世界に迷い込む(不思議の国のアリス的な)ファンタジーで、王様が登場するシーン。童話っぽい世界ながら、その世界の支配者だから、権威の象徴でありちょっと怖いイメージ。彼が一言何かを言うと「王様バンザイ」の声が巻き起こり、威厳と威圧感に満ちている。

 これにクラシックな(例えばワーグナーのような)重厚壮大な音楽を付けると、そのまま重厚でまじめな世界になってしまう。でも、元々がファンタジーなので、これに軽やかな(ミュート付トランペットのファンファーレみたいにちょっとコミカルな)音楽を付けてみた。

 すると、世界は一変。いきなり王様は大言壮語するただの怪しいオジサンになり、これってもしかしてネズミが王様のフリをしているだけなんじゃないか?と思わせる危うさが醸し出されるようになってしまった。音楽の力恐るべしである。

 さらに、途中で登場する若い騎士。主人公を助けてくれるまじめな好青年で、声は美声だし、言うことも行動も紳士的で親切。でも、それだけではあまり面白くない。そこで、BGMにトローっとしたロックのバラードをかけてみた。

 すると、いきなり良くて宝塚、悪くすると怪しげなコメディ的な世界に変質。女性ディレクターが「この人、ホモよね。絶対!」と断言する(今ならお姉ことばで話すような)思わぬキャラになってしまった。

 こういう音楽の効果は、日常的にもテレビでよく見かける。
 例えば、ニュースや報道番組で政治家や皇族や有名人などが登場するときの背景の音楽。海外ではニュースで大統領が登場するシーンなどは、そこそこ権威のありそうな音楽が付けられる。あくまでも「大統領閣下」なのだから当然だ。日本でも、皇室の場合は上品な音楽(むかしはバロック音楽が定番だった)がかけられる。

 しかし、日本で総理大臣や政治家が登場するニュースで、重厚まじめな音楽がかかっているのを聞いたことがない。ひどい時はチャカチャカした軽めの音楽が付いたりする。日本人は日々知らず知らずのうちに、音楽で「政治家=頼りない」という図式を刷り込まれているのかも知れない。
 
 確かにBGM(Back Ground Music)というくらいで、こういう場合の音楽は「背景」でしかない。でも、それは逆に言えば背景に広がる「世界」そのものということでもある。

 どういう世界で起こっているドラマなのか,どういう世界にいるキャラクターなのか…ということがBGMで表現されていることになる。
 ということは、背景の音楽が重ければ重い世界に、軽ければ軽い世界に(聴き手は)引きずられる。これは結構(ヒトラーがかつて重厚壮大な音楽を背中に背負うことで大衆を鼓舞したように)人心操作の奥義になりそうだ。

□シンクロとコントラスト

Traumaw この種の、映像や舞台(あるいは世界)と「音楽」との連携は、「同期(シンクロ)すること」が基本だ。

 重いシーンに重い音楽を付け、軽いシーンに軽い音楽を付ける。穏やかな風景のシーンなら穏やかな音楽、激しいアクションシーンには激しいアップテンポの音楽。
 さらに、主人公が立てばアクションの音楽、歩けば歩くテンポの音楽,走れば走ったテンポの早い音楽…というように、ぴったり動きと合わせる(シンクロさせる)のが「シンクロ」の技法である。

 これは、「見た目」を補強あるいは増強させる効果がある。きれいな景色をさらにきれいに感じさせ、激しく興奮するシーンをさらに盛り上げる。
 そして、主人公の動きを強調し、観客の視線を誘導し、気持ちを引き寄せ、ストーリーの方向性を際立たせる。

 低予算で人数が少ない場面でも、壮大な音楽を付ければそれなりに豪華なシーンに見えてくるし、貧相な髭の男でもローマ皇帝みたいに見えてくる。さほどパッとしない景色も、きれいな音楽を流せばそれなりに美しい景色に見えてくるし、何の変哲もない暗闇でも、怪しげな音楽をかければ何だか怖いことが起きそうな状況に見えてくる…という仕掛けである。
 映画などで音楽が必要以上に使われるのは,この効果ゆえだ。

 一方、敢えて逆のタイプ(対照的:コントラスト)の音楽をぶつける技法もある。
 つまり、重いシーンに軽い音楽、軽いシーンに重い音楽。先に話したような、偉そうな王様が出て来るシーンで、全く逆の軽〜い音楽をぶつけるやり方である。

Donqui 例えば、西洋の甲冑を着てヤリを持った男が,お供の従者を連れて無言ですっくと立っているシーンがあったとしよう。
 これに、ワーグナー並みの重厚勇壮な音楽を付ければ、これはこの騎士がいっぱしの英雄で物凄く強い伝説の男に見えてくる。これが「シンクロ」。

 対して、ちょっとチャカポコ気味のリズミカルな音楽を付けてみる。すると同じ絵柄でもいきなりこの騎士はドン・キホーテ、お供の従者はサンチョ・パンサに見えてくる。これが「コントラスト」。

 あるいは、時間的な「ずらし(はずし)」も、シンクロと逆の効果として挙げられる。
 疾走する主人公、激しい戦闘シーン、暴走するカーレース・・・などは、正攻法で言えばアップテンポの激しい音楽が付けられるべきだろう。

 しかし、ここにスローテンポの曲を静かに流す。
 それで得られる効果は、例えば、疾走する主人公のその後の悲劇の予兆、戦闘の空しさや悲しさ、暴走する果てに迎える悲劇あるいは過去の回想・・・いろいろな「もうひとつのシーン」が、コントラストの隙間から見えてくるという仕掛けだ。

 もっとも、その効果は直接的なものではなく、かなり「考えオチ」的な処があるので、見た誰もが分かるとは限らない。ゆえに(誰にも分かってもらえず)大失敗…という危険性も大なので、念のため。

 注:このあたりのもっと詳しい技法については、当ブログの映画音楽の作り方を参照のこと。

□詞先と曲先

Allwork このように「音楽」だけでは出来ない表現が、他のジャンルとのコラボレーション(共同制作)で出来るというのも、音楽に関わる楽しみのひとつだ。

 そもそも普通に「歌」というのが,「作曲家」と「作詞家」のコラボである。
 本来「音楽」は抽象の世界(何だか知らないけど切ない、何だか分からないけどわくわくする…など)だが、ことばを得ることによって新たな具体的なイメージ(恋人や故郷や民族や歴史や思い出など)を加えることになる。それによって、音楽だけでは表現できない世界に踏み込むことが出来るわけだ。

 この「詞」とのコラボ、微妙に「主」と「従」の関係がある。
 作詞家と作曲家が作る「歌」の場合、「ことば」が「主」となる場合と、「曲(メロディ)」が「主」となる場合があるのが良い例だ。
 
 詞が先に出来ていて、それにメロディを付けるのを「詞先(しせん)」などという。
 作詞家が「ああ〜私の恋はぁ〜なんとかかんとか〜」というような詞を1番、2番、リフレイン…などと書いてきて、作曲家がそれに合わせてメロディを作る。(たまには、歌いやすさの点から,言葉を換えたりカットしたり繰り返したりの調整はあるが,基本は「詞」がメインである)。

 それに対して、作曲家が「ららら〜ら〜」というような印象的なメロディを思い付き、それに「何か良い歌詞を付けて」という注文を受けて作詞家が歌詞を考える作り方を「曲先(きょくせん)」などと言う。外国の歌に日本語の歌詞を付けるような場合も、これに相当するだろうか。

 もちろん、作詞・作曲とも一人の音楽家が担当することもあるし、印象的なワンフレーズだけが「詞先」にしろ「曲先」にしろ最初に浮かび、そのあとで相互ふくらませ合いながら作ってゆくこともあるから、両者に厳密な境界線があるわけではない。

 しかし、そのどちらにしろ、詞の世界に合わせたメロディを書き、メロディに合わせた詞を書く…というのが基本というのは変わらない。詞のイメージからメロディが浮かび、メロディのイメージから詞が浮かぶ。その相互作用で「歌」のイメージが強化されてゆくからだ。

 ただし、これも敢えてコントラストを狙って、ユニークな世界を作る…という手もある。
 例えば、演歌風の歌詞にハードロック風のメロディを付ける…という技もあるし、男性歌手が歌う明るいメロディに女性のことばの詞を付ける…という裏技も(失敗するリスクは高いが)可能というわけだ。

Recording オペラなども、その言い方で言えば完全に「詞先」である。
 というより、こればかりは詞つまり台本&セリフがなければ曲は作れない。オペラを「曲」だけ作曲して、あとから歌詞を付ける…などということは聞いたこともないし、考えただけでも怖ろしい作業になりそうだ。

 そのため、オペラの場合は、それぞれの登場人物のキャラクターやセリフにどういう音楽を付けるか…という世界観の創造に作曲家が大きく関わることになる。
 どんな端役でも(作曲家の思い入れ次第で)素晴らしいアリアをあてがわれれば主役級の注目を得られるし、逆にどんなに地位の高い人物も、それに付けられる音楽次第で存在の重さ軽さが左右されるからだ。オペラの場合は、作曲家がかなり強力な創造主のひとりと思って間違いないだろう。

 一方、映画や映像作品の場合は,微妙だ。
 一般的なのは、映画の本編が出来てから、その映像に合わせた構成と寸法で作曲家に音楽を書いて付けてもらう(あるいは出来合いの曲の中から「選曲」する)やり方。歌で言うところの「詞先」で、これは「アフレコ(After Recording)」という。
 対して、最初に音楽が出来ていて,それに合わせて映像を作ってゆくこともある。歌で言う「曲先」で、こちらは「プレスコ(Pre Scoring)」。

 こちらはオペラと違って、映像と音楽を統合する「監督」という創造主がでんと君臨しているので、作曲家の思い入れが100%通るということはあまりない。
 音楽によって作品世界を創造するような役割りを与えられることもなくはないが、多くの場合は「スタッフ」の一人として「音楽の部分を担当する」という地位であることが多いと言えそうだ。

 演劇やドラマは、さらに「スタッフ化」が進む。
 まず「台本」があって「セリフ」があり、ほぼ舞台の構成が決まったところに、作曲家が場面に合わせて曲を書く。これが「劇判(劇伴奏音楽)」あるいは「付随音楽」。
 これも前述の映像作品と同じように、出来合いの音楽を「選曲」で使うことも多い。音楽は「背景」であって、舞台を成立させる小道具に過ぎない。(なにしろ、音楽など全くなくても舞台は成立するのだから)。完全に「スタッフ」の一人である。

 一方、バレエやダンスでは(公演の趣向によって異なるが)、音楽なしには舞台は成立しないので、いくぶん「曲ありき」になる。
 かつてのクラシックバレエ全盛の時代は、興業主が決めた題材に沿った「台本」がまずあり、それを元にした基本的な演出プランがあり、それに合わせて作曲家に曲を発注する。そして、それに合わせて振付の踊りを考える…というのが基本的な作り方だったようだ。
(そもそもCDやレコードのような録音による音源がなく、音楽はオーケストラなりバンドなりに生演奏してもらうしかなかった時代は、これが普通だったわけだ)

 それが最近では、まず「曲」を探してきて、それに合わせて「台本」や「構成」そして「振付」を考える…という作り方が増えてきた。CDやレコードの音源があれば、オーケストラでもロックでも自由に背景音楽として使えるのだから、その方が枠に囚われない自由なテーマで舞台を作れると言うことなのだろう。

 この場合、舞台監督(あるいは演出・振付)に当たる人が創造主となり、前述のシンクロやコントラストで音楽を組み合わせ世界を作ってゆく。
 白鳥の湖に白鳥の衣装、ロミオとジュリエットにイタリア中世の衣装と背景…というのは正攻法だが、クラシックの古典名曲の響きに現代風サラリーマンやジーンズの衣装をぶつけたり、逆にモダンなコンピュータ音楽の響きに和風の着物や絵巻物の背景を組み合わせたり、「演出」のアイデアで新しい思いもよらない世界の表出も可能というわけだ。

□コラボレーション

Rhrs1 音楽というのは、もちろん(交響曲やソナタのように)単独で存在することもなくはないのだが、多くの場合、様々なジャンルとの〈共作(コラボレーション)〉で生命を得る。

 交響曲のような〈単独創作〉の極北にある音楽も、私たちが音楽として聴く時は、作曲・指揮者・演奏家・オーケストラなど複数の音楽家たちのコラボレーションとしてだ。
 この世に存在する「作品」は、一人の作家だけの創造物ではなく、「作詞家」「脚本家」「映画監督」「演出家」「振付師」「美術家」などなど複数の個性が協演することで誕生する〈共作〉と言ってもいい。

 その場合、おおまかに「主」と「従」のような関係が生まれる。
 しかし、「従」が必ずしも「主」に従っているだけではなく、また「主」の言うことを聞いているだけではないのは、今まで述べたとおり。

 時に、ぴったり同期(シンクロ)した主従関係もあれば、対照(コントラスト)的な個性をぶつかり合わせた(時には反発し合あった)主従もある。
 さらに、控えめに「従」に寄り添う「主」もあれば、いつの間にか「主」を食って前面に出て来る「従」もある。
 
 そして、そこから思いもよらない新しい世界が生まれることもあるから、世界は面白い。

 これからは、「作品」と出会うとき、「音楽」の効果や「主・従」関係にもちょっと踏み込んで注目してみるのはどうだろう。

 そして、「あ、ここは〈合わせて〉るな」とか「おっと、ここは〈はずして〉るぞ」という〈制作側〉の思惑や演出が感じられるようになればしめたもの。
 聞き慣れ見慣れた世界のむこうに、今までとは違った新しい世界が体験できることだろう。

          *

アメリカン・バレエ・シアター

□オープニング・ガラ
・7月21日(木):18:30
□スペシャル!ドン・キホーテ
・7月22日(金):18:30
□ドン・キホーテ
・7月23日(土)13:00/18:00
・7月24日(日)13:00/18:00
□ロミオとジュリエット
・7月26日(火)18:30
・7月27日(水)18:30
・7月28日(木)18:30
□クロージング・ガラ
・7月29日(金)18:30

◆東京文化会館

Ab

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