夏休み特集2〈クラシック音楽:最初の一枚〉
むかし、行きつけのレコード店で(つまり、まだLPレコード盤が主流だった頃)、面白い光景に出くわしたことがある。
高校生くらいの男の子が一人、クラシック音楽コーナーのレコード棚をあちこちぐるぐると歩き回った挙げ句、店員にいきなりこう相談を持ちかけたのだ。
「すみません。〈これ1枚持っていたらクラシック通の顔が出来る!〉みたいなレコードありませんか?」
店員が「どういうことですか?」と聞くと、少年いわく…
クラスの女の子で、クラシックに興味を持っている子が一人いて、何かの拍子に「ぼくも実はクラシック音楽が好きなんだ」と言ってしまった。でも、実際はクラシック音楽なんて聴いたこともない。
しかも、調子に乗って「今度、お勧めのレコードを貸してあげるよ」と言ってしまった。
さて、どうしたらいいだろう?とレコード店にやって来てあちこち探し回たが、どれを選んだらいいか分からず、考えあぐねて店員に声をかけ、件の質問になった…ということらしい。
いや、思わず笑ってしまった。
と同時に、こんな面白い話に乗らないわけにはいかない、という余計なお世話心も加わって、顔なじみの店員さんと一緒に、彼氏にふさわしい一枚を提案するディスカッションに参加することになった。
■ クラシック・ベスト of ベスト
ちなみに、私が、中学3年の時に最初に買ったクラシックのレコードは「運命」と「未完成」のカップリング盤だった。まあ、これは定番中の定番なのか、かの店員さんが真っ先に並べた数枚の中にもこれがあった。
でも、「女の子に「運命」「未完成」でもないかなあ」とちょっと自信なさげ。私がそれに追い打ちをかけて、「運命・未完成って、いかにもクラシック入門の感じがして、〈通〉の顔が出来る…というのとは違いますよね」と言い、却下。同じ理由で、名曲過ぎる「新世界から」や「田園」も残念ながら却下されてしまった。
続いて、ショパンのピアノ名曲集。「これは、女の子向けとしては良い選択かも知れないですね〜」と店員さん自信ありげ。
確かに、ノクターンや子犬のワルツや革命のエチュードなどなど、学校の音楽室で美少女がピアノを弾いているシーンに一番似合うのはこのあたりだろう。
「でも、クラシック好き…という女の子ならこれは持ってるでしょうし。そもそもその女の子がクラシック好きになったのってショパンからのような気がぷんぷんしますよね」と私。「いや、持っていたとしたら余計、〈あ、これキミも好きなの? ボクもだよ!〉という会話に発展するかも…」と店員さん。なるほど。というわけで、これは候補の一枚に。
次にモーツァルト。イメージとしては悪くないのだが、「この一曲」あるいは「この一枚」と絞れる曲となると意外と難しい。それに(私もそうだったのだが)初心者にとっては「あまりにも初心者向け」に聞こえるのだ、モーツァルトというのは。
私としては「ピアノ協奏曲なんかいいのでは?」と提案。試しに、23番あたりを聞いてもらったのだが、案の定、彼氏は「きれいだけど、なんだかピアノのお稽古やってるみたいだなあ」とちょっと不満げ。確かに、モーツァルトのこの軽さが理解できるのは、もう少しクラシックを聞き込んでからだろうね。
それじゃあ、と店員さんが出してきたのは、LP時代にベストセラー盤だったヴィヴァルディの「四季」(イ・ムジチ盤)。
これは、いかにも「クラシック(というよりバロック)」という響きだし、入学式や卒業式で流れる定番クラシックで、当時は「一家に一枚」と言われたほどポピュラー。春・夏・秋・冬という構成は日本人向きだし、耳に心地よく、難しくないし、飽きさせない。
でも、これも「クラシック好きの家庭なら、お父さんが買って持ってるでしょう」という理由から却下。うーん、なかなか難しい。
入門者向けと断言されてしまった「運命/未完成」「新世界」(とは言っても、音楽の質の高さから言って決して初心者向けではないのだが)以外に、幾分〈通〉っぽいもの…となると、チャイコフスキーの「悲愴」やベルリオーズの「幻想」あたりだろうか。
音楽の授業で聞く〈クラシック音楽〉とは違った(教育的にはちょっといかがなものか…的な)妖しい世界が、ちょっとマニア好み。
でも、高校生の彼氏とクラシック好きの彼女の間で、恋人を殺して断頭台に登る男が見た夢を描いた交響曲(幻想)とか、絶望と諦観の間で揺れ動き最後は死を暗示する交響曲(悲愴)というのは、さすがにいまいちお勧め切れない点が・・・
ベートーヴェンの「第9」は、フルトヴェングラー指揮(バイロイト祝祭管)の「第9」なんかが最初の一枚でお勧めしたい定番の歴史的名盤だが、モノラルなのが初心者に勧めるのにちょっと躊躇するところ。これも、少しクラシックを聞き込んでからの方がいいのかも。
と、このあたりまで来て、むかし高校の時、隣のクラスに〈クラシック通〉の変わった男がいたことを思い出した。
私がクラシック初心者と見て取ると、いきなり「きみはベートーヴェンの交響曲の中で何番が好き?」と言う。それが彼との最初の会話だった。(やはり、変わった男だ)
私が「それは、や、やっぱり〈運命〉かなあ」と答えると、彼は、ふふと軽く笑って「ぼくは〈7番〉だね」とひと言。(某テレビ番組の影響で〈7番〉がヒットする40年以上前の話である。念のため)
私が「どんなところが?」と聞くと、「7番って言うのが一番〈通〉っぽい答えじゃない?」と言う。悔しいが、斜に構えたインテリ文士のような名回答だ。
まあ、今なら小学生でも〈7番〉と言いそうだから、逆に〈4番〉あたりが通っぽいかも知れない。私は彼の話を聞いた後からは「第8番」ということにした(笑)。
(そう言えば、ベートーヴェンも、第9を書く前に〈先生は今まで書いた交響曲のうちどれが気に入ってますか?〉と聞かれて〈第8番〉と答えたらしいが、これは書き上げたばかりの最新作に一番思い入れがあったということなのだろう)
この伝で、ショスタコーヴィチの交響曲なら「第5番」ではなく〈4番〉や〈8番〉、マーラーなら「巨人」でも「復活」でもなく〈第7番〉や〈第10番〉。ワグナーの楽劇なら〈パルジファル〉あたりを挙げるとインテリ文士っぽい。
でも、さすがに初心者にそこまでは無理、というわけで「ちょっと視点を変えてコンチェルトなんかどうかな?」と引っ張り出したのが、ショパン、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ラフマニノフらのコンチェルト色々。
ショパンのピアノ協奏曲(ホ短調)は音楽もロマンチックだし、確か女性のために書いたんじゃなかったかな。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲も冒頭から引き込まれる哀愁極まる名旋律がいい。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番も、映画音楽に使われたほどの美麗な音楽。個人的にはシューマンのピアノ協奏曲なんか素敵だなあ。
…と並べていったが、逆にちょっと沢山ありすぎて1枚に絞りきれないのが微妙なところ。
そのうち「若い子ならロックなんか好きなはずだから、ストラヴィンスキーなんかどうでしょうかね?春の祭典とか」という話になって、サワリを聞いてもらうことになった。
かくしてレコード売り場に〈春の兆し〉と〈生け贄の踊り〉が響き渡ったが、彼氏いわく、「音がでかいのは分かったけど、音楽は何だかよく分かりません」とのこと。あっ、そう。ビッグバンドジャズ風のサウンドはともかく、変拍子がね〜。
じゃあ、変拍子がもう少し穏やかなホルストの「惑星」なんかどうかしらん?と、冒頭の「火星」を聞いてもらう。(この曲、この頃はまだ一部のマニアにしか知られていなかった。念のため)これは「おおッ、なんだかカッコいいですねッ」と好評。これは、なんとか候補の一枚に。
そのうち「そもそも〈通ぶる〉…んだったら、普通のクラシック愛好家レヴェルの人が聞いたことのないようなマニアックな曲を聴かせるって言うのもアリですよね」という話になり、店員さんと私でマイナー曲合戦が始まった。
私は「ショスタコーヴィチの14番」「ベルクのヴァイオリン協奏曲」「ディーリアスの夏の歌」…。店員さんは「モンテヴェルディのオルフェオ」「ブルックナーの交響曲第8番の初稿!」「スヴィリドフの〈悲愴オラトリオ〉!」とエスカレート。
最後には「じゃあ、バッハの平均律クラヴィア曲集全巻ッ!」「いやいや、ワーグナーのニーベルングの指輪全曲ッ!」「シュトックハウゼンのグルッペンッ!」…
…と、延々ああでもないこうでもないと議論を重ねた記憶はあるのだが、肝心の「で、結局、彼が何を買っていったのか」というのが記憶にない。
いろいろ提案されて逆に混乱して、「また来ます」と言って帰ってしまったような気もする。よかれと思って悪いことをした・・・のだろうか?
さて、あなたが彼氏に勧めるとしたら何?
■最初の愛聴盤
というわけで、最後に、私がクラシック超初心者の頃、最初に「愛聴盤」としてレコード棚に収まった数枚をご紹介。
◇シベリウス:交響曲第6番/第7番(カラヤン指揮ベルリン・フィル)
これは最初の個人的愛聴盤。まだクラシックを本格的に聴き始めて半年ほど、チャイコフスキーの4番5番やベルリオーズの幻想あたりを初めて聴いていた〈クラシック超初心者〉の頃に出会った一枚。
(出会う前までは、なんだか、シベリウスってシベリアに響きが似ていて涼しそう…というくらいの印象しかなく、「フィンランディア」も交響曲第2番も聴いたことすらなかった)
きっかけは、当時(1968年)カラヤンが〈第4番/トゥオネラの白鳥〉〈第5番/タピオラ〉と続けて新譜で出していたからで、そのトリが〈第6番/第7番〉だった。この3枚ですっかりシベリウスの冷たく神秘的な響きと、カラヤン&ベルリンフィルの超美音の世界に魅せられてしまった。
(後に、この頃カラヤン=ベルリンフィルでヴィオラを弾いておられた土屋邦雄氏と、BS-Hiの番組で対談する機会があり、〈トゥオネラの白鳥〉を録音した時の話などをお聞きすることができた!)
特に〈第6番〉は、冒頭の冷たく美しいストリングスの響きを聴いた途端、気絶しそうな感動に襲われた。昔から信奉していた宮澤賢治(銀河鉄道の夜)にあまりにも宇宙観が共振する音楽だったこともあったせいか、本当に心の底から震撼し、涙が出るほど身体が震えた。
その瞬間からシベリウスは私の〈心の師匠〉となり、フィンランドに行き、師の墓に詣でることが最初の〈夢〉になった。
その後の自分の進む道を決定づけたある意味「聖書」のような一枚であるとともに、ずいぶん後になるまで「人には決して勧めなかった〈私だけの一枚〉」でもある。
(…良い曲は人に勧めたくなるものだが、この曲だけは別。とにかく人に話すのがあまりにも「もったいない」、自分だけの宝物のような気がしたのだ。)
◎CDは、カップリングは違うものの、現在でもグラモフォン盤で聴ける。輸入盤ながら4番から7番までの後期交響曲全てが2枚組で収録されているものが、当時録音された交響詩も含まれていてベスト。シベリウスの後期の作品は、その後、フィンランド本家本元の演奏による名盤も増えてきたが、6番7番の無国籍で宇宙的な響きの世界は、この時代のベルリンフィルの冷たい弦の響きが最高の肌触りだ。
◇日本の現代音楽選
これは、日本の現代音楽に接した最初の一枚。LPの当時、正確には何というレコードタイトルだったか思い出せないのだが、武満徹「テクスチュアズ」、三善晃「管弦楽のための協奏曲」、黛敏郎「曼荼羅交響曲」がカップリングされた1965年頃のアルバムである(日本コロムビア:岩城宏之指揮NHK交響楽団)。
中でも武満さんの「テクスチュアズ」(1964)には、生涯消えない衝撃を与えられた。弦のテクスチュアにシベリウスっぽい響きがあるのも、いきなり共振してしまった理由だろうか。
以後、この「テクスチュアズ」の響きが頭から離れず「どういうスコアを書いたら、こういう響きになるんだろう?」という問いが作曲家の修練の核になったと言ってもいい。(それは、最初の交響曲を書いてようやく解消されるまで20年以上続いた)。
当時の武満さんは、ニューヨークフィルからの委嘱を受けた日本の新進作曲家…として売り出し中。その成果である1968年の「ノヴェンバーステップス」(メシアンのトゥランガリラ交響曲とのカップリング盤)、1969年の「小澤/武満69」(アステリズム、グリーンが収められた名盤)、1966年の「武満徹の音楽」(4枚組LP)とレコードにも恵まれ、「なるほど現代ではこういう音楽の方向性が〈作曲家〉としての生きる道なのか」と、目を開かれることになった。
同時収録の三善・黛作品も色彩あふれる見事な演奏だが、これは一にも二にも岩城さんのキャラクター。(後に、岩城さんと会って話す機会があった時、〈あれは岩城さんのサウンドですよね〉と絡んだことがある。もちろん絶賛の意味を込めてである)。
スタジオ録音による人工的な音作りもまた鮮烈で、〈曼荼羅交響曲〉の空間的広がり、〈管弦楽のための協奏曲〉のきびきびしたクール感は絶妙というしかない。
◎CDではこのカップリングは存在しないが、武満徹「テクスチュアズ」は石井真木(響層)、高橋悠治(オルフィカ)作品とのカップリング、黛敏郎「曼荼羅交響曲」は舞楽とのカップリングで共にデンオン盤で聴くことが出来る。しかし、三善晃「管弦楽のための協奏曲」はCD化されたのかどうか残念ながら不明。
◇ワーグナー楽劇「ニーベルングの指輪」(全曲)
ワーグナー畢生の大作「ニーベルングの指輪」は、作曲家を目指す男の子としては(世界連邦の大統領になって世界統一を目指すような…あるいはマッドサイエンティストになって世界征服を目指すような)夢の大目標だった。
なにしろゲルマン神話の集大成であり、上演になんと4日もかかる巨作であり、一人の男が妄想で生み出せる究極最大の音楽の「構造物」なのだ。
現実の世界では、ピラミッドとか大神殿とか超高層ビルに相当するもの(ゆえに膨大なお金と人出が必要)だが、それが妄想…もとい作曲するだけなら「一人」で出来る。こんな凄いことはない。作曲家の卵の卵としては「なんて素晴らしいのだ!」と心底憧れてしまったわけだ。
しかし、この大作、今でこそCDでもDVDでも何種類もの録音で鑑賞できるが、1968年にショルティ&ウィーンフィルによる世界初の全曲盤(Decca)が登場するまで、その全貌は分からず、文字通り「幻の巨作」だった。
だから、当時「LP22枚組!!!」(ライトモチーフ集のLP付き!)として登場した全曲盤は、クラシックマニアにとって何というか「女房を質に入れても手に入れたい初がつお」みたいなものだったのである。
もっとも、当時一介の高校生だった私には、質に入れる女房もなく……結局、毎年年末にNHKがFMで放送している「バイロイト音楽祭」のライヴをオープンリールテープで全曲エアチェック!…という気の遠くなるような繰り返しつつ、ずいぶんかかって中古盤を手に入れることになったのだが。
録音プロデューサーは伝説のジョン・カルショウ。明快なステレオ効果やサウンド・エフェクトも含め、かなり音響的に凝った(悪く言えば人工的な)録音だが、ワーグナーの壮大かつ誇大妄想狂的宇宙が、ハリウッド映画並みの鮮烈さで眼前に広がる。
◎歴史的名盤なのでCDでも、全曲盤(14枚組)がごく普通に手に入るほか、最近、SACD盤でも復刻されている。(ちなみに、全曲聴くと15〜6時間かかるのは、LPでもCDでも同じ。当たり前の話だが)
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チャイコフスキー国際コンクール
優勝者ガラ・コンサート
2011年9月8日(木)19時サントリーホール