人と単位と音楽と
例えば、西洋で古くから使われている長さの単位「フィート(約30センチ)」は、人の足(Foot)の大きさ(つま先からかかとまで)が基準だと言うのは、御存知の方も多いだろう。
東洋の「尺」も、元々は(尺取り虫というのがいるように)指を広げた時の親指から中指の長さから来ていて、昔は18cmくらいだった。
だから、漢字の「尺」という字も、親指と中指を広げた形からきている。
これはその後、時代や国によって変化し、日本で使う「尺」は約30.3cm。これは、ほぼ人間の腕の長さ(肘から手首までの尺骨の長さ)で、1尺=10寸。「尺八」と言ったら「一尺八寸」=約60cmということになる。
ただし、地域あるいは職業などによって(高麗尺、曲尺、鯨尺など)尺の長さは微妙に違うのは御存知の通り。
面白いのは重さの単位で、「ポンド」(約450g)は、人が一日に食べる麦の量から決められたのだそうだ。
麦1粒の重さが1グレーンで、麦7000粒が1ポンド。この1ポンドの大麦から作られた粉で焼いたパンが、人が一日に食べる主食の量。つまり、10ポンドの麦と言えば、1人で10日、2人なら5日食べられる量ということになる。
米食文化の日本でも、同じような単位がある。
一合(ごう)というのが、大人が一回に食べるお米の量。体積としては約180mlでお米なら約150gほど。10合が1升、10升が1斗、そして10斗を一石という。(ちなみに、米俵の一俵は4斗。約60kg)
ということは、一合のお米を一日3食一年間食べると約1000食になるので、1000合=100升=10斗=一石。つまり「一石(いっこく)」というのは、「大人が一年に食べる米の量」ということになる。
戦国大名で「一万石」と言ったら、一万人の人間が食べられる量の米を生産する領地を持ち、それに見合うような兵力を持った家柄ということ。「百万石」と言ったら、百万人の人間を扶養できる裕福な土地と強大な兵力を持った大名ということになるから(まあ、どこまで正確な数字かは分からないが)、相当強大な大名と言うことになる。
さらに、その一石の米を生産できる広さの土地が「一反(たん)」。これは300坪に当たる。(ちなみに、布のサイズ「一反」は、着物一着分の意)
一年分の300分の1は一日分なので、一坪(つぼ)というのは、人間が食べる一日分の米を収穫できる広さの土地のことになる。
日本は、いろいろなことが「お米」を基準で出来ている国なのである。
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◇音の基準と音階
音楽も同じで、今は「ラ(A)」の音を440Hzとして基準音にしているが、むかしは「音の高さ」も「音階」も、それを科学的に計測する道具はなかった。
さて、そんなとき「基準の音」を決めるのにどうしたのだろう?
そう。基準は「人間の身体」で作るしかない。そこで決まったのが、「普通の人が出せる一番低い音」…という基準だった。(もちろん昔々の話なので、女性や子供ではなく「声変わりした後の成人男性」が基準である。念のため)
高い音というのは訓練次第でより高くまで出せるが、最低音というのは体長やノドの長さに因ってあまり変化しない。
この時の基準音が「低いソの音」だったようなのだ。
身長の高い人や体格のいい人はもっと低くまで出るが、成人男性…合唱だと「バリトン」に当たる…が出せる最低音がこの「低いソ」。
何人かが集まって「一番低い音」を「おお〜〜」と出し、「この音を基準にしよう」ということになったのだろう。この「最低音」を「γ(ガンマ)」と呼ぶようになった。
やがて、その「γ」を基準にして、その上の音を「A」とし、そこから「A・B・C・D・E・F・G」とアルファベットを振った。これが(諸説あるものの)「音階」の始まり(らしい)。
ちなみに、現代の合唱では、もっとも低い音を担当するバスは、「低いミ」まで出す。普通の合唱ではほぼこれが最低音になる。
余談だが、コントラバスもギターも(オクターヴは違うが)最低音は「ミ」。これは男性の最低音域と関係ありそうだ。
しかし、例えばロシアの合唱ものはさらに低い「ド」を普通に出す。しかも、単に低音を出すだけでなく、このドを太いベースの響きにして、その上に分厚いハーモニーが乗る。まさに重厚。これがとてつもなく気持ちいい。
個人的なこの低いドの初体験は、ショスタコーヴィチのオラトリオ「森の歌」。ラフマニノフの無伴奏合唱の「晩祷」でも朗々とバスのドが地響きのように鳴り渡る。体格や文化の差もあるのだろうが、何か別の世界に引き込まれるようなズーンと腹に共振する大地の響きの感じがする。
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◇合唱の音世界
西洋のハーモニーは、低音の基音の上に「倍音」が積み重なってゆくのが基本。特に「自然倍音」と呼ばれる基音の振動数の整数比を持った倍音(簡単にいうとドミソ)が「ハモる」響きとされる。
これは、洞窟文化によるものだと、私は勝手に想像している。オープンな屋外のスペースでは、声の中に自然倍音が聞こえることはあまりないが、洞窟や教会のような残響(いわゆるお風呂場エコー) たっぷりの空間では、文字通り「自然」に聞こえてくるからだ。
結果、洞窟にエコーする自然倍音の響きが、最も調和した響きとして脳に刷り込まれ、(さらにキリスト教の美学が加わり)それを最大限引き出すべく「五線譜」や「対位法」そして「和声法」などの「音楽文化」が進化して行ったわけだ。
当然ながら、そう言った教会での音楽文化で育った西洋人の声は、倍音を多く含んでハーモニーに適している声質をしている。と言うより、自然倍音を綺麗に含んだ声を持つ人が「いい声」とされ、さらなる訓練で洗練されて行ったということなのだろう。
一方、東洋の音楽には西洋音楽で言うような(自然倍音から派生した)ハーモニーはない。日本人が西洋的なハーモニーを初めて耳にしたのは明治になってから。初めてドミソのハーモニーを聞いた日本人はあまりの異様な響きに仰天したそうだが、さもありなん。何よりドミソの「ミ」の音が不可解だったらしい。
しかし、それは東洋にハーモニーのシステムがないと言うことではない。西洋は「自然倍音」を美しいと感じる感性の上に築かれた音楽文化だが、東洋は逆。自然倍音は美しくないという感性の上に築かれた音楽文化である。これが根本的に違うわけなのだ。
西洋では、ものの形や建築物でも、左右対称だったり綺麗な円形だったり幾何学的に調和が取れた形を「美しい」と感じる。
一方、東洋、特に江戸時代以降の日本では逆だ。過度のシンメトリーはむしろ「異様」と感じ、幾何学的数学的な調和を壊すことの方が「美」とされる。ワビサビの世界などはその極致だ。
音楽も同じで、西洋ではより豊かな自然倍音を含む音を「楽音」と呼び、そうでない音は「雑音」扱いになる。しかし、日本では、例えば尺八にしろ笛にしろ、美しい音は自然倍音から外れた個性的な倍音を持つ。
純音に近い楽音というのは、むしろ最も避けるべき音であり、尺八ではムライキ、笛ではヒシギと呼ばれるノイズ音が重要な演奏法であり、三味線や琵琶にも、弦にサワリと呼ばれるノイズ音を加える構造があって、ビィンと唸る音(つまり「自然でない」倍音)こそ尊ばれる。
そして能の謡にしても義太夫にしても、西洋風のベルカントとは程遠い「ノイズ成分たっぷり」の歌の方が好まれる。演歌でもコブシと呼ばれる音程から外れた音の揺れに「表情」の深さを聞き取るわけだ。
そのため、明治時代に初めて日本の音楽を聞いた西洋人は「悪魔の響き」だの「非音楽的」だのと感じたそうだ。
ヨーロッパの常識では、自然倍音こそ「美」であり「調和」であり、それを崩す者(不協和音)は「悪魔」だったのだから仕方のないことだったのだろう。
しかし、同じヨーロッパでも、ちょっと東にゆくと、独特の東洋音階を好むハンガリーや、地声ハーモニーのブルガリアンヴォイス、独特のペーソスを含んだ短調(マイナーコード)の響きを好むロシアと、かなり「異教」の世界が聞ける。
これは、洞窟にこもって自然倍音を聞いた「洞窟文明」ではなく、屋外での音楽を主にする「アウトドア文明?」の特徴だろうか。
ここでは「ドミソ」の長調が醸し出す能天気な明るさはむしろ不自然。短3度の和音が短調の世界で鳴り響き、2度や7度の(自然倍音のハーモニーの中では)不協和音とされる響きが、独特の「泣かせる」ハーモニーを醸し出す。日本人にとっては、こちらの方がしっくり来るはずだ。
この「インドア派=西洋」「アウトドア派=東洋」の境がどの辺りか探るのも、面白いかもしれない。無理やり分別するなら、長調こそがハモっていると感じるのが西洋的、短調のほうがハモってると感じるのが東洋的、と言うことにでもなるだろうか。
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ロシアの合唱は、その西洋と東洋の狭間に響く魅力的な音楽世界だ。
同じキリスト教の無伴奏聖歌でも、例えば純西洋的なカトリック系聖歌やグレゴリオ聖歌の響きと、東方教会・ギリシャ正教やロシア正教の響きはかなり違う。
当然ながら、西洋クラシック音楽の規範となっているモンテヴェルディやバッハなどのハーモニーの感触と、チャイコフスキーやラフマニノフの合唱の感触もかなり違う。
純粋に西洋キリスト教音楽のハーモニーが染み込んでいる人には「異端」の香りがするのかも知れないが、我々日本人にとっては、ちょっとペーソスのある異端の響きこそ、むしろ「心の歌」に聞こえる。
日本では、キリスト教も(戦後のアメリカ文化侵入以前は)ロシア正教から伝えられたものが少なくないそうだし、戦後のロシア民謡ブームも(色々な背景はあるにしろ)非西洋的な響きへの親近感あってのこと。それも含めて「日本人の感性」をくすぐるのだろうか。
そのあたりを無理やりこじつけて考えると、そもそも日本民族自体が人類の起源であるアフリカから広大なユーラシア大陸を横断して日本列島にたどり着いた種族。それなら、北回り組はロシアを経由しているか、あるいは彼らと音楽遺伝子を共有しているはず。
つまり、我らが日本民族は、アフリカからヨーロッパを経てアジアを経由してきた音楽の記憶全てを記憶の底に含んでいることになる。
一方、西洋クラシック音楽はその「東」の記憶がない。(東に行かなかった人だけが、西にとどまっているのだから)。ということは、純粋なヨーロッパの人たちには、もしかしたらこの魂を揺さぶるような「非自然」倍音の感覚はわからないのかも知れない。
そう思うと、バッハやモーツァルトのハーモニーにも心打たれ、異教徒の賛美歌や民謡の響きにも感動し、さらに尺八や義太夫の唸りにも心動かされ、そして現代のハーモニーにも共感できる「多様性のある」感性こそ、東の果て日本に生まれた我々の最も貴重な「能力」であり、音楽的財産と言えるかも知れないと思えてくるのである。
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■国立モスクワ合唱団・・・・・・
ラフマニノフ「晩梼」より
カンチエリ「アマオ・オミー(無意味な戦争)」ほか
□2011年11月17日(木)19:00 東京オペラシティコンサートホール
懐かしのロシア民謡
□2011年11月23日(水祝)14:00 東京オペラシティコンサートホール
「晩祷」は、ロシア正教で夜を徹して行われる儀式のための音楽で、ラフマニノフのこの曲は無伴奏混声合唱のための作品。チャイコフスキーも同じテーマで書いているので、ロシアの作曲家としては馴染みのもの。
拍子にとらわれず自由に流れるような旋律は、聖歌でありながらエスニックミュージックのようでもある。
徹夜で行われる儀式の音楽のため「徹夜祷」などとも訳されるが、全15曲で演奏時間は50分ほど。
初演は1915年で、非常に好評を博し名曲と称えられたが、残念ながらソヴィエト連邦の時代になり、無神論を規範とする社会主義国家の中では宗教的な題材の音楽は演奏されず、長い間、この曲は「幻の名曲」として忘れ去られていた。
しかし、ラフマニノフはこの曲を非常に気に入っていて、自分が死んだら葬儀にはこの中の一曲を流して欲しいと生前語っていたほどなのだそうだ。確かに、この夢見るようなハーモニーの中で天国に行けたら…と激しく同意してしまうほどの美しさだ。
グルジアの作曲家カンチエリは、現代音楽に「調性」が戻って来た90年代あたりから注目を受け始めた作曲家。
グルジアは英語読みではジョージア(Georgia)。黒海の東に位置し、隣国はトルコやアルメニア、アゼルバイジャン。アルメニア出身のハチャトリアン同様、日本人好みの「東」の香りがする作曲家である。
彼はもともとグルジアでは劇や映画の音楽を書きかなりポピュラー界でも知られた人らしく、現代的な響きの中にも「万感胸に迫るメロディ」が忍び込む絶妙のバランスが魅力だ。
今回演奏される「アマオ・オミ」は、2005年に書かれ、既にCD(Kancheli/Little lmber:ECM)でも発表されている曲。タイトルはグルジア語で「無意味な戦争」というような意味。サクフォン4本と混声合唱とが静かなハーモニーを紡いでゆく気が遠くなるほど美しい作品だ。
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