オペラの悪役考
ドラマの世界には「悪役」というのが必ずいる。
そして、ドラマは「悪役」が存在することで動き出す。
というより「悪役」がいなければドラマは動き出さないと言ってもいいほどだ。
西洋の騎士物語なら「魔法使い」や「ドラゴン」、推理小説やミステリーなら「犯人」や「悪の組織」、時代劇なら「悪代官」や「敵役の剣豪」、恋愛小説なら「恋敵」や「結婚を邪魔する大人たち」などが悪役になる。
いずれも分かりやすく一目で見ただけで「悪役」と分かるのがベスト。なぜ悪いのか延々説明しないとならないようでは、ドラマの力学が薄くなり、当然ストーリーの展開が鈍り、最後のカタルシスも弱くなる。
□悪人と善人
もっとも、現実世界にはそんな分かりやすい「悪役」と「主役」はいない。
法律を犯せば「悪人」だが、スピード違反や脱税や万引き窃盗ではいまいち「悪」が足りないし、普通の人との違いは限りなく希薄だ。
もう少しエスカレートして人を殺傷したり街を破壊するところまで行けば立派な「極悪人」だが、戦争では敵を殺し街を破壊するのが英雄。チャップリンの「殺人狂時代」で、「一人殺せば殺人犯だが、(戦争で)1000人殺せば英雄だ」というセリフがあったように、視点次第で善悪は簡単に逆転する。
例えば、魚をたくさん釣り上げる様子は人から見れば楽しい景色だが、魚から見れば大量殺戮。金子みすゞも「(イワシの大漁で)浜は祭りのようだけど、海の底では何万のイワシの弔いするだろう」と歌っていたっけ。
庭の葉っぱに虫がびっしり繁殖していたら、「気持ち悪い!」と言って殺虫剤をまいて駆除するのが当然かも知れない。でも、地球にびっしり繁殖している人類を見た宇宙人が「気持ち悪い!」と言って殺人剤まいて駆除し始めたら・・・これは大殺戮だ。どっちが「悪」かというのは視点の違いでしかない。
しかし、人としてはあんまりそういう面倒くさいことは考えたくない。
現実には、善悪の区分も曖昧だし、善人だからと言って栄えるとは限らず、悪人が報いを受けることも少ない。男性として善だと思っても女性から見れば悪のことだってあるし、その逆のことだってある。
そんな風だから、自分自身すら、善に属するのか悪に属するのか分からない。人として善でも魚から見れば悪かも知れないなどと考え出すときりがない。
だからこそ人は、現実では絶対に味わえないカタルシスを得たいがために,虚構のドラマを作り出す。そして、「悪人」は悪人とばっさり断定し、どこから見ても善人である「主人公」がそれを(障害を乗り越えつつ)やっつける…というような虚構の勧善懲悪ドラマ(小説や映画やオペラ)を,性懲りもなく繰り返し繰り返し見続けるわけなのだ。
□主人公と敵役
その点、スポーツはその二極のシンプルさを極限まで高めた最高の発明だ。
なにしろ「味方」と「敵」を真っ二つに分けて,双方を戦わせるのだから明快極まりない。しかも、開始から数分数十分の時間で「勝ち」か「負け」かの決着が付く。これは現実では決して味わえない極限のシンプルさだ。
そのシンプルさを保つために、必要なのが「ルール」。人数を揃えてなるべく力が拮抗するような状況を作り出し、禁じ手や反則事項を定め、どちらかが一方的に勝利・敗北しないようなバランスを取る。
ここでは誰も「堅苦しいルールなど無い方がいい」とは言わない。「勝った」「負けた」でカタルシスを得るので、誰が味方で誰が敵だか分からないルール無用のスポーツでは「ただの混沌(カオス)」。楽しみようもない。「敵」vs「味方」が「勝つ」か「負ける」かの完璧な1:1になる必要があるわけだ。
そこで、小説や映画などのドラマでも、不変の設定は「主人公」と「敵役」が明快なもの…に限ることになる。
ドラマを内包する「書物」あるいは「舞台」や「映画」の中で、その二つの勢力が「対立」し、「拮抗し(争い)」、最後に主人公側が「勝利」する(もちろん「負ける」悲劇でもいい)。
この世に存在するドラマのほとんどが、多かれ少なかれこの構造で出来ていると言っても良いほどだ。
特に、英雄物語やヒーローものあるいはアクション映画などでは、明快に「悪役」を設定し、最後にはそれを「やっつける」のが基本構造。
悪いのかどうか曖昧な「悪役」では、それを「倒す」というベクトルが生まれにくい。そのため、悪役は誰もが「憎らしい」「人間じゃない」「非道い」と思えるキャラクターである必要があり、「同情に値しない」そして「倒され(殺され)ても当然」と観客が思うようなエピソードを纏うことになる。
□悪役たち
なにしろ「悪役」は「悪く」なければならない。ちょっと人間的な(同情できるような)エピソードが加わって「やっつけたら可哀想」とか「実は根っからの悪人ではないんじゃないか?」と思わせたら、最後に倒したときのカタルシスは薄れ、「後味の悪い」ものになるからだ。
誰が見ても「悪役」の極致と言ったら、怪獣映画の「怪物」たち。怪獣映画の古典「キングコング」では、コングは探検隊を襲い原住民の村を襲いニューヨークの町で暴れ回りという「悪逆」の限りを尽くした挙げ句、飛行機による攻撃で殺される。
しかし、考えてみれば、そもそも彼が暴れた原因というのは、人間が彼の領域に踏み込み、彼の「花嫁」を奪い、さらに束縛し文明世界へ拉致したことであり、彼の側に「非」はない。基本的には人間に翻弄され「美女」に心惹かれて身を滅ぼした「男」であり、「悪役」にされてしまった哀れさがつきまとう。
あのシャーロック・ホームズ物語の最大の「悪役」モリアティ教授も、ホームズが「最大級の悪人」と認定してバトルを繰り広げた後、スイスの滝でもみ合って最後は墜落死する。
ホームズは自分の命と引き替えにしても彼を葬り去ろうとするわけだが、さて、国家的な陰謀や強盗や悪事に関わったとしても、そもそも自分で手は汚していないわけだし、殺されねばならないほどの「悪」を彼は成したのかどうか?
オペラでも、悪人は多く登場するが、さて、同情の余地もないような根っからの「悪役」を探すとなると,結構むずかしい。
例えば「ドン・ジョバンニ」の主人公ドン・ジョバンニは、数々の非道の報いで最後に地獄へ引きずり込まれる「悪役」の代表。
しかし、よく考えてみれば、一度はずみで人を刺し殺してしまった(しかも決闘であり、正当防衛でもある)ほかは、女たらしの享楽主義者に過ぎない。二千人もの女性を抱いては捨てているというのは、女性から見ればトンでもない奴で、「殺してやるぅ!」と叫ぶのは理解できるが、じゃあ、本当に死刑にして良いほどの悪人なのか?というと、さて。
あるいは「トスカ」に登場する悪代官スカルピア。彼もトスカへの邪恋の報いでナイフで刺し殺される「悪役」だ。
でも、よくよく考えてみれば、代官の地位を利用して歌姫トスカを口説き落とそうとした哀れなセクハラ男の域を出ていない。彼などは、男から見るとむしろ偽悪的にしか女性に「愛」を告白できない可哀想な男に見えてしまい、このオペラ、「スカルピア」と題してもいいんじゃないかと思うほどだ。
そう言えば、あの「トゥーランドット」姫も、結婚を申し込んでナゾを解けなかった王子たちの首を片っ端からちょん切ってしまうという点では「悪役」。しかし、それが最後にはいつの間にか「ヒロイン」に変化してゆくのがこのオペラの見所であり、同情すべき悪役の代表とも言える。
その点では「ボリス・ゴドノフ」のボリスも近い。世間からは、先王を毒殺して王位に付いた極悪人と見られているが、最後にその罪の意識で悶死してしまうのだから,かなり神経が繊細な悩める男。こちらもかなり同情すべき悪役だ。
もう少し冷酷非道な悪役っぽいところでは、「ニーベルングの指輪」で、そもそも物語のきっかけとなる指輪の呪いをかけたアルベリヒと、その息子でジークフリートを謀殺するハーゲンがいる。
最後は英雄ジークフリートを謀殺するのだから、敵役としては最強だ。しかし、これもそもそもは神々に騙されて宝(黄金)を奪われたことから始まった復讐なのだから、これが悪者なら、狸に復讐するカチカチ山のウサギも「悪役」だ。
□悪い役回り=悪役
そこまで主人公に敵対する「悪役」ではないにしろ、オペラの中には、なぜか「悪い役回り」をふられてしまった「可哀想な脇役」が数多くいる。そして、それがまたオペラを観る楽しみになっていたりするのだから面白い。
特に、「恋敵」にあたる役にその種の「損な役回り」が多い。
ヒロインというのは、そもそもそのドラマ世界では一番の美女と決まっているから、それに恋する男性が複数生まれるのは当然。でも、ペアとなれるのは主人公だけ。当然、彼女の選択から外れた相手は,自動的に「敵役」になってしまう。
無理やり拉致したり乱暴したりするような強引な恋敵は「悪役」と見られても仕方ないが、恋を囁いたり結婚を申し込むというごく普通のアプローチをしただけで「悪役」になってしまう例もあって、ちょっと可哀想になってしまう。
セクハラというのは、相手が不快に思えばすべてセクハラなのだそうだが、オペラでも、ヒロインの女性のターゲット(すなわち主役)以外の男が「恋」心を抱けば、すべて「悪役」になるという理屈だ。
しかし、時には、主人公の方が悪役より無茶苦茶なアプローチに及ぶこともあり、首をかしげることも少なくない。バルコニーの下に忍び寄ったり、夜這いをしたり、人の女房なのに不倫を迫ったり、ストーカーまがいの非常識な主人公も時々散見される。
オペラの場合は、主役のテノールがやることは全て正しく、敵役のバリトンがやることは全て「悪い」というシンプルな構造が幅を利かせていることが多いが、ちょっと冷静になって考えてみると、「主人公のやっていることは本当に正しいの?」「本当に敵役の方が悪いの?」と疑問になることがいっぱいあったりするわけなのだ。
■セヴィリアの医師バルトロ
「セヴィリアの理髪師」というオペラがある。
ロッシーニ最大のヒット作で、ベートーヴェンも絶賛した〈オペラ・ブッファ(軽い喜劇オペラ)の最高傑作。今も世界中の歌劇場で上演され続けている名作中の名作である。
主人公はアルマヴィーヴァ伯爵というハンサムな青年貴族。(なので、当初は「アルマヴィーヴァ」というタイトルだったそうだ)。
彼が、医師バルトロの館にいるロジーナという娘に恋し、セヴィリアで床屋(理髪師)をやっているフィガロという男の助けを得て、首尾良く彼女を手に入れるまでの顛末……というのがこのオペラの物語。
つまり
・主人公:ハンサムな青年貴族アルマヴィーヴァ伯爵
・ヒロイン:若くて美人の娘ロジーナ
というのが基本構造。
主人公アルマヴィーヴァ伯爵は、実家は貴族で大金持ちらしいが、街では貧乏学生に身をやつしている、おそらくまだ20代前半の若者。マドリードでちらりと見かけた娘ロジーナに一目惚れし、セヴィリアまで追いかけてきた情熱男。(見方を変えればストーカー男?)
一方、相手の娘ロジーナは、医者バルトロ氏を後見人としている未成年だから、おそらくまだ10代半ば。自分を追いかけてきているらしい名前も素性も知らない青年(伯爵)にちょっぴり心引かれている。
ただし、お互いに名前も知らないし(ケータイの番号も知らないし)恋の告白のしようもない。
そこに助っ人として登場するのがフィガロという男。
むかし伯爵に仕えていたことがあり、今はセヴィリアで床屋(理髪師)をやっている。そのせいで、あちこちの家に出入りし、いろいろな事情に通じている。頭の回転が速く、機転が利くと共に、かなりお節介屋として知られているらしく「町の何でも屋」というのが通り名。
彼が、伯爵から「ロジーナという娘に惚れてしまった。何とかしてくれ」と頼まれ、彼女の家に入り込む手筈を考えたりと、恋の「キューピッド役」を買って出る。その挙げ句のドタバタが、このオペラの見所である。
一方「悪役」にあたるのが、医師バルトロ。
少女ロジーナを引き取って屋敷に住まわせているので、立場としては「後見人」。医者をやっていて、そこそこの屋敷に住んでいる。独身だが、もう若くはない、と言うより老齢に近いオジサンのようだ。
彼がロジーナを引き取ったのは、彼女にくっついている遺産が目当てで(成年になるまでその遺産を管理するのが「後見人」)、いずれロジーナと結婚して「遺産」と「若い嫁」の両方を手に入れようと考えている。
□恋の駆け引き
構図としてはまさしく〈イケメン貴族・アルマヴィーヴァ伯爵〉と〈未成年美少女ロジーナ〉との「相思相愛」。
……なのだが、恋と言っても、街でチラッと見かけて「お、可愛い!」というだけで始まった恋。相手の素性も知らず、双方ともまったく「外見」だけでの判断なのだ。
まあ、恋というのは得てしてそういうモノだとしても、「大丈夫なのか?この二人?」と凄く気になる。
イケメン貴族の伯爵は、おそらく「貴族」という地位や財産を狙って近付いて来る「女性」はいやと言うほど知っているのだろう。そこで、ロジーナに対しては「伯爵」という身分を明かさず、「貧乏学生レンドーロ」を名乗ってロジーナに恋を打ち明ける。それでも「好き」と言ってくれれば、自分に対する好意は「本物」…ということらしい。
しかし、一方のロジーナの方は、今は医師バルトロの庇護のもとで良い暮らしをしているし、成年になれば(彼が管理している)遺産が自分の手に入るので、お金には無頓着。相手が「貧乏学生」でもぜんぜん構わないのはそのせいであって、貧乏も厭わない「恋」に燃えているわけではない。
これは、考えれば考えるほど、アブナイ話である。
後見人である医師バルトロの側から見れば、どこの馬の骨とも知らぬ「貧乏学生」が、自分が保護者である可愛い娘に近寄ってくるのだから、「すわ財産目当てか!」と警戒するのは当然だ。
おかげで、伯爵とフィガロvs医師バルトロの「ロジーナ争奪戦」がドタバタ劇のように展開する。
その詳細はオペラの舞台で堪能してもらうとして、最後は、貧乏学生と思っていた男が実は「伯爵様」とわかり、結婚は成就。反対していた医師バルトロの方も、(相手が貴族なので)結婚のために持参金を出す必要もないと分かり、納得。
結局、誰もがハッピーという大団円を迎えるのでご安心を。
□見方の逆転
ただし、この話も、悪役(にされている)バルトロ氏の側から「好意的に」眺めてみると、随分印象が変わってくる。
そもそもこのオペラでは、主人公のアルマヴィーヴァ伯爵が人気のテノール役。対してバルトロ医師はヒゲを生やし太ったコミカル仕立てのバス・バリトン役。
一目見た瞬間から、「似合いの恋人同士」はテノールとソプラノ。悪役にされたバリトンがいくら「恋」を囁いても、横恋慕にしか見えない仕掛けになっている。
でも、このバルトロ氏、医師として一応社会的信用もある男だし、身寄りのない少女を独身の身で引き取って育てているのだから、決して「悪い人」ではない。
年齢はおそらく中年以降だろうから、未成年(十代半ば)のロジーナから見れば確かに「おじさん」。恋愛対象ではないのはいたしかたないが、だからと言って、「セクハラおやじ」=「悪役」と断定するのはいかがなものかと。
それに男盛りで独身の身のバルトロ氏から見れば、若い女性と結婚を望むのは(身分不相応なところはあっても)人から後ろ指指されるようなことではない。もちろんかなり年の差(30歳前後だろうか?)がある二人だが、別にそのくらいの「年の差婚」は珍しくもない。
ここはひとつ、コミカルなバリトンおじさんではなく、ハンサムな老優……高倉健とか田村正和とかあたり?…をバルトロ氏に重ね合わせてこのオペラを見てみよう。ぜんぜん違った物語が見えてくるはずだ。
□後日談
ちなみに、この「セヴィリアの理髪師」の後日談が、モーツァルトのオペラで有名な「フィガロの結婚」。
伯爵とロジーナは無事結婚し、彼女をゲットするのに功績があったフィガロはふたたび伯爵の家来となり、お屋敷の女中スザンナと結婚することになる。
ところが、なんと今度はアルマヴィーヴァ伯爵が、その結婚に横やりを入れるミニ悪役として登場するのである。
喜劇なので、大した悪役ではないのだが、彼はもともと浮気者で女好き。貧乏学生に身をやつして街をふらつき、見かけた娘をセヴィリアまで追いかけて結婚を迫ったほどなのだからさもありなん。
家来となったフィガロの許嫁に横恋慕し、本気か悪ふざけか不明ながら貴族の特権「初夜権」(結婚する女性を夫より先に抱く…というトンでもない権利)を主張する、という暴走ぶり。
これはもう完全に「セクハラおやじ」炸裂で、バルトロ氏の不安まさに的中という感じである。
というわけで、オペラは「悪役」の側から見てみよう。
奥深い世界?がそこから広がるはずである。
*
■錦織健プロデュース・オペラVol.5 セヴィリアの理髪師
[日時]
2012年2月12日(日) 14時開演 府中の森芸術劇場
2012年2月25日(土) 15時開演 神奈川県民ホール
2012年3月18日(日) 14時開演 東京文化会館
2012年3月20日(火・祝) 14時開演 東京文化会館
2012年3月31日(土) 14時開演 サンシティホール(越谷)
[出演]
森 麻季(ソプラノ) / ロジーナ
堀内 康雄(バリトン)フィガロ
錦織 健(テノール) / アルマヴィーヴァ伯爵
志村 文彦(バス) / バルトロ
池田 直樹(バス・バリトン) / ドン・バジリオ
武部 薫(メゾソプラノ) / ベルタ
演出:十川 稔
音楽監督/指揮:現田 茂夫
管弦楽:ロイヤルメトロポリタン管弦楽団
合唱:ラガッツィ
チェンバロ:服部 容子
テーマ・アート:天野 喜孝
舞台装置:升平 香織/ 衣装:小野寺 佐恵
照明:矢口 雅敏 / 舞台監督: 堀井 基宏
| 固定リンク
「2011年記事」カテゴリの記事
- オペラの悪役考(2011.12.10)
- 創造の軽さと重さ(2011.11.10)
- 歌・うた・UTA(2011.10.10)
- 人と単位と音楽と(2011.09.10)
- 夏休み特集2〈クラシック音楽:最初の一枚〉(2011.08.10)
コメント