2011/01/10

新春特集 ショパンとリスト

Chli_2 2010年は、ショパン生誕200年、シューマン同200年、マーラー同150年という(クラシック音楽界にとっては)華やかなメモリアル・イヤーだったが、さて、年は変わって2011年。

 大きなところでは、マーラー「没後」100年、リスト生誕200年。こじつければ、バルトーク生誕130年、プロコフィエフ生誕120年、ムソルグスキー没後130年、ストラヴィンスキー没後40年などというのもある。

 記念年にはさほど興味がないが、「ショパン生誕200年」の次の年が「リスト生誕200年」と言われて、改めて「そうか。ショパンとリストは1歳違いなんだ…」と気が付かされたのは収穫だった。

 19世紀の初め、ピアノという楽器が音楽史に華々しく登場した時代に、その楽器の魅力をフルに引き出して(現代のジャズやポップスにも通じるような)「ピアニズム」を究めたこの二人。実は、お互い友人同志でもある。(…いや、「だった」と過去形にするべきか)

 というわけで、2011年初の今回は「フレデリックとフランツ」のお話をしよう。

■フレデリック・フランソワとフランツ

Chopina フレデリック・フランソワ・ショパン
 1810年3月1日ポーランドのワルシャワ生まれ。

 フランツ・リスト
 1811年10月22日ハンガリーのライディング生まれ。

 ショパンは「ポーランドの作曲家」として絶大な人気と知名度を誇るが、当時のポーランドは「ワルシャワ公国」としてロシアやフランスに挟まれ、国としてのアイデンティティに苦悶していた時代。

 そんな時代に生まれたショパンは、子供のころから音楽の才能を発揮していたものの、ポーランドにいる限り「田舎の音楽家」止まりになりかねないのが現実。
 そこで一念発起して20歳の時に生まれ故郷ワルシャワを去り、ウィーンを経てパリに辿り着いたのが1831年。

 しかし、奇しくもこの年、ポーランドで革命が起こり、彼は帰るべき祖国を失い、異国の空で天涯孤独になってしまう。その報を聴き(祖国に思いを馳せて)書いたのが、有名な「革命のエチュード」である。

Liszt20 一方のリストは、現在では「ハンガリーの作曲家」と言われているが、当時のハンガリーは「オーストリア=ハンガリー帝国」の一部。しかも、彼の生まれた町ライディングはウィーンの南数十kmという至近距離にあり、現在ではオーストリアに属している。

 そんな町でドイツ語を話す家庭に生まれ、12歳以降はパリでフランス語を話す生活を送ったため、リスト自身には(後年そうと指摘されるまで)「自分はハンガリーの作曲家である」という意識はあまりなかったらしい。

 彼は、子供のころから演奏および作曲の才能を発揮し、十代で既に音楽会を開いていたほどの早熟児。
 11歳の時にはウィーンでピアノを弾き、ベートーヴェン(当時52歳)に褒められたほどの腕前だが、ここまでは「天才」と言うより「器用な子供」という感じだ。

 そんなリストの運命を変えたのが、1931年19歳の時にヴァイオリンの鬼才パガニーニの演奏に衝撃を受けたこと。以後、「ピアノのパガニーニになるッ!」と猛烈な練習を始め、リスト流ピアノの超絶技巧を確立する。

 かくして、ピアニストがピアノだけの音楽で一晩のコンサートを成立させる「ピアノ・リサイタル」が(リストを基点として)誕生。現代のロックスター並みの人気と熱狂をもたらす人気ピアニストとしてヨーロッパ中を演奏旅行し始める。

□出会い

 そんなショパンとリストが出会ったのは、1832年頃。
 時に、ショパン22歳、リスト21歳。

 年齢的にはショパンの方がひとつ上だが、リストは既にピアニストとしてヨーロッパ中を演奏して廻る人気者。ショパンの方は、この年、パリで演奏家としてデビューしたばかりだから、芸歴としてはリストの方が上と言える。

 しかし、ショパンもパリでのサロンコンサートを中心に徐々に人気を博すようになり、そこそこ立派なアパートを借りて、社交界に出入りするようになる。

 そこで出会ったのが、メンデルスゾーン(当時23歳。既に作曲家・指揮者として活躍中)、ベルリオーズ(当時29歳。「幻想交響曲」で話題の新進作曲家)といった作曲家たち。
 そんな中で、ほぼ同い年の技巧派ピアニストであるショパンとリストは、プライベートでも親しい交友を始める。

□性格

 しかし、この二人、きわめて対照的な性格だったようだ。

Chopinb ショパンは痩せ形でどちらかというと病弱(実際、39歳と早死にをしている)。
 性格は内向的で神経質(今で言う「草食系」男子)。傾向としては「鬱」で、慎重で気弱な「ボク」タイプ。

 20歳までポーランド暮らしだったので、打ち解けて話すほどにはドイツ語フランス語とも堪能でなく、そのこともあって人見知り。
 女性に対しては奥手で、母国ポーランドでもパリに出て来てからも「密かに恋心を募らせ」「告白するも振られる」というのがパターン。もてないわけではなく、ファンもそこそこいるはずなのだが、なぜか成就しない。

Liszt29 対して、リストの方はすらっと背が高く骨格もがっしりしたイケメン。(こちらは、ショパンの倍近い74歳という長命である)
 性格は精悍で外交的(こちらは「肉食系」男子)。短気で激情型の「躁」で、いわゆる「俺サマ」タイプ。

 育った家庭はドイツ語がネイティヴで、12歳でパリ音楽院入学を志望したほどなのでフランス語も堪能。口もうまく金回りも良いので、女性にはもてまくりで恋愛遍歴も多彩。

 さらに、ピアニスト(&音楽家)としてのキャラクターも正反対だ。

 ショパンの方は、少人数のファンたちを集めたサロン風のコンサートで、繊細で詩情にあふれる空間を慈しむタイプ。
 優れたピアニストではあるものの、演奏より「作曲家」としてオリジナル曲で勝負することの方に重きを置いている。

 そのためリストより先に「作曲家」として一家を成すが、あくまでも「ピアノ曲専門」。ポーランド時代の2つのピアノ協奏曲以後は、オペラやオーケストラ作品はおろか、歌曲や室内楽にも(ごく一部の例外を除いては)手を出していない。

 当然ながら、「詩」や「文学」など音楽以外の文化とあまり接点はなく、いわゆるインテリ系「知識人」とは一線を画す「孤高の芸術家」という感じだ。

 現代で言うなら、自作の詩を自らギター弾き語りで歌うシンガーソングライター的なスターという感じだろうか。

Lisztconcert 一方、リストの方は、大ホールに満員の客を集め、女性ファンにキャーキャー言われながら大音量と超絶技巧で客を圧倒する祭りのような空間を楽しむタイプ。
 現代で言うなら、巨大ホールでコンサートを開き、数万人の観客を熱狂させるロックスターだ。

 若い頃は、それこそショパンが呆れるほど軽薄なテクニック偏重主義だったが、三十代あたりから「作曲」にも精力的に取り組むようになり、オーケストラによる「交響詩」というジャンルの始祖になったほか、ファウスト・ダンテの2つの巨大交響曲など力作も多数残している。

 オペラこそ書いていないが指揮でも一家を成したほか、シューマンと並んで音楽評論も積極的にこなし、さらに晩年には宗教曲の大作も残している。音楽だけでなく「文学」から「宗教」まで多くの分野と接点を持ち(74歳と長生きしたこともあり)インテリ知識人の頂点を極めたと言っていい。

Pleyel もうひとつ、好んで弾いたピアノも、ショパンは「プレイエル」、リストは「エラール」(後にベーゼンドルファー)と別々。

 ショパンは、少人数の客に繊細な音色表現を聴かせることがが出来る(アクションやペダルが精巧な)楽器を好んだが、リストは、大勢の客に圧倒的な音量を聴かせられるメカニズムの正確さと頑丈さを必要としたわけだ。

 この二人が登場した1830年代は、「ピアノ」という楽器が、かつてのチェンバロやハンマークラヴィアから「モダン・ピアノ(現代のグランドピアノ)」に進化する熱き時代の真っ只中。
 ショパンやリストが、ピアノのメカニズムを極限まで引き出すテクニックを開発すると、ピアノのメイカーもそれを安定供給するさらなる高度なメカニズム(ペダル、ダンパー、アクション、調弦などなど)を開発する…という激しい「競争」が繰り広げられている。

 ショパンやリストがそれぞれが超絶技巧を開発し、「こういう音楽を弾けるようなピアノを」と要求してそれにメイカーが応える。
 そういう形で、この時代、ピアノは究極の進化を遂げたわけである。

□友情

Prelude と、何から何まで対照的な二人だが、お互いに相手の才能が超一級であることは認めていたので、出会いから以後数年ほどは極めて良好な友情関係が築かれていたようだ。

 特に「自分にない物を持っている」ということはお互い良い刺激になったようで、ショパンはリストの「技巧とパワー」に羨望を抱き自らのピアノの技巧に磨きをかけ、リストはショパンの「繊細な抒情的表現」に圧倒され、自身の音楽をさらに深めてゆく。

 例えば、当時リストは「どんな難曲でも初見で弾ける」と豪語していたそうだが(実際、メンデルスゾーンやグリーグのピアノ協奏曲からワーグナーのオペラまで初見で弾ききったのは有名な話)、ショパンの(例の「革命のエチュード」を含む)練習曲集はさすがに初見で弾けなかったそうな。

 それにショックを受けたリストは山ごもり(?)で特訓をし、数週間後には完璧に弾いてみせてショパンを驚かせたという。

Chopingal 逆に、ショパンの方は、「詩情あふれるデリケートな演奏」では圧倒的だったものの、それでは少人数向けのサロンコンサートから一歩も出られず、大ホールに何百人もの聴衆を集めてのリサイタルや、オーケストラをバックにした壮大なコンチェルトを弾きこなすだけのパワーはない。

 そこで、その点においては、リストには「絶対敵わない」と劣等感を感じていた節がある。そのせいか、リストが自分のマズルカをかなり「ハデに加工して」変奏曲仕立てで演奏しても、とりたてて怒りもせず、「リストがやることなら」と一目置いていたようだ。

 後に、リストが作曲家として「交響詩」というジャンルを確立したのも、そんなショパンにあって自分にない「詩」的なものや「深み」を強烈に希求したため、と言えるかも知れない。

□つきあい

Chopinroom そんな不思議な距離感のこの二人、音楽家づきあいだけでなく、プライヴェートでも、アパートの鍵をお互い持っていたほどの仲(もちろん二人とも独身)というから面白い。
(なんだか、そのまま音楽系コミックスになりそうなシチュエーションだ)

 とは言っても、「あちら♡」の方の仲ではなく、そもそもショパンは人恋しくて…誰もいない部屋に一人で帰るのがダメな寂しがり屋の性格。
 人見知りで恋愛にも奥手なうえ、ポーランドから出てきて何となく都会になじめない気弱な青年。女性を部屋に連れてくるなど無理な話なので、押し出しの強いリストが友人連れで部屋に来るのは大歓迎だったようだ。

Lisztd 一方のリストの方は、スターでイケメンでかつ話し上手なので友人にも女にも不自由はない。
 取っ替え引っ替え友人&女たちと遊び回っているので、逆にそういう人種とは一線を画す「引っ込み思案」で「ひ弱な」タイプのショパンを放っておけない…というバランスだろうか。

 もちろん、二人とも希代の天才音楽家なので、単なる「お友だち」というより、その裏に相手の持つ才能への強烈な羨望と嫉妬があったことは確かだ。
 一番怖ろしい人間は、離れた所に置くよりなるべく身近に置いていた方がいいのである。

□対立

Chopinsalon ただ、繊細で神経質な方向で「芸術家肌」のショパンと、外交的で短気で快楽主義な方向で「芸術家肌」のリストが、どこまで「友人」でいられるのか?…いつか破綻するんじゃないか?…と思うのは(ゴッホとゴーギャンの例を持ち出すまでもなく)きわめて自然ななりゆき。

 実際、時にはショパンが演奏旅行で出かけている間、リストが女性を連れ込むのにショパンのアパートを使ったこともあったそうで……、この二人の仲は微妙に破綻してゆく。

 もともとこの二人、お互い「全く正反対なタイプ」であることは自覚したうえでの友人同士だったのは先に述べたとおり。

Lisztsonata ショパンは、リストのピアノ技巧には賞賛の言葉を惜しまなかったが、彼の「音楽のセンス」自体は買っていなかったし、彼を「作曲家」とは全く思っていない。
 もちろん、自分の曲をリストが弾くのを聴き「素晴らしい。ボクもあんな風に弾きたい」と思ったのは本音。でも、リスト風に編曲・変奏した自分のマズルカを聴いた時は、口には出さないにしても「こいつのセンスは、ボクとはぜんぜん違う」と思っている。

 リストの方も、ショパンの「ピアノから詩的な情感を引き出す」手腕には最大限の敬意を感じていたが、地味で内向的で「演奏効果の上がらない」書式には、イライラしていたに違いない。
 挙げ句、客受けするようにショパンの曲を変奏すれば、喜ばれるどころか逆に呆れられる。しかも、大言壮語気味のリストに対して、きわめて口数の少ないショパンは、あまり「本音」を話さない。

 金銭感覚も、(これはあくまでも想像だが)コンサート三昧で江戸っ子風「宵越しの金は持たない」的な使いッぷりのリストに対して、ショパンは財布のヒモの固い堅実質素派。
 お金も女も「あるだけ使い」、気が向けばぷいとスイスだのウィーンだのへ飛んで行き、住所が定まらない放蕩三昧のリストに対して、ショパンは石橋を叩いて渡る堅実派。パリに居を定めると、ほとんどそこを動かず、故郷ワルシャワにも結局一度も戻っていない定住派だ。

Chopinsanda それでも、男同士の付き合いの仲では「あいつは、ああいう奴だから」という暗黙の了解があったのだろう。
 ホームズとワトソン博士のように、全く違うキャラクターだからこその友情関係ということなのかも知れない。

 そして、1836年ショパン26歳の時、リスト(25歳)の愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人のサロンでジョルジュ・サンドを紹介されるあたりで、この二人の友情はピークを迎える。

 しかし、これは同時に「終わりの始まり」でもあった。(♪〜 ここでドラマチックな音楽(~~;)

□訣別

Mariedagoult リストの愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人というのは、リストより6歳ほど年上で、フランス貴族ダグー伯爵の妻。二人の娘がいる。

 運命のサロンの前年1835年(30歳)に夫と離婚。そのままリスト(当時24歳)とスイスに逃避行に及び、以後10年に渡る同棲生活を送ることになる。
 その時生まれた娘の一人が、後にワーグナーの妻となるコジマである。

 一方のショパンは、このサロンの年に、ヴォジンスキ伯爵家の令嬢マリアに結婚を申し込んだものの、翌年断られ、傷心の日々。
 その反動かどうか「第一印象は最悪だった」という男装で年上の女性作家ジョルジュ・サンドと交際を始める。

Sand このジョルジュ・サンドも、ショパンより6歳年上。本名オーロール・デュパン。27歳の時に作家として活動を始め、サンドはそのペンネーム。
 男装して社交界に出入りし、詩人や医者など多くの男性と浮き名を流し、一時はリストとも関係があったそうで、ショパンに出会ったのもその頃だ。

 要するに、男同士の友情の間に、それぞれ「女性」(かなりやり手の姉さん女房!しかも社会的には「奥さん」ではない!同棲相手)が入ってきたわけである。

 かくして、厄介ごとがダブル&トリプルで発生し始める。
 ひとつは、リストの愛人マリー・ダグー伯爵夫人が、そもそもリストよりショパンの音楽のファンだったこと。
 そして、ショパンの同棲相手ジョルジュ・サンドが、この伯爵夫人と仲が悪かったこと。

 当然ながら、リストは愛人(マリー)からショパンへの好意を聞かされて嫉妬し、ショパンは愛人(サンド)からリストの愛人(マリー)の悪口を聞かされ閉口する。
 ところが、当のサンドはリストとも関係があったわけで、ショパンを非難できる筋合いでなく、ショパンからすれば、そもそもサンドを紹介してくれたのはリストなので、これも心中複雑。
 結果、二人の関係はぐちゃぐちゃになる。

 おまけに、むかし(ベルリオーズやシューマンら作曲家たちの憧れの的だった)美人ピアニストを、リストがこともあろうにショパンの留守中に彼の部屋に引き込んで情事を重ねていたことがばれてしまう……

 かくして、「音楽」で結びついた二人の天才は、「音楽でないもの(女性)」が原因で訣別してゆくのである。

 と、音楽とは全然関係のない話で、二人の天才の若き日を(怪しい想像も交えて)綴ったわけだが、そろそろ辛くなってきたのでこのくらいで。
 
 教訓としては・・・・
 
 ・・・・彼らの音楽を聴きながら、自分でお考えください。

         *

Flyera■アリス=紗良・オット ピアノ・リサイタル 

 メンデルスゾーン
  厳格な変奏曲 ニ短調
 ベートーヴェン
  ピアノ・ソナタ第21番ハ長調“ワルトシュタイン”
 ショパン:
  3つのワルツ“華麗なる円舞曲” Op.34
  ワルツ第6番 変ニ長調 “小犬” Op.64-1
  ワルツ第7番 嬰ハ短調 Op.64-2
  スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31

・1月9日(日)14:00 横浜みなとみらいホール
・1月12日(水)19:00 東京オペラシティ

■エレーヌ・グリモー ピアノ・リサイタル 

 モーツァルト
  ピアノ・ソナタ第8番 イ短調 K.310
 ベルク:ピアノ・ソナタ Op.1
 リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
 バルトーク:ルーマニア民族舞曲

・1月17日(月)19:00 サントリーホール

Flyer_2■ショパン・コンクール・ガラ 
第16回ショパン国際ピアノ・コンクール
入賞者ガラ・コンサート

 ユリアンナ・アヴデーエワ (第1位 ロシア)
 ルーカス・ゲニューシャス (第2位 ロシア/リトアニア)
 インゴルフ・ヴンダー (第2位 オーストリア)
 ダニール・トリフォノフ (第3位 ロシア)
 フランソワ・デュモン (第5位 フランス)

・1月22日(土)23日(日)14:00 オーチャードホール

■横山幸雄 ピアノ・リサイタル 

 アンダンテ・スピアナートと華麗なるポロネーズ 変ホ長調 Op.22
 ノクターン 嬰ハ短調(遺作)
 幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66
 ワルツ 第9番「別れ」変イ長調 Op.69-1
 タランテラ 変イ長調 Op.43
 バラード 第3番 変イ長調 op.47
 子守歌 変ニ長調 Op.57
 舟歌 嬰ヘ長調 Op.60
 スケルツォ 第1番 ロ短調 Op.20
 スケルツォ 第2番 変ロ短調 Op.31
 スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 Op.39
 スケルツォ 第4番 ホ長調 Op.54

・2月27日(日)14:00 横浜みなとみらいホール

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■アレクサンダー・ガヴリリュク・ピアノ・リサイタル 
 ベートーヴェン:「月光」ソナタ
 ショパン:幻想即興曲ほか
 ラフマニノフ:楽興の時
 プロコフィエフ:「戦争」ソナタ
・6月11日(土)19:00 東京オペラシティ

■アフタヌーン・コンサート シリーズ2011 
・5月17日(火)千住真理子
・6月10日(金)ウィーン少年合唱団
・7月23日(土)金子三勇士
  リスト:ラ・カンパネラ、ソナタ ロ短調ほか
  ショパン:英雄ポロネーズ、ノクターンほか
・8月11日(木)鮫島有美子
 東京オペラシティ いずれも14:00開演

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2011/02/10

作曲家のハローワーク

Study 今回は、某新書用に書き下ろしたものの、シビアすぎてボツになった「作曲家のハローワーク(作曲家の現在)」の一部を本邦初公開。(ちょっと長編)

        *

 作曲家というのは、読んで字の如く「曲」を「作る」人のこと。英語では「コンポーザー(Composer)」という。音楽を「組み立てる(cmposeする)」人というような意味である。

 クラシック業界や学校の音楽室で「作曲家」と言ったら、ベートーヴェンやバッハのようなクラシックの作曲家の(ちょっと怖い)肖像画の顔が思い浮かぶ。
 でも、街で「作曲家」と聞いて普通に思い浮かべるのは、やはりポップスや歌謡曲のヒット曲を書いた作曲家。一方、「作曲:だれだれ」というクレジットが多くの人の目にとまるのは、映画やテレビで音楽を書いている作曲家だ。

 というわけで、シビアな「作曲家」のリアルなお話。まずは、どんなタイプの「作曲家」がいるのかから話を始めよう。

■作曲家の種類

■クラシック系音楽の作曲家

Beethoven まずは、クラシック系。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、チャイコフスキーなどなど音楽教室の壁に肖像画が貼られているタイプの作曲家たちが代表格。
 基本的に、オーケストラやアンサンブルあるいは器楽ソロから歌曲そしてオペラまで、コンサートや劇場で演奏される音楽作品の「楽譜」を書くのが仕事。

 彼らのほとんどは、一〇〇年も二〇〇年も前の人たちで、既に死んでいるし、いわゆる著作権も消滅しているから、演奏や録音あるいは楽譜の複製も無料。その恩恵(遺産)で成り立っているのが「クラシック音楽界」と言えなくもない。
 ただし、現代でも、クラシック系のアンサンブル(オーケストラ)や楽器(ヴァイオリン、ピアノなど)のためのコンサートやリサイタル、およびオペラ(歌劇)などのために作品を供給する作曲家は少なくない(私もその一人)。 

 この場合「クラシック系」という分類はおかしいわけで、あえてカッチリ定義をするなら「音楽作品として独立した楽曲を、五線譜にすべて記述する形で創作する」タイプの作曲家とでも言おうか。
 メロディやテーマを作り、それを数十分から数時間の作品として構成し、オーケストラなら百人前後の演奏家のパートすべてを統合した楽譜(総譜)を「一人で」仕上げるのが基本だ。

■ポップスやヒット曲の作曲家

Cut11 対して、歌の「メロディ」だけを書く作曲家もいる。
 彼らは、楽曲を構成(compose)する作曲家(コンポーザー:Composer)に対して、旋律(melody)を専門に書くのでメロディメイカー(Melody Maker)と呼ばれる。

 仕事は「メロディ」を作ることだが、それには「詞」が付くのが前提。当然ながら、作詞・作曲という2者の共同作業であることが多い。ただし、両方こなす作詞作曲家、さらに自分でギターやキイボードを弾きながら歌うシンガーソングライターなども少なくない。

 楽譜としては、最低限「詞が付いたメロディだけの譜面」を書ければいい。多くはコードネーム(Am、G7など)と呼ばれる和音の伴奏ガイドを付けるが、そのコードを含めて「編曲家(アレンジャー)」に委託することもある。
 中には、「鼻歌」のような形で思い付いたメロディをテープなどに録音し、それを専門家が「採譜」して「作曲」とすることもある。そのため「楽譜」が全く読めない(書けない)作曲家もこのジャンルには存在する。

 ちなみに、このように「採譜」してもらい「編曲」してもらっても、「作曲」の権利はすべて最初の「鼻歌」を歌った作曲家が総取りする。現代における最も効率的(?)な仕事のひとつである(ただし、ヒットすれば…だが)

■映画やテレビ劇判の作曲家

Musica 20世紀に映画やテレビというメディアが登場して一線に登場したのが、俗に「劇判(げきばん)」正確には劇伴奏音楽、あるいは「BGM(バック・グラウンド・ミュージック)」などと呼ばれる音楽の作曲家。
 純粋な「音楽作品」や独立した「歌あるいは楽曲」ではなく、演劇や映画やテレビなどのドラマあるいはドキュメンタリー作品などに「背景音楽」を付けることを仕事とする。

 古くは「演劇」のための付随音楽。それこそ古代ギリシャやローマ時代から、劇で歌われる合唱の作曲家は存在したし、シェークスピア劇でも座付きの作曲家がいた。いわゆるクラシック系の作曲家たちも、舞台で上演される演劇のための付随音楽を多く書いているので歴史は古い。(ちなみに、ベートーヴェンの「エグモント」、グリーグの「ペール・ギュント」なども元は劇付随音楽)。バレエの音楽などもここに含まれるかも知れない。

 そして、20世紀になってから登場したのが「映画」。無声映画の時代は、上映されるスクリーンの横で音楽を演奏し、トーキーの時代以降は背景に音楽を組み込むようになった。フィルムの音声トラックにセリフや効果音と共に音楽を焼き付けたため、これらの音楽は「サウンドトラック」と呼ばれる。

 クラシック系の近代現代の作曲家たちも、オネゲル、ショスタコーヴィチからシュニトケや武満徹まで映画音楽をかなりの数書いている。純音楽(芸術音楽)作曲家のアルバイト的な仕事としても重要だったわけだ。
 さらに現代では「ラジオ」および「テレビ」で放送される「ドラマ」のための音楽がそれに続く。

 逆に、音楽主体で劇判とヒット曲の作曲の双方を兼ねるのが「ミュージカル」。舞台上のシーンに音楽を付けるのは劇判と同じだが、さらに「主人公たちが謳う「歌」の作曲も必要で、これは映画や演劇の音楽に比べて遙かに「メロディ・メイカー」の部分が大きい。
 こちらは、「歌」だけ書くメロディ・メイカーと、劇判部分やアレンジを担当する作編曲家(アレンジャーやオーケストレイター)との共同作業になることも多い。

 また、イベントのための曲作りもこの系統になるだろうか。オリンピックの開会式や万国博覧会のパビリオン内の音楽、いろいろある。

■CMやゲームなど新しいメディアの作曲家

Hddb 最も現代的なジャンルとして、テレビやラジオのCMのための音楽の作曲家というのも専門的な仕事。15秒から長くて1分ほどの中で、商品を引き立てる音楽を作る。

 むかしは「CMソング」を書くのが主な仕事で、これは前述のメロディ・メイカーの中でも、特にキャッチー(一回聴いただけで人を惹き付ける)で短くて印象的なフレーズを作れる人が求められた。別に8小節や16小節の歌の体を成してなくても、1フレーズだけでもいいわけで、かなりセンスが必要。

 最近では、歌に限らず、CMのバックに流れる15秒なり30秒で世界を作れる音楽が要求されるようになり、その守備範囲も広くなった。単に「楽譜を書いて」「演奏してもらう」という作曲だけでなく、コンピュータでの打ち込みから現実音や声や民族楽器や自然音なんでも「音楽素材」としてコラージュしプロデュースする仕事と言っていいかもしれない。
 
 またパソコン(パーソナル・コンピュータ)やゲーム機の普及に伴って登場した「ゲーム音楽の作曲家」というジャンルもある。

 ゲーム機の黎明期は、音を出す機構(サウンド・ボード)がいたってシンプルで貧弱だったこともあり、単音(ピューン)あるいは2音(ピコピコ)という程度の電子音の組み合わせでどこまで色々なサウンドを作れるかが最重要ポイント。作曲と言うよりサウンド・エフェクト(音響効果)という感じだった。

 しかし、これも日進月歩で技術的な進化を遂げ、やがて電子音の組み合わせでテーマ・メロディやちょっとした楽曲を鳴らせるようになった。そして、それを現実の楽器で演奏した「ゲーム音楽集」がCDとして売れ始めたあたりから、「ゲーム音楽」は大きな音楽マーケットになってゆく。

 このジャンルの作曲家としては、まず最終的な作品がゲーム機から出る「電子音」なので、楽譜ではなくパソコン上の「MIDI」という規格で「音源」を構成することが多い。

 大ヒット・ゲームともなると、ハリウッド映画レベルの制作費が投入されることもあり、時にはオーケストラなど生の演奏を加えたハイクオリティの音楽が供給されることも多くなってきた。

■アレンジャーとオーケストレイター

Cut09 また、「作曲」のサブ(補佐)の仕事をするのも「作曲家」の仕事になる。

 例えば、メロディやテーマだけの「作曲」を補完して、コンサートや舞台や放送で上演できる形に仕上げるのが「アレンジャー(編曲家)」。
 バンドやアンサンブルなど最終の演奏編成にあわせて「楽譜」を書く。

 メロディを思い付く感性としての「才能」ではなく、楽器(その音色や音域、特性やクセなど)の性格を熟知し、ハーモニーやサウンドに関する専門的な知識と経験が必要な「専門職」。時には、予算に応じてエコノミーな編成に、逆にゴージャスな編成にと注文に応じて千変万化にこなす「職人芸」が必要とされる。

 クラシック系音楽では、作曲家本人が自分の曲のアレンジをすべてこなすが、ポップスではアレンジャーは別人であることがほとんど。映画やテレビの音楽などでも(作業時間の短縮と言うこともあり)分業になることが多い。

 その中で特にオーケストラ専門のアレンジを担当するのが「オーケストレイター(管弦楽編曲家)」。
 巨大編成のオーケストラからそのサウンドを百%引き出すのは、かなり専門的な知識とテクニックが必要になるため、映画やテレビなどの音楽でオーケストラを使う場合、オーケストレイターが助手あるいは分業のような形で参加していることが多い。

 それは、クラシック系音楽も例外ではなく、例えば、ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」やバーンスタインの「ウエストサイド物語」などでも、作曲者のスケッチ楽譜を元に専門のオーケストレイターが最終的なフル・スコアを仕上げている。

 さらに、作曲家の「サブ」としては、歌を録音したテープなどから「楽譜」を起こす「採譜」と呼ばれる仕事もある。
 これは、メロディを耳で聴いて、それを音符に書き写すので、「ソルフェージュ」の能力とある程度の「絶対音感」が必要とされる。

 多くは、一本のメロディをドレミファにして書きとめるだけの作業だが、時には、楽譜が出版されていない曲をLPやCDを聴いて「スコア(総譜)」にする高度な技を駆使する猛者もいる。
 こういう技は「耳コピー」と呼ばれ、専門職があるわけではなく、音感のいい若い作曲家がアルバイト的に行うことが多い。

■そのほか

Zones ジャンル分けは難しいが、そのほかにも「作曲家」が必要とされる業界がいくつかある。クラシック系に近いのが、「合唱」あるいは「吹奏楽」のジャンルの作曲家。いわゆるプロフェッショナルのクラシック演奏団体ではなく、高校や大学あるいは社会人などアマチュアのコーラスやアンサンブルのための「新作」を書くもの。

 ただしアマチュアといえどもその裾野は広く(なにしろ全国の中高大学から会社のほとんどに合唱団や吹奏楽団とその予備軍がいるのだ)、かなり演奏レベルも高く、ハイクオリティの作品も生まれつつある。そのため、最近ではこのジャンルを専門とする作曲家も多くなり、逆に「純クラシック系」の作曲家などより遙かに名声と収入を獲得している例も少なくない。

 あるいは「邦楽」というジャンルの作曲も専門化している。これは尺八や琴や三味線などの「流派」ごとに、演奏家が作曲家を兼ねて作曲する例がほとんど。クラシック系の作曲家が「現代邦楽」として新作を作曲することも多いが、邦楽界の独特な世界を描く点で微妙に「温度差」があるのが特徴か。

 また、「校歌」あるいは「社歌」の作曲というのもある。専門学校や企業などの「テーマ曲」的なものまで含めると、かなりのマーケットが存在していると言えなくもない。

 現代の傾向としては、演奏家を全く介せず、電子音やデジタル音源などエレクトロニクス系機材を駆使することを専門とする作曲が増えてきたことだろうか。
 以前は「電子音楽」とか「ミュージックコンクレート(具体音楽)」などと呼ばれたジャンルだが、パソコンやMIDI楽器の進化により、一般家庭で普通に手に入るような機材で「音楽」を作ることが可能になったことが大きい。

 このジャンルでは、単に「楽曲を作る」だけでなく、曲を作るプログラムやメカニズムそのものを「創作」するタイプのクリエーターも登場しつつあり、「作曲」との線引きは難しくなりつつある。

 …と色々なタイプの「作曲家」を挙げてみたが、そのどれかひとつを専門とする作家もいれば、幾つかのジャンルをマルチにこなす作家もいる。個々の音楽ジャンルに上下はないことは言うまでもないし、ある程度の音楽的才能とセンスがあれば複数のジャンルを渡り歩くのは可能。

 ただし、各業界にはそれぞれ「こだわり」があり、ジャンル間の壁というのは意外と厚い。結果、その壁を乗り越えるのは尋常ではない努力を要するので、念のため。

 
■作曲家になるには

Cut18 さて、次に、そんな作曲家になるにはどうしたらいいかと言うと…
 2011年現在、作曲家になるのに免許や資格はいらない。「作曲家です」と言い張れば、誰でも今日から作曲家である。

□純音楽と商業音楽

 ちなみに、音楽のタイプとしては、大雑把に分けて「純音楽」と「商業音楽」とがある。

 「純音楽」は純粋に自己啓発的に書くタイプの音楽。純粋と言えば聞こえは良いが、「音楽的」な以外、何の役にも立たない。対して「商業音楽」は商業的に機能することを前提として第三者からの注文によって書かれるもの。
 早い話が、(身も蓋もなく言ってしまえば)前者は「お金にならない音楽」で、後者は「お金になる音楽」である。

 お金になるかどうか考えずに作曲する…というのは、それだけ聞くと高尚すぎるとも逆に無意味な行為とも思えるが、子供を産むようなものと思っていただければいいかも知れない。
 子供は、一人産んだから幾ら、二人産んだら幾らというような報酬は発生しない。でも、それを無意味と思う人はいないはず。純粋に音楽を作曲するというのはそれと同じだ。

 対して、もちろん人間は生きてゆくためには日銭を稼がなければならないわけで、それをハッキリ前提とするのが「商業音楽」。消費者(聴衆)と商店(演奏家や興行主)および流通(コンサートやCDなど)を把握し、経費や収支を考えながら商品としての音楽を生産する。

 ただし、この両者に明確な一線が引かれているわけではない。純音楽として書かれたソナタや交響曲が幾ばくかの報酬を生むことだってあるし、商業音楽として書いたはずの曲が全く収入を生まないことだってあるからだ。
 そもそも「純音楽の作曲家」の権化と見られるベートーヴェンのような作家でも、オペラや劇音楽や頼まれものの音楽なども書いて報酬を得ていたわけで、どちらか一方だけに特化する必要もない。
 すべての「作曲家」たちは…例えば純音楽八〇%商業音楽二〇%とか、純音楽五%商業音楽九五%というように…双方のバランスを取りつつ音楽を作っているわけだ。

□芸術音楽と娯楽音楽

Binbo2 もうひとつ「芸術音楽」と「娯楽音楽」という分類もある。
「芸術音楽」は純粋に音楽的表現のみを求める音楽。「娯楽音楽」は大衆が愉しむことを前提として作られる音楽。

 これも大雑把に言えば、クラシックの渋い音楽のように、聞いて「わあ、面白い!」というわけではないしCDが売れているというわけでもないが、何百年も聴かれ続けて気むずかし屋の評論家に高評価なのが「芸術」音楽。
 一方で、子供でも大人でも聴けばわくわくしCDが何百万枚も売れてヒットチャートを賑わすのが「娯楽音楽」。

 とは言え、これだって明確な一線があるわけではない。芸術音楽の筆頭であるバッハやベートーヴェンだって聴いて愉しむという点で立派に「娯楽」だし、娯楽音楽の王者であるビートルズやマイケル・ジャクソンは充分「芸術」の域に達しているからだ。

■仕事の形

Cut12_2 さて、もう少し具体的な仕事の話をしよう。
 同じ「一曲」でも、ジャンルによって作曲家の書く曲の大きさ長さなどはまちまちだ。

 コンサートやリサイタル用の作品の場合、通常は一晩のコンサートが1時間半〜2時間ほど。全半後半と別れていることが多く、それぞれは45分前後。
 ということで、コンサート用リサイタル用作品として依頼されるのは、前半あるいは後半の「半分」を占める長さの曲が最も多い。時間にして15分から最大30分くらい。後半のトリを占める作品(交響曲など)で45分前後という処か。

 対して、「歌(ヒット曲)」の場合は、かつてはSP盤のシングル・サイズ「2分前後」というのが(ラジオでディスクジョッキーが流す時の)基本だった。
 その後、LPの登場以降はかなりフレキシブルになり、70年代(プログレッシブロックの時代)にはLPの片面最大20分強という楽曲も試みられた。
 CD以降は、そういう制約もほとんど無くなったが、それでも、一曲は3〜4分(歌で言うと3コーラス程度)といったところが基準だろうか。

Cut 一方、演劇や映画は、その全体の寸法が1時間半から2時間前後(もっと長いものもあるが)、テレビドラマなら30分から2時間ほど。ただし、音楽は、そのすべてに付くわけではなく、オープニングのテーマ(前奏曲)や、シーンごとの音楽、舞台転換のための音楽、間奏曲、挿入歌、など細かい数十曲(インストゥルメンタル)を書く。音楽の分量の目安としては、全体の1/3から2/3くらい。

 例えば、普通の文芸作品の映画だと2時間の映画で30〜45分くらい。音楽主体の映画やハリウッド映画のように音楽がべったり付いているもので1時間強といったところか。
 これも最初から終わりまでずっとベッタリ音楽を付けるわけではなく、シーンやカットごとに、1分から5分くらいの長さの曲を20〜50曲くらい(悲しいシーン、恋愛シーン、というように、多いときは100曲近く)書くのが普通。

 また、テレビドラマあるいはアニメのように、30分ほどの枠が毎週1回で数クール(1クールは3ヶ月)続く…というような作品に付ける音楽もある。
 こちらは劇場用とは少し違い、1回1回作曲家が音楽を作曲して場面に付けるのではなく、最初に様々なシーンやシチュエーション用に100曲近い音楽の断片を作っておき、それを「選曲」して各回のシーンに付けてゆくという形が多い。
 時には場面転換する際の数秒ほどの音楽(ブリッジ)から、擬音に近い(ガーンとかチョンというような)短い音楽なども必要とされる。

 ちなみに、映画やテレビ番組の場合、本編のBGMに付ける「音楽」のほかに、主題曲(オープニング)やエンディング曲、あるいは劇中歌に別のアーティストの楽曲が使われることが少なくない。これは「タイアップ」あるいは「タイアップ曲」と呼ばれる。
 映画やテレビ側は印象的な楽曲を制作費ゼロで手に入れられ、レコード会社側はアーティストの「シングル曲」を番組に乗せて宣伝できる…という双方の思惑が「手を結んだ(タイアップした)」もので、実際、ヒット曲を生む土壌になっている。
(ただしこれは、「良い曲は繰り返し聞かれる」…と言うのを逆手にとって、最初から「繰り返し聞かせる」ことで良い曲にでっち上げてしまうわけで、国によっては嫌われている手法らしい)

■収入の形

Scoresw 次に、「お金」の話も少し。
 作曲家への収入の形は、「直接的」なものと「間接的」なものがある。

 同じ音楽家でも、例えば演奏家は、一回の演奏でギャラがいくら…というように直接的な収入に結びつく。一回演奏して、その1回分のギャラをその場でもらう。ストリート・ミュージシャンのように、その場で「おひねり」をもらうのが、おそらく一番古く確実な収入の形。録音スタジオに呼ばれて演奏するスタジオ・ミュージシャンもそれに近い。

 一方、一般的なサラリーマンのような職業は、一日働いて幾ら…というような直接的な収入はない。毎日の仕事の成果がひと月に一度「月給」として支払われる。定期的にある程度定額の収入が確保される。
 あるいは、農業のような場合。これは1日働いて幾ら…という収入の形はない。種を植えて、それに水をやって、害虫から守って、収穫して、商品化して、売って…そこで初めて収入になる。

 作曲家の収入で「直接的」なものは、作曲を頼まれたときの「作曲料」「委嘱料」と呼ばれるもの。純音楽にしろ商業音楽にしろそれは同じだ。

 これは、どういう場で演奏される、どのくらいの規模の、(どういう内容の)、どういう長さの音楽を、(どういう形で)、いついつまでに「作曲する」…という注文を受け、それを承諾したときに発生するもの。
 クラシック系の作品(オーケストラ曲や室内楽曲あるいはソロ曲など)は、オーケストラや演奏家あるいは財団や放送局などの団体から「委嘱」されれば、この「作曲料」「委嘱料」が発生する。

 ただし、金額はまちまちで、本来なら「(基本時間給X作曲にかかる時間)+必要経費」がもらえればベストだが、こればかりは最低金額の保証もない。当然ながら有名作曲家や大家は高額だが、新米作曲家などの場合は低額になる。
 個人的経験では、上は100万〜200万前後、下は一ケタ万円(しかもチケット現物支給)。小品の場合は数千円というのもあったし、全くもらえなかったことも数多い。

Cut10_2 演劇や映画テレビなどの作曲は、対象となる舞台や放送のために書くので、これはかなり確実に「作曲料」がもらえる。(ただし赤字でもらいはぐれると言うことはあるが)。
 ただし、作曲するだけではなく、それを「楽譜」にし、最終的にスタジオで「演奏」し「録音」し「編集」する必要があるため、「作曲」はその一部。作品の「音楽総予算」を、何分の一かずつ分け合う形になる。さらにそれらを統括する音楽事務所との「契約」で、「手数料」がざっくり引かれるので念のため。手取りとしては、映画一本で数十万から数百万といったところだろうか。

 一方、ヒット曲の場合は、ちょっと微妙だ。歌手や作詞家あるいはレコード会社から指名されて作曲すれば「作曲料」が出るが、複数の作曲家が書いた何曲かの中から「選ばれる」コンペ(競合)形式も多い。
 つまり、採用されればCDに収録されるが、されなければそのままボツ。逆に、こちらからお金を出して「曲を使ってください」と売り込みをかけることも少なくない。

 それじゃあ収入にならないじゃないか…とお疑いになるのは当然だが、それでも「損して得取れ」のことわざの通り、作曲の場合は次に話す「間接的」菜収入、つまり「印税」が発生するのである。

□間接的な収入「印税」

Jasracmarch 音楽を作曲する場合に発生するのは「作曲料」だが、その音楽は「演奏」され、「放送」され、「上演」され、「録音」され、「出版」される。その場合に発生するのが、著作権使用料(俗に言う「印税」)というもので、これが「間接的」な収入だ。

 上記のヒット曲なら、当然第一段階で「CD」になり販売される。この場合、通常CDの単価の6%ほどが作家の取り分となる。
 歌の場合は「作詞家」と「作曲家」がいるので50%50%(実際には音楽出版社や事務所などとの契約で変動あり)。シンプルに例えば1000円のシングルCDが1枚売れたとすると、作曲家に30円。ただし2曲入りならその半分の15円。10万枚売れて150万円というくらいがヒット曲の範囲内。

 クラシックや映画音楽の場合は、作詞家がいないので作曲家の総取りだが、こちらはヒット曲ほど枚数が出ないので、2000円のCDが2000枚売れて24万円というくらいがヒットの範囲内。
 ただし、これは作曲家が一人の場合。4曲あるいは6曲入っている場合、そのまま1/4(6万円)、1/6(4万円)になる。悲しい数字である。

 また、演奏や上演あるいは放送の場合は、著作権協会(日本ではJASRAC:日本著作権協会)が規定の著作権使用料を算出して使用団体・使用者から代金を徴収し、会員となった作曲家に分配する。その金額は、有名作曲家とか無名作曲家に関係なく、曲の長さ(5分以下、5分以上、10分以上…というように5分刻み)と上演方法によって算出される。

 音楽ホールの場合なら入場料と入場者数(無料音楽会も聴衆ゼロでも、使用料ゼロではない!)、放送の場合はNHKか民放か全国放送か(作曲家と作品名を明記した放送かどうか)などで算出方法が色々あるらしい。ちなみに外国で演奏上演放送されると、その国の著作権協会のレートで算出された使用料がJASRACを通じて入金される。
(ただし、千人ほど入るコンサートホールでオーケストラ作品が演奏されても、使用料自体は数千円から一ケタ万円というレベル。演奏会収入で食べてゆくには、世界中で毎年数百回数千回上演されるような曲を書く必要がある)

Cut06 さらに、テレビ番組やビデオなどで(作品名や作曲家名を明示せず)BGM的に音楽の一部が使われた場合の使用料も規定があるほか、ネットなどでの配信、カラオケでの使用などもカウントされる。

 ただし、放送局やカラオケショップなどは一曲一曲「作品」と「作曲者」をカウントするわけにも行かないので、年間いくら(おおよそ放送事業収入の1.5%)という形で著作権協会に使用料を支払い、それを作家ごとの分配率にあわせて配分している。

 このように、著作権協会に入会した作曲家に関しては、登録した楽曲が世界中のどこで演奏・上演・放送されても、その規定に応じた「使用料」が徴収され、集計され、管理手数料(曲種によってまちまちだが10数%から20数%くらい)が差し引かれた金額が、3月6月9月12月の年4回会員に「分配」される。

 JASRACに入ってくる年間の総使用料は1000億円前後。分配される金額はそれこそ作曲家によってまちまちで、ビートルズやマイケルジャクソンなど年数十億円という猛者もいるものの、クラシックの有名作曲家(シベリウスやラヴェルなどの著作権がまだ生きている頃)で年2億円前後、ヒット曲作曲家で年数千万、プロの作曲家として知られている人で年数百万といったところだろうか。

 ちなみに、日本でこの使用料収入が最も多いのは、海外で上映され放送されDVDなどで販売されるようなアニメや映画などの音楽の作曲家とか。特に、ヨーロッパやアメリカで毎週テレビ放送される…というような番組のテーマ曲が一番の稼ぎ頭らしい。
 ポップスのヒット曲の方は、日本国内にとどまる限り数百万枚のレベルなので、全世界で数千万枚とか数億枚というアーティストにはかなわない。ただ、普通の人が聴いて「ああ、あの曲」と思い出せるくらいのレベルのヒット曲なら、老後の小遣いに困らぬ程度の収入には繋がるらしい。
 一方、クラシック系の方は……言わぬが花、だろう。

■死後50年

Asahi11_2 ちなみに、このような「音楽著作権」のシステムの基本は、「質より量」。「質」は問われず「量」だけですべてが判断され、金額が算出される。

 結果、ポップス的な「歌」の作曲家が莫大な利益を保証されるようになったのと逆に、貴族など特権階級を相手に利益を得ていたオペラなどクラシック界の作曲家たちは、演奏される回数とメディアの少なさによってジリ貧の現実に立ち向かうことになったのは皮肉なことだった。それは巨大な恐竜が絶滅し、小さな哺乳類が台頭したような歴史的事件と言っても良いかもしれない。

 それでも、ドイツ・オーストリア圏での著作権協会の設立に貢献したのは、リヒャルト・シュトラウスらクラシックの大御所作曲家たち。彼らは、生きている間に収入を得るということには無関心で、面白いことに「著作権は作家の死後も50年間、存続する」という項目を確立させた。

 作家が死んだら著作権も消滅して良いような気もするが、これは「作曲家が死んだ後も未亡人や遺児が困らないように」という(ちょっとプライベートかつ身勝手な)発想からだったようだ。

 これのおかげで、クラシックの主だった作曲家たちは晴れて「著作権フリー」「使用料ゼロ」のパブリック・ドメインとなり、当のシュトラウスら(当時の)現役老人作曲家たちの収入は、死後50年確保されることになったわけだが、ちょっとこれは複雑な気分も少し。

 個人的にもちょっと「?」が付くほどなので、当然ながら、この「死後」規定は国によってとらえ方が様々。もともと作家の遺族への収入確保で始まったものだから「30年くらいでいいんじゃない」「いや、70年くらいは必要だ」と喧々がくがくの議論の末、現在では(ベルヌ条約という国際的な取り決めで)「最低でも死後50年」と決められているそうだ。

Cut15 ただし、遺族ならぬ「出版社」や「作品の権利を持っている団体」としては、例えば毎年何億円もの著作権収入のある稼ぎ頭の曲が、ある年を境に「著作権切れ」で収入ゼロになるのは大損害。当然ながら著作権団体に「70年に延長しろ」「いや、100年でいい」という圧力をかけるわけで、その成果もあってか最近、欧米諸国では「70年」が基本になりつつある。(日本は現状で「50年」)

 ちなみに、この「死後50年」というのは、作曲家が死んだ日から50年間ではなく、その年から数えて50年めの12月31日まで。1900年7月1日に死んだ作曲家なら、50年の保護期間は1950年12月31日まで。1951年1月1日から著作権フリーになる。

 また、第二次世界大戦の間は著作権徴収が正常に行われなかったという視点から、国によってその期間を無効とする「戦時加算」が行われる。例えば、イギリスやオーストリアの作曲家の日本での「死後50年」の保護期間は、「およそ10年(3794日)」加算され、60年半ほどになる。

 
■分配

Cut06_2 音楽における著作権の「金額」や「分配」などの設定は、先に出た「ベルヌ条約」などで一応は国際的な基準があるものの、各国の音楽事情によって(あるいは時代の変化によって)事情はまちまちだ。

 例えば、最近でも携帯電話の「着メロ」が登場したとき、あれも立派な「楽曲」の「演奏」だから使用料を徴収しようということになった。それは(異論があるとしても)妥当だとして、じゃあ、一回ピポパポとなっていくら徴収するかというのは誰にも分からない。
 結果、そこで「無料」とするのと一回「1円」にするのと「10円」にするのとでは、現状では(おそらく)数十億円の差が生じるわけだ。

 同じように難しいのは、とにかく片っ端から音楽の使用料は徴収したとして、その「分配」の方法だ。世界中のどこでどんな形で音楽が鳴ろうとも(携帯の着信メロディだろうがTVのBGMだろうが鼻歌だろうが)、その権利者(作曲家と作詞家)を割り出して、演奏した秒数(分数)を掛けて100の徴収料(から手数料を抜いて)分を作家ごとに分配するのが理想。
 でも、世界中のあちこちや放送局や個人の携帯で誰の音楽が何回鳴っているか正確にカウントするなんて出来るはずもない。

 そこで、放送局などは放送収入の何%、レストランやカラオケ店などでも規定の月額料金などという形で「ざっくり」徴収することが多い。当然ながら、そこには曲と回数などのデータはない。

Cut07_2 そういう金額をどうやって「会員(作曲家や権利者)」に分配するかというのは、それぞれの著作権団体によって色々らしい。
 多くの場合、サンプリング調査(一定の期間を区切って、そこで放送上演された作品をカウントする)をして作曲家ごとにランク付けをし、Aクラスの人は何%、Dクラスの人は何%というように、徴収金を分配するシステムのようだ。

 ただ、先のクラシック作曲家の例を挙げるまでもなく、そういった「規定」は協会の役員(委員)による会議で決められることが多いので、当然ながら「ポップス曲の作曲家」が委員に多ければ、ポップス系に有利な分配に、「クラシック系の作曲家」が会長だったりすればクラシック系に有利な分配になるようだ。

 実際、クラシック音楽の本場オーストリアやドイツではクラシック系が微妙に有利(「初演」割り増し金などがある)で、逆に日本では戦後の黎明期に「演歌」が果たした役割が多かったため、演歌系歌謡曲のような音楽の作詞・作曲がもっとも有利な規定になっている感がある。

 もともとベートーヴェンを演奏したら幾らでビートルズを演奏したら幾ら…など誰にも決められることではないので、色々な委員の意見の調整の中から「規定」が生まれるのは当然と言えば当然。しかし、そこで「10円」と決まるか「100円」と決まるかで、収入が一桁変わるのも事実。

 気に入らなければ、自分で会社を設立して自分の曲の権利を管理し、徴収金額を自分で決めるのも一考。収入が年数億円規模になりそうだったら、トライしてみるのも良いかもしれない。

■ネット時代の音楽事情

Finale07 と、昨今ようやく「著作権」という概念が一般に浸透したところで、それを覆すようなテクノロジー「インターネット」が登場しているのは御存知の通り。

 今までは、音楽の複製には「レコード盤」や「CD盤」のような、個人では製造不可能な媒介を使って工場で大量生産し大量頒布する…というのが「音楽ビジネス」の基本だった。それがインターネットによる「ネット配信」という技術によって、「複製」と「大量頒布」はほとんどコストゼロになった。これは衝撃的なことだ。

 おかげで確実に最近CDが売れなくなっている、と言う。そう言えば私も、かなり買う量が少なくなった。でも、「音楽」を聴かなくなっているのかと言うと、そういうわけではない。むしろ逆だ。

 もともと音楽は、ほんの百年ほど前まで、演奏される端から大気に消えてゆくものと決まっていた。だから、誰もそれを保存したり売ったりなど出来なかったのに、ある時誰かが、演奏家たちを「ホール」に封じ込め、それを聴く座席に値段を付けた「チケット」を売ろうと思い付いた。それがすべての始まりである。

 さらに近代になると、「録音」という技術が登場。音楽をレコード盤に封じ込め、それを大量に複製して世界中にばらまくことで莫大な利益を得ようとする悪魔たちが現れた。かくして大気に消えっぱなしだったはずの音楽は一躍巨大ビジネスになったわけだ。 

 でも、よく考えてみれば、お金で売買されているのは「チケット」という紙や「CD」というプラスチック製品であって、決して「音楽」そのものではない。
 現代では金科玉条のように言われている「著作権」だって、ほんの百年ほど前に誰かが思い付いた単なる「ビジネス上の約束事」。その約束事のおかげで、一部の特権階級向けの芸術音楽より、何百万人という庶民向けの娯楽音楽が「質より量」の原理で莫大な富を生むようになった。ただそれだけのことだ。

 所詮、紙やプラスチックを大量生産し、電気で水増し増幅する「複製」作業の過程で「お金」が発生しているだけのバブル現象。音楽はネットの海に浮遊するようになり、逆に「大気に消えてゆく」という元の姿に戻ろうとしているのかも知れない。

 人間がある限り音楽には未来があるが、
 さて、作曲家に未来はあるのだろうか……

 というわけで、今回はここまで。

         *

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ウィーン少年合唱団

5月3日(火)14:00 サントリーホール
5月4日(水)14:00 サントリーホール
5月15日(日)14:00 東京オペラシティ
6月5日(日)14:00 東京オペラシティ
6月10日(金)14:00 東京オペラシティ
6月11日(土)14:00 東京オペラシティ
6月12日(日)14:00 東京オペラシティ

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2011/03/10

クラシック比較音楽史

Historym クラシック音楽というと基本的に「西洋」のもの。西洋の歴史とはリンクするものの、「日本で言うとどのくらいの時代の音楽ですか?」と改めて聞かれて即答できる人は少ない。

 確かに、普通の人なら日本史の年号の幾つかは…「鳴くようぐいす平安京(794)」とか「いい国作ろう鎌倉幕府(1192)」…というように記憶している。そして、クラシックにあまり興味のない人でも「モーツァルト没後200年」とか「ショパン生誕200年」というような話を耳にしたことはあるはず。

 ただ、それを相互比較して並べてみることはしない。特に、日本は江戸時代まるまる「鎖国」で西洋文明と没交渉だったので、あまりリンクする意味がないと言うこともあるのかも知れない。

 でも、ある音楽が生まれた頃、それを生み落とした社会や遠い極東の国「日本」がどんな時代だったのか?というのは、なかなか想像力をかき立てられる心惹かれる題材だ。

 大まかに言えば、
 バッハが江戸の元禄時代、
 モーツァルトやベートーヴェンは江戸後期。
 明治時代になった頃がワーグナーやブラームス
…といった具合なのだが、そう答えると「意外に新しいんですね」という人と、逆に「意外と古いんですね」という人がいるので面白い。

        *

□西洋と東洋との出会い

Gungakub 日本とクラシック音楽の「公式な」出会いは、ざっと140年ほど前。(これも「意外に新しい」か「意外に古い」かは人それぞれだ)
 鎖国が解かれた「明治」の初め、イギリス海軍から薩摩藩に軍楽隊の楽器が送られたのが明治2年1869年頃。日本に初めて(きちんと)西洋音楽が入ってきたのはこの辺が起点だろう。

(そのあたりの、西洋音楽(特にオーケストラ)が日本に浸透していった歴史に関しては、以前書いた「日本のオーケストラ事始め」を参照のこと)

 もっとも、さらに遡って「非公式?」に西洋音楽が入ってきた…ということになると、織田信長の時代だろうか。
 鉄砲伝来が1543年、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の伝来に来日したのが1549年あたりだから、おそらくこの頃、西洋楽器も日本初上陸を果たしたものと思われる。

Nobnaga 特に織田信長は、舶来もの好きということもあって、安土城(1579年完成)で何度か西洋音楽を聴いたという記録がある。(安土城には、「日本史」を著した宣教師フロイスが出入りしていたし、キリスト教に興味を抱いていた信長はイエズス会と交流があったため、その関係らしい)

 曲としては、おそらく小編成の合唱隊(コーラス)が主で、楽器は、南蛮船に積まれていたオルガンやチェンバロあるいはスピネットのような鍵盤楽器、そしてリュートやヴィオール系(あるいはハープ)などの弦楽器あたりだろうか。
(一説には、オペラのような音楽劇が上演されたという話もあるそうだから、演奏や発声の手ほどきを受けた日本人もいたはずで、彼らに伝承された「西洋音楽」がその後どうなったか想像すると楽しい)

Despreza 当時のヨーロッパは、中世ルネッサンス音楽の時代。信長が聴いたのが誰の作品か知る由もないが、作曲家としてはデュファイ、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナあたりの同時代作曲家たちということになる。

 この信長亡き後、豊臣秀吉も、後を継いでしばらくはイエズス会系の「西洋音楽」を好んで聴いたと伝えられる。
 1582年(天正10年)には、4人の少年を「天正少年使節」としてローマに送っているから、そのまま西欧諸国との交流が始まっていれば、音楽もどっさり輸入できたに違いない。

 しかし、秀吉はキリスト教に対して「布教と称して日本を植民地化しようとしているのでは?」という疑問を抱き始め、1587年(天正15年)バテレン追放令を出して、キリスト教を排斥してしまう。

Tensho 結果、先の少年使節団が帰国したとき(1590年)には、彼らが持ち帰った西洋文化を吸収する土壌は残念ながらなくなっていたのは、残念と言うしかない。(それでも、帰国後すぐ、聚楽第で秀吉にジョスカン・デ・プレの曲などを演奏して聴かせたと伝えられるのだが)

 そして、これを最後に、日本と西洋音楽とのリンクは(その後280年にわたって)途切れることになる。

□禁令から鎖国へ

Tokugawa やがて、関ヶ原の戦い(1600)を経て徳川の天下になり「江戸時代」が始まるが、残念ながら家康の取った政策は「鎖国」。信長で開かれたかに見えた「西洋音楽」の輸入は完全に途絶えてしまう。

 皮肉なことに、この頃がちょうど、イタリア・オペラの発祥の時代。イタリアはフィレンツェで、ギリシャ悲劇を歌と音楽付きで上演する形が「オペラ」となり、最古のオペラが生まれたのがこの頃。
 現存する(そして現代でも上演される)最古のオペラとして知られるモンテヴェルディの「オルフェオ」が生まれたのが慶長11年(1607年)。まさに江戸時代に入ったと同時くらいの出来事だ。だが、その頃「禁教令」が敷かれ、「鎖国」状態になってゆく日本には知る由もない。

Kabu ただし面白いことに、日本でもこの時期、出雲の阿国を元祖として(日本のオペラとでも言うべき)「歌舞伎」が誕生している。
 京都の北野天満宮で出雲の阿国が初興業を行ったとされるのが慶長8年(1603年)。当初は女性が男装して演じるものもあったが、現在のように男性が女装しての「歌舞伎」(野郎歌舞伎)が確立したのが1652年(慶安5年)頃。

 オペラも、フィレンツェで産声を上げてから、その成功が話題になり、ヴェネツィアを中心に専門のオペラ劇場が幾つも建てられ、モンテヴェルディらによって多くの新作オペラが制作されるようになるのがこの頃。人間の嗜好は、地球の裏側でもシンクロするものらしい。

Yazhasi 一方、江戸では同じ時期に、「六段の調」や「千鳥の曲」「乱輪舌(みだれ)」などの名作で知られる八橋検校(1614〜1685)が登場。箏曲という、言わば「器楽音楽」の世界で独自の音楽文化が花開くことになる。
 その頃の日本には「作曲家」という概念はなかったが、作曲した作品が300年以上後の世にも残っている…という点では立派な「Japanese Composer」の始祖と言えるだろうか。

(一説には、この「箏曲」という器楽音楽の開祖は、何らかの形で信長秀吉時代に伝わった「西洋音楽」の片鱗を体験しているのではないか?という。
 そう言えば確かに、変奏という形式や段組みの発想には、西洋音楽の変奏曲形式やキリスト教宗教音楽の儀式構成の匂いがする。それは実にわくわくする想像だ。)

Jsbach_1 その八橋検校が亡くなった年(貞享2年。1685年)にヨーロッパでは「クラシック音楽の父」J.S.バッハ誕生。

 日本では、戦がなくなって一世紀ほどがたち、確固たる「江戸文化」が根付いた泰平の世の真っ只中。5代将軍綱吉の時代(1680〜1709)で、赤穂浪士の討ち入りの年(元禄14年:1701年)にバッハは16歳だ。
 そして、バッハの創作絶頂期は、近松門左衛門が「曽根崎心中」(1703)から「女殺油地獄」(1721)までの名作を書いているあたり。「マタイ受難曲」(1727)が、8代将軍吉宗の頃だ。

Mozartaa そしてモーツァルトは…というと、もう江戸時代も後半の9代将軍家重の世の生まれ(宝暦6年:1756)。上田秋成が「雨月物語」(1768)を書いたり、杉田玄白が「解体新書」(1774)を著したり、平賀源内がエレキテルを研究していたあたりが彼の時代。
 死んだのは寛政3年(1791)。11代将軍家斉の御代。ちなみに、モーツァルトが死んですぐ(1794年。寛政6年)江戸に謎の絵師:東洲斎写楽が出現している。

□ロマン派から近代へ

Ludvig1 19世紀(1800年代)になると同時に、クラシック音楽界最大の革命児ベートーヴェンが本格的な作曲家活動を開始する。
 時代的には江戸の後期。十返舎一九が「東海道中膝栗毛」(1802〜1814)を書き、葛飾北斎が「富嶽三十六景」(1820)を描き、滝沢馬琴が「里見八犬伝」(1814〜1842)を著し、伊能忠敬が日本地図を作ったりしている(1800〜1816)頃ということになる。

 ショパンがパリで活躍している時代(1830年代)はというと、「ピアノ」という工場生産必須の鋼鉄製の楽器が「近代化」の象徴として音楽会を席巻。ピアノから歌からオーケストラそしてオペラまで書ける「作曲家」が、西洋音楽文化のヒーローとして活躍し始める。

 ベルリオーズが幻想交響曲(1830)で近代オーケストラの扉を開き、パガニーニやリストがヴァイオリンおよびピアノで演奏技巧の極致を極めるのもこの時代。

53zgi その頃の日本はというと、同じく近代化への流れが起き始めている頃。イギリスを初め外国船がやってきて、シーボルト事件などが起こり、徳川幕府の屋台骨が怪しくなり始める。広重の「東海道五十三次」(1833)などがこの頃だ。

Wagner そしてロマン派全盛の時代になり、ワーグナーがせっせと楽劇を作っている頃、日本では幕末になる。
 大政奉還がなされ坂本龍馬が暗殺された年(慶応2年。1867年)にヨハン・シュトラウスの「美しく青いドナウ」が初演され、時代が明治になった翌年(明治元年。1868)には、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が初演され、ブラームスが「ドイツ・レクイエム」を発表している。

 近代化に向けて森鴎外らのドイツ留学が始まった明治17年(1884)はワーグナーの死の翌年。鴎外らが日本に最初に「西洋音楽を代表する理想的な作曲家」として伝えたのはこの「ヴァーグナー(ワグネル)」だった。
 そのため、日本初のアマチュア・クラシック音楽サークル(慶應義塾)は「ワグネル・ソサイエティ」と名付けられることになる。

□現代へのリンク

Nichiro そして、日清戦争が始まった年(明治27年。1894)に、ドビュッシーが「牧神の午後への前奏曲」を発表。クラシック音楽は「近代・現代」の時代に突入する。

 ロマン派までの時代は、最も速い乗り物が「馬車」だったものが、19世紀半ばに蒸気機関車が旅客を運ぶようになり、19世紀末には自動車が走るようになった。人間が体感するスピードが、「馬」から「機械」へと変わったわけだから、音楽も大きな変動を迎えることになるのは当然と言うべきだろう。

 夏目漱石がロンドン留学した1900年(明治33年)は、マーラーが交響曲第5番、シベリウスが交響曲第2番を作曲していた頃。
 少し遅れて山田耕筰がドイツ留学したのが明治43年(1910)。その翌年(1911)マーラー死去。

 かくして20世紀を迎えると、自動車や飛行機の時代となり、さすがにクラシック音楽の本体である「ロマン派系作品」は時代に取り残されて行く。
 しかし、一方で「録音」の発明(ベルによる電話の発明が1876年、エジソンの録音機が登場したのが1877年)によって、演奏される端から大気に消えて行くのが宿命だった「音楽」にとっての新たな時代が切り拓かれることになる。

Record 1907年(明治40年)頃には円盤式のレコードが普及し初め、1909年(明治42年)には日本でもレコード(SP盤)が製造・発売。
 やがてマイクロフォンで電気録音し、その音を円盤状の「レコード盤」に記録する技術が開発されたのが1925年。

 映画のフィルムに光学的に音声信号を収録する方法(サウンドトラック)が開発され、音楽は映像と共に記録されるようになるのが1927年。
 そして1938年にはドイツで「磁気テープ」が開発され、音楽は「編集」した上で「記録」出来るようになる。
 
Hiroshima_2 シェーンベルクらが「無調音楽」や「十二音楽」を主唱して「現代音楽」の時代に突入するのが、まさにこの時期。
 いわゆる「クラシック音楽」はこのあたりを境に衰微し(ただしレコードの出現によって「再現芸術」として別の歴史を刻み始めるのだが)、世界と音楽は、第1次世界大戦(1914〜18)、ロシア革命(1917)を経て第2次世界大戦(1939〜45)へと向かう激動の時代に吸い込まれて行く。

          *

メトロポリタン・オペラ

プッチーニ「ラ・ボエーム」
・6月08日(水)19:00 NHKホール
・6月11日(土)15:00 NHKホール
・6月17日(金)19:00 NHKホール
・6月19日(日)19:00 NHKホール

ヴェルディ「ドン・カルロ」
・6月10日(金)18:00 NHKホール
・6月15日(水)18:00 NHKホール
・6月18日(土)15:00 NHKホール

ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」
・6月09日(木)18:30 東京文化会館
・6月12日(日)15:00 東京文化会館
・6月16日(木)18:30 東京文化会館
・6月19日(日)12:00 東京文化会館

MET管弦楽団特別コンサート
・6月14日(火)19:00 サントリーホール

▼ちなみに、今回のメトロポリタン・オペラ来日公演の3演目は、ちょうど30年差で3つの時代を描いていて、ちょっと面白い。順番は、もちろん「ルチア」「ドン・カルロ」「ボエーム」。

Lucia

ランメルモールのルチア
・ドニゼッティ作曲。1835年、サン・カルロ劇場(ナポリ)で初演。
 →書かれたのは、日本では江戸時代中期。11代将軍:徳川家斉の世。この頃の主な事件としては、天保の大飢饉(1832)、大塩平八郎の乱(1837)など。初演された1835年はハレー彗星出現の年でもある。
 ちなみに、原作となる物語の舞台は17世紀のスコットランド。日本では江戸時代初期。ただしW.スコットの小説では18世紀に置き換えられている。

Calro

ドン・カルロ。
・ヴェルディ作曲。1867年、パリ・オペラ座で初演。
 →初演は日本では江戸時代末期。15代将軍:徳川慶喜の世。大政奉還の年(1867)であり、坂本龍馬が暗殺された年でもある。翌1868年が明治元年。ヨーロッパではカール・マルクスが「資本論」を発表し、ノーベルがダイナマイトを発明し特許を取得している頃。
 こちらの舞台は、16世紀のスペイン。実在のスペイン国王フィリペ2世の王子ドン・カルロが主人公。日本では織田信長らが群雄割拠する戦国時代の真っ最中だ。

Boheme

ラ・ボエーム
・プッチーニ作曲。1896年、トリノ・レージョ劇場で初演。
 →初演は日本では明治29年(1896)。日本は近代化から富国強兵政策を経て軍国主義に走り出した頃で、時代としては日清戦争(1894〜95)の直後。ちなみに、この年の4月に近代オリンピック第一回大会がアテネで開かれている。
 オペラの舞台は1830年代のパリ。登場人物は貧しい若者たち。時代的には先の「ルチア」が初演された頃で、日本では江戸時代中期。

 …と、無駄な知識を加えて改めてそれぞれの作品を見ると、背後になんとなく時代が聞こえてくるような気がしてくる…のではなかろうか。

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2011/04/10

音楽の力・夢の力

Tree 2011年3月11日のあの時間(14時46分)は、東京渋谷の仕事場でいつものように仕事をしていた。
 最初にゆっくりした大きな振幅の揺れが始まり、やがて尋常でないひどさになり、ピアノや机が軋み始め、壁から本やCDが落ちてきた。「震度5強」。東京でこれほどの揺れを体験するのは、五十余年の人生で初めてだった。

 数分で揺れは収まったが、しばらくすると再び大きな揺れが始まったので、iPhoneと部屋の鍵だけを持って外に出た。仕事場のあるマンションは築40年以上の古い建築だが、一応は堅牢に出来ているので中に居た方が安心……。と理屈では分かっていても、人間、本能的に閉鎖空間から逃げ出そうとするものらしい。それは誰もが同じだったらしく、何人もの住民が外に出ていた。

 実家に何度か電話して母の安全を確認してから、ネットで地震速報を検索してみた。最初の速報では「三陸沖」が震源で、マグニチュード「7.9」。そうしている間も大きな余震が続き、地面はしばらくゆらゆら揺れてていた。

 部屋に戻ると、天井まで積み上げていたCDや本が雪崩となって崩れ、足の踏み場もない惨状になっていた。さいわいコンピュータなど機器の類に被害はなかったので、すぐさま電源を落とし、部屋の復旧はあきらめて、すぐに実家に戻った。
(こちらは徒歩圏内なので問題なかったが、東京は電車やバスなど交通機関がすべてストップ。外出先から自宅まで徒歩で帰る「帰宅難民」の列が,夜中まで続いていた)。

 その後、徐々に分かってきたこの震災による惨禍の圧倒的な大きさは御存知の通りである。
 そして、その日は、日本の歴史に深く刻まれる日になった。

         *

Sinsaia_2 あれから、ひと月がたった。
 宮城・福島・岩手・茨城の海岸線沿いの幾つかの街は壊滅状態となり、当初は数千人と言われていた死者行方不明者は、最終的には3万人に迫る勢いだ。
 震度は「9.0」と修正された。日本の観測史上では最大。二十世紀以降世界中で発生した地震としても4番目の大きさ。この地震で、日本列島は太平洋側に最大5mほど動き、1.2mほど沈下し、さらに地球の自転も100万分の1.8秒ほど早くなったのだそうだ。

 被害は「地震」そのもののより、その後に起こった津波によるものが甚大だった。地震直後のテレビは、海から押し寄せる物凄い高さの津波の映像を映し初め、その後、堤防を乗り越え、街を吞み込み、車や家を押し流す驚愕の災害シーンを見せつけられることになった。
 そして、半世紀以上前の戦争の時に聞いた(白黒写真でしか記録されていないような)空襲の惨劇と一面の焼け野原を超える未曾有の惨禍を、日本中世界中の人々が目にすることになった。

 一方、励まされるニュースもあった。世界中からすぐさま「日本を支援する」声が上がり、多くの人たちがエールを送ってくれたことだ。(震災直後の20日には、キース・エマーソン氏も「The Land of Rising Sun」というピアノ曲をYou Tube にアップして、日本への支援を呼びかけてくれている)

 また、この未曾有の大災害にもかかわらず、大混乱や暴動略奪なども起きず、泣き叫ぶ人もおらず、みんな冷静で、物資のない商店でも静かに列を作り、お互い譲り合っている(ように見える)という点に、世界中が驚愕し「日本人は凄い」という声が広がった。
 これは、最近すっかり自信を無くしかけていた日本人の誇りをちょっぴりくすぐる(かすかな)「Good News」だった。

 ところが、そんな日本人への好感も、津波被害を受けた原子力発電所の問題が絡んで怪しくなる。あれ以来、制御不能になった原発(福島第1原発)は、まるで「荒ぶる神」のように暴走し放射能をまき散らし続け、多くの人間の必死の努力にもかかわらず、未だに収拾の見込みが立っていない。

 テレビでは「安全です」あるいは「直ちに身体に影響はありません」などと繰り返し伝えられたが、外国人たちは一斉に日本を捨てて海外に逃げてゆき、あっと言う間に東京はゴーストタウンのようになってしまった。
 震災から4日めに大阪行きの新幹線に乗ったとき、乳幼児を抱えた夫婦や大きな荷物を持った家族で満員だったが、これは明らかに「放射能疎開」ということなのだろう。

 大阪では「このまま関西に居たら?」と何人かに囁かれた。関西から見れば,東にある地域は全て心配の圏内。「東京」もその中に含まれる。
 さらに海外から見れば、その大阪や四国九州あたりも「日本」という点では同じ心配の圏内。海外に知人友人を持つ人はみな「外国に(逃げて)来なさい」と言われた(今でも言われる)そうだ。

 現実的には、すぐさま関西や海外に「避難」するほどの実害はないにしても、外国における必要以上の心配を笑うことは出来ない。
 なにしろ、唯一の被爆国として「原爆許すまじ」を国是としていながら、「地球を放射能汚染させる」という大罪を(想定外の災害の結果であり、まったく望まなかったにも関わらず)犯してしまったのは事実だからだ。

 確かに日本は今回の大震災の「被害者」だが、世界から見れば、地球環境における巨大な厄災をもたらした「加害者」にもなってしまったわけだ。これは、もう取り返しが付かない現実と言うしかない。

         *

 その二重三重に起こった(起こりつつある)被害のあまりの大きさに「音楽」は声もない。
 そして、音楽界でも「被害」は深く静かに進行している。

Musab_2 今回の震災で、都内でも天井が崩落して死者を出した九段会館の惨事が報じられたが、そのほかにも天井や壁の崩落が起きたホールや会館は少なくない。

 実際、震源地から遙か離れた首都圏近郊の「ミューザ川崎」ホールが、天井や壁が崩落して半年以上使用不可になった。コンサートの時間帯ではなかったので人的被害はなかったが、まだ新しく当然耐震構造も供えていただろうホールが、もし客席に客が居たら大惨事になっていたかも知れないレベルの被害を被った事実は、今後いろいろな波紋を広げそうだ。

 私の周辺でも、3月末にCD録音を予定していた「秩父ミューズパーク」が、震災の被害で使えなくなり、日程は全てキャンセルになった。山の上の風光明媚な場所にあるホールなのだが、据付の地震計では震度7を記録し、ホール建物にもかなりの損害を受けたそうだ。

 そして、震災の後に広がった交通網の寸断により、東京でも3月中のコンサートはほぼすべてキャンセルとなった。(ただし、震災直後の11日12日は、意外と「中止にさせる余裕もなく」コンサートが開かれていたようだ)。
 さらに、震災被害からの「自粛」モードと、電力不足による「計画停電」のダブル・トリプルパンチにより、東日本のコンサートは次々に「中止」となった。(私が大阪にリハーサルに出かけた企画も、翌日東京で行うはずのコンサートが、楽団員および聴衆の交通の確保が難しいこと、などの理由で中止になっている)。

 その後、4月に入るとさすがに「全て中止」という事態は解除されるようになった。しかし、祭りやイベントなどの多く(例えば、5月の浅草三社祭や8月の江戸川花火大会など)は「自粛」の名の下に中止の決定となり、その余波はまだ続いている。
 昭和天皇の崩御(1989年1月)以来の「歌舞音曲の自粛」だが、ホールや音楽事務所やオーケストラからすれば、コンサートが開けないうえ、キャンセル料やチケットの払い戻し金が発生するわけで、かなりの負担を生むことは確実だ。

 さらに、外来の演奏家たちの多くが、原発問題(放射能)を怖れて来日をキャンセルしている。当初は、ひと月くらいたてばほとぼりは冷めているだろう…という楽観論があったが、未だに好転をみせない状況下で、続々と5月6月以降の外来演奏家が来日をキャンセルし始め,いつまで続くか予断を許さない。
 特に、クラシック音楽の本場であるヨーロッパ圏は「放射能」問題に過敏だ。日本の政府筋が「身体に直ちには影響のないレベル」といくら説明しても、日本に来ることを躊躇する傾向は、今後数年以上続くだろう。しばらく「日本のクラシック音楽界」にとっては「冬の時代」が来ることも覚悟すべきなのかも知れない。

 もちろんこれは、現実に震災の直撃を受けた人たちに比べれば、ごく小さな「被害」と言えるのかも知れない。しかし、ボディーブローのように、ダメージは確実に身体をむしばむ。今後しばらく(もしかしたら数年)は続くであろうこの被害を最小限に食い止めるため、音楽界の結束も必要になることだろう。

Pianoz 以前、例の「事業仕分け」のせいで、どうして「オーケストラ」や「オペラ」などと言うものが必要なのですか?というシビアな意見が噴出したことがあった。(それはつまり「音楽などというものにお金をかける必要があるのですか?」という問いかけだったわけだ)

 確かに、音楽は生活に直結した「力」を持たない。
 にもかかわらず、人々はどんな時も音楽を聴き続けるし、個人はCDやコンサートで音楽を享受し、近代都市はこぞってオペラハウスやコンサートホールを持ちたがる。

 それは、「音楽」がある場所には、ゆるぎない「日常」があるからだ。
 そして、コンサートホールに音楽が満ちている街には、何よりも「安全」があり、その背後にそれを維持できる豊かな「経済」があり、それを娯楽として享受できる「文化」がある。

 音楽は、人間の営みそのものであり、音楽があると言うことは、そこに人間の営みがあることを意味する。
 つまり、音楽の役割というのは、「ここに人間の営みがあり,生命が居る」ということを人々に伝えることにあるわけなのだ。

 だから、音楽は歌い続ける。
 そして、ふたたび歌い初める。

         *

□余談・・・

 ウィンナ・ワルツの中でも屈指の傑作ヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」が書かれたのは1867年。日本では大政奉還が行われた慶応3年、翌年が明治元年にあたる。

 この曲が書かれた時のウィーンは、プロイセンとの戦争(いわゆる普墺戦争:1866)に大敗して街全体が意気消沈していた頃。(そう聞くと、なんだか震災でがっくり来ている今の日本の姿を重ねてしまう)。
 そこで、そんなウィーンっ子に対して「がんばれ」「元気出せ」と歌い励ます曲を,とシュトラウスのところに「男声合唱曲」の依頼が舞い込んだ。(このあたりも、今さかんにCMなどで「がんばろう日本!」と連呼されている状況を彷彿とさせる)

 そして、書き上げられたのが,この曲の原曲である合唱曲。
 アマチュアの男声たちで歌われる(少しコミカルで威勢のいい)曲調で、「ウィーンっ子たちよ,陽気にやろうぜ。くよくよしたって仕方がない。景気よく踊ろうじゃないか!」というような歌詞(詞:ヨゼフ・ワイルJosef Weyl )がついていたそうだ。

 ちなみに、バリトンが〈♪ドミソ・ソ〜〉という主旋律を歌うと、テナーが〈♪ソソ・ミミ〉という合いの手で掛け合う形になっていて…
「ウィーンっ子よ、陽気にやろうぜ(Wiener seid froh)。
 ♪なんでだ?(Oho,wieso)」
「あれを見ろよ,(No so blickt nur um)。
 ♪どれどれ?(I bitt' warum?)」
「カーニバルじゃないか。(Ei, Fasching ist da!)
 ♪ホントだ(Ah so, na ja!)」
Donau_2
 …という風に続く。一歩間違うと「不謹慎」と言われそうな軽さだ。

 それでも、歌詞の最後の…
「幸せはもう戻ってこない。
 時はすぐ過ぎ去り、
 バラだって色あせてしまう。
 だから、踊ろう。
 今はひたすら踊ろう」。
 …というあたりは共感できる。単なる「がんばろう」でなく、人生訓のようなものが込められているわけだ。

 しかし、この合唱版は市民の共感を得られず不評に終わる。(踊ることへの「自粛」ムードもあったのかも知れない)
 そのまま歴史の彼方に消えていたかも知れないところだが、(一説にはシュトラウス夫人のアドバイスで)上品なイントロと共にオーケストレイションを施して,現在のような「ワルツ」として蘇った。
 そして、翌1868年のパリ万国博覧会で披露したところ,今度は大人気と成り、今ではシュトラウスのワルツBEST1であると共に、クラシックの名曲の中でも屈指の傑作に数えられている。

 現在では、ウィーン・フィルの新年コンサートで最後のトリを担う定番の名曲。冒頭の弦のトレモロによる序奏が聞こえてきたところでお客から「来た来た」という拍手が起こり、指揮者はそれを聴いて演奏を一時ストップさせ、オーケストラ全員が「あけましておめでとう!」と叫ぶ…というのが伝統的「お約束」になっているほどだ。

Sakuraz 実を言うと、個人的にこの曲、あまりにも耽美的でのどかな楽想のせいか、苦手な曲のひとつである。甘さたっぷりの砂糖菓子のようで、辛党の身には食べずして「もう結構」という感じなのだ。
 SF映画の古典的名作「2001年宇宙の旅」で宇宙空間に浮かぶ宇宙ステーションのシーンでこの曲が流れたときも、美しいかどうかという以前に「場違い」と感じたほどだった。

 ところが、今回の震災で色々なコンサートが消し飛び、私が担当するFM音楽番組で(敢えて言えば「穴埋め」として)この曲が流れてきたとき、実を言うと初めてこの曲の「涙が出そうな美しさ」を感じ、惚れ直してしまった。
 この曲の無為なまでの甘美なメロディは、逆に「辛い」状況下では、その「甘さ」によって天国的なまでの「日常」を見せてくれるということなのだろう。それは「夢の力」と言っていいのかもしれない。

 そうだった。
 音楽というのは,落ち込んだ人や悲しんでいる人に「がんばれ」「元気を出せ」と尻を叩くものではなく、ましてや勇気や希望を押しつけるものではない。

 音楽の「メッセージ」はそういう言語的次元のものではなく(もちろん、ことばを伴った「歌」のメッセージ性は,また別の次元にあるけれど)、ただ美しいもの、ただ青いもの、それらがごく普通に日常の中に存在する。そのことの素晴らしさ愛おしさを伝えることこそが「音楽」の役割なのだ。

 真性の絶望は音楽では癒せない。
 でも、絶望の淵にある魂に,音楽は極めて有効だ。

 だから、人の営みがある限り、音楽はこれからも、ただひたすら「美しく」、ただひたすら「青く」あり続けるだろう。

         *

Tittle

■東日本大震災 復興支援チャリティ・コンサート
《クラシック・エイド》

2011年5月18日(水)19:00 
東京オペラシティ・コンサートホール
チケット発売:4月17日(日)

□出演(予定)

上原彩子、清水和音、舘野泉、仲道郁代、
練木繁夫、三舩優子(ピアノ)

遠藤真理、木嶋真優、木野雅之、小林美恵、
千住真理子、滝千春、長谷川陽子(弦楽器)

赤坂達三(管楽器)

足立さつき、河野克典、坂本朱、佐藤しのぶ、
鈴木慶江、錦織健、森麻季、水口聡(声楽)

曽我大介(司会) 他

・曲目未定。
・私(吉松隆)も作品と編曲で参加します。

 

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2011/05/10

音楽ノススメ

A 音楽には影も形もない。
 大気の中にふわりと浮かび、次の瞬間には消えてしまう。
 ベートーヴェンが「(願わくば)心から出て、心に伝わるように」と言ったように、音楽は「心」から「心」へ伝達する「何か」なのだが、それが伝わるには「伝達する媒介」が必要だ。

 そもそも音楽を存在させている「音」というものが、空気の振動であり、「空気」という媒介なくしては存在し得ないということもある。
 もちろん「心」は決して「空気の振動」ではないが、振動に「変換」されることで、他者に伝達可能な「音楽」というものに昇華する。考えてみれば、不思議なものだ。

 かくして、その「振動」を生み出すのが「楽器」、そして、それを制御するのが「演奏家」ということになる。いずれも振動の本体ではあるものの「音楽の本体」ではなく、音楽を伝達する(もっとも根源的な)「メディア(媒体)」ということになるだろうか。

 そして、その楽器の音や演奏家の演奏をより多くの複数の人々に伝達するため、「(屋内の)広間」や「(屋外の)広場」といった「場」が登場する。これも、考えようによっては「音を響かせる楽器」と言える。
 それは、より効率的により多くの人に伝達させるための機能(楽器としての性能)を進化させ、「劇場」や「コンサートホール」になってゆくわけだ。

 さらに、20世紀になると、音楽における大革命が起きる。音楽を「録音・再生」することが可能になったのである。
 それは、今まで「大気の中にふわりと浮かび,次の瞬間には消えてしまう」音楽を、「再現し・複製し・所有する」ことができるようになった大変革だった。

 今では、文字通り「いつでも」「どこでも」私たちは音楽を楽しむことが出来るようになった。その奇跡を120%享受しているのが、現代の「音楽文明」だ。

 と言うわけで、今回は音楽を伝える「メディア」に関するささやかな回想録を語ることにしよう。

1957 □子守歌、ピアノ,ラジオ

 多くの人にとって、最初に耳にした「音楽」の記憶はというと、母親の子守歌だろうか。(もっと遡って,母親の胎内にいるとき耳にした「心音」というのも、音楽の根源と言えるのかも知れない)

 しかし、そこから先は家庭の事情(や時代背景)でいろいろだ。
 父親が掻き鳴らすヴァイオリン、母親が歌う村の民謡…という人もいるだろうし、祖父の吹き鳴らす尺八に,祖母が吟じる謡…といった人もいただろうか。
 あるいは、近所から聞こえてくる楽器の音や隣人の歌声が子守歌という人もいたかも知れないし、付けっぱなしのラジオやテレビでCM音楽のシャワーを浴びた人も少なくないかも知れない。

 私は、まだまだラジオやテレビを付けっぱなしにするほど電化が進んでいない時代(昭和30年代)に育ったから、自然に耳に入る音楽…というのは、やはり生の音が多かった。
 父の吹くフルートや母の歌う賛美歌が,普通に耳にする「音楽」であり、後に、家の居間にあったピアノの音が加わることになる。

 ラジオやテレビはたぶん朝7時とか夕方5時とかに,特定の番組を聞くために付けられたから、知らない音楽が知らない間に耳に入ってくるという現代のような状況はなかった。
 結果、音楽番組から流れてくる軽音楽や、夕方の人気番組のテーマ音楽などが、最初に頭に染み込んだ「音楽」の記憶になった。

Sonobb □レコード

 1.ソノシート
 そんな中で、最初に意識して「音楽」を聴いたのは、(おそらく)生演奏ではなく「レコード」だ。しかも、SP盤でもLP盤でもなく、〈ソノシート〉という奴である。

 これは、ぺらぺらの薄い塩化ビニールに(レコードと同じ要領で音溝を刻み)音楽を収録していたもの。1958年(昭和33年)にフランスで開発されたそうで、EP盤サイズ(直径17㎝。33⅓回転で片面10分程度収録)が多く、安価だし軽いので雑誌や本の付録のように添付され、英会話とか音楽のオムニバス企画(クラシック名曲集からアニメの主題歌や映画音楽、軍歌などまで)として、レコード店ではなく本屋で売られていた。

 昭和30年代というと、サラリーマンの月収がせいぜい1万数千円なのに対して、LP盤は1枚1500円から2000円(EP盤でも300円)くらいした。その点ソノシートは、ブックレットに片面ソノシートが1枚付いて200円、数枚組のものでも500円くらいだったから、庶民の強い味方だったわけだ。

 実際、私が初めてクラシック音楽に接したのは、子供の頃、父が買ってきた「クラシック小品集」とか「ピアノ名曲集」でだった。
 ただし、その頃はちっともクラシック音楽などに興味はなく、愛聴していたのはもっぱら「アニメ主題歌集」とか「ロシア民謡集」あるいは「日本軍歌集」というような類だったのだが。

Cd_sgtpepper 2.LPレコードvsコンサート
 LPレコードを自分で買えるようになったのは、中学にあがった頃だ。ただし(いくぶん高度成長期になってきたとはいえ)学生のこづかいはせいぜい月に千円か二千円くらい。買えるレコードはどう頑張っても月に1枚が限度である。
 そのため、レコードを選ぶのは、まさに「清水の舞台から飛び降りるような」覚悟が要った。

 好きなアーティストのコンサートに行く…という選択しもなくはなかったが、レコードを買ってしまえば残金ゼロの状態であり,(少なくとも中学生の間は)レコードを買いつつコンサートへも行くというのはほぼ不可能だったわけだ。

 ちなみに、LPレコードで音楽を聴き始めた頃というのは、まだポップス嗜好で、最初に買ったLPは「ベンチャーズ」のアルバム。生まれて初めて行ったコンサートは、中学三年の時のウォーカー・ブラザースの来日公演(武道館。ビートルズ来日の翌年1967年である)だった。

 そして、中学3年の冬、クラシック音楽に開眼。高校に上がってから本格的に(異常な情熱を持って)音楽を聴き始めるとともに、「音楽を聴く媒体」の選択に四苦八苦することになる。

Fmfana □FM放送

 クラシック音楽の入口に立った途端、思い知ったのは、とにかく膨大な「名曲」たちがそこにある…ということであり、それを「次から次へと聴きたい」…という渇望は「飢え」の状態に似ていた。
 とにかく聴きたい、どんどん聴きたい,何でもかんでも聴きたい…。でも、レコードを次から次へ買うわけにも行かず、家中のレコードや楽譜をかき集め、学校の図書館や音楽ライブラリ、楽器店のスコア漁りを毎日毎日続けても、その「飢え」の状態はなかなか解消しなかった。

 そんな時に重宝したのは、FM放送の存在だった。(日本では1969年にNHKFMが本放送開始している)。
 当時のFMは(高音質のステレオで音楽を聴かせる…というコンセプト上)かなりクラシック音楽の独壇場のところがあって、朝から夜まで本当によくクラシック音楽を放送していた。
 シベリウスの音楽と出会ったのもFMだし、レコードでは聴きようもなかったワーグナーの「ニーベルングの指輪」全曲も(毎年年末のバイロイト・フェスティバルで)聴けた。
 
 また、世界各国の放送局との提携なのか、海外の放送局が収録した「現代音楽」の放送も結構多く、ダルムシュタット音楽祭、ロワイアン音楽祭などなど、現代音楽の「聖地」(と当時は思っていた)からバリバリの新作が送られてきて、それをわくわくしながら聴いていた。

 特に、夜23時からの「現代の音楽」(上浪渡さんの解説の頃)は、毎週欠かさず聴いていた。
 1960年代は、黛敏郎、武満徹、三善晃というような現代日本音楽の有名どころも活躍し始めた時代で、それから1970年の大阪万博あたりまではある意味「現代音楽バブル期」。「キラ星のような」(と当時は信じていた)作曲家たちの「珠玉の名作」(と同じく信じていた)作品が次々と放送される様は、本当に血湧き肉躍る感じ(と同じく思っていた)だったのである。

 そんなこんなで、高校から大学までの頃は、家にいるときはほとんどNHK-FMをつけっぱなしのような状況だった。
 しかも、(時間が惜しいので)同時にレコードを聴き、テレビをつけ、ピアノを弾きつつ、本や楽譜を読んでいた!。

 そこから偶然流れてきたのを耳にしたのが、ECMのジャズやプログレッシヴ・ロック(ピンク・フロイド、イエス、エマーソン・レイク&パーマー)など、今も心の糧となる音楽たちだ。
 放送を聴きっぱなしにしていたことで「偶然に耳にした」音楽と、その後一生関わることになるのだから、FMというメディアによる奇跡のような「音楽との出会い方」には感謝するしかない。

Tereco □テープ録音
 
 ちなみに、FMで音楽を聴き始めた頃は、まだオープンリールテープ(モノラル)の時代。ラジオやテレビの音を録音するには、放送中のスピーカーの前にマイクを置き、リアルタイムで録音する(しかもモノラル)しか手はなかった。

 しかし、やがて1970年代になって、高音質ステレオ録音を可能にするテープデッキなるものが登場し、チューナー(FM&ラジオの受信機)とアンプおよびテープデッキが合体した「コンポ」なるものが登場。放送される音楽を録音することに特化された機材が徐々に整備され始める。

 FM放送は、2週間に一度発行されるFM雑誌(FMファン)で綿密な番組表が発表されるようになり、それをチェックし、何月何日の何時から放送される曲をテープに録音する…「エアチェック」が音楽マニア最大の楽しみになった。

 もっとも一般的なのは、カセット・テープの録音するカセットデッキ。カセット自体は、1962年にオランダのフィリップス社が開発したもので、当初は会話録音や語学学習くらいにしか使われなかったが、1970年前後に音楽録音に使われるようになったもの。
 収録時間は60分、90分が主流(46分、120分のものもあった)。A面B面で裏返すので、実際は90分テープで片面45分。ほぼLPレコード1枚が収録できる。

 当初はあんまり音質が良くなかったが、だんだんドルビー録音(ノイズ除去システム)やクロム〜メタル・テープなどの登場で音質アップ。本格的なカセットデッキが登場した頃(1978年)作曲家としてデビューしたので、デビュー作以降の音源は(コンサート・ライヴやFM放送など)ほとんど全てこの「カセット・テープ」で残っている。

4chtape 一方、放送局などで使われる専門の録音機器は、テープを切ったり繋げたりすることで「編集」できるオープンリールテープが主流。
 テープ幅1/4インチ、テープ・スピード38cm,19cm(いずれも/毎秒。)が基本だが、速さが早くなる分、録音できる時間は短くなる。(テープ・スピードが倍になれば、録音時間は半分になる)

 片面最大45分のカセットでは収まらない長時間の作品や番組などは、このオープンリールの出番だが、個人使用では9.5cm/sで1時間(60分)あるいは1時間半(90分)がせいぜい。
 それでも、カセットには収まりきらないオペラや音楽祭などは2時間を超えるものは、さらに遅い4.75cm/sで無理やり収録することが多かった。

 今でも、その頃に録音した「バイロイト音楽祭」や「現代音楽祭」のテープが数十本ほど押し入れに死蔵されている。(ただし、音質も悪いし劣化しているし使いものにならないのだが)

Cd□CD
 さて、いよいよCDの時代に入る。1980年代になって、作曲家として仕事を始めた頃に登場したのがCD(コンパクト・ディスク)だ。

 生産が始まったのが1982年で、当初は、1枚3500〜3800円、デッキ自体も15万円以上したので、かなりマニア向け「高級品」のイメージ。同じアルバムが普及用LPとマニア向けCDで並行して発売されたりしていた。
 しかし、2〜3年ほどで、ポータブル型のCDデッキが5万円を切る価格で登場すると、あっと言う間に普及し初め、LPを駆逐してCDの時代になっていった。

 新譜がほぼCDに切り替わった1986年頃からクラシックの新譜評の仕事などを始めたので、その「時代の変化」はよく覚えている。
 利点はもちろん「小さいこと」「音質が良いこと」だが、最大のポイントは「取り扱いの便利さ」と「ランダムアクセス(録音されている曲を順不同で瞬時に聴き出せる)」という点だろう。

 さらに面白いのは、CDの「収録時間74分」という規格だ。
 大指揮者カラヤンが「ベートーヴェンの第9を一枚に収録できるように」と言ったとか言わないとか色々の諸説はあるようだが、少なくとも「クラシックの主だった名曲」がはみ出ないようなサイズ(実際、ワーグナーの楽劇のいくつかの長大な幕以外は、74分あれば収録できる)を考慮されたことは事実のようで、なんだかポップスに押され気味のクラシックが、CDの台頭で再浮上した感があって嬉しかった。

 実際、ひと幕1時間を超えるのが当たり前のオペラや、全曲で1時間半近いブルックナーやマーラーの交響曲は、CDになってからようやく「ひとつのシークエンス」として聴けるようになった。(それまでは20分ほどでレコード盤を裏返す必要があったので、どうしても気が削がれたのだ)

 しかし、逆に、20分30分の作品(例えばベートーヴェンの中期の交響曲など)は1枚のCDに2曲も3曲も入ってしまうので、なんとなく「小さくなってしまった」感があって複雑な気分になることも少し・・・

 しかし、時代や様式(スタイル)や手順(プロセス)に縛られる「アナログ」に対して、ボタンを押すだけで対象に即アクセスできる…というテクノロジーは、音楽の聴き方を変え、そして、音楽のあり方をも変えてしまった感がある。
 なにしろ、それまで音楽が持っていた「時代性」「地域性」といった束縛をすべて剥ぎ取って、すべての時代すべての地域の音楽を「博物館」のように均質に並べ鑑賞することが可能になってしまったのだから。

Random この「ランダムアクセス」は、どんな情報でも「均質」かつ「順不同」で瞬時に呼び出せる…ということから,ポスト・モダンの時代を象徴する「新しい世界観」を呼び覚まし・・・私もおそらくそれを歓喜して迎えた一人だったのだが・・・音楽の在り様を決定的に変えてしまったと言ってもいいかも知れない。

 このパラダイム・シフト(価値観の大変換)が良かったのか悪かったのかは微妙な処だが、私が作曲家として世に出たのはそんな時代だった。
 オーケストラの生の音を聞いたこともない作曲家でも交響曲を書ける時代。アフリカに行ったこともない人間でもアフリカのリズムに酔える時代。ポーランドに行ったこともないピアニストでもショパンの心を歌える時代。オペラ劇場に行ったこともない人間でも世界中のオペラをすべて知り尽くせる時代。

 そんな時代の狭間で、あれだけ隆盛を誇ったLPはあっと言う間に消えてしまい、そのノスタルジーに耽るまもなく、音楽は映像とも合体してさまざまなメディアの中での転居を繰り返し始めた。いわく・・・

・LD(レーザー・ディスク)
 1980年頃登場。直径30cmのディスクに片面最大1時間(両面で2時間)の映像を収録できる。
・DAT(デジタル・オーディオ・テープ)
 1987年登場。デジタル録音できるマイクロサイズのカセットテープ。最大180分(3時間)の収録が可能。
・MD(ミニ・ディスク)
 1992年登場。2.5インチ(64mm)サイズで、カセットテープに代わるメディアとして普及。ほぼCD一枚分の74分から80分の録音が可能。
・DVD(デジタル・ビデオ・ディスク)
 1996年頃登場。CDとほぼ同じサイズに、音声、データ、映像などを収録可能。再生専用のほか、書き込み可能なタイプもある。
・Blu-ray(ブルーレイ・ディスク)
 DVDの次世代メディアとして2000年代に登場。2008年にHD-DVDと規格争いに勝ち、現在本格展開を始めたところ

 そして、アナログからCDへの変遷以上の改革が起こったのが、世紀の変わり目に浮上した「ネット」という新しいメディアの普及だ。

Internet □ネット

 インターネットは、もともとは1960年代の東西冷戦時代に「メインコンピュータが核攻撃などで壊された時に備えて、複数のコンピュータを回線で繋げてネットワークを作っておき、連絡網や指示系統を維持させる」という、軍事的な視点から開発されたものという。
 なるほどSF映画で良くある・・・〈マザーコンピュータを破壊すると、悪の組織はすべて一瞬にして壊滅〉・・・というパターンを避ける「危機管理」の発想から生まれたものだったわけだ。

 その発想は、電話回線とコンピュータがあれば基本的に一般市民でも出来るわけで、1980年代に、電話回線で繋がったコンピュータ同志が、文字で通信できるネットワーク・システムが生まれた。
 当時は「パソコン通信」と言い、私も1987年にMacintoshを買うと同時に入会(Nifty-ServeとCompu-Serve)している。(今で言うと、メール通信と掲示板が出来る程度の簡素なものだったのだが)

 当初は、一般の電話(ダイアル式アナログ回線の黒電話)の受話器に「音響カプラー」というものを取り付けて音声データをやりとりするという手間のかかる代物だったが、やがてモデム経由ながら直接電話回線を繋げるようになった。
 1990年代半ば頃にはユーザーの数も増え、「Web」「インターネット」という概念が固まり、そして、2000年代には高速回線(ブロードバンド)や光回線などの普及により、現在の隆盛に繋がるわけである。

 さらに、「パソコン通信」の時代には「文字」(しかもアルファベット)を送るのがやっとだったが、「インターネット」に昇格した頃には「画像」も送れるようになった。(ただし、一枚送るのに何十分とか何時間ということもあった!)
 そして、ブロードバンド回線になると、送れるデータ量が飛躍的に増大し「カラー画像」や「動画」が送れるようになり、光回線が登場するに至って「Movie」がそのまま見られるほどになった。

 音楽も同様で、ネット黎明期の音楽はせいぜい〈ピコピコ〉という電子音だったものが、徐々に曲の形となり、やがて楽曲そのものを聴けるようになり、現在では映像付の演奏ビデオをそのまま高画質で見られるようになっている。

 要するに、ほんの二十数年ほどの間に、音楽や映像を(誰でも実に簡単に)複製し、ネットを通じて世界中に(特別な機材も制作費もほぼゼロで)頒布できる…という状況が、テクノロジーの進化によって生まれてしまったわけだ。
 そのため、今まで工業生産的な「複製」を制御してきた「著作権」は、ネットの進化について行けずに右往左往している…というのが現実だ。

(音楽業界や出版業界は、紙の時代の著作権の「既得権」を死守したいのだろうが、それはもはや不可能だと私は思う。「複製を生産するコストが(ほぼ)ゼロになった」というのは、後戻りの出来ない巨大にして絶対的な変革なのだから)

 かくして、音楽の聴き方は革命的な進化(変化)を遂げた。

Itunesy
 例えば、卑近に私の例で言うと、今まで私の作品を聴くには、放送されるのを待つか、現代音楽のコーナーを常備しているような大きなCDショップに行き、CDを手に入れるしかなかった。
 それでも、輸入盤なら注文して数週間待つ必要があったし、廃盤になっていれば(中古盤を偶然見つける以外に)聴くことは出来なかったわけだ。
 しかし、ネットでは,名前や曲を検索すれば(ほぼ)「今すぐ」聴くことが出来る。

 例えば、「iTunes Store」というところでは、20枚・数十曲ほどを買うことが出来る。CDそのものを買うのではなく、CDに録音されている音楽のデータを「代価を払って自分のパソコンに取り込む」という形で聴くわけである。

 また、音楽ライブラリ(NAXOS Music Library)というサイトでは、そこの会員になることで、登録されている私のアルバム十数枚を聴くことが出来る。
 同時に5万枚近くのクラシックCDから、好きな曲を好きなだけ聴くことが出来るが、外に持ち出したり所有することは出来ない。図書館の閲覧と同じ形である。

 このような聴き方は、ちょっと前までは、パソコンの知識とネットワークの設備が必要な「マニア向けの音楽の聴き方」だったが、最近では「携帯電話」なり「iPod」なりを持っていれば、いつでもどこでも好きな音楽を入手し聴くことが可能だ。
 むしろ、現時点では(高音質にこだわりさえしなければ)レコードやCDを聴く以上に簡単な、もっともシンプルな「音楽の聴き方」になっている感がある。

 もちろん、ネットに浮遊する音楽の主流は大衆向けポップス系のヒット曲だが、マイナー系の交響曲もオペラも(ランダムアクセスの思想では均質なので)同じように入手し鑑賞することが出来る。
 結果、25年ほど前にLPが消えてCDに成り代わったように、今確実にCDは姿を消し、音楽はネットを媒介にして増殖しつつある。

 さて、それによって「音楽」が変わったか?というと・・・さあ、それはどうだろう。感じ方は人それぞれかも知れない。

 音楽を運ぶ「乗り物」が変わっただけ…とも言えるが、当初はせいぜい「馬」や「馬車」だったその「乗り物」は、やがて海を渡り空を飛び、さらに何万何億に分裂増殖する技も覚えたわけだ。
 さらに「どこでもドア」のように、世界中どこでも交通費ゼロで何万人何億人が移動できる…となると・・・

 何かが根本的に変わった…と言うのも実感かも知れないし、逆に、それでも音楽は変わらない…と言うのも正しいような気がする。
 楽しみなような、怖いような、そんな世界に私たちは「音楽」と共に生きているわけだ。

□コンサートホールと劇場

 と、延々、音楽が乗ってきた「乗り物〔メディア〕」について語ってきたが、もっとも重要かつ普遍的な(そして、安心な)乗り物は何かと言えば、やはりそれは「コンサートホール」であり「劇場」ということになる。

 CDの普及でレコードが売れなくなり、ネットの普及でCDが売れなくなった…という声は聴くものの、「音楽」そのものが衰退する気配は(今のところ)ない。
 むしろ、音楽が「音響データ」として流布する時代だからこそ、「ライヴ」としての音楽はますます存在価値が高くなると言えそうな気がする。

 生身の音楽家たちの演奏は、CDやネットの音響データからは得られない「身体に共振する」パワーがある。

 それこそが,心から出て心に伝わる「音楽の力」ということなのだろう。

          *
 
メトロポリタン・オペラ

Boheme
プッチーニ「ラ・ボエーム」
・6月04日(土)15:00 愛知県芸術劇場
・6月08日(水)19:00 NHKホール
・6月11日(土)15:00 NHKホール
・6月17日(金)19:00 NHKホール
・6月19日(日)19:00 NHKホール

Calro
ヴェルディ「ドン・カルロ」
・6月05日(土)15:00 愛知県芸術劇場
・6月10日(金)18:00 NHKホール
・6月15日(水)18:00 NHKホール
・6月18日(土)15:00 NHKホール

Lucia
ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」
・6月09日(木)18:30 東京文化会館
・6月12日(日)15:00 東京文化会館
・6月16日(木)18:30 東京文化会館
・6月19日(日)12:00 東京文化会館

MET管弦楽団特別コンサート
・6月14日(火)19:00 サントリーホール

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2011/06/10

青少年のための「未来」入門

Photo_3 先日(今年の5月)、ベルリン・フィルの定期演奏会を指揮した佐渡裕氏は、小学校の時の卒業文集に「ぼくはベルリン・フィルの指揮者になる!」と書いていたそうだ。
 当時は、「総理大臣になる」とか「ノーベル賞を取る」というのと同じ大風呂敷で他愛もない子供の夢と聞こえたことだろう。
 でも、38年後、その夢は実現された。

 私も、14歳の時に始めて「運命」を聴き、「ぼくも交響曲を5つ書く!」と決めた。
 当時はまだ、クラシックを聴き始めたばかりの普通の中学生だったから、総理大臣やノーベル賞どころか「火星に行く」というクラスの99%あり得ない「夢のまた夢」だった。
 でも、34年後、夢は実現した。

 子供の時に抱く「夢」は、一生の宝だ。
 そして、夢は壮大な方がいい。
 叶っても、まだ上があるから。

Conductorx8□音楽との出会い

 音楽との出会いは人それぞれで、音楽を楽しむのに決まり事は何もない。好きなように聴き、好きなように楽しめばいい。

 それは事実だが、もし「プロの音楽家」を目指すとなると話は別だ。
 特に、ピアノやヴァイオリンを完璧に弾きこなすには、幼少の頃からの基礎訓練が必須とされる。早くて3歳、遅くても9歳。10歳を過ぎて物心ついてから本人が「音楽をやりたい」と言い出してから始めたのでは手遅れ。…というのがこの世界の常識だ。

 逆に、幼少時から毎日鍛錬すれば、特に音楽の才能に恵まれなくても(普通の「こまっしゃくれた」レベルの子供なら)誰でも、擬似「天才」クラスの技量を発揮する。
 赤ん坊の頃から毎日かかさず日本語を聴いていれば、誰でも5歳くらいで「日本語ペラペラ」になれる。音楽でもスポーツでも芸事でも,生まれ育った「環境」がものを言うわけだ。(特に、親がそのジャンルのプロないしは愛好家であるれば申し分ない)。

 そこでは、特に系統立てた教育を受けなくても、「門前の小僧,習わぬ経を読む」の故事のように、「見よう見まね」がかなり有効だ。
 幼児に「文法」や「修辞法」を教えなくても、あるレベルまでは「自然に」「耳から」言葉を学んでゆくように、「音楽」もあるレベルまでは「自然に耳から」学べるからだ。
 あまりガチガチに「英才教育」を施すより、親のやっている様子を近くで見せる…というくらいが、逆に効率的なのかも知れない。

 そもそも、若い頃というのは、吸収の早さが尋常ではない。どんどん新しい細胞が生まれ、新しい神経回路ができてゆく、その成長のスピードのせいだろうか。いやいややっていると10年でも吸収できないことが、スイッチが入った途端に10日ですべて吸収できることだってある。

 かく言う私も、それをこの身で体感した一人だ。
 子供の頃に系統立てた音楽教育を受けた覚えはなく、それこそ9歳前後にピアノを「いやいや」習ったことがある程度。しかも、クラシック音楽をそれと意識して聴き始めたのは14歳(中学3年)。ベートーヴェンやチャイコフスキーなどの主要名曲を知ったのは高校に上がってからと、かなり遅い。

 しかし、14歳で「スイッチが入った」。その後の「吸収」はめちゃくちゃなスピードだった。
 はっきり言って、「先生に習っているヒマなどなかった」。あまりにも、知りたいこと、調べたいこと、学びたいことが多かったからだ。
 だから、「音楽大学に行く」などという選択は考えたこともなく、毎日毎日ピアノを弾き、片っ端からレコードを聴き、楽譜を読み本を読み、起きている間はすべて「音楽」の吸収に当てた。
 それでも「自分の音楽」に達するのに7年、それを世に出すのにさらに7年かかったのだけれど…。

String4□教わる音楽、知る音楽

 とは言え、おそらく、何か芸事(音楽でもピアノでもバレエでもゴルフでも野球でも)を始めるとき、専門家から系統立てたレッスンを受けることを考える、というのが普通だろう。

 すべての芸事には「基本」があり、その上にさまざまな技術を積み上げて行くというのが鉄則だ。
 しっかりした基礎があってこそ、その上に堅牢な建造物を建てられる。基礎が出来ていないのは、ぐずぐずの土台の上に建物を建てるようなもの。いくら積み上げても崩れてしまう危険がある。

 ただ、私は個人的に、この「教わる」と言うことにものすごく抵抗があるのだ。
(さて、ここから先はきわめて個人的な偏見に満ちた意見になるので、もし今ちゃんとした先生について音楽や芸事を習得している若い方は、「独学のおかしな男」の戯言とご笑覧いただき、参考にされないことをお勧めする。)

 中学生にあがった時、初めてギターを買ってもらった。
 クラシックギターとしてではなく、最新のヒット曲やフォークソングをかき鳴らす楽器としてのギターである。当然ながら、誰に習うわけでもなく教則本を読むでもなく、ひたすら「コードネーム」(CとかG7とかAmとか)の押さえ方を覚えることばかりに必死になった。

 そんなある日(おそらくギターを手にして一週間ほどして)、ギターの弦を左手指で押さえながら、その指をぶるぶると「ふるわせる」と、豊かに膨らんだ音になることに気付いた。「大発見だ」と思った。アルキメデスの原理を発見したアルキメデスのように「ユーリカ!」とでも叫んで表に飛び出そうかと思ったくらいの感動だった。
 
 そこで、翌日、学校にゆくとギターを弾く同級生をつかまえて、意気揚々とこうまくし立てた。「おい、知ってるか。ギターの弦を押さえる指をふるわせると、凄いいい音がするんだ!」
 すると、彼は答えた。「それはヴィブラートっていうんだ」。
 それでおしまいである。

 そう、それは弦楽器を演奏する人なら誰でも知っている演奏法の基本〈ヴィブラート〉であり、残念ながらそれは「世界初」の発見ではなかったわけだ。
 なので、残念ながら、音楽史に「ヴィブラートの発見者」として私の名前が記されることはないわけだが、独力でヴィブラートを発見したという事実は変わらない。その時の感動は、今でも「指先」に残っているほどだ。

 …という話を(作曲家になってからインタビューなどに答えて)したところ、「ちゃんと基礎から教えてもらわないと、無駄な回り道をしてしまいますよね」という(理性的な)反応をされて、ちょっと驚いた。私はまったく逆だと思っている。
 もし、先生についてギターを習っていて、ある日「さあ、今日はヴィブラートの勉強ですよ」と言われて、指をふるわせるレッスンをする。それで「ヴィブラート」が自分のテクニックとして組み込まれ、ヴィブラートというものの衝撃を体験しないまま音楽家になったとしたら、そんなつまらないことはないではないか。

 例えば、もしあなたが、推理小説作家になる英才教育と称して、子供の頃から古今東西すべての推理小説の「犯人」と「犯行方法(トリック)」を(原作を読む前に)先生に教わってしまったとしたら、どうだろう。
 確かに、推理小説の知識に関するプロにはなれるかも知れないが、それと引き替えに「推理小説を読んでトリックに驚嘆する楽しみ」をすべて奪われることになる。それと同じだ。
(と言い張っても、賛同を得られにくいことは重々承知しておりますが)

1957□道は迷うべし。

 このような「ひねくれ方」は、まあ、普通ではないのだろう。
 小さい頃しばらくやっていたピアノの「おけいこ」でも、先生の言うことをよく聞く子(特に女の子)が、すくすくと腕を上げて行き、与えられた曲の練習よりデタラメな即興演奏をする方が好きな私のような子はどんどん脱落していった。

(また笑われるかも知れないが、ドミナント〜トニカという和声の基本も、この時のデタラメ即興演奏の中で自分で「発見」した。それがドミナントというものであることを知ったのは、10年近く後のことである)

 確かに、芸事は、
 先生の言うことをよく聞き,
 ひたすら基本に忠実に、
 日々の鍛錬を決して欠かさないこと。
 これに尽きる。

 でも、ひねくれた独学の徒としては、これだけは言いたい。
 道を行く時は、とことん迷い、寄り道した方がいい。
 真っ直ぐ目的地に着いてはいけない。
 また、真っ直ぐ目的地に着くような道を選んではいけない。

 そのことについて「学問に王道なし」というような道徳や修身っぽい言い方をされることがあるが、違う。
 それは極めて簡単なことで、最速最短の道を教わってしまったら「ぜんぜん面白くない」からだ。

 この道をまっすぐ行って、途中右に崖があるから迂回して、斜め左に昇ってゆくと右にきれいな景色が見えて、下に珍しい花が咲いていて、そこから15分急坂を上がると頂上……などと全て教えてもらえば、間違いなく安全に早く頂上に着く。でも、それでは「旅」する楽しみはない。

 道に迷い、あぶなく崖から落ちそうになり、逆に思いもかけない景色に出会ってため息をつき、偶然見つけた美しい花を愛でて心癒され、一歩一歩踏みしめたうえで頂上を極める。
 その「寄り道」の体験すべて、苦労の記憶すべてが「楽しみ」なのだ。寄り道や回り道や挫折は「無駄」でも「障害」でもない。エピソードが多ければ多いほど面白い「旅の楽しみ」なのである。

 だから、若い人に音楽を伝えるときも、手取り足取りで無難な「名曲」に誘うようなガイドは避けたいと切に思う。「ベートーヴェンは天才です」「この曲は不朽の名曲です」という勧められ方を好む人もいるけれど、それが逆効果な場合もある。
 クラシック嫌いの多くは、こういう「押しつけがましさ」を嫌うことから生まれている気がする。「こういう曲もあります」「でも、こんな曲もあります」でいい。その中から、自分で好みの一曲に「出会う」こと。それが、音楽との出会いの醍醐味なのだから。

Testa_2 □こどものための

 などと言いながら、いくぶん押しつけがましく名曲を並べてしまいがちな〈子供のためのコンサート〉にも何度か関わったことがある。

 ヨーロッパのコンサート(劇場)文化は、そもそも夕方から始まり夜中に終わるという点からも、2時間近く静かに黙って座っていなければならない点からも、「子供おことわり」の世界。子供は家で子守に任せてから、大人だけでいそいそと出かける「大人だけの」世界だ。

 しかし、そんな夜のコンサートに集まる紳士淑女たちも、もともとは子供。どこかで「音楽」に出会わなければ、夜のコンサートに集う聴衆には育たない。
 そして、オーケストラや音楽家たち(そしてクラシック音楽界全体)からすれば、「こどもたち」こそが、自分たちの音楽を聴いてくれる「次の世代の聴衆」。それを育てないことには未来はない。
 そこで、最近は「こどもたちのための」と謳ったコンサートが多く開かれるようになった。

 そう言えば、野球やサッカーなどのスポーツは、昔からしっかりこういうシステムを取り入れている。子供の頃こういう形で競技とチームになじむと、大人になってからもそれは刷り込まれたままになる。無料で子供のために試合を解放しても、彼らは「未来の観客」として帰ってくるので、元は取れるという寸法だ。

 それに触発されてかどうか、最近ではクラシック音楽も、ホールやオーケストラ単位でしっかり未来の「観客」を育てることを考え始めた。良いことだと思う。
 別に,プロの音楽家を育てるだけが「音楽教育」ではない。音楽文化を支える大人を育てることこそ、未来への投資なのだから。

 というわけで、最近は「こどものための」と謳ったコンサートやCDなどの企画も随分増えてきた。ただ、「子供向け」だからといって手を抜くのは極めて危険である。
 子供たちは、テレビやCDなどで結構普通に一流楽団のノーミスの音楽を聴いているわけで、手を抜いた演奏はしっかり分かるからだ。
 
 そして、もうひとつ。大人の視点から「子供はこういう音楽が好きだろう」と「やさしい曲」を選ぶのも危険だ。
 数年前にやった「子供ためのコンサート」でも、(TVの「のだめカンタービレ」やCMなどの影響で)普通に「ベートーヴェンの交響曲第7番」や「プロコフィエフのロミオとジュリエット」あるいは「ヴェルディのレクイエム」などが小学校低学年の「耳なじみレパートリー」に入っていた。

 私も、小学校1年の頃(つまり、まだクラシック音楽など全然興味がなかった頃)、父親の持っていたレコード・コレクションの中でもっともお気に入りだったのは、「子供用」のピアノ小品集などではなく、プロコフィエフの「ピーターと狼」とブリテンの「青少年のための管弦楽入門」をカップリングした一枚だった。
 特に「管弦楽入門」のコーダ、ピッコロから始まってオーケストラのさまざまな楽器が次々に加わって壮大なフーガになる処が大好きだった。オーケストラなど生で聴いたこともない6歳児が、である。
 逆に、モーツァルトやシューベルトなどは「使っている音が幼稚!」と軽蔑していた。少なくとも小学校に上がればもはや幼児ではない。「お子様向け小品」なんか聞きたくないのである。

 唯一、子供向けとしてNGなのは、「長い」曲くらいだろうか。さすがに、ブラームスやブルックナー級の40分から1時間を超えるような交響曲を「全曲」というのは、子供が「じっとして聞く」限界を超えている。
 ただし、メロディにしろリズムにしろサウンドにしろ、キャラクターの「変化」がくっきりしているものなら、ひとつの楽章二十数分くらいはOKなはずだ。
 あとは、演奏家の「熱意」次第。本当に「この曲面白いんだよ」という姿勢が伝われば、おそらくどんな曲でも子供は付いてくる。

 子供の頃から「本物」を聴かせ、「本物」だけを見せること。
(あるいは、自分で本物を探し、本物だけから学ぶこと)
 音楽や芸事に王道があるとしたら、それに尽きる。

Cut01_2■出会った言葉たち

 最後に、私が音楽を志してから出会った、印象的な(そして、人生を左右した)言葉を3つほど紹介して、この稿の締めとしよう。
(もちろん「独学のおかしな男」が言うことだから、正攻法の格言ではない。念のため)

 プロになって苦しみながらやるより
 アマチュアで楽しみながらやるほうがいいと思うよ。

 これは、高校時代に「作曲家になろうと思っています」とカミングアウトした時、音楽の先生が言った言葉。
 これは、「正論」だ。そう言われたらグウの音も出ない。

 確かに、音楽は「楽しい」けれど、プロの世界は「厳しい」。
 なにしろ、幼い頃から才能を発揮し日々の膨大な鍛錬をこなし,険しい道を這い上がってきた「天才」や「達人」たちが日本中世界中から集まり、絶えずしのぎを削っている世界なのだ。
 そこで頭角を現し、さらに10年20年と生き残って行くのは、想像を絶する苦闘の連続が待っている。(多くの音楽家が「我が子には音楽家の道に進ませたくない」と考えるのは、その「苦しみ」を味あわせたくないからだ)

 でも、「だから、やらない」というのは逆。
 先にも書いたように、「苦しい」からこそ面白いのであって、大変だからこそ、それを突き抜けたときに至高の喜びがある。新しいものを手にするのは(女性が子供を産むのだって)苦しくて当然。「苦しければ苦しいほど、その先にある喜びは大きい」(by ベートーヴェン)とも言えるのだ。

 よく「音楽は〈音を楽しむ〉こと」とか「音楽は楽しくなければ」と言う。
 しかし、別に「楽で」「心地よい」だけが「楽しさ」ではない。七転八倒し苦しみ悩み抜いてこそ手に出来る「楽しみ」だってある。
 むしろ「苦しんでやろう」「悩み抜いてやろう」と思って音楽の道に進む。それでいいではないか。それこそ人生を賭けるに値する一生の「楽しみ」なのだから。

 やめろと言ってやめられる人はやめればいい。
 やめろと言ってもやめない人だけが生き残る。

 これは、音楽大学の某先生の言のまた聞き。
 音楽でも稽古事でも何でも、始めてしばらく経つと、誰でも壁にぶち当たり、こう考える。「自分には才能がないんじゃないだろうか」「このまま続けても芽が出ないんじゃないだろうか」「やめた方がいいんじゃないだろうか」。
(どんな大芸術家でも、そう考えたことのない人はいないはずだし、プロになってからも、毎日そう思い、毎日悩んでいる人は多いはずだ)

 音楽や芸事の「先生」をやっていると、そういった悩みを告白する生徒や弟子が毎日やってくる。おそらく全員が、一度は悩みに悩んだ末、こういった相談を持ち込むと言ってもいいかも知れない。
 その時、くだんの先生は「そう思うなら、やめたら?」と言い放つ。そして、この言葉を言うのだそうだ。

 確かに、40数年音楽をやって来て、しみじみ思う。
 私にもし「才能」というのがあったのだとしたら、
 それは「能力」でも「感性」でも「努力」でも「運」でもなく、
 ただ「どんなことがあってもやめなかった」こと。
 それだけだと思う。

 お金になる仕事と、お金にならない仕事があったら
 お金にならない方の仕事をやれ。
 お金にならない仕事の方が「尊い」

 最後に、これは、彫刻家をやっていた(母方の)祖父の言葉。
 人間にとって一番重要なのは、(それが一円にならなくても)「己の存在すべてをかけて〈美〉を希求すること」。
 これは、明治の職人気質を持った貧乏彫刻家(よく言えば「清貧」芸術家)の祖父だからこその言葉。いい作品を作りそれが評価されてお金が入る…というのはOKだが、金銭のために仕事をするのは下の下だという。

 常識的に考えればめちゃくちゃな教えだし、「働いて稼いでこそ仕事」という社会の根本を覆す極論だが、作曲の道を歩み出した私には(「狭き門より入れ」のような)「聖なる言葉」に思われた。

 しかし、随分たってからこれは、自分の仕事がまったく収益を生まなくとも,それを超えて孤高を貫くための「やせ我慢の理屈」だということに気が付いた。
 音楽でも美術でも芸事でも、自分の芸や技が認められ「お金」に結びつくことを嫌う人などいるはずもない。しかし、どんなに優れた仕事も作品も、「お金」に直結するとは限らない。むしろ、真摯に自分の道を貫くとき、往々にして世の無理解と「貧乏」は付きまとう。

 そんな時、「お金にならない」ことや「評価されない」ことを卑下し絶望するのではなく、むしろそれこそが尊い「生きる道」なのだと喝破する。これは、力強い励ましの言葉なのだ。

 実際、この言葉のおかげで、まったく経済的にも社会的にもどん底だった20代30代を乗り越えることが出来た。私にとっては「人生にくさびのように食い込んだ至高の一言」である。

 でも、まあ、楽に手っ取り早くまっすぐの道をすくすくと進めれば,それに越したことはない。
 最後の最後に、蛇足の一言を付け加えようか。

 ・・・大人の言うことを信じてはいけない。
    信じるものはすべて自分で探し
    自分のその手でつかみなさい。・・・(^○^)

          *
 
Flyerベルリンフィル八重奏団

モーツァルト:ホルン五重奏曲 変ホ長調 K.407
モーツァルト:クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581


ベートーヴェン:七重奏曲 変ホ長調 Op.20 

□2011年6月27日(月)東京オペラシティコンサートホール

アメリカン・バレエ・シアター

□オープニング・ガラ
・7月21日(木):18:30
□スペシャル!ドン・キホーテ
・7月22日(金):18:30
□ドン・キホーテ
・7月23日(土)13:00/18:00
・7月24日(日)13:00/18:00
□ロミオとジュリエット
・7月26日(火)18:30
・7月27日(水)18:30
・7月28日(木)18:30
□クロージング・ガラ
・7月29日(金)18:30

◆東京文化会館

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2011/07/10

夏休み特集1〈音楽のもうひとつのチカラ〉

Music 時々、テレビなどで思いがけず自分の音楽に出会うことがある。

 思いがけずと言うのは、クラシックの音楽番組などで「○○作曲・・・」と予告されて放送されるのではなく、普通の番組の背景にBGMとしてふいに自分の書いた音楽が聞こえてくるからなのだが、作曲家にとっては嬉しくもありちょっと吃驚させられもする瞬間だ。(注:参照)

 全ての番組をチェックできるわけもないので実態は分からないが、アートっぽい映像に静かなピアノ曲…とか、ドラマの抒情的なシーンにストリングス系の曲…というクラシカルな使い方は「なるほど」という感じ。
 ちょっと現代音楽っぽい変拍子の曲をいくぶんコミカルな場面に使われるのも、まあ「アリかな」という感じ。

 しかし、時には、バラエティ番組でいきなりオーケストラのど派手な部分…とか、クイズ番組でブリッジ風に一瞬…というような使い方をされることもあり、これはさすがに、「そう来たか!」とギョッとしたり苦笑したりする。

(注:ちなみに、既にCDになっている音源を放送局が使う場合、作曲家への事前の連絡や許可の申込みなどはまずない。音楽著作権協会と出版社と放送局の間でなにがしかの契約があって、「届け出」は必要だが「許可」までは要らないようだ。逆に、そういうBGMに使うたびにいちいち「許可」の問い合わせが来たら煩雑でしょうがないわけだが)

Tv 書いた当の作曲家としては,自分の作品を勝手に(イメージとぜんぜん違う方向で)使われるのは、まあ、心中穏やかではないが、「音楽」というのはそもそもそういう(敢えて言えば「XXとハサミは使いよう」な)処があるのも事実。

 これは、変な言い方をすれば、例えば自分の「娘」がテレビや映画に「女優」として出て、配役としてヒロインならぬ悪女をやったり宇宙人をやったりするようなもの。
 知らないでテレビを見ていた父親が、ギョッとしようが「イメージが違う!」と驚こうが関係ない。それに似ている。

(もっとも、父親の中には激怒して仕事をやめさせる人もいるし、作家の中には激怒して抗議に及ぶ人もいる。作ったものの権利と言えば権利だが、世に出た作品は(娘でも音楽でも)もはや作家の所有物ではない。手元に置きたいのであるなら、公表しないことだ。)

 もうひとつ、さらに言ってしまえば、イメージ通りの場面にイメージ通りの音楽を付け、イメージ通りの俳優にイメージ通りの役をやらせる「なるほど」系の使い方は、きわめて正攻法で無難ながら、そればかりだとつまらない。

 時には、清楚なお嬢さんっぽい女優に悪女をやらせてみたり、とぼけた気の弱そうな俳優に敏腕刑事をやらせてみたりする方が、意外な面白さが発揮できる。
 同じように、まったくイメージと違う音楽を付けることで思いがけない化学反応を狙う「そう来たか!」系の使い方を混ぜるのもまた、音楽の使い方としてはアリなのである。

□選曲の戯れ

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 むかし、ラジオ番組の「選曲」というアルバイトをしたことがある。

 放送局のCD倉庫から、適当なアルバム(クラシックでもポップスでも映画音楽集でもなんでもいい)を選び、場面にあった音楽を嵌め込んでゆくのが仕事である。ニュース番組や教養番組、あるいは(新たに作曲を頼むほど予算のない)ドラマなど「選曲」の出番は結構多い。
 ジャンルを問わず自由に音楽のタイプを選べるので、知っている音楽ジャンルの幅が広ければ広いほど有能と言うことになる。

 使うのは数十秒から長くて1分前後。1曲丸々流せるような長尺の場面はほとんどないので、曲の「一部分」を使う。時には短いブリッジ(場面転換)の音楽で数秒ということもあるので、なるべく「瞬間芸」的な(十数秒で完結するような)短い音楽が使い勝手という点ではベター。

 歌詞のある(そしてある程度知られている)ヒット曲だと、本編より歌を聴いてしまうのでBGMとしてはNG。(それに、歌詞が聞こえてしまうとさすがに著作権の問題が出て来る…)
 また、背景に薄くかかるのが基本なので、音量を落としたときバスドラムの音しか聞こえないようなビート音楽もNG。結果、アルバムの中の器楽だけの小品とか、曲のイントロだけとか歌の間奏のインストの部分だけというような使い方が多くなる。
 
 小さなラジオドラマの音楽を(作曲ではなく選曲で)担当したこともあったが、これは音楽次第で雰囲気と内容がかなり変わるので、なかなか面白かった。

King 主人公が不思議な世界に迷い込む(不思議の国のアリス的な)ファンタジーで、王様が登場するシーン。童話っぽい世界ながら、その世界の支配者だから、権威の象徴でありちょっと怖いイメージ。彼が一言何かを言うと「王様バンザイ」の声が巻き起こり、威厳と威圧感に満ちている。

 これにクラシックな(例えばワーグナーのような)重厚壮大な音楽を付けると、そのまま重厚でまじめな世界になってしまう。でも、元々がファンタジーなので、これに軽やかな(ミュート付トランペットのファンファーレみたいにちょっとコミカルな)音楽を付けてみた。

 すると、世界は一変。いきなり王様は大言壮語するただの怪しいオジサンになり、これってもしかしてネズミが王様のフリをしているだけなんじゃないか?と思わせる危うさが醸し出されるようになってしまった。音楽の力恐るべしである。

 さらに、途中で登場する若い騎士。主人公を助けてくれるまじめな好青年で、声は美声だし、言うことも行動も紳士的で親切。でも、それだけではあまり面白くない。そこで、BGMにトローっとしたロックのバラードをかけてみた。

 すると、いきなり良くて宝塚、悪くすると怪しげなコメディ的な世界に変質。女性ディレクターが「この人、ホモよね。絶対!」と断言する(今ならお姉ことばで話すような)思わぬキャラになってしまった。

 こういう音楽の効果は、日常的にもテレビでよく見かける。
 例えば、ニュースや報道番組で政治家や皇族や有名人などが登場するときの背景の音楽。海外ではニュースで大統領が登場するシーンなどは、そこそこ権威のありそうな音楽が付けられる。あくまでも「大統領閣下」なのだから当然だ。日本でも、皇室の場合は上品な音楽(むかしはバロック音楽が定番だった)がかけられる。

 しかし、日本で総理大臣や政治家が登場するニュースで、重厚まじめな音楽がかかっているのを聞いたことがない。ひどい時はチャカチャカした軽めの音楽が付いたりする。日本人は日々知らず知らずのうちに、音楽で「政治家=頼りない」という図式を刷り込まれているのかも知れない。
 
 確かにBGM(Back Ground Music)というくらいで、こういう場合の音楽は「背景」でしかない。でも、それは逆に言えば背景に広がる「世界」そのものということでもある。

 どういう世界で起こっているドラマなのか,どういう世界にいるキャラクターなのか…ということがBGMで表現されていることになる。
 ということは、背景の音楽が重ければ重い世界に、軽ければ軽い世界に(聴き手は)引きずられる。これは結構(ヒトラーがかつて重厚壮大な音楽を背中に背負うことで大衆を鼓舞したように)人心操作の奥義になりそうだ。

□シンクロとコントラスト

Traumaw この種の、映像や舞台(あるいは世界)と「音楽」との連携は、「同期(シンクロ)すること」が基本だ。

 重いシーンに重い音楽を付け、軽いシーンに軽い音楽を付ける。穏やかな風景のシーンなら穏やかな音楽、激しいアクションシーンには激しいアップテンポの音楽。
 さらに、主人公が立てばアクションの音楽、歩けば歩くテンポの音楽,走れば走ったテンポの早い音楽…というように、ぴったり動きと合わせる(シンクロさせる)のが「シンクロ」の技法である。

 これは、「見た目」を補強あるいは増強させる効果がある。きれいな景色をさらにきれいに感じさせ、激しく興奮するシーンをさらに盛り上げる。
 そして、主人公の動きを強調し、観客の視線を誘導し、気持ちを引き寄せ、ストーリーの方向性を際立たせる。

 低予算で人数が少ない場面でも、壮大な音楽を付ければそれなりに豪華なシーンに見えてくるし、貧相な髭の男でもローマ皇帝みたいに見えてくる。さほどパッとしない景色も、きれいな音楽を流せばそれなりに美しい景色に見えてくるし、何の変哲もない暗闇でも、怪しげな音楽をかければ何だか怖いことが起きそうな状況に見えてくる…という仕掛けである。
 映画などで音楽が必要以上に使われるのは,この効果ゆえだ。

 一方、敢えて逆のタイプ(対照的:コントラスト)の音楽をぶつける技法もある。
 つまり、重いシーンに軽い音楽、軽いシーンに重い音楽。先に話したような、偉そうな王様が出て来るシーンで、全く逆の軽〜い音楽をぶつけるやり方である。

Donqui 例えば、西洋の甲冑を着てヤリを持った男が,お供の従者を連れて無言ですっくと立っているシーンがあったとしよう。
 これに、ワーグナー並みの重厚勇壮な音楽を付ければ、これはこの騎士がいっぱしの英雄で物凄く強い伝説の男に見えてくる。これが「シンクロ」。

 対して、ちょっとチャカポコ気味のリズミカルな音楽を付けてみる。すると同じ絵柄でもいきなりこの騎士はドン・キホーテ、お供の従者はサンチョ・パンサに見えてくる。これが「コントラスト」。

 あるいは、時間的な「ずらし(はずし)」も、シンクロと逆の効果として挙げられる。
 疾走する主人公、激しい戦闘シーン、暴走するカーレース・・・などは、正攻法で言えばアップテンポの激しい音楽が付けられるべきだろう。

 しかし、ここにスローテンポの曲を静かに流す。
 それで得られる効果は、例えば、疾走する主人公のその後の悲劇の予兆、戦闘の空しさや悲しさ、暴走する果てに迎える悲劇あるいは過去の回想・・・いろいろな「もうひとつのシーン」が、コントラストの隙間から見えてくるという仕掛けだ。

 もっとも、その効果は直接的なものではなく、かなり「考えオチ」的な処があるので、見た誰もが分かるとは限らない。ゆえに(誰にも分かってもらえず)大失敗…という危険性も大なので、念のため。

 注:このあたりのもっと詳しい技法については、当ブログの映画音楽の作り方を参照のこと。

□詞先と曲先

Allwork このように「音楽」だけでは出来ない表現が、他のジャンルとのコラボレーション(共同制作)で出来るというのも、音楽に関わる楽しみのひとつだ。

 そもそも普通に「歌」というのが,「作曲家」と「作詞家」のコラボである。
 本来「音楽」は抽象の世界(何だか知らないけど切ない、何だか分からないけどわくわくする…など)だが、ことばを得ることによって新たな具体的なイメージ(恋人や故郷や民族や歴史や思い出など)を加えることになる。それによって、音楽だけでは表現できない世界に踏み込むことが出来るわけだ。

 この「詞」とのコラボ、微妙に「主」と「従」の関係がある。
 作詞家と作曲家が作る「歌」の場合、「ことば」が「主」となる場合と、「曲(メロディ)」が「主」となる場合があるのが良い例だ。
 
 詞が先に出来ていて、それにメロディを付けるのを「詞先(しせん)」などという。
 作詞家が「ああ〜私の恋はぁ〜なんとかかんとか〜」というような詞を1番、2番、リフレイン…などと書いてきて、作曲家がそれに合わせてメロディを作る。(たまには、歌いやすさの点から,言葉を換えたりカットしたり繰り返したりの調整はあるが,基本は「詞」がメインである)。

 それに対して、作曲家が「ららら〜ら〜」というような印象的なメロディを思い付き、それに「何か良い歌詞を付けて」という注文を受けて作詞家が歌詞を考える作り方を「曲先(きょくせん)」などと言う。外国の歌に日本語の歌詞を付けるような場合も、これに相当するだろうか。

 もちろん、作詞・作曲とも一人の音楽家が担当することもあるし、印象的なワンフレーズだけが「詞先」にしろ「曲先」にしろ最初に浮かび、そのあとで相互ふくらませ合いながら作ってゆくこともあるから、両者に厳密な境界線があるわけではない。

 しかし、そのどちらにしろ、詞の世界に合わせたメロディを書き、メロディに合わせた詞を書く…というのが基本というのは変わらない。詞のイメージからメロディが浮かび、メロディのイメージから詞が浮かぶ。その相互作用で「歌」のイメージが強化されてゆくからだ。

 ただし、これも敢えてコントラストを狙って、ユニークな世界を作る…という手もある。
 例えば、演歌風の歌詞にハードロック風のメロディを付ける…という技もあるし、男性歌手が歌う明るいメロディに女性のことばの詞を付ける…という裏技も(失敗するリスクは高いが)可能というわけだ。

Recording オペラなども、その言い方で言えば完全に「詞先」である。
 というより、こればかりは詞つまり台本&セリフがなければ曲は作れない。オペラを「曲」だけ作曲して、あとから歌詞を付ける…などということは聞いたこともないし、考えただけでも怖ろしい作業になりそうだ。

 そのため、オペラの場合は、それぞれの登場人物のキャラクターやセリフにどういう音楽を付けるか…という世界観の創造に作曲家が大きく関わることになる。
 どんな端役でも(作曲家の思い入れ次第で)素晴らしいアリアをあてがわれれば主役級の注目を得られるし、逆にどんなに地位の高い人物も、それに付けられる音楽次第で存在の重さ軽さが左右されるからだ。オペラの場合は、作曲家がかなり強力な創造主のひとりと思って間違いないだろう。

 一方、映画や映像作品の場合は,微妙だ。
 一般的なのは、映画の本編が出来てから、その映像に合わせた構成と寸法で作曲家に音楽を書いて付けてもらう(あるいは出来合いの曲の中から「選曲」する)やり方。歌で言うところの「詞先」で、これは「アフレコ(After Recording)」という。
 対して、最初に音楽が出来ていて,それに合わせて映像を作ってゆくこともある。歌で言う「曲先」で、こちらは「プレスコ(Pre Scoring)」。

 こちらはオペラと違って、映像と音楽を統合する「監督」という創造主がでんと君臨しているので、作曲家の思い入れが100%通るということはあまりない。
 音楽によって作品世界を創造するような役割りを与えられることもなくはないが、多くの場合は「スタッフ」の一人として「音楽の部分を担当する」という地位であることが多いと言えそうだ。

 演劇やドラマは、さらに「スタッフ化」が進む。
 まず「台本」があって「セリフ」があり、ほぼ舞台の構成が決まったところに、作曲家が場面に合わせて曲を書く。これが「劇判(劇伴奏音楽)」あるいは「付随音楽」。
 これも前述の映像作品と同じように、出来合いの音楽を「選曲」で使うことも多い。音楽は「背景」であって、舞台を成立させる小道具に過ぎない。(なにしろ、音楽など全くなくても舞台は成立するのだから)。完全に「スタッフ」の一人である。

 一方、バレエやダンスでは(公演の趣向によって異なるが)、音楽なしには舞台は成立しないので、いくぶん「曲ありき」になる。
 かつてのクラシックバレエ全盛の時代は、興業主が決めた題材に沿った「台本」がまずあり、それを元にした基本的な演出プランがあり、それに合わせて作曲家に曲を発注する。そして、それに合わせて振付の踊りを考える…というのが基本的な作り方だったようだ。
(そもそもCDやレコードのような録音による音源がなく、音楽はオーケストラなりバンドなりに生演奏してもらうしかなかった時代は、これが普通だったわけだ)

 それが最近では、まず「曲」を探してきて、それに合わせて「台本」や「構成」そして「振付」を考える…という作り方が増えてきた。CDやレコードの音源があれば、オーケストラでもロックでも自由に背景音楽として使えるのだから、その方が枠に囚われない自由なテーマで舞台を作れると言うことなのだろう。

 この場合、舞台監督(あるいは演出・振付)に当たる人が創造主となり、前述のシンクロやコントラストで音楽を組み合わせ世界を作ってゆく。
 白鳥の湖に白鳥の衣装、ロミオとジュリエットにイタリア中世の衣装と背景…というのは正攻法だが、クラシックの古典名曲の響きに現代風サラリーマンやジーンズの衣装をぶつけたり、逆にモダンなコンピュータ音楽の響きに和風の着物や絵巻物の背景を組み合わせたり、「演出」のアイデアで新しい思いもよらない世界の表出も可能というわけだ。

□コラボレーション

Rhrs1 音楽というのは、もちろん(交響曲やソナタのように)単独で存在することもなくはないのだが、多くの場合、様々なジャンルとの〈共作(コラボレーション)〉で生命を得る。

 交響曲のような〈単独創作〉の極北にある音楽も、私たちが音楽として聴く時は、作曲・指揮者・演奏家・オーケストラなど複数の音楽家たちのコラボレーションとしてだ。
 この世に存在する「作品」は、一人の作家だけの創造物ではなく、「作詞家」「脚本家」「映画監督」「演出家」「振付師」「美術家」などなど複数の個性が協演することで誕生する〈共作〉と言ってもいい。

 その場合、おおまかに「主」と「従」のような関係が生まれる。
 しかし、「従」が必ずしも「主」に従っているだけではなく、また「主」の言うことを聞いているだけではないのは、今まで述べたとおり。

 時に、ぴったり同期(シンクロ)した主従関係もあれば、対照(コントラスト)的な個性をぶつかり合わせた(時には反発し合あった)主従もある。
 さらに、控えめに「従」に寄り添う「主」もあれば、いつの間にか「主」を食って前面に出て来る「従」もある。
 
 そして、そこから思いもよらない新しい世界が生まれることもあるから、世界は面白い。

 これからは、「作品」と出会うとき、「音楽」の効果や「主・従」関係にもちょっと踏み込んで注目してみるのはどうだろう。

 そして、「あ、ここは〈合わせて〉るな」とか「おっと、ここは〈はずして〉るぞ」という〈制作側〉の思惑や演出が感じられるようになればしめたもの。
 聞き慣れ見慣れた世界のむこうに、今までとは違った新しい世界が体験できることだろう。

          *

アメリカン・バレエ・シアター

□オープニング・ガラ
・7月21日(木):18:30
□スペシャル!ドン・キホーテ
・7月22日(金):18:30
□ドン・キホーテ
・7月23日(土)13:00/18:00
・7月24日(日)13:00/18:00
□ロミオとジュリエット
・7月26日(火)18:30
・7月27日(水)18:30
・7月28日(木)18:30
□クロージング・ガラ
・7月29日(金)18:30

◆東京文化会館

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2011/08/10

夏休み特集2〈クラシック音楽:最初の一枚〉

Composersg むかし、行きつけのレコード店で(つまり、まだLPレコード盤が主流だった頃)、面白い光景に出くわしたことがある。

 高校生くらいの男の子が一人、クラシック音楽コーナーのレコード棚をあちこちぐるぐると歩き回った挙げ句、店員にいきなりこう相談を持ちかけたのだ。
「すみません。〈これ1枚持っていたらクラシック通の顔が出来る!〉みたいなレコードありませんか?」

 店員が「どういうことですか?」と聞くと、少年いわく…
 クラスの女の子で、クラシックに興味を持っている子が一人いて、何かの拍子に「ぼくも実はクラシック音楽が好きなんだ」と言ってしまった。でも、実際はクラシック音楽なんて聴いたこともない。
 しかも、調子に乗って「今度、お勧めのレコードを貸してあげるよ」と言ってしまった。
 さて、どうしたらいいだろう?とレコード店にやって来てあちこち探し回たが、どれを選んだらいいか分からず、考えあぐねて店員に声をかけ、件の質問になった…ということらしい。

 いや、思わず笑ってしまった。
 と同時に、こんな面白い話に乗らないわけにはいかない、という余計なお世話心も加わって、顔なじみの店員さんと一緒に、彼氏にふさわしい一枚を提案するディスカッションに参加することになった。

■ クラシック・ベスト of ベスト

Karajanu ちなみに、私が、中学3年の時に最初に買ったクラシックのレコードは「運命」と「未完成」のカップリング盤だった。まあ、これは定番中の定番なのか、かの店員さんが真っ先に並べた数枚の中にもこれがあった。

 でも、「女の子に「運命」「未完成」でもないかなあ」とちょっと自信なさげ。私がそれに追い打ちをかけて、「運命・未完成って、いかにもクラシック入門の感じがして、〈通〉の顔が出来る…というのとは違いますよね」と言い、却下。同じ理由で、名曲過ぎる「新世界から」や「田園」も残念ながら却下されてしまった。

 続いて、ショパンのピアノ名曲集。「これは、女の子向けとしては良い選択かも知れないですね〜」と店員さん自信ありげ。
 確かに、ノクターンや子犬のワルツや革命のエチュードなどなど、学校の音楽室で美少女がピアノを弾いているシーンに一番似合うのはこのあたりだろう。

「でも、クラシック好き…という女の子ならこれは持ってるでしょうし。そもそもその女の子がクラシック好きになったのってショパンからのような気がぷんぷんしますよね」と私。「いや、持っていたとしたら余計、〈あ、これキミも好きなの? ボクもだよ!〉という会話に発展するかも…」と店員さん。なるほど。というわけで、これは候補の一枚に。

 次にモーツァルト。イメージとしては悪くないのだが、「この一曲」あるいは「この一枚」と絞れる曲となると意外と難しい。それに(私もそうだったのだが)初心者にとっては「あまりにも初心者向け」に聞こえるのだ、モーツァルトというのは。
 
 私としては「ピアノ協奏曲なんかいいのでは?」と提案。試しに、23番あたりを聞いてもらったのだが、案の定、彼氏は「きれいだけど、なんだかピアノのお稽古やってるみたいだなあ」とちょっと不満げ。確かに、モーツァルトのこの軽さが理解できるのは、もう少しクラシックを聞き込んでからだろうね。

Vivardi それじゃあ、と店員さんが出してきたのは、LP時代にベストセラー盤だったヴィヴァルディの「四季」(イ・ムジチ盤)。

 これは、いかにも「クラシック(というよりバロック)」という響きだし、入学式や卒業式で流れる定番クラシックで、当時は「一家に一枚」と言われたほどポピュラー。春・夏・秋・冬という構成は日本人向きだし、耳に心地よく、難しくないし、飽きさせない。
 でも、これも「クラシック好きの家庭なら、お父さんが買って持ってるでしょう」という理由から却下。うーん、なかなか難しい。

 入門者向けと断言されてしまった「運命/未完成」「新世界」(とは言っても、音楽の質の高さから言って決して初心者向けではないのだが)以外に、幾分〈通〉っぽいもの…となると、チャイコフスキーの「悲愴」やベルリオーズの「幻想」あたりだろうか。
 音楽の授業で聞く〈クラシック音楽〉とは違った(教育的にはちょっといかがなものか…的な)妖しい世界が、ちょっとマニア好み。

 でも、高校生の彼氏とクラシック好きの彼女の間で、恋人を殺して断頭台に登る男が見た夢を描いた交響曲(幻想)とか、絶望と諦観の間で揺れ動き最後は死を暗示する交響曲(悲愴)というのは、さすがにいまいちお勧め切れない点が・・・

 ベートーヴェンの「第9」は、フルトヴェングラー指揮(バイロイト祝祭管)の「第9」なんかが最初の一枚でお勧めしたい定番の歴史的名盤だが、モノラルなのが初心者に勧めるのにちょっと躊躇するところ。これも、少しクラシックを聞き込んでからの方がいいのかも。

No7b と、このあたりまで来て、むかし高校の時、隣のクラスに〈クラシック通〉の変わった男がいたことを思い出した。

 私がクラシック初心者と見て取ると、いきなり「きみはベートーヴェンの交響曲の中で何番が好き?」と言う。それが彼との最初の会話だった。(やはり、変わった男だ)
 私が「それは、や、やっぱり〈運命〉かなあ」と答えると、彼は、ふふと軽く笑って「ぼくは〈7番〉だね」とひと言。(某テレビ番組の影響で〈7番〉がヒットする40年以上前の話である。念のため)

 私が「どんなところが?」と聞くと、「7番って言うのが一番〈通〉っぽい答えじゃない?」と言う。悔しいが、斜に構えたインテリ文士のような名回答だ。

 まあ、今なら小学生でも〈7番〉と言いそうだから、逆に〈4番〉あたりが通っぽいかも知れない。私は彼の話を聞いた後からは「第8番」ということにした(笑)。
(そう言えば、ベートーヴェンも、第9を書く前に〈先生は今まで書いた交響曲のうちどれが気に入ってますか?〉と聞かれて〈第8番〉と答えたらしいが、これは書き上げたばかりの最新作に一番思い入れがあったということなのだろう)

 この伝で、ショスタコーヴィチの交響曲なら「第5番」ではなく〈4番〉や〈8番〉、マーラーなら「巨人」でも「復活」でもなく〈第7番〉や〈第10番〉。ワグナーの楽劇なら〈パルジファル〉あたりを挙げるとインテリ文士っぽい。

 でも、さすがに初心者にそこまでは無理、というわけで「ちょっと視点を変えてコンチェルトなんかどうかな?」と引っ張り出したのが、ショパン、メンデルスゾーン、チャイコフスキー、ラフマニノフらのコンチェルト色々。

 ショパンのピアノ協奏曲(ホ短調)は音楽もロマンチックだし、確か女性のために書いたんじゃなかったかな。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲も冒頭から引き込まれる哀愁極まる名旋律がいい。ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番も、映画音楽に使われたほどの美麗な音楽。個人的にはシューマンのピアノ協奏曲なんか素敵だなあ。
 …と並べていったが、逆にちょっと沢山ありすぎて1枚に絞りきれないのが微妙なところ。

Solti そのうち「若い子ならロックなんか好きなはずだから、ストラヴィンスキーなんかどうでしょうかね?春の祭典とか」という話になって、サワリを聞いてもらうことになった。

 かくしてレコード売り場に〈春の兆し〉と〈生け贄の踊り〉が響き渡ったが、彼氏いわく、「音がでかいのは分かったけど、音楽は何だかよく分かりません」とのこと。あっ、そう。ビッグバンドジャズ風のサウンドはともかく、変拍子がね〜。

 じゃあ、変拍子がもう少し穏やかなホルストの「惑星」なんかどうかしらん?と、冒頭の「火星」を聞いてもらう。(この曲、この頃はまだ一部のマニアにしか知られていなかった。念のため)これは「おおッ、なんだかカッコいいですねッ」と好評。これは、なんとか候補の一枚に。

 そのうち「そもそも〈通ぶる〉…んだったら、普通のクラシック愛好家レヴェルの人が聞いたことのないようなマニアックな曲を聴かせるって言うのもアリですよね」という話になり、店員さんと私でマイナー曲合戦が始まった。

 私は「ショスタコーヴィチの14番」「ベルクのヴァイオリン協奏曲」「ディーリアスの夏の歌」…。店員さんは「モンテヴェルディのオルフェオ」「ブルックナーの交響曲第8番の初稿!」「スヴィリドフの〈悲愴オラトリオ〉!」とエスカレート。

 最後には「じゃあ、バッハの平均律クラヴィア曲集全巻ッ!」「いやいや、ワーグナーのニーベルングの指輪全曲ッ!」「シュトックハウゼンのグルッペンッ!」…

 …と、延々ああでもないこうでもないと議論を重ねた記憶はあるのだが、肝心の「で、結局、彼が何を買っていったのか」というのが記憶にない。

 いろいろ提案されて逆に混乱して、「また来ます」と言って帰ってしまったような気もする。よかれと思って悪いことをした・・・のだろうか?

 さて、あなたが彼氏に勧めるとしたら何?

■最初の愛聴盤

 というわけで、最後に、私がクラシック超初心者の頃、最初に「愛聴盤」としてレコード棚に収まった数枚をご紹介。

◇シベリウス:交響曲第6番/第7番(カラヤン指揮ベルリン・フィル)

Sibelius67b これは最初の個人的愛聴盤。まだクラシックを本格的に聴き始めて半年ほど、チャイコフスキーの4番5番やベルリオーズの幻想あたりを初めて聴いていた〈クラシック超初心者〉の頃に出会った一枚。

(出会う前までは、なんだか、シベリウスってシベリアに響きが似ていて涼しそう…というくらいの印象しかなく、「フィンランディア」も交響曲第2番も聴いたことすらなかった)

 きっかけは、当時(1968年)カラヤンが〈第4番/トゥオネラの白鳥〉〈第5番/タピオラ〉と続けて新譜で出していたからで、そのトリが〈第6番/第7番〉だった。この3枚ですっかりシベリウスの冷たく神秘的な響きと、カラヤン&ベルリンフィルの超美音の世界に魅せられてしまった。

(後に、この頃カラヤン=ベルリンフィルでヴィオラを弾いておられた土屋邦雄氏と、BS-Hiの番組で対談する機会があり、〈トゥオネラの白鳥〉を録音した時の話などをお聞きすることができた!)

 特に〈第6番〉は、冒頭の冷たく美しいストリングスの響きを聴いた途端、気絶しそうな感動に襲われた。昔から信奉していた宮澤賢治(銀河鉄道の夜)にあまりにも宇宙観が共振する音楽だったこともあったせいか、本当に心の底から震撼し、涙が出るほど身体が震えた。
 その瞬間からシベリウスは私の〈心の師匠〉となり、フィンランドに行き、師の墓に詣でることが最初の〈夢〉になった。

 その後の自分の進む道を決定づけたある意味「聖書」のような一枚であるとともに、ずいぶん後になるまで「人には決して勧めなかった〈私だけの一枚〉」でもある。
(…良い曲は人に勧めたくなるものだが、この曲だけは別。とにかく人に話すのがあまりにも「もったいない」、自分だけの宝物のような気がしたのだ。)

 ◎CDは、カップリングは違うものの、現在でもグラモフォン盤で聴ける。輸入盤ながら4番から7番までの後期交響曲全てが2枚組で収録されているものが、当時録音された交響詩も含まれていてベスト。シベリウスの後期の作品は、その後、フィンランド本家本元の演奏による名盤も増えてきたが、6番7番の無国籍で宇宙的な響きの世界は、この時代のベルリンフィルの冷たい弦の響きが最高の肌触りだ。

◇日本の現代音楽選

Texturesd これは、日本の現代音楽に接した最初の一枚。LPの当時、正確には何というレコードタイトルだったか思い出せないのだが、武満徹「テクスチュアズ」、三善晃「管弦楽のための協奏曲」、黛敏郎「曼荼羅交響曲」がカップリングされた1965年頃のアルバムである(日本コロムビア:岩城宏之指揮NHK交響楽団)。  

 中でも武満さんの「テクスチュアズ」(1964)には、生涯消えない衝撃を与えられた。弦のテクスチュアにシベリウスっぽい響きがあるのも、いきなり共振してしまった理由だろうか。
 以後、この「テクスチュアズ」の響きが頭から離れず「どういうスコアを書いたら、こういう響きになるんだろう?」という問いが作曲家の修練の核になったと言ってもいい。(それは、最初の交響曲を書いてようやく解消されるまで20年以上続いた)。

 当時の武満さんは、ニューヨークフィルからの委嘱を受けた日本の新進作曲家…として売り出し中。その成果である1968年の「ノヴェンバーステップス」(メシアンのトゥランガリラ交響曲とのカップリング盤)、1969年の「小澤/武満69」(アステリズム、グリーンが収められた名盤)、1966年の「武満徹の音楽」(4枚組LP)とレコードにも恵まれ、「なるほど現代ではこういう音楽の方向性が〈作曲家〉としての生きる道なのか」と、目を開かれることになった。

 同時収録の三善・黛作品も色彩あふれる見事な演奏だが、これは一にも二にも岩城さんのキャラクター。(後に、岩城さんと会って話す機会があった時、〈あれは岩城さんのサウンドですよね〉と絡んだことがある。もちろん絶賛の意味を込めてである)。
 スタジオ録音による人工的な音作りもまた鮮烈で、〈曼荼羅交響曲〉の空間的広がり、〈管弦楽のための協奏曲〉のきびきびしたクール感は絶妙というしかない。

 ◎CDではこのカップリングは存在しないが、武満徹「テクスチュアズ」は石井真木(響層)、高橋悠治(オルフィカ)作品とのカップリング、黛敏郎「曼荼羅交響曲」は舞楽とのカップリングで共にデンオン盤で聴くことが出来る。しかし、三善晃「管弦楽のための協奏曲」はCD化されたのかどうか残念ながら不明。

◇ワーグナー楽劇「ニーベルングの指輪」(全曲)

Nibelungen ワーグナー畢生の大作「ニーベルングの指輪」は、作曲家を目指す男の子としては(世界連邦の大統領になって世界統一を目指すような…あるいはマッドサイエンティストになって世界征服を目指すような)夢の大目標だった。

 なにしろゲルマン神話の集大成であり、上演になんと4日もかかる巨作であり、一人の男が妄想で生み出せる究極最大の音楽の「構造物」なのだ。
 現実の世界では、ピラミッドとか大神殿とか超高層ビルに相当するもの(ゆえに膨大なお金と人出が必要)だが、それが妄想…もとい作曲するだけなら「一人」で出来る。こんな凄いことはない。作曲家の卵の卵としては「なんて素晴らしいのだ!」と心底憧れてしまったわけだ。
 
 しかし、この大作、今でこそCDでもDVDでも何種類もの録音で鑑賞できるが、1968年にショルティ&ウィーンフィルによる世界初の全曲盤(Decca)が登場するまで、その全貌は分からず、文字通り「幻の巨作」だった。
 だから、当時「LP22枚組!!!」(ライトモチーフ集のLP付き!)として登場した全曲盤は、クラシックマニアにとって何というか「女房を質に入れても手に入れたい初がつお」みたいなものだったのである。

 もっとも、当時一介の高校生だった私には、質に入れる女房もなく……結局、毎年年末にNHKがFMで放送している「バイロイト音楽祭」のライヴをオープンリールテープで全曲エアチェック!…という気の遠くなるような繰り返しつつ、ずいぶんかかって中古盤を手に入れることになったのだが。

 録音プロデューサーは伝説のジョン・カルショウ。明快なステレオ効果やサウンド・エフェクトも含め、かなり音響的に凝った(悪く言えば人工的な)録音だが、ワーグナーの壮大かつ誇大妄想狂的宇宙が、ハリウッド映画並みの鮮烈さで眼前に広がる。

 ◎歴史的名盤なのでCDでも、全曲盤(14枚組)がごく普通に手に入るほか、最近、SACD盤でも復刻されている。(ちなみに、全曲聴くと15〜6時間かかるのは、LPでもCDでも同じ。当たり前の話だが)

          *

Flyer チャイコフスキー国際コンクール
 優勝者ガラ・コンサート

 2011年9月8日(木)19時サントリーホール

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2011/09/10

人と単位と音楽と

Music_2 人間の文明というのは、「人のかたち」をしている。

 例えば、西洋で古くから使われている長さの単位「フィート(約30センチ)」は、人の足(Foot)の大きさ(つま先からかかとまで)が基準だと言うのは、御存知の方も多いだろう。
 
Foot 東洋の「尺」も、元々は(尺取り虫というのがいるように)指を広げた時の親指から中指の長さから来ていて、昔は18cmくらいだった。
 だから、漢字の「尺」という字も、親指と中指を広げた形からきている。

 これはその後、時代や国によって変化し、日本で使う「尺」は約30.3cm。これは、ほぼ人間の腕の長さ(肘から手首までの尺骨の長さ)で、1尺=10寸。「尺八」と言ったら「一尺八寸」=約60cmということになる。
 ただし、地域あるいは職業などによって(高麗尺、曲尺、鯨尺など)尺の長さは微妙に違うのは御存知の通り。

 面白いのは重さの単位で、「ポンド」(約450g)は、人が一日に食べる麦の量から決められたのだそうだ。
 麦1粒の重さが1グレーンで、麦7000粒が1ポンド。この1ポンドの大麦から作られた粉で焼いたパンが、人が一日に食べる主食の量。つまり、10ポンドの麦と言えば、1人で10日、2人なら5日食べられる量ということになる。

1go 米食文化の日本でも、同じような単位がある。
 一合(ごう)というのが、大人が一回に食べるお米の量。体積としては約180mlでお米なら約150gほど。10合が1升、10升が1斗、そして10斗を一石という。(ちなみに、米俵の一俵は4斗。約60kg)

 ということは、一合のお米を一日3食一年間食べると約1000食になるので、1000合=100升=10斗=一石。つまり「一石(いっこく)」というのは、「大人が一年に食べる米の量」ということになる。

 戦国大名で「一万石」と言ったら、一万人の人間が食べられる量の米を生産する領地を持ち、それに見合うような兵力を持った家柄ということ。「百万石」と言ったら、百万人の人間を扶養できる裕福な土地と強大な兵力を持った大名ということになるから(まあ、どこまで正確な数字かは分からないが)、相当強大な大名と言うことになる。

 さらに、その一石の米を生産できる広さの土地が「一反(たん)」。これは300坪に当たる。(ちなみに、布のサイズ「一反」は、着物一着分の意)
 一年分の300分の1は一日分なので、一坪(つぼ)というのは、人間が食べる一日分の米を収穫できる広さの土地のことになる。

 日本は、いろいろなことが「お米」を基準で出来ている国なのである。

             *

◇音の基準と音階

440hz 音楽も同じで、今は「ラ(A)」の音を440Hzとして基準音にしているが、むかしは「音の高さ」も「音階」も、それを科学的に計測する道具はなかった。
 さて、そんなとき「基準の音」を決めるのにどうしたのだろう?
 
 そう。基準は「人間の身体」で作るしかない。そこで決まったのが、「普通の人が出せる一番低い音」…という基準だった。(もちろん昔々の話なので、女性や子供ではなく「声変わりした後の成人男性」が基準である。念のため)

 高い音というのは訓練次第でより高くまで出せるが、最低音というのは体長やノドの長さに因ってあまり変化しない。

 この時の基準音が「低いソの音」だったようなのだ。
 身長の高い人や体格のいい人はもっと低くまで出るが、成人男性…合唱だと「バリトン」に当たる…が出せる最低音がこの「低いソ」。
 何人かが集まって「一番低い音」を「おお〜〜」と出し、「この音を基準にしよう」ということになったのだろう。この「最低音」を「γ(ガンマ)」と呼ぶようになった。

Gamma やがて、その「γ」を基準にして、その上の音を「A」とし、そこから「A・B・C・D・E・F・G」とアルファベットを振った。これが(諸説あるものの)「音階」の始まり(らしい)。

 ちなみに、現代の合唱では、もっとも低い音を担当するバスは、「低いミ」まで出す。普通の合唱ではほぼこれが最低音になる。
 余談だが、コントラバスもギターも(オクターヴは違うが)最低音は「ミ」。これは男性の最低音域と関係ありそうだ。

Do_2 しかし、例えばロシアの合唱ものはさらに低い「ド」を普通に出す。しかも、単に低音を出すだけでなく、このドを太いベースの響きにして、その上に分厚いハーモニーが乗る。まさに重厚。これがとてつもなく気持ちいい。

 個人的なこの低いドの初体験は、ショスタコーヴィチのオラトリオ「森の歌」。ラフマニノフの無伴奏合唱の「晩祷」でも朗々とバスのドが地響きのように鳴り渡る。体格や文化の差もあるのだろうが、何か別の世界に引き込まれるようなズーンと腹に共振する大地の響きの感じがする。

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◇合唱の音世界

Photo 西洋のハーモニーは、低音の基音の上に「倍音」が積み重なってゆくのが基本。特に「自然倍音」と呼ばれる基音の振動数の整数比を持った倍音(簡単にいうとドミソ)が「ハモる」響きとされる。

 これは、洞窟文化によるものだと、私は勝手に想像している。オープンな屋外のスペースでは、声の中に自然倍音が聞こえることはあまりないが、洞窟や教会のような残響(いわゆるお風呂場エコー) たっぷりの空間では、文字通り「自然」に聞こえてくるからだ。

 結果、洞窟にエコーする自然倍音の響きが、最も調和した響きとして脳に刷り込まれ、(さらにキリスト教の美学が加わり)それを最大限引き出すべく「五線譜」や「対位法」そして「和声法」などの「音楽文化」が進化して行ったわけだ。

A 当然ながら、そう言った教会での音楽文化で育った西洋人の声は、倍音を多く含んでハーモニーに適している声質をしている。と言うより、自然倍音を綺麗に含んだ声を持つ人が「いい声」とされ、さらなる訓練で洗練されて行ったということなのだろう。

 一方、東洋の音楽には西洋音楽で言うような(自然倍音から派生した)ハーモニーはない。日本人が西洋的なハーモニーを初めて耳にしたのは明治になってから。初めてドミソのハーモニーを聞いた日本人はあまりの異様な響きに仰天したそうだが、さもありなん。何よりドミソの「ミ」の音が不可解だったらしい。

 しかし、それは東洋にハーモニーのシステムがないと言うことではない。西洋は「自然倍音」を美しいと感じる感性の上に築かれた音楽文化だが、東洋は逆。自然倍音は美しくないという感性の上に築かれた音楽文化である。これが根本的に違うわけなのだ。

Cd02 西洋では、ものの形や建築物でも、左右対称だったり綺麗な円形だったり幾何学的に調和が取れた形を「美しい」と感じる。

 一方、東洋、特に江戸時代以降の日本では逆だ。過度のシンメトリーはむしろ「異様」と感じ、幾何学的数学的な調和を壊すことの方が「美」とされる。ワビサビの世界などはその極致だ。

 音楽も同じで、西洋ではより豊かな自然倍音を含む音を「楽音」と呼び、そうでない音は「雑音」扱いになる。しかし、日本では、例えば尺八にしろ笛にしろ、美しい音は自然倍音から外れた個性的な倍音を持つ。

 純音に近い楽音というのは、むしろ最も避けるべき音であり、尺八ではムライキ、笛ではヒシギと呼ばれるノイズ音が重要な演奏法であり、三味線や琵琶にも、弦にサワリと呼ばれるノイズ音を加える構造があって、ビィンと唸る音(つまり「自然でない」倍音)こそ尊ばれる。
 そして能の謡にしても義太夫にしても、西洋風のベルカントとは程遠い「ノイズ成分たっぷり」の歌の方が好まれる。演歌でもコブシと呼ばれる音程から外れた音の揺れに「表情」の深さを聞き取るわけだ。

Siro そのため、明治時代に初めて日本の音楽を聞いた西洋人は「悪魔の響き」だの「非音楽的」だのと感じたそうだ。
 ヨーロッパの常識では、自然倍音こそ「美」であり「調和」であり、それを崩す者(不協和音)は「悪魔」だったのだから仕方のないことだったのだろう。

 しかし、同じヨーロッパでも、ちょっと東にゆくと、独特の東洋音階を好むハンガリーや、地声ハーモニーのブルガリアンヴォイス、独特のペーソスを含んだ短調(マイナーコード)の響きを好むロシアと、かなり「異教」の世界が聞ける。

 これは、洞窟にこもって自然倍音を聞いた「洞窟文明」ではなく、屋外での音楽を主にする「アウトドア文明?」の特徴だろうか。

 ここでは「ドミソ」の長調が醸し出す能天気な明るさはむしろ不自然。短3度の和音が短調の世界で鳴り響き、2度や7度の(自然倍音のハーモニーの中では)不協和音とされる響きが、独特の「泣かせる」ハーモニーを醸し出す。日本人にとっては、こちらの方がしっくり来るはずだ。

 この「インドア派=西洋」「アウトドア派=東洋」の境がどの辺りか探るのも、面白いかもしれない。無理やり分別するなら、長調こそがハモっていると感じるのが西洋的、短調のほうがハモってると感じるのが東洋的、と言うことにでもなるだろうか。

          *

Cd03 ロシアの合唱は、その西洋と東洋の狭間に響く魅力的な音楽世界だ。

 同じキリスト教の無伴奏聖歌でも、例えば純西洋的なカトリック系聖歌やグレゴリオ聖歌の響きと、東方教会・ギリシャ正教やロシア正教の響きはかなり違う。
 当然ながら、西洋クラシック音楽の規範となっているモンテヴェルディやバッハなどのハーモニーの感触と、チャイコフスキーやラフマニノフの合唱の感触もかなり違う。

 純粋に西洋キリスト教音楽のハーモニーが染み込んでいる人には「異端」の香りがするのかも知れないが、我々日本人にとっては、ちょっとペーソスのある異端の響きこそ、むしろ「心の歌」に聞こえる。

 日本では、キリスト教も(戦後のアメリカ文化侵入以前は)ロシア正教から伝えられたものが少なくないそうだし、戦後のロシア民謡ブームも(色々な背景はあるにしろ)非西洋的な響きへの親近感あってのこと。それも含めて「日本人の感性」をくすぐるのだろうか。

 そのあたりを無理やりこじつけて考えると、そもそも日本民族自体が人類の起源であるアフリカから広大なユーラシア大陸を横断して日本列島にたどり着いた種族。それなら、北回り組はロシアを経由しているか、あるいは彼らと音楽遺伝子を共有しているはず。

 つまり、我らが日本民族は、アフリカからヨーロッパを経てアジアを経由してきた音楽の記憶全てを記憶の底に含んでいることになる。

 一方、西洋クラシック音楽はその「東」の記憶がない。(東に行かなかった人だけが、西にとどまっているのだから)。ということは、純粋なヨーロッパの人たちには、もしかしたらこの魂を揺さぶるような「非自然」倍音の感覚はわからないのかも知れない。

 そう思うと、バッハやモーツァルトのハーモニーにも心打たれ、異教徒の賛美歌や民謡の響きにも感動し、さらに尺八や義太夫の唸りにも心動かされ、そして現代のハーモニーにも共感できる「多様性のある」感性こそ、東の果て日本に生まれた我々の最も貴重な「能力」であり、音楽的財産と言えるかも知れないと思えてくるのである。

              *

 ■国立モスクワ合唱団・・・・・・

Flyer ラフマニノフ「晩梼」より
 カンチエリ「アマオ・オミー(無意味な戦争)」ほか
 □2011年11月17日(木)19:00 東京オペラシティコンサートホール

 懐かしのロシア民謡
 □2011年11月23日(水祝)14:00 東京オペラシティコンサートホール

「晩祷」は、ロシア正教で夜を徹して行われる儀式のための音楽で、ラフマニノフのこの曲は無伴奏混声合唱のための作品。チャイコフスキーも同じテーマで書いているので、ロシアの作曲家としては馴染みのもの。
 拍子にとらわれず自由に流れるような旋律は、聖歌でありながらエスニックミュージックのようでもある。

 徹夜で行われる儀式の音楽のため「徹夜祷」などとも訳されるが、全15曲で演奏時間は50分ほど。
 初演は1915年で、非常に好評を博し名曲と称えられたが、残念ながらソヴィエト連邦の時代になり、無神論を規範とする社会主義国家の中では宗教的な題材の音楽は演奏されず、長い間、この曲は「幻の名曲」として忘れ去られていた。

 しかし、ラフマニノフはこの曲を非常に気に入っていて、自分が死んだら葬儀にはこの中の一曲を流して欲しいと生前語っていたほどなのだそうだ。確かに、この夢見るようなハーモニーの中で天国に行けたら…と激しく同意してしまうほどの美しさだ。

Kancheli グルジアの作曲家カンチエリは、現代音楽に「調性」が戻って来た90年代あたりから注目を受け始めた作曲家。

 グルジアは英語読みではジョージア(Georgia)。黒海の東に位置し、隣国はトルコやアルメニア、アゼルバイジャン。アルメニア出身のハチャトリアン同様、日本人好みの「東」の香りがする作曲家である。
 彼はもともとグルジアでは劇や映画の音楽を書きかなりポピュラー界でも知られた人らしく、現代的な響きの中にも「万感胸に迫るメロディ」が忍び込む絶妙のバランスが魅力だ。

 今回演奏される「アマオ・オミ」は、2005年に書かれ、既にCD(Kancheli/Little lmber:ECM)でも発表されている曲。タイトルはグルジア語で「無意味な戦争」というような意味。サクフォン4本と混声合唱とが静かなハーモニーを紡いでゆく気が遠くなるほど美しい作品だ。

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2011/10/10

歌・うた・UTA

Utad 来年のNHK大河ドラマ(平清盛)の音楽を担当することになり平安時代の音楽について調べるうち、興味深い話に出会った。日本語の「歌(うた)」というのは「打つ」が語源ではないか…という説だ。

 打つ…はリズムなのだから、歌(メロディ)とは違うんじゃないのか?という疑問もごもっとも。私も、最初にこの説を聞いたときはそう思った。

 私たちが普通に考える「歌」は、「メロディ」あるいは「旋律」のこと。起源はギリシャ語の「メロディア(Melodia)」で、これは〈声に抑揚を付けること〉を意味したというから、これははっきり音楽の三要素たる〈メロディ〉のイメージである。

 一方、我が国の「うた」は、「歌」「唄」「詩」とも表記され、作曲されたメロディと同時に、その歌詞の方をも意味し、その境界線が曖昧な感じがする。

 なぜだろう?

 ■歌を詠む

Manyo その辺りを探るために、まず、この「うた」を含む日本語(日本古来のことば)「やまとことば」が確立した時代に遡ってみよう。そう、奈良時代ころである。

 その頃は、まだ「うた」という言葉が誕生していない時代ということになるが、もちろん、唄や音楽がなかったわけではないし、なかったはずもない。

 つまり、それ以前にも「音楽」を指すことばはあったわけで、楽器や歌などの響きや旋律にあたるものは「調べ」、雅楽や祭りの合奏音楽のようなものは「楽」と呼ばれていたようだ。

 しかし、この時代「歌」と言ったら、それはまず「和歌」を指した。

 日本初の和歌は、素戔嗚尊(スサノオのみこと)が歌った・・・

 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに
  八重垣作る その八重垣を.

 ・・・なのだそうだが、この歌が登場する「古事記」(712)の後、「漢詩」に対する日本語による詩「倭詩」「倭歌」が盛んに作られ「歌われ」るようになるようになる。それが「万葉集」(759頃?)に残る歌の数々。例えば・・・

 春過ぎて 夏来るらし白妙の
  衣乾したり 天の香具山

 あかねさす 紫野行き標野行き
  野守は見ずや 君が袖振る

 こういう和歌を作る…ことばを編む…ことを「詠む」という。〈歌詠み〉と言ったら、こうした和歌を作ること。あるいは、和歌を作るのがうまい人のこと。

 いわゆる音楽的にメロディを歌う「歌」を作ること(作曲)と、五七五のことばを紡ぐ「歌」を作ること(作詞)は違う気もするが、当時はほぼ同義だったようだ。
 というのも、今でこそ「本を読む」というのは、黙って目で字を追う…つまり「黙読」が基本だが、それは本当に最近(近代になってから)のこと。
 それまで文字は「声に出して詠む」のが基本。書かれた「歌」はすなわち、声に出して「詠まれる(歌われる)」ものだったからだ。

 余談だが、同じ「よむ」でも、《読む》の方は、言葉だけでなく「数」を数えることも含む。
 例えば「日を読む」。これが「日(か)読み」となり「こよみ」(暦)となったのが良い例。あるいは、サバを読む(数をごまかす)などもそうだ。閑話休題。

 ■歌う・詠う

Haru その「歌」の詠み方だが、今でも正月の宮中歌会始などで行われている雅びな歌い方を想像していただくといいだろうか。
 普通に話すテンポですらすら読むのではなく、言葉の一つ一つを噛みしめられるように一音を引き伸ばし、それに抑揚をつけて「歌い上げる」。

上の句で言えば、
♪は〜る〜す〜ぎ〜て〜〜〜〜
 な〜つ〜き〜た〜る〜ら〜し〜〜〜
 し〜ろ〜た〜え〜の〜〜〜〜

 というように、母音を長く引き伸ばして吟ずる。(良い声の読み手は、その「声」が聞かせどころ。ほとんど「歌」と同じである)

 現代の感覚では、五七五七七…のひとつの句を詠むのに、すらすらと詠めばほぼ数十秒。どんなにゆっくり引き延ばして歌っても1分はかからない。

 しかし、伝承されている古謡の唄い方などを聞いていると、は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜る…という感じで一息を延々と歌い上げる。さらに、興が乗ると、〈あ〜〉の一音に何度も何度も息継ぎをして〈情感を込める〉から、五七五七七…の一句でも読み上げるのに何分もかかる物凄い大作になる。

(とは言え、現代でも、ポップスの「歌」の長さは短くて2分台から長くて5分くらい。一つの歌の世界にそのくらいの「時」を要するのは別に不思議でも何でもないわけだ)

 何しろ、ことばが「春(はる)」なら、そこに「春」の気持ち・・・のどかだったり、華やいでいたり、楽しかったりする心・・・をたっぷり歌い込む。
 単語としての「は・る」だけでは終わらせたくない情感や怨念のようなものがそこには加わり、ひと言にどんな感情をどれほど含ませるかが重要になる。いわゆる「言霊(ことだま)」の世界である。

 当然ながら、一本調子の「棒読み」では言霊は伝わらない。
 声のピッチを上下させ、抑揚を付け、語尾を上げたり下げたりする。声を細かくふるわせて、心のデリケートな震えを表現したり、あるいは朗々と響かせることで雄大な景色を表現したり、突然息継ぎを入れて緊張感を加えたり、いろいろな「テクニック」が駆使されたであろうことは想像に難くない。

 考えてみれば、それは、まさに「メロディ」そのものだ。
 歌を詠むこと(作詞)、それはすなわち旋律を作ること(作曲)だったわけである。

 当時、どのくらいのテンポ感で歌われていたのか、その頃の録音が存在するわけもないので想像するしかないが、時間だけはたっぷりあった古代のこと。ひとつの歌を歌うのに何十分(あるいは1時間以上?)というのもあったかも知れない。

 読み手にすれば、五七五の一句でも渾身の作品。時には、夜を明かしてひとつの句を延々と吟じ、その世界にどっぷり浸る…というようなこともあったのではなかろうか。

 ■打つ・合いの手

Utaa となれば、この言霊の入った入魂の「あ〜〜〜〜〜〜」を、聴き手が黙って聞いているはずもない。感極まれば、言葉の合間・・・文章の句読点、あるいは「息継ぎ」の場所に当たるような位置に感嘆の「手拍子」を打ったのではなかろうか。例えば・・・

♪ は〜る〜す〜ぎ〜て〜〜〜〜(チョン)
 な〜つ〜き〜た〜る〜ら〜し〜〜〜(チョンチョン)
 し〜ろ〜た〜え〜の〜〜〜〜(チョンチョンチョン)

 (これは、あくまでも筆者の想像です。念のため)

 民謡などで言う「合いの手」と同じ発想だが、西洋のオペラで言うレチタティーヴォ(朗唱)にチェンバロが和音を差し込む間合いにも似ている。
 それは、言葉における「句読点」と思えば分かりやすい。長い文章の流れの中に「句点」を打ち込むことで、言葉の区切りが明瞭になると同時に、リズミカルになるわけだ。

 余談だが、この「合いの手」というのは後世の言葉(邦楽での用語)。「あい」は「合間(あいま)」のことで、「手」は「調べ(しらべ)」旋律や抑揚のこと。
 合いの手と言うくらいだから、一人で吟じながら手を打つと言うより、聞いている周りの人間が、調子を付けるために打つのが基本だ。

 そして、その一番シンプルなものが「手拍子」。
 屋外で自然を愛でながら誰かが歌を詠めば、興に感じてだれかが合いの手に「手拍子」を入れる。そういった慣習が「歌」を詠む時に自然発生的に生まれたわけだ。

 ■うたげ

 かくして、誰かが「歌」を詠み、それに合わせて聞き手が手拍子を「打つ」文化が、やまとことばで「自然」や「恋心」を詠じる世界に広がってゆく。

 そのうち、「打つ」ものも「手」だけではなくなる。屋外で、手に持つものが何もない場合は「手拍子」だけだが、室内でも行われる時は、いろいろな「もの」があるからだ。
 膝を叩く者もいただろうし、床を叩いてもいい。立ち上がって足を踏みならすのもありかも知れない。(指ぱっちんがあったかどうかは不明だが・・・)

Shaku さらに、興が乗れば、貴族なら持っている笏(しゃく・聖徳太子が手に持っている板のようなもの)を打ったり、あるいは「鼓(つづみ)」を叩いたり、何か鐘のようなものを叩いたりするようになる。
 いわゆる「打ち物」(打楽器)の登場である。

 というわけで、「歌を詠う会」は、やがてみんなで集まって(酒など飲み交わしながら)騒ぐ会となる。そこでは「和歌」を詠みながら、みんなが手拍子や打ち物を「打つ」、メロディとリズムに満ちた古代のコンサート(あるいはカラオケ?)になったわけである。

 これが「打たげ」=「宴」。

 現代でも、ひと仕事が終わってみんなで労をねぎらいながら騒ぐことを「打ち上げ」というが、これも「しゃんしゃん」と手を叩いたり、鳴り物を叩いたりして騒ぐことから来ていると思われる。

(ちなみに、「宴」という字の方は、「うかんむり」すなわち「室内(屋根のある建物の下)」で「安らぐ」という意味を持っているそうだ)

 そして、ここでようやく、最初の「うたの起源」に話が到達する。すなわち・・・

 この「宴(うたげ)」の時に詠われるような〈声の遊び〉を「うた」と呼んだ。

 つまり、日本語の「うた」というのは、「ことば」と「リズム」と「メロディ」が統合される際に生まれた…まさしく「音楽の誕生」を記述した言葉ということになる。

 ■うたとメロディ

Maria この我が国における「うた」の生まれ方、現代に当てはめてみると、ギターを掻き鳴らして「ことば」にメロディを付ける過程を思い起こさせて、興味深い。

 歌詞となる「ことば」に抑揚(イントネーション)を付け、句読点に当たる部分に「合いの手」(区切り)を入れる。
 そして、それを4分の4の拍の中に配置し「ハーモニー進行」を付ける。これは、そのまま歌の「作曲」のやり方だ。

 万葉集が例だと「和風」から逃れられないので、例えば「アヴェ・マリア(Ave Maria)」という言葉を使ってみようか。

 ♪ア〜〜〜/ヴェ〜〜マ/リ〜〜ィ/ア〜〜〜
 (これはグノー)

 ♪ア〜〜ヴェ・マ/リ〜〜〜ィ/ア〜〜〜〜
 (シューベルトだと、こう。)

 ことばが西洋語(?)というだけで、同じ「あ〜〜〜」と吟じてもいきなり西洋クラシック音楽の世界になる。最初の「ア〜〜〜〜」のロングトーンの中に聖母マリアの美しさや清浄さが「言霊」として組み込まれているのも、和歌の世界と同じだ。

 そう考えると、「歌」というのはまさしく「ことば」があってこそ生まれた…と言うべきだろう。

 もちろん「ことば」が生まれるより前から、リズムとメロディで遊ぶ「音楽」は人類の中にあった。(そのあたりについては、既にあちこちで雑感を重ねているのでここでは省略する)
 しかし、ことばと出会ってメロディは初めて「歌」になった。
 音楽の中の幾つかの要素が「ことば」と強力に融合して「歌」というものに進化したと言うべきだろうか。

 そして、ことばと化学反応を起こした「歌」が、その後、どんなに目覚ましい進化を果たし、人間の文化の中でどんなに素晴らしい豊穣な世界を作ったか。

 そして、言葉と融合した「歌」が人類の歴史の中でどれほどの数、作られ、歌われ、伝えられ、愛されてきたか。

 それを思うと、心が震える思いがする。

 さて、大和の人々が「あ〜〜〜〜」の一音に言霊を託し、西洋の人々が「A〜〜〜ve Mari〜〜〜a」の響きに信仰を託した心に思いを馳せながら、今日も人類の至宝「歌」を愛でるとしようか。

         *

Flyer■ドレスデン国立歌劇場室内管弦楽団
&森 麻季 クリスマス名曲コンサート
2011年12月2日(金)19:00開演 
・東京オペラシティコンサートホール

指揮:ヘルムート・ブラニー
ドレスデン国立歌劇場室内管弦楽団
ソプラノ:森 麻季

バッハ / グノー:アヴェ・マリア
マスカーニ:アヴェ・マリア
バッハ:G線上のアリア
ヘンデル:オンブラ マイフ
ヘンデル:涙の流れるままに
パッヘルベル:カノン
久石譲: NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」 第2部メインテーマ “Stand Alone”
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モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲

 付記:今回のドレスデン国立歌劇場室内管弦楽団の来日公演では、伊那と鹿児島の2公演で私が舘野泉さんのために書いた左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」が再演される。

 この曲は、2007年にドレスデン国立歌劇場室内管弦楽団の来日公演で初演された曲で、オリジナル版はこのオーケストラの編成〈オーボエ2、ファゴット1、ホルン2、弦楽〉に合わせて書かれている。

 その後、通常2管編成オーケストラ用の「改訂版」が作られ、現在はその版で演奏されることが多いが、今回は初演の時と同じオリジナル版での演奏になる。

 □2011年12月1日(木)伊那文化会館
 □2011年12月7日(水)宝山ホール(鹿児島文化センター)
 吉松隆:左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」
 ピアノ:舘野泉

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