新春特集 ショパンとリスト
2010年は、ショパン生誕200年、シューマン同200年、マーラー同150年という(クラシック音楽界にとっては)華やかなメモリアル・イヤーだったが、さて、年は変わって2011年。
大きなところでは、マーラー「没後」100年、リスト生誕200年。こじつければ、バルトーク生誕130年、プロコフィエフ生誕120年、ムソルグスキー没後130年、ストラヴィンスキー没後40年などというのもある。
記念年にはさほど興味がないが、「ショパン生誕200年」の次の年が「リスト生誕200年」と言われて、改めて「そうか。ショパンとリストは1歳違いなんだ…」と気が付かされたのは収穫だった。
19世紀の初め、ピアノという楽器が音楽史に華々しく登場した時代に、その楽器の魅力をフルに引き出して(現代のジャズやポップスにも通じるような)「ピアニズム」を究めたこの二人。実は、お互い友人同志でもある。(…いや、「だった」と過去形にするべきか)
というわけで、2011年初の今回は「フレデリックとフランツ」のお話をしよう。
■フレデリック・フランソワとフランツ
フレデリック・フランソワ・ショパン
1810年3月1日ポーランドのワルシャワ生まれ。
フランツ・リスト
1811年10月22日ハンガリーのライディング生まれ。
ショパンは「ポーランドの作曲家」として絶大な人気と知名度を誇るが、当時のポーランドは「ワルシャワ公国」としてロシアやフランスに挟まれ、国としてのアイデンティティに苦悶していた時代。
そんな時代に生まれたショパンは、子供のころから音楽の才能を発揮していたものの、ポーランドにいる限り「田舎の音楽家」止まりになりかねないのが現実。
そこで一念発起して20歳の時に生まれ故郷ワルシャワを去り、ウィーンを経てパリに辿り着いたのが1831年。
しかし、奇しくもこの年、ポーランドで革命が起こり、彼は帰るべき祖国を失い、異国の空で天涯孤独になってしまう。その報を聴き(祖国に思いを馳せて)書いたのが、有名な「革命のエチュード」である。
一方のリストは、現在では「ハンガリーの作曲家」と言われているが、当時のハンガリーは「オーストリア=ハンガリー帝国」の一部。しかも、彼の生まれた町ライディングはウィーンの南数十kmという至近距離にあり、現在ではオーストリアに属している。
そんな町でドイツ語を話す家庭に生まれ、12歳以降はパリでフランス語を話す生活を送ったため、リスト自身には(後年そうと指摘されるまで)「自分はハンガリーの作曲家である」という意識はあまりなかったらしい。
彼は、子供のころから演奏および作曲の才能を発揮し、十代で既に音楽会を開いていたほどの早熟児。
11歳の時にはウィーンでピアノを弾き、ベートーヴェン(当時52歳)に褒められたほどの腕前だが、ここまでは「天才」と言うより「器用な子供」という感じだ。
そんなリストの運命を変えたのが、1931年19歳の時にヴァイオリンの鬼才パガニーニの演奏に衝撃を受けたこと。以後、「ピアノのパガニーニになるッ!」と猛烈な練習を始め、リスト流ピアノの超絶技巧を確立する。
かくして、ピアニストがピアノだけの音楽で一晩のコンサートを成立させる「ピアノ・リサイタル」が(リストを基点として)誕生。現代のロックスター並みの人気と熱狂をもたらす人気ピアニストとしてヨーロッパ中を演奏旅行し始める。
□出会い
そんなショパンとリストが出会ったのは、1832年頃。
時に、ショパン22歳、リスト21歳。
年齢的にはショパンの方がひとつ上だが、リストは既にピアニストとしてヨーロッパ中を演奏して廻る人気者。ショパンの方は、この年、パリで演奏家としてデビューしたばかりだから、芸歴としてはリストの方が上と言える。
しかし、ショパンもパリでのサロンコンサートを中心に徐々に人気を博すようになり、そこそこ立派なアパートを借りて、社交界に出入りするようになる。
そこで出会ったのが、メンデルスゾーン(当時23歳。既に作曲家・指揮者として活躍中)、ベルリオーズ(当時29歳。「幻想交響曲」で話題の新進作曲家)といった作曲家たち。
そんな中で、ほぼ同い年の技巧派ピアニストであるショパンとリストは、プライベートでも親しい交友を始める。
□性格
しかし、この二人、きわめて対照的な性格だったようだ。
ショパンは痩せ形でどちらかというと病弱(実際、39歳と早死にをしている)。
性格は内向的で神経質(今で言う「草食系」男子)。傾向としては「鬱」で、慎重で気弱な「ボク」タイプ。
20歳までポーランド暮らしだったので、打ち解けて話すほどにはドイツ語フランス語とも堪能でなく、そのこともあって人見知り。
女性に対しては奥手で、母国ポーランドでもパリに出て来てからも「密かに恋心を募らせ」「告白するも振られる」というのがパターン。もてないわけではなく、ファンもそこそこいるはずなのだが、なぜか成就しない。
対して、リストの方はすらっと背が高く骨格もがっしりしたイケメン。(こちらは、ショパンの倍近い74歳という長命である)
性格は精悍で外交的(こちらは「肉食系」男子)。短気で激情型の「躁」で、いわゆる「俺サマ」タイプ。
育った家庭はドイツ語がネイティヴで、12歳でパリ音楽院入学を志望したほどなのでフランス語も堪能。口もうまく金回りも良いので、女性にはもてまくりで恋愛遍歴も多彩。
さらに、ピアニスト(&音楽家)としてのキャラクターも正反対だ。
ショパンの方は、少人数のファンたちを集めたサロン風のコンサートで、繊細で詩情にあふれる空間を慈しむタイプ。
優れたピアニストではあるものの、演奏より「作曲家」としてオリジナル曲で勝負することの方に重きを置いている。
そのためリストより先に「作曲家」として一家を成すが、あくまでも「ピアノ曲専門」。ポーランド時代の2つのピアノ協奏曲以後は、オペラやオーケストラ作品はおろか、歌曲や室内楽にも(ごく一部の例外を除いては)手を出していない。
当然ながら、「詩」や「文学」など音楽以外の文化とあまり接点はなく、いわゆるインテリ系「知識人」とは一線を画す「孤高の芸術家」という感じだ。
現代で言うなら、自作の詩を自らギター弾き語りで歌うシンガーソングライター的なスターという感じだろうか。
一方、リストの方は、大ホールに満員の客を集め、女性ファンにキャーキャー言われながら大音量と超絶技巧で客を圧倒する祭りのような空間を楽しむタイプ。
現代で言うなら、巨大ホールでコンサートを開き、数万人の観客を熱狂させるロックスターだ。
若い頃は、それこそショパンが呆れるほど軽薄なテクニック偏重主義だったが、三十代あたりから「作曲」にも精力的に取り組むようになり、オーケストラによる「交響詩」というジャンルの始祖になったほか、ファウスト・ダンテの2つの巨大交響曲など力作も多数残している。
オペラこそ書いていないが指揮でも一家を成したほか、シューマンと並んで音楽評論も積極的にこなし、さらに晩年には宗教曲の大作も残している。音楽だけでなく「文学」から「宗教」まで多くの分野と接点を持ち(74歳と長生きしたこともあり)インテリ知識人の頂点を極めたと言っていい。
もうひとつ、好んで弾いたピアノも、ショパンは「プレイエル」、リストは「エラール」(後にベーゼンドルファー)と別々。
ショパンは、少人数の客に繊細な音色表現を聴かせることがが出来る(アクションやペダルが精巧な)楽器を好んだが、リストは、大勢の客に圧倒的な音量を聴かせられるメカニズムの正確さと頑丈さを必要としたわけだ。
この二人が登場した1830年代は、「ピアノ」という楽器が、かつてのチェンバロやハンマークラヴィアから「モダン・ピアノ(現代のグランドピアノ)」に進化する熱き時代の真っ只中。
ショパンやリストが、ピアノのメカニズムを極限まで引き出すテクニックを開発すると、ピアノのメイカーもそれを安定供給するさらなる高度なメカニズム(ペダル、ダンパー、アクション、調弦などなど)を開発する…という激しい「競争」が繰り広げられている。
ショパンやリストがそれぞれが超絶技巧を開発し、「こういう音楽を弾けるようなピアノを」と要求してそれにメイカーが応える。
そういう形で、この時代、ピアノは究極の進化を遂げたわけである。
□友情
と、何から何まで対照的な二人だが、お互いに相手の才能が超一級であることは認めていたので、出会いから以後数年ほどは極めて良好な友情関係が築かれていたようだ。
特に「自分にない物を持っている」ということはお互い良い刺激になったようで、ショパンはリストの「技巧とパワー」に羨望を抱き自らのピアノの技巧に磨きをかけ、リストはショパンの「繊細な抒情的表現」に圧倒され、自身の音楽をさらに深めてゆく。
例えば、当時リストは「どんな難曲でも初見で弾ける」と豪語していたそうだが(実際、メンデルスゾーンやグリーグのピアノ協奏曲からワーグナーのオペラまで初見で弾ききったのは有名な話)、ショパンの(例の「革命のエチュード」を含む)練習曲集はさすがに初見で弾けなかったそうな。
それにショックを受けたリストは山ごもり(?)で特訓をし、数週間後には完璧に弾いてみせてショパンを驚かせたという。
逆に、ショパンの方は、「詩情あふれるデリケートな演奏」では圧倒的だったものの、それでは少人数向けのサロンコンサートから一歩も出られず、大ホールに何百人もの聴衆を集めてのリサイタルや、オーケストラをバックにした壮大なコンチェルトを弾きこなすだけのパワーはない。
そこで、その点においては、リストには「絶対敵わない」と劣等感を感じていた節がある。そのせいか、リストが自分のマズルカをかなり「ハデに加工して」変奏曲仕立てで演奏しても、とりたてて怒りもせず、「リストがやることなら」と一目置いていたようだ。
後に、リストが作曲家として「交響詩」というジャンルを確立したのも、そんなショパンにあって自分にない「詩」的なものや「深み」を強烈に希求したため、と言えるかも知れない。
□つきあい
そんな不思議な距離感のこの二人、音楽家づきあいだけでなく、プライヴェートでも、アパートの鍵をお互い持っていたほどの仲(もちろん二人とも独身)というから面白い。
(なんだか、そのまま音楽系コミックスになりそうなシチュエーションだ)
とは言っても、「あちら♡」の方の仲ではなく、そもそもショパンは人恋しくて…誰もいない部屋に一人で帰るのがダメな寂しがり屋の性格。
人見知りで恋愛にも奥手なうえ、ポーランドから出てきて何となく都会になじめない気弱な青年。女性を部屋に連れてくるなど無理な話なので、押し出しの強いリストが友人連れで部屋に来るのは大歓迎だったようだ。
一方のリストの方は、スターでイケメンでかつ話し上手なので友人にも女にも不自由はない。
取っ替え引っ替え友人&女たちと遊び回っているので、逆にそういう人種とは一線を画す「引っ込み思案」で「ひ弱な」タイプのショパンを放っておけない…というバランスだろうか。
もちろん、二人とも希代の天才音楽家なので、単なる「お友だち」というより、その裏に相手の持つ才能への強烈な羨望と嫉妬があったことは確かだ。
一番怖ろしい人間は、離れた所に置くよりなるべく身近に置いていた方がいいのである。
□対立
ただ、繊細で神経質な方向で「芸術家肌」のショパンと、外交的で短気で快楽主義な方向で「芸術家肌」のリストが、どこまで「友人」でいられるのか?…いつか破綻するんじゃないか?…と思うのは(ゴッホとゴーギャンの例を持ち出すまでもなく)きわめて自然ななりゆき。
実際、時にはショパンが演奏旅行で出かけている間、リストが女性を連れ込むのにショパンのアパートを使ったこともあったそうで……、この二人の仲は微妙に破綻してゆく。
もともとこの二人、お互い「全く正反対なタイプ」であることは自覚したうえでの友人同士だったのは先に述べたとおり。
ショパンは、リストのピアノ技巧には賞賛の言葉を惜しまなかったが、彼の「音楽のセンス」自体は買っていなかったし、彼を「作曲家」とは全く思っていない。
もちろん、自分の曲をリストが弾くのを聴き「素晴らしい。ボクもあんな風に弾きたい」と思ったのは本音。でも、リスト風に編曲・変奏した自分のマズルカを聴いた時は、口には出さないにしても「こいつのセンスは、ボクとはぜんぜん違う」と思っている。
リストの方も、ショパンの「ピアノから詩的な情感を引き出す」手腕には最大限の敬意を感じていたが、地味で内向的で「演奏効果の上がらない」書式には、イライラしていたに違いない。
挙げ句、客受けするようにショパンの曲を変奏すれば、喜ばれるどころか逆に呆れられる。しかも、大言壮語気味のリストに対して、きわめて口数の少ないショパンは、あまり「本音」を話さない。
金銭感覚も、(これはあくまでも想像だが)コンサート三昧で江戸っ子風「宵越しの金は持たない」的な使いッぷりのリストに対して、ショパンは財布のヒモの固い堅実質素派。
お金も女も「あるだけ使い」、気が向けばぷいとスイスだのウィーンだのへ飛んで行き、住所が定まらない放蕩三昧のリストに対して、ショパンは石橋を叩いて渡る堅実派。パリに居を定めると、ほとんどそこを動かず、故郷ワルシャワにも結局一度も戻っていない定住派だ。
それでも、男同士の付き合いの仲では「あいつは、ああいう奴だから」という暗黙の了解があったのだろう。
ホームズとワトソン博士のように、全く違うキャラクターだからこその友情関係ということなのかも知れない。
そして、1836年ショパン26歳の時、リスト(25歳)の愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人のサロンでジョルジュ・サンドを紹介されるあたりで、この二人の友情はピークを迎える。
しかし、これは同時に「終わりの始まり」でもあった。(♪〜 ここでドラマチックな音楽(~~;)
□訣別
リストの愛人であるマリー・ダグー伯爵夫人というのは、リストより6歳ほど年上で、フランス貴族ダグー伯爵の妻。二人の娘がいる。
運命のサロンの前年1835年(30歳)に夫と離婚。そのままリスト(当時24歳)とスイスに逃避行に及び、以後10年に渡る同棲生活を送ることになる。
その時生まれた娘の一人が、後にワーグナーの妻となるコジマである。
一方のショパンは、このサロンの年に、ヴォジンスキ伯爵家の令嬢マリアに結婚を申し込んだものの、翌年断られ、傷心の日々。
その反動かどうか「第一印象は最悪だった」という男装で年上の女性作家ジョルジュ・サンドと交際を始める。
このジョルジュ・サンドも、ショパンより6歳年上。本名オーロール・デュパン。27歳の時に作家として活動を始め、サンドはそのペンネーム。
男装して社交界に出入りし、詩人や医者など多くの男性と浮き名を流し、一時はリストとも関係があったそうで、ショパンに出会ったのもその頃だ。
要するに、男同士の友情の間に、それぞれ「女性」(かなりやり手の姉さん女房!しかも社会的には「奥さん」ではない!同棲相手)が入ってきたわけである。
かくして、厄介ごとがダブル&トリプルで発生し始める。
ひとつは、リストの愛人マリー・ダグー伯爵夫人が、そもそもリストよりショパンの音楽のファンだったこと。
そして、ショパンの同棲相手ジョルジュ・サンドが、この伯爵夫人と仲が悪かったこと。
当然ながら、リストは愛人(マリー)からショパンへの好意を聞かされて嫉妬し、ショパンは愛人(サンド)からリストの愛人(マリー)の悪口を聞かされ閉口する。
ところが、当のサンドはリストとも関係があったわけで、ショパンを非難できる筋合いでなく、ショパンからすれば、そもそもサンドを紹介してくれたのはリストなので、これも心中複雑。
結果、二人の関係はぐちゃぐちゃになる。
おまけに、むかし(ベルリオーズやシューマンら作曲家たちの憧れの的だった)美人ピアニストを、リストがこともあろうにショパンの留守中に彼の部屋に引き込んで情事を重ねていたことがばれてしまう……
かくして、「音楽」で結びついた二人の天才は、「音楽でないもの(女性)」が原因で訣別してゆくのである。
と、音楽とは全然関係のない話で、二人の天才の若き日を(怪しい想像も交えて)綴ったわけだが、そろそろ辛くなってきたのでこのくらいで。
教訓としては・・・・
・・・・彼らの音楽を聴きながら、自分でお考えください。
*
■アリス=紗良・オット ピアノ・リサイタル ★
メンデルスゾーン
厳格な変奏曲 ニ短調
ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ第21番ハ長調“ワルトシュタイン”
ショパン:
3つのワルツ“華麗なる円舞曲” Op.34
ワルツ第6番 変ニ長調 “小犬” Op.64-1
ワルツ第7番 嬰ハ短調 Op.64-2
スケルツォ第2番 変ロ短調 Op.31
・1月9日(日)14:00 横浜みなとみらいホール
・1月12日(水)19:00 東京オペラシティ
■エレーヌ・グリモー ピアノ・リサイタル ★
モーツァルト
ピアノ・ソナタ第8番 イ短調 K.310
ベルク:ピアノ・ソナタ Op.1
リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
バルトーク:ルーマニア民族舞曲
・1月17日(月)19:00 サントリーホール
■ショパン・コンクール・ガラ ★
第16回ショパン国際ピアノ・コンクール
入賞者ガラ・コンサート
ユリアンナ・アヴデーエワ (第1位 ロシア)
ルーカス・ゲニューシャス (第2位 ロシア/リトアニア)
インゴルフ・ヴンダー (第2位 オーストリア)
ダニール・トリフォノフ (第3位 ロシア)
フランソワ・デュモン (第5位 フランス)
・1月22日(土)23日(日)14:00 オーチャードホール
■横山幸雄 ピアノ・リサイタル ★
アンダンテ・スピアナートと華麗なるポロネーズ 変ホ長調 Op.22
ノクターン 嬰ハ短調(遺作)
幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66
ワルツ 第9番「別れ」変イ長調 Op.69-1
タランテラ 変イ長調 Op.43
バラード 第3番 変イ長調 op.47
子守歌 変ニ長調 Op.57
舟歌 嬰ヘ長調 Op.60
スケルツォ 第1番 ロ短調 Op.20
スケルツォ 第2番 変ロ短調 Op.31
スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 Op.39
スケルツォ 第4番 ホ長調 Op.54
・2月27日(日)14:00 横浜みなとみらいホール
■アレクサンダー・ガヴリリュク・ピアノ・リサイタル ★
ベートーヴェン:「月光」ソナタ
ショパン:幻想即興曲ほか
ラフマニノフ:楽興の時
プロコフィエフ:「戦争」ソナタ
・6月11日(土)19:00 東京オペラシティ
■アフタヌーン・コンサート シリーズ2011 ★
・5月17日(火)千住真理子
・6月10日(金)ウィーン少年合唱団
・7月23日(土)金子三勇士
リスト:ラ・カンパネラ、ソナタ ロ短調ほか
ショパン:英雄ポロネーズ、ノクターンほか
・8月11日(木)鮫島有美子
東京オペラシティ いずれも14:00開演