音符と総譜と音楽と
クラシック音楽に興味を持ったのは14歳の時だった。
それまでは、普通にポップス(ビートルズやグループサウンズ)を聞きあさる中学生。クラシックの楽曲に特に親近感を感じたことはなかったのだが、高校受験真っ最中の冬、いきなり「作曲家になる!」と決めてしまう出来事があった。
それが、オーケストラと「スコア(総譜)」との出会いだった。
スコアはオーケストラの各楽器が演奏すべき「音符」がすべて書き込まれた、機械や建築でいう〈設計図〉、鉄道や飛行機でいう〈時刻表〉、舞台や映画でいう〈台本〉のようなもの。
そこに書き込まれた音符の通りにオーケストラの全楽器が音を出すと、あら不思議。「運命」だの「新世界」だの「悲愴」だの「幻想」だのという音響宇宙が鳴り響くのである。
しかも、それは単なる音の連続ではなく、美しかったり壮大だったり懐かしかったり心震えたり気持ちが昂揚したり、いろいろな感情を心の中に沸き立たせ、さらにその向こうに思想や世界や自然や神までが見えるのだ。
何という不思議な、そして奇跡的な仕掛けなのだろう!と心底感嘆した14の冬だったわけなのである。
□楽譜というプログラム言語
ちなみに、それまではどちらかというと理系少年で、読む本も、天文学とか物理学あるいはSF(空想科学小説)系。
エレキギターが出現した時も、演奏したり歌ったりという「音楽そのもの」より電気回路やアンプあるいはテープレコーダーやエフェクターの構造の方に興味を持ったほど。頭はあくまでも理系だったのだ。
ところが、「スコア」というものを知ってからそれが一気に変わった。
楽譜は「音楽をメモした記号」にすぎないと思っていたのに、すべての「音」を制御する完璧な設計図であり、メロディとハーモニーとリズムの全てを把握し構成する回路図だと気付いたショック。
さらに、音楽というのは、ふわふわした感性のゆらぎと思っていたものが,実はかっちりと記号で記述され構成された理詰めの「人工建築物」であると気付いた衝撃。
しかも、すべて記号(音符)だけで記述された冷たい設計図なのに、それによって建造されたものには「心」がある。すなわち「理性」と「感性」の完全なる統合がそこにはあるという驚愕の事実。
こんな凄いことがあり得るのか!と理系少年としては(くどいようだが)心から驚嘆してしまったわけなのである。
しかも、この「楽譜」という〈音楽の記録再生システム〉は、きわめて理知的なものでありながら,反面、魔法のような妖しいところもある。
個人的にオカルト話は好きだが、霊魂も幽霊も信じていない。だから例えば、「200年近く前に死んだ人の霊魂が蘇って、人々に憑依し心を震わせる」などという話を聞いても、面白がりはしても信じるつもりはない。
ところが、例えばベートーヴェンの第9を聞くコンサートなどでは、確かに「200年近く前に死んだベートーヴェンの〈魂〉」が数千人の聴衆に憑依して「心震わせる」ことが現実に起こる。
音符の隙間にも,オーケストラのどこにも,作曲家の魂が紛れ込む隙間はないにもかかわらず、そこから生まれた〈音楽〉には確かに,作曲家の心が浮遊しているのだ。
この「楽譜」というシステムの持つ魔力は、理性と感性の統合どころか、さらにオカルト級の伝播力と増幅力をすら持つものなのである。嗚呼!
□楽譜と音楽のシステム
この楽譜のシステム、実はコンピュータとプログラムの関係によく似ている。
コンピュータというのは基本的には「ただの電気式計算器」。電流の特性を利用した電気回路によって演算を行い、その結果をモニタに映し出すだけの〈ハードウエア〉(機械)でしかない。
A+B、CxD…のような与えられた計算式の結果を弾き出し、モニター上の座標にポイントとしてそれを投影する。出来ることはそれだけだ。
しかし、この「計算しかできない機械」も使いようで無限の可能性を持つ。計算の順番や進め方(アルゴリズム)の基本を文法のように定め、さらにポイントの組み合わせで「数字」や「アルファベット」をモニターに表示できるようにする。
つまり「言葉」を教え込み、それに従って、計算結果を「図」にしたり「画」として動かしたり「音」を出したり出来るようにするわけだ。それが〈プログラム言語〉(あるいはOS:オペレーティング・システム)である。
そして、そのプログラム言語を駆使して、軌道の計算や税金の計算あるいは原稿や文章を書くのに特化した仕様にしたものが、演算ソフトやワープロソフトと呼ばれるような〈ソフトウエア〉。
これによって、ただの計算機械=コンピュータは、文章を書いたり計算したりゲームをしたり通信したり楽譜を書いたり…とあらゆることに対応できる万能の「道具」となったわけである。
音楽も同じだ。
五線譜という「楽譜」のシステムは〈プログラム言語〉。
その言語で書かれた「交響曲」のような音楽作品が〈ソフトウエア〉。
そして、そのソフトを入れると駆動するコンピュータやシンセサイザーのような〈ハードウエア〉こそが「オーケストラ」ということになる。
このシステムがあるからこそ、五線譜というプログラム言語で書かれた「音楽」なら、ウィーン・ニューヨーク・東京どのオーケストラに渡しても、同じように「シンフォニー」や「コンチェルト」が起ち上がる、というわけである。
□ハードウエアの個性
しかし、楽譜によって再現される音楽が、誰がどう演奏しても寸分の違いもなく同じか,と言うとそうでもないから面白い。
例えば「ピアノというのは鍵盤を押して音が出るだけのメカニズムなので、ホロヴィッツが弾いてもネコが弾いても出る音は同じ」というジョークがある。
さらに、シンセサイザーのようなキイボード系の楽器は、それこそ「ボタン」を押すだけの楽器なのだから、どれも出る音は同じ…と思いがちだ。
しかし、それがそうでないことは、ちょっと音楽を聞いたことがある人なら知っている厳然たる事実である。
例えば、テレビ番組を例に取ると、同じ番組が同じ電波に乗って各家庭に送られてくるのだから、前記の例で言えば「プログラム言語」から「ソフトウエア」までは同じだ。
だから、世界中どのテレビで見ても、「同じ番組」は「同じ番組」として視聴出来る。
しかし、まず「ライヴ映像」として見るのと、「録画」で見るのとでは大きな違いがある。
ライヴ映像で勝負の行方にドキドキしながら見る試合の映像と、結果が分かって録画で見る映像とでは、そもそも興奮の度合いが違って当然。
さらに、それを観る「テレビ」のクオリティでも番組の質は変わる。
携帯電話サイズの小さな画面で見るのと、巨大なハイヴィジョンの鮮明な画面で見た場合とでは、「同じ映画を見た」と言えるのかどうかというほど違いが出るのは言うまでもない。
□オーケストラの個性
オーケストラというハードウエアもこれに似ている。
国によって楽団によって歴史によって「個性」が歴然とあるのである。
例えば、ドイツのオーケストラ。メロディやフレーズの頭のアクセントがハッキリしていて、音楽のフォームがかっちりしている。これは、ドイツ語という言葉自体が、常に単語の頭にアクセントを持つことが多いせいだろう。
そして、これはお国柄か、アンサンブルをぴっちり合わせることや、対位法的にガッチリ構成され、重心が下にある響きを好む。ベートーヴェンやブラームス系がまさにこれ。オーケストラというシステムに最も向いた言語(OS)を持っている…と言えるかも知れない。
それと対照的なのはフランスのオーケストラ。頭にアクセントを強く入れたり、ぴっちりアンサンブルを合わせたり、ガッチリ構成する…というのは苦手。というより、そういう表現はダサいと思っている節がある。フランス語独特のふわっとした響きを聴くと,さもありなんと思う。
音感としても、繊細な音色表現が「構造」よりも優先し、エスプリと知性をこそ重視する。ドビュッシーやラヴェルはまさにそんなフランス風を代表する音楽だ。
当然ながら、このふたつのオーケストラに同じ「ベートーヴェンの交響曲」というソフトを投げ込んでも、違ったニュアンスの結果が出てくる。
もちろん「アクセントをハッキリ」あるいは「アンサンブルはゆるめに」と指揮者が指示すればそういう演奏はする。しかし、そこに込められた本能的な嗜好は隠しようがない。
一方、母音が多いイタリア語で駆動するオーケストラは、オペラや「歌」向き。メロディラインや旋律の響きの美しさを表現するにはベストで、アンサンブルや構成はあくまでも「自然」に、音楽はどこまでも伸びやかで流麗にひたひたと紡がれる。
逆に、メロディやサウンドで充分「美」を作れてしまうので、それに陶酔する挙げ句、構成や構築性などにあまり力を入れない…という弱点(と言えるのかどうか分からないが)が浮かび上がる。
ロッシーニやヴェルディからプッチーニなどに至るイタリアオペラの艶やかな音楽世界はそうしたイタリアの美意識そのものだ。
それぞれの言語(OS)で駆動するオーケストラは、それぞれの国の「ことば」の響きに最も近い音楽を紡ぐ…というのが基本になるわけである。
□音の嗜好
むかし、中国で初めてベートーヴェンやブラームスが演奏された時、どうしても「重厚な音」が理解してもらえなかったという話が面白い。
中国では、儒教思想の影響なのか、京劇などで印象的なキンキンと鳴り渡る高い音こそが「善」であり、重い音や低い音は「悪」と感じるらしい。なので、例えばベートーヴェンの第9のフィナーレでバリトンが歌い出すところなどは「あ、悪人が出てきた」というイメージなのだそうだ。
そこで当然ながら、オーケストラでブラームスを演奏しても、本能的に低音を抑え気味に鳴らすバランスになる。日本人も体格が小振りな分「低音」には弱く、重厚な響きが苦手という点では近いかも知れない。これは、そうと分かっていてもなかなか抜けない国民性と言えるだろうか。
逆に、重厚が得意なのはロシアのオーケストラ。特に、かつてのソヴィエト連邦時代のロシアのオーケストラは、屈強の男ばかりで組織された精鋭部隊というイメージで、指揮者の合図と共に豪放に疾走し歌い上げる最強集団。チャイコフスキーもショスタコーヴィチも、重量級の戦車が戦場を疾駆するような破壊力と強靱さを持っていた。
しかし、そうなると逆にブラームスとしては重たすぎる、ベートーヴェンにしては豪放すぎる、ということになって難しい。さらに、ドビュッシーのように繊細なストリングスのテクスチャーがポイントのような音楽は徹底的に苦手になる。
また、温暖な気候と響きの豊かなホールで演奏してきたオーケストラと、あまり良い楽器を揃えられず響きの薄いホールで音楽を磨いてきたオーケストラとも決定的に「音」が違う。
弦楽器のヴィブラートの付け方にしても、ゆったり芳醇に響かせて「柔らかい響き」を醸し出すオーケストラもあれば、ノンヴィブラート気味に演奏して「鋭利な響き」を得意とするオーケストラもある。(むかしは、ヴィブラートの数すらぴったり合わせる…という伝説が囁かれた超人オーケストラもあったっけ)
そして、それをフォローする「内声」パートの楽器たちも、常に「ハーモニーの豊かな響き」を意識して微妙な音程を作りふくよかに響かせるオーケストラもあれば、書いてある音符通りの平均律の音程に固執するクールな響きのオーケストラもある。
ピアノとオルガンとハープシコード・・・というほどの違いはないにしても、スタインウェイとベーゼンドルファーとヤマハ・・・以上の違いがオーケストラには存在するわけだ。
□演奏と表現の嗜好
余談ながら、クラシックは(整った波形の)いわゆる「楽音」を全ての音域に渡って鳴らすのが基本。演奏家は全て、そういう音を出すべく子供の頃から鍛練を積み、そうでない音は「汚い音」として排除する。
そして、アンサンブルにあっては、より「自然倍音」の響きに近い、協和する響きが基本で、そうでない響きは「不協和音」として忌避されてきた。
ヨーロッパに行って一番感じるのは、この「協和音」の響きの自然さだ。
しかし、世界中の人間がそうかというとそうでもない。
例えば日本では、そうした整った波形の「楽音」はむしろ忌避されてきた。
御存知のように、三味線や琵琶などには「さわり」と呼ばれる濁った音を出すメカニズムがあり、民謡などでも「こぶし」という音程の外しが好まれる。
語り物などでは、声を歪ませたり詰まらせたりする「泣き」が入った方が、感情的で人間っぽい。端正できれいなベルカントのような声は、逆に「不自然」なのである。
これは完全な左右対称や幾何学的に美しいものを逆に嫌い、わざと歪ませたり傾かせたものをワビサビと称して好むのと同じ嗜好と言えるだろうか。
また、「喜怒哀楽」のような感情は人間なら世界共通だが、その表現方法の好みとなると、国によってずいぶん違う。
日本では、肉親が死んで相当悲しいときでも「涙をこらえる」というのが普通で、取り乱して泣き叫ぶのは「みっともない」とされる。
しかし、お隣の韓国や中国などでは涙で立っていられないというほど泣く。悲しみをはっきり身体で表現しないと、逆に「情が薄い」とされる。
ヨーロッパの人たちも、あまり笑ったり泣いたりを強調するのは良しとしない文化が多い。大口を開けて笑ったり、声を上げて泣く、というのはかなり庶民的な(あるいは南方的ラテン的な)感情表現になる。
だからだろうか、例えばドイツ系音楽でも、モーツァルトやベートーヴェンからブラームス、ワグナー、マーラーにしろ、泣き喚いたり感極まって奇声を発するようなところまで行く過剰な音楽表現はまずない。
それに対して、ヨーロッパでも、いわゆる「スラヴ系」の人たちは、こういう「泣き」の表現が好きだ。チャイコフスキーなどはその代表格。よよと泣き崩れたかと思うと、コブシ振り上げてハイテンションの絶叫を聞かせる。喜怒哀楽は強調すべし…という文化だ。
さらに、この「喜怒哀楽OK」の嗜好も、国によって微妙に違いがあるから面白い。ロシアでは、中途半端な表現では大自然の猛威や冬将軍にかき消されてしまうからだろうか。苦しみは耐えに耐え、悲しみ喜びはハッキリくっきり表現する傾向がある。
対して、東欧チェコやハンガリー系は、もう少し人間に好意的な自然の恩恵に抱かれているせいか、そこまで怨念はため込まず感情は爆発させず、望郷やローカルな感情が優先されるような気がする。
我らが日本人も、こういった感情表現が微妙に過多…の音楽(チャイコフスキーやラフマニノフの「泣き」の入ったメロディやドヴォルザークやスメタナの「望郷」の入ったメロディなど)は大好きである。
しかし、真面目で渋い音楽を愛するドイツ人やエスプリとセンスが最重要なフランス人などから見ると、こういった感情表現は、感情過多で「恥ずかしい」あるいは「下品」と聞く人も少なくないようだ。(チャイコフスキーが「悪臭ぷんぷん」と評されたのもドイツ。国民楽派風な音楽はかなり評価が割れる)
感情は知性でコントロールするもの、という視点からすれば、確かに感情を剥き出しにするのは知性的ではない。「男は寡黙に」が美学の地では、「男が泣く」という時点でNGだ。
ゆえに、「泣き」の入ったメロディを泣きながら演奏する「それこそが音楽」という人がいる反面、そんな「恥ずかしいこと」は出来ないし許せないという人も(少なからず)いるわけである。
□世界の言語・世界の音楽
結果、同じ楽曲を同じ編成のオーケストラで演奏しても、そこから出て来る音楽は微妙に違うものになる。
そこで、非常に狭い視野で言うと、ドイツの音楽はドイツのオーケストラで、チェコの音楽はチェコのオーケストラで…という結論を出しそうになる。
しかし、作曲家はそもそも「ことば」の呪縛から離れた「汎世界的な言語」として「楽譜(スコア)」を記述しているのだから、その結論で終わってしまったら、彼らの努力は報われないことになる。
それに、最近では新しい世代の演奏家の台頭もあって、必ずしもドイツ語のオーケストラがドイツ音楽を得意とし、フランス語のオーケストラがフランス音楽を得意とする…とも言えなくなってきている。
例えば、かつては邦楽的な要素を組み込んだ現代曲などは,日本のオーケストラの独壇場。ちょっと特殊奏法を要求すると「ここは尺八のムラ息風ですよね」とか「これは笛のヒシギですね」とツーカーの反応があったものだが、最近ではむしろ海外のオーケストラの方が「ここはサムライ風デスね」とか「オオ、忍者っぽくデスね」と先回りしてくれる(笑)
なかなか一筋縄では行かないところが、電気回路ならぬ「生身の人間」が集積している〈オーケストラ〉というハードなのである。
楽譜というプログラム言語、作曲作品というソフトウエア、そしてそのシステムで駆動するオーケストラ。この3つの邂逅が生み出す「奇跡」こそが「音楽」。
いかに「ことば」を超え、いかに「時」を超えた音がそこに鳴り響くか。
音楽を聞く楽しみはそこにある。
そして、作る楽しみもまた・・・
*
■ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団 ☆
2012年2月21日(火)
19:00 東京オペラシティコンサートホール
・モニューシュコ:歌劇「パリア」序曲
・ショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調(p:中村紘子)
・ベートーヴェン:交響曲第5番「運命」
アントニ・ヴィット指揮
ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
2012年2月22日(水)
19:00 東京オペラシティコンサートホール
・モニューシュコ:喜歌劇「新ドンキホーテすなわち百の愚行」序曲
・チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調(vn:千住真理子)
・ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
ミハウ・ドヴォジンスキ指揮
ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
■聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団 ☆
2012年2月28日(火)18:30 東京オペラシティコンサートホール
2012年2月29日(水)18:30 東京オペラシティコンサートホール
2012年3月1日(木)18:30 サントリーホール
・マタイ受難曲
聖トーマス教会合唱団
ゲオルグ・クリストフ・ビラー(指揮)
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
<ソリスト>
ウーテ・ゼルビッヒ(ソプラノ)
シュテファン・カーレ(アルト)
マルティン・ペッツォルト(テノール/ 福音史家)
クリストフ・ゲンツ(テノール)
マティアス・ヴァイヒェルト(バス)
ゴットホルト・シュヴァルツ(バス)