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2012/03/10

面白がる目・面白がれる耳

Traumaw 同じ映画や音楽や物語や舞台を見聞きして、「面白い」という人と「面白くない」という人がいる…というのは実に「面白い」と思う。

 例えば、今、音楽を担当しているNHKの大河ドラマ「平清盛」も、「面白い!」という人と「面白くない!」という人が混淆していて、その様々な視点が逆に興味深くも面白い。

 私は(音楽をやっていることをヌキにして)「面白い」派。
 古今東西の色々な元ネタ(それは源氏物語から最近のコミックスまで多岐にわたる)をまさに「遊びをせん」とばかりにシャッフルし伏線を張りまくる脚本(藤本有紀さん)は、群を抜いて「面白い」と思う。

Titleaa その面白さは、古典などからの「本歌取り」的な部分もかなり大きい。例えば、主人公の清盛が法皇の御落胤で(吉川英治の「新平家物語」)、白拍子の母から馬小屋で生まれ(キリストの出生)、母が死んだ場所で実の父である白河法皇と対面する(ギリシャ悲劇?)。

 さらに、海賊退治の回では、宋への密航を企てる信西と小舟に乗り(吉田松陰の密航話?)、海賊に囚われて帆柱に吊され(宮本武蔵が沢庵和尚に千年杉に吊される話)、海賊兎丸と海賊船で一騎打ち(ピーターパンとフック船長)して勝った挙げ句、「海賊王になる」と叫ぶ(人気コミックス「ONE PIECE」)など・・・まさに、史実と虚構をブレンドした歴史ドラマの王道そのもので、面白がりどころ満載だ。

 また、朝廷内の閨でのやりとりなど、大人の会話が縦横無尽に張りめぐらされ絶妙。特に、待賢門院の無邪気なひとことに毎回傷付く鳥羽上皇のくだりや、美福門院と上皇との男女関係など怖さ半分面白さ半分。
 ただし、一夫一婦制の現代的モラルもなく男色もOKだった時代なのだから、面白がれる人と面白がれない人に大きく分かれそうだし、子供には何のことやら分からないだろう。「お母さん、あれ、どういう意味?」と訊かれると困るので「見ない」という人も出て来そうだ。

 なので、「面白さが分からない」というのは理解はできる。ただし、それイコール「面白くない」ではないはずなのだ。

□見えないもの・見えるもの

Bratamo 同じNHKに「ブラタモリ」という番組がある。
 タモリ氏が東京周辺のあちこちの街をブラ歩きする番組で、特に有名な名所旧跡を訪ねるわけではなく、歩き回る多くは何の変哲もないただの街のただの道やただの坂だ。

 しかし、その何の変哲もない道の、曲がり具合、交差の仕方、高低差、塀や石積みの跡などに着目する。それが滅法面白い。
 歩いていて、ふと「あ、この道曲がってますね」とか「ここに高低差がありますね」と気付く。それを古地図とすり合わせてみると、ただの道の曲がり具合と見えたものは昔「川」が流れていた跡であり,かすかな高低差は「海」と「埋め立て地」の境だったり、塀が城郭の跡だったり、石積みが川の堤防の跡だったり、真っ直ぐな道が鉄道の線路の跡だったりするのが分かる。

 すると、次の瞬間、その平凡な道が、むかし川が流れ船が行き交い,その横に宿場が広がり商店が並び、あるいは鉄道が走り、多くの人々が集い子供たちが遊んでいた…というような景色となって、時空を超えて眼前に広がり始める。

 もともと「面白い」という言葉の語源は、目の前(面)が明るく白くぱーっと開けることから来たのだそうだ。
 要するに、それまでは暗くぼんやりとしていたものが、何かがきっかけで、明るく全てが見通せるようになる。それを「面白し」と言ったのらしい。

 今まで平凡な何の面白味もない街並みに見えていたものが、「道の曲がり具合」や「高低差」や「町名」あるいは「古地図」などのかすかな「情報」をきっかけに、ぱーっと江戸時代や前史時代の風景として明るく見えてくる。
 これぞまさしく「面白い」であり、それを訪ねることこそが《面白がる》極意と言えそうだ。

□クラシックの面白さ

Karajans などと言っている私も、実を言うと、十代の頃まで「クラシック音楽」というのは、「面白くない」ものの代表格のひとつだった。

 ポップスやロックは、ストレートで分かりやすい。そもそも「面白い」「楽しい」と思われるものがヒット曲として大衆(ポピュラー)向けに浸透するのだから、つまらないわけがない。しかも、飽きる間もあらばこそ、2〜3分ほどで一つの世界が完結する。

 対してクラシック音楽は、ほとんどの場合そもそも「歌(歌詞)」がなく、つかみ所がない。メロディの形も様々で、ポップスのように1番2番・サビ・リフレイン…のようなわかりやすい構造はしていない。さらに、速くなったり遅くなったりテンポが揺れるので、トータルとしての曲のキャラクターを掴めず、おまけに一曲がポップスの数倍(下手すると数十倍)も長い。

 燕尾服や蝶ネクタイの大の人間が真面目くさって演奏しているのを見れば、なにか「高尚」なものに違いない…と薄々感じられても、十代の少年が考える「面白さ」とはかなりの距離があると思わざるを得なかったわけなのだ。

 それを「面白い」と思えるようになったのは、(幾度となくあちこちに書いているが)14歳の時に「スコア(総譜)」というものの存在を知ったのがきっかけだ。
 今まで、全体像が分からなかった「音楽」が、綿密な設計図によって書き込まれ構築された「音の建築物」だと知った。その瞬間、そこにある壮大な「作曲家によって組み立てられたビジョン」が見えてきた。まさに「面」が「白く」なった瞬間である。

 かくして、クラシックの曲の「長くて」「複雑で」「とりとめもなく変化して」「何を言いたいのか分からない」という「つまらなさ」の要素が、まったく逆の「面白さ」に劇的に変異したわけである。

Composersg おかげで今では、私としてはバッハのマタイ受難曲は「面白い」と思う。チャイコフスキーやブルックナーの交響曲もショスタコーヴィチの弦楽四重奏も「面白い」し、ストラヴィンスキーやシュトックハウゼンなどの現代音楽も「面白い」。

 そこに張りめぐらされている様々な「仕掛け」を、作曲家の「ビジョン」と共有できる面白さ。そして、作曲家が思いもかけなかった全然別のイマジネーションを,自分自身で見つける面白さ。「面白さが少ない」という曲はあっても、「面白くない」曲などない、とさえ思うくらいだ。

 とは言え、マイケル・ジャクソンやAKB48の舞台を見て楽しんでいる人に、いきなりマタイやブルックナーを聴かせても・・・まず「面白い」とは言ってもらえない。「どれを聞いてもみんな同じに聞こえる」くらいのことは言われそうだ。それは重々承知している(笑)。

 一方、バッハやブラームスやワーグナーに心酔している人に聞けば、逆にポップスの最新ヒット曲は「どれも同じに聞こえて面白くない」ということになるに違いない。それは理解できる。

 さて、そうなると「面白い」とか「面白くない」と言っている基準は何なのか?と言うことになるのだが、こういう話をすると必ず「人はそれぞれで、感じ方もそれぞれだから」という真っ当すぎることを言って場をしらけさせる人がいる。
 それはそうなのだが、そう言ってしまうと話はお終いで、それこそ「面白くない」。もう少し奥に踏み込んでみよう。

□ことばによるトリガー(引き金)

Trigger 先の古地図の話でも分かるように、面白さの基本は「新しい視点」との出会いだ。それは、文字通りの「新しい目」を持つことであり、そのきっかけは「ことば」であることが多い。

 毎日通学通勤で歩いているただの曲がりくねった道は、確かに景色としては「面白くない」。何も面白がれる情報がないからだ。
 しかし、それが「川の跡なのでは?」と言われた途端に、俄然イメージが広がり、目の前に広大な昔の景色が広がる。これが「新しい目」だ。
 
 私が最初に聴いたシューベルトの交響曲は、ご多分に漏れずロ短調のあの曲。
 もごもごと弱音で聞こえにくい序奏、きれいだがフワッと現れては消えるメロディ。完結せずに融けて消えてゆく音楽。終わったのかも定かでないとらえどころのない印象だった。

 しかし、そこに「未完成」という〈ことば〉が触媒として入ってくると、化学反応が起きる。「未完成」という単語から想起される…とらえどころの無さ、儚さ、無念さ、消えゆくものの残像…さまざまなイメージが浮かんでくる。
 さらに、映画「未完成交響楽」で、「この恋が終わらざる如く、この曲も終わらざるべし…」とか何とか言われると、そのイメージは(虚構と分かっていても)翼を持って羽ばたき始めるわけだ。

Pacific231 例えば、オネゲルに「パシフィック231」という曲がある。機関車がごとんごとんと動き出し、やがて線路上を疾走するという情景を彷彿とさせる見事な構成とオーケストレイションが聞き物の名曲だ。(パシフィック231…というのは日本で言うD51のような機関車の型名)。

 しかし、オネゲルは別に機関車を描いて音楽を書いたわけではなく、当初付けたタイトルも「交響的楽章(シンフォニック・ムーヴメント)第1番」という味も素っ気もないもの。曲が出来てから「機関車っぽい」からとロマンチックな?タイトルを付けただけなのだそうだ。
 
 続く交響的楽章第2番も「ラグビー」と題されてこれも人気曲。確かに、聞いているとプレー開始のホイッスルや群衆のざわめきやゴールの歓声が聞こえるような気がする。
 しかし、それも「気のせい」なのだそうで、続くノンタイトルの第3番は同じ趣向の曲ながらタイトルがないのでイメージの浮かびようがないせいか、聞かれる機会はほとんどない。これも、「ことば」の鮮烈な威力で音楽が翼を持った好例だろう。

 音楽は「音楽」だけとして享受すべし…というのも真理だが、やはり「新世界から」にしろ「悲愴」にしろ「田園」にしろ、その「ことば」のおかげで広がる世界の鮮烈さは格別だ。
 そして、その「ことば」の持つイメージが音楽に憑依して、さらなる化学反応を起こすこともある。タイトル(標題)はなかなか重要なポイントなのである。

 ただし、あまりにも具体的なことばを付けてしまうと、それ以外の想像を封鎖してしまうので難しい。音楽に付ける「ことば」は、取り外せるオプションにしておくか、あるいは(分かったような分からないような…という境界にあるような)曖昧な方がベターだ。

 私も、タイトルがイマジネーションの「引き金(トリガー)」になるということについては、作曲家を志した最初期から考え続け、いろいろ試行錯誤を重ねてきた。
 例えば、デビュー作の「朱鷺によせる哀歌」(これはちょっと具体的すぎたと反省している)から、「デジタルバード組曲」「プレイアデス舞曲集」「天馬効果」「一角獣回路」「鳥たちの時代」そして「オリオンマシン」「メモ・フローラ」「ケフェウスノート」「バードリズミクス」などなど、分かったような分からないような言葉のブレンドであふれている。

 これは、まったく違った世界の二つの単語を組み合わせ、イメージの幅を広げると同時に視点(聴点?)をマルチビジョンにするのが目的。「ペガサス(神話の動物)」と「効果(科学用語)」をくっつける。「オリオン(星座)」と「マシン(機械)」をくっつける。そのミスマッチのブレンドが醸し出す独特の「違和感」を「想像力」の引き金とするわけである。

□うたと言葉

329a もちろん、そんなことをしなくても音楽は純粋に「音楽」だけでも強い力を持つ。それは確かだ。
 しかし、「ことば」を添えたときの破壊力は、格別だ。それが最も発揮されるのは、(改めて言うまでもなく)やはり「うた」だろう。

 昨年、震災の復興支援チャリティコンサートで「ふるさと」(高野辰之:作詞、岡野貞一:作曲)の震災復興版アレンジを試みた。(結局、演奏されることはなかったが)。有名な「うさぎ追いしかの山…」で始まるこの曲は、もちろんその音楽だけでも充分に郷愁や望郷の念を感じさせる。しかし、その時、改めて歌詞の威力に打ちのめされた。

 こころざしを果たして
 いつの日にか帰らん
 山は青きふるさと
 水は清きふるさと

 山が青く、水が清い・・・それは、本当になんでもない故郷の自然の描写だ。当たり前すぎて、今まで聞き過ごしていたほど、当たり前の景色、当たり前の表現・・・
 しかし・・・津波と放射能に覆われた被災者たちの故郷のことを思うと、最後の「水は清きふるさと」は滂沱の涙で楽譜など見えなくなった。「ことば」の威力を思い知った。

 さらに、(これは「歌」ではないけれど)震災のあとTVで流れた金子みすゞの詩。

 遊ぼうって言うと
 遊ぼうって言う。
  ごめんねって言うと
  ごめんねって言う。

 こだまでしょうか
 いいえ、だれでも。

 平和で普通の時なら、こどもの他愛のない日常を描く呟きで、そこに特別な深い思いは聞こえない。申し訳ないが、震災前まではさほど印象を残す詩ではなかった。
 でも、相手を「こだま」と表現した途端、亡くなった魂たちのイメージが奔流のように襲ってくる。最後に「だれでも・・・」と途切れた(ように聞こえる)ことばも、その異世界感をあおる。

 もうひとつ、大河ドラマで書いた今様・・・

 遊びをせんとや生まれけむ
 戯れせんとや生まれけん
 遊ぶこどもの声聞けば
 我が身さえこそゆるがるれ

 これも、普通に聞けば「こどもは無邪気に遊んでいるだけでいいなあ」というぼんやりとした呟きだ。おそらく、のんびりした古代歌謡のトーンで歌われる限り、現代の私たちには平和とこどもの無邪気さしか聞こえてこない。
 しかし、いくぶん哀感を加えたトーンにすると、かなり印象が違って来る。そして、最後の「我が身さえこそ」で、俄然、こどもではない「だれか」の人生や世界観へのイメージが「?」となってぐるぐると渦巻き始める。
 音楽だけでも言葉だけでも見えなかった世界が、不思議な化学反応の向こうに見えてくる。

□面白がれる人生

Muspec 音楽は「音」でしかなく、ことばもまた「音(あるいは文字)」でしかない。
 でも、その向こうに「何か」を聞くのが人であり、その「何か」を聞き取れるようになるのが「人」になるということなのだろう。

 それには「目の前が白く開ける」ような引き金(トリガー)となる「ことば」や「知識」をなるべく豊富に、そして自由に持つことに尽きる。
 若者たちよ、そのために「勉強」しなさい…と教訓じみた結論を言うつもりはないが、「面白がれる」のと「面白がれない」のとでは、決定的に人生の面白さが違うのは確かだ。

 世の中には「面白いこと」と「面白くないこと」があるのではない。
 面白がれる目や耳を持って「いる」か「いない」か、だけなのだ。

 だから、表現者たちが心がけるのは、「面白がらせる」ことではない。「面白がれる」視点を与えること、それに尽きる。「楽しませる」のは大事だけれど、単なるプリミティヴ(原始的)でストレートな「面白さ」だけでは、世界は広がらない。

 いろいろな「ことば」、いろいろな「見方」「聴き方」を提示することで、面白がる「目(耳)」を開いてもらう。そして、その開いた目(耳)でもって、より深く広い世界で共に遊ぶ。

 そうすれば、面白さの「深さ」想像力の「広さ」はどんどん広がってゆく。そして、一生かかっても汲み尽くせない水脈になる。

 それが、映画であり舞台であり小説であり…、そして音楽の役割だ。

        *

Flyer_2□アフタヌーン・コンサート・シリーズ 2012-2013
 会場:東京オペラシティコンサートホール
 時間:13:30 **

□米良美一「愛の歌」
米良美一、ピアノ:長町順史
2012年4月17日(火)

□金子みすゞ 詩の世界
チェロ:長谷川陽子、ピアノ:仲道祐子、朗読:中井美穂
2012年5月15日(火)

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コメント

私がクラシック音楽にはまりだしたきっかけは、
ショパンの「子犬のワルツ」の説明を知ったときです。
プードルくらいの小さい犬が緑の芝生のうえで
転がりそうになりながら
くるくる回って遊んでいるイメージが脳内に浮かび上がり、
「あ、おもしろい」と感じました。
( ´ ▽ ` )ノ

ちなみに私、「鳥は静かに…」を愛用のiPad nanoでよく聴きます。
曲の解説のおかげで、妄想がより具体化しております(笑)。
メロディが、脳内世界に浮かぶ森の光の揺らぎに思えてまして。
f^_^;)

(この調子で、J-POPもAKBも楽しみたいのに、
クラシックほど熱中して聴かないのは何故なんだろう…)
_φ(・_・


投稿: Ryoko | 2012/03/14 21:16

オネゲルの交響的楽章『ラグビー』って何度聞いてもいい曲なんだけど、なぜか日本では演奏されるケースが少ないんだよね。これはなぜかというと、”ラグビー”というネーミングがいけないのかもしれない。日本では、ラグビーは「3K(きつい、汚い、けがが多い)」と言われてるから基本的には嫌われてるスポーツだからね。日本人にはこの曲は馴染めないのかもしれない。あまり演奏される機会が少ないのが惜しい名曲なんだけどね、この曲は・・・・。

投稿: hide | 2014/01/10 23:09

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