演奏家たちの現在と未来
音楽史には、超絶技巧で名を馳せた伝説の演奏家たちがいる。
ヴァイオリンのパガニーニ、ピアノのリストはその双璧。「悪魔に魂を売った」と言われるほどの名技で聴き手を熱狂させたと伝えられる。
ただし、現代の若い演奏家たちの物凄いテクニックを聴くたびに、「演奏テクニックだけを比べたら、現代の若者たちの方が上なのでは?」と思うことが少なくない。
なにしろチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲を始めとする多くの有名コンチェルトは、作曲当時の巨匠たちから「難しすぎて弾けない」とお墨付きをもらったはずの難曲。しかし、現代の若者たちは(特に音楽専門でない高校生でも)普通に弾きこなす。
最近では、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番など、当時は(2m近い大きな身体と12度を軽く抑えられる巨大な手を持つ)ラフマニノフ以外の人には弾けなかった超難曲&大曲を、若いピアニストが弾きこなすようになっていて、感心することしきり。
さらに、かつてはヴァイオリンの超難曲だったはずの「ツィゴイネルワイゼン」なども、昨今はコントラバスで弾いたりトランペットで吹いたり、様々な楽器で「当たり前のように」演奏する名人たちが続々出て来ている。
もちろん「楽器」そのもののメカニックとしての精度が高くなってきていることもあるのだろうが、演奏レベルが格段にあがっていることは紛れもない事実だ。
実際、作曲家を30年ほどやってきた経験で見ても、初演の時にプロの演奏家に「これは弾けません」と断言された難曲が、15年ほど(つまり約ひと世代)たつと、学生でも(「ちょっと難しいですが」…というレベルで)弾くようになる例のなんと多いことか。
私の「デジタルバード組曲」(フルート)、「ファジーバードソナタ」(サックス)なども、初演の時は演奏者にいずれも「難しすぎて人間が弾くのは無理!」と断言された曲だが、現在ではコンクールの課題曲になって音大生が普通に演奏している。
考えてみれば、スポーツでも、例えば第1回の近代オリンピック(1896年)の際の100m走優勝タイムが《12秒0》。しかし、現代では男子の世界新が《9秒58》、女子が《10秒49》。100年前の金メダリストのタイムは、今では中学生の女の子の記録にも及ばない。
単純に「記録」という比較では、あらゆるスポーツのジャンルで、過去のどんな名選手より現代の若い選手の方がタイムが良いはずだ。効率の良い科学的合理的訓練を重ねている現在の方が「より優れた記録を出す選手」を生み出しているということだろうか。
□演奏するアスリート
とは言え、それをそのまま音楽に当て嵌めるのは、いささか乱暴にすぎるだろう。
何度も「単にテクニックやタイムだけを比べたら」とことわっているように、「指先」のまわり具合やスピードは客観的に比べられても、音楽的なオーラとかカリスマ性あるいは即興性や個性という点は比べようがないのだから。
確かに、第1回オリンピックの金メダリストを連れてきて現代のオリンピックに出したら、これは予選落ち確実。と言うことは、同じように過去の大演奏家たちも現代のコンクールに出場したら・・・
案外予選落ちのレベル…なのかも知れないし、逆に、強烈なオーラにむせかえるような悪魔的テクニックを聞かせて圧倒する…のかも知れない。そのあたりは想像するしかないけれど。
ただ、最近の演奏家というのは、音楽家というより「アスリート」(スポーツ選手)っぽい存在になりつつある…ということだけは、気のせいではないと思う。
元々コンサートで生の演奏を聴く行為というのは、スポーツ観戦に似ているところがある。決められた「場所」で、決められた「ルール」と「時間」の中で繰り広げられる「テクニック」のショーだからだ。
例えば、コンチェルトの名曲などを弾くとき、聞き手のほとんどは曲の長さも構成も知っているうえで「演奏」を楽しむ。演奏時間がどのくらいで、構成がどうか、細部に至るまで「一応は」分かっているわけだ。
その上で、序盤に鮮やかなテクニックを聞かせ…、中盤に手に汗握るカデンツァの妙技…、そして最後にエクサイティングに盛り上がる…などの「妙技」を楽しむ。
それは、野球なら9回、ボクシングなら15ラウンド、サッカーなら前後45分の計90分というような「枠」が分かっていて、その中で繰り広げられるナイスプレーを楽しむスポーツの観戦と似ていて当然かも知れない。
そんな「場」で、最高のプレイを見せるのがアスリートなら、演奏家もまたアスリートと同じ指向を持って当然なのだろう。
□才能の登場
ただし、演奏家もアスリートも、凡人が「頑張る」程度でなれるものではない、ことは言うまでもない。そこには「才能」と共に膨大な「努力」が必要だ。
そして(努力はともかく)「才能」の方は、早くから開花するに越したことはない、そこで、音楽界…特に演奏界には、昔から「神童」伝説が多い。
モーツァルトの例を挙げるまでもなく、十代前の少年が大人顔負けのピアノ演奏を聴かせたりリサイタルデビューしたりという話は、世界中あちこちで聞こえてくる。現代でも、スポーツから音楽に至るさまざまなジャンルで「天才少年」「天才少女」は引きも切らない。
もちろん「ちょっと器用な」子供はいつの世にもいるものだが、そんなレベルを超えて大人顔負けのレベルでピアノを弾き、ドラムを叩き、サッカーをし、ゴルフをこなし、ダンスを踊る子供たちを、世界中のニュースでずいぶん見かけるようになった(ような気がする)。
ただ、小さいにもかかわらず大人顔負けの芸を見せる子を、即「天才」とか「才能がある」と断言してしまっていいのかどうか、というのはちょっと気になる。
例えば(前にもどこかで書いた気がするが)、5歳でフランス語ぺらぺらという少年が田舎の小さな村に現れた、と聞けば「すわ、天才かッ!」と誰しも思う。
日常会話をこなし、ヴェルレーヌの詩の一節でもすらすら唱えれば、テレビや新聞で話題を独占しそうだ。
しかし、父親か母親がフランス人で、実は生まれたときから家庭内での日常会話がフランス語…となると、天才神話は少し崩れる。
さらに、そこがパリ郊外の村だったとしら、それは当たり前すぎて話題にもならない。フランスでは5歳児は全員フランス語をぺらぺらしゃべっているのだから。
音楽も似たようなところがある。
子供の頃から音楽をことばと同じレベルで吸収できる環境にあれば、ごく普通の子でも「音楽ぺらぺら」になることは可能だからだ。
特に「絶対音感」や「ソルフェージュ能力」のような「訓練」で仕込めるものは、小さい頃から耳にしていれば刷り込むのはたやすい。
また、ピアノのようなある種の「指先の器用さ」で修得可能なものは、早期教育でそれなりの成果を上げることは可能だ。
それは逆に言うと、そこそこ普通の子なら、早期教育さえ施せば、音楽の才能を発揮する(ように見える)疑似天才少年少女に育てることは十分可能だということだ。
問題は、それが生涯「音楽家」としてやっていけるようなレベルで恒久的に機能するかどうか?という一点にかかっている。
例えば、3歳でショパンの革命のエチュードをすらすら弾いたら、それは文句なく「天才少年」と騒がれる。
でも、20歳過ぎても同じように革命のエチュードを弾いても、・・・もはや誰も見向きもしない。
昔から「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」と言われるくらい、「才能」の輝きの賞味期間はほんの数年。
それを十年以上・・さらに一生涯にわたって持続させ続けるというのは・・・これは「才能」に恵まれたとしても至難の業。才能に「努力」を掛けてさらに「運」を何重にからませるしかない。
□才能の育ち方
そう書くと、生来持っている「真性の天才」と後天的に仕込まれた「疑似天才」とどう違うのか?というのが大問題になりそうだが・・・実際のところは、たいして差がないと言えなくもない。
真性の天才と見えたものも、社会の趨勢や人生の岐路で舵を切り違えれば「ただの人」になる。
逆に、独学食わせ物の「疑似天才」でも、様々な修羅場をくぐり経験を重ね深みを増すことによって「真性の天才」と区別できないものに化けることもある。
前にもどこかで力説したことがあるが、
「音楽の才能」があることが「音楽家になる才能」とは限らない…のである。
例えば、こどもの頃から「耳(音感)がよくて」「当然絶対音感もあり」「一度聴いたらどんな曲もピアノで弾けてしまう」…ときたら、これはもう「音楽の才能」としては申し分ない。
誰にどう聞いても、その子は「音楽の才能がある(恵まれている)」と断言するだろう。私もそう思う。
ところが、前述の「神童」の時と同じで、二十歳を過ぎ三十歳を過ぎても、そのまま「耳がよくて」「絶対音感があって」「人が作った曲を上手にピアノで弾ける」だけでは、音楽家として独り立ちするのは不可能。そのあたりが音楽家としての「育ち方」の難しいところだろうか。
蛇足ながら、「作曲の才能」となると(人が作ったような曲を上手に書ける…というのが通用しない分)もっと厄介だ。
音大の作曲科の学生の時に「耳がよくて」「和声法も対位法も完璧に習得し」「ショパン風でもシェーンベルク風でもどんな曲でも書けて」「オーケストラの楽器の知識も完璧」というのは、完全無欠な「優等生」である。それは間違いない。
ところが、作曲家として独り立ちするには、逆に「耳が悪くて」「和声法も対位法も苦手で」「人の模倣がヘタで」「オーケストラの扱いも今いち」という(落第しそうな)レベルの方がはるかに強力な個性になることが多い。
なぜなら…耳が悪い(音感があまり良くない)ことは、音楽の追究に時間がかかる…すなわちじっくり自分の音楽世界を探求することに繋がる。
そして、和声法や対位法の習得が遅いことや模倣がヘタなことは、独自の(ちょっと聞いただけでその人の音楽だと分かるような)音楽語法の獲得に有利に働く。
さらに、オーケストラの扱いのヘタさはユニークな(誰の響きでもない)個性的なサウンドを生む土壌となる。
音楽の修得というのは、人生や旅と同じだ。真っ直ぐ最短距離&最速時間で目的地に着いてしまったのでは、面白み深みは得られない。
寄り道をし回り道をし、さらに道に迷い人に道を訪ね、色々な思いがけない風景や人に出会うことで「豊かな旅(人生)」になる。
その点、(うっかり)「音楽の才能」があって、(運悪く)最短最速の道で「目的地」に着いてしまったら・・・これほどつまらないことはない。
旅の醍醐味はそこに辿り着く「過程」にあるのであって、目的地に着いてしまったら「それで終わり」だからだ。
□コンクール
さて、そんな戯れ言はおいといて・・・新しい「才能」を見出すための現在もっとも強力な社会的システムのひとつに「コンクール」というものがある。
英語圏では、スポーツにしろ弁論にしろ美人にしろ、何かを競い合う大会は、「コンテスト(Contest)」「コンペティション(Conpetition)」(いずれも「競技」「競争」の意)と呼ばれるが、音楽の場合はなぜかフランス語で「コンクール(Concours)」(Contestと同じ意)という。
もともとは、田舎の村などで祭りの時に、腕自慢・強さ自慢・美人自慢の連中が集まって競い合う「他愛のないお遊び」として始まった…ものだろうか。
足の速い男が「村一番の韋駄天」と呼ばれたり、力自慢の男たちがレスリングもどきで組み合い十人抜きで勝った男が「村一番の力持ち」に選ばれたり、ちょっと器量が良い酒場の娘が「村一番のべっぴん」と騒がれたり。
とは言え、同じ村の中ならともかく、よその村や国にまで範囲を広げるとなると、単に「足が速い」とか「力持ち」だけでは、客観的に比べることが出来ない。
そこで、走る長さを「何百メートル」、持ち上げる重さを「何キロ」、女性の場合は「未婚」で「何歳以下」とするような、基準が生まれるようになったわけだ。
しかし、具体的に「100mを走るタイムが何秒か?」とか「酒を30分で何リットル飲めるか?」とか「羊を何頭持っているか?」というように数値基準が設定できる競技はともかく、〈美人〉とか〈美男〉あるいは〈絵画〉〈アート〉のように主観が相当量混じる種目となると、審査基準をどうするのかがちょっと難問になる。
音楽も、「村で一番歌がうまい」とか「クラス一のカラオケのチャンピオン」というくらいならともかく、さて、日本中世界中からピアニストやヴァイオリニストが集まって「誰が一番うまいか?」ということを競うとなると、さて、どういう「基準」を求めるべきなのだろう?
誰でも思い付くのは、同じ曲を同じ条件下で演奏させて聞き比べる…ということだ。しかし、音を外すようなミスは減点として分かりやすいが、ノーミスで演奏する参加者が複数いた場合、それ以外の客観的な基準は?といわれると、これは難しい。
例えば、ショパンの「エチュード」を1分ジャストで弾く…とか、世界記録が58秒52…とかいう記録を競うコンクールというのが可能なら、極めて厳正な審査となるのだが、これはおふざけの域を出そうにない。
昔なら「客席の拍手が多い方」などという審査もあったかも知れないが、さて、142人の熱狂的拍手と、357人の温かい拍手と、568人の義理の拍手と、どれが優勝にふさわしいのだろう?
現状では、何人かの専門家(演奏家など)を並べて、客観的な「技術点」と主観的な「芸術点」をそれぞれ出させ、その平均あるいは総合点で順位を決める、というのがもっとも一般的なスタイルになっている(らしい)。
しかし、それは(穿った見方をすれば)コンクールという「場」でもっともマイナス要因の少ない演奏をした人…の選別であって、それがどの程度「音楽」の資質に関わるか、しいては「演奏家」という資質の優秀さに直結するのか、は知りようもないのである。
□コンクールの才能
結局のところ、コンクールで審査されているのは、「参加者」ではない。実は、コンクールの方なのである…ということだろうか。
どんなに著名音楽家をずらりと審査員に並べても、優勝賞金が何千万とか豪華賞品付きというような豪華景品を付けても、その優勝者・入賞者が新聞やテレビで大々的に報道されても、彼らがその後演奏家として伸びなければ、コンクールとしては二流でしかない。
対して、地味で賞金も低くとも、その優勝者・入賞者たちが数多く活躍し名を残しているとすれば、それはコンクールとしては一流ということになる。
かつては、大演奏家たちを審査員に迎えたのはいいが、その弟子ばかりが入賞・優勝して…と言うコンクールの弊害をよく聞いたが、逆に、それならと公平性を重要視するあまり点数制にするのも、色々な弊害を生むのでなかなか難しい。
将来大成するような個性的な演奏家は、若い頃は「可愛くない」ことが多く、100点を入れる人がいる反面、0点を付ける人もいる。当然ながら「平均点」という発想では、こういうタイプの才能は見いだせないからだ。
結果、100点と0点が半々となった個性的若者は平均点50点で落選し、全員が60点を付けた「可もなく不可もない」優等生が1位になったりすることが往々にして起こる。
そういう難点をクリアして、音楽家として大成する新人を見出せば「さすがに見る目がある」ということになるわけなのだが、その逆に、パッとしない演奏家ばかりを優勝者として輩出すると・・・「才能を見抜けない」という間抜けさを証明するだけになる。
コンクールとは、結構怖いシステムと言わざるを得ない。
そんな中で、確実に優秀な演奏家を輩出して「権威」の歴史を強固にしているコンクールもある。
チャイコフスキー・コンクール(ロシア。1958年より4年に一度開催。ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、声楽部門)とショパン・コンクール(ポーランド。1927年より5年に一度開催。ピアノ部門のみ)はその双璧だ。
世界には色々な音楽コンクールがあるが、その優勝者・入賞者が確実に世界的な音楽家に育っているという点を鑑みた場合、この2つは別格というしかない。
そして、その別格の歴史と権威に惹かれて、さらに優秀なる才能が世界中から集まってくる。
これこそが、コンクール自体の「才能」=「才能を見出す才能」と言うべきだろう。
それを手にしたとき、誰が選ばれるかという楽しみのほかに、そこで選ばれた才能のその後の羽ばたき具合を見届けることが、聞き手の大いなる楽しみとなる。
新しい才能は日々世界のあちこちで生まれている。
そして、彼らは日々悩み苦しみ試行錯誤しながら、成長し迷い遠回りし頂を目指して歩んでいる。
コンクールの覇者の演奏を聴くのは、そんな彼らの成長を見届けるという時空を超えた楽しみがあるわけだ。
*
チャイコフスキー国際コンクール優勝者ガラ・コンサート
〜リサイタル公演〜
□2012年4月23日(月)19時開演 サントリーホール
セルゲイ・ドガージン (vn) &
ダニール・トリフォノフ (pf)
・チャイコフスキー:なつかしい土地の思い出 Op.42
1.瞑想曲 ニ短調 2.スケルツォ ハ短調
3.メロディ 変ホ長調
ナレク・アフナジャリャン (vc) &
ダニール・トリフォノフ (pf)
・シューマン:幻想小曲集 Op.73
・ラフマニノフ:ヴォカリーズ Op.34
・パガニーニ: ロッシーニのオペラ「モーゼ」の主題による変奏曲
ダニール・トリフォノフ (pf)
・モーツァルト:幻想曲 K.397
・ドビュッシー:「映像 第一集」より 水に映る影
・ショパン:12の練習曲 Op.10
~オーケストラ公演~
□2012年4月27日(金) 19時開演 サントリーホール
・モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 第3番 ト長調 K.216
vn:セルゲイ・ドガージン
・ドヴォルザーク:チェロ協奏曲 ロ短調 Op.104
vc:ナレク・アフナジャリャン
・ショパン:ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 Op.11
pf:ダニール・トリフォノフ(Pf)
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コメント
チャイコフスキーのバイオリン協奏曲、
実を云うと、コンクール優勝者の演奏より廉価版のCDのものが
好きだったりします。
ゆったりゆっくり演奏で、聴いていて安心します。
…好みは人それぞれということで♪
( ´ ▽ ` )ノ
投稿: Ryoko | 2012/04/10 22:09