左手のピアノの内宇宙
舘野泉さんがこの5月に《左手の音楽祭》を始動する。
2年間に渡って(ほぼすべて左手のピアノ曲ばかりで)全16回のコンサートを弾ききる!という壮大なプロジェクトである。
私が今まで舘野さんに書いた作品もすべて再演されるそうなのだが・・・現時点で舘野泉さんのために書いた左手のためのピアノ曲は下記の通り。
◇タピオラ幻景(2004)全5曲
◇アイノラ抒情曲集(2006)全7曲
◇ゴーシュ舞曲集(2006)全4曲
・3つの聖歌(シューベルト、カッチーニ、シベリウス)
・4つの小さな夢の歌(3手連弾)
・3つの子守唄(3手連弾)
◇左手のためのピアノ協奏曲「ケフェウス・ノート」(2007)
◇組曲「優しき玩具たち」(五重奏。2010)全8曲
◇大河ドラマ「平清盛」テーマ曲(2011)
・同劇中音楽「夢詠み」「友愛」「安息」
・同〜紀行三景(遊びを/友愛/夢詠み) 全3曲
おかげで「左手のためのピアノ曲を作曲する秘訣は?」とか「作曲で重要なポイントは?」と聞かれることが多いが、「左手のピアノ作品」を書くこと自体は、通常の楽器のための作曲(例えば、ハープやギターの曲を書くこと)と変わらない。
楽器の「音域」と最低限の「奏法」を把握し、そこから先は、その約束事を守ったり超越したりて音楽のイメージを膨らませるだけだ。
ただし、実を言うと「左手のピアノ」はそれだけではない、ほかの楽器とはちょっと違う微妙な問題が関わってくる。
それは、ひとくちに「左手のピアニスト」と言っても、幾つかのタイプがあるからだ。
■左手のピアニストのタイプ
音楽史上最も有名な「左手のピアニスト」は、ラヴェルが左手のピアノ協奏曲を書いたパウル・ヴィトゲンシュタイン(1887〜1961)だが、彼の場合はこれにあたる。
彼は、ウィーンの名家であるヴィトゲンシュタイン 家(弟は哲学者のルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン)に生まれ、ブラームスやマーラーやRシュトラウスも家に出入りしていたという金持ちの子息。26歳でピアニストとしてデビューするが、その翌年第一次世界大戦が勃発。従軍してポーランド戦線で負傷し、ロシア軍の捕虜になる。そして、その時の傷が元で右腕を切断する手術を受け、片腕となった。
しかし、戦後、「片腕のピアニスト」として演奏活動を再開。その話題性や実家の財力そして強力な人脈を背景に、ラヴェル(フランス)、ブリテン(イギリス)、ヒンデミット(ドイツ)、プロコフィエフ(ロシア)と言った当時超一流の作曲家たちに作品を委嘱している。
彼は、物理的(医学的?)に右手が存在しないタイプの「左手のピアニスト」であり、その点は見た目も分かりやすい。ただし、「右手が存在しない」以外は、普通の健康体である。
2.半身の麻痺による場合
一方、舘野さんの場合は、脳溢血による半身麻痺から、右手が不自由になったもの。
舘野泉さん(1936〜)は、父親がチェロ、母がピアノという音楽家の家に生まれ、慶應高校〜東京芸術大学ピアノ科と進んでピアニストデビュー。音楽修行の先を北欧フィンランドにするというユニークさで、北欧ものやロマン派そして現代作品をレパートリーとして活躍。以後、日本とフィンランドを行き来する旺盛な演奏活動を主なっていたが、2002年、演奏家としてのキャリアを十二分に重ねてきた60代半ば、リサイタルの途中に脳溢血で倒れる。
無事、生還はしたものの、後遺症として右半身に麻痺症状が残り、リハビリを進めるも、右手は不自由なままになった。しかし、1年半後に「左手のピアニスト」として演奏活動に復帰している。
3.手の運動障害による場合
最近知られてきたものに神経疾患による運動障害(ジストニア:Dystonia と総称される)がある。
原因は色々だが、スポーツや楽器演奏などの過酷な鍛錬、精神的なストレス、あるいは薬物の投与などによって、体の一部に筋肉の収縮や硬直あるいは痙攣が見られるもの。
四六時中ペンを握り続ける作家がなる「書痙」などがその典型だが、手や手首の筋肉を酷使するスポーツ選手(ゴルフ、ビリヤードなど)、演奏家(ピアノ、ヴァイオリンなど)、専門職(タイピスト、整備士など)に症例が多いそうだ。
作曲家シューマンも、若い頃ピアニストになるべく特殊な器具を作って無理な練習をしたため手を痛めたというが、これも現在ならジストニアの症例になるのかも知れない。
ピアニストとしてのキャリアの絶頂期に右手の指2本が動かなくなる…という形で発症したアメリカのピアニスト:レオン・フライシャーがこの事例。
左手のピアニストとして、小澤征爾と左手のピアノ協奏曲のアルバムを残したが、2004年には両手で復帰して「Two Hands」というアルバムを発表している。
日本では、智内威雄氏が、左手のピアニストとしての演奏活動のほか、ジストニアの実態を知ってもらう運動を進めている。ピアニスト以外の演奏家にもこの症例は意外と多いようだ。
この場合は、外見は全く通常の人と変わりなく、自覚症状としてのみ「右手」の不自由さがある…というタイプの「左手のピアニスト」である。
4.ケガによる場合
そのほか、事故(交通事故や打撲・転落による事故など)で片手を損傷することもある。軽い症例としては、球技などでの「突き指」や「切り傷」なども(一般人ならちょっと生活に支障が出るくらいで済むが)ピアニストや音楽学生なら深刻な問題だ。さらに手首の「骨折」となると事態はさらに深刻になる。
ただし、「怪我」の場合は一過性のものであり、治癒すれば元に戻る可能性が大きいわけだから、「急性(一過性)左手のピアニスト」ということになるだろうか。
■左手のピアニズム
はっきり外見上も隻腕(片手)の状態である「1」の例(右手が存在しない)の場合、「右手で奏するパート」は当然ながらまったく演奏できない。(切断されて存在しない場合、例えば、鍵盤に手を添える、譜面をめくる、右半身のバランスを取る…ということも出来ない)
対して「2」の例の場合は、病気による麻痺であって「右手を失った」わけではないので、例えば右手指一本の単音による演奏、あるいはこぶしや肘などで鍵盤を叩く様な奏法は不可能ではない。
また、リハビリ次第によっては「一本指あるいは数本の指で簡単なメロディくらいなら弾けるようになる」可能性がある。もちろん、うまくすれば数年後には両手の機能が回復するかも知れないわけだ。
一方、「3」場合はかなりフレキシブルだ。右手は存在するし、外見上は普通の両手を持つ人と区別は付かない。現実的にも、ごく日常的な範囲で使う分には遜色ないことが多い。(だからこそ逆に人知れず苦労があると言えるのだが)
つまり「プロ」のレベルで右手を駆使することは出来なくても、易しいパートなら右手で弾ける可能性もあるわけで、そういう特殊性を活かした奏法(例えば、右手で別の音源を演奏する)もあり得るかも知れないということになる。
これに、最後の「4」の「一過性」の例を加えると、ひとことで「左手のピアニスト」と言っても、そのタイプや状態によってかなり微妙な違いがあることになる。
2のように、音楽家で脳溢血で倒れる例は少なくないが、ほとんどの場合そこで演奏家生命は終わる。楽器は、弦楽器(ヴァイオリンやチェロ)にしろ管楽器(フルートやクラリネット)にしろ、両手を駆使する前提で作られたものであり、片手での演奏はほぼ不可能だからだ。
例えば、ヴァイオリンのような弦楽器なら、左手指で音程を作り出し、右手は「弓」を扱うだけなので、やさしい曲を弾く分には大丈夫そうに思えなくもない。しかし、右手指の細かい作業はないにしても、手首を含めた右手の「ニュアンス」が表現の生命線。プロとしての演奏活動をするのはかなり難しい。
その点、指揮者は・・・手が上に上がる状態でありさえすれば、ある程度、可能かも知れない。細かいニュアンスや体力という点ではもちろん難しいが、老齢で倒れた指揮者が指揮台に復帰した例はある。その場合、もちろん「楽団員たちが全力のフォローをするから」というのが大きな理由なのだろうけれど。
ちなみに、脳溢血は、脳の内部の毛細血管が破れて出血するもの。脳の「左側」に出血があった場合、脳と神経系が交叉している関係で、身体の「右側」(右半身)に麻痺が出る。
人間の体というのは不思議なもので、外敵などに襲われて大きく半身をケガした場合も即機能停止にならないように左右一対の「スペア」の脳がある。(機能は微妙に違うにしても、まさに「もしもの時に備えたスペア」の関係というしかない)
そして、ダメージを受けた反対側の(まだ無事な)半身を使って危険から逃れるためか、右脳が左半身を、左脳が右半身を、というように神経が交叉(クロス)している。(余談だが、さらに右目は左脳に、左目は右脳にと交叉している)
これは「生存」し「生き残る」ための機能的かつ合理的な構造であり、まさに「生命の神秘」というべき仕組みなわけだが、その結果、左側の脳にダメージを受けた場合「右手」だけでなく、「右足」にも(そして「右目」にも)影響が出ることになるわけだ。
ピアニストにとって、もちろん「右手」が動かなくなるのが最大のダメージだが、実を言うと「右足」が動かなくなるのもかなりの大問題である。
なぜなら、片手でのピアニズムを駆使するためには、(両手の場合にも増して)右足による「ペダル操作」が必須になるからだ。
■ペダリングと姿勢
片手になれば当然、使える指は10本から5本と「半分」になる。ということは、同時に発音できる音は当然「1/2」になる。
これを補うには、音のサステイン(保持)をペダリングでコントロールし、音を「倍増」させる必要がある。その肝心要の裏技こそが〈ダンパー(ラウド)ペダル〉を駆使する「右足のペダリング」なのである。
ということは、「2」の事例の場合は(左手のピアニズムのほかに)「左足のペダリング」も考慮すべき項目になるわけで、これは舘野さんにお聞きしてみた。
幸運なことに「右足」はほぼ無事で、歩くときに足を少し引きずることはあっても、足首で行うペダリングに関してはまったく支障はないレベルなのだそうだ。(これも、出血部位がもう数ミリずれていたらどうなったか分からない…というお話で、本当に不幸中の幸いと言うしかない)
さらに、通常は「右足」で行う(ラウドペダル)のペダリングを、「左足」で行う…というのも面白いかも知れないという話になった。
そうすると、結果として体全体を右にひねった形になり、客席からはピアニストの顔と左手がよく見えることになる。やってみると(曲によっては)「意外と弾きやすい」のだそうで、「これも面白いかも知れないね(笑)」とのこと。
まだ未開発の「左手のためのピアノテクニック」はあるのかも知れない。
実は、この「ピアノ弾くときの姿勢」というのも、左手ピアノの奏法の特徴でもある。
ピアノを普通に「両手」で弾く場合は、ほぼ正面を向いたまま右手で高音域・左手で低音域をカバーし、左右のバランスは両手で取る。
ゆえに、上半身は全く動かさなくても、あらゆる曲を弾くことが可能だ。(そのため、時にまったく上半身を動かさないロボットのような演奏を見ることさえある)。
しかし、左手のみでピアノを弾く場合、鍵盤の左側端の「低音域」を左手で鳴らしたときの力の反動は(右手で支えられない分)上半身全体を使って支える必要がある。
そして、左手とは反対側にある「高音域」を弾く場合、今度は(左手をピアノの鍵盤の右端に届かせるため)体を大きくねじる必要がある。
(さらに、高音域:右→低音域:左、と音が飛ぶような場合は、上半身をねじり回転させながら、左手を鍵盤の上で右へ左へと飛び交わさなければならない)
左手だけでピアノの全音域をカバーした演奏を行う場合、両手の場合よりかなり上半身の運動が必要となるのである。
■リハビリ幻景
というわけで、病気を克服し復帰されての「再活動」にふさわしい作品としては、やはり身体に負担がかからないものということになる。
卑近な例えで言えば、退院していきなりビーフステーキやフレンチのフルコースをご馳走するのでなく、消化がよく量も少なめな療養食を食べてもらうようなものだろうか。
その点では、例えば単旋律のメロディだけでできた曲、ゆっくりしたテンポで音の数も少ない曲…というような選択肢もあった。
実際、最初に試作したのはリュートによるルネサンス舞曲風のシンプルな小品だったし、3手の連弾のために…と頼まれてアレンジした曲(子守唄)は、左手パートは単純な伴奏音型の繰り返しである。
それなら、左手にも体にも足にも負担がかからない曲ということになるのだが、長年一線で活躍してきた一流ピアニストが、人前で子供に戻ったような「やさしい曲」を弾くのを好むかどうかは別問題。(のちのちアンコールで弾く…というような楽曲としてはあり得るにしても)
結局、私の場合は「物理的に片手で弾ける音の組み合わせ」かどうかだけは鍵盤で確かめてみたものの、「弾きやすいかどうか」ということは一切考慮しない難曲を書き上げることになった。
おかげで、その曲「タピオラ幻景」の初演の時は、「ヨシマツさん、この曲、弾いてると息が止まりそうになりますよ」とにこやかに笑いながらも抗議(?)されることになる。
さらに、後々まで「あの時は、左手までぶっ壊れてしまうと思いました」と笑いながらおっしゃられて…恐縮至極の体だった。
それでも(言い訳するわけではないが)「じゃあ、少し易しく書き直しましょうか?」と舘野さんに進言しても、「いいです。弾きます!」という御返事なのだ。
左手のためのピアノ協奏曲(ケフェウスノート)の時も、「この曲、全曲弾きっぱなしで休みの部分が少なくて大変です」とおっしゃるので「じゃあ、少しピアノの部分を削りましょうか?」と進言すると「いえ、減らさないでください」とひとこと。
そして、後になって「あれは良いリハビリになりました」とおっしゃる。そのバイタリティとひたすら前向きな心意気には脱帽するしかない。
■右手のピアノが存在しないナゾ
余談だが、左手のピアノに関わって以来、気になっているのは、「右手のピアニスト」というものの存在が(ほとんど)ないことだ。
右手のためのピアノ曲…というのは、「練習曲」としては幾つか存在するらしい。C.P.E.バッハやツェルニーあるいはサンサーンス、モシュコフスキ、アルカンといった作曲家が書いているそうだ。
ただし、いずれも「右手」「左手」双方を鍛えるためのエチュードであって、演奏会用というわけではない。もしかしたら現代曲には、まだまだ未聴の(というより未発表の)作品もあるのかも知れないが、コンサートピースの中には少なくとも「右手だけのピアノのための作品」は皆無と言っていいだろう。
しかし、普通に考えると、ピアニストの演奏で最も華やかに活躍するのは「右手」だ。メロディを弾くのは主に右手だし、華々しい技巧を聴かせるのも、それが目立つのも右手である。
モーツァルトからショパンまで、ピアニズムの基本は「右手でメロディ」「左手で伴奏」。イメージとしては「右手」が主役であり、「左手」は助演や脇役あるいは演出というバランスだ。
もちろん「主役」だけでは芝居は出来ない。脇役たちや脚本や舞台監督や演出や美術あってこその主役だと言うことは分かるが、スポットが当たるのは主役であり、観客も主役目当てにやってくる。
それなのに、なぜ「左手」にピアノ曲があり得て、「右手」だけのピアノ曲が有り得ないのか?
手の構造という点から見ると、手首というのは親指側に曲げるのが容易で、小指側に曲げるのは不得手。
一方、腕自体は、右手は右方向への運動が得意で、左手は左方向が得意(当たり前だが)。
つまり鍵盤上では、右手は高音方向(右側)に伸ばすのは得意だが、低音側(左側)に行くのは不得手。
逆に、左手は低音方向(左側)に伸ばすのは得意だが、高音側(右側)に行くのは不得手ということになる。
双方のそんな得手不得手を補って「両手」で鍵盤の全音域を駆使するのが、両手によるピアニズムというわけである。
一方「片手によるピアニズム」はどうなるか?というと・・・
最大のネックは、もっとも基本かつシンプルな「右手でメロディ・左手で伴奏」が出来ないことだろうか。
モーツァルトの最も優しいソナチネのような・・・左手でドソミソ…と伴奏を弾き、右手で単音のメロディを弾く・・・という初歩の初歩のことが出来ない。
これを克服するためには、まずメロディと伴奏形を片手で押さえられる音域内に集合(圧縮)させる必要がある。
さらに、同時に演奏が難しい広い音域に渡場合は、アルペジオや分散和音の形で「時間差」による演奏に持ち込むのが基本になる。
結果、例えばモーツァルトのソナタなら下の譜例のようになるわけだが、ピアノを弾かれる方は試しにこの譜例を右手と左手で弾き比べてみて欲しい。
右手で弾く場合は、メロディラインは掴みやすいが、分散和音を弾くためにいちいち流れを中断されるので、音楽の形を作るのが難しい。
一方、左手で弾く場合は、小指での和音の保持(下のドやレの音)は取りやすいが、親指を使ってのトリルっぽい高音のパッセージが致命的に弾きにくい。
大雑把に言って、右手だけの場合は
「装飾的なメロディは弾けるが、伴奏は不安定になる」
左手だけの場合は
「伴奏形は充実させられるが、メロディは不安定になる」
という傾向があり、どちらも一長一短。
右手でも左手でも「弾きにくい」ことにあまり変わりはないのである(笑)。
左手のためのピアノ曲ばかりが存在し、右手のそれがないのは、手やピアノの構造あるいは作曲や音楽上の理由ではない。というのが結論になりそうだ。
■左手の右脳、右手の左脳
ちなみに、この「左右」の問題、左手右手を駆使する大元の「右脳」と「左脳」のキャラクターの違いとして、音楽そのものに関わってくる。
人間の脳が、右脳と左脳の2つあることは先に触れた。
そのうち「右脳」は(大雑把に言って)「感性」を司る。音楽や図形、あるいは直感的なものごとの把握などを担当するアナログ脳などと言われる。
対して「左脳」は「理性」を司る脳。言語や論理的な思考を堪能するデジタル脳である。(実際にはそこまで明確な役割分担があるわけではなく、あくまでもキャラクター分担という感じらしいのだが)
特に「音楽脳」とまで言われる「右脳」は、音楽に感動するとか歌が心を打つ…というような感覚や情緒の部分に関わる(とされる)重要な部位。イマジネーション(想像)とかインスピレーション(霊感)というのは、まさにここに降りてくるわけで、「ミューズの神」が宿る場所と言えるかも知れない。
では、音楽家としては「右脳」だけ発達していればいいのかと言うと、逆に、プロの音楽家(作曲家や演奏家)としては、理性や記憶担当の「左脳」こそが重要と説く人もいる。
なぜなら、楽曲を記憶したり暗譜したり曲の構造などを理解し把握するのは、言語や計算と同じでこちらの左脳を使うからだ。
特に、演奏は単に「感情のおもむくまま」というわけにはいかない。「どんなテンポで」「どんなタッチで」「どんなニュアンスで」「どんなバランスで」という理性的なコントロールを指先や身体に伝えることが必要だ。
左脳なくして、また《音楽家》はあり得ないのである。
ちなみに、かの(左手のためにピアノ協奏曲を作曲した当の)作曲家ラヴェルは、晩年、交通事故で「左脳」を損傷し、それが原因かどうか、以後ほとんど作曲ができなってしまったという。そして「音楽は頭に浮かぶのだが、それを楽譜に書くことが出来ない」と語ったと言われる。
彼の場合、音楽の感性を司る(音楽を生み出す)「右脳」は機能しているのに、それを記述する(音楽を具体化する)「左脳」が機能していない、ということによる悲劇だったことになるだろうか。
舘野さんの場合も(まことに失礼ながら、ちょっと気になるので、一度聞いてみたことがあるのだが)、やはり「確かに暗譜したりするのがちょっと苦手になった」という感じなのだそうだ。
もっとも、ピアニストの場合は、「楽譜を置いて(見ながら)演奏する」ことで、作曲家ほどは致命的な問題にならないようなのだが。
■左 vs 右
この「右手」と「左手」の話に関わるが、「隻腕(片手)」の作家として私が真っ先に思い浮かぶ人と意ったら・・・漫画家の「水木しげる」氏である。
数年前、NHKの朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」で人気を博したので、知っている方も多いだろうが、彼は「右手」だけの隻腕の巨匠である。
彼の場合は、ヴィトゲンシュタインと同じで、二十代始めに軍隊に入り南方戦線(ラバウル)で負傷、その際、手術で「左手」を切断している。しかし、戦後、「右手」一本で貸本漫画界にデビューし、「墓場の鬼太郎」ほか多くの名作を残している。
漫画家の場合はやはり「利き腕である右手」が残ったので再起できたのであり、これが「左手だけ」だったとしたら、そもそも絵を描くタイプの仕事は難しかったのではなかろうか?。
蛇足ながら、隻眼隻腕(片眼片手)で思い付くのは、丹下左膳。これは小説(作:林不忘)の中の架空の剣豪で、嵐勘十郎や大河内傳次郎、大友柳太朗らの主演で映画にもなった。彼は、刀傷で右目と右手を失い、左目と左手だけの剣士だから「左」膳。
当然ながら「左手」で刀を扱うわけだが、これは「左目」とのバランスと言うことなのだろう。左目で捉える左側からの攻撃を受けてかわすのは左腕に刀を持つしかない。そもそも右手で刀を持ったら、見えない右目では「自分の手が見えない」のだから、左目&左刀というのは理にかなっている。
私の父方の祖父も、子供の頃の小児麻痺(ポリオ)で左足・左手に少し不自由が残っていて、こちらは「右手」党だった。
この病気は、ウィルスにより脊髄が炎症を起こして発熱し、その後、足や腕に麻痺が残る。子供の時に発症することが多かったので、むかしは「小児麻痺」と呼ばれていたが、これも先の神経系の理由により「右側」「左側」という形にトラブルが残る。
祖父の場合、左足を少し引きずっていて散歩はもっぱら杖だったが、一方でフランス語の講師をつとめていて、翻訳の仕事や読書あるいは音楽鑑賞などは旺盛にこなしていたから、ものを書く利き腕「右手」の作業には遜色がなかったことになる。
私も、現在はパソコンとピアノを左右において音楽と原稿とイラストとを書いているが・・・考えて見れば
文字用キイボード(言語)は「右手(左脳)」
鍵盤キイボード(音楽)は「左手(右脳)」が鉄則だ。
和音を探ったり響きを確かめるために鍵盤キイボードを触るのは「左手」。対して、マウスを操ったりタッチパネルに触れたり、ペンでタブレット端末に絵を描いたりするのは必ず(利き腕の)「右手」を使う。
(蛇足ながら、箸を持つのは「右手」だが、酒を飲むのは「左手」である)
どうしても「左右どちらか」を選べ!と言われたら、仕事での有利性という点からして「右手」だろうか。(その場合は、酒も右手で飲むことにしよう)
■神の選んだ「左手」
と色々「右手」「左手」について考え見ても、ことピアノにおいて「左手ピアノ」ばかりが目立ち、「右手ピアノ」の例が極めて少ない理由については・・・思い当たらない。
そうなると「もし」と考えるのが、もしヴィトゲンシュタインが「右手」でなく「左手」を負傷していたら・・そして、戦後「右手のピアニスト」として復帰し、ラヴェルやプロコフィエフに作品を委嘱していたら?という想像だ。
そして、もうひとつ。舘野泉さんが倒れて失ったのが「右手」ではなく「左手」であり、リハビリ後「右手のピアニスト」と再起すべく作曲家たちに「右手のピアノのための作品」を委嘱していたら?
私は書いただろう。「右手のためのピアノ曲」を。そして、「右手のためのピアノ協奏曲」を。さらに大勢の作曲家たちも、右手のためのピアノ曲をこぞって書き上げ献呈したはずだ。
その結果、舘野泉さんは「右手の音楽祭」を開き、右手のピアノのための音楽が2年間にわたって演奏を重ねることになったはずだ。
そうでなかったのは、神が振ったサイコロの目が、ヴィトゲンシュタインの場合と舘野さんの場合に限り「右」ではなく「左」だったからだ…としか考えようがない。
そう考えてゆくと、世の中に「左手ピアノがあって、右手ピアノがない」というナゾの答えが見えてくる。それは・・・
ヴィトゲンシュタインと舘野泉がいたからなのだ。
*
■舘野泉 左手の音楽祭
〜新たな旅へ…ふたたび〜 Info
Vol.1<新たな旅へ・・・ふたたび>
2012年5月18日(金)19:00開演 第一生命ホール
・バッハ(ブラームス編曲):シャコンヌ BWV1004より
・スクリャービン:左手のための2つの小品
・間宮芳生:風のしるし・オッフェルトリウム
・ノルドグレン:小泉八雲の「怪談」によるバラードⅡ
・ブリッジ: 3つのインプロヴィゼーション
(2004年5月18日(火)復帰リサイタルの再現プログラム)
Vol.2<光と水、土と花と樹のTransformation>
2012年11月4日(日)14:00開演 東京文化会館小ホール
・林 光:花の図鑑・前奏曲集
・吉松 隆:タピオラ幻景
・松平 頼暁:Transformation
・末吉 保雄:土の歌・風の声
・coba:記憶樹
Vol.3<祈り~夢に向かって>
2012年12月8日(土)14:00開演 東京文化会館小ホール
共演:柴田 暦(Vocal)平原あゆみ(ピアノ)/
・コーディ・ライト:祈り(三手連弾)
・T・マグヌッソン:ピアノ・ソナタ
・塩見 允枝子:アステリスクの肖像(Vocal & Piano)
・パブロ・エスカンデ:音の絵(三手連弾)
Vol.4<絆~優しき仲間たち>
2013年3月初旬予定 東京文化会館小ホール
共演:ヤンネ舘野(Vn),舘野英司(Cello),浜中浩一(Cl),北村源三(Tp)ほか
・末吉保雄:アイヌ断章(ピアノ四重奏)
・間宮芳生:ヴァイオリン・ソナタ(世界初演)
・J・コムライネン:室内楽曲(編成未定・世界初演)
・吉松 隆:優しき玩具たち(ピアノ五重奏)
Vol.5<世界を結ぶ>
2013年5月予定 会場未定
共演:ブリンディス・ギュルファドッティル(チェロ)、
・パブロ・エスカンデ:Divertimento
・野平一郎:新作ピアノ曲(世界初演)
・ユッカ・ティエンスー:新作ピアノ曲(世界初演)
・T・マグヌッソン:チェロ・ソナタ(世界初演)
・coba:新作(編成未定・世界初演)
Vol.6<恐るべき子供たち>
2013年9月予定 会場未定
共演:ヤンネ舘野,亀井庸州(vn)多井智紀(vc)ほか
・一柳 彗:新作室内楽曲(編成未定・世界初演)**
・レオシュ・ヤナーチェク:カプリチオ(ピアノと管楽器8本のために
・E.W.コルンゴルド:ピアノとヴァイオリン2本、チェロのための組曲
Vol.7<77歳のピアノ協奏曲>
2013年11月10日 14:00 東京オペラシティコンサートホール
共演:ラ・テンぺスタ室内管弦楽団(フィンランド) 指揮:野津如弘
・P.H.ノルドグレン:ピアノ協奏曲第3番<死体に跨った男>
・吉松 隆:ピアノ協奏曲<ケフェウス・ノート>
・池辺晋一郎:ピアノ協奏曲(世界初演)
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コメント
目と脳の神経の交差の部分について・・・
ヒトの場合,正確には半交差といって、右目と左目の右半分の視野に対応する視神経が集まって左脳に、右目と左目の左半分の視野に対応する視神経が集まって右脳に、という少し複雑な交差になっています.
・・・とご指摘がありました。ありがとうございました。(筆者)
投稿: 管理人 | 2012/05/12 07:26
舘野さんのエピソードを拝見するたび、ヒトって素晴らしいと思います。
おそらく、私などの想像を超える、様々な思いをなさり、そして努力をなさったのでしょう。
なので、何かにつまずくたび(特に音楽関係で気持ちがくじけそうになるとき)には、「舘野さんより若い私がここでくじける思いをしているということは、まだ努力が足りないということ。(くじける暇があるほど余裕があるということ)」と思い、顔を上げて前をみます。
今後の御活躍がますます楽しみです。
投稿: Ryoko | 2012/05/16 19:50
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。
投稿: 職務経歴書の書き方 | 2012/07/07 13:27