音感よもやま話
独学で作曲の勉強を始めた高校生の頃、父親に「音楽の才能があるかどうか専門家に見て貰おう」と言われて、とあるプロの音楽家の処に連れて行かれたことがある。
家を訪問すると、グランドピアノが置いてある部屋に通され、「この音何の音?」といきなりピアノの音をひとつポーンと鳴らされた。「B♭」と私が答えると、「残念。Aだよ。うーん、どうやら絶対音感はないみたいだね」と言われてしまった。
そして、「まあ、とにかく音楽大学を目指すか、あるいは音楽は趣味でやるか、よく考えて結論を出しなさい」という(まあ、私も友人の息子に「音楽の才能があるか鑑定してくれ」と言われたら、そう答えるしかないだろうという)真っ当な助言をいただいた。
とは言え、もともと音楽の「才能」に目覚めたわけでもないし、音楽大学にも「絶対音感」にも興味はまったくなく、助言はそのまま右の耳から左の耳に抜けてしまった。
ただ、「音」の件だけは気になって、家に帰ってすぐピアノで確かめてみた。
やはり「B♭」だった。
数週間して(何年かぶりに)ピアノの調律師さんが来て、その疑問は氷解した。妹がレッスンを受けていた小学生の頃以来まったく調律をしていなかった我が家の古いアップライトピアノは、チューニングが「半音ほど下がって」いたのだ。
それを高校に上がっていきなり音楽に目覚めた私がバンバン弾き始め、(なにしろベートーヴェンのソナタを無手勝流で弾き叩き、前衛音楽の肘打ち奏法まで弾きまくって酷使したので)調律師さんに言わせると「割れ鐘みたいな状態」だったそう・・・
そこで初めて分かった驚愕の事実が・・・世間一般の調律されたピアノの「A」の音は、半音下がったウチのピアノの「B♭」ということなのだった。
(ということは、私がそれまで「A」と信じていた音は「G#」だったわけだ)
以来「絶対音感」という言葉は私の辞書にはない(笑)
◇ラの音
ちなみに、現代では、A(ラ)=440Hzということになっているのは、ちょっと音楽好きの人なら御存知だろう。(最近はもう少し高い442〜448Hzを使う演奏家も多い)
これを基準にすると、半音低いG#(ソ#)は415Hzくらい。半音高いA#(B♭)だと466Hzくらいということになる。
ただし、これは20世紀も半ばになって提唱されたもので、昔はこれより低いチューニングが行われていたことも、クラシック音楽ファンなら御存知のはず。
モーツァルトや古典派の頃は半音の半音ほど低い420〜430Hzが多く使われていたそうだし、バロック時代には完全に半音低い415Hzだったこともあるそうだ。
(半音低くなっていたウチのピアノは、バロック時代仕様だったわけだ)
ということは、モーツァルトの「ハ長調」の曲は(もし当時の演奏が残っていたら)、現代の人の耳には「(ほぼ)ロ長調」の楽曲に聞こえる理屈になる。
さて、当時「半音の半音」の音程の違いを聞き分けたと言われるモーツァルトは、自分の書いたハ長調の音楽が、200年後に(モーツァルトの耳には)「(ほぼ)嬰ハ長調」に聞こえるキイで演奏されている状況についてどう思うだろう?
もっとも、「A=440」という基準自体、何か根拠があってのことと言うより(おそらく)単に十進法で分かりやすいから末尾を0にしました…という理由での採用だったことは間違いない。
機械的(あるいは電気的)なピッチ計測器を持ち出したとき、こういう10で割り切れる数にしておく方が明快なのは確かだからだ。
そして、それは人間の感覚とは全く違う「数字」であることは言うまでもない。
その証拠に、現実の楽器(特に弦楽器)たちは、(うちの古いピアノのように)ちょっと油断するとすぐ「ちょっとずつ低い音」になってゆく。
ヴァイオリンやチェロは弾いていると微妙に弦がゆるんで音が低くなるので、楽章間でのチューニングも必要になるし、ピアノも弦を叩くたびに音程が低くなるので、リサイタルの前半と後半にそれぞれ調律が入ることだってあるほどだ。
一方、演奏家たちは、張りがあって通りが良い音を目指すうち「ちょっとずつ高い音」を好み始める。高い音=弦の張力が大きい→張りのある華やかな音になる…というのは理にかなっているし、大きなホール大勢の聴衆に向かって音を届けるには、その方が有利だからだ。
結果、楽器は「下げたい」、演奏家は「上げたい」…という相反する「志向」を秘めつつ音楽を作ってゆくことになる。音の高さは、楽器と演奏家とのせめぎ合いなのである。
◇Dmのドリア
そんなこんなで、私としては半音低いチューニングのアップライトピアノで「作曲」の大海に乗り出してしまったわけだが、やがてそのピアノから卒業する日を迎えることになる。
とは言っても、「ちゃんと調律されたグランドピアノ」に行き着いたわけではなく、むしろ逆。そもそも日本の住宅事情では、夜にアコースティックなピアノを鳴らすのは不可能。しかし、音楽修業は昼夜分かたずピアノを弾く必要がある。
そこで、夜でもヘッドホンで音が聞ける家庭用の「電子ピアノ」を手に入れ、狭い(三畳ほどの)勉強部屋に押し込んで弾き始めたのである。
ところが40年以上前のこの「電子ピアノ」、現代のようなデジタル仕様ではなく、中に仕込まれた金属片を叩いた音を電気増幅する構造。音高を決定する「金属片」は薄い銅板(のようなもの)の上に柔らかい金属(のようなもの)を乗せて音の高さを調整する。
当然ながら、(いくら弾いても音高は変化しないものの)厳密なる調律によるドレミファを期待するのは無理な話。特に黒鍵は「なんとなく半音っぽく高い音」と「なんとなく半音っぽく低い音」が並んでいる感じに近かった。
(敢えて言うならチェレスタのようなサウンドで、それはそれで結構気に入ってはいたのだが)
結果、ぎりぎり信用できそうな「白鍵」を多用し、そこから生まれる音律のみを即興演奏するうちニ短調のドリア(すべて白鍵で弾ける教会旋法)の世界にのめり込むことになる。
後に「吉松サウンド」の基礎となる白鍵白玉のドーリアモードやメージャー7の響きは、この「怪しげな調律の電子ピアノ」によるものが大きい。「最初の楽器」恐るべしである。
そもそも平均律とも純正律とも違う不思議な調律バランスのこの楽器、転調してしまうと3度や4度の響きががらりと変わる。当然ながら、転調とか半音階進行は極めて不得手。
そんな中で「きれいに響く音の組み合わせ」を追究してゆくと、ピュアな「#♭なし」の世界しかないのである。
後年、初めて「ちゃんとチューニングされたグランドピアノ」に触れたとき、「すべての音程が均質な楽器」に衝撃を受け、そのピアノで無調のアドリブを弾いてみて初めて「十二音主義」の響きの美しさが分かった。
…のだが、まあ、それは残念ながら「既に手遅れ」な話。
(というわけで、半音狂ったアップライトや不思議音律の電子ピアノでなく「ちゃんとしたグランドピアノ」で育っていたら、私も「ちゃんとした現代音楽作曲家」の道を歩んでいたかも知れない)
蛇足ながら、作曲家歴40年の現在まで、私は一度もグランドピアノというものを所有したことがない。これからもおそらく一生無いに違いない。
◇Em(ホ短調)
そんな不思議音律ピアノに出会う前、中学生の頃最初に手にした楽器はギターだった。
とは言っても、きちんと楽譜とドレミファを修練するクラシックギターではなく、コードネームを掻き鳴らすいわゆるポップス風のギターである。
チューニングは低い方からEADGHE(ミラレソシミ)。ボロンと掻き鳴らすと自動的にほぼEm(ホ短調)の和音になる。
最初にマスターした(とは言え楽譜ではなく耳コピだが)「禁じられた遊び」のロマンスはこの開放弦を活かしたせいもあり「ホ短調」。ギターの持っている基本のキイと言っても良いかも知れない。
ギターは、フレット上の弦を「左手指5本」で押さえて音程を作る。
しかし、初心者的に使えるのは(人差し指・中指・薬指の)3本まで。どうしても開放弦が多く含まれるコード(和音)の方が指を押さえやすい。
当然ながら、開放弦の音をなるべく多く含むコードが「惹きやすく」「鳴りやすい」わけで、普通に演奏する限り「A(ラ)」や「D(レ)」を含む「#」系のキイの方が弾きやすいことになる。
特に初心者ギタリストにとっては、指2〜3本を添えるだけで出せる「D」や「Em」「Am」はありがたいキイ。
逆に「C」や「F」などは(複数の弦を押さえる必要があり)微妙に敷居が高かったりするわけだ。
対して、ピアノのようなキイボード用の「コード」は、当然ながら「C」を基準に説明するのが分かりやすいので、Cm・Cm7・Cdimのようなコードが平気で出て来る。
しかし、この種の「♭系」のコードは、初心者ギタリストにとっては弾きにくい。
というわけで、ピアノなどでは「最も易しいキイ」である「ハ長調」も、ギターでは必ずしも易しくない。逆に、#♭が付いていて楽譜上では難しそうな調も、指を押さえる分には易しいと言うこともある。
楽器によって「弾きやすいキイ」「響きやすいキイ」というのはそれぞれ違うのだな…としみじみ思い知ったのは、このギター体験が大きい。
◇平調と壱越
面白いことに、ギターとルーツが同じ「琵琶」も(流派によって色々な調弦があるものの)基本「なんとなくホ短調」の楽器だ。
二十代の頃、尺八と薩摩琵琶とピアノとベースという(奇妙きてれつな編成の)ジャズコンボを組んで遊んだことがあるが、ボロンと開放弦を掻き鳴らすとそのまま(ほぼ)「Em」になることに「ほ〜」と驚いた記憶がある。
大河ドラマ「平清盛」で使った楽琵琶(平安時代の古い琵琶)が、ミ・シ・ミ・ラという調弦。平家物語を語る薩摩琵琶などは最後の2弦が4度でなく2度音程。武満徹「ノヴェンバーステップス」で出て来る薩摩琵琶は、確かレ・ミ・ラ・ミ(ミ)という調弦。
楽器や流派によって調弦の種類は色々だが、「ラ」の音を基音として、その下に4度低い「ミ」の音を置くことが多い。
音高は歌い手の声の音域に合わせてかなり調節できるものの、奏でるキイはなぜか(ほぼ)ホ短調っぽいのである。
ちなみに、琵琶は柱(ギターのフレットに当たるもの)が太くて高く、「コードを押さえる」などという器用なことは不可能。(やって出来ないことはなさそうだが…)
中低音に当たる弦は常に開放弦で「主調」の5度(ないし完全4度)を鳴らす役割となるので、最初にチューニングを「Em」にしたら最後、まず「転調」は出来ない。
一方、「尺八」は基本的に「Dm(ニ短調)」の楽器と言える。
名前の由来でもある 一尺八寸(約54.5cm)管は、西洋音階でいうと「レ」の管長をもち、5つの孔を順に押さえてゆくと「レファソラドレ」というニ短調の五音音階が鳴る。
ただし、尺八は歌の伴奏などで使われることが多く、歌い手のキイに合わせて「楽器」の方を替える。大体一寸短くすると半音高い管になり、「Em:ホ短調」の一尺六寸管、低い「Am(イ短調)」の二尺三寸管まで色々存在する。
そこで、民謡などの尺八奏者は、歌い手や曲の音域に合わせて(ラ、シ、ド、レ、ミ、ファ、ソ…それぞれのキイの楽器を)ずらりと並べて持ち歩くこともある。
対して、ハープ系弦楽器である「琴(箏)」は柱を動かせば色々なチューニングが出来るので、こちらは「調」に関してはかなり自在。
雅楽の時代には、この「箏」の調弦を軸に、それこそ十二音全ての音を基音とする長短調(呂と律)の旋法システムが、(バッハが登場する1000年以上も前に)確立されていたというから、ちょっと驚いてしまう。
◇得意なキイ(調)
私の場合、何も考えずに音を紡いでゆくと、Dm(ドーリアっぽいニ短調)かEm(フリギアっぽいホ短調)になることが多い。
これは、チューニングの怪しいピアノと、コードネームでしか弾けないギター、雅楽や邦楽の伝統、ろくに和声法の勉強をしなかったツケなどがあいまった「音感」と言うことなのだろう。
しかし、クラシックの大作曲家たちも、そういう「好きな調性」への嗜好は少なからずあったように思える。
モーツァルトあたりはまだ「完璧にチューニングされたピアノ」などがなかった時代の片鱗か、シンプルに白鍵を使った調性(しかも長調)の使用頻度が多い。
ハ長調・ト長調・ニ長調・イ長調・ヘ長調・変ロ長調、変ホ長調・・・そもそも「黒鍵」の音程が怪しかったせいもあるのだろう。使う#♭はせいぜい3つまでといったところだ。
ちなみに、弦楽器や管楽器は歴然と「得意な調」(例えば、クラリネットの変ロ長調やイ長調、ホルンの変ホ長調やヘ長調などなど)がある。
しかし「キイボード」系作曲家は、そういった調性の呪縛から解き放たれたいという思いと、「特定の調性ばかりに曲を書いている」と言われたくない思いがないまぜになって、十二の調性すべてに曲を書く…ということへの挑戦が始まる。
バッハやショパンを始め多くの作曲家たちが「24の調」にこだわってフーガや練習曲を書いたのは、研究心と共に「私は何調でも書けるんですよ!」という作曲のプロとしての自負ゆえもあったのだろう。
ただし、逆に言えば、自分の中にある「特定の調性への嗜好」を克服するためのリハビリ行為と言えなくもないわけで、 何だかんだ言っても、作曲家によって「得意な調」というか「手になじんだ調」があるのは事実なのだ。
個人的には、モーツァルトやシューベルトが使った「B♭(変ロ長調)」が好きである。黒鍵の中では(先に書いたように)チューニング上の精度が高いからだろうか。
特に(モーツァルトやシューベルトの地元)ウィーンに響く「B♭」はピアノにしろクラリネットにしろ弦楽器にしろ、温かくもふくよかで明るい不思議な響きがする。
全く同じ音階を使いながら「Dm(ニ短調)」が悪魔的で暗い響きなのことを思うと、音楽の不思議にあらためて感じ入ってしまう。
それが、モダンピアノの時代…ショパンやリスト以降となると、#♭の幾分不安定な響きの方に「音楽の深さ」や「表現の多彩さ」を見出し始める。
ショパンの変ホ長調(♭3つ)や嬰ハ短調(#4つ)などは、ピアニズムとの絶妙なバランスで響き渡る調設定であり、逆にハ長調(#♭なし)とかト長調(#一つ)では決して作れない世界だ。
さらに、後期ロマン派ともなると、嬰ヘ長調(#6つ)とか変ロ短調(♭5つ)などという極めて鳴りにくいキイを敢えて使ってキャラクターを際立たせるのが特徴になる。
中には、半音階の転調を繰り返すうちに、泥沼のように#♭だらけの調にはまり込んでしまう…ということも多く、そこから抜け出して「主調」に戻るため四苦八苦するスコアを見ているとサディスティックな愉しみさえ浮かんでくる。
なので、わざと弾きにくく鳴りにくい調で書いている場合は、作曲家が「弾きにくく鳴りにくい世界」を作りたいと思っていることをお忘れなく。それを演奏家がなめらかに弾き豊かに響かせてしまうと、意図を違えてしまうことになるので要注意である。
◇四季の調
とは言っても、作曲家があれこれこだわるほど、音楽を聴いて曲の「キイ(調性)」を気にする人はほとんどいないのも事実。
現代で普通に音楽(ポップスなど)を聴いていちいち「今の曲は何調」と気にするのは、ハーモニーおたくの作曲家か、コードが頭にこびり付いているミュージシャンか、絶対音感修行中の音大受験生くらいなものだろうか。
しかし、平安の昔は、「平調(E:ホ短調)」の曲が聞こえると「ああ、秋だなあ」と感じ、「双調(G:ト長調)」が聞こえると「春」を感じたというから、ほどほどの絶対音感は(その精度のほどは不明だが)知識階級貴族の「たしなみ」だったようだ。(というのは、以前「調性」がらみの回で触れた話・・)
当時は、大陸渡来の儒教の教えの影響で、音律は全て春夏秋冬、東西南北に適したものがあり、好き勝手にいつでもどんな曲を演奏して良いというわけではなかった、というから面白い。
それぞれの季節にはその季節にふさわしい調の音楽が奏でられ、その調和を壊すことは世の乱れに通じるのだそうで、なかなか高度に音楽的世界観である。
クラシック音楽でも「キリスト教がらみ」になると、例えば「D(ニ長調)」はラテン語の「Deus(神)」の頭文字なので壮麗かつ祝祭的な音楽向け、というような「調性」と「曲の内容」の連携はあったようだが、いくぶん「こじつけ」感がなきにしもあらず。
さらには、調性にそれぞれ色彩を感じる「共感覚」の持ち主もいるというが、そうでなくても、モーツァルトのイ長調とか、ベートーヴェンのハ短調とか、シューベルトの変ロ長調とかには、独特の色彩や季節感や空気を感じるのは、音楽愛好家共通の「感覚」に違いない。
もちろんそれは「絶対音感」として調性を感じているのではなく、作曲家がその調に感じて生み出した「世界」を、聞き手が「季節」や「空気」として感じていると言うことなのだろう。
科学的に身も蓋もなく言えば、(最初のエピソードの通り)「B♭(シ♭)」は1/12オクターヴ(半音)高い「A(ラ)」でしかなく、「変ロ長調」は「200セント(一全音)低いハ長調」にすぎない。
しかし、どうにもこうにも「決してそうではない」世界があるというのが、音楽の面白い…そして不思議なところなのである。
*
■寺田悦子 ピアノ・リサイタル
シリーズ”調”の秘密〜壮麗で輝かしい響き・変ロ長調 ★
モーツァルト:ソナタ第17番 変ロ長調K.570
シューマン:フモレスケ 変ロ長調op.2
シューベルト:ソナタ第21番 変ロ長調D.960 (遺作)
2012年10月18日(木)19:00紀尾井ホール
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コメント
調性という魔物に遊ばれておりまする。
音楽を学ぶものとしては、ちょい屈辱…
orz
投稿: Ryoko | 2012/06/12 21:11