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2012/08/10

夏休み雑談@人生を変えた6枚  

Lp6 ひな鳥は卵から生まれて最初に見た「動く物」を(それが何であれ)「親」と認識するらしい。これをインプリンティング(刷り込み)と言うそうだが、音楽も似たような処がある。おそらく物心ついて最初に出会った音楽が(それが何であれ)その人の音楽の基盤となり、一生ついて回る。

 私の音楽との最初の出会いは1960年代後半、そして作曲家として活動し始めたのが70年代後半。雛鳥の期間はこの1960年代後半から70年代前半の間で、この間に刷り込まれた(聴いた)音楽が私の音楽の「親」ということになる。厳密に言うと1967年から74年までの7年間なのだが、この時代、公平に見てもかなり音楽的に面白い時代だったという気がする。

 1960年代は、戦後の混乱が落ち着いて色々な新興勢力が雨後の筍の如く出てきた時代。古き伝統や旧世代が戦争で淘汰され、人類史上初〜新しい世代による「やりたい放題の時代」が訪れたと言える。
 クラシックの作曲界は前衛音楽(アヴァンギャルド)で伝統破壊の嵐が吹き荒れ、演奏界はステレオやLPレコードという新しいメディアの翼を得て、聴衆の層を世界的に広げた。密室芸に近かったジャズですらモダンの嵐を世界中に広め、今までせいぜい数百人が相手だったポップ音楽も、世界中の数百万数千万の聴衆を獲得する魔法の翼を得ることになったわけだから凄い進化だ。
 おそらく…いや、間違いなく人類史上もっとも音楽的な活気に満ちバラエティ豊かで革命的な時代だったと言っていいだろう。

 そして1970年代を迎えるとシンセサイザーが登場し、コンピュータがその姿を現す。プログレッシヴロックが生まれ、ロックやジャズやクラシック音楽や電子音楽がシャッフルされ、どんな音楽もロックビートとレコード録音の元で世界的音楽になる「国際基準(グローバルスタンダード)」の基盤が確立された。
 人類の文化は未だに「世界的な統一」を成し遂げられずにいるが、音楽はいともあっさりと「国際基準」を得てしまった、といったら大袈裟だろうか。
 その余波で、時代遅れの「古きアナログ音楽」として絶滅を危惧されたクラシック音楽も、「録音芸術」という形の復活を果たすことになった。これも二十世紀の奇跡のひとつだろう。
 音楽にとってはまさしく人類史上最大の大変動の時代だったのである。

 当時は、音楽はこの勢いでどんどん進化してゆく・・・ような気がしていた。60年代前後の前衛音楽や70年を迎えてのプログレやエレクトロニクスそしてコンピュータの進化のすさまじさを目の当たりにすれば、誰でも「このペースで行ったら21世紀の音楽は凄いことになるに違いない」と胸をわくわくさせたはずだ。
 しかし、「このままのペースで行く」ということは現実にはまず有り得ない。生まれたとき身長50センチの赤ん坊は、4歳でほぼ倍の大きさ(100センチ)になるが、「そのままのペース」で8歳で2メートル、12歳で4メートル、16歳で8メートル…というふうには育たない。思春期の16〜7歳で160センチ前後に育つと、あとは死ぬまでほとんど成長しない。
 音楽も同じで、終戦(1945年)を起点に爆発的に成長を始めた「20世紀の音楽」は、60〜70年代で爆発的な成長を遂げた後、80年代に入ると成長期を終え、それ以来、音楽は(ポップスにしろ前衛音楽にしろ)根本的な「進化」からは遠ざかっている気がする。

 その証拠に、現代(2010年代)のどんな音楽を聴いても、そのネタと言えるものは基本的に70年代までに存在したものだ。その後、見た目が新しくなったり完成度を高めたりブレンド具合が絶妙になったり処理スピードが速くなったりコンパクトになったり…ということはあっても、全くタイプの「新しい」音楽に出会うことはほぼなくなった。
 とは言え、それは別に悪いことではない。身長8メートルを超える16歳が正しい進化とは言えないように、人類の音楽も70年代までにひとまず成長期を終え、80年代以降は大人としての「適正な大きさ」に達したと考えるべきなのだろう。
 私が育った60〜70年代というのは、そう言った意味で、音楽のほぼすべてのジャンルでそのネタが出揃った時代であり、その後は(21世紀の現在、そして未来に至るまで)ひたすら「そのヴァージョンアップ」を繰り返す。そんな「基本OS」が確立された時代と言えるのかも知れない。
 その時代に、音楽を「刷り込まれた」ことを感謝しつつ、私の目の前をよぎった「親の形をしたもの」6枚をだらだらと紹介することにしよう。
          *

Beatles ■ビートルズ「サージェント・ペパーズ」(1967)

 実は、私は中学生まで特に音楽に興味を持ったことはなかった。普通の少年が普通にヒット曲やポップスに惹かれる程度に音楽を聴き、ギターを掻き鳴らし、バンドや歌手に夢中になるという程度の「趣味」にしか過ぎなかったと言ったらいいだろうか。
 東京オリンピック(1964)前後の「昭和30〜40年代」当時は、ヴェンチャーズを筆頭にしたエレキバンド(エレキギター、ベースギター、ドラムスによるインストゥルメンタル・バンド)が新しい音楽としては人気を博していて、中学生にあがったばかりの私が最初にお小遣いで買ったレコードは彼らの「ヴェンチャーズ・イン・ジャパン」(1965)というアルバムだった。
 それに続いて、ビートルズを初めとする「歌って演奏するエレキバンド」が続々登場、ローリング・ストーンズ、モンキーズなどが人気を博し、1966年のビートルズ来日でピークに達し、日本にもグループサウンズなるバンド・ブームが訪れる。
 私は当時ウォーカーブラザースというバンドのファンで、1967年の来日の時は武道館にコンサートを聴きに行ったりしている(ちなみに中学3年だった)。 

 今でこそビートルズというのは唯一無比の史上最大のバンドのような扱いだが、当時はいろいろある人気ポップバンドのひとつ。反抗する不良少年的なロックンロールという点ではローリング・ストーンズの方に人気があったし、斬新なサウンドという点ではビーチボーイズ(グッド・バイブレーション!1966)、甘いマスクではウォーカー・ブラザース、コミカルな人気ではモンキーズなどなどライバルは大勢いた。必ずしもあの時代のナンバーワンだったわけではないのである。
 それが「おや?」と思える変化を見せたのが、1967年に発表された「サージェント・ペパーズ」だった。その直前の「リボルバー」(1966)というアルバムもかなりぶっ飛んでいたが、極彩色のジャケットデザインと舌を噛みそうな長い名前のアルバムはとにかく異色だった。このアルバム、正式には「サージェント・ペッパーズ・ロンリーハーツクラブ・バンド(Sgt Pepper's Lonely Hearts Club Band)」という。
 それまでのポップスは、2分前後の長さのヒットシングルをどれだけ売るか…がすべて。ところがビートルズのこのアルバムはアルバム一枚丸々をひとつの組曲仕立てにして曲を構成するという(コンセプト・アルバム)の道を打ち出した。ある意味クラシック音楽的な「交響曲」に近いアイデアである。
 さらに、それまでも伴奏に弦楽四重奏(エリノア・リグビー)を使ったり、テープの逆回転(トゥモロー・ネバー・ノウズ)を駆使したりする斬新さが、ビートルズの楽曲には垣間見られたが、このアルバムではそれがまさに「オモチャ箱を引っ繰り返したよう」に炸裂しているのも衝撃的だった。
 冒頭の「サージャント・ペパーズ」はブラスバンドの伴奏でまさに日曜日のマーチングバンドのように始まり、「ルーシー・イン・ザ・スカイ(with Diamonds)」ではエレクトリックなハープシコード・サウンド、そしてB面の「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」ではインド音楽がストリングスと共に聞こえ、最後の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」ではオーケストラ全楽器のクラスターサウンドがシュトックハウゼンばりに鳴り響く。
 当然ながらスタジオワークで作られる精緻な世界であり、ライブでの再現はほぼ不可能(実際、ライブで演奏されたことはない…と思う)。LP両面で40分という時間を使った「Symphonic」な試みだったのだ。

 何年前だったか、「人間の音楽を宇宙人に伝えるためにレコードを一枚だけ選ぶとしたら?」と問われて、真っ先に挙げたのがこのアルバムだった。
 もちろん、このアルバムに収められた楽曲が人類の音楽のベストとは思わないが、このアルバムの中に含まれるあらゆる音楽の情報(それはロックからジャズそしてオーケストラにインド音楽まで多岐に渡る)は驚嘆すべきレベルであり、その情報量が単なる「ごった煮」にならず(いや、なっていると言えば言えるのだが)奇跡的な統一感を持っていることが、このアルバムの凄さと言える。
 ただし、これは「一人の天才的な作曲家」が生み落とした物ではなく、ビートルズの4人(とプロデューサーのジョージ・マーティン)の個性のぶつかり合いや反発、そして(前述のビーチボーイズのような)ほかの人気バンドと音楽的アイデアや奇抜さを競い合う遊び心の力学から生まれた「鬼っ子」のようなものの気もする。
 ある意味ではこれは(交響する音楽的な有機体という意味での)20世紀における「Symphony」の進化形態なのかも知れない…と後に思うようになった。ベートーヴェンが当時の宮廷音楽や鼻歌のような俗謡や民族音楽(トルコ行進曲)やシラーの詩など雑多で聖俗取り混ぜた音楽のイメージを「交響曲」という形に収斂したのと同じことを、彼らは(無意識かも知れないが)やってのけた。この時点で、人類の音楽史における王位は《ロック》に移行したのである。

Sibelius67b ■シベリウス(カラヤン)「交響曲第6番/第7番」(1967)

 とは言え、その頃の私は旧帝王である《クラシック音楽》についてはさっぱり無知だった。初めて正面から出会ったのは、中学3年(14歳)の冬だったからだ。
 実は、それまでベートーヴェンの交響曲すらまともに聴いたことがなかった。普通の中学生が音楽の授業で習う常識レベルで「運命」や「田園」のメロディとか「第九」の歌くらいは知っていたが、全曲を聴いたことなど一度もなかったのである。
 それがいきなり中3の12月にクラシック音楽マニアになり、「運命」「未完成」を皮切りにレコードを聴きまくり楽譜や本を読みまくり、4月に高校に上がった時にはクラス一のクラシックマニアになっていた(笑)。
 ただし、促成栽培のクラシックマニアなので隙だらけ。同級生の音楽好きに「チャイコフスキーの第5番って良い曲だよね」と言われて(聞いたことないにも関わらず)「ああ、良い曲だよね」と答えたその足で図書室に飛んでいってレコードを借り、渋谷のヤマハでスコアを手に入れ、翌日にはいっぱしの「5番マニア」になっている…という案配だった。
 しかし、まさしく白い紙にインクが染み込む如く…毎日毎日膨大な量のレコードを聞き音楽書を読みスコアを買ったり立ち見したりと…爆発的な吸収力を発揮していた・・・と言っても、高校生の小遣いでは限界があるので、新しくレコードを買うのはせいぜい月に2枚。そんな状態の時に大学の生協で注文してまで買った新譜が、当時最新録音盤のカラヤン指揮のシベリウス交響曲シリーズ(第4番、第5番、そして第6番7番)だった。
 クラシック音楽の最初の入口はベートーヴェン(運命)&シューベルト(未完成)だったわけだが、どうもドイツ音楽と言うのは(素晴らしいは素晴らしいのだが)「自分の音楽」としては(醤油味好みの日本人にオリーブオイル味が馴染まないようなレベルで)ピンと来なかった。
 しかし、交響曲つながりでロシアのチャイコフスキー(第5番と第4番)を知った時、そのペーソスの演歌っぽさに「お、これは!」と感動。一時は、定期入れにチャイコフスキー先生の写真を入れていたほど信奉したが、翌月には早くもそこから更に北に飛んで北欧フィンランドのシベリウスに辿り着いたわけだ。
 そして、第4番と「トゥオネラの白鳥」を聞き、第5番と「タピオラ」を聞き、最後に第6番と第7番を聞き、魂を揺さぶられた。高校1年(15歳)の秋だった。(初めてベートーヴェンを聴いてからわずか1年めのことだ)
 これは、昔から心酔していた宮澤賢治の影響もあったのだろう。「銀河鉄道の夜」のイメージを音楽化したかのようなシベリウス後期の世界に、心を鷲掴みにされた。特に第6番の、冒頭の静かなコラールから始まる30分弱の世界は、「こういう音楽が書けたら死んでもいい!」という憧れの宇宙だった。
 カラヤン指揮ベルリンフィルの演奏は、必ずしもフィンランドの民族楽派としてのシベリウス向けではないが、この当時の彼らが醸し出す…この世の物とも思われないような冷たく光る究極の美音サウンドは、シベリウス後期の(オーロラの向こうの天空の世界のような)音楽宇宙を見事に具現していた。それは、フィンランドやベルリンといった現世の匂いを消去した(まさに賢治が描いた架空の理想郷イーハトーヴォのような)異世界の音楽だったのだ。
 その頃、同学年に同じようなクラシック音楽ファンが何人か居て、いい曲を見つけると「これ、いいよ。聞いてみて」とお互いレコードを勧めあったりしていたのだが、このシベリウスに関しては勧める気になれなかった。本当の「恋人」を見つけた男は、いくら親友にでも「あの娘可愛いよ」などと勧めない。同じように「これは僕だけの音楽だ」と心の奥にしっかりしまい込んで表に出さなかった。
 以来、シベリウス師は私の魂の師匠となり、現在に至っている。

 
Takemitsu ■武満徹「ノヴェンバーステップス」(1968)

 そんなこんなで、初めてクラシック音楽を聴き始めた瞬間から、「作曲家になる!」という秘めたる決意は心に抱いていたものの、その時点での「作曲家」というのは、あくまでもチャコフスキーやシベリウスのような音楽を書く作曲家のことだった。
 しかし、そのうち現代にも「現代音楽の作曲家」というものがいて、それが奇妙な音楽を書いていることにイヤでも気付くようになる・・・最初に聴いたのは…テレビで見た現代音楽コンサートの演奏だったり、ラジオから流れる現代音楽祭の楽曲だったりしたわけだが、これはすこぶる印象が悪かった。
 その頃の日記に「未来の私へ」という一文があって、「もし作曲家となってこういう音楽を書いているのだったら、即座にやめろ!」という脅迫めいたことが書いてあるほどだ(笑)
 しかし、シベリウスと前後して、武満徹「テクスチュアズ」(1964)と松村禎三「管弦楽のための前奏曲」(1968)に接してから、現代音楽マニアの道にはまり込むようになった。1969年6月には武満さんの個展に出向いてサインをもらっているし、高校3年(1970年)の時の音楽のレポートは、前期が「武満徹の音楽」、後期が「松村禎三の音楽」。演奏の実技には武満徹「ピアノ・ディスタンス」を(怪しい演奏ながら)弾いたほどだ。
 レコードとしては、武満徹「テクスチュアズ」三善晃「管弦楽のための協奏曲」黛敏郎「曼荼羅交響曲」のカップリング盤(1965)が最初の現代音楽体験。その後、黛敏郎「涅槃交響曲」(シュヒター指揮N響)や、武満さんの4枚組全集(アーク全曲や「環礁」「水の曲」「AI」などが収められた貴重盤)を経て、トゥランガリラ交響曲とノヴェンバーステップスのカップリング盤(1968)、そしてアステリズムやグリーンが収められた「小澤=武満69」(1969)に至る。
 そして、1970年の大阪万博でシュトックハウゼンの音楽(シュティムンク、テレムジークなど)に衝撃を受け、ペンデレツキやリゲティの音楽に出会い、トーン・クラスターや図形楽譜やライヴ・エレクロニクスやチャンス・オペレーションのような現代音楽の技法にのめり込んでゆく。
 高校の音楽室から「音楽芸術」という現代音楽専門誌のバックナンバーを十数年分ごっそりもらい受け、その付録の楽譜(武満徹、松村禎三、三善晃、間宮芳生、石井真木、松下真一などなど膨大な作曲家たちの室内楽曲百冊以上!)を研究しながら、現代モノっぽいアンサンブル曲を書き始めたのもこの頃。
 特に、音楽芸術増刊号「日本の作曲1969」に収録されていた松村禎三「管弦楽のための前奏曲」の手書きスコア、および渋谷ヤマハで見つけた武満徹「テクスチュアス」の青焼きコピースコア(これも手書き)は、心底仰天した。「こんな緻密で膨大で繊細な音符を書くのか!」というショックから、以後この2曲が私の頭の中を占領し、抜け出すのに7〜8年かかったほどだ。
 武満徹「ノヴェンバーステップス」(1967)は、邦楽器(尺八と琵琶)にオーケストラをぶつけた話題作で、ニューヨーク・フィルで初演されたことでも注目された一枚。当時(1968)メシアンの「トゥランガリラ交響曲」とのカップリングで2枚組での登場。まだ三十代という若さの日本人指揮者(小澤征爾)と日本人作曲家が日本の楽器をソリストにした新曲を海外のオーケストラ(トロント交響楽団)で録音した!という鮮烈さが「作曲家の卵」としてはショックであり、(今で言うなら、女の子が「私もAKB48に入りたいッ!」と思うような)強烈な憧れとなって心に食い込んだ。
 その憧れは、それから30年後、藤岡幸夫氏とイギリスBBCフィルで交響曲をCD録音してようやく昇華することになったが、まさしく人生の大半を支配するような長い長い夢となったわけだ。
 そして、武満徹と松村禎三の二人が(シベリウス師亡き世界における)「生きている作曲家」のチャンピオンとなり、数年後、そのうちの一人、松村禎三師に師事すべく門を叩くことになる。19歳の秋のことである。

Pinkfloyd ■ピンクフロイド「原子心母」(1970)

 そんなわけで、この頃の高校の3年間は、クラシック系現代音楽系を問わず、色々な音楽を聴き色々なタイプの音楽を試作していた。「毎日1曲」というノルマを課してピアノ曲を書いていたのもこの頃。ベートーヴェン風だったりドビュッシー風だったりショスタコーヴィチ風だったりワルツ風だったりロマンティックだったりメカニックだったりブギウギだったり無調だったり、思い付くものを片っ端から試す感じだった。
 そして、高校3年(1970)の秋には、学園祭で「ピアノ三重奏曲」を初演。演奏はオーケストラ部のヴァイオリン&チェロと同級生のピアノ。全4楽章からなる20分ほどの作品で、作風としてはラヴェル風のショスタコーヴィチという感じか(笑)。とは言え、現在聴いてもあまり作風に違いはない(かも知れない)。
 この頃は、オーケストラ部の友人たちに宛てて「フルートとチェロのための前奏曲」とか「ヴァイオリン・ソナタ」「木管五重奏曲」「無伴奏チェロ組曲」などを書いて、一方的楽譜を送り・・・そのまま演奏もされずに無視・・・ということを繰り返していた。中には、慶應の塾歌などを組み込んだ「管弦楽のための協奏曲」とか「交響曲」の試作などもある。ただし、まだコピーなどない(あったとしても凄く高価!)時代で、あげてしまった楽譜はそれっきりとなり、手元に楽譜は残っていない。
 そして、大学の工学部に進学すると、本格的に「現代音楽的な作風」のオーケストラ曲の作曲を始めるようになった。もちろんモデルはシベリウスやチャイコフスキーではなく、武満徹と松村禎三である。
 大学2年(19歳)の時に書いた「阿修羅」(1972)というオーケストラ曲がその最初の一曲。〈阿修羅〉は興福寺の阿修羅像と共に宮沢賢治の「春と修羅」をモデルにしていて、無調っぽい旋法のメロディがうねうねと絡み合う(松村禎三風の)現代音楽である。その年のNHK毎日音楽コンクール(現在の日本音楽コンクール)作曲部門に参加すべく半年かけて作曲した(3管編成で15分ほどの)力作だったが、あっけなく第二次予選ではねられた。
 その直後に(審査員の一人だった)松村禎三氏の門を叩き、しばらく現代音楽の修行に励むことになったのだが、もともと「シベリウスやチャイコフスキーのような音楽」に憧れて《作曲家》の道に飛び込んだのに、「現代音楽風」の音楽を書かなければ作曲家として世に出られない…という矛盾にはどうにも納得いかず、悶々とした日々を送っていた。

 そんな時に出会ったのが〈プログレッシヴ・ロック〉である。
 最初に聴いたのはFMから流れてきたピンクフロイドの「原子心母」。これはショックだった。ストラトキャスターの美しいソロ、リリカルなコーラス、雅楽のような(エコな)スローテンポのビート感覚、そしてクラシカルな構成。最新のロックなのにサウンドは極めて美しく、ハーモニーはほとんどシベリウスの感触。しかも最先鋭の電子的サウンドを使っていながら響きはノスタルジックですらある。「現代音楽」の道とは全く違った方向に「別の〈現代〉の音楽」があると思い知らされた。
 ほぼ同時に、イエスとエマーソン・レイク・アンド・パーマーの音楽に出会った。こちらは変拍子とシンフォニックな構成が勝ったインテリジェンスが心を惹いた。音楽のタイプは違うがいずれも前述の「サージェント・ペパーズ」で蒔かれた種が結実したのは明らかだった。言って見れば「ポスト・ビートルズ」の新しいロックであり、最新のテクノロジーからクラシック音楽までを吸収合併できる「夢」がそこにあると思えた。
 そして、この後1970年から73年までのたった4年間というわずかな時期に、ピンクフロイドは「原子心母」(1970)「おせっかい」(1971)「狂気」(1973)、イエスは「こわれもの」(1971)「危機」(1972)「海洋地形学の物語」(1973)、エマーソン・レイク&パーマーは「EL&P」(1970)「タルカス」(1971)「展覧会の絵」(1971)「恐怖の頭脳改革」(1973)という傑作群を嵐のように生み落としていった。
 以後もプログレっぽい音楽は作られ続けたが、この4年間の「傑作の森」は音楽史に残る豊饒の時代として特筆されるべきだろう。
 私はと言うと、松村禎三氏に師事し、作曲コンクール用のオーケストラ曲を書きながらも…プログレへの憧憬止みがたく、アマチュアのロックバンドに参加しキイボーディストとしてピンクフロイドの「エコーズ」や「原子心母」や「狂気」をコピーすることを試み、この時期、数年間の不思議な時間を過ごすことになった。(また、この時EL&Pの「タルカス」を聴いて「これはオーケストラになる!」と思った衝撃を、40年かけて「オーケストラ版タルカス」(2010)に結実させることにもなった。)
 クラシック界でオーケストラの作曲を目指しながら一方でロックにのめり込む…ということがどういう意味を持つのか、その時はさほど深く考えたわけではなかったが、デビュー作となった「朱鷺によせる哀歌」はピンクフロイド、同じ時期に書いた「ドーリアン」はEL&Pとイエスをモデルにしているから、リンクは結構強力だ。
 ちなみに、前者はモード(旋法)を使ったスタティク(静か)でスローな音楽、後者は変拍子を使ったハードでアップテンポな音楽…をそれぞれオーケストラ化したもので、完全に指向は「プログレッシヴ・ロック」。この時点で「オーケストラでプログレをやる」という志向を明示したつもりだったのだが、それを指摘する人は(当時も今も)誰一人いないあたりに、徒労感をひたひたと感じる次第。
 何はともあれ、出会った最初の動くものに(それがシンバルを叩く猿のオモチャだろうが)一生ついて行く…という・・・これこそインプリンティングの恐ろしさを実証するものであるのは確かだろう。
  

Adios_nonino ■ピアソラ「アディオス・ノニーノ」(1969)

 松村禎三氏の処に出入りを始め、同時にロックバンドでキイボードを弾き、当然ながら進学した大学の工学部にはほとんど通わなくなっていた頃、高校の時のオーケストラ部の知り合いからアルバイトを頼まれた。
 ヴァイオリン弾きの彼は大学に上がってからタンゴのバンドに入って演奏していたのだが、もちろんタンゴの曲のバンド譜などまず存在しない。そこで、作曲をやっているという私に「レコードから採譜してバンド譜を作ってくれないか?」と頼みに来たわけである。
 頼まれたのは「ガウチョの嘆き」とか「インスピラシオン」とかのタンゴ曲だったが、そもそもタンゴなど聴いたこともなかったので、レコードを何枚かゴッソリ借りて研究することになった。基本はキンテート(英語のクインテット。編成はバンドネオン、ヴァイオリン、ギター、ピアノ、ベース)で、どれもこれも似たり寄ったりのタンゴでしかなかったのだが、中に突出した音楽があった。それがアストル・ピアソラだった。
 その友人に「何これ?これがタンゴ?」と聞くと「いや、タンゴ界でも異端って言われてる」とのこと。俄然興味を持って、レコード店にあった彼のレコードを買い占めた(と言っても、当時はまだピアソラは〈知る人ぞ知る〉だけのマイナーな存在。渋谷と新宿を駆け回っても数枚しかなかった)。その中にあったのが「アディオス・ノニーノ」だった。
 これは衝撃だった。ニューヨークで不遇の時代に父の訃報を聞き作曲したというタイトル曲(Adios Nonino=さよなら、お父さん)は、胸をかきむしられる圧倒的な曲調であり演奏だった。力強いのに哀しい、そして美しいのにカッコいい。こんな音楽があるのか?と驚嘆した。「ミケランジェロ70」のスピード感、「孤独」の深い悲しみの表現にも圧倒された。タンゴなのにクラシカルであり、かつジャズでもありモダンでもある。
 タンゴ自体は、アルゼンチンのローカルな音楽にすぎない。しかし、それをベースにしながらも、そこから聞こえるのは「極めてローカルでありながら極めてグローバルな音楽」なのだ。それは日本人として音楽を作ってゆく私にとっても最重要の目標であり、それを具現化している彼の音楽は力強い指針ともなった。

 その後、20代後半に一時期アルバイトでバンドを組んでいたことがあるのだが、その編成が、尺八2、琵琶、ベース、ピアノというもの。要するにピアソラのキンテートの「和楽器版」を狙ったわけだが、なにしろピアソラ自体も不遇の真っ只中だった1970年代(結成が1976)。時期尚早すぎて「ジャンルが不明」のひとことで無視された。この時、多少なりともこの方向が評価されていたら、今の私はなかった…かも知れない。
 ただ、これがきっかけで、後に邦楽器とロックバンドによる新作ミュージカルをオフ・ブロードウェイで上演する仕事(1981)に関わり、さらに邦楽器や雅楽などの多くの作品を書くことにも繋がったわけで、「ローカルでありながらグローバル」な音楽を教えてくれたピアソラとの出会いで得た実りは計り知れない。

Billevans ■ビル・エヴァンス「ワルツ・フォー・デビー」(1961)

 さて、最後の1枚である。
 実は、私の音楽体験としては、ジャズが一番遅い。大学に入った頃、先輩が「今度マイルス・デイヴィスを聴きに行くんだ」と浮かれているのに「誰ですかそれ?」と言って呆れられた記憶があるから、少なくとも十代まではジャズに関しての知識はゼロだった。
 その理由は単純。子供の頃から大の「タバコの匂い」嫌いで、小さい頃に電車の中で大人が吸うタバコの煙に気持ち悪くなって以来、タバコは「吸わない」だけでなく、大の「苦手」なもの。そこで、坊主憎けりゃ袈裟まで…の故事の通り、タバコの煙のイメージがあるジャズもまた一番敬遠する音楽となったわけである。
 そんなわけで、最初に聴いたジャズは(まったくジャズっぽくなくて、誰に聞いても「ちょっと変わってる」と言われるのだが)ラルフ・タウナー(十二弦ギター)とゲイリー・バートン(ヴィブラフォン)のデュオによる「マッチブック」(1974)というアルバムだった。
 これは、いわゆるタバコの煙が漂うアメリカンなジャズではなく、ヨーロッパ系コンテンポラリー・ジャズ。当時、「ECM(Edition of Contemporary Music)」という北欧の香りがするクールで透明な感触のジャズを録音しているレコード・レーベル(ドイツ・ミュンヘン。Producer:マンフレート・アイヒャー)が登場し、次々と画期的なアルバムを発表していたので、それに興味を持ってとにかく買い漁ったのがきっかけだった。そこからチック・コリア、キース・ジャレット、ヤン・ガルバレク(sax)、ラルフ・タウナー(g)、テリエ・リピダル(elg)、エバーハルト・ウェーバー(bs)といったアーティストに出会い、ジャズという方向から新しい同時代音楽〈Contemporary Music〉を志向する試みに衝撃を受けることになる。(ちなみに、ECMのこの路線から70年代後半になってアルヴォ・ペルトの音楽が登場している)
 その一方、当然ながら本場アメリカンのジャズにも触手が動き始め、オスカー・ピーターソン(p)、マイルス・デイヴィス(tp)、ギル・エヴァンス(Big Band)、ディジー・ガレスピー(tp)と聴き漁るうち、「マッチブック」に収録されていた〈Some Other Time〉からビル・エヴァンスのレコードを手に取ることになり、ようやく(遠回りながら)名盤の誉れが高い「ワルツ・フォー・デビー」に辿り着いた次第。
 このレコードを初めて聴いた日の夜のことは今でも覚えている。何枚か買ってきたレコードを夜中に聴いていて、このアルバムの番になった。レコード盤に針を落として、冒頭の「My Foolish Heart」の…ポール・モチアンの星のきらめきのようなシンバルとスコット・ラファロの夢のようなベースの向こうにビル・エヴァンスのピアノが聞こえてきた時・・・
 何と言うのだろう。「こんなに美しい音楽がこの世にあったのか」という感慨と「生きていて良かった」という感動が襲ってきて、涙がぼろぼろ出て来た。そして、ずっと涙を流しながら繰り返し繰り返し朝まで聞き続けた。朝日の中でワルツがくるくる舞っているイメージがまだ頭の中に残像として残っているほどだ。
 私の「朱鷺によせる哀歌」のピアノは、この時の「星の滴が水面にポトリと落ちるような」イメージを十数年追い求めた結果であり、「プレイアデス舞曲集」のCD録音(p:田部京子さん)の時も「ワルツ・フォー・デビーみたいな音で!」と録音技師さんに注文したほど。
 私自身は結局グランド・ピアノを買うこともなく持ったこともないが、私のほとんど全ての曲にピアノは重要な位置を占めている。そして、そのピアノの根源的イメージは、このアルバムのビルのピアノなのである。これこそ紛う事なきインプリンティング!と言うべきだろう。

          *

 …以上が、私が雛鳥(修業時代)の7年間に刷り込まれたインプリンティングの歴史である。
 この後、70年代後半(1976年以降)になると、(ごくわずか例外はあるものの)音楽観を変えられるような一枚に出会うことはほぼなくなる。
 それは、そういう作品がなくなった(減った)ということではなく、自分自身が「音楽を作る」側に回り、一方的に感動し賛美することが出来なくなったせいだろう。親にひたすらエサをねだる「ひな鳥」の立場から、自分がエサを供給すべき「親鳥」の立場になってしまったわけだ。

 おそらく私の音楽は、何処まで行っても修業時代の7年間に聴いた上記の6枚の音楽から(まるで釈迦の掌の上の孫悟空のように)逃れられない宿命を持っている。
 しかし、人が無の中からたった一人で生まれるのではないように、音楽もまた親や師や友との連鎖から生まれるもの。この6枚の遺伝子を組み込まれた私の音楽を、次の世代の誰かが聴くことで、私の音楽もまたこの6枚と同じような歴史の連鎖の中に組み込まれてゆく。
 この「リンク」する(繋がる)感触こそが、音楽のもっともデリケートで…そして愛しい部分のように思われてならないのだ。

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