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2012/09/10

人間60年・作曲家35年

F 来年3月「還暦コンサート」を催してもらうことになった。

 そう言われて気付いてみれば、人間を始めて…来年でもう60年になるのだった。(ちなみに、還暦というのは干支(えと)が一回りして還ること。念のため)

 音楽に目覚めたのは46年ほど前の14歳の冬。
 デビューは(「忘れっぽい天使」という曲が初めてコンサートで演奏された)1978年(25歳)とすると、作曲家になってから35年といったところか。

 しかし、ふと我に返ると「なぜ作曲家なんてやってるのだろう?」と狸に化かされた感も少し。

 確かに、子供の頃から「ものを作る」(プラモデルや模型や怪しい手製の武器類などを製造する)ことや「一人でこつこつやる」(読書にふけったりマンガを書いたり雑学研究などに浸る)ことは好きだったから、怪しい才能は色々あったと思う。
 でも、こと「音楽の才能」に関しては・・・持っていると感じたことは一度もない。

 音楽家の多くは、幼少の頃から(少なくとも)「音楽を聴くと特別な反応を示した」とか「どんな曲でもすぐ覚えた」とか「音感がよくて間違った音を聞き分けた」というような「音楽の才能の片鱗」を窺えるようなエピソードがあるものだが、私の場合は・・・まったく覚えが無い。

 そんな人間がどうして作曲家をやっているのか?
 さて、実を言うと当の私にもまったく分からないのである。(^。^)

          *

Photo しかも、作曲は「独学」である。
 
 絶対音感は(…以前どこかに書いたが、家にあった古ピアノがそもそも半音以上狂っていたせいもあって)最初から持ち合わせがない。
 ソルフェージュとか聴音の類いは、試みたことすらない(おかげでタルカス一曲耳コピするのに40年かかる始末だ!)
 
 作曲に関する勉強らしきものは・・・音楽に目覚めた14歳から高校の3年間くらいまでの間に(確かにもの凄い勢いで)本を読んだりレコードを聴いたり楽譜を読みあさったりFMを聴いたりした。でも、それですべてだ。

 その間、先生についたり誰かに何かを教わったということはなく、教わろうと思ったこともなかった。音楽大学に進む…という選択肢も考えず、留学なども考えたことがない。
(ちなみに、親戚や知り合いに音楽の専門家や関係者は一人もいない。父や叔母がアマチュアの音楽愛好家だったくらいである)

 しかも、間が悪いことに・・作曲家として世に出る前後は、無調のいわゆる「現代音楽」が全盛の時代だった。
 リズム・メロディ・ハーモニーのある音楽など「時代遅れ」「退嬰」と全否定される状況で、そんなものを書こうものなら村八分になる恐怖の世界。

 今では想像出来ないかも知れないが、高尚なクラシック系の「芸術音楽」と、世俗な「娯楽音楽」の間には越えられない一線があると信じられ、はっきりとした差別意識があった。(なにしろ、まだ有色人種や男女の差別が歴然と残る時代なのだ)。

 それはもう、独学の若造が単に「音楽が好きだから」だけではとても生きていけない壮絶な世界であり、それぞれの音楽ジャンルはぶ厚い門戸の中にあってちょっとやそっとでは紛れ込むことすら許されなかった。

Portraitx そんな中で「オーケストラを鳴らす作曲家として活動する」ための選択肢は2つ。
 改宗して「現代音楽」を書き、現代音楽作曲家として生き延びるか・・
 転身してポップスや商業音楽(映画音楽)あるいは合唱音楽の道に進むか・・

 しかし、元々がベートーヴェンやチャイコフスキーやシベリウスと同じ土俵で「オーケストラを鳴らす」というのが作曲を志した唯一にして絶対の理由なのだから、改宗も転身もあり得ない。
 結局、色々と悩みつつも、現代音楽の世界で敢えて「音楽」をやる…というもっとも七面倒くさく壁が分厚く抵抗が大きそうな最悪の道を選択することになったわけである。

 とは言っても、勝算があったわけでは全くない。
 これは説明が難しいが・・・そもそも「独学」&「孤立無援」で始めたことであり、しかも自分に「才能」や「後ろ盾」などの持ち合わせはサッパリ無い。

 とすれば「才能が認められて大成功」などというバラ色の未来は存在するはずもなく、最初から勝算は限りなくゼロに近いのである。
 とすれば、これはもう、「生き残ろう」とか「助かろう」などと言うことは考えず、「全力で正面突破して玉砕」しかないではないか。そう思ったわけである。

 当時、大河ドラマ「天と地と」(1969)で主人公の上杉謙信がこう言っていたのが心にしみた。
 死中生あり
 生中生なし
(敢えて死のうとするその先に生がある
 生きて助かろうとする弱さの先に生はない。(意訳)

 まあ、現実にはほとんど役に立たない(戦場のみで通じる)めちゃくちゃな論理だが、その頃は「完全に勝ち目のない戦」に出るサムライの気分だったので「おお!」と思ってしまったのである(笑)。
 もっとも、相手は戦争ではなく「音楽」なのだから、失敗したからと言って死が待っているわけではない。せいぜい「清水の舞台から飛び降りる」と言ったくらいだろうか。

Cut001a と、今だから笑い話めいて話せるが、落ちたら助からないと分かって清水の舞台から飛び降りるのだから、もちろんある意味で「死」を覚悟していたわけであり、その点では「若気の至り」というより、そのまま「莫迦」と言うべきか。

 ところが、この「莫迦」な行為にもたったひとつ、思いもかけない怪我の功名とでも言えるメリットがあった。
 それは「怖いものがない」という点である。

 作曲家としてなんとか生き残りたい、成功したい、認められたい…と思えばこそ「自分には才能があるのだろうか?」と悩み、「私の音楽は受け入れられるのだろうか?」と評価に一喜一憂し、「賞を貰いたい」とか「役職に就きたい」とか「収入を得たい」と必死になる。

 でも、最初から死ぬつもりで助かるつもりがなければ、演奏してくれなかろうが、評価されなかろうが、お金にならなかろうが、全然関係ない。つまり・・・何も怖くないのである。
 
 結果、まったく「才能」も「後ろ盾」も「収入のあて」も何の「保証」もないのに、まるでそれらすべてを持っているかのように「好き勝手」を通し抜いた。
 現代音楽という釈迦の掌の上にいながら「現代音楽撲滅」を叫ぶ、などという命知らずのことも平気でやった。(とにかく「なんたって独学」で「そもそも素人」で「守るなんか何も無い」というのは強い。最強である(笑)

 当然の報いとして、三十代半ばくらいでグシャッと地面に落っこちてそれっきり・・・というヴィジョンだったのだが、人生は思うようにならない。
 どういうわけか途中の「枝」に引っかかって・・なんと生き残ってしまったのである。

 結果、還暦まで生きながらえて、「恥」をさらすことになってしまったわけだが・・・さて、これは、どこまでも「偶然」の成せるわざなのか、あるいは多少は「必然」が混じっているものなのか。それとも「何かの冗談」なのか、はたまた、目覚めたら「夢」でした、という「夢オチ」なのか?
 齢六十を前にして、しみじみ首をかしげる今日この頃である。

          *

 というわけで、今回は還暦コンサートで演奏される(予定の)作品たちを…作曲した順番に…当時を回想しつつ紹介してお茶を濁すことにしよう。
 内容が内容だけにちょっとナルシシズム(自己愛)っぽい表現が混じるのはご勘弁を。

■ ドーリアン(1979)
 
Music_2_2 私の音楽への(常軌を逸した)情熱は、もともとが14歳の時に聴いたベートーヴェンが起点。なので、「交響曲を書きたい!」というのが常に「コケの一念」の根底にあった。

 ただし、20世紀(当時)の現代にベートーヴェンやチャイコフスキーのような交響曲というのもあり得ない。それは分かっていた。
 かと言って、前述のように当時の風潮に合わせた「無調の現代音楽」的な作品を書くのは(自分で聴いて楽しくないという理由で)どうしても嫌だった。

 では、どういう音楽を書けばいいのか?
 自分はどういう音楽を聴きたいのか?

 そう模索していた頃、プログレッシヴ・ロック(ピンクフロイド〜イエス〜エマーソン・レイク&パーマー)に出会った。
 これはかなり衝撃的で「現代にもこういうシンフォニー(多楽章でアルバム一枚におよぶシンフォニックな創作曲)があり得るのだ!」という希望の光となった。

 そこで、大学を中退する前後、音楽雑誌で出会ったバンド仲間とピンクフロイドの曲をコピーしたり、尺八と琵琶の入るジャズコンボでキーボードを弾いたりという変則的(かつプログレッシヴ)な音楽修行を始めた。
 そして同時に、何作目かの《交響曲第1番》(書いては潰していたので、全て未完)を書き始めたわけなのだ。

 その時、シンフォニーのアダージョ楽章のイメージとして書いていたのが、ピンクフロイド(特に「エコーズ」)をベースにした「朱鷺によせる哀歌」。そして賑やかなフィナーレに当たるのがEL&P(特に「タルカス」と「悪の教典」)とイエス(特に「シベリアンカートゥル」と「海洋地形学の物語」)をベースにした「ドーリアン」だった。
 その点では、この2曲は(静と動という全く正反対の作風を持ちながら)表裏一体とでも言えるような兄妹作なのである。

 とは言え、当時はそんな構想の全3楽章40分近い交響曲を発表するなど(無名なチンピラ作曲家でなくとも)考えられない時代だった。
 そこで、まずは「切り売り」するしかないと、フィナーレだけを「ドーリア崩壊」というタイトルで抜き出し、毎日音楽コンクール(現在の日本音楽コンクール)作曲部門に参加した。しかし(とりつく島もないといった感じで)予選の段階で見事落選する。

Dorian_2 それでも懲りずに翌年今度は「ドーリアン」と改名して交響楽振興財団の作曲コンクールに応募。すると、これはなんとか予選を通過し、本選会で演奏されることになった。19歳で初めてコンクールに応募をし始めてから苦節8年、落選歴20を超える果ての初めての「明るい光」だった。
(しかも、その初演の日というのが、前年フィンランドを訪れシベリウス師の墓に詣でた日からちょうど1年目の今月今夜!。以来、これは師匠のお導きであり音楽の女神からの「天啓」であると信じて疑わない)

 ちなみにドーリアン(Dorian)というのはドーリア旋法(レミファソラシドレという音階)のこと。
 基本的には、無調の現代音楽全盛の時代にぬけぬけと「ドーリア旋法のハーモニー(協和音)」を高らかに鳴らすこと…が目的だったのだが、語源となった古代ギリシャのドーリア人は、「ハーモニー」とか「調和」とは程遠く、鉄の剣をもって勇猛をはせた征服民族。その「バーバリアン(蛮人)」のイメージがEL&Pっぽい音楽に合致したことも大きい。

 オーケストラのすべての音にパーカッションでアタックを付ける…という(プログレッシヴロックで学んだ)方法論を採用した点ではいわゆる「シンフォニック・ロック」と言うべきかも知れないが、自分の中でのイメージはあくまでもベートーヴェンの「運命」だった。
 凶暴で変拍子の「運命」が全てを破壊し異民族を征服しつつ疾走し、やがて「ケチャ」のビートに乗って増殖を重ね、最後には「協和音」で勝利の雄叫びを上げる。要するに、苦悩を突き抜けて歓喜に至る…そんな音楽である。

          *

 かくして、この曲は1980年27歳の時に東京文化会館で秋山和慶指揮東京交響楽団によって初演され、私にとっては「初めて音になった(記念すべき)オーケストラ曲」になった。

 もっとも、評価は「佳作入選」止まりで、審査員からは「バカスカでかい音を出せばいいってもんじゃない!」とか「節度なく好き勝手書きすぎでやかましすぎ」「春の祭典クリソツ」という悪評を浴び、肝心の「プログレからの影響」など指摘する声はゼロだった。
 それでも、私自身はと言うと(そんな悪口はどこ吹く風で)「いやあ、オーケストラって凄い音で鳴るもんだなあ」と感動しつつ「ベートーヴェンよりいいじゃン!」という不謹慎な感慨を覚えたことを告白しておく(笑)。
  
 今思えば、この翌年に「オーケストラ版タルカス」を書き上げて初演することも出来たはずで・・・そうなっていたら私自身も、そして現代の音楽界もかなり違った道を歩んでいたかも知れない。
 しかし、時代はまだ「その時」を迎えていなかった(ということなのだろう)。

 面白いのは、「ドーリアン」も「タルカス」も、初演はクラシック音楽界(&現代音楽界)から総スカン的な無視を食らったものの、なぜかテレビは真っ先に食い付いてきたことだ。
 両曲とも、初演から1年もしないうちに「題名のない音楽会」で(抜粋ながら)演奏され放送されている。(ドーリアンは1980年2月放送の「現代作曲家・青春群像」、タルカスは2011年2月放送の「クラシックmeetsロック/新作!プログレ交響組曲」)

 しかも、「ドーリアン」の方は、その放送を聞いた東京キッドブラザースという劇団(主宰:東由多加)が「ニューヨーク公演をするための新作サムライ&ロック・ミュージカルの作曲を是非!」といきなり私を指名(結果、オフオフブロードウエイで上演する「SHIRO」という作品に参加することになった)。
 一方「タルカス」はご存じのように、NHKの大河ドラマ「平清盛」の作曲に(平安プログレ…というコンセプトを実現すべく)指名されるきっかけになったわけで、何というか……デジャヴ?。

 ただし・・・にもかかわらず肝心のオーケストラ界(クラシック音楽界)がまったく無反応なのは同じ。「ドーリアン」もコンサートでの再演は初演以来一度もないし、「タルカス」も未だにコンサートで取り上げる気配はゼロ。(その点は「独学」&「素人」のせいもあるだろうか)
 そこに感じる「虚しさ」というか「徒労感」は35年たってもほとんど変わらないのが、ちょっとつらいところではある。

■ サイバーバード協奏曲(1994)

Cyberb そんなわけで、デビューした瞬間から「オーケストラで鳴らすプログレッシヴ・ロック」の道を歩み始めたはずだったのだが(笑)、現代音楽界における80年代当時の私への評価は《新ロマン派》といういささかピント外れなものだった。

 これは、ドーリアンに続いて発表し、なぜか異様に再演されることになった「朱鷺によせる哀歌」(1980)の静かで旋法的な書式がロマンチックなイメージを喚起させたことが大きいのだろう。
 この《新ロマン派》という動き自体は、70年代後半あたりに現代音楽界に登場した…ワーグナーやリヒャルトシュトラウスばりの(後期ロマン派っぽい)響きを好む風潮のこと。無調ガリガリの前衛音楽への反動から生まれた「少しはロマンチックな音楽を書いてもいいんじゃない?」という趣向だったのだが、コアな現代音楽ファンからは「反動的」とか「退嬰的」とか悪口言われ放題だった。

 そのあたりの失望もあって、私としてはその頃から「現代音楽」の傾向や流行にはまったく興味を失い、(もともと現代音楽界で音楽をやるつもりは全くなかったので)「デジタルバード組曲」(1981)とかギター協奏曲「天馬効果」(1984)、「鳥たちの時代」(1986)、「プレイアデス舞曲集」(1987〜)などという…現代音楽のコンテクスト(文脈)をまったく無視した作品を勝手に発表し始めていた。

 結果、実質的なデビュー曲となった(前述の)「朱鷺によせる哀歌」(1980)は、「ちょっと旋法の要素が紛れ込む現代音楽作品」という「誤解」の元に現代音楽界でも少しは評価されたのだが、それ以降の作品は「ぬけぬけと」メロディもリズムもハーモニーも出てくるのだからもういけない。ヨシマツは堕落しただの腑抜けになっただの聴衆に迎合しただの非道い言われように晒されることになった。

 その頃、どこかの現代音楽祭だかで「デジタルバード組曲」や「プレイアデス舞曲集」が演奏されたところ、外国の(正統なる現代音楽をお書きになっている)作曲家が「この男は気が違っているのか?」とまじめな顔で聞いたらしい。
(それに応えて普通の聴衆の方が「アナタの方が気が違っているのでは?」と言ってくれたそうで、大笑いになったのだが)

 そんなふうだから、正統な現代音楽関係者(作曲家や評論家)たちからは完全に「異端」(20世紀後半の時代にハーモニーやリズムを取り戻そうと考えている異教徒)扱いとなり、「現代音楽に反旗を翻す裏切り者」として現代音楽界からはブラックリストに載る要注意人物(?)と目されることになった。剣呑、剣呑。

 にもかかわらず、演奏してくれる演奏家・聴いてくれる聴衆たちは(ありがたいことに)増えていた。ギターの山下和仁氏、ハーモニカの崎元譲氏、テナーの丹羽勝海氏。初めてのオーケストラ作品委嘱をしてくれた日本フィルハーモニー交響楽団、初めての個展を開催してくれた草津音楽祭・・・。
 彼らは普通に「きれいな曲」「面白い曲」という視点で私の音楽を評価してくれた。おかげで(無冠で異端ではみ出しッ子だったにも関わらず)「なぜか」音楽界で生き残れたわけである。

          * 

Zones しかし、調子に乗って好き勝手をやって来た作曲家デビュー10年目の37歳の時、「もうそろそろこれで打ち止めだろう」と思いが強くなった。

 そもそも独学の食わせ物だし、いまだに一人で何のバックアップもなく、相変わらず現代音楽は現代音楽のままだし、日本に新しい交響曲など受け入れる土壌はない。(そのわりには、無理やり交響曲第1番・第2番と書き上げてはいたのだが)
 もとから「清水の舞台から飛び降り」ているつもりなのだから、10年も落下し続ければもう十分。「まあ、ここまで好き勝手にやったのだから、もういいや。思い残すこともないし」という(いわば)「涅槃」(?)の境地に達してしまったわけである。(^_^)b

 そんな時に出会ったのが、サックスの須川展也氏だった。

 正直に言うと、彼に「曲を書いて欲しい」と言われ、実際に何曲か演奏を聴いた時も、「木管でも金管でもなく」「ジャズでもクラシックでもない」というコウモリみたいな(鳥でもなく獣でもない)サクソフォンという楽器に魅力はほとんど感じなかった。
 そして、須川氏自身も、そんなサクソフォンの「方向性」についてずいぶん悩み模索しているように感じた。(実際、その場の雰囲気から、彼も「ああ、これは書いてくれそうにないな」と思ったそうだ)

 しかし、考えてみれば、鳥でもなく獣でもない…ということは、鳥にも獣にもなれる…ということだ。(それは、独学で素人だからこそプロを凌駕できる個性を手に出来るのと似ている!)
 そして、クラシカルな美音とジャージーな濁音を瞬時に吹き分ける彼のテクニックは、クラシックにもジャズにも一瞬でスイッチできる「万能の楽器」を手にしていることを意味する。

 それに気付いた瞬間から、プログレっぽくもありジャズっぽくもあり、エスニックでもあり、さらにシンフォニックでもあり…という「何でもアリ」の音楽がサックスを起点に噴出することになった。

 かくして出来上がった「ファジーバード・ソナタ」(1991)と次にその発展形として書いた「サイバーバード協奏曲」(1994)は、自分の中に今までくすぶっていて解決の付かなかった「クラシック音楽におけるプログレッシヴ・ロック指向」を解放してくれる魔法の翼となった。

 おかげで、なにかの「歯止め」が外れ(その点を、現代音楽マニアからは「堕落」と指弾されるのだが・)、作曲家をやめるどころかますます調子に乗って好き勝手を始めることになった。
 実際、それまでは「世紀末抒情主義」などと(いくぶん控えめに)自称していたのだが、このあたりから(ぬけぬけと)「開き直り楽派」を自称するようになる(笑)

 後に、イギリスCHANDOSで私のオーケストラ作品全曲録音(1998年から、全7枚21曲が録音された)というプロジェクトが始まったのも、この「サイバーバード協奏曲」がきっかけだった。
 この曲のテープ録音を聞いた社長が、いきなり「こいつの作品を全部録音する!」と決断し、藤岡幸夫氏指揮BBCフィルの演奏による録音プロジェクトを立ち上げたのである。
 世の中本当に一寸先は分からないものである。

        *

Crosss 余談になるが、この曲を作曲している頃、妹が末期癌で病床にあり、スコアの〆切は彼女の死期と同じだった。

 私より2歳下の妹は、小学生の時に私より先にピアノを習い始め、私はそれを見てピアノに触れることになった。
 孤立無援で作曲家を志していた私にとっては常に最大の理解者であり、最初の聴衆でもあった。その後、嫁に行って2人の男の子に恵まれ、これから幸せな人生を過ごす入り口にいたはずだった。そんな時、病魔に冒された。

 この曲の第2楽章冒頭は、「癌が再発してあと3ヶ月ほどの命です」という宣告を聴いた時、頭の中に(真っ白な空虚な思いと共に)鳴ったピアノのフレーズで始まる。

 やがて、人工呼吸器を付けたため声を出せなくなり、会話は口の動きと表情だけになった。それでも兄妹のせいか、私だけは妹の言っていることが分かった。
 狭い病室の壁を見ながら妹は「空が見たい」と言い、「今度生まれてくるときは鳥がいい」と言い続けた。そして、目の前の白い壁にまるで天使が見えるかのように、時々微笑んだ。
 2楽章はそんな妹の魂の名前が刻印されている。

 闘病は晩秋から年の暮れまでに及び、最後は何日か徹夜でつききりの看護をしながら、病室でスコアを書いた。しかし、年が明けて正月の6日、完成を待たずに妹は死に、スコアだけが空しく残された。

 今、手書きのスコアを見ると(当時はまだパソコン入力ではなく、シャープペンによる手書きである)ひどく荒れているのが分かる。音数は少なく、ある意味では、私の作品の中で一番「手を抜いた」スコアかも知れない。

 協奏曲なのに独奏楽器がサックスだけでなくピアノとパーカッション付きというトリプル・コンチェルト仕立てなのも、実を言うと、もしスコアが完成できなかったときはピアノ(小柳美奈子さん)とパーカッション(山口多嘉子さん)という気心の知れた3人による「アドリブ」で何とかしてもらおう…という非常に後ろ向きでマイナスな理由からだった。

 そして、フィナーレは、鳥がひたすら空を疾走する。途中で一瞬立ち止まり、悲しげで苦しい様子を見せるが、あとは「狂ったように」空へ舞い上がり飛翔する。
 この部分は、どうやって書いたか全く記憶がない。オーケストラは2つのコードを繰り返すだけで、サックスやパーカッションのパートには「〜〜〜〜」の破線と「アドリブ!」の文字が書かれているだけだからだ。そこに「音楽」が宿っているのは、何かの「魂」のせいとしか言いようがない。

 この曲は、私一人では決して書けなかった。須川氏との出会い、妹との別れ、それらがこの曲を生んだ。
 そして、小柳美奈子さん山口多嘉子さんのバックアップ無しにこの世界はあり得なかった。

 これは本当に音楽の(そして人との関わりの)不思議さを実感する出来事だった。

 
■ 鳥は静かに(1998)

B_2 妹の死後、実を言うと「鳥と虹によせる雅歌」(1994)という…妹への追悼の雅歌として書かれたオーケストラ作品を最後に、作曲家をやめようと思っていた時期がある。(やめて何か別のことをする…というわけではなく、何と言うか…「作曲」という行為をやめたかったのだ)
 最愛の肉親を失ったことの喪失感も大きかったが、現代音楽界にも失望していたし、気を張って《孤軍》を貫くのにも疲れていた。

 ところが、世の中は不思議なもので、そんな時に限って新しい出会いがある。この前後にピアニストの田部京子さんと出会い「プレイアデス舞曲集」の録音が始まり、さらに指揮者の藤岡幸夫氏と出会いイギリスで交響曲をCD録音する話が進み始めた。

 作曲を志す最初のきっかけは、確かに、交響曲のような自己完結的な音響の神殿をたった一人で作り上げることだった。
 しかし、音楽というのは作曲家一人で作るものではなく、「演奏家」を触媒にして私の中に生まれる「化学反応」のようなものらしい、とその時になってようやく気付いた。

 それは、妙な言い方になるが、男(作曲家)と女(演奏家)双方の遺伝子とDNAが組み合わさって子供(作品)が生まれるのに似ている。
 単に自分を分裂させて増殖する単性生殖では、多様性がなく行き詰まってしまう。全く違った個性を持つ個体の遺伝子がブレンドされることで、新しい次の世代の「個体(音楽)」が生まれる。それとよく似ているのだ。

「鳥は静かに」(1998)はそんな頃書かれた。
 元々はとあるアマチュア・オーケストラから「亡くなった仲間(ヴィオラと聞いたような気がする)の追悼のための曲を」という依頼で、弦楽アンサンブルのために書き始めた。
 しかし、どういうわけか全く具体的な話の進展がないまま委嘱は破棄され、作品だけが残った。この曲に「寂しくぽつんと孤立している」イメージがあるのは、そんな出生の秘密(?)もあるのかも知れない。

 きわめて短くコンパクトな曲だが、デビュー作「朱鷺によせる哀歌」やシベリウスの「トゥオネラの白鳥」のエコーを微かに含む。さらに、妹への追悼曲となった前述の「鳥と虹によせる雅歌」や、前後して書かれた「天使はまどろみながら」(1998)の香りも微かに残っている。

 曲は、死んだ鳥を囲んでまず一羽の鳥が静かに歌い出し、その「歌」が静かに周りの鳥たちに伝わってゆき、緩やかに輪のように広がってゆく。
 
 深く考え時間をかけて作った曲ではないけれど(「朱鷺」は9年近い年月をかけている)、個人的には自分の曲の中で最も好きな(…と言うより「愛しい」)曲のひとつである。

■ タルカス(2010)

Tarkusx そして最後の2曲、まずタルカスについては散々あちこちで書いたので、あまり言うことはない。
 今回、「ドーリアン」(1979)と並べて聞いてもらうわけだが、前述したように、元々は同じネタである。なので、「40年前に既にここまで到達していたのか」と言われるか、「何だ40年前も今もやってることは同じじゃないか」と言われるか。・・・圧倒的に後者のような気がしないでもないが(笑)。

 さすがに40年間というタイムラグに関しては…「生まれる時代を間違った感」は否めないが、「こういう音楽がまだオーケストラで出来るのだ」と思ってくれる人が一人でも生まれ、さらなる未来にその思いを伝えてくれれば、40年にわたる我が「コケの一念」も報われるというものである。

 個人的に贅沢を言わせてもらえれば、ラヴェル編の「展覧会の絵」がオーケストラのレパートリーになったように、この曲もクラシックのコンサートで普通に演奏されるようになり、原曲の作曲者キース・エマーソン氏が普通に音楽史の大作曲家として名を連ねるようになって欲しい。
 それが(20分の曲を書き写すのに40年をかけてしまった)凡庸な編曲者の夢であり希望である。

■ 「平清盛」組曲(2012)

 そして、最近作であるNHK大河ドラマ「平清盛」の音楽もまた、「タルカス」から派生した(こちらは50年来の)個人的な夢の完結である。
 なにしろ大河ドラマはそれこそ50年前の第一作「花の生涯」(1963)から見ているので、その歴史あるドラマの中に自分の音楽を組み込めることは、日本の作曲家としてはこの上ない「名誉」としか言いようがない。

 ただし、ドラマの音楽を書くのは初めてなので、そもそもどういうやり方が「普通」なのかさっぱり分からず、ここでも(独学&素人の強みを前面に押し出して)好き勝手を通させていただいた。

 結果、前述のサイバードの時以上に、自分の中にあるクラシック・ロック・ジャズ・邦楽・現代音楽などなどの色々な《ネタ》を大棚ざらえ的に「ほとんど全て吐き出す」ことになった。・・それが良かったのか悪かったのかは分からないが…。

 何はともあれ、オーケストラと左手ピアノを核に和楽器(雅楽、二十弦、琵琶、笛)から合唱までを加えて書いた楽曲は100曲を超え、全曲を通し演奏すると6時間を超える。
 さらに、上記の「タルカス」や「サイバーバード協奏曲」の一部、舘野泉さんのために書いた左手のピアノ作品(アヴェマリアや5月の夢の歌など)、そしてそれらの異稿(アレンジ換えや編集)を加えると軽くその1.5倍ほどになる。これはもう「巨大なオペラ2曲分」くらいの分量である。

 ということは、5〜6曲で30分ほどの演奏会用組曲を作っても、軽く10くらい出来る計算になるわけで。そうなると・・・「平清盛」組曲第9番とか第12番というのも有り得そうだ。

 ただし、還暦コンサートでの曲の組み合わせは・・・まだ決まっていない。当日をお楽しみに。

          *
 
All 最後に、今回のコンサートの発起人となってくださった舘野泉さん(ピアノ)、演奏を担当してくれる藤岡幸夫さん(指揮)と東京フィルハーモニー交響楽団、サイバーバード協奏曲の壮絶な演奏を聴かせてくれるはずの須川展也さん(サクソフォン)、コンサートの実現に奔走してくれたジャパンアーツ(担当:大沼千秋さん)、そして東京オペラシティ文化財団に感謝します。

 そして、第1部で私の作品のオムニバス演奏(?)に友情出演して下さる(予定の)、田部京子さん(ピアノ)、小川典子さん(ピアノ)、長谷川陽子さん(チェロ)、福川伸陽さん(ホルン)、吉村七重さん(二十絃)にも心からの感謝を。

 おっと、それからチケットを買ってくださる聴衆の皆さん全てに音楽の女神からの祝福を!

          *

■「鳥の響展(Tori no Kyohten)」
 2013年3月20日(水)
 15:00東京オペラシティコンサートホール

Kyoten2013□ 第1部
 
プレイアデス舞曲集(p:田部京子)
 
ランダムバード変奏曲(p:田部京子、小川典子)
 
夢色モビール(vc:長谷川陽子)
 
タピオラ幻景(p:舘野泉)
 
スパイラルバード組曲(hr:福川伸陽)
 
夢詠み(二十絃:吉村七重、チェロ:長谷川陽子)

□ 第2部
 
鳥は静かに(1998)
 
サイバーバード協奏曲(1994/sax:須川展也)
 
ドーリアン(1979)

□ 第3部
 
「平清盛」組曲(2011/2)
 
タルカス(2010/原曲:K.エマーソン&G.レイク)

 演奏:藤岡幸夫指揮東京フィル
 

 主催:ジャパンアーツ/東京オペラシティ文化財団
 
 チケット:ジャパンアーツぴあコールセンター(03)5774-3040
 
 9月16日より一般発売。

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コメント

軽やかに語っておられますが
つらく苦しい戦いの連続だったとお察しします。
修羅の道
という言葉を思い出しました。

投稿: 景虎 | 2012/09/12 23:42

吉松さんはフリージャズや同年代の西村朗、細川俊夫氏らの音楽はどう評価するのでしょうか?

投稿: 齋藤敏夫 | 2012/09/13 07:01

少年だった当時、題名のない音楽会でドーリアンと出会った当時のことをはっきりと憶えています。黛敏郎さんが「新しいロマンティシズムを感じる」と肯定的なコメントを述べた瞬間も忘れられません。
早く再会を果たしたいです、ドーリアン。

投稿: 月注斎 | 2012/09/13 23:07

ドラマにしたいですね。

投稿: 村山智美 | 2012/09/22 21:26

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