オペラ雑想徒然草
オペラ(opera)というのは、イタリア語で「作品」という意味。作品番号を示す「opus」と語源は同じなのだそうだ。
もともとはギリシャ悲劇などの演劇を上演するときに、舞台にコーラス(合唱)を配し、歌うような節回しでセリフを語ったのが始まり。
現代でも上演される最古のオペラはモンテヴェルディの「オルフェオ」(1607)と言われているが、これはちょうど日本で出雲の阿国が歌舞伎を始めた頃(1603頃)と同じ。西洋と東洋で時を同じくして音楽と言葉を合体させた舞台芸術が生まれたというのは、ちょっと感動的だ。
イタリアが起源なので、長いこと「オペラ」はイタリア語で歌われるものと決まっていた。ハイドンやモーツァルトが登場する18世紀末あたりまで、オペラは(ドイツ人が書いてもフランス人が書いても)イタリア語で歌われていたそうだ。
今考えるとちょっと不思議な気もするが、逆に言えば、そのおかげでどんなオペラでも劇場がある近代都市ならヨーロッパ全土どこでも上演される「グローバルな娯楽メディア」として広がった。今で言うならハリウッド映画のような(世界中どんな国でも上映でき、観客がたくさん押し寄せる)人気メディアだったわけだ。
□オペラと言語
とは言っても、当時のイタリア語がヨーロッパのどの都市でも通じる国際言語(今で言う「英語」みたいなもの)だったわけではないようだ。音楽を勉強した人なら、我々日本人でも「アレグロ(早く)」や「アダージョ(ゆっくり)」から「フォルテ(強く)」「ピアノ(弱く)」などの基本は染みついているように、オペラを聴くような上流階級には馴染みの言葉だったということなのだろう。
そして音楽的にも、イタリア語の特徴である「母音の豊かさ」は、メロディを歌い上げる際の「あ〜〜〜」とか「お〜〜〜〜」というようなフェルマータ(音の伸ばし)部分に極めて有効に機能する。ひとつのシラブル(音節)が大体「子音+母音」の組み合わせで出来ているのも、(どの母音もフェルマータがかけられるという点で)ベルカント的な歌い方向きだ。
さらに、多くの単語のアクセントが頭でなく単語の後半に来る(ナポリタ〜ナとかカルボナ〜ラというように)のもポイント。美しくなだらかなメロディラインの多くは、後半に向かって抑揚が高まってゆく傾向があるから、これは見事な相乗効果をもたらす。このあたりも、イタリア語がメロディ豊かなオペラに向いている要因だろう。(もっとも、これは話が逆で、こういったイタリア語の特長を活かしてベルカント的な歌い方が発達し、さらにそれを最大限有効活用したオペラのような形に結実した、と言うわけなのだが)
その逆がドイツ語。御存知のようにほとんどアクセントが冒頭に来る。子音がはっきりくっきりしているので極めて聴き取りやすいのは利点で、アタックの明快な対位法的パッセージや行進曲のような縦に合うリズムには向いている。また、大声で(つまりオペラのように声を張り上げて)歌っても比較的歌詞が聞き取れるのもポイント。
ただし、メロディとしては常に冒頭アクセントのカクカクした音型となり、言葉の響きとしてはやや固いサウンドになる。これは、英雄的あるいは宇宙的な「強さ」を表現するのは向いているもの、「弱さ」の表現がちょっと難しい。硬い(追求や断言するような)表現には向いているが、柔らかい(歌うような)表現にはやや不向きということになるだろうか。
一方、フランス語は子音のデリケートさもあって、サウンドとしては(イタリア語やドイツ語と比べて)かなり音楽的と言えそうだ。普通にしゃべればそのまま音楽になるような響きの美しさを持っている。
しかし、それをベルカント唱法でオペラ的に(声を張り上げて)歌うと、聞き取りにくくなるというのが難点。囁くようなデリケートな(マイクで子音をくっきり増幅させるようなシャンソンのような)歌の表現は効果的だが、母音にフェルマータをかけて朗々と歌うような表現には(それはフランス人の気質にもよるのかも知れないが)あまり向いていない気がする。
そして、英語。現在もっとも世界的にスタンダードな言語なので、歌詞の内容を伝えるのには最適で、オペラでも「英語版」を作ったりする例は多い。音楽家にとっても、ある意味では(かつてのイタリア語のように)共通言語になっている部分もある。
サウンドとしてもドイツ語とフランス語の中間に属する響きなので、長所短所とも平均化されていて大きなマイナス要素はない。ただし、母音と子音のバランスはやはり子音に偏っていて、ベルカント的な歌ではイタリア語には及ばないと言えば言えるのだが。
しかし、このことは逆に、アクセントと子音のバランスが極めてリズム的であることに通じる。そのためブルースからロックまで、いわゆる〈ビート音楽〉的な唱法では「英語」以外では考えられないほどのマッチング(調和)を見せるわけだ。
もっとも、オペラが「イタリア語」から生まれたように、現代のビート音楽は「英語」から生まれたわけで、これはまあ、当然のことなのかも知れないが。
□日本語とオペラ
では日本語は?というと、母音が豊かな点ではイタリア語並みなので、一見オペラに向きそうに思える。ただし、致命的な点がひとつ。イタリア語以上に「子音+母音」の癒着が強力で、一シラブル(音節)ごとに母音が付いているため、歌う場合どうしても「一シラブルごとに一音符」が必要になるのである。
例えば「吾輩は猫である(私はネコです)」は・・・
イタリア語で「lo sono un gatto」
ドイツ語なら「Ich bin eine katze」
フランス語は「Je suis un chat」
英語では「I am a cat」といずれも4音符。対訳しても、大幅な音符の数の増減はない。
ところが日本語で歌うと
「わ・が・は・い・わ・ネ・コ・で・あ・る〜」で10音符、
「わ・た・し・わ・ネ・コ・で・す〜」でも8音符が必要になる。
しかも、イントネーション(抑揚)やリズムが変わってしまうと(例えば、「わがは・いわネ・コであ・る」とか「わた〜〜しわネ〜〜コで〜〜す」などと歌うと)もう言葉として聞き取れない。同じ単語でも、西洋の言語たちとは(当然ながら)音符の数も形も全く違うものになってしまうわけだ。
もちろんこの特長を活かしてこそ「五・七・五」のような日本独自の「歌(和歌)」が有り得るのだが、オペラのように歌で物語の筋をも伝えなければならない場合、西洋の主要言語とのあまりの音節の違いと、音符数あたりの情報量の少なさが大きな問題になる。
結果、日本語を活かしたオペラを作ろうとすればするほど、外国語への対訳絶対不可能な世界に踏み込まなければならず・・・一方、それを避けて敢えて対訳可能な方向性を模索すると、今度は日本語の特性を犠牲にしなければならないことになる。
昨今は、オペラを(生の演奏でも)「字幕」付きで鑑賞することが出来るようになってきて、むかしあったような「言葉の壁」はかなり低くなった。おかげで「原語上演」か「訳語上演」か?というような究極の選択に悩まされることはなくなった。
しかし、だからと言って、日本語やヒンドゥー語やスワヒリ語で書かれたオペラを簡単にヨーロッパで字幕付き上演できるようになったのかというと・・・それはない。LDやDVDでの鑑賞ならともかく、舞台上演では、生身の歌い手たちが「知らない言葉」で1時間なり2時間の舞台を歌い続けなければならない。「ことばの壁」が消えたわけではないのである。
□オペラの経済学
それでも、作曲家をやっているとよく「オペラを書かないんですか」あるいは「オペラを書いてくださいよ」という声をかけられる。
そのたびに「簡単に言わないで下さいよ〜」という愚痴が頭の中をよぎる。(これはある意味、女の人に「結婚しないんですか」「早く結婚しなさいよ」と言うのに似た一種のオペハラ?(笑)。
なにしろ、オペラと言うからには、少なくとも1時間半、長い場合は3時間近い量の「オーケストラとヴォーカルのスコア」を数百ページ(おおよそ300〜500ページほど)にわたって書かねばならない。
分量からしても、交響曲や協奏曲の3〜4曲分の音符が必要だし、どう効率的に作っても最低半年はかかりきり、題材や脚本などの吟味から始めると制作期間としては数年。しかも、下手をするとその間ほかの仕事はほぼ出来ないという大仕事になることは避けられない。
さらに、オペラはとにかくイニシャルコスト(制作にかかる初期費用)が莫大だ。作曲料(作曲している間の生活費)・台本の制作費・舞台や美術や衣装(舞台のセットや背景や小道具それより何より出演者全員の衣装!)・出演者とスタッフのギャラ・オーケストラの費用・リハーサルにかかる膨大な時間と労力へのコストなどなど、一回や二回の公演ではどんなに大成功しても元すら取れない金額である。(例えば大雑把に、制作費1億円として、1万円のチケットで千人が入って1000万円。10回やって満員御礼でもようやく収支ゼロ。これはもう収益どころの話ではない)
それでも昔は「オペラ」こそ興業の花であり、作曲家の懐を潤す最終兵器だった時代があった。というのは、初期費用はかかっても、それをあちこちで公演出来ればランニングコスト(再演するのにかかる経費)だけの金額はぐっと安くなるからだ。
つまり、初演を地元で2回や3回やっただけでは元も取れないが、その舞台をヨーロッパ中…例えばウィーン、パリ、ロンドン、プラハ、ベルリン…などへ回すことが出来れば(既に舞台や衣装などは出来上がっているので)かかる費用は出演者のギャラと移動費くらいとなる。
こうなると、一回の上演での興業収入(千人前後の観客のチケット代の合計)はほぼ変わらないのだから、公演を重ねるたびに今度は「利益」がどんどん(とは行かなくても、ある程度は)生まれる理屈だ。
作曲家にとっても、最初にオペラ一曲を書き下ろすのはかなりの労力だが、それが一旦ヒット作となりヨーロッパ各地で上演されれば、上演されるたびに「その興業で発生した利益」の(おそらく)数十%が作曲家の懐に入ってくる。
むかしは「著作権」などという概念はなく、ソナタやシンフォニーが演奏されても著作権使用料など入ってはこない。「興業」としての収入が約束されたオペラこそは、作曲家にとって唯一にして最大の「夢の収入源」だったわけである。
しかし、それも19世紀あたりまでの話。20世紀になって「映画」や「テレビ」などさまざまな娯楽が普及するに従って、金食い虫のオペラは娯楽の第一線から後退する。
現代では「映画」がかつてのオペラに近いシステムと言えるだろうか。
初期費用(イニシャルコスト)が億単位かかるのはオペラと同じかそれ以上。(どんなにエコノミーな少予算映画でも数千万、一方大作となると数十億の制作費がかかる)
これを、劇場ならぬ映画館で公開するわけだが、各映画館ではフィルムを回すだけだからランニングコスト(場所代、電気代、人件費に多少の広告費など)はきわめて低い。結果、1館に観客を数百人ほど集めてチケット1000円前後というレベルで回転できる。(超大作だからと言ってチケット代数万円とはならないのが、映画とオペラの違うところだ)
あとは客を呼べさえすれば、フィルムを回すだけで何百回でも何千回でも上映でき、そのたびに入場料収入を得られる。しかもオペラと違って、世界中どこでも映写施設さえあれば興業が可能で、上映には演奏家も出演者もオーケストラも何にも要らないのだ。
となれば制作費を回収した後は、文字通り「濡れ手で粟」の黒字転換。全世界レベルで当たれば興業収益数百億円も夢ではない。(…いや、もちろん逆に観客が入らなくて大赤字…と言うことも少なくないのだが)。
ちなみに映画音楽作曲家はオペラほど作品に大きくタッチするわけではないので(その扱いも、多くは撮影・美術・録音などのスタッフとほぼ同じ)、その分配金額はオペラほど多くない。
それでも初期費用として支払われる「作曲料」のほか、上映や放送などにおける音楽の「使用料」、サウンドトラック盤の売り上げやコンサートで使用される場合の「印税」などが、映画のヒットに応じて入ってくる。大ヒット映画やロングランを続ける名作映画の音楽を供給できれば、長期にわたる収入の確保に繋がるわけだ。
というわけで、昔の「オペラ作曲家」のようなセレブを探した場合、現代では「映画音楽作曲家」ということになるだろうか。(もっとも、映画音楽にしろ「一発当てて巨額の収入」というのは夢のまた夢。普通は、こまめに数をこなしてそこそこの収入…という作曲家がほとんどなので、念のため。それより何より、映画がかつてのオペラのように娯楽の王者から転落しないという保証はどこにもないのだし…)
□オペラの台本
というお金の話はともかく・・・とにかく「オペラを書きたい」と思う作曲家にとって、まずさしあたりの問題は「台本」ということになるだろうか。なにしろ交響曲は一人で書けるが、オペラは「原作」と「台本(脚本)」がなければ作れないのだから。
そこで、むかしは、作曲家と台本作家が黄金コンビを築いた例が少なくない。モーツァルトとダ・ポンテの組み合わせは「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」を生んだと言うだけでも黄金コンビの名にふさわしい。
あるいはヴェルディに「リゴレット」「椿姫」「マクベス」「運命の力」の台本を供給したフランチェスコ・ピアーヴェ。プッチーニに「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」の台本を供給したルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザ。
一方、原作から台本まですべて自分で書いてしまう人もいる。その代表格がリヒャルト・ワーグナーだ。「リエンツィ」「さまよえるオランダ人」から「ニーベルングの指輪」「パルジファル」まで自作のオペラ(楽劇)の台本はすべて書き下ろしている。
そんなワーグナーほどではないにしろ、原作(戯曲)を基に作曲者自ら台本を書き下ろす例も多い。ロシアオペラの大傑作ムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」も確か、作曲者自身による脚本だし、20世紀オペラ最大のヒット作「ヴォツェック」も、アルバン・ベルクがビュヒナーの戯曲を基に書き下ろしたもの。私の師匠:松村禎三師もオペラ「沈黙」の台本(原作:遠藤周作)を数年かけて自分で書き下ろしている。
オペラの素材としては、小説が原作というのがもちろん最も多いが、作曲家自身が「戯曲」の舞台に接して感動して…という例も多い。やはり舞台上でその演出効果を目にするのが作曲のアイデアに直結するのだろう。
もちろん優れた台本は作曲者のインスピレーションを掻き立てるが、オペラの台本は、あまり戯曲として出来が良くない方が(むしろ)いい…とも言われる。オペラは「音楽」で語るものであって、あんまり完璧な(台詞だけで全て完結しているような)台本だと逆に音楽を付ける意味を失してしまうのかも知れない。
小説や詩は「ことば」だけで世界を記述する。しかし、オペラやドラマ(舞台)は、音楽や演出や俳優の演技や照明や効果などが相まって世界を表現する。
小説や詩は「音楽のない世界」の言葉たちだが、それに音楽が絡んでくると世界は一変する。膨大な言葉を駆使して表現するしかない場面でも「音楽だけ」で全てを語ることが有り得るし、もっとも重要な場面で「言葉など要らない」ことは少なくない。(もちろん逆に「音楽が要らない」場面もあるわけだが)
結果、小説や戯曲をオペラにする際、作曲家としては音楽的な理由であちこち台詞を書き直す必要が出て来る。その際、原作者あるいは脚本家が「オペラなのだからそういう改変も想定済みとして納得する」か、「自分が吟味した言葉を変えられてしまうことに抵抗感を感じる」かどうかは微妙な問題になる。
例えば、日本オペラの古典的名作「夕鶴」(團伊玖磨:1951)は、木下順二の戯曲「夕鶴」をオペラ化したものだが、この時、作者はオペラ化を許可するに当たって「戯曲の台詞を一言一句変えないこと」を条件にしたそうだ。(ちなみに、この時の團氏はまだ27歳の若き作曲家。木下順二氏は10歳年上の中堅作家)
私の師匠松村禎三師のオペラ「沈黙」(1993)の場合は、原作者である遠藤周作氏に「あなた(作曲者)なりの〈沈黙〉でいい」という許可を貰って、作曲者自身で台本を書き下ろしている。しかし、原作者が作品に込めたキリスト教観と、作曲者が音楽を通して込めた思いとはかなり食い違っていて、横目で見ていてハラハラした覚えがある。
さらに、オペラの舞台では「演出家」が、同じ台本同じ音楽でも全く違った「世界」を創出する。特に昨今のヨーロッパのオペラは、演出家の創案による「新演出」が花盛りで、昔の物語を現代風に翻案したり、新しい現代的な解釈を組み込んだりした上演が当たり前になっている。そこでは原作者や作曲者の世界観とはまったく違った「世界」が展開されることも少なくない。(なにしろ、演出家の思惑次第で、勇敢な英雄的主人公をファザコンの情けない現代青年にすることも、ヒロインである心優しい美女を下心ありありのカマトト女に仕立てることだって出来るのだから!)
要するに、オペラは全く「作曲家のもの」ではあり得ない。子供が「父親」だけのものでないのと同じレベルで、様々な要因が加わった共同の「作品」と考えるべきなのだろう。
結果、そういう駆け引きもまた良し…と受け入れられる(心の広い?協調性のある)人だけがオペラ向きということになるのかも知れない。「オペラは自己の芸術の総合表現である」…などという青臭い理想は、おそらく今まで語った〈台本作家との確執〉や〈お金の問題〉〈演出家との対立〉そして〈観客たちの反応〉などの前では風前の灯火なのだから。
それを、舞台は所詮水物…と受け流せるか、共同作業なのだから…と許せるか、お客さまが神さま…と笑えるか。それが出来ないタイプの作曲家は、「オペラは無理なヒト」ということなのだろう。
□オペラの夢
かく言う私も、タイプとしては(おそらく)「無理なヒト」の部類なのだが、実は、オペラっぽいものにトライしたことがなくもない。それが80年代に声楽家の丹羽勝海さんとやった〈モノドラマ〉のシリーズである。
きっかけは、「予算の関係上、出演者は歌い手一人だけ、ピアノ伴奏は作曲家本人!」という舞台劇をでっち上げなければならなくなったこと。その時のにっちもさっちもいかない極限的な状況から怪我の功名的に生まれた一人芝居風モノオペラが第一作の「トラウマ氏の一日」だった。
主人公は冴えない中年のサラリーマン。彼が朝起きて仕事に出かけ、奇妙な商品(死にかけたミミズ)を売るセールスについてモノローグで語るうち、だんだんストレスから白昼夢の世界(アフリカ象になってサバンナを駆け巡る)に入ってゆき、狂気じみた乱舞(だるまさんが転んだ)に我を忘れるが、やがて夕方になってふと我に返り、夕焼け空を遠くに見ながら家路につく…というだけの不条理ドラマである。
楽譜はセリフと最小限の演奏指示が書いてあるだけで、伴奏ピアノは(図形楽譜により音が入る場所の指定はあるものの)全部アドリブ。台本は私自身が書いたもので、再演する度に時事ネタをいれたり、客いじりをしたり、やりたい放題で楽しかった。(なにしろ自分も舞台上で演奏しているので、音ひとつ言葉ひとつで聴衆が笑ったり泣いたりする「反応」が手に取るように伝わって来る。なるほど俳優や演奏家が一生を舞台に賭ける理由がなんとなく分かる気がしたものだ)
その後、このシリーズはだんだん規模が大きくなり、最終的にはオペラサイズの一晩興業のものまで全10作近く書いたのだが・・・そのあたりについてはHPの「図書館」台本のコーナーをご参考に。
その後、十数年前だったか、信長と明智光秀の二人だけが登場する舞台劇の音楽を打診されたことがあって、「信長」という題材にちょっと惹かれたこともある。
登場人物は信長と光秀のみ。能舞台のような狭いスペースで演じられ、音楽はチェロ1本(と打楽器)という構想だったが、これは残念ながら制作側のトラブルで実現しなかった。
その時、これをオペラにするなら…と一瞬夢想したのが、司馬遼太郎「国盗り物語(後編)」の叡山焼き討ちから本能寺の下り。(昔の大河ドラマ「国盗り物語」での高橋英樹:信長と近藤正臣:光秀の印象が強かったせいだろうか)
信長は甲高いカウンターテナーで「光秀〜!」「この金柑頭(光秀)!」「はげネズミ(秀吉)め!」と怒鳴りまくり「人間五十年…」と歌い舞うかなりエキセントリックな人物。その横で光秀は思慮深くも暗いバリトンで「恐れ入り奉ります」と慇懃に応えながら、その裏で「時は今、天が下しる五月かな」と怨念を蓄積している。
その合間を縫って秀吉が「おっしゃるとおりでござりまする〜」などとテノールでまくし立て、その横に、男装アルトの森蘭丸とコロラトゥーラ・ソプラノの濃姫。舞台裏では超低音バスの家康がぼそぼそ呟き、鬨の声を上げる男声合唱が咆哮する。音楽的にはなかなか面白いバランスだと思うのだが、どうだろう。
もうひとつ、かなり本気でオペラ化のプロットを書き進めていたものに「鉄腕アトム」(タイトルとしては「ATOM」)がある。
これも、2003年にTVアニメシリーズ「アストロボーイ」(原作:手塚治虫)の音楽を頼まれたことから構想が始まったもの。天馬博士(アトムの生みの親)が人工知能を持つ軍事用ロボットを開発し始め、その結果起こる息子トビオの死を契機にアトムが生まれるまでの(原作には書かれなかった裏のストーリーという想定の)物語。(ちなみに、誕生前までの物語なのでアトム自体は出て来ない)
ボーカロイド風のコロラトゥーラソプラノで歌う「夜の女王ロボット」や、人工知能のパパゲーノ&パパゲーナが「言葉のサラダ」を歌いまくるという「魔笛」風のジングシュピール?でもあったのだが、やはり権利関係とか台本の問題とか(作曲者が好き勝手に書くにしてはあまりに有名かつ神格化された物語でもあるし)いろいろ難関が多すぎて、書棚に押し込んだまま化石になっている。
その延長線上の夢物語でもうひとつ、最近書いたNHKの大河ドラマ「平清盛」の音楽も、素材としては充分オペラかも知れない。
平家・源氏・朝廷…という三つ巴の構造は、ワーグナー「ニーベルングの指輪」の人間族・巨人族・神々…が織りなす群像と似ているし、主人公清盛が法皇の落胤というのも、英雄ジークフリードの出自と同じ。最後にジークフリードが死んで世界が崩壊するのも、清盛の死から平家の滅亡に向かうカタストロフの構図と同じだ。(まあ、それがどうした?と言われればそれまでの話だが)
音楽の分量としても全130曲6時間(スコア600ページ以上)たっぷりあるし、「平家」「源氏」「朝廷」のモチーフ変奏が全編に及んでいるし、合唱十数曲および「遊びをせんとや」など10曲近い「今様」(平安当時の流行歌)も混じっている。これ以上何を追加作曲することもなく、それらを組み合わせつなぎ合わせて「歌う部分」を加えるだけでオペラ2〜3曲が出来てしまう計算だ。(もっとも、そのためには、音楽に合わせて台本&歌詞を書く…というもっとも面倒くさい逆の離れ業が必要になるのだが・・・)
オペラを創るには何らかのフォース(力)が必要だ。それは、夢の実現に邁進するための怨念というべきか(「莫迦」になれるためのパワーというべきか)。若いときに出会ったオペラに「啓示」を受けて「コウイウモノヲ私モ創リタイ!」と強力に刷り込まれるかどうか。それが一生の夢を左右するのだろう。
私は、交響曲という世界にかまけて、残念ながらオペラに関してはそのフォースの持ち合わせは無い。しかし、オペラに賭けた作曲家たちの夢の跡は、羨ましくもあり・・・怖ろしくもありつつ、いつも心の奥に疼いている。
そう、今度生まれ変わったときイタリア人だったら、オペラをひとつ、書いてみようか・・・(^_^)v
*
・カヴァレリア・ルスティカーナ
プッチーニ
・ジャンニ・スキッキ
11月4日(日)15:00よこすか芸術劇場
11月11日(日)17:00千葉県文化会館
11月15日(木)18:30東京文化会館
プッチーニ
・トスカ
11月3日(日)15:00川口総合文化センター・リリア
11月17日(土)14:00東京文化会館
11月18日(日)14:00東京文化会館
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コメント
ドイツ語のKatzeは女性名詞なので、「吾輩は猫である」の場合は男性名詞Katerを使ってIch bin ein Kater.の方が正しいかもしれません。漱石の「猫」は牡猫ですし、イタリア語やフランス語の例文では男性形をお使いになっているようなので。
投稿: leon | 2012/10/12 07:37