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2012/12/10

年末雑感〜連想噺

□子供の声1

Babycry  最近、ネット内で「赤ん坊の泣き声論争」がちょっとした話題になった。乗り物の中などでの赤ん坊の泣き声について「うるさい。迷惑」派と「温かく見守る」派の対立ということらしい

 ちなみに私も、子供の泣き声というのはこの世で一番苦手な音のひとつだ。ただ、それは人間として至極当然の反応だと思うのだ。

 そもそも赤ん坊のように言葉でのコミュニケイション能力を持たないものは、自分が「不快な状況」(お腹がすいた…とか、排泄の必要がある…とか、眠い…とか)にあることを「音声信号」だけで第三者に伝えなければならない。

 そのため、通常の「あー」という発声にできる限りの変調(歪み:ディストーション)をかけて「ぎあ~」とか「うぎゃあ~」というノイズ(騒音)を作り出し、しかもそれをリミッターをかけない最大出力で放射する。

 目的は、自分の現状が「不快」であることを明確に伝えることにあるのだから、「ぴよぴよ」とか「みーみー」というように相手が心地よくなる音では意味を成さない。人間なら誰でも100%「どうした?」と耳をそばだたせ、それを止めるためにはどんなことでも辞さない、と思わせるような「強力な刺激音」でなければならないわけだ。

 なので、あの声を聴いて「不快と思わない」あるいは「スルーできる」という人がいたら、それは逆に人間として問題がある。(救急車のサイレンが鳴っても爆弾の破裂音がしてもすやすや眠れるという人がいたら、それはかなり問題なように)。

 赤ん坊の泣き声というのは、人間が人間に向かって発する「もっとも破壊力のある音」つまり《対人型音響兵器》なのである。そして、これに反応するのは人間である証しでもある。

 というわけで、逃げられない閉鎖空間でその「音響兵器」が発射されたら・・・これは,確かにたまったものではないのだが、申し訳ないが助かる術はない。爆弾相手に「うるさい。迷惑」も「温かく見守る」も通用しない。なにしろ相手は必殺の最終兵器なのだから。母親でない身としては、ただ祈り、警報が解除されるのを待つしかないのである。合掌。(∩.∩)

□子供の声2

Cat  しかし、一方で「(快適なときに)正常に発声される子供の声」というのは、その逆の破壊力を持っている。こちらはもうひたすら「カワイイ」のである。これは子猫や小鳥の声も同様なのだが、やはり「高音の澄んだ声」というのがポイントだろうか。

 男性の野太い低い声は、ある種の威圧感を感じる。明らかに自分より大きな体躯の身体から発せられる声…というのは、本能的に「やすらぐ」というようりは「身構える」という反応を生む。もちろん大きな力を感じさせるゆえに、優しくその声に抱かれることは「安心感」というのも生むわけなのだが。

 

 その点、明らかに細く華奢な声帯から発せられる「声」は、なんというか「癒やされる」。そういうものが存在する(存在できる)という場は、きわめて平穏で危険度ゼロの状況な訳であり、それが「癒やし」の度を高めることもあるのだろう。

 日本には「カワイイ」という不思議で万能なことばがあって、あきらかに保護に値するか弱さと愛くるしさを兼ね備えた存在を、こう定義するようだ。

□初音ミク

Miku  2007年に登場したボーカロイドソフト「初音ミク」は、その架空のかわいさが現実世界に舞い降りてきた不思議な例と言えるかも知れない。

 もともとは「ことば」をサンプリングし、音程を与えて発声させるボーカル・シンセサイザー。サンプリングする言葉の素材にアニメ声の声優を使い、それを架空のキャラクターとして擬人化してしまうという発想まではアリだが、それがネットの世界で拡散し、現実の歌姫以上の人気を博してしまったという点は、きわめて興味深い現象だ。

 そもそも昔から日本のサイバー空間(コンピュータ世界)には「女の子」が住み着いていた。

Racter  これは日本特有の現象であり、アメリカは「男」だ。元祖Macintosh時代の会話AIソフトのRacterも、デスクトップでしゃべるトナカイ(Talking Moose)も男の声。SF「2001年宇宙の旅」のコンピュータHALも男声だった。

 対して、日本は・・・どうも昔からネットの中には「女の子」ばかりが浮遊していた気がする。アトムもどこか少女っぽいキャラだし、ネットの黎明期にはデスクトップにしてもイラストにしても(アダルト界にしても)「大人でない女の子」があふれていた。

 まあ、当時はコンピュータを操作する90%以上が20~30代の男性だったろうから、彼らの「夢の世界」には「女性」が必須だったのだろう。

 しかし、それが(水着の)成人女性でなく、(ティンカーベル系の)「少女」であるのは、日本独自の感性としか言いようがない。その結果、日本男子(特に理工科系)の「カワイイ」もの好きは、世界に冠たる不思議な文化(オタク文化)を生んだ気がする。(さしずめ私などがその第一世代なのだろうけれど)

□イーハトーヴ交響曲

Tomitais  その電子の歌姫:初音ミク嬢がオーケストラとの共演を果たしたのが、今年の11月末。その一瞬を見に(聞きに)東京オペラシティに冨田勲「イーハトーヴ交響曲」初演の舞台に伺った。

 

 当日、会場には「シンセサイザーのTOMITAファン」「オーケストラの冨田勲ファン」「宮澤賢治ファン」「初音ミク嬢のファン」という…最低でも4種類の客層がひしめいていて(オーケストラのコンサートらしからぬ)不思議な雰囲気だった。

 なにしろ、TOMITA&ミクファンはおそらく「オーケストラ(それどころかクラシック)のコンサートなど初めて」、賢治&クラシックファンは「初音ミク?何それ?」のはず。「これは、彼らすべてを満足させるのは並大抵ではないだろうなあ」という緊張感を会場前はひしひしと感じた。

 しかし、曲が始まると、そんな心配は杞憂に終わった。

 賢治ファンにとっては、まず冒頭で子供たちが歌い始める(賢治作曲の)「種山ヶ原の歌」(♪たねやまがはらの)や銀河鉄道の夜のシーンで聞こえる「星めぐりの歌」(♪あかいめだまのさそり・・)、そしてコーラスで歌われる「雨ニモ負ケズ」の章で、もう泣けて泣けてたまらない。

 そして、大河ドラマや「ジャングル大帝」などでの冨田さんの往年のオーケストラサウンドを目当てに来たクラシック音楽ファンにとっては、全編にわたる(少しロシア風味も加えた)壮大なオーケストラ語法に酔いしれつつ、「剣舞」で引用されるダンディ(フランス山人の歌による交響曲)のメロディや、「銀河鉄道」のシーン(ステージ一面に星がきらめく場面)で引用されるラフマニノフ(交響曲第2番第3楽章の甘美なメロディ!)に,ハッとしながらも魅了されたに違いない。

 さらに、ひたすら初音ミク嬢目当てだけに来た観客も、彼女が背景のスクリーンにぽっかり浮かびながら、「注文の多い料理店」「銀河鉄道の夜」から「エピローグ」そしてアンコールの「リボンの騎士」を熱唱し歌い踊る姿には充分満足しただろう。

 また、シンセサイザーのTOMITA目当てに来た聴衆は、この初音ミク嬢の歌と映像を動かしている最新システムに刮目しつつ、「どういう仕組みになっているのか?」と舞台上のキーボーディストとオペレーターを目を皿のようにして見入っていたはず。

 おかげでこの4つすべてに反応した私などは40分ドキドキわくわくしっぱなしだった。このサービス精神の豊かさと、音楽素材に対する見事なバランス感覚には、本当に頭が下がる。

 こういうことがまだ「オーケストラのコンサート」でありうるのだという事実と、日本はこういう素晴らしい作曲家を持っているのだ、という誇りとで実に豊かな気分にさせてくれた一夜だった。

□賢治とシベリウス

Kenji02  ちなみに「イーハトーヴ」は,宮澤賢治がエスペラント語風に洒落て見せた「岩手」のこと。賢治は、とことん土着的で民族的な物語を指向しながら、自分の描く物語を「イーハトーヴ童話」と呼ぶなど、なぜかハイカラ趣味(西洋趣味。現代風に言うなら「厨二病」か)なのが面白い。

 なにしろ「銀河鉄道の夜」では主人公の名前がジョバンニにカンパネルラとなぜかイタリア風だし、「注文の多い料理店」で山猫に食われそうになる紳士2人はイギリス風。北上川のほとりを勝手にイギリス海岸と命名したり、童話の中にもケンタウルス祭とかアルビレオなど星の名前や,モリブデンあるいはトパーズなど鉱物の名前をちりばめたりと、不思議な無国籍性を醸し出している。このあたりはユニークな世界観だ。

 このような民族的な要素が作曲家のイマジネーションを喚起させて生まれた近代の音楽というと、やはりシベリウスを思い出すのだが、若き日にベルリンやウィーンなどに留学し「ドイツ風」の音楽を身につけて帰ってきたわりには、その音楽は最初の一音から色濃く北欧の土の香りがするのが面白い。

 留学から帰ってきて最初に発表したのが、自国の民族叙事詩「カレワラ」(日本で言えば「古事記」)を題材にした「クレルヴォ交響曲」(全5楽章からなる独唱&合唱を伴う80分ほどの大作)。クレルヴォは古事記で言うなら大国主命(おおくにぬしのみこと)あたりのイメージか。

 その後も、「レミンカイネン組曲」(「トゥオネラの白鳥」を含む)や「ポヒョラの娘」「ルオンノタール(大気の乙女)」「オセアニデス(波の娘)」「タピオラ(森の精)」など「カレワラ」を題材とした作品を生涯にわたって書いている。

 日本では、山田耕筰が、シベリウスから20年ほど遅れてドイツ留学した組。

 日本最初の交響曲と言われる「勝ちどきと平和」を初め、多くの作品を残しているが、残念ながら時代が既に「近代」(そして戦時)色が強くなっていたせいか、描く「日本」が・・・「黒船」「明治頌歌」とか「神風」とか・・・今聴くとちょっと惜しい方向だ。

 おそらく「日本神話」どころではなかったのだろうが、「古事記」あたりに因んだ名作を残してくれなかったのがちょっと残念ではある。そんな「日本音楽史のミッシングリンク(失われた環)」を埋めてくれたのが,今回の冨田勲氏の「イーハトーヴ交響曲」と言えるだろうか。

 余談ながら、シベリウスが初音ミクを知っていたら「ポヒョラの娘」とか「ルオンノタール」で使っていたかも知れない…などという妄想も、(もちろん全くあり得ない空想だが)ちょっと楽しい。(いや、「ルオンノタール」など本当にソプラノパートをミク嬢に歌わせてみたくなるほどなのだ)

□マーラーとシベリウス

Jean02

 それにしても、冬、寒くなるとシベリウスが聞きたくなる。

 これは、マーラーが夏に聴きたくなるのと対照的だ。ちなみに、シベリウスは北欧フィンランドのヤルヴェンパーで作曲にいそしみ、マーラーの方は指揮稼業が休みの夏の間にウィーン郊外の避暑地で作曲している。前者に冷たい冬の大気、後者に夏の涼風を感じるのはそのせいだろうか。

 このマーラー(1860~1911)とシベリウス(1865~1957),実はほぼ同世代だ。十九世紀末に音楽を志し、二十世紀初めに交響曲を創作の軸として作曲を進めていた点でもかなり似たもの同士と言える。

 ただし、出会ったタイミングはあまり良くない。マーラーは「第8番(千人の交響曲)」を書いているときで「交響曲は全宇宙が共振するような巨大で壮麗なものでなくてはならない」という巨大&肥大化の真っ最中。

 一方のシベリウスは一番コンパクトで洗練された「第4番」を書いているときで「交響曲はとにかく有機的で無駄な音が一音もないような凝縮されたものでなければならない」という縮小&凝縮化の真っ最中。これでは話が合うわけがない。

 もうちょっと前、ちょうど20世紀になった頃(シベリウスが第2番,マーラーが第4番を書いていた頃)だったら,このロマン派最後の二人の巨匠は友好な関係を築けたかも知れない。そして、お互いの作品を指揮し合ったり紹介し合ったりもしたかと思うと・・残念なようなもったいないような気持ちになる。

 さらに、当時東北屈指のクラシック音楽マニアで、レコードを収集しまくっていた賢治が、もしシベリウスの「フィンランディア」や「交響曲第1番」(あるいはマーラーの「巨人」でもいい)を聴いていたら…というのも,昔から夢見るヴィジョンだ。

 シベリウス後期の第6番に「銀河鉄道の夜」のイメージを感じるのと同じように、初期の交響詩などには、賢治の「春と修羅」のような土俗的ダイナミズムと青春のたぎる血を感じるし、タピオラ、カレワラ、クレルヴォ、レミンカイネン、トゥオネラなどなど、シベリウスの曲は賢治が好きそうな言葉の響きがいっぱいだ。賢治がシベリウスを聴いていたら、どういう「ことば」を残しただろう?

□シベリウスとビートルズ

Beatles  突然、話は変わるが、今年(2012年)はビートルズがデビューして50周年なのだそうだ。そこで、FMで特集番組が企画され,先日ゲスト出演して「ビートルズとクラシック音楽(あるいは現代音楽)」について話す機会があった。

 その番組の中で、「ビートルズの曲の中で最も現代音楽よりな一曲」として「レヴォルーションNo.9」という曲をかけたのだが、これは2枚組ホワイトアルバム(1968)の中でジョン・レノンが制作したミュージック・コンクレート風の作品。

 8分半に及ぶ長さの作品で、「No.9(Number Nine)」と呟く声がループで流れる中、会話や逆回転による様々な現実音、オーケストラサウンド、赤ん坊の泣き声などがコラージュされたもの。(赤ん坊の泣き声が「音楽」に組み込まれたのは、これが初めてだろうか)。個人的には,ビートルズの中で一番嫌いな曲だが、このノイジーさがたまらないという人もいるそうなので、感じ方は色々だ。

 それでも、おそらく「ミュージック・コンクレート作品」としては元祖シェーファー&アンリやシュトックハウゼンらの曲の数万倍(数百万倍?)の聞き手が聴いていることになる。もしかしたらこれ一曲が前衛音楽の時代を代表してしまう可能性すらある逸品だ。(そしてこの延長線上に、ピンクフロイドの不朽の名作「狂気」(1973)がある)。

 今回この曲を改めて聞いていて、2:15前後にシベリウスの第7番が一瞬鳴り響くのを発見した。コーダでハ長調の和音が鳴り響く部分がインサートされているのである。うーん、シベリウスとビートルズの交点がこんなところにあったとは。

 しかし、考えてみれば、ビートルズの出身地リバプールは、シベリウスの時代にはイギリス最大の貿易港だった街。シベリウスもおそらくイギリス公演などでは(ロンドンではなく)リバプール経由で訪英したと思われる。

 実際、首都ロンドンよりマンチェスター(バルビローリ率いるハルレ管弦楽団の本拠地)などにシベリウスを得意とするオーケストラが集中していることもあり、ビートルズのメンバーも意外やシベリウスは耳馴染みだったのかも知れない…と想像すると楽しいが、さて、どうなのだろう?。

□アビーロードとフィルハーモニア管弦楽団

Abbeyroad  一方、ロンドンでそのビートルズお馴染みの場所と言ったら,なんと言ってもアビーロードスタジオである。彼らの最後のアルバム「アビーロード」で、メンバー4人がスタジオの前の横断歩道を渡る写真がジャケットで使われ,世界で最も有名なスタジオになった。

 実は自慢ではないが(もとい…ちょっと自慢するが),このアビーロードスタジオで作品を録音したことがある。「サイバーバード協奏曲」である。

 1996年4月。人気実力ともに急上昇の須川展也氏の初の「コンチェルト・アルバム」が企画され、彼の当時の所属レコード会社が「東芝EMI」だったことから、EMI繋がりで本家イギリスのアビーロード・スタジオでの海外録音に決定。D.パリィ指揮のフィルハーモニア管弦楽団という凄いメンツでの収録となった。

 個人的には(いや、奏者もスタッフたちも皆),もう完全におのぼりさん状態で「うわ~アビーロードスタジオだぁ」と舞い上がっていたような気がする。

Studio  ロンドンのちょっと外れにあるここは、レコード会社(EMI)専属の録音スタジオ。オーケストラを収録するのは一番大きな〈スタジオ1〉で、エルガーやビーチャムやバルビローリなど多くの名指揮者たちが名盤を残した場所である。


 そして、ビートルズがセッションを行ったのが中型の〈スタジオ2〉。勿論見学させてもらったが、ここでピンクフロイドも「原子心母」から「狂気」に至るほとんどのアルバムを制作しているわけで、ファンにとっては文字通りの「聖地」。「おおおおおおおお!」としか声が出なかった(笑)

 とは言え、その時共演した《フィルハーモニア管弦楽団》の方も、オーケストラファンからすれば「おおおお!」というレベルの一流オーケストラである。戦後フルトヴェングラー、クレンペラー、カラヤンがEMIに残した往年の名盤はみなこの「フィルハーモニア管弦楽団」のクレジットが残る名門中の名門。

 一時(60~70年代)ニュー・フィルハーモニア管弦楽団と改称されていた時期もあったが、ムーティが指揮者に就任してから元に戻り、その後シノーポリ,ドホナーニを経て,現在はシベリウスと同郷フィンランドの指揮者エサ=ペッカ・サロネンが指揮者を務めている。

□さいごに

 しかし、〈スタジオ1〉でオーケストラがシベリウスやマーラーなどを録音しているすぐ横のスタジオで、ビートルズやピンクフロイドが当時最先端の電気機材を扱って新しいアルバムを作っていたことを想像すると、本当にわくわくするし、考えてみるとそのコントラストは実に面白い。

 先の「イーハトーヴ交響曲」で、オーケストラで賢治の詩が歌われる中にデジタル時代の歌姫〈初音ミク〉が登場するのも不思議な事件だったが、作曲家やミュージシャンたちはいつだってそういう「不思議な組み合わせ」の中に新しい道を模索してきたと言うことなのだろう。

 人間が生み出す「音」というのは、最高に美しく心地よい「音楽」から、最高にノイジーな「音響兵器」まで多種多彩だ。

 しかし、それらはすべて「人間」だからこそ感じる「音への感覚」。心地よいものも不快なものも、等しく「人間の証し」として受け入れるべきなのだろう。

 感じるからこそ「人間」なのだ、とあきらめて……もとい、噛みしめて。

       *

エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団 詳細

Salonen 2013年2月8日(金) 19:00 サントリーホール

ベートーヴェン:劇付随音楽「シュテファン王」序曲

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番 (p:レイフ・オヴェ・アンスネス)

マーラー:交響曲第1番「巨人」

2013年2月10日(日)14:00 東京芸術劇場

シベリウス:交響詩「ポヒョラの娘」

シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(vn:諏訪内晶子)

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」

エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

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コメント

ミクが歌う『ルオンノタール』は既にありますね。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11801216

投稿: 吉田恭 | 2012/12/11 22:28

サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団
曲目:シベリウス交響詩「ルオンノタール」
ソプラノ:初音ミク
というコンサートが実現するのはいつ?

投稿: semi | 2012/12/11 23:43

「フーガの技法」をミクさんは既に歌っていますが、もう少し耳当りのいい調整を誰かがしてくれないかなあ。

投稿: Shino | 2012/12/12 23:20

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

投稿: 事務の職務経歴書 | 2012/12/13 13:59

「ルオンノタール」聞いてみました。
カレワラでの、かのストーリィは知っていましたが、ミクさんの声で歌われると…やはり、ミクさんは「天使」に違いないのだな…という想いを新たにしましたww

投稿: Ryahs | 2012/12/14 04:11

この記事には直接関係がなくてすみません。一年間続いた「平清盛」。最終回に至ってやはり音楽の力を再認識させられました。清盛の死の場面で使われた「決意」の曲です。この音楽が死の場面に使われたのは源義朝と清盛だけでした。最終回には画面の上では義朝は登場しませんでしたが、この音楽を聴いて、やはり二人は同じ志を持つ者だったのだ、清盛は武士として死んだのだと思いました。
 画面に表れていないことも感じさせる音楽。すごいと思います。総集編の音楽はまた新たにつけられたのでしょうか。本当に吉松さんが清盛の音楽を担当してくださってよかったです。

投稿: 西口夏子 | 2013/01/03 20:10

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