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2013/03/10

音楽家(作曲家)になるには・なれれば・なれたら

Cut

作曲家を40年近くやっていると、「音楽家(作曲家)になるにはどうしたらいいでしょう?」と若い人から聞かれることがままある。

もしもそれが「演奏家」の場合は、物心ついたら楽器を演奏していて、日々何も考えることなくひたすら練習と演奏に明け暮れ、気が付いたらなっていたというものだと思う。「どうしたらなれるか?」と考えるヒマがある、という時点で(きつい言い方をすれば)演奏家への道はないと考えていい。

一方、それが「作曲家」の場合は・・・そもそも最初から「作曲家になりたい」と思うことは極めて稀。普通は「演奏」のレッスンに明け暮れるうち、「演奏家になるのは無理かも知れない」という挫折から起きることが多い(らしい)。

ベートーヴェンは耳が聞こえにくくなったことから、シューマンは手を痛めたことから、シベリウスは人前であがることに気付いてから、それぞれ演奏家の道を断念して、作曲家の道に「転向」している。

そもそも、ロマン派以降のベルリオーズやチャイコフスキーやワーグナーからマーラーやシェーンベルクやストラヴィンスキー(それに私)に至るまでほとんどすべての作曲家たちは、音楽を勉強し始めるのが遅すぎて「演奏家」を断念、結果、作曲家の道に進んだ口のような気がする。

とは言っても「演奏家になれるどうか」は「やってみなければ分からないじゃないか」とおっしゃる向きもあるだろうか。

しかし、とある演奏家に聞いた話では、「実は、最初の数音を聴けば、その子に〈演奏家になる才能〉があるかないかはすぐ分かる」と言う。

もちろん、指が廻りさえすれば演奏稼業で食べていくことは可能だから、「プロの演奏家」になることは出来る。しかし、一人の「アーティスト」として生きていけるかどうかは、センスの問題であり、そればっかりは「持って生まれた才能」なのだそうだ。

じゃあ、それがない場合、はっきり「キミには才能がない」と言うのですか?と聞いたら・・・(才能があってもなくても、お月謝を持ってくる生徒ですからと笑いつつも)「言わないですね。いや、言えないですよ」と言う。

そして、そういう場合は、「演奏じゃなくて作曲か指揮に進んだら?」とアドバイスするのだとか。作曲家の身としてはビックリ仰天だがまあ、分からないでもないので困ったモノである(笑)。

なんだか「音楽家」のヒエラルキー(階級制)みたいだが、さしあたり最上級が「演奏家」。それになり損なったのが「作曲家」。それにもなり損なったのが「指揮者」。それにもなり損なったのが「評論家」になるということらしい(笑)

Ndm一万時間の法則

ちなみに、音楽家になるためにどのくらいの訓練をしなければならないかというと、「一万時間の法則」という話がある。

音楽でも語学でもスポーツでも何でも、ひとつのことをモノにするには膨大な練習・鍛錬・訓練が必要。スケート靴をはいた日に三回転半ジャンプは飛べないし、ピアノに触ったその日にショパンは弾けない。

そこで最初は「まねる」ことから始め、とにかく懸命に日々鍛錬する。それが臨界に達すると、あるときフッと「自分の身に付く」境地に達する。

その鍛錬の時間を総合すると(モーツァルトでもピカソでもマイケル・ジャクソンでも)「約一万時間」だというのである。

ちなみに、これは一日8時間、休まず一年365日努力鍛錬して約3年半、 一日6時間なら4年半という数字である。そして、一日1時間しかやらない場合は27年半ほどかかる計算になる。

何となく納得しそうになる数字だ。

私の場合を思い出してみると、高校時代に音楽を始めた頃は、毎日6時間ほど(学校から帰って夕方5時から夜1時まで8時間、うち食事と学校の勉強とに2時間)、大学をやめてからは最低でも毎日12時間ほど(午前10時頃に起きて夜中の3~4時頃まで)はがっつり音楽に明け暮れていた。もちろん土日も夏休みも正月休みもない。

それでも、作曲家デビューするまでに7年・・・ということは計3万時間ほど、交響曲を書いて発表出来るようになるまで20年弱・・・こちらは計8万時間ほどかかっているから・・・あまり参考にはならないかも知れない(笑)

17 ただ、この説を説く人が「一日6時間週5日として6年半」という計算を語ったとき、ちょっと「胡散臭い」と思ったことを告白しておく。「土日を休む?」申し訳ないが、音楽の鍛錬にそれは有り得ない。

確かに「仕事」は休みが必要かも知れないが、「生きる営み」に属するものは例えば「呼吸」にしろ「食事」にしろ「子育て」にしろ「農作物作り」にしろ、「休みなし」が基本。「音楽」も同じだ。空気を吸ったり食べ物を食べるのに「週2日の休み」を取る人など聞いたことがない。そもそも「休む」という意味が分からない。

落語だかで、「1年間禁煙をします」と宣言して挫折し、「代わりに一日おきに吸って、2年間禁煙することにしました」というジョークがあるが、「毎日勉強します」と言っておいて「土日は休む」というのは、同じレベルのジョークかも知れない。

昔あるピアニストが言っていたが、練習を1日休むと(腕の衰えが)「自分」に分かる、2日休むと「聴衆」に分かる、3日休むと取り返しが付かない。のだそうだ。

私も、14歳の冬に音楽に目覚めてから、50の坂を越えるまで「土日に休む」などという発想をしたことがない。(50を越えてからは、しっかり休むようになったけれど(笑)。なにしろ、1日作曲を怠ると3日取り戻せない、2日休むと1週間は元に戻らない、3日休むと取り返しが付かない。これは実感だ。

というようなことを昔、音大の作曲科出の先輩と話していたとき、ふと「え?じゃあ、キミは毎日作曲をやっているの?」と聞かれて心底驚いたことがある。「え?じゃあ、あなたは毎日作曲してないんですか?」と聞き直したほどだ。申し訳ないが、毎日作曲をしていない人が作曲家を目指す意味が分からない。

08 よく、音楽を志すのに「音楽が好きだから」と言う。

しかし、どの程度「好き」なのかには温度差がある。「週に1度は必ず音楽をやりたくなります」などという「好き」のレベルは単なる「趣味」。

「毎日必ず」「でも土日は休み」ならアマチュア・レベル(ただ、音楽を「楽しむ」ならこの辺がお薦めだ)。

「毎日毎日寸暇を惜しんで休みなく(あるいは24時間でも足りないくらい)」でようやく音楽家を目指すレベルの「好き」だと言える。

しかも、これは「一所懸命」でも「努力」でもない。

毎日食べたり飲んだり空気を吸ったりするのを「一所懸命」やるわけではない。同じように、毎日休まず音楽をやるのは「生きるのと同じ」であって、それが「自然」だからだ。

もし「土日はしっかり休みます」という人が子育てとか農作物作りを始めたら・・・いや、考えるだに怖ろしいが・・・それはやめた方がいい。「音楽」も同じだ。

向き不向き

もうひとつ、《職業としての音楽家》を選ぶ場合、性格的な点で向き不向きがある(ような気がする)。

音楽家への入口に立った時、誰もが一度は「音楽の才能があるかないか」で悩む。しかし、実際に音楽家になってみると、「才能の有る無し」が問題になるのは、本当に最後の最後だ。確かに、天才は100点を取る。しかし、凡人でも99点は取れる。

もちろん、その差は埋めようもなく大きいのだが・・・実を言うと、その差は、まず普通の人には分からない(笑)。

ということは、音楽家としてやっていくには、才能より何より、ある種の「性格」的な条件があるわけなのだ。

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まず、演奏家に必要なのは、才能より何より「強さ」である。

演奏家というのは、「繊細さ」の塊のように見えるが、実は、「図太さ」が不可欠。何百人何千人という人が集まっているホールの舞台にのこのこ出て行って、一人で(会ったこともない知らない人が書いた音楽を)自分の音楽のような顔をして演奏する。これはもう図太くなければ絶対出来ない。(いや、皮肉でなく)

しかも、自分の家で一人で楽器を弾いているだけでは「音楽家」ではない。「外」に出て行き、知らない街に行って知らないホールで知らない人を相手に一晩の音楽を供給しなければならない。そこでの頼りは「自分の腕」だけだ。

時には、知らない楽器(主にピアノ)を「はい」と渡されて、それで一晩の音楽を自分のものにしなければならない。楽器が壊れていようが調律が狂っていようが、そんなことは聞いている人には分からない。とにかく一人で音楽を「何とかしなければならない」。

01_2 しかも、音楽家として独り立ちすると、「批評(ヘタだ、つまらない、退屈だ、なってない、などなど)」に晒され、聴衆の少なさやチケットの売り上げに落ち込み、天候や時差による体調不良や寝不足に悩まされ、見知らぬ土地の水や食べ物が身体に合わず苦しみ、それはもうさまざまなストレスに苛まれるわけなのだ。

それを乗り越えて「音楽家」をやってゆくには、「神経の強さ」「運の強さ」「身体の強さ」(あるいは「呑気さ」「無頓着さ」「物忘れの早さ」何でもいい)「強さ」が絶対不可欠だ。「音楽」の才能が問われるのはそのあとなのである。

そのことについて、以前、ピアニスト舘野泉さんが(笑いながら)こんなことをおっしゃっていた。ピアニストは、まず「何でも食べられること」「いつでもどこでも寝られること」。ついでに「才能があればそれに越したことはない」。

とは言え、何でも食べられて、どこでも寝られる人がみんな音楽家になれるわけではないので、これはやはり「才能が大事」ということになるだろうか。額面通り受け取ってはいけないのかも知れない。

より早く、より多く

10 一方、作曲家の場合はと言うと・・・家で一人で書いてもいいし外に出なくてもいいので、食べる寝るに関しては弱くても不健康でもいい(ような気がする)が、似たような性格的条件がある。

それは、「頭の良さ」(賢さというより、クレバーさ、頭の回転の速さ)だ。なぜなら「仕事としての作曲」の場合、とにかく「早く書くこと」「量を書くこと」が求められるからだ。

ここで「仕事としての作曲」というのは、要するにコンサートや舞台や映画や放送での「音楽」を供給する行為である。

その場合、上演や放送や上映や録音などのスケジュールの中で、「音楽を作る」作業に裂かれる時間は本当に僅かだ。作曲家が曲を書くまで何週間や何ヶ月も(何もせずぼーっと)待ってくれるような業界はまずない。

コンサートや舞台なら、制作に数ヶ月ということもあるが、放送などで音楽を制作する時間は余裕があっても二週間、ひどい時は「三日で」とか「翌日までに」ということすらある。なので、まず早く書けないことには仕事にならない。

さらに、量も求められる。「考えに考え抜かれた1曲」を時間かけて待ってくれるのは相当「巨匠」になってからの話。テレビでは30分から1時間、映画や舞台では1時間半から2時間ほどの尺の空間に付ける音楽おおよそ十数曲から数十曲を、(上記のような短い時間で)即座に供給しなければならない。

また、ポップスなどでは、数曲あるいは10曲以上を色々な作家に作らせてみて、その中から「一曲」を選び出すことが多い。一曲が世に出るために数十曲のダミー(替え玉)が闇に消えてゆくことすらある。「下手な鉄砲も数撃ちゃあたる」というが、とにかく「数撃つ」のである。そこで必要となるのは、まずは「早さ」。そして(質より)「量」なのである。

ただし、早く・たくさん書いた後、そこに「才能」の片鱗がなければ、次の仕事は来ない。ここでも、実は「そのあと」こそがポイントになるわけではあるのだが・・・。

一方、早くもなく量もない「純音楽は?」というと、これは一曲に何年かかってもいいし、一生かけて1曲だけ書くのも自由だ。自分の中で納得できる「質」だけを頼りに、どんなに時間をかけても、手間暇かけても、膨大な費用をかけてもいい。

しかし、致命的なのは「これは〈仕事〉ではない」ということだ。報酬はもちろんゼロだし、演奏される保証もゼロ。生きるも死ぬもすべて「自己責任」である。

キミ、書いてみない?

09 それでも、作曲家への道を歩み始めると必ず聞く魔法の言葉がある。

それは「キミ、書いてみない?」という言葉である。

指揮者でも、最も多いデビューのパターンは、先輩格の指揮者が病気や多忙で指揮できなくなり「キミ、(代わりに)振ってみない?」と言われること(だそうだ)。もちろん、ほとんどの場合「急に」来るので考えているヒマはない。

作曲の仕事も同じで、あるとき突然「キミ、書いてみない?」と言われる。例えば、音楽大学に通っていれば、演奏科の学生からリサイタル用の新しい曲を「キミ、書いてみない?」と頼まれる。作曲科の先生のところに出入りして楽譜書きの手伝いなどをしているうち、「ちょっとキミ書いてみない?」と仕事を回される。先輩や知り合いのミュージシャンのツテでスタジオやテレビ局などに出入りしていると、そこにいたプロデューサーから「キミ、書いてみない?」と言われる。

歴史的な大成功例としては、バレエ曲を頼んでいた別の作曲家の仕事が間に合わなくて、全くの新人なのに「キミ、書いてみない?」と声をかけられたストラヴィンスキーか。この時、突貫工事で作曲した「火の鳥」で一躍人気作曲家の仲間入りをしているから、彼にとっては本当に魔法の言葉だ。

かくいう私も、最初のデビュー曲(「忘れっぽい天使」というハーモニカとピアノの小品)は、ハーモニカ(崎元譲さん)のリサイタルを企画したプロデューサーに「キミ、書いてみない?」と言われたのがきっかけだった。

その後も、交響曲からポップスそしてイギリスでのCDの話から大河ドラマに至るまで、「仕事としての作曲」は基本的にほとんどすべて(突然思いもかけない方向から聞こえて来た)「キミ、書いてみない?」という声から始まっている。

問題は、それがいつどこからかかるか分からないこと(笑)

そして、その声は常に「突然」であり、待ってくれないということ。声をかけられたら(考える間もなく)即座に「書きます」と返事しなければ、二度目はない。

さらに、こちらから声をかけることは出来ず、声がかかるまではひたすら(一万時間以上の)無私の鍛錬が必要だと言うこと。

そして、声がかけられても、それをモノにするかどうかは本人の力次第だということ。

残念ながら「黙っていい曲を書いていれば、いつかきっと理解してくれる人が現れる」というのは「いつか白馬に乗った王子様が現れる」という以上の見果てぬ「夢」でしかない。かと言って、何もせず家にじっとしていて突然「交響曲を書いてみない?」とか「大河ドラマの音楽を書いてみない?」と言われる確率は、どう考えても0%だ。

よく「運命の神は前髪しかないので、通り過ぎてから(後ろ髪を)掴むことは出来ない」という。しかも、運命の神は毎日あちこちに現れるわけではないし、それどころか一生に一度現れるかどうかも分からない。そもそも現れたとしても、それが運命の神だと分かる保証はない。

しかし、運命の神は・・・来るのを「待つ」しかない。

しかも、ただ「待っている」だけの人間のところにはやって来ない。(と言うより、来ても分からない)。

ひたすら努力を怠らなければ、もしかしたら「一万時間め」にふらりと来るのかも知れない。それは、人によっては「八千時間め」かも知れないし、もしかしたら「八万時間め」かも知れない。なにしろ「来た!」と思ったら、迷わず前髪をひっつかむしかない。

それは「運命の神」であることもあるけれど、残念ながらただの「貧乏神」であることもある。それでも、掴んでみなければわからない。こればっかりは「運」であって、だからこそ「運命の神」なのである。

スタジオ哀歌

04_2 さて、ここで昔話(余談)を少し。

音楽の才能の片鱗を見せると、最初に食いついてくるのは、実はポップスの仕事だ。クラシックはその点、反応(才能を活用する力)が本当に鈍い。(ヘタすると、才能を見出される前に死んでしまう。それはもう絶望的な「鈍さ」である)

対してポピュラー音楽界(広く放送業界やゲームなどのメディア業界も含む)は、才能の片鱗がちょっとでもあれば、音大に1年も通わないうちに(キミ、書いてみない?と)「声」がかかる。声がかからないまま卒業してクラシックの現代音楽界などに進むというのは、よほど「才能がない」証拠と言っていい(笑)。

私のように「独学」で人付き合いほぼゼロの人間が「作曲家の卵」をやっていた頃でも、何回かは「声」をかけられた経験がある。そして、それによって不思議な仕事をずいぶん経験したものである。(と少し遠い目になったりする)

それは、経歴にも書けないようなマイナーな仕事ばかりだが自主制作の記録映画に付ける音楽だったり、テレビ番組用のポップス曲の作詩作曲だったり、海外公演するミュージカルの曲だったり、邦楽プレイヤーが海外にデモ用に持って行くレコードのサンプル曲だったり、なにやらダンスを踊る健康ビデオの音楽だったり、良く知らない会社のCMの音楽だったり、アマチュア合唱団が歌う合唱曲のアレンジだったり、…それはもう色々だ。

私の場合は、「クラシック音楽界での作曲」に意固地にこだわっていたため、そこから「次」に進まず単発でほとんど断ってしまった。しかし、「日銭を稼ぐ仕事」と割り切って(早く多くをモットーに)仕事を続けていれば、今頃は立派な「ポピュラー音楽界(あるいはテレビ界)の巨匠」になっていたかも知れない(笑)。

先輩作曲家から聞いた話では、テレビ黎明期の60年代頃には、テレビ局の通路に「劇判通り」というような一角があって、いつも作曲家や演奏家がたむろしていたそうだ。

そこに座ってタバコでも吸っていると、プロデューサーがふらりとやって来て「あ、ちょうどよかった。キミ、明日までにテーマ曲書いて」と注文され、編成はその場所にいたミュージシャンを指して「この人とこの人とでお願い」と、さっさとスタジオや録音の段取りが決まってしまったのだとか。

私がスタジオワークを体験した80年代頃は、そこまで軽いノリではなかったが、それでも「作曲家です」と名乗ると、「キミ、書いてみない?」というのは(「そのうち一杯、飲みに行かない」というのと同じような社交辞令?として)年中耳にした。

Semi05_2 作曲家でもそんなだから、そこそこ腕の立つミュージシャンともなると、仕事は溢れているように見えた。スタジオで録音していて「ここにサックス欲しいね」とか「キイボードでおかず入れよう」とかプロデューサー(なり作曲家なり)が言い出せば、夜中でも何でも電話で呼び出す。

で、急に呼び出されて、すぐスタジオに入って譜面渡されて(と言ってもコードネームしか書いていないメモみたいなもの)すぐ「はい、本番」みたいな感じである。

スタジオやギャラの計算はどうやら「30分」とか「15分」刻みだったらしく、1人ミュージシャンを呼んで「15分」が基本。何の曲かも知らず「とにかく音出して」とマイクの前に立たされて、「はい、テイク1」、「もうちょっとカッチリした感じで、テイク2」、「今度はラフな感じで、テイク3」などと録ってゆく。

終わって「はい、ご苦労さま」「またお願いします」とにこやかな会話があったとしても、本人には聞こえない金魚鉢(プロデューサーや作曲家のいる録音&ミキシングルーム。ガラスの中で声が聞こえないので「金魚鉢」という)の中では「これは使えないな」「誰か他にいる?」などというような冷たい会話も飛び交う。

それでも、15分とか30分で数万数十万のギャラが出ることもあるので、スタジオを飛び回る売れっ子になると、結構なギャラになる。当時、音楽大学を出たばかりのような歳で月に軽く数百万かせぎ、高級外車を乗り回す猛者もいた。

ただ、どんな時間(夜中の2時3時に呼び出されることもある)でも断らないのが基本なので、かなりキツイ仕事と言えば言える。ちょっと売れっ子になると「今日はちょっと」と休みたくなるのが人情だが、断ると、金魚鉢の奥で「だめだってさ」「あいつこの頃、使いにくいな」「もっと若くて使えるのいる?」というような話になり、別の若手に仕事が回り、知らない間に声がかからなくなる。

03 なので、仕事をバリバリやって「売れっ子ミュージシャン」になり収入が増えて、「これで安心」とばかりにマンション買って車を買って結婚して・・・その途端に仕事が激減してマンションも車も売って離婚して・・・という哀しい話も何度か聞いたことがある。

当時は、シンセサイザーやキイボードで「新しいサウンド」を作るのが流行っていた時代だったので、キイボード奏者は、誰もまだ持っていない新しい機械(キイボードやシンセモジュールなど)を持っていると良く声がかかった。数百万の投資をして導入しても、うまく仕事が回転すればほんの数ヶ月で元が取れた。

しかし、プロデューサーやアレンジャーに「ほら、XXのアルバムのイントロみたいな音」とか「XXXのCMのエンディングっぽくてでもパクってるとは気付かれないような音」とか言われて「はい」とすぐに出さなければならないのだから、相当のスキルがないと出来ない。(「ちょっと待って下さい」などと言って時間がかかるようだと、「もういいよ」になってしまうのである)

なので「キイボーディスト」を呼ぶと、キイボード奏者(鍵盤を弾くの専門)にマニュピレーター(機械を操作して音を作る専門)が付いて二人ひと組でやって来ることが多かった。だからといってギャラが2倍出るわけではないので、相当量の仕事をこなす必要があったに違いない。

しかも、この業界、流行り廃りが早いので、どんな新しいサウンドも、半年(酷いときはひと月)たてばもう「古い」と言われる。「もっと新しい機材を持っている若手」が登場すれば、シビアにそちらに仕事が流れる。なかなか怖い世界だった・・・のだが最近はどうなのだろう。閑話休題。

音楽家への道

13 さて、何の話をしていたのか分からなくなってきたが(笑)・・・とにもかくにもそうやって苦難の道を進んで「音楽家」の道を歩んだとして・・・コンサートを開いたり自分のCDを出したり出来るようなアーティストに登り詰めるのはほんの一握り。

さらに、20年も30年も変わらず人気や収入を持続できるようなアーティストで居続けられるのは、そのまたほんの一握り。

クラシックの場合も・・・一晩のコンサートに数百人数千人の聴衆を呼んでリサイタルを開けるようなレベルになるのは(それが自腹であろうと赤字であろうと親戚を総動員した持ち出しだろうと)ほんの一握り。

さらに、それを毎月あるいは毎週大きな収入を安定して得られるようなレベルで開ける「人気音楽家」になるのは、さらにさらに僅か一握り。それを、6070歳を過ぎてもキープできるような不滅の「巨匠」になるのは・・・宝くじで数億当たるのを狙った方が早いようなとてつもなく低い確率だ。

しかも、コンクールに優勝したり大ヒットを生んだりしてミュージシャンとして頂点を極めても、成功して大きな収入を得て「土日に休める」ようになった途端、歳とともに音楽の技能の方はとんとんと落ちてゆく。

演奏や作曲も(おそらく)スポーツと同じで、体力的なピークは20代、精神的なピークは30代半ばといったところだ。そこから先は確実に衰えてゆく。

音楽の場合は、積算される経験値が「深み」をもたらすため、体力精神力の限界即ち「引退」とはならない。しかし、40を過ぎてからの努力は、「上に昇る」のではなく「下に落ちない」ためのものに変質してゆく。

その一方で若手が次から次へと登場し、名声にあぐらをかきたくてもそんなヒマはなく、あっと言う間に「古い音楽」「昔の人」という烙印を押されるようになる。それが宿命の世界なのである。

これはもう「努力」とか「一所懸命」などと言って何とかなる話ではなく、毎日毎日、ごはんを食べ空気を吸うように「音楽」で生きてゆくことを「自然体」とするしかない。

成功するのも失敗するのも、お金が入るのも貧乏するのも、運命の神に出会うのもすれ違うのも、「音楽」を日々やっている中で起こる「自然」な出来事であって、それ以上でもそれ以下でもない。そう割り切れる(「強い」か「呑気」かどちらかの)人間でなければとても生きて行けないのである。

          *

14むかし、某セレブの奥様が「娘をヴァイオリニストにしたいの」としきりに言っていたことがある。(一般の人は、クラシックの演奏家というと…きれいな服を来て上品な音楽を優雅に演奏し、毎日ワインでも飲みながらセレブな生活しているように見えるのらしい)。

ただし、世界中を飛び回るようなバリバリの演奏家ではなく(それだと忙しすぎるし、ゆっくり会えなそうなので)、「例えばオーケストラとかテレビや劇場などで演奏をするようなそんな感じでいいのよ」とおっしゃる。

そこで、大きな劇場でミュージカルの伴奏をしていたオーケストラの綺麗なヴァイオリニストのお嬢さんをつかまえて、いろいろ(演奏家の現実について)話を聞いたらしいのだが・・・しばらくしてお会いしたら「わたくし、娘をヴァイオリニストにするの、やめましたわ」と言う。嗚呼、やっぱりね(笑)

かくいう私も、以前、私の作品が演奏されるオーケストラ・コンサートのロビーで、「先生のファンです」という奥さんに話しかけられ、「息子を先生のような作曲家にしようと思いますの」と言われたことがある。

で、作曲家になるにはどういう勉強が必要かというような話をしたあと、「今日のようなコンサートで作品が演奏されると、先生にはお幾らくらい入ってくるんですの?」と聞かれて、「実は」と耳打ちしたところ・・・件の奥さま、言いました。

「わたくし、息子を作曲家にするの、やめましたわ」

と、ここまで読んで「それでも音楽家(作曲家)になりたい!」と思った人の処にだけ、(30年以内に70%の確率で)運命の神がやって来ます。出会ったらすぐ前髪を引っ掴むこと!

          *

Takinakano フレッシュ・デュオ

滝千春&中野翔太「舞曲とロマンス

2013年3月23日(土)13時30分開演

東京オペラシティコンサートホール

滝千春(ヴァイオリン)

中野翔太(ピアノ)

千住真理子・長谷川陽子・仲道郁代

2013年4月3日(土)14時開演

横浜みなとみらいホール

千住真理子(ヴァイオリン)

長谷川陽子(チェロ)

中道郁代(ピアノ)

Yokoyama 横山幸雄 入魂のショパン

2013年5月3日 (金・祝)

東京オペラシティコンサートホール

横山幸雄 (ピアノ)

小川典子 英国流ティータイム&コンサート

2013年5月15日(水)13時30分開演

東京オペラシティコンサートホール

小川典子(ピアノ)

山田美也子(トーク・ゲスト)

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コメント

「音楽家」のヒエラルキー
最上級が「演奏家」。それになり損なったのが「作曲家」。それにもなり損なったのが「指揮者」。それにもなり損なったのが「評論家」になる。

評論家は音楽家かどうか、それはともかく評論家になりそこなったのがオーディオマニアかなsweat02

投稿: Shino | 2013/03/11 01:19

面白かったです。ありがとうございました。

投稿: 山田 | 2013/04/24 10:25

楽しい話でした。
面白いねー、音楽家。
今日もスマイル

投稿: kawazukiyoshi | 2013/04/28 11:40

>さしあたり最上級が「演奏家」。それになり損なったのが「作曲家」。それにもなり損なったのが「指揮者」。それにもなり損なったのが「評論家」になるということらしい(笑)<

えぇぇっ
評論家はともかくとして、作曲家or指揮者、演奏家の順のイメージ。
演奏家って所詮人の作った曲を弾くわけですよね。クリエイター的観点からすると面白みに欠ける。。。と思ってました。
ただいま初サウンドトラック発売に向け準備中。。。
やっぱり曲作ってるときが一番幸せ~♪

投稿: Noriko M Kambara | 2013/10/22 17:38

演奏者は最上級なのに作曲家に深夜呼び出されるの?
あと編曲家がどの辺りに居るのかも知りたいな。

投稿: m.hasimoto | 2014/08/13 04:46

ヒエラルキーの最上位が演奏家(笑)
それ日本だけだろ

投稿: あ | 2014/09/21 17:13

作曲家→指揮者→演奏家→評論家。

元々、それぞれの持ち分があり、それぞれの持ち分の中での能力差が重要要素である。

おおぐくりな順列には大きな疑問があるが、あえて順列をつけるとしたら、上記の順が常識である。

建築にたとえると、作曲家は設計者であり、指揮者は大工の棟梁だ。演奏家は大工にすぎない。

優れた演奏家といえども優れた大工に過ぎない。

一人の評論家といえども多くの作曲家に匹敵するほど深く知識を習得しそれをうまく言葉に表現している優れた者もいれば、言葉遊びでやたら批判したりと美辞麗句を並べ立てるつまらない者もいる。
音楽家にとって最も大切なことは、作曲家、指揮者、演奏家、評論家、どの分野であろうと、優れているか否かである。

私はそう思います。
反論のようなコメントで失礼いたしました。

投稿: 社会人 | 2014/12/07 12:06

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