釈迦とは俺のことかとシッダルタ言い
伊福部昭氏のご逝去に合わせたわけでもないのだろうが、今月新譜で氏が音楽を担当した大映の黄金期の超大作「釈迦」(1961年。監督:三隅研次)のDVDが出ていたので、懐かしく見入ってしまった。
この作品、釈迦(ゴータマ・シッダルタ)の生涯を描いた2時間半の大作で、日本初の70ミリ総天然色スペクタクル映画。日本人ばかりでインドを舞台にした歴史映画を作る…というのは、現代の視点ではちょっと「?」だが、日本神話を扱った東宝の「日本誕生」(1959年。監督:稲垣浩)に対抗してということだったのだろうか、今となっては(良い意味でも悪い意味でも)「信じられない」超大作である。
ハリウッド映画を意識した「クレオパトラ」風の神殿建築シーンとか、「サムソンとデリラ」風の偶像崩壊スペクタクルなどなど、色々ツッコミどころはあるにしても、「天上天下唯我独尊」と宣言する誕生の逸話から、菩提樹の下での悟り、鬼子母神やアジャセやダイバダッタの挿話、「貧者の一灯」のエピソード、そして最後の入滅のシーンまで見どころ満載。当時のオールキャストと延べ5万人以上とも言われるエキストラを使った豪華きわまりない作りにはとにかく圧倒されるし、幾つかの場面では(伊福部氏の荘重な音楽も相まって)目頭を熱くさせられる。
仏教にはキリスト教における「受難劇」のような濃縮された(舞台に出来るような)ドラマがない…というのが個人的な印象だったのだが、この巨作を見ていると、ユダのような悪役ダイバダッタ(勝新太郎)の葛藤や、ペテロの嘆きを思わせるアジャセ王(川口浩)の慟哭など、オペラにでも出来そうな題材が幾つもあるように思えてくる。
ひとつ興味深かったのは、釈迦(本郷功次郎)が、出家し悟った後は「光る影」だけになるという(時代を思わせる)映像処理。確かに、「世界を救う尊者の顔」なんて、どんな名優でも美男俳優でも演じるのは不可能。そう言えば、釈迦を描いた名作としては、手塚治虫の「ブッダ」(1972〜83)があるけれど、エピソードを積み上げることで見事に釈迦伝を描きながら、釈迦の「顔」を最後まで描いてしまった故に、後半「悟りし者」になってからは失速していったのを思い出した。なるほど、マホメット(ムハンマド)を戯画化したことにイスラム教徒が激怒するのは、このあたりに根があるわけだ。それでも、「表現は(失敗するのも)自由」だけどね。
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2月9日、毎日新聞に掲載された伊福部昭の訃報には誤りがある。当記事に関係のある限りで引用する。
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