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先日CDショップのオペラのDVDコーナーでワーグナーものを探していたら、なんと「ニーベルングの指環」が5種類も並んでいて、ちょっと驚いてしまった。
◆シェロー演出で物議を醸したバイロイトの「指輪」(1980年、ブーレーズ指揮。ダムや工場みたいな舞台で演じられる現代社会劇風の斬新な演出で有名)
◆レヴァイン&メトロポリタン歌劇場(1990年、シェンク演出。これが舞台も衣装も最もオーソドックス。でも何だかハリウッド映画みたいでアメリカン)
◆サバリッシュ&バイエルン国立歌劇場(1989年、レーンホフ演出。未見。NHKがハイビジョンで収録したもの)
◆シュトゥットガルト州立劇場(2002年、ネル、コンヴィチュニーほか計4人による演出。スーツ姿の神々とTシャツ姿のジークフリートによる衝撃の舞台!)
◆そして、単発(ワルキューレ)でバレンボイム&バイロイト祝祭歌劇場(1992年、クプファー演出。こちらはレザー・ジャケットの神々による近未来SFみたいな舞台!)
なんとも見事なラインナップ…なのはいいのだけれど、どうしてどれもこれも「斬新な演出」の変てこりんな舞台なのだろう(笑)。ちゃんとした衣装で正攻法でスタンダードな(まともな)舞台のものも、一種類でいいから欲しいのに…。
それにしても、年末は毎年一週間ほどFMでのバイロイトの「指環」漬けになって年を越し、旅行カバンみたいな重さのLP20数枚組ショルティ盤「指環」に狂喜した世代としては、わずかDVD6〜7枚で全4夜が聴けて(観れて)しまうのには隔世の感。でも、今の若い人は「指環」と言ったら、「ロード・オブ・ザ・リング」なのだろうな(笑)
3月下旬は作曲家にとって年4回(3月・6月・9月・12月)の著作権使用料分配の日。国内外で演奏・放送・録音・配信された作品の使用料3ヶ月分が、JASRAC(日本音楽著作権協会)からの「支払計算書」の明細通り所定の銀行に入金される。サラリーマンの「給料日」みたいなものである。
…などという話をしたら、「交響曲って、演奏されると幾らくらいの収入になるんですか?」と、若い人から無邪気に聞かれる。「曲の長さや国によって差はあるけれど、最低2千円から最高でも1万数千円くらい」と答える。「ウソでしょ?」という顔になるのが分かる。
実際、私が最初に演奏使用料というのをもらった「朱鷺によせる哀歌」のN響でのコンサートの時は2,600円。旧ソヴィエトで演奏された時なんか7円だった!。一番気前のいい国の大ホールで45分のフルサイズの交響曲が演奏されても、2万円になるかならないかである。
若者は「そ、それじゃ全然儲からないじゃないですか!」と叫ぶ。そうだよ。儲かるとでも思ったのかい? しかも、こんな金額だって演奏する側からすれば「有料」(モーツァルトやベートーヴェンは「ただ」なのにね)だから、死んで50年以上たって著作権が切れたのを確認してからじゃないと、誰も演奏しようとすらしないのがクラシック音楽界なんだ。
「それって何か、社会的にも経済的にもありえない話ですよね」。その通りなんだよ、若者。偉そうに言っているけど、交響曲とは「作品」なんかじゃない。作曲家が持てる英知のすべてを傾け、人生すべてを捨てて作り上げる「燃えないゴミ」なんだ。「え。燃えるんじゃないっスか?」。ああ、確かにスコアは紙だから燃えるけれど、CDになれば不燃ゴミだろ……って、そんな話をしてるんじゃないんだよ、若者。
「それなのに、ヨシマツさんはどうして書いてるんですか?」。ああ、いい質問だね。それはね。バカだからだよ(笑)。
ベルリオーズ&R=シュトラウスの「管弦楽法」(音楽之友社。¥12,000)を読む。近代管弦楽法の始祖であるベルリオーズが1844年に著した「現代楽器法および管弦楽法大概論」に、1905年R=シュトラウスが注釈(ツッコミ)と譜例(ワグナーばっかり!)を加えた歴史的名著の新邦訳復刊(監修:小鍛冶邦隆、訳:広瀬大介)である。
なにしろベルリオーズとシュトラウスという音楽史上屈指の〈オーケストレイションおたく〉による共著(?)だけに、両者の(偏向した?)趣味がありあり出ていて、専門書と言うより読み物としてもなかなか面白い。19世紀のベルリオーズが「こうですぞ」と著した原文に20世紀のシュトラウスが「最近はこんなふうですぞ」と注釈を加えているのがいかにも楽しいし、「音楽の書き方を知らないこういう阿呆がいる」みたいな辛辣な言辞にもニヤリとさせられる。
声楽および指揮法にも言及しているのも、さすがオペラ作曲家&指揮者としても当代随一だったベルリオーズの面目躍如だし、最後に出て来る、ヴァイオリン120人、チェロ45人、総計465人…などという超巨大編成オーケストラ構想も、ベルリオーズらしくぶっ飛んでいてわくわくさせられる。
…と、専門家にとってはまさに興味津々と言うべき「近代管弦楽法」の名著ながら、何しろ19世紀半ば&20世紀初頭の時点での「楽器情報」だから、21世紀の今となってはいささか情報が古い点は否めない。なにしろドビュッシーもラヴェルもストラヴィンスキーもジャズも電気楽器も影も形もなかった時代の「管弦楽法」なのだ。
そんなわけで、現代でこれ一冊をもって作曲や編曲を学ぼうとするのはちょっと危険だけれど、ワーグナーやマーラーあたりの後期ロマン派までのオーケストレイションや楽器法を研究したい向きには、きわめて有効な指南書としてお勧め。作曲家なら必携の伊福部昭「管弦楽法」と並べて置けば、最強の布陣となること請け合いだ。
ただひとつ難を言えば、文章中の譜例(音域や奏法などのデータ)が小さくて見にくく、スコアの譜例がやたら大きいこと。これは逆だと思うのだが、レイアウト的になんとかならなかったのだろうか。
それから、21世紀に復刻するならもう一歩進めて、現代の作曲家がさらに「現代はこうですぞ」と注釈の注釈をすれば良かったのに!(でも、ベルリオーズとシュトラウスにオーケストレイションについてツッ込める作曲家なんているのか?と言われれば、おっしゃる通りなのだが…)
それにしても、ベルリオーズが巻頭言で「最近の作曲家は不協和音を使いたがる」とか「メロディが消えてしまった」とか「芸術は堕落してしまった」などと苦言を呈しているのには思わず苦笑。まだ19世紀も半ばで、現代音楽どころかワーグナーすらデビューするかしないかの頃なのに!
…私がシュトラウスなら、ここに「その通り!。でも、あなたの〈幻想交響曲〉は何なんですか?」と注釈(ツッコミ)を入れるな、きっと!(笑)。
先日ふらりと寄った近所の本屋で「楽器のしくみ」(緒方英子:日本実業出版社。¥2,000)という本を見つける。
オーケストラの楽器から古楽器までをヴィジュアルに紹介する初心者向けの楽器入門書・・・なのだが、単に楽器の外見や機能だけにとどまらず、弦楽器の細部の構造から弦や弓や松やにの種類、管楽器のリードやマウスピース、金管楽器のバルヴやミュート、打楽器のスティック…などに至るかなり専門的な(マニアックな?)部分までスポットを当てたなかなか画期的な一冊。
確かに、くどくど専門用語で解説するより、写真があればまさに一目瞭然。これは便利。作曲家のくせに「へえー、こんな風になってるのか。知らなかった」と改めて感心してしまった所も幾つか(笑)。
それにしても、全編フル・カラーによるこんな便利な楽器図解書が(音楽専門店でもない普通の)本屋で簡単に手に入る時代になったのだなあ。早速ピアノの横に置いて座右の書の仲間入り。
埼玉の田園ホール・エローラで、邦楽アンサンブルのための「星夢の舞」op.89(2002)の録音セッション。横笛、尺八、笙、篳篥、三味線、琵琶、十三絃箏、二十絃箏、十七絃箏、打楽器という19人編成で全10章25分ほどの作品を、昼12時より夜20時まで8時間かけて無事収録。演奏:日本音楽集団、指揮:板倉康明氏、録音:カメラータ・トウキョウ。
もう一曲、雅楽「鳥夢舞(とりゆめのまい)」op.69(1997)との組み合わせで、今年秋ごろを目標にCD制作を進行中。こちらは国立劇場の委嘱で書いた21人編成で全5章45分の純然たる「雅楽」で、そう簡単に再演がきかないことから、初演時のライヴ音源を使わせていただくことになっている。
この2曲、言って見れば日本の楽器による管弦楽(Orchestra)のための交響曲(Symphony)。邦楽器だから「邦響曲」とでも呼ぶべきか(笑)。現代では和楽器の奏者と言えども普通に五線譜が読めるのでこういうアンサンブルが可能になったわけなのだが、実はそれを悪用(?)して、雅楽でアレグロを書き、邦楽器でブギウギをやってしまった(笑)。これは日本音楽1600年の歴史で初めての快挙&暴挙!(もっとも、そんなこと誰もやろうと思わなかっただけなんだろうが)。
録音を終えて、外に出ると…雨。それにしても、西洋と東洋の両方のオーケストラに曲を書けるなんて、ちょっと不思議な(楽しい)人生である。音楽の神様(いるのかいないのか分からないけれど…)に感謝。
先日、女性週刊誌(明日発売の「女性セブン」)より、最近のクラシック・ブームについてコメントを求められた。
クラシック音楽は(妙なものがきっかけとなって)時々思い出したように泡沫のような「ブーム」になる。ちなみに、今回のブームのキイワードは「まんが(のだめカンタービレ)」と「安売り盤(クラシック100)」と「フィギュア・スケート(荒川静香の金メダル)」。それから、美女&イケメン演奏家たちと「頭の良くなるモーツァルト」あたり。
まあ、きっかけはどうあれ、多くの人が素敵な音楽に出会えるなら、それはそれで結構なことだが、なんだかどんどん安っぽく小さくなるような気がしてコメントにも力が入らない。そのうちコンビニやドラッグストアや100円ショップにも〈クラシック・コーナー〉が出来るようになるのかも(笑)。(え、もうあるって?)
昨日(12日)西宮の兵庫芸術文化センターで「大澤壽人とその時代」というコンサートが開かれた(佐渡裕:指揮、迫昭嘉:ピアノ、兵庫芸術文化センター管弦楽団)。チケット完売&満席の盛況で「とても面白かったです」と報告してくれたのは、この6月に大阪で私の作品ばかりのリサイタルを企画しているピアニストの河村泰子さん。彼女は、大澤壽人が戦後しばらく教鞭を取っていた神戸女学院の出身なのだそうだが、自分の出身校でありながら(しかも音楽学部で、そこには作曲専攻まであるのに)大学からは何のインフォメイションもなく「昨年まで、この人の存在を知りませんでした」というあたりに、日本の音楽界の冷たさが身に沁みる(笑)。
神戸生まれで、来年2007年で生誕100年を迎える大澤壽人(おおざわ・ひさと:1907-1953)は、ショスタコーヴィチあるいはジョリヴェ、メシアンあたりと同世代。アメリカ(ボストン)からパリへと留学し、当時の最先鋭の音楽を身につけ、1936年29歳で帰国している。一昨年NAXOSで紹介されて話題になったピアノ協奏曲第3番「神風」は、まさにその時代のモダンで洒落たセンスとスピード感を持った(まさしく日本人離れをした)名作で、これが1938年31歳の作とは驚くしかない。
その後、いかに戦争という不毛の時代があったとは言え、この才能が以後パッタリ封印されてしまったうえ、戦後も無視され続け(関西ではクラシック啓蒙運動の旗手として活躍したそうだが)、その作品どころか存在すら死後50年もきれいさっぱり忘れ去られていたとは!。「もったいない」どころじゃない。日本の音楽界にとってはまさしく「悲劇」というべきだろう。
それにしても、死後100年も古臭い音楽として埋もれていたバッハにしろ、40年も引出しの中に楽譜を忘れ去られていたシューベルトにしろ、書きかけの第9のフィナーレを親戚たちがバラバラにして持って帰ってしまったブルックナーにしろ、クラシック音楽界というのは凍りつくような恐怖の逸話に満ちている。ほら、そこのキミ、ヨシマツなんか聴いてる場合じゃないったら(笑)
仕事場に溜まった書類の山の整理(と身辺整理?)を考えていたところ、ScanSnap(富士通:S500)という機械に出会う。
早い話が、ビジネス文書(および名刺)の読み込み専用スキャナーで、A4大までの紙資料なら、音楽会のチラシでもワープロ原稿でも雑誌のページでも、1分間に18枚というスピードで魔法のようにするすると読み取って、そのままPDFのデータにしてくれる。
ファイルにまとめて整理する…というのは、紙媒体の場合と同じだが、データをすべてコンピュータ内に取り込むことで、整理や検索が簡単に出来るし、なにより溜まりに溜まった(むかしの資料や原稿や書類やデッサンやスケッチなどの)不要な紙の束をすべて処分出来る。これは便利・・・
・・・と思ったのだが、紙がすべてA4ペラだけのわけもなく、プログラムや雑誌の記事のように冊子状になったものや不定形の切り抜きなどは、やはり1枚1枚スキャンするしかないわけで、お手軽に全山整理は夢のまた夢。ああ、魔法の小人が欲しい。
でも、ゆくゆくは
音の記憶とデータだけ残して
現世にはきれいさっぱりモノを残さない
さういふものにわたしはなりたい。
先日、この5月の連休に東京国際フォーラムで(モーツァルトをテーマ作曲家にして)開かれる音楽祭「ラ・フォル・ジュルネ (熱狂の日)」がらみで取材を受けた。
聞くところによると、昨年の(ベートーヴェンをテーマ作曲家にした)公演では、3日間で209公演を行い、チケット10万枚を売り、延べ30万人の来場者があったと言う。「ついにクラシックもメジャーになったか!」と叫びたくなるような、一見バブルっぽい景気のいい話である。
ところが、「実は、それでも全体の収支は赤字なんです」と聞いて、一瞬にして現実に引き戻された。演奏家が豪華な割にチケットが安く設定されていて(1500円ほど)、多くの人が気軽にクラシックを聴けるのはいいけれど・・・
そうなのか。誰かが負担しないと、30万人を集めてもクラシックってやっていけないのか。テーマ作曲家なんて持ち上げておいてベ先生にもモ先生にも一円も払っていないというのに…。これじゃあ、生きてる作曲家にお金を払おうなんて誰も思い付かないのは当然だな。
さあ、最高の音楽を作っておくれ。
でも、お金にはならないから、一円だってあげないよ。
そして、いい曲が書けたら、とっとと死んでおくれ。
早く著作権が切れるようにね!
NAXOSの日本作曲家選輯シリーズの新譜、大木正夫:交響曲第5番「ヒロシマ」を聴く。
大木正夫(1901〜1971)は原爆を題材にしたカンタータ「人間をかえせ」が有名だが、このような交響曲が存在するとは不覚にも知らなかった。ゴジラ誕生の前年昭和28年(1953年)に書かれ、序奏・幽霊・火・水・虹・少年少女・原始砂漠・悲歌…という8つの部分から成る40分弱の大作である。
テーマがテーマなので全編不協和音の渦巻く重苦しい音楽なのは致し方ないが、一本ぴんと張りつめた意志で貫かれていると不協和音の錯綜と怪異な音響の連続でもこうも違うのか…と思えるほど説得力がある。世の中には、不協和音でしか語れない、怪異な音響でしか描けない…そういった必然性のあるテーマもあるのだ、と改めて思い知らされる。
決して聴いて楽しい音楽ではないし、最後に至っても救済は無いつらい音楽ではあるのだが、「ヒロシマ」という具体的なテーマを聞かなくても、この音楽の奥にある(人間への絶望と、後悔と苦悩の果てに辿り着いた)「人間への深い思い」は充分に伝わってくる。(そのあたりは、どこかショスタコーヴィチの11番や13番の交響曲と共振している様な気がする)。聴いていて、ちょっと鳥肌が立った。
それにしても、同国の作曲家がものにしたこれほどの絶品を、今までコンサートでもCDでも聴くことが出来なかった日本のクラシック音楽界というのは一体なんだったのだろう? モーツァルト生誕250年なんかで浮かれていていいのか?
朝日新聞連載「ツウのひと声」掲載。今回は、オリンピック金メダルの影響で大ヒット中の「トゥーランドット」考。
あのオペラ、プッチーニの作品の中で一番好きなのだけれど、最後の場面でトゥーランドット姫がみんなの前に進み出て「名前が分かった。この者の名は・・・・」と歌う所でいつもドキドキする。たぶん聴いている誰しもが一瞬そう思うのだろうが、姫の次のセリフは「首を切っておしまい!」…なんじゃないかと想像してしまうわけだ。それが、予想を裏切って「この者の名は・・・・〈愛〉です!」と叫んでカラフ王子と抱擁し、大団円のハッピーエンドになる。まさにオペラらしい感動的かつドラマチックな幕切れなのだけれど、その一方、あまりにも男に都合のいい夢物語すぎて現実には絶対ありえない…という違和感があるのも確か。(いや、そもそも求婚者に謎を出して、答えられなかったら片っ端から首を切る…というシチュエーション自体がとんでもない…のだが)
それにしてもボエーム・トスカ・蝶々夫人…と悲劇的な結末のオペラばかり書き続けてきたプッチーニが、なんで人生の最後の最後にこんな夢みたいなハッピーエンドのオペラを思い付いたのだろう? 最後のあのシーンで姫が「首を切っておしまい!」と叫び、カラフが首をちょんぎられて、「おーほほほほほ」と姫が高笑いして終わる幕切れだって充分ありえるし、そっちの方が恐妻家のプッチーニとしてはリアリティある結末だったんじゃなかろうか。え?それは通らんドット?(笑)。