ショスタコーヴィチ 交響曲第10番
夜、ショスタコーヴィチの交響曲第10番(フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団)を聴きに、雨の中サントリーホールへ出向く。
さすが本場のオーケストラと言うべきか、自国の大作曲家の作品を分かりやすく壮麗な演奏で聴かせる。色鮮やかなドレスを着ている女性プレイヤーや、ハンサムな管楽器奏者、元気印の打楽器セクションなどもたっぷり活躍し、舞台も華やかだ。
ただし、私のような旧ソヴィエト時代から彼を聴いているひねくれた聴き手にとっては、こんなに流麗で健康的で怪しげなところがなく明るく豊かなサウンドのショスタコーヴィチは、逆にどこか違和感がある。
ショスタコーヴィチは、もっとデッドでモノクロで、鳴らない音を無理やりゴリゴリ鳴らそうとしているストリングスと、ヴィブラートを知らないような木管楽器と、倍音が出ないような金管楽器と、まだ硝煙と鉄サビがこびりついているような打楽器で演奏しなきゃあ・・・って、そこまで言うと、ひねくれすぎか(笑)
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大爆笑です!!!夜中一人で大笑いしました。
鳴らない音を無理やりの弦・・、ヴィブラートを知らない木管・・、倍音が出ない金管・・、硝煙と鉄サビがこびりついている打楽器・・・本当にそのとおりですよね。この人たちは絶対ビブラート習っていないと本気で思ってました。でもそこに憧れてた。一音聴いただけで「ソ連」て分かった。旋律なんていらなかった。一発吹いてくれれば、一発叩いてさえくれれば言いたいことが分かった。それはドイツもフランスもイタリアもフィンランドもアメリカもみんなそうだった。みんな自分たちの「都合」を譲らず、ひしめいていた。それが良かった。
でも今じゃ、オーケストラはユニバーサルの時代。それを録音するレコード会社もユニバーサル。それを売る販売店もユニバーサル(チェーン店)。それを再生するのプレーヤーもユニバーサル。
で、出てくる音楽は最後まで聞いても何を言いたいのか分からない。と思いきや、初めから言いたいことなんて無いんですよ~ のオチ付き。
全然ひねくれていませんよ。昔は良かったって、面白かったって、単純にそう思います。
投稿: rakubou | 2006年5月25日 (木) 22:12