武満徹の宇宙
午後、武満徹の宇宙「オーケストラ・コンサート」(東京オペラシティ)を聴きに行く。お目当ては、極彩色アブストラクトのオーケストレイションが全開だった頃のタケミツ・サウンドによる傑作〈カシオペア〉と〈アステリズム〉。
耽美的な微温のハーモニーにまみれてしまった(ドビュッシーとベルクを足しただけのような)80年代以降の武満トーンより、この60〜70年代の天空に星くずをぶちまけたような色彩美あふれるオーケストレイションの凄さこそが、武満さんの最大の魅力。というわけで、ツトム・ヤマシタや高橋悠治と言った天才的個性とがっぷりぶつかっていた頃の自在でダイナミックな書式をひさしぶりに堪能し、心地よい音響のカオスを味わった。
収穫は、カシオペアの晦渋なソロを好演したパーカッションの加藤訓子。初演者である天才ツトム・ヤマシタと比べるのは酷にしても、紛れもなくブラヴォーの出来。一方「友だちだったから何かやってあげなきゃ…というだけ」とクールに突き放した物言いながら友情出演した高橋悠治のアステリズムにおける壮絶なピアノパートも、前衛の時代の残滓を彷彿とさせて胸に万感迫るものがあった。
それにしても(かのショスタコーヴィチもそうなのだが)死んだ作曲家は勝手な誤解をされ、次の世代に都合のいい解釈をされ、指揮者や出版社やマネージメントのビジネスの一環(パンフレットの中の高橋悠治氏の指摘より)に組み込まれることで生き残って行くのだなあ、と満員の聴衆の熱っぽい拍手を聞きながらも、改めて背筋の冷たさを味わったのも事実。
おかげで、帰りの道筋、物凄〜くくだらない格言が頭の中をよぎってしまった。いわく・・・
虎は死して皮を残し
竹は死して蜜を残す
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生前から勝手な誤解あるいは都合の良い解釈をされている、という点では、ショスタコーヴィチも高橋悠治氏も(そして恐らく吉松隆氏も)同様なのでは無いでしょうか。そういった微妙に「美しき誤解」をはっきり訂正しないのは、商売と言われても仕方ない。
投稿: 閘門大師 | 2006年5月29日 (月) 09:42
とは言え、美しく誤解されるのも表現者の宿命かも。
キリストもダ・ヴィンチもモーツァルトも、
誤解が積み重なって晴れて人類の文化になったのですから。
投稿: 虎蜜 | 2006年5月29日 (月) 11:56