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2006年5月31日 (水)

まだ・芸術文化振興の憂鬱

Gagakuw このBlogで芸術文化阻害の件について書いたところ、多大の反響をいただきました。芸術振興の現状に憤慨して下さる方、国やお役所の対応もそれはそれで当然なんじゃないかと言う方、いろいろな意見があるようです。

 ただひとつ誤解のないように補足しておきますが、国やNHKや国立劇場も(そして我々一般国民も)、かつての古き良き時代には、大らかに芸術文化を(計画性や理念はなかったにしろ)育成し振興していた時期もあったのです。

 それが、変わったのは、ひとつには小泉さんの例の行政改革がきっかけのようです。ご存知のように「国だから、儲けを度外視しても文化芸術を育成する」…という姿勢から、「国とは言え、儲けにならない文化芸術を優遇はしない」…という方針への変更が起こったと言うことなのでしょうね。

 例えて言うなら、今までは親が子供を無償で育てることに誰も疑問を持たなかったのに、親の羽振りが悪くなってお金に困るようになり、子供に向かって「ただで育ててやるのはもう終わりだ。おまえも働いて稼げ。親だからと言って契約にないことは一切やらない」と言い出した。…と、そんな感じでしょうか。

 このあまりの「正論」に呆れるか悲しむか順応するか訣別するかは人それぞれでしょう。私のような音楽上の孤児は、そもそも育ててくれた親がいないので、ぜんぜん変化はありませんが、親の庇護の元で育ってきた文化たちの中には、存続を断念するジャンルが出て来ることは想像に難くありません。

 もちろん「なんとか稼がねば」と頑張る人もいるでしょうが、世の中、頑張れば日銭をかせげる…という仕事ばかりではありません。一般のサラリーマン諸氏だって給料を貰えるのは働いてから1ヶ月先。種を植え、それを育て、90%99%の無駄を重ねながら、10年後50年後に大きな果実を収穫する…というようなタイプの仕事(芸術芸能あるいは伝統技術や基礎科学のようなジャンル)もあるわけですからね。
 
 そう言った分野の人たちの中から、この国を捨てて外国へ逃げる…という選択肢を取る人が出ることは、当然の帰結でしょう。しかし、日本固有の伝統芸能や技術にかかわる分野ではそれすら出来ず、今まで先人たちの努力で営々と培われてきた歴史は断ち切られ、後継世代は消滅します。これはもう取り返しがつきません。


 結局のところ、今回のケース、根は、年金問題とか少子化問題とかライヴドア問題とかと同じところにあるようです。日本という国が、近視眼的な「利益」と身もふたもない「正論」に思考を占領され、文化や子供や弱者の首を絞め出した…ということなのでしょうね。
 それが、自分たちの〈未来〉の首を絞めることに等しい…と、みんな薄々は気付いているのでしょうが、対処療法しか出来ないのが現実のようです。でも、首を絞められながら一方で栄養剤を射たれてもね…(笑)。

 というわけで、音楽に関わって生きている私のような一弱小国民として出来ることは、改めてこう心に念ずることだけに違いありません。

 国がどう言おうが知ったこっちゃない。
 私は、私一人でも音楽を守る。

 おっと、たかがチンピラ作曲家の塵芥に等しいCD1枚の話が、国家の品格を論ずる話になってしまいました。読んで大笑いされている方々の声が聞こえてくるようです。いかんいかん(笑)

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音楽考」カテゴリの記事

コメント

二回目の書き込み失礼します。今回の一件、しばらく傍観しておりましたが、CD発売延期になったこと自体は、残念に思います。しかしまずは、吉松先生の、「ここで簡単に応じてしまうと、自ら後世の人々に対して悪しき前例になる」という思いに敬意を表しまして、また違う形で作品に出会う日を待ちたいと思います。

正直に言いまして、吉松先生の子供世代の私などから見ますと、一人でも多く今の団塊世代の方々、そしてそれをとりまく世代の方々の中に、文化芸術の現状、子供の命(作品の命)が危険にさらされている悲惨な現状に対して、このように物申してくれる人がいないと困ります。こういった話が、一作品の話から政治的な話にまで広がるのは、確かに論理の飛躍だという意見があるのは承知の上、もはや日本の文化芸術・社会全体に当てはまる病理なのだという考えは、無視できないものだと僕は思います。

どなたか道徳や武士道の欠如を挙げておられましたが、実は、こういったことを密かに文化の中に取り戻したいと思っている若者がいないわけではないことは、念頭に置いておいてほしいと思うし(もちろん圧倒的に少ないことは日々感じますけれども)、また音楽愛好家の中に文化の現状を憂える人間が増えるならば、それは大変喜ばしいことです。

「武士の究めるべき道」という意味での「武士道」という言葉ができたのは明治に入ってからですが、それは、社会や文化の中に武士道的なものが欠如してきたからこそ、その反動として生じた憧れのようなものだったように思います。

それは、調性音楽の廃れた時代に密かに調性音楽を求める音楽的態度ともつながるかもしれませんし、社会に対してプログレッシヴ・シンフォニック・ロックが見せてきた文化的で人間的で崇高な態度ともつながるかもしれません。要は、少なくとも江戸、あるいは戦国時代までは、誰も「武士道、武士道」と叫ぶほど、「武士道」が欠落してはいなかったということなのでしょう。それと同じこと、あるいはそれ以上に危機的な状況が、今の文化の現状にはあって、しかしそれを「意識的に」気づいている人間が、あまりに(我々若者を含めて)少なすぎるので、それが恐ろしくて仕方が無い次第です。

ともかく、またご作品が日の目を見られるように願っております。

日本の芸術振興の現状について、教えて頂いてありがとうございました。
あまりにも厳しい現実に言葉も出ませんが、いろいろと考えさせられました。

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